まつだいの瀬替田

                  まつだいの渋海川、越道川には、川瀬違え(瀬替田)により新田の開発をした所が室野から犬伏迄18箇所あります。
                記録によると江戸時代の後期以後開発されています。
  
                      それに中世後期頃と思われる大規模の地滑りを仮説として取り上げて見たい。
                                                         
               まつだいの瀬替え田位置
                                             (国土地理院 1/25000 地形図を改変)
                       上図は松代町の瀬替田の位置を表示しています、この内、資料のあるもの9、11,12,13、14、15、を下記に表示します。


                       前島、五郎兵衛新田

                       9 前島新田は、  たび重なる大洪水で大きく蛇行する川、渦巻く濁流は岩を削り、河床をえぐり、暴れて橋を流し
                      田畑は決壊し、危険は計り知れないものがあった。開発は昭和12年7月着工、大きく蛇行する流路の頸部で断ち切って
                      直線状に掘割、流速を緩和するため4箇所に堰堤を築いた。 機械力のない当時の土木工事はすべて人海戦術で
                      行われたがついに、14年7月竣工した。 当時1日60銭の日当は婦女子には又とない高収入で大勢かごを背負い、
                      争って「土砂、砂利背負い」に出たと言う。
                        この工事の結果、長命寺付近は地盤は安定し沿岸の田畑の決壊の恐れもなくなり食糧増産の使命も果たし
                      戦後においては前島一体の水田は指導農場的役割をはたし県立松代高校の実修農場として大きな貢献をした。
                      現在はほくほく線トンネルの残土で埋め立てられ、駅及び周辺開発の基地として発展している。
   
                       10 の大新田は資料が無いが江戸後期の開発と思われる。松代、大平地域は山間の地にあるが
                      比較的平地の広がりがあり。河川は大きく蛇行し河川浸食の跡をいたるところに刻みつけ、数回に渡り蛇行流路を
                      変えている様子が確認できます。  自然の猛威で川の流れが変わる度に川欠普請といって村中総出で復旧工事をし、
                      草の根、木の根まで食べ頑張っていました。 農民はまさに自然災害との戦いでした。江戸時代の中頃には、とうとう
                      年貢の上納に追われる農民は田畑を質に出し3年季、5年季の質地証文を書き金を借りるが、ほとんど返済出来ず
                      土地は人手に渡さ去るを得ませんでした。特に天明、天保時代が、水害、冷害で食べる物が無く多くの餓死者が出ました。
                        検地帳には、耕地について、その字名、上、中、下、下々の位付け、縦横の長さ、面積、そして耕作者名の
                      順に記載され,検地帳に記載されている百姓を帳付百姓といい、年貢上納の義務を負わせるために検地が実施され
                      ていました。大雨、土石流で作付けが出来ない崩壊、流失が、何回も繰り返され農民は其のつど書付ををもって
                      見分を願い出て、川除普請許可を取り付け、下賜金をもって工事をさせてほしいと 願い出ています。
                      食う物がなく、許可前に自普請、仕越普請、で始めざるを得なかった事が度々ありました。     
                                 (下賜金=公儀の金、自普請=地元負担、仕越普請=許可前に工事を始め事後処理) 
                        食うに困る農民はしっかりした設計、目論見で工事をして貰えないから大水の度に同じ苦労を繰り返していました。

                       鷲ノ嶋新田(松山新田)

                        11 鷲の島新田(別名松山新田)
                       江戸後期寛政年間以後、小荒戸村の富沢氏は下瀬、鳥島、宮ノ下付近の開発を行いました。
                       松山新田の開発でも弘化3(1846)年、開作田を持つ小荒戸村24名、大平村4名で共同開発の、頭として勢力的に
                       行動していた。 開発面積が多くなり、用水が不足し、 下瀬、鳥島、向嶋に上流の五郎兵衛新田から、分け水契約で
                       取り口、2尺で引いていたのを、6尺5寸に広げる工事と、大水が出るたび取り口が壊されたり、用水路が決壊するので
                       宮ノ下付近にトンネルによる水路普請を行っています。  

