青空文庫に朝鮮総督府『朝鮮史のしるべ』を登録した。校正が済んで公開されるまで、ここでテキスト(青空文庫形式ではない)を公開する。字下げや傍点等は必ずしも底本の通りではない。〔 〕内は底本の割注、[ ]はこのページ独自の注である。
底本:「朝鮮史のしるべ」朝鮮總督府
1935(昭和10)年第一版
1937(昭和12)年第二版
1939(昭和14)年第三版
本書は戦前の著作ということもあり、韓国人が読んだら怒りそうな植民史観が満載である。植民史観とは、日本人による朝鮮史研究のうち韓国人の気に入らないもののことで、具体的には日鮮同祖論、党派性論、他律性論、停滞性論がある。日鮮同祖論は要するに任那日本府説を主張するもので、日本の任那支配は楽浪郡時代にまでさかのぼる(第四章)、楽浪・帯方郡が滅亡すると日本は大軍を出して任那支配を強化した(同)、広開土王と戦った4世紀に日本の勢力は半島南部の広範囲に及んでいた(第七章)、百済の勢力拡張によって日本は任那の西部を失った(同)、6世紀に任那が滅亡しても日本の影響力が一掃されたわけではない(同)といった記述がある。党派性論は、李氏朝鮮時代の派閥抗争が無意味に激烈だったとするもので、本書では「黨爭の歴史である」(第二〇章)、「王室は全く黨爭の具と化し去つた」(第二二章)、「變らないものはただ黨爭のみ」(第二三章)、「黨爭に疲れ黨爭に腐敗した舊來の議政機關」(同)といった文句が現れる。他律性論は朝鮮史が中国・満洲の状況に応じて従属的に推移するという主張で、本書でも総括の中で「満洲と支那本部と、南北對立の形勢を左右する力が、おのづから半島に認められた」とし、特に満洲勢力の南下に伴う被害が大きかったことを強調している。
植民史観以外で韓国人が怒りそうな記述としては、たとえば李氏朝鮮建国に関し「完全に明の屬國となりました」という評価(第十六章)、ハングル創製に関し「餘りに遲きに驚かざるを得ません」(第十八章)とバカにしたような部分、日韓併合の目的を「兩國相互の幸福を攝iし、東洋の平和を永久に確保せんがため」としている点(第二五章)、日本統治に関し「その高度なる治安のもとに、民衆は生を安んじ、東西の要素を融合大成した我が文化の恩澤に直接に浴することが出來るに至つた」と自画自賛している点などだろう。
朝鮮の地を行き、物を見る客は、しばしば「これは李朝時代の焼物です」とか「ここは新羅時代には何某と云ふ郡のあつた處です」とかいふ言葉を耳にします。それら李朝時代・新羅時代などの言葉は、申すまでもなく古蹟や遺物の古さを一言のうちに示す非常に便利なものですが、さて朝鮮の歴史には古今を通じていくつの時代があるかと申しますに、大體次の六ツに歸著するでせう。
一 古朝鮮時代
二 樂浪・三韓時代
三 三國時代
四 新羅一統時代
五 高麗時代
六 李朝時代
先づ古朝鮮時代とは、支那の歴史でいふ殷の末、周の初めの頃に、殷の箕子といふ人が來て開いた朝鮮國の時代と、前漢の初めに北支那の燕國から亡命して來た衞滿といふ人が、前の箕氏の朝鮮に代つて國をたてた時代、卽ち衞氏朝鮮の時代と、この二ツの時代を合せ呼ぶ名です。
次の樂浪・三韓時代は、右の衞氏朝鮮につぐ時代でありますが、それでも今から二千年も前のことですから、隨分古い話です。正確に云へば前漢の元封三年(西暦前一〇八)、漢でも外國經略に名高いあの武帝が、兵を出して、衞氏の朝鮮を攻め取り、其故地に四ツの郡を置きました。樂浪はその一つで、今の平壤を中心とする地方を占め、他の三つは臨屯・玄莵・眞番といひます。そのうち臨屯・眞番の二郡は、わづか二十五年にして罷められ、間もなく半島内にある郡としては樂浪郡のみとなりました。樂浪が時代の名として呼ばれるのは、さうしたことに基いてゐます。
其後樂浪郡は約四百年間續いて滅びました(西暦三一三)。その滅びる前百年の頃から、郡の南部を分割して、別に帶方と云ふ郡が新しく置かれて居ましたので、この最後の百年間を特に樂浪・帶方時代とか樂浪・帶方二郡時代とかいふこともあります。
なほ樂浪郡時代とほぼ時を同じうして、郡の南卽ち南部朝鮮の地方一帶に韓といふ種族が居り、それは馬韓・辰韓・弁韓の三ツに區別され、總じて三韓といひ、これから三韓時代と云ふ名稱も行はれてゐます。けれどもこれは、樂浪郡時代と合せ呼ぶのが便利でせう。
さて樂浪郡を滅ぼしたのは、鴨麹]の上流方面から發展南下して來た高句麗といふ種族です。この高句麗國と、それから郡の滅亡後しばらくして、三韓の地から歴史にあらはれて來る百濟・新羅の二國とを合せて三國と云ひます。それで三國時代は、百濟・高句麗二國が唐のために亡ぼされ、新羅がひとり半島に君臨するまで續きます。その期間は、樂浪郡の滅亡の時から數へると約三百五十年間となるわけです。
其後は比較的單調に時代は移り變りまして、新羅一統時代は二百六十餘年、それに繼いでは王氏の高麗時代が四百六十年、最後に李朝時代が五百年續きます。李朝時代とは詳しくいへば李氏朝鮮時代の意味に外なりませんが、高麗時代と云ふ呼びかたとのつり合ひを考へれば、單に朝鮮時代といつた方が穩當です。然し李朝時代、或はただ李朝と云ふ名稱は、非常に我我の口耳に慣れた言葉ですから、しばらくつり合ひ等は考へないことにして置きませう。
朝鮮歴史の時代分け及びその推移は大略右の通りでありますが、更に一層これを明瞭に、そして容易に知るには、第一に國史の時代分けとの關連、次には支那の歴史時代との對照を試みるのが便u多いことと思ひます。それを表にしてみると次の樣なものが出來ます。[表省略]
朝鮮歴史の時代分けの最初に置かれる古朝鮮時代は、いはば半島文化のあけぼのです。文獻上ほのかにも先づ認められるのは、殷末の三仁の一人とされる箕子、あの箕子によつて開かれたといふ朝鮮侯國の時代です。この國は西暦前二世紀の始め頃に亡びました。普通には「箕氏の朝鮮」とも申します。
それにつぐものは、前の箕氏の朝鮮を討ち滅ぼした衞滿といふ人の建てた朝鮮國です。箕子は殷の紂王を諫めて納れられず、東に逃れて朝鮮に來たものと傳へてゐますが、衞滿もまた燕、卽ち北支那の一國からの亡命客で、もと燕王盧綰の臣で、綰は漢室を開いた高祖劉邦を助けて戰功多かつた人ですが、何かのことで綰が漢室に反して北方、匈奴に逃れ入りますと、滿は朝鮮侯國に亡命して來ました。時の朝鮮國王の名は準といひます。滿は準に信用篤く、要職を授けられましたが、間もなく謀叛の心を起して、遂にその國を奪ひ自から王となつたのです。この「衞氏の朝鮮」は、三代百年足らずで、漢の武帝の兵によつて亡ぼされました。さきの「箕氏の朝鮮」とこの「衞氏の朝鮮」とを合せて「古朝鮮」といひ、これにつぐ時代が卽ち樂浪・三韓時代です。
古朝鮮時代の中心は、後に樂浪郡の中心となる今の平壤の地方に在つたやうで、何と申しても朝鮮文化の曙光は、大同江畔にさしそめたといふべきでせう。さうして、その近隣に住み、箕氏・衞氏の朝鮮國と多少の關係を持ち、その文化の曙光に浴したものに、眞番・臨屯などの名を持つ部族、またやや廣い意味で薉とか貊とかいふ種族が知られて居ます。特に重要なことは、衞氏の朝鮮の亡びる二十年程前のこと(西暦前一二八)東夷の薉君南閭といふものが部下二十八萬人を以て漢に降り、漢はここに滄海郡といふ郡を新設しました。この郡は明確な位地もわからず、また纔かに三年にして罷められたのですが、南閭は「東夷薉君」とありますから、朝鮮方面の或る部族の酋長に相違なく、そこに樂浪等の四郡にさきがけて郡が置かれたといふことは、漢の政治が直接この地方に及ぶことに外なりませんから、餘程重大な歴史的意義を認めなければならぬ事件です。とにかくさういふ經過をふんで樂浪郡時代に入るのですが、樂浪郡の成立を申す前に、今少しこの時代のことをつけ加へて置かねばなりません。
樂浪郡設置以前の朝鮮については、文獻によつて申せば、結局右の樣な半島に於ける支那民族の事蹟を語るに終らねばなりませんが、一體、半島土著の諸種族の中に、漢民族の郡が置かれたといふ右の樣な經過は、これをものについていへば、所謂石器時代の生活に、金屬器が輸入されることになります。それで文獻から離れて樂浪郡以前のことを考へるとすれば、それは當時半島の住民が殘した遺物と遺蹟について調べること、具體的にいへば朝鮮の所謂石器時代の遺物・遺蹟を尋ねることです。一概に石器時代といつても、その時間的範圍は極めて長く、進歩の程度は地域によつて差異あるものですから、勿論はつきりしたことは分りませんが、石器時代でも最も古いとされる時期の遺蹟・遺物についていへば、それは大體内地及び滿洲のそれと類似して、而もその分布狀態は、半島全體にあまねく亙つて居ります。日本海・黄海の東西兩沿岸地や、鴨麹]・豆滿江をはじめとして大同江・漢江・洛東江等の大河川の兩岸に著しく濃密な分布を見るのは當然でありますが、そのほか海岸・河流を離れた丘陵・山頂にも住居址が認められ、多量の遺物が發見されるのは、朝鮮・滿洲等の特異な點で、普通に大陸的特殊性といはれて居ります。
さてかかる遺物・遺蹟を殘した半島土著種族が、北支那方面からの流移の漢人種を迎へ、これと接觸したことは、ものの上にもその痕蹟を殘して居ります。先づ明刀錢・安陽布錢など、支那の戰國時代の鑄貨をはじめ、銅劍・鐵鉾、其他數種の秦漢時代の金屬製品が、樂浪郡時代の先驅をなす時代の主要な遺物として土中から發見報告されてゐます。その出土地を列舉しますと、平安北道では渭原郡崇正面龍淵洞、昌誠郡東倉面大楡洞、寧邊郡南薪峴面都館洞、平安南道では寧遠郡溫和面溫陽里、全羅南道では務安郡及び濟州島山地港、慶尚南道では金海郡金海面會峴里が知られてゐます。これらの地點を地圖に記入してみれば、北の方では漢人種流入の經路、乃至古代の鮮滿交通路が暗示され、また南の方では、海岸地方が最も早く漢文化に接したであらうことが推定されるでせう。
金屬製品の流入は單なる流入に止まらず、石器時代の土著人に使用・利用せられる樣になること申すまでもありません。その進歩はまた遺蹟によつて立證され、石器と金屬器とが竝び存して發見される所謂金石併用時代が來ます。平安南北道及び黄海道が、最も早くこの新時代に入つたと認められることは、さきの古朝鮮時代が、大同江畔を中心としたといふ文獻上の推定と大體一致してゐます。この傾向は樂浪郡の設置を待つて愈〻發展を見せるのであります。