                        12 田沢新田、ここの瀬替田については現在の様子を写真で紹介し当時の工事の仕方について説明します。

                       田沢瀬替田トンネル付近の様子

                         赤い線は開発時の地続き、トンネルで川の流れを変更、長い年月の自然風化と崩壊崩落で昔の面影はない。
                        青い線は昭和50年代に国道改良工事で掘割、旧川沿いに通った道を真直ぐに施工した。

                       田沢瀬替え新田菅刈から見た様子

                          昭和22,3年頃、トンネルだった最後の峰が崩れ落ち一時流れを堰止め開発田に流入した事があった。

                        ここの瀬違え工事は、まずトンネルを掘ろうとする下流の流路を作り、下流側からトンネルを上流との高低差を
                      見ながら掘る。夏場の手隙の時期と冬季間の作業で、ズリだしはモッコを担ぎすべて人海戦術で時間をかけて行われた。
                      ある程度掘り進み上流部に近くなった所で、今度は上流側からトンネルの頭の部分に小さい穴を開ける。
                      後は水の力を借りて土砂と水の洗い流しで進める。
                        川の流れを替えたあと、川敷きを田圃にする作業は川瀬違え作業より手間がかかる。
                      田圃は平らでなければならないから、まず大石や流木を取除き、少しずつ高い所を低い所に土砂を運ぶ事を繰り返し
                      行うが川原という所は石と砂が多いこれでは田圃にならない、作り土が無いから近くの泥岩をくずし運ぶ、
                      刈草、落ち葉等をいれ、作り土に変えていった。
                      この川敷きが田圃として機能するまでに十数年かかっている。

                       犬伏古川瀬替田 

                       14 犬伏古川、江戸後期の開発、嘉永2(1849)年、小屋丸村平右衛門、犬伏村と議定書を取りかわし、渋海川の流れの
                     瀬替え工事を起こし新田開発をした。  ここも田沢地内のトンネルによる瀬違えと同じ施工で行われているが、開発が
                     終わり、犬伏地受人に、25両と永50文の礼金を受け取り、売り渡している。
                     古川敷きだから淵だった所はかなり深く、昭和40年代迄耕作者は苦労して作付けをしていた。6名の耕作者で区分けし
                     淵の悪い場所、良い場所、色々の条件を不公平の無い様、飛び飛びに配地、配分していました。

                       小屋丸地区は越道川上流16、17、18でも、開発が行われているが資料がなく紹介できない。いずれにしても
                     山間の地で耕作地を拡大する事は、機械力のない当時、すべて人力で行われたのだから先人達の
                     苦労は大変なものであった。

                       犬伏伊良久保地滑り

              
           この図は大昔のことで資料がありません。そこで仮説を立てて見ました。 
                       犬伏集落と宮ノ原は中世の終わり頃は地続きでした、青矢印の所は蛇行した川の流れが左右から岸壁を削りあい
                     犬伏、宮ノ原より低くなっていました。
                       おりしも長雨の続いたある時、伊良久保の斜面が大規模の地滑りを起こした。
                     たちまち川は堰きとめられ大満水。 前記した青矢印の所は低いから、ここは滝となった。
                     水の力は岩肌を削り徐々に滝は無くなり現在の流路に変化していった。

                       阿弥陀屋敷という地名が今も残っているが、(1569−1581年)現在の川西水口沢、栄行寺はここにありました。
                     上杉謙信の家臣で渡辺源重郎は故あって永禄12年主君謙信の許しを得て出家し法号を法教といい、犬伏に栄行寺を
                     創建し開山となりました。檀家には片桐山、滝沢、犬伏、名ヶ山、川西町白倉、刈羽の石黒、各集落に及んでいます。

                      川西町曹洞宗、龍雲山長福寺も、犬伏の地に関係がありました。
                     慶長七(1602)年二月二十一日、長福寺六世沙門伝室は松苧大権現に祈願文をささげた記録が残っています。
                     慶長三(1598)年正月十日、豊臣秀吉は上杉景勝に会津へ国替えを命じ、景勝の後に越後春日山城に入ったのは
                     堀久太郎秀治です、堀氏は入国早々慶長三年、画期的な検地を断行した。
                       この後、慶長五年、越後遺民一揆が起きている。 堀氏の過役に耐えかね村を捨て欠落した農民が沢山いました。
                     この欠落した農民が早く村にもどれる様に、祈願文を松苧大権現に捧げたのです。