滄海郡は樂浪等の四郡の前驅をなすものとして注意され、且つそれは四郡の置かれる二十年程前に、やはり武帝によつて置かれ、三年にして罷められたはかないものでしたが、その置かれた動機は、さきに申した薉君南閭の投降のみに在るものではありません。やはりその一面に漢の財政經濟的發展といふことが考へられます。三年にして罷めたのも亦た主として漢の緊縮政策にもとづくもののやうです。
武帝はこの滄海郡について貴い經驗を持つて居りますが、衞氏朝鮮の暴慢甚だしかつたので、遂に元封二年(西暦前一〇九)秋、海陸から將兵を遣して朝鮮王の都、卽ち王險城(今の平壤)を伐たしめ、翌年の夏に至つて漸くこれを平げ、その地を中心として樂浪郡以下眞番・臨屯・玄菟の四郡を置きました。眞番・臨屯は從來知られてゐた部族の名をそのまま採つて郡の名としたものです。
四郡の大體の位地は、樂浪郡は大同江を中心として平安道・黄海道から京畿にも及び、眞番郡は忠C道・全羅道方面、臨屯郡は江原道、玄菟郡は咸鏡道方面と考へられます。但し眞番郡については、これと全く反對に、浪樂[ママ]郡の北、卽ち鴨麹]の上流、長白山の西南麓、今の滿洲國の奉天・安東兩省の東北地方とする説もあります。この四郡の設置が、餘りに廣範圍にわたり、實情にそぐはなかつたと思はれるのは、設置後二十六年にして早くも大縮少が行はれ、眞番・臨屯の二郡は罷められ、更についで玄菟郡もその大部分を放棄し、一部を樂浪郡に併せて、玄菟郡の治所は鴨麹]北に移し置かれるに至りました。
それでこれから後は、半島に在る漢の郡としては、樂浪郡のみとなり、以後二百八十餘年を經過した後漢の末期(西暦二〇四頃)に至つて、樂浪郡の南部を分割して帶方郡が新設され、再び二郡の時代となりましたが、この二郡も百年餘りして西晋の末頃に滅び、ここに半島に於ける支那の郡縣時代は終ります。以上の經過を簡單に示すと、次のやうになります。
樂浪・眞番・臨屯・玄菟四郡時代 二六年(西暦前一〇八―八二)
樂浪郡時代 約二八〇年(西暦前八二―後二〇四頃)
樂浪・帶方二郡時代 約一〇〇年(西暦二〇四頃―三一三)
この間に於ける郡縣の大勢は、物質的方面に於ては、今日平壤郊外の當時築かれた古墳等から出土する遺物によつても推知される如く、華やかなものもあつたでせうが、政治方面では、必しもさうでありませんでした。それを單的に示すものは、四郡創置後百十年頃の記錄と考へられる前漢書地理志、其後更に百四十年を經た頃の記錄とされる後漢書郡國志、また滅亡直前の頃の記錄と考へられる晋書地理志の戸・口・縣數を一見することです。
(前漢書地理志) 樂浪郡 六二、八一二戸 四〇六、七四八口 二五縣
(後漢書郡國志) 樂浪郡 六一、四九二戸 二五七、〇五〇口 一八城
(晋書地理志) 樂浪郡 三、七〇〇戸 六縣
帶方郡 四、九〇〇戸 七縣
さて郡縣政治の對象となつたものは、先づ周の末以降、流亡移住し來つた漢人の子孫、次に半島土著の諸種族でありましたが、特に數の上では、後者半島土著の人民であつたことはいふまでもありません。故に郡縣の縮少は、土著人民の強盛・反抗等に因ることすくなからず、最後に郡縣の滅亡したことは、支那の國勢が衰へて、統治の力がこの方面に及び難くなつたに基くものでありませうが、同時にそれは土著人民の擡頭とも考へられます。さすれば、創設當時を最盛期として、爾後下り阪をたどる樂浪郡の運命は、謂はば漢人と土著人との鬪爭の時代であつたわけです。その中で、さきに申した帶方郡の設置は、郡縣政治一旦の更新を意味するものであります。
帶方の名は樂浪郡の中の一縣名として最初から見えます。後漢の終り近い頃には、その帶方縣附近一帶=樂浪郡の南部數縣は、韓種・薉種の土著人によつて侵略されてゐましたが、遼東方面に獨立勢力を樹立した公孫氏が、樂浪郡をその配下に置くに至つて、郡の勢力を囘復せんがため、樂浪郡から切りはなつて一郡とした時に、舊縣名の一つを採つて新郡の名としたものです。この更張によつて、半島南部の土著人は、また新たなる關係を郡縣と結び、更に海を越えた我が國の西邊地方と郡縣との交渉も活溌に趣きました。韓種族については、帶方郡設置以後のことがやや知られて居り、帶方の故地を併せたのはこの種族で、北方樂浪郡の本據を討つたのは高句麗種族でありました。
樂浪郡の南境、半島南部の地域は「韓地」として古くから文獻にあらはれて居り、韓地とは、韓人・韓種族居住の地といふ意味と思はれます。衞滿が箕子の後の朝鮮王を攻めたとき、王は左右とともに逃れて韓地に入り、自から韓王と號したといふ傳へがあり、衞氏の朝鮮の時代にも、その重臣の、韓地に入るものあつたといはれてゐます。後漢の末葉、帶方郡が新設された頃、この韓種は馬韓・辰韓・弁韓の三ツに分れ、馬韓は五十餘國、辰韓は十二國、弁韓も十二國から成り立つて居ました。當時の國は、今の郡位のものと考へられ、それぞれに長帥があり、また辰韓には辰王といふやや大きな統率者があつたやうですが、而もその辰王の統率範圍が馬韓にも及んで居たか如何かは不明で、結局三韓のそれぞれの統一は極めて微弱であつたといはねばなりません。ただ興味あり、また注意すべきことは、長帥の多くが支那の官職名を持つて居ることです。それは彼等が四時、郡に詣つて朝謁し、毎年の年貢を納め、また臨時、事ある時に賦調に應じ勞役を供給した代償ともいふべきでせう。年貢は農産物を主としたこと、想像に餘りありますが、其他には辰韓の鐵が有名です。
南部朝鮮の韓種族に對して、臨屯郡の故地たる今の江原道地方には薉種族が居り、玄菟郡の故地たる咸鏡道の方面には沃沮種族が居りました。何れも韓種族と同じ樣な關係を郡に持つてゐましたが、就中沃沮は、玄菟郡をして江北に移治せしめた程あつて、その實力は強く、その制度にも支那の古制を存して、根底深いものがありました。これらのことから考へますに、前漢から後漢三國を經て西晋の終り頃まで、卽ち西暦前一世紀から四百數十年もの長い間、時に盛衰はあつたとはいへ、とにかく半島に支那の郡縣が存續したことは、すばらしい事實で、地域を主體としていへば、當時の半島、少くとも郡や縣の所在地は漢・魏・晋の文化を移して、一時の開化を現出したでせうが、而もそれは郡縣が存續する限りの開化であり、郡縣が所有した開化であつて、一朝郡縣の滅亡が到來すると、その文化の大部分は消失するのです。新來の漢文化は、半島土著種族のそれに比すれば、實に霄壤もただならぬ差違あるものでありました、故に新文化が在來の地方文化の進歩發展の資材とされるには餘りに縁遠くかけはなれたものであり、土著人はそれを吸收咀嚼する能力を充分持ち合せなかつたとせねばなりません。かくてその地に芽生へぬ文化のはかなさは、如何することも出來ません。
然しまた四百年の郡縣政治が一朝にしてあとかたもなく消え失せ、何等の影響感化をも後に殘さぬといふことは、勿論あり得ないことであつて、事實、幾多の遺産が認められるのです。物質生活の方面に於て、金屬器の使用が傳派された如きは、最も大きなことでありますが、特にここに第一の遺産として舉げねばならぬものは、政治の方法を教へたといふことでせう。政治の方法は、具體的にいへば年貢の取り立てです。土著種族も自然に政治社會を建設するに至ることは豫期し得ますが、半島の場合は、未だその發達が熟さないうちに、早くも高度な支配の形式が行はれ、土著人は直接間接にその配下に立ち、各國卽ち各部落の長帥は、郡縣の一種の官吏のつとめを持つに至りました、故にかの韓地・薉地の長帥の權力は、とみに長足の發展をなしたと考へられます。郡縣滅亡の後は、それら強大の長帥自らが支配する社會となつたことは當然です、後節で申しますが、新羅・百濟の二國は、要するに馬韓・辰韓の諸國を統一して最後の勝利を獲た二つの力の具體的なあらはれに外なりません。このほか思想信仰方面にも、すくなからず影響感化を與へたでありませうが、それについては、先年樂浪古墳から再度も出土した式占天地盤がいたく識者の注意をひいたことでした。天圓地方をかたどる二枚の板を、各〻中心で重ねて、上の圓盤には北斗七星・十二月神名・十干十二支などを記入し、下の方盤には八卦・十干・二十八宿などを配列して、いろいろな占ひをするに用ひた道具です。支那思想の傳來としては、やはりこの種の陰陽五行に關するものと、さうして農業に關係あるものが最も早かつたらうと思はれます。
次ぎに合せ考ふべきは、韓地と一衣帶水をへだてた我が國と樂浪・帶方二郡との關係です。我が國人の半島進出、乃至半島渡海のことは、我が神話・古傳説によつても、その淵源の遠く且つ古いことが知られますが、それは樂浪郡に關する支那の文獻によつても明確に跡づけられます。しかもそれは樂浪郡との通交にとどまらず、更に航路を延ばして、支那本國との通交をも始めて居り、その最も古い事件としては、後漢のはじめ、建武中元二年(西暦五七)、我が使者が漢土に遣はされてゐます。帶方郡の置かれた後には、この郡を經由して支那本國に通交しました。特に有名な倭王卑彌呼の時代は、支那では魏・呉・蜀三國鼎立時代で、北支那を治めてゐた魏は、數囘帶方郡から使を我が國に遣はしてゐます。然るに建武中元二年以來幾度かの支那通交は、西晋のはじめ、泰始二年(西暦二六六)に至つて中絶しました。もしもこの間の通交が半島の郡を經由して行はれたもの、連年の郡との通交の延長と想定出來るとすれば、ここに至つて中絶したことにもまた半島の事情の變化が、少くとも一面の理由と考へられてよいでせう。半島西海岸の北部に位する樂浪郡、中部に位する帶方郡と通交するには、半島南部を中繼地とせねばなりません。古文獻は、三韓のうちの、今の洛東江江口の地方と推定される弁韓に、我が國の勢力の強固であつた有樣を示して居ります。この弁韓の地こそ、國史にいふ任那でありまして、任那の起源は少くとも樂浪郡時代にまで遡ることが出來ます。さすれば我が國人の支那通航の中絶の裏面に、半島の事情の變化を考へるとすれば、さしづめこの最初の中繼地たる弁韓地方、廣くいへば三韓の地の變化が注意されます。上に申しました泰始二年は、樂浪・帶方二郡の滅亡より五十年程前に當りますが、その頃の特別な事象として、馬韓・辰韓の使が支那に入貢し出したことが顧みられます。一體、諸韓國人のはじめての支那入朝は泰始二年から五年前、魏の景元二年のことで、それまでは帶方・樂浪に詣つたに過ぎないのです。それが景元二年を最初として、其後三十年間(西暦二九〇まで)に十度も馬韓・辰韓の朝貢が見えます。これは二郡の實勢力が衰へたことを示すと同時に馬韓・辰韓の勃興を物語るものでせう。これを總じて申しますと、諸韓國の勃興は、弁韓に於ける我が勢力を阻害しました、我が國人の帶方通交、從つて支那通交も止み、馬韓・辰韓の支那入貢のみが著しくなつたが、それも西暦二九〇年以後は跡を絶ち、かくて二十數年の後ち、西晋の建興元年(西暦三一三)に樂浪郡は高句麗のために滅され、それとともに帶方郡は韓種の領有するところとなりました。これより後ち約八十年間は、謂はば半島南部の闕史時代となり、知られるものは、ただ樂浪の故地に據つた高句麗の動きのみであります。
高句麗は樂浪郡を滅ぼして半島に雄飛する根柢を築きますが、そのここ[ママ]に至るまでには、少くとも三百年の歴史を持つてゐます。高句麗に存した傅説によれば、それは北滿洲の扶餘種族の分れであり、明らかに歴史にあらはれる頃には長白山西麓の山地に據つて居りました。恐らく松花江を溯つてここまで南進を續けたものでせう。
前漢の頃、さきに述べました玄菟郡が、今の咸鏡道から鴨麹]の北に移された後ち、その郡治は高句麗縣に在つたといひ、この縣名は高句麗種族と關係あるものと思はれますが、後漢のはじめにはその君長は高句麗王の稱號を漢廷によつて承認され、玄菟郡外に特殊な種族生活をしてゐました。常時には玄菟郡に屬して漢の官服等を受けましたが、然も屡〻郡に寇し、すすんで遼東郡を攻め、遠くは遼河を越えて今の錦州・熱河・長城地帶にまで兵を出して侵略をほしいままにし、漢兵と戰を交えました。後漢の末、あの帶方郡を新設した公孫氏は、この高句麗にも討伐を行ひ、遂にその本據の地(佟佳江流域)を破りました。高句麗はここに中心を南に移して、鴨麹]畔に出で、江の本流とその一支流通溝河とが形づくる所謂通溝平野に新しき都、丸都城を築きました。丸都城は一名を國内城ともいひ、その故地は今の平安北道滿浦鎭の對岸、滿洲國安東省輯安縣の縣治たる通溝城と、城北三十町餘にある山城子城とに比定され、この附近には當時の築造と考へられる大小の古墳が多數現存し、最近にも壁畫のある優れた古墳が幾多發見されてゐます。後節に述べる好太王碑は通溝の東北一里ばかり、鴨麹]に臨む丘陵に立つてゐます。
公孫氏によつて大打撃を受けた高句麗はここ丸都城に立ちなほつて、なほも玄菟郡を攻め、支那本土では魏・呉・蜀三國の世となつて、北支那の魏が、南支那の呉と相攻めた時代には、公孫氏を中にさしはさんで魏に歡を通じ、同時に使を海路から呉の孫權のもとにも遣して、遠交近攻の攻策を自在に發展せしめました。然し魏の景初二年(西暦二三八)公孫氏が遂に魏によつて討滅されてから間もなく、高句麗は愈〻魏の來征を受けることとなります。それは有名な幽州刺史毌丘儉の征伐で、儉は正始五年(西暦二四四)高句麗の都城を破り、翌年には玄菟太守をして、半島に逃入した高句麗王を遠く沃沮の地、卽ち今の咸鏡道に追撃せしめ、また樂浪・帶方二郡の太守をして、當時高句麗の配下に在つた半島東海岸方面を討平せしめました。この大討伐によつて高句麗は一時影をひそめた形でありましたが、魏・呉共に滅び西晋の時代になりますと、またも頭をもたげて、頻に遼東方面に寇します。この頃、西晋の勢力は半島にまでは及び難く、樂浪・帶方二郡は、その最後の日に間近い時で、二郡には遼東出身の張統といふものが權をとつて、高句麗と相峙して居りましたが、遂に西晋の建興元年(西暦三一三)、張統は二郡の民を將て遼西に退き、ここに樂浪の故地は全く高句麗の有に歸することになりました。通常、この歳を以て樂浪郡の最後の歳とします。武帝の四郡設置の年から數へて丁度四百二十年を經過してゐます。
かくの如くして高句麗が遂に最後の勝利を得たと云ふことについては、いろいろの原因や理由が考へられませうが、その最も主なものとしては、高句麗の部族組織の強固であつたことを舉げねばなりません。高句麗王の下には尊卑各〻等級ある相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台・丞使者・阜衣・先人などの官があり、王の宗族は皆な古雛加と申しました。これらの官名は多く高句麗語をそのまま漢字で音譯したものと思はれますが、中に主簿とか使者とか、全くの漢語として解釋し得るものも見えるのは、興味ある事實です。貴人卽ち貴族階級とも云ふべきものは涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部の五ツに分れて居り、高句麗の五族、また五部と云ふのがこれです。もと涓奴部のものが國王となつてゐましたが、丸都に移つた後には桂婁部のものがこれに代りました。そしてそれとともに、從來絶奴部の女と通婚した王は、この頃から灌奴部の女とも通婚するに至つたやうです。卽ち王を出す部族が變り、その通婚部族がまた變つたわけです。何れも各部族間に於ける實力の變化がしからしめたことでせう。凡そそれらのことを以てみれば、丸都に新都を定めたことは、部族組織にも重大な變化をもたらしたといはねばなりません。この種の變化は、高句麗が更に南に下つて大同江畔に遷都した時にも認められます。とにかく丸都城の新營は公孫氏の來征を受けた高句麗の餘儀なきみちであつたでせうが、これによつてその部族の内部は一新され、實力ある部族が主權を執つて次の發展を實現したといふことが出來ませう。丸都に移り國してから凡そ百年にして、高句麗は樂浪郡の攻陷を完了したのです。
樂浪郡が、高句麗との抗爭に敗れて南滿洲に退いた歳卽ち建興元年よりも三十年ほど前から、南部朝鮮の樣子は全く不明となり、その不明は東晋の咸安二年(西暦三七二)頃まで續きます。この間に於ける高句麗は半島の經略を進めることよりも、遼東方面との交戰に多端でした。それは、樂浪郡滅亡後間もなく、晋は揚子江南に都を移し、江北卽ち北支那は所謂五胡十六國の動亂時代となり、高句麗はその動搖から全く無關係な立場に立ち得なかつたからです。中でも、正始の毌丘儉に討たれた折に劣らぬ痛た手を被つたのは咸康五年から八年(西暦三四二)にわたる慕容氏の來征で、都城は再び陷り、王の父の墓はあばかれると云ふ深刻な有樣でありました。然しかうした動亂時代に、北支那で敗れたもので高句麗に逃れ入るものの多かつたのは當然で、それら亡命の客が高句麗の政治・文化に寄與したことすくなくなかつたであらうといふことも注意する要がありませう。
さて樂浪・帶方二郡は滅び、その故地を領有した高句麗は北方の對策に多忙で、南方半島を顧慮する暇なかつた間に、南方の形勢は、如何に進んで行つたでせうか。前から申しますやうに、謂はば闕史時代とも名づくべきこの期間のことですから、はつきりしたことは申されませんが、二郡の最後の頃、しきりに支那本部に通交して活躍を示した馬韓・辰韓等の諸韓國では、二郡の滅亡によつて四百年來受けてゐた支那の壓力から漸く解放されて、茲に徐ろにその統一への歩武をすすめ、遂に百濟・新羅と云ふ新しい二國の成立に到達したと考へねばなりません。この二國は殆んど同時にその名をあらはします。それは東晋の咸安二年(西暦三七二)の頃です。これによつて新羅・百濟の實際上の建國は、如何に新しく考へても、西暦四世紀の中葉以後に置くことは出來ません。新羅及び百濟のそれぞれの傅へでは、その始祖の開國年代は前漢の終り頃(西暦前五七、同一八)として居りますが、それは傳説としてさて措き、内外の形勢から大觀すれば、右の如く四世紀の中葉を以て歴史的建國年代とするのが妥當で、百濟では近肖古王、新羅では奈勿王の時代に當ります。
さてこれら二國の出現について考へねばならぬのは、我が國との關係です。半島及び大陸に於ける我が國人の動靜は、さきに述べたやうに南鮮の闕史時代に先立つこと約三十年(西暦二六六)以來全く不明となり、東晋の末(西暦四一三)に至つて再び支那通交を開始し、これより後のことはやや知られてゐます。然らばその百五十年間、半島には如何なる關係を持つてゐたかと申しますに、必ずしも全く半島から手を引いてゐたとなし得ないことは、馬韓に百濟、辰韓に新羅が出現した時、弁韓に駕羅諸國、卽ち任那として存續してゐるからであります。さうして任那は我が國の直轄地域であり、新羅・百濟また何れも我が國に臣屬の關係を結んで居ます。これを以てみれば、次のやうなことが言へるでせう。卽ち西晋のはじめ頃、諸韓國の勃興によつて、一時半島に於ける我が國の勢力は阻害されたが、樂浪・帶方二郡滅亡して闕史時代―動搖時代に入ると間もなく、我が國は勢力挽囘の大軍を出して、再びもとの權uを弁韓に樹立して任那の振興を企圖し、同時に諸韓國の盛んな統一的傾向にも一矢を報ひて、南鮮=三韓の地の全體的統一を阻止し、東に新羅、西に百濟の對立を實現したといふことになります。これに任那を加へた三國三地方の分立鼎立の狀態は、二郡衰亡後に於ける諸韓國の統一運動の、或る程度までの成就とはいへませうが、而も全く自由なそして順調な進展の結果とは申されません。何故なら、かかる三分の形勢は、これより百五十年も前の魏の時代に旣に大略成り立つて居り、一世紀半の歴史の推移としては餘りに遲遲とした足どりと思はれるからであります。我が國威の海外發展の、最初にして最大のあらはれとして國史に名高い神功皇后の三韓綏撫の御事蹟は、右の如き歴史事實を傳へて居ると解すべきではありますまいか。
これを要するに、任那の存立のみならず、百濟・新羅二國の成立も、我が國の勢力、我が國の經營に依るところ極めて深刻であつたことは疑ふべからざるところであり、このことは次節に申しますやうに、高句麗が遼東方面へ傾注した力を割いて、南方は半島の經略を開始するに至ると、先づ以て百濟・新羅を掩ふ我が國の勢力とぶつつかり[ママ]、しばらくは高句麗と日本の對立時代を繼續せねばならぬことによつても考へ得ることです。普通に新羅・百濟の出現した四世紀中葉を以て、半島の三國時代といひ、さきに時代分けのことを申しました折にも、その通説に依つて置きましたが、事事上の三國鼎立時代は、右の高句麗日本の二國對立時代の形勢が收まつた後に始まるのであります。
高句麗と日本と、南北勢力の對立抗爭時代の一大記念碑は、高句麗の古都たる鴨麹]畔、通溝城外に屹立する永樂好太王陵碑であります。碑は好太王薨去の翌翌年(西暦四一四)に建立されたもので、ただ大碑がここに在るといふことだけは朝鮮では五百年も前からすでに知られてゐましたが、その文が讀まれて我が國や支那の學者の研究爼上にのぼつたのは明治十七八年頃で、これによつて半島古代史の研究はとみに光明を與へられました。