                       十日町市山谷、曹洞宗、宝泉寺も孟地の観音堂、苧島の阿弥陀堂の本寺でした。

                       他に坊屋敷という地名もあり此処は松苧権現の別当林蔵寺跡といわれています。 
                     又、屋敷という地名は堀氏が改易となり、山城廃止令がでる迄、犬伏城と現集落に館があり農民は、この館の外に
                     住んでいましたから、その跡です。
 

                       阿弥陀屋敷の所は地盤が良く難をのがれ、栄行寺はのちに移転したと思われる。 
                     川瀬違え新田開発は大きく蛇行した地形をうまく利用し大規模に新田を開拓できたから領主は進んで奨励していたが
                     この地は自然が作り出した川瀬違えであった?。

                       犬伏集落、栗山、坊屋敷、宮ノ原、向林、は古代の河岸段丘であり、河川性堆積物を多く残している。現在の地形及び
                     河川の浸食度、等を考え併せると、こんな仮説が成り立つ。

                       下山瀬替田付近の図

                    15ここの地番は小屋丸村、小字、ナメ沢、窪田、外山、権地という。耕作者は犬伏5名下山1名で昭和初期に共同購入した。
                   開発者ははっきりしていないが小屋丸村平右衛門か?。面積は約1丁2反歩で、6名が、おおよそ2反づつ分割した。
                   犬伏から栗山へ登り権地を通る峰伝いに山道がある。(犬伏から下山への間道)初期の頃は稲の収穫、刈り取りは
                   背中に背負い、
1, 2, 3回と、中出しといって中継下ろし場を設け、ねずみ送りだった。1〜2は急な坂で45度近くあった。
                   この坂を2束半、(犬伏では1束は14ハ、7ハ1縛りを半束、つまり2束半とは5縛りの事)生の稲を背中に背負う。
                    人間が四足で急坂を運ぶのである。刈取った稲が無くなるまで何回も上り降りする。  昔の人は強かった。
                   2反歩の稲、おおよそ百二十束。1日稲刈りをしても運ぶに時間がかかり、20束位しか出来なかった。
                   稲刈は、約6〜10日はかかり大変手のかかる場所だった。40年代中頃になり索道で運び上げ、鉄索で上から下へ流す。
                   大変便利な設備ができた。
                     この鉄索は針金の6番線を約300m張り。 クルマ、といって滑車の小さい物を50個位準備して置く。
                   アゲ稲(乾燥した)を14ハ束ね1束とし、これをクルマに吊り下げ流す。ちなみに、クルマ運びは子供の仕事だった。
                   10個、15個をカゴに入れ背中に背負うのである、子供にはかなり重い物だった。
                   索道とは、下と上に、大きなプーリー(滑車)を、取り付け8ミリ位のワイヤをリング状に張る。
                   長さは上下、150mはあった。これをガソリンエンジンで駆動し、ワイヤの下の線に1束ずつ架け、上に吊り運ぶ。
                   下に一人架け方、上に一人取り方が付くこの索道は上下の高低差は70mはあった。

                     稲アゲの時は家族総出で親戚の応援もたのみ、家迄運び込まなければならない。大変な作業だった。
                   そして雨降りの日と夜は脱穀をするのである。今の農作業と比較すれば比較にならない苦労を苦労と思っていなかった。
                   だが世の移り変わりから一人、また一人耕作を放棄し、維持できなくなってしまった。
                   そんな所だったから昭和50年代の始めで全員が耕作をやめてしまった。現在は田沢集落から下山集落まで林道が
                   開通したが、放棄した田圃は荒れ放題で、道が出来た事も加わり、ゴミ捨て場と化し不法投棄がめだつ。

                     ここの開発工法もトンネルによる瀬替えですが、穴の天井部が硬い岩盤、地質地形のページで紹介しています
                   犬伏凝塊礫岩で風化崩壊は、きわめて時間がかかるし、かんたんにトンネルは崩落しないでしょう。

                                                     ページのトップへ