碑文は好太王一代の功業を銘記したものですが、その大部分は、王の半島南下の經營に關し、從つて我が國の勢力と高句麗のそれとの角逐が雄大に記されてゐます。王は東晋の太元十六年(西暦三九一)、十八歳の若さを以て登位、元號を建てて永樂元年といひ、治世二十二年にわたる英主であります。その業蹟は、北方は遼東なる燕國の攻勢を阻止しつつ、同時に南方に數囘の大軍を出して我が國の兵と戰を交へたことに發揮されてゐます。いま碑によつてその南征の跡をたどつてみますと、その第一囘の出兵は永樂六年に於ける百濟征討、第二囘は永樂九年の南方巡狩、第三囘は永樂十年の新羅救濟、第四囘は永樂十四年、帶方の境に於ける我が兵との海戰です。初囘の出兵については、その理由を叙べて「百濟・新羅舊是屬民、由來朝貢、而倭以辛卯年來渡海破百殘□□□羅以爲臣民」といひ、王は水軍を將て來り百濟に臨んだのです。この文にいふ辛卯年は西暦三九一年に相當する辛卯、卽ち好太王卽位の元年に比定するのが從來の定説でありますが、近頃それよりも更に六十年前の辛卯(西暦三三一)に當てんとする説もあります。とにかくこの三十數字は、直接には百殘(百濟)征討の理由を示すものですが、間接には百濟を掩有する我が勢力を驅逐せんとする意向を暗示してゐます。この囘、王は城を陷るること約五十城、大江(漢江)を渡つて百濟の王城(京畿道廣州)に迫り、百濟王の降服をみました。第二囘の南方巡狩は、百濟が誓盟に違反して、なほも我が國と好を通じて居るのをとがめんがためでありました。この時、王の陣營に新羅の使者が來り、我が兵によつて征服されて居る苦痛を訴へて、救ひを求めました。これによつて第三囘の來征となります。今囘は陸路、歩騎五萬の軍をひつさざげて[ママ]新羅に入り、新羅城内に充滿する我が兵を追撃して任那にまで到りました。最後の、第四囘の海戰は帶方の境、卽ち今の京畿・黄海道の境上、仁川灣沖合ひかと思はれる中部西海岸で行はれてゐます。以上前後四囘の出征の記事に、我が兵と無關係に行はれたものが一つもないことは、當時我が國の勢力が那邊にまで及んでゐたかを物語つて餘りあります。さうして好太王の南征の最も注意すべき結果は、新羅と高句麗との關係が促進されたこと、百濟の漢江流域に於ける勢力衰へて、その南遷の端緒を開いたことなどでありませう。
好太王の次の長壽王は、その名の示す如く、在位七十九年の久しきに及んだ王で、先王の遺志をついでまた專ら南方經略に意を用ひました。王の十五年に(西暦四二七)遂に都を丸都から平壤に移したことは、南進の過程として極めて重要な事件です。平壤に都城を築くことは、これより八十五年程前にもあつたやうですが、正式の遷都はこの年とすべきでせう。
さて長壽王六十三年の南征によつて、百濟は遂に漢江南岸の都城を失ひ、熊津、卽ち今の公州に遷都し、更に六十餘年を經て泗沘、今の扶餘に移り、此地を最後の都とします。故に百濟の歴史は、その都の所在によつて、次の如き三期に分けることが出來ます。
一 漢城時代(廣州) 約一二〇年間 (西暦三五〇頃―四七五)
二 熊津時代(公州) 六三年間 (西暦四七五―五三八)
三 泗沘時代(扶餘) 一二二年間 (西暦五三八―六六〇)
百濟のかかる相つぐ三次の南遷は、結局我が國の勢力に影響を及ぼさずにはやみません。國史に、熊津遷都の際のことを叙して「天皇、百濟は高麗の爲めに破られぬと聞しめして、久麻那利(羆津)を以て汶洲王に賜ひて、其の國を救ひ興す」とあります。また泗沘遷都より二十年程前には、有名な任那の四縣、上哆唎・下哆唎・婆陀・牟婁を割き、續いて蟾津江流域の己汶・帶沙を百濟に與へました。ただここに注意すべきことは、百濟の南遷が、專ら高句麗の南侵を受けての餘儀なき一途であつたとばかりに考へるならば、それは妥當でありません。高句麗の壓迫は、百濟の遷都の外的理由ではありますが、少くとも泗沘遷都については、國都を安全地帶に移して、國の諸般の制度を整へ、文物を豐かにして、國勢を囘復せんとする積極的意向のあつたことを認めざるを得ないものがあります。それにしても、結果に於いては、我が國はそれがために任那の領域の西部大半を失ふといふことになりました。
百濟の五部・五方の制は、上述、高句麗の五部の制と甚だ似通ふものとして注意されますが、その實施は、實に最後の扶餘時代に在つたのです、この制によれば、畿内を上・中・下・前・後の五部に分ち、地方を中・東・西・南・北の五方に分ち、方の中心たる方城には方領といふ官を置き、これと同時に貴族は畿内の區劃名と一致する五部に分たれてゐました。然しこの貴族の部が、高句麗の最初の五部の如き氏族制に起原を有するかどうかは疑問とされてゐます。
次に新羅は百濟と違つて、終始その都を遷すことなく、その發祥の地たる今の慶州を守つて、著著國勢の發展をはかつたのです。任那とは極めて近接した位地に在つたので、任那との爭ひは常に切迫した問題として、積極的に推移しました。百濟は常に讓與の形式によつて我が支配下の任那の領域を占有して行つたに對して、新羅は侵略者の惡名を被りながら、順次に任那の諸國を併せ進んだのです。かかる侵略・併合は、新羅法興王代に著しくなり、次の眞興王代に至つて成就しました(西暦五六二)。今、慶尚南道昌寧に存する眞興王辛巳(西暦五六一)の拓彊の碑は、任那經略の一大記念碑ともいひ得るでせう。
かくて任那を滅ぼした張本は新羅となつたのです。西は百濟の南遷、東は新羅の侵略によつて任那が滅んだといふことは、間接的には、我が國が從來半島に持つて居た實際上の勢力が一時中斷されたことを意味し、高句麗對日本の南北對立の時代はここに終つて、高句麗・百濟・新羅の三國鼎立時代が成立しました。但しこの時、我が國の勢力が全く半島から地を拂つたと考へるならは[ママ]、大變な誤りで、この後もなほ百濟・新羅は我が國に朝貢の禮をとつてゐます。ただ直接の經營が止んだといふまでです。
ひるがへつて思ひますに、我が兵が好太王と戰を交へた頃から數へると、約百七十年にして任那は滅びました、任那經營の中心たる任那日本府も同時になくなつたわけです。この百七十年ばかりの間に大きくなつた百濟・新羅の動向をみますと、勿論時によつて變化はありますが、百濟は我が國に、そして新羅は内面、高句麗に附庸して、何れも各自の成育をはかるといふのが、大體の筋です。のみならず、當時の各國は、謂はば二重外交とも申すべき對外關係の下に立つて居ります。卽ち百濟は我が國に附庸すると同時に支那南朝の歴代に通じてその冊封を受け、新羅は高句麗とともに、支那南北兩朝(主として北朝)に朝貢して居ります。所謂三國鼎立時代の成立は、高句麗・日本、この南北の勢力の消長のみによるものではなく、更に支那の南北分立の形勢にもよるところ多かつたことを知らねばなりません。
かやうにして成立した三國鼎立時代は、此後約百年間(西暦六六〇年代まで)繼續します。この期間に於ける高句麗は、依然として南下の希望を持續しましたが、好太王や長壽王の時の樣に成功することは出來ませんでした。百濟はさきにも申しました第三次の遷都によつて立ちなほり、その國勢は一時好轉して、逆に攻勢に出でましたが、それよりも主なことは、新羅が強大となり、高句麗から離れて、敵對の態度をとり、百濟と聯合してこれに當るにさへ至つたことであります。
さきに任那の滅亡を以て、三國鼎立時代は成立したと申しましたが、それは外形的な説明であつて、内部からみれば新羅の強大によつてこの時代は完成したといはねばなりません。新羅は好太王の頃以來、高句麗に附庸した形でありましたが、任那滅亡の前後の頃には、全くその覊絆を脱して、敵對の態度を取るに至りました。高句麗の受けた最も大きな痛手は、眞興王が百濟の聖明王と連合して高句麗を攻めたことです。この時百濟は西岸六郡の地を占領して、今の臨津江畔に及び、新羅は東岸、江原道から咸鏡道にわたる十郡の地を略し、その北端は今の咸鏡北道に達せんとしました。而もその直後、新羅は百濟が占領した西海岸方面をも奪ひ取つて、今の京城附近を中心とする新州を經營しました。有名な眞興王碑のうち三碑は、この當時の意義ある記念碑であります。
一 磨雲嶺碑 咸鏡南道利原郡磨雲嶺所在
二 黄草嶺碑 咸鏡南道咸興郡黄草嶺下所在
三 北漢山碑 京畿道北漢山碑峯所在
磨雲嶺の碑には明らかに大昌元年戊子秋八月云云の文字が認められ、大昌は新羅の建てた年號で、王の二十九年(西暦五六八)に當ります。右の三碑と、さきの昌寧なる辛巳拓彊の碑とを合せて眞興王の四碑といひます。
新羅がかやうに南北に領地を擴め、特に漢江下流域を取つて仁川灣に出で、また洛東江下流域を手中に收めて朝鮮海峽に出ることが出來たのは、新羅の今後の發展に對して最も重大な力となるものでなければなりません。然らば新羅は、この頃になつて如何してかくも目ざましい發展を遂げることが出來たかの點について一考する必要があります。
新羅は半島一つ國のうち最も南に位し、高句麗・百濟の二國がともに所謂表朝鮮に中心を置いたに反して、新羅の都城は、ひとり脊梁山脈の東、裏朝鮮の南邊に在りました。この位置が新羅の開化發展を遲からしめたことについては、從來何人も言ふことでありますが、而もそれがまた新羅を利して、新羅強盛の原因の一つとなつたことは餘り注意されて居りません。新羅が併合した任那諸國、卽ち加羅諸國と比べてみますと、それらの多くは洛東江の本流・支流が形づくる山間の盆地に在つて發展の餘地に乏しく、稀に江岸近くに據つて交通の利便をほしいままにしたものは、防守に不利を招くといふ有樣であつたに對して、新羅は反對側の日本海に注ぐ兄江流域の平野を根城とし、四周は大小の山岳丘陵にとりかこまれて、外力の防禦に易く、且つそこから外方への交通には、北・西・南と三方に路を持ち、守るに易く攻むるに難き地勢であります。かかる地勢は必然的に部族の血の純潔を保たしめ、團結を堅くし、氏族制度の如きも比較的順調な發達を遂げることが出來ました。かの有名な新羅六部(喙・沙喙・本彼・習比・漸喙・漢祗)の制の如き、法興・眞興の間に完成したと考へられ、また武勇と節義をもつて誇る花カの徒の活躍もこれより漸く著しくなります。
次に大陸文化の輸入に於いても、その不便と時間的に遲れたこととをいふに止まるのは妥當でありますまい。なるほど新羅は、西北は仁川灣に出で、南は朝鮮海峽に達するまでは、多く百濟か高句麗を經由せねばなりませんでしたから、それらの二國に比して開化は徐徐と進んだのですが、そのために却つて支那文化の過食に陷る危險を少くすることが出來、氏族社會の鞏固な基礎は作られたと思はれます。さうしてその基礎の上に立つて高句麗を攻め、百濟に抗し、また任那を併せ、他方、海口を南と西とに獲得出來たのを一轉期として、支那通交を盛にして、その勢力を迎へ、その文化を輸入して、やがて半島一統に成功するのであります。
以上は、新羅強大の一般的觀察ですが、それを前提として、更に一歩をすすめ、より具體的な事實を舉げるとすれば、それは佛教の國家的奉行と云ふことです。佛教もまた他の諸文物と同樣、新羅には最も遲く傳來しました。普通に、高句麗には小獸林王の二年(西暦三七二)に、百濟には枕流王の元年(西暦三八四)に始めて傳へられたといはれます。新羅の佛教は、その傳來の年代は新古諸説あつて、極めて瞹昧ですが、他の二國と違つた點は「佛法肇行」としてそれが國家的にはじめて認められた年がはつきりして居ることであります。それは法興王の十五年(西暦五二八)のことです。佛教の傳來は、三國それぞれに、新文化の輸入として重大な影響を及ぼしたに違ひありませんが、わけても、上に申しました如き、鞏固な氏族社會を根柢とする新羅にとつては、特殊なはたらきをなしたと考へられます。蓋しその當時の新羅は、舊來の新羅ではありません。南北に新領土を擴張して、新附の人民も大勢あつた際です、この新國家の主權者たる新羅王を權威づけるのに、佛教の普遍思想や階級思想が、大いにあづかつて力あつたことは想像に易きところであり、かの眞興王碑に隨駕の人名を列舉して、沙門道人を最初に置いてある如きは、興味深いことであります。
新羅の強盛、百濟の逆襲によつて、高句麗圖南の翼は甚だしい打撃を被りました。それに續いて、高句麗をして更に南方を顧みる暇なからしめる事態が起りました。それは從來二百年、南朝・北朝と分立して來た支那本部が、隋の文帝によつて統一されたことです。
何時の時代でも、南滿洲・朝鮮、卽ち支那からいつて東北地方が支那本部の形勢に至大の關係を持つものであることは、こと新しく申すまでもありません。分裂時代には北支那の政權はこの東北地方の綏服を前程とせねばならず、統一時代にはまた、内外蒙古方面、卽ち北方勢力の、塞内侵入を牽制する力として、遼東・朝鮮方面の歸順を必要とするのです。故に結果からみれば、南北統一された支那の政治的勢力は、何れの時代にもこの方面に加へられます。
今、隋が天下を統一するや、高句麗が先づその壓迫を感じ、隋に對する防拒の策を構ぜねばならなかつたことは當然です。ましてや、隋が南北統一を成就した最も大きな理由としては、その對北方策、言ひかへれば當時塞北を被ふた突厥族の勢力を分割せしめることに成功した點が指摘され、而も高句麗はその突厥と相通好した形迹さへ認められるに於てをやであります。
はじめ隋の文帝は、南北統一を成就するや、直ちに使を高句麗に遣して藩臣の禮をとらしめ、高句麗はまた陳謝の意を表したのでしたが、開皇十八年(西暦五九八)高句麗が靺鞨の衆を率ゐて遼西を侵しましたので、遂に文帝は水陸三十萬と稱する大兵を出して高句麗を伐たしめました。然し隋の軍は、運糧つづかず、疫病の流行などによつて、遼河附近まで進むことが出來たのみで、甚だ振ひません。たまたま高句麗王の謝罪により、漸く當座の體面を保ち、軍をかへしました。其後六年にして文帝は薨じ、高句麗の問題は未解決のまま煬帝にひきつがれたわけであります。
大業三年(西暦六〇七)煬帝は北方を巡狩し、突厥懷柔策の一端として、長城外その可汗の帳に幸しましたところ、其時はからずも高句麗の使者の其地に在るに際會し、可汗は使者を引いて煬帝に見えました。文帝旣に一度兵を出して、勝つこと出來なかつた高句麗が、かねて隋の重要視する突厥に通じて居ることをまのあたり認めた煬帝は、高句麗に對する關心を更に新たにしたに相違ありません。帝は高句麗の使者に言つて、高句麗王の速かに來り入朝すべきを傳へしめました。然し高句麗王はその命を奉ぜず、煬帝は間もなく高句麗征討の準備を進め、大業八年第一囘の攻撃となりました。動員兵數は、百十三萬三千人、これを左右各十二軍に分ち、更に數百艘から成る海軍を加へて居ります。さうして征戰は九年・十年と連續三年三囘にわたつて行はれたのですが、高句麗はよくこれを防ぎ、煬帝は高句麗をしてまた立つ能はざるまでに戰ひ拔くことは出來ません、高句麗が降を乞ふたのを納れて師を還へすといふ有樣でした。而も隋は、かかる貧弱な結果を獲るまでには、その國運を屠したのであつて、この征戰中、内には群雄蜂起し、外には突厥が再び隋から離反して義寧二年(西暦六一八)、早くもその國亡び、かくて高句麗問題は次の唐のために殘されたのであります。
唐の世になると、はじめのうちは、高句麗も百濟・新羅と同じく使を遣はして朝貢し、その正朔を受けて居りましたが、太宗の貞觀十六年(西暦六四二)に至つて、高句麗は百濟と連合して新羅を攻め、その四十餘城を取り、更に新羅の唐に通交する要路、卽ち仁川灣を制する地方をも占領せんとしましたので、新羅は急を唐に訴へ救を求めました。この歳また高句麗の大臣泉蓋蘇文がその王を殺したといふ報告あり、唐では直ちに高句麗を攻むべしとの議論が可なり行はれましたが、太宗はこれを止め、先づ使者を高句麗・百濟に遣はして、新羅を攻むることなからしめんとしました。然し高句麗はその命を奉じませんので、遂に出征決行といふことになり、陸兵十萬、船師七萬の大軍が動かされます。貞觀十九年の春、唐軍は高句麗の地に入り、十月には進んで鴨麹]畔の安市城を攻めましたが、遂に克つこと能はずして師を還しました。これを唐の第一囘の出征とします。
第二囘は貞觀二十一年です。是歳、高句麗は王子を遣して入唐謝罪しましたが、唐は翌年更に第三囘の軍を出し、この間、百濟はまたも新羅を攻めて十餘城を取りました。かうして所期の半ばも達成出來ぬうちに、太宗は薨じましたので、征討のことは一時中絶となります。
太宗についで立つた高宗は、永徽六年から顯慶四年にかけて、また兵を出して高句麗を攻めましたが、容易に效果をあげることは出來ません。そこで顯慶五年、背面攻撃の計を以て先づ百濟を討つことにしました。この歳八月、水陸十萬の軍は、大將軍蘇定方に率ゐられて、海路より錦江江口に至り、溯つて都城(扶餘)を攻めました。百濟王義慈及び太子隆は北方に逃れて、その城は陷りました。ここに於て義慈等もまた還り唐軍に降り、蘇定方は兵を留めて鎭守せしめるとともに、義慈以下の俘虜を將て歸國しました。今、扶餘の郊外に屹立する大石塔に刻せられた「大唐平百濟國碑銘」は、この征戰の詳しい記錄の一つであり、また直接の記念であり、塔を利用してその銘を刻したなど如何にも戰塵のなほ收まらぬ當座の方便として、後人の感慨をそそるものであります。
百濟の討平に勢ひづいた唐は、その翌龍朔元年早早、河南・河北以下六十七州に兵を募り、五月には大將軍を任命、秋八月、前年の蘇定方は、遂に鴨麹]を渡ることに成功して、一擧平壤を圍みました。然るに百濟の遺臣鬼室福信等は、故國復興の運動を起し、唐の留鎭の兵を危地に陷れましたので、唐は高句麗攻撃をまたも一時止め、平壤の圍みを解いて還らしめ、百濟の動亂を鎭定させることになります。この百濟遺臣等の故國復興の運動は、百濟の歴史を飾る最後の華であつて、我が國に在つた王子豐璋は迎へられて國に還り、その中心になつたのみでなく、我が國では齊明天皇は皇太子とともに親しく北九州に御幸あらせられ、救援軍を指揮し給ふたのであります。救援軍は錦江口(國史に所謂白村口)に唐軍と戰つて利なく、失敗に歸したのでありますが、勝敗の如何は大なる問題ではありません。根本的問題は出兵救援の艶_が那邊にあつたかといふことです。それはその時發せられました大詔に明示されて居るところであつて、實に「危きを扶け、絶えたるを繼がしむる」と云ふ公明なる皇道の艶_にもとづくものでありました。
さて福信等の復興運動は、麟コ二年(西暦六六五)に至つて遂に全く失敗に歸しましたので、ここに唐は翌乾封元年からは、愈〻最後の高句麗攻撃に全力を集中することが出來るやうになり、たまたま高句麗では、さきの泉蓋蘇文死してその子三人の間に内訌を生じたに乘じて兵を進め、翌翌總章元年(西暦六六八)九月、漸く平壤城を拔き、高句麗王高藏以下を俘とすることを得ました。
隋の文帝の出師から數へてここに至るまで約七十年、隋は文帝・煬帝、唐は高祖・太宗・高宗と五代の、何れも有名な天子をかへて、高句麗征討の事は成就し、それに先立つては百濟が滅され、ここに新羅の半島一統時代が到來することになり、半島から滿洲にかけて一帶の形勢は一變しました。それは一に高句麗の滅亡に基因することで、極東の形勢は、この時ほど大きな變化を、前後に認められないといつても過言ではありません。何故なら樂浪郡時代以來、高句麗は、北支那方面に對して、絶えず攻勢的態度を以て、遼東から朝鮮半島、また南滿洲にかけての地域を占めて立國し、支那の勢力の東漸に對する一大障壁をなしてゐたので、高句麗はもとより、新羅・百濟二國も、支那の諸朝に入朝貢獻の禮をとりつつ、しかも一面各〻自主的艶_を失ふことはなかつたのですが、この障壁がなくなつてより後ちは、政治的に支那に附覊するとともに、またかの艶_も次第に消滅して、事大服屬は民性の最も大なる特徴とさへなるに至るのであります。
隋・唐の高句麗征討、それに件ふ百濟征伐はさきにも申しました如く、支那本部の統一を安全にするに重要な條件として、多大の犧牲を拂つて遂行されたのでありますが、特に唐の出兵の表面の理由としては、高句麗・百濟に侵略された新羅を救援するといふことが、可なり重きをなして居ります。故にこの戰役中、新羅は常に唐の側面軍また背面軍としての任務を負擔せしめられ、軍兵の派遣、食糧の供給に、すくなからぬ苦心を嘗めました。高句麗・百濟が滅んで、新羅は自然に半島を一手に收めることが出來ることとなりましたが、それまでに盡した新羅の努力を考へれば、當然の報酬ともいはねばなりません。但しそれは二國の滅亡と同時に實現されたのではなくて、平壤城陷落後、またも百濟の場合と同樣、高句麗遺民の反亂起り、その主謀者は來り新羅に投じ、新羅はこれを納れましたので、ここに新羅と唐とは一時敵對關係に立つたのです。これがまた單純に片附かず、唐・羅の交戰は南北水陸、前後六年にわたつて行はれましたが、唐の對外退嬰政策と新羅の謝罪とによつて解決し、平壤に置かれた安東都護府は遼東に移され、麗・濟の故地大半は自然新羅の據有するところとなり、新羅の所謂半島一統が成就しました。時に上元二年、新羅文武王十五年(西暦六七五年)であります。
そもそも新羅は、五十六王九百九十二年の王朝といはれますが、古くからこれを三代に分けて上代・中代・下代と致します。これを表示しますと、
上代 始祖王―眞コ王 二十八王 七一二年間
中代 武烈王―惠恭王 八王 一二七年間
下代 宣コ王―敬順王 二十王 一五六年間
となり、一統時代は、大略その中代と下代とを合せたものに當ります。新羅の極盛期は、一統時代の初め約百年間に在り、卽ち中代を終るとともに下り坂をたどる形です。
高句麗・百濟の故地を收め、その遺民を新附の民として抱擁、安堵せしめたことは、舊來の新羅にとつては、任那併合につぐ大きな出來ごとで、ここに種族の血は新たにされ、社會組織は擴大強化されたことと思はれます。
他方、唐に對しては、宗主國と仰いで屬國の禮をとり、連年賀正使を遣して朝貢し、留學生・留學僧をも派遣し、國王の卽位や薨去は一一これを告げて、唐よりの弔祭使・冊封使を迎へました。それとともに我が國にも毎年請政進調の使(修好の使ではない)を遣すとともに、國王の薨去や卽位を告ぐる使を出し、その臣服の態度は唐に對するのと變りない有樣であり、我が國からもまたそれに應ずる使者が出されてゐます。
我が神龜三年は、新羅の聖コ王二十五年に相當します。この年の進調使は、時の左大臣長屋王の佐保山の山莊に招かれて一日のC遊をほしいままにしました。その折に詠じた大學頭以下我が朝臣の詩が、十一首ほど我が國最古の漢詩集とされる懷風藻に載せられてゐます。朝廷の公の關係以外にかうした私的な交渉も行はれたことを示す貴重な資料であります。またそれから十年ばかり後の天平八年の遣新羅使阿倍ノ朝臣繼麻呂の一行が旅上に詠じた歌は、同じく我が國最古の歌集とされる萬葉集に收められてゐます。
大君の遠の朝廷と思へれど日長くしあれば戀ひにけるかも
これは大使が筑紫の韓亭で詠んだ歌です。
栲ふすま新羅へいます君が目を今日か明日かと齎ひて待たん
これはある使者の妻の心を詠んだ歌と考へられます。かかる情趣に富み、また當時の史實を知るたすけとなる歌が、すべて百四十五首も殘つてゐることは、まことに幸なことです。然しかうした平和な關係はこの後永く續きません。右の和歌を殘した天平の頃から、新羅の我が國に對する臣服の態度は次第に疏遠に趣きました。それで天平勝寶年中(新羅の景コ王代)我が國は大規模な新羅征伐の計畫を立て著著準備をすすめましたが、遂に實現するには至りませんでした。かくして新羅の正式の使は、惠恭王代を最後として絶えます。
さてその反面、唐との關係は愈〻密接を加へて行きます。それは、これまで我が國とは、任那以來の關係があり、また一朝、唐の來征など大陸の脅畏を受けた時は、我が國にたのむところあつたからでありませうが、唐の治世が次第に安定して、その恐れもなくなつた上は、文化の上で恩惠を被ること多い唐へ專ら接近するに至るのは當然なことです。それ以外にも、唐と新羅との關係を一層密接ならしめた外部の事情があります。それは當時滿洲に國を建ててゐた渤海國が唐の北邊を窺つたからであります。新羅は、この渤海國を側面から牽制する役に當りました。然しそのために、新羅は大同江以南を正式にその領土として唐から與へられました。これによつて、一統時代の新羅の領域は、西北では大同江を限りとし、東北では咸鏡南道の南部、安邊・元山附近を界としたとされるのです。この兩界以南の半島を九州に分ち、うち五州には小京を置き、州の下に郡、郡の下に縣を屬せしめて、中央集權の郡縣政治を行ひました。今、左に九州の名と所屬の郡・縣數とを舉げて置きませう。
(九州) (五京) (領郡) (領縣)
一 尚州 一〇 三〇
二 良州 金海京 一二 三八
三 康州 一一 三〇
四 漢州 中原京 二八 四九
五 朔州 北原京 一二 二六
六 熊州 四原京 一三 二九
七 溟州 九 二五
八 全州 南原京 一〇 三一
九 武州 一五 四三
今日、慶州の野に殘された當時の遺物や遺蹟は唐の文化の影響感化が、如何に深く及んでゐたかを物語つて遺憾ありませんが、同樣の事情は、形をとつて迹を留めぬ艶_的方面についても容易に類推出來ることです。但しそれらの物質上艶_上の文化の進歩は、王侯貴族の社會についてのみいひ得ることで、一般庶民は多くそれにあづかり得なかつたでありませう。それだけにまた文化進歩の弊害も、先づ第一に貴族が被らねばなりませんでした。
文化の極盛期は直ちに爛熟頽廢期に連續するのが常です。唐の制度を模倣する中央職官の整備、郡縣政治の確立は、王都王廷を飾り、貴族の富を大きくしたでありませうが、その外面的裝飾と富裕は、貴族を腐敗せしめ、權力の爭奪を起さしめました。この種の弊害が著しく社會の表面にあらはれたのが、一統以後約百年を經た惠恭王の世です。王は遂に内亂兵のために害され、武烈王の系統はここに一旦絶えました。卽ち新羅の中代(八王、百二十五年)を惠恭王で限るのは、かうした王系の變轉にもとづくのであります。
惠恭王に代り立つた宣コ王は、王室の出ではありますが、直接武烈王の系統を引くものではありません。これより最後の敬順王までは、年數にすれば百五十餘年で中代と大差ないにもかかはらず、王代は二十を數へ、中代の八王代に比して三倍に近い多數です。それはとりもなほさず一王代の年數の短かかつたこと、卽ち王位の安定しなかつたことを雄辯に示してゐます。實際の歴史についてみますと、その王位の不安定は、下代大部分の王が非命にたほれたことに基因して居り、血族間に於ける嗣位の爭奪は、實に醜と慘とを極めました。さうしてそれは直ちに地方にも影響せずには濟みません。中央に王位の爭ひがくりかへされて居る間に、地方の政治はゆるみ、亂離の狀態があらはれます。そのうち中央と直接關係する最初の事件は、憲コ王の十四年(西暦八二二)、金憲昌が熊州(今の公州)に叛して、國號を長安國と云ひ、建元して慶雲元年とし、一時全羅・慶尚の一帶を領屬したことです。それから三年の後には憲昌の子の梵文が、また楊州(今の京城)に都を立てようとして、失敗したことがあります。憲昌の父は王位の爭ひに敗れたものでありました。
地方の政治の亂れたに乘じて、半島西南海邊の民は、或は商人として、或は海賊として東支那海一帶に活躍横行しました。山東半島の一角を根據地として、唐・日本・新羅三國の間に往來貿易した張寶高(弓福)は、新羅僖康王代(西暦八三五年頃)の人であります。彼は歸國してC海鎭(今の全羅南道莞島)に大使として任命せられ、新羅人が唐に奴隷として買はれ行くのを取りしまつたので有名であります。
さきに申しました通り、惠恭王代を以て我が國への正式の使者の派遣が絶えますと、其後には新羅商船の私に貿易のために來るもの多く、この貿易船はやがて海賊船と化して九州の沿岸を騷がしそれについでは、漂流にことよせて歸化を望むものがしきりにあらはれました。ここにも新羅の末世の狀態がまざまざと反映してゐる氣がします。
亂世の下代とは申せ、唐に對しては、各王卽位とともに使者を遣し、唐の冊封を受けました。順當な王位の繼承が行はれなかつただけ、却つて唐の冊封は必要とされたのでせう。かかる使者の派遣に際しては學問僧・學生の隨ひ行つたことも前代と變りなく、或はむしろその員數は揄チしてゐたやうであります。新羅の末期から高麗の初期にかけて名ある文人高僧は、殆んど皆な唐に留學した經驗を持つて居ます。就中最も有名な文士は崔致遠です。
致遠、字は孤雲、景文王代(西暦八六八年頃)に年十二を以て唐に入り、二十歳のとき科舉の試驗に及第し、江南道宣州漂水縣尉を授けられ、後ちに淮南節度使の從事官として文筆を掌りました。宣州はかの詩人杜牧が嘗て任に在つたところ、文學に因縁の淺からぬ地です。彼は唐に在ること前後十八年にして歸國しました。歸國後、從事官時代に作つた公私の文を撰して二十卷となし、唐廷に進めました。今ある桂苑筆耕がそれです。彼の著作には其外二三部の名が知られ、歸國後の作は、多く碑銘として殘つてゐますが、當時の新羅は、彼を容るるには、餘りに亂れて居りました。故に彼の最後は、家を携へて伽耶山海印寺に隱れて老を終つたと云ふのみで、明らかでありません。
崔致遠が唐から歸つて間もなく、新羅は愈〻群盜蜂起、最後の大動亂の世となります。中でも北原(原州)に起つた梁吉、その部下の弓裔、武珍州(光州)に自立した甄萱が最も有力なものです。甄萱は孝恭王の四年(西暦九〇〇)完山州を都とし、後百濟王を自稱し、翌年弓裔また王を稱し、國號を摩震と云ひ、鐵圓(鐵原)に都を定めて北方の經略に從ひました。弓裔の強味は部下に松岳郡(開城)出身の王建を得たことで、王建は陸の將としてのみならず、海軍を率ゐて南方は羅州の海口を占領し、後百濟が南支那の呉越と通好するのを阻止して功がありました。摩震國は七年にして泰封國と改められ、泰封國は八年にして、弓裔の暴虐のために自滅し、王建が同僚に推戴されて高麗國を建てることとなります。餘命いくばくもない新羅と、西南の後百濟と、西北の摩震(泰封・高麗)とが併立の形をとつた時代を「後の三國時代」とか「新三國時代」とか申します。
新羅の都城に先づ兵を入れたのは甄萱で、景哀王の四年(西暦九二七)俄かに王都を侵し、たまたま鮑石亭に出遊の王をして自盡せしめ、王弟・宰相以下を虜とし、珍寶・子女を剽掠して歸りました。かくて王族金溥は迎へられて王となり(敬順王)、ひそかに王建の高麗に依つて國勢の囘復を試みましたが、もとよりそれが成就する理なく、在位九年にして群臣と議し、出でて高麗の京に入り臣禮をとりました。高麗王は厚くこれを待遇し、新羅の舊領をその食邑とし、長女を以て之に妻しました。
傳世九百九十二年を誇る新羅はかくして終り、後百濟また内訌のために勢ふるはず、新羅出降の翌年を以て高麗に服し、ここに半島は再び高麗の一に歸しました。
新羅の末期に、地方の豪族が各地に分立割據を始めてから、高麗太祖の統一の成る日までには約半世紀の歳月を要して居り、特に後百濟の甄萱は、新羅の都に兵を入れて剽奪をほしいままにしたことなどもあつて、内外の荒廢は實に想像に餘りあることですが、その最後に敬願王が國を高麗太祖に讓る際は、一兵に血ぬらず平和の間に事が運ばれました。このことは高麗にとつて幸なことでありました。高麗はかくして新羅の舊を繼承し、それが高麗文化の骨子となつたのは云ふまでもありませんが、高麗をして高麗たらしめるものは、その骨子に更に加へられた新らしいいくつかの要素があります。
先づ、新羅の都は半島の東南部に偏してゐたに對して高麗のそれは、恰も半島の中央部、しかも海路の便の多い西海岸は禮成江の江口近くに置かれたのです。このことは、從來比較的力を注がれなかつた半島北部の開拓について、一新氣運を助長します。今の平壤附近以北はこれまで新羅の邊境であり、野人の遊獵に委ねられてゐましたが、太祖は卽位早早、弓裔の遺志をついで、この方面に意を注ぎ、平壤を西京として國都開京に次ぐ要地とし、ここに都を遷さんとする意向さへ示して居ります。この西京を策源地とする北方開拓のことは、今後代代の王によつてうけ繼がれ、高麗朝全體を通じての問題となります。ただこの一般的傾向を阻害するものがやがてあらはれ、その葛藤はまた高麗の時代色の一つをなします。それはいふまでもなく滿洲の勢力です。卽ち先づ渤海を滅ぼした契丹(遼)、それについでは女眞(金)、金についでは蒙古(元)と、相つぐ三大國の勢力が、活溌にしかも根強く半島に加へられます。それは滿蒙方面に不足な物資を高麗に求めんとするものであつたでせうが、それとともに、それら三大國が共通して持つた南下の政策、卽ち支那本部併呑の志向に直接關係することで、南下の前提工作として東方高麗を服して置く必要あつたことは明かでせう。のみならず、或る時は高麗を經由して、海路南支那の攻征が企てられます。然らば高麗は事實さういふ點で顧られる程、南支那と關係を持つてゐたでせうか。
太祖王建の出身地が開城地方であるといふことが旣に暗示して居るのみでなく、その祖先發祥の傳説にも、唐との通商のことが重要部分を占めて居ります。また太祖が弓裔の部將として活躍した時代の、最も大きな事蹟としては、海軍を率ゐて後百濟の光州・羅州方面を占領し、附近の海島をもとつて、百船將軍となり、南海の海上權を把握したことが注意されます。それとともに新羅末に南支那方面に使を出した新羅人の有力者に王氏を名のるものが著名であることを併せ考へると、王建は、當時東支那海に活躍した幾多の海商の一人ではなかつたかと思はれるのです。後百濟も、弓裔の泰封もともに南支那と關係を持ちましたが、特に王建は高麗王の位に卽いてから、頻りに後唐に使を出し、やがて高麗王に封ぜられ、その年號を奉じました。後唐についでは後晋・後漢・後周と、所謂五代諸國の冊封を受け、四代光宗の十四年(西暦九六三)、後周を伐つて國を建てた宋の冊封使を迎へ、これより以後、宋との通交は次第に發展します。滿洲勢力の下に服從せねばならなくなつてからも、この宋との關係を持續するために、多大の努力を拂ひ、そのことはまた滿洲勢力の壓迫を激發する結果となります。
高麗文化は、新羅のそれを承けついで、新らしくは五代及び宋の文化の要素を加へて成り立つたものといへます。從つて滿洲關係の起らないうち、五代・宋と自由な通交の出來た間は、自から一期をなし、高麗國基の定まるのはこの時代にあります。それは六代成宗の末年頃まで、國初から約六十年の間です。
太祖卽位のはじめは、萬事新羅の舊によつて、人民の安堵を第一に考へたやうで、官制の如きも、弓裔によつて一度改められたのを再び復舊し、民の習知に便ならしめて居り、王廷の文柄を執るものの多くが、新羅の舊臣であつたらうこともたやすく想像されます。それと同時に、太祖朝に來り仕へた呉越國文士酋彦規や朴巖、光宗朝の後周人雙冀などは、新しい人物として大いに高麗のために劃策したことでせう。雙冀は後周の冊封使に從つて來り、病のために留まつた人ですが、遂に擢用されて翰林學士となり、その獻議にもとづき、始めて高麗の科舉(文官試驗の制)が設けられ、文風これより興るといはれる人です。
成宗朝に高麗の國基定まるといはれるのは、この朝に、内外の官職制度が一新され充實されたことにあり、そしてそれは、大體に於いて唐の制度に則るものでありました。卽ち内に省・部・臺・院・寺・司・館・局あり、外に牧・府・州・縣あり、官に常守あり、位に定員あつて、内史門下省は百揆の庶務を掌り、御事都省は百官を總領し、三司は錢穀出納會計を掌り、中樞院は出納・宿衞・軍機の政をとりました。また地方の制度を革め、はじめ十二牧を置き、後ち改めて十道・十二州節度使となしました。内外の制度は、高麗一代には幾度か變革あつたとはいへ、成宗の制度改革は特に大規模な、基本的なものです。
(十道) (十二州節度使)
一 關内道 楊州左神策軍節度使 廣州奉國軍節度使
海州右神策軍節度使 黄州天コ軍節度使
二 忠原道 忠州昌化軍節度使 C州全節軍節度使
三 河南道 公州安節軍節度使
四 江南道 全州順義軍節度使
五 嶺南道 尚州歸コ軍節度使
六 山南道 晋州定海軍節度使
七 海陽道 羅州鎭海軍節度使 昇州兗海軍節度使
八 嶺東道 (慶州・金州)
九 朔方道 (春州・和州・溟州)
十 浿西道 (西京)
右の如き十道・十二州節度使の制は、其後更に一二の變遷を經て五道兩界の制となります。
(京) (牧) (府) (部) (郡) (縣)
一 楊廣道 一 三 二 二七 七八
二 慶尚道 一 二 三 三〇 九二
三 全羅道 二 二 一八 八二
四 交州道 八 二〇
五 西海道 一 一(大都護府) 六 一六 一
六 東 界 一 九 二五 一〇
七 北 界 一 二五 一〇 一二
さて成宗はかかる官制の整備に一期を劃したのみでなく、社會の風教百般にも意を留め、その卽位のはじめに當つて重臣に封事を上つらしめ、時政の得失を聞きました。その時上つた崔承老の二十八條に及ぶ疏狀は特に有名です。
承老は慶州の出年十二を以て高麗太祖に仕へて以來、文柄を委ねられた人、その二十八條のはじめに西北卽ち平安道方面の防戍のことを述べてゐるのは、意味極めて深いことで、今後高麗の大問題はこの方面に頻發するのであります。
崔承老がその封事のはじめに西北防戍のことを説いたのは、滿洲勢力の恐るべきを指したものに外なりません。新羅一統時代には、滿洲ではフルカ河畔に都する渤海國がありました。その南境は、今の咸鏡南道の南端、元山附近に及び、平安道方面では鴨麹]の航行は、大體渤海の自由にしたところですが、それ以南、大同江流域に至る一帶は、渤海・新羅兩國何れの力も及ばない謂はば無所屬の荒地帶となつてゐました。そのうえ、兩國ともその國勢はいはば求心的でしたので、その間に特別な交渉事件などはなくてすみました。
然し高麗太祖卽位後數年にして、渤海は契丹のために滅ぼされ、その民の高麗に投歸するものも少くありませんでした。契丹はシラムレン河のほとり、今の滿洲國興安西省の地方に興つて、内外蒙古を併せ、更に南方支那本部を目がけて進みました。宋が國を建てた頃、高麗光宗朝の頃には、契丹の勢力は今の河北・山西二省の北部に達して居り、この勢さかんな契丹と高麗との間には、上に申した荒地帶があつて、そこには女眞族が蟠居してゐたのです。早くからはじめられてゐた高麗の北方開拓は、結局この女眞族の按撫にあつたわけですが、契丹もまたこの女眞の服屬に着手し、遼東を定めて鴨麹]岸に達した頃には、高麗の拓地も旣に江岸に及んでゐり、ここに兩國の勢力は相觸るるに至り、やかましい問題が起ります。
高麗と契丹との接觸・交渉には凡そ二つの意味が認められます。一ツは右に申した女眞族を爭ふこと、二ツには契丹と宋との攻防の關係に對して、高麗はその側面に在りますから、宋に對しても、契丹に對しても、共に牽制力を持つてゐるわけです。この側面の力を利用せんとして、先づ高麗に著手したのは南方の宋であり、次に契丹です。
高麗がはじめて契丹の正朔を奉じ、屬國の立場に立つたのは、成宗十三年(西暦九九四)のことですが、其後穆宗を經て顯宗朝には、その來征を被ること數次、兵は王都開京に及び、王は難を避けて南行したこともあります。
顯宗の次に立つたコ宗は、契丹の内亂に乘じて北境に長城を築かしめ、前後十二年餘を費して成りました。西は鴨麹]畔に起り、脊梁山脈を越えて東海岸は咸鏡南道定平に及ぶ大工事で、今尚ほその遺趾をとどめてゐます。
顯宗朝は、高麗國難の第一期ともいひ得るでありませうが、その國難に際して特筆すべき事業が遂行されました。それは右の長城の工役にも比すべきもので、所謂高麗大藏經の初囘の彫造です。この事業は、傳へられる如く、佛力によつて契丹の災を攘ふために行はれたと解するには異論ありませうが、外難調伏と全然無關係に行はれたとすることもまた當を得ないでせう。とにかく顯宗朝から文宗朝まで六十餘年にわたつて繼續された大事業です。さうしてこれを更に大成せしめたのは、文宗の第四子祐世僧統(大覺國師義天)が、畢生の事業として遂行した續大藏經の蒐集と開板とです。義天の蒐集したところは、新編諸宗教藏總錄三卷によつて、その内容がうかがはれ、合計一千十部、四千七百四十卷の大量に上つてます。義天は文宗九年に生れ肅宗六年(西暦一一〇一)四十七歳を以て歿しました。時あたかも高麗國難の第二期、卽ち女眞の難の起らんとする頃であります。
さきにコ宗朝に着手されて宗朝に成つた長城は、契丹を防ぐと同時に、半島内に居住する女眞族をも防ぐ二重の目的を持つものでした。當時女眞の中心は、今の咸鏡道と、滿洲のK龍江附近と二つに分れてゐましたが、肅宗朝の頃にその北部のもの完顏部が漸く優勢となり、南部をも次第に併せ、高麗東北面の一大恐畏となりました。ここにその討伐は肅宗末年から睿宗初年にかけて實行され、尹瓘九城の役として有名です。瓘は十數萬の兵を以て之に當り、定平の長城外、咸興平野を占領し、九城を築いて還りました。然し女眞の報復の勢ものすごく、九城の地域はわづか數年にして返還されるに至りました。この後間もなく完顏部の耶律阿保機は諸部統一の業を成して、國を建てて金といひ、南に下つて契丹を討たんとし、それにつけては、高麗との和親にことさら意を用ひました。
契丹を敵とする點に共通目的を見出した金と宋とは、やがて連合して兵を出し、遂に契丹は高麗仁宗の三年(西暦一一二五)を以て滅ぼされました。然しそれと同時に金は宋を新しき目標として兵を進めることとなり、高麗はまたも宋・金兩國から助勢を要求されます。契丹によつて苦い經驗を嘗めさせられた高麗は、金の兵を招く愚を再びすることなく、宋・金に兩屬の形をとつて二重外交の巧みさを發揮しました。ところがこの頃に至つて高麗王室にとつて、契丹・女眞の外難と相對する内部の危期が漸く現實しようとして來ました。それは外戚李氏の專權と文臣に對する武臣の擡頭とであります。
さきの宗から仁宗に至る七代約百年は、高麗の中期、全盛期といはれ、文學・美術工藝・彿教と、あらゆる方面に於いて圓熟した一期ですが、その中に立つた高麗王室は、甚だ危い位地に置かれました。その第一の因は、文宗以來外戚となつた慶源(今の仁川)出身の李子淵が頓みに勢をほしいままにしたことにあります。卽ち文宗の后妃三人は李子淵の女であり、特にその一人の生むところが順宗・宣宗・肅宗と三代相ついで王位につき、子淵の孫、資謙の女は二人までも、その甥に當る仁宗に配せられてゐます。仁宗は十四歳を以て資謙に擁立され、文武の權はふたつながら資謙の手に納められ、李氏一門の榮華は我が藤原氏のそれにも似たものがありました。ここに王及び内臣等は武臣と謀つて資謙を仆さんとする計を立てるに至り、資謙は宮闕を焼き反對黨の多くを殺して自からを全うすることが出來ましたが、この犯闕のことによつて彼は流罪となり、李氏の榮華は一朝にして破られました。
右の事件についでは西京(平壤)遷都運動に端を發した僧妙C等の反亂あり、これより、從來王廷に勢を認められなかつた武臣の擡頭專横をもたらし、仁宗の次ぎに毅宗が立つと、大將軍鄭仲夫の亂となり、仲夫は文冠を戴くものは大小となく皆なこれを殺し、果ては毅宗を廢して明宗を立てるに至りました。この朝にまた鄭仲夫等を討つて前王を復せんと企てるものあり、それは不成功に終りましたが、文臣またこの舉にあづかつて殺されたもの多く、世は愈〻武臣のものとなりました。
其後武臣の權力を收めたのは、同じく將軍出の崔忠獻で、彼は明宗を廢してその弟神宗を立て、更にこれを廢して康宗、次ぎに高宗を立て、牛峯崔氏四世專權の基を開きました。かくて高麗王廷の異變相つぎ、國權の所在、漸く他に移らんとする時、三たび國難は外部から來り、王位はために、却つて存續するを得ました。
さきの慶源李氏一門の繁華を我が藤原氏のそれに比し得るとすれば、牛峯崔氏の執權は、我が平氏のそれにたとへることが許されるでせう。崔忠獻の家系としては父なる上將軍崔元浩以前は知られて居ないのをみても、決して古い家柄でないことが分ります。崔門の勢譽は、殆んど忠獻の一代七十年の間に築かれたものです。彼によつて擁立された王は四人、彼の爲めに廢せられた王が二人、これをみても彼の專權振りは想像に餘りあることです。
明宗を廢して神宗を擁立してから、忠獻は不測の變を恐れて、大小文武官を私邸に招致し、此れを六番に分ち、順番交代して宿直せしめ、號して都房と言ひ、又その出入の折は六番のもの總べてをして、衞り從はしめました。軈て其の外戚盧琯と共に私第に於いて文武官を注擬し、爵を鬻ぎ、爲めに史部・兵部の長官は唯だ官衙に坐して檢閲する空位の官となりました。斯くなるに及んでは、高麗の政治は都房政治ともいふべきです。都房は、忠獻以前、かの鄭仲夫を誅した將軍慶大升に始まるやうですが、然し大升の時までは、未だそこで注擬が行はれるやうなことはありませんでした。都房政治は一面我が幕府政治にも似たものです。
さて忠獻は、彼が最後に擁立した高宗の六年(西暦一二一九)九月に、その私第に卒し、その子崔瑀(改名、恰)が代りました。時に高麗にとつては由由しい外交問題が、新たに發生して居りました。それは蒙古との問題です。
高麗が蒙古を知るに至つたのは、高宗四年の頃で、それは蒙古の太祖鐵木眞が今の滿洲國興安北省外、オノン河畔に卽位の式を舉げて成吉思汗の號を稱してから、十二三年を經た頃です。ことここに至るにつけては、蒙古を半島に導く二つの事件があつた事をいはねばなりません。成吉思汗が南下して北支那に金の本據をつかんとする時、遼東方面にはさきの契丹の遺民が金に叛して狐立せんとするものあり、又金の叛將蒲鮮萬奴なる者が、豆滿江流域に據つて國を立て、東眞國と稱しました。契丹の遺民は、金及び蒙古に破られた果ては鴨麹]を渡つて一舉南侵、高麗の忠州・原州の附近に達し、此處で大敗してから江原道を經て一旦咸鏡道の女眞の地に入りましたが、再び南下して京畿・黄海兩道方面に出で、高麗の將軍趙沖に追はれて平安南道の江東城に包圍されました。これは高宗五年のことです。高麗は、翌年蒙古及び東眞國の援助を得て漸くこれを討つことが出來ましたが、其の代償として兩國に對して兄弟の約を結び、年年貢賦せねばならなくなりました。
江東城攻戰の後ち數年にして蒙古では成古思汗は薨じ、太宗が立ちました。太宗は南方、金の討滅に力を注ぐと共に東方、高麗に威壓を加へ、兵を入れて開京を圍みました。高宗は已むなく降服を誓ひ、高麗の王都以下府・州・縣には、蒙古の達魯花赤(知事)といふ役人が置かれて、行政の監督に當る事になります。
蒙古太宗の軍が引き揚げて直後、高麗政府にとつて重大事が決行されます。それは王都を開京東南の海島なる江華島に遷したことです。十九年壬辰(西暦一二三二)七月、王は島に渡り、ここに江都時代は開始されます。この舉は、表面はどこまでも蒙古の難を逃れ、王室の安全を期する目的を以て決行されたことです。そして結果よりみれば一應その目的に對して甚だ有効な措置であつたかの如くみえます。けれども當時の王室が如何なる位地に在つたか、政治の實權が何處にあつたかを顧みれば、この計畫者の中心が、かの崔怡その人であつたらうことは推測に難くなく、遷都はむしろ崔氏都房の所在の移動とも解し得るでせう。蒙古は、この入島を以て叛意の表微となし、しきりに兵を出して半島の各地を攻略し、民のその災害を受けたことは莫大なものがあります。江都時代は、かかる民の犧牲によつて繼續されました。
世界征服の蒙古が、高麗をして短期間に還つて陸地に就かしめ得なかつたのは、蒙古兵の弱點、海に弱いといふ缺點が、江華の天險をu〻天險たらしめ、在島の王以下は、海路南鮮の税米物資を障害なく取り入れて、生活に不自由を缺かなかつたこと等に基づくものでありませう。
遷都の中心人物崔怡が島中に死すると、蒙古に對する態度は直ちに軟化して、蒙古永年の要求であつた出陸朝觀に一歩近づきました。卽ち江華島對岸の陸地に新しく宮闕を創めました。然し怡の後を承けた崔は、この時江華に中城を築いて防備を更に嚴にし、なほ在島を強調しましたので、蒙古は兵を揩オて來り臨み、その災害は前後未曾有といはれるに至りました。そのうちに崔も病死し、その子崔竩また殺されて、四代六十年に餘る崔氏の權力はここに覆され、蒙古に對する方針も、稍〻改められて、遂に王は舊都に還ること、太子を遣し朝見せしめること等を約し、先づ太子は蒙古に向けて出發しました。高宗四十六年四月のことで、入島以來二十八年です。しかも是歳、蒙古使の監視のうちに、江華の内城・外城が破壞し始められた時、高宗は島に薨じました。
高宗島中の生活は、崔氏の專横と、連年の蒙兵の侵害との間に營まれたのであり、その最後の如きは、まことに劇的な場面ですが、ここに特筆すべきは、この内外多難の際に、高麗の一大文化的遺物は成就したのでした。さきに顯宗・文宗の間に大藏經がはじめて半島に彫造されたことを申しましたが、その板木は高宗十九年、卽ち入島の歳に、今の大邱郊外にあつた符仁寺で、蒙古兵のために烏有に歸しましたので、數年を出でず、君臣は佛力によつて現下の蒙兵の難をはらはんものと、島中に所願を立て、改めて第二囘の彫造を開始し、主として全羅道方面、板材の豐かな地方に命じて事に當らせ、前後十六年にしてその工を終へて居ります。この板木は今、慶尚南道伽仰山海印寺に寶藏され、佛教文獻史上極めて高く評價されてゐるものです。
さて、約に從つて太子は蒙古に入朝し、崔氏の中心はたふれ、江都は破壞され、舊京には復興の業が創められても、まだ本當の還都は實現されません。三十年に近い江都の生活は、案外の根をそこに張つてゐたのです。太子は蒙古から歸り來つて王位(元宗)につきましたが、以後十年、江都時代はなほ續けられます。その間、國攻をほしいままにしたのは金俊、それについでは林衍で、林衍は遂に元宗を廢して、一時王弟を位につけましたが、蒙古の世祖忽必烈の嚴責によつて、元宗を復位せしめ、間もなく悶死し、その子の林惟茂も斬られました。かくて元宗は漸く舊都に還るを得て、前後三十九年の江都時代は終局したのです(西暦一二七一)。
元宗はかくして内廷の權臣から脱れることが出來ましたが、その時はまた蒙古のとりことなつてしまつた時であり、これより蒙古服屬の時代に入ります。さうして、先づ負はされたものは、蒙古が我が國に修好を求めんとするにつけての東道といふ大役でありました。
高宗が島を出でんとして島に歿した頃、蒙古では世祖忽必烈が位に卽き、間もなく國號を元と稱し、その國勢は一展せんとしました。太祖成吉思汗以來、蒙古の目ざすところは、もとより南支那は宋の討滅に在り、區區たる高麗にあつたのではありません。然し高麗の去就は、蒙古の南征にとつて、さのみ輕輕視すること出來ないことも、宋と高麗との關係を考慮すればたやすく肯かれるところです。しかも南征の業は、太祖以來早くも二十餘年を過ぎてゐます。新しき英主忽必烈は、南に向ふに當り、先づ兵を二分また三分する不利を覺りました。これまでしきりに武力を以て臨んだ對高麗策はために緩和されました。高宗の訃報が蒙古に至つた時、折柄入朝の高麗太子を還し王位(元宗)に卽かしめた次第には、世祖の懷柔策がよく認められます。
かかる方針に出た世祖が、次段に教へられ、考へついたことは、高麗を經由して、海路南宋を討つことの便uでありました。元にとつての高麗の位置は、とみに一變したといへませう。つづいて高麗人趙彝によつて我が國の事情が告げられ、日本と南宋との關係は、また新しく世祖の顧慮を要する問題となりました。元の日本通好の企てはかくして起つたのです。最初の使者K的と殷弘とが命を奉じて高麗に來たのは、元宗の七年十一月で、これより事は始まります(西暦一二六六)。
世祖の日本顧慮に、どれほどの妥當性があつたかは別問題として、こゝにその前後の頃の日宋・日麗關係を考へますに、古く高麗太祖には日本通交の意志あり、半島統一の直後、再度使を遣はして通交を求めましたが、その儀禮態度に於いて、古來我が國が半島諸國に臨んだ傅統的感情と相容れぬものあり、また我が對外方針が退嬰的傾向に固定しつつあつた等の事情によつて、公の通交關係は成立せず、そのままこの當時に及んでゐました。然しその間、漂流人の送還などによる彼我使者の往來は屡〻行はれ、他面私的關係に於いては、前代新羅末にその萠しを示した商人の來航貿易するもの次第に活溌となり、我が太宰府の門戸博多ノ津また薩摩の坊ノ津などは、高麗・宋の商人に賑はひ、これに對して我が商人の彼に渡つて貿易を營むものもすくなからず、三國の私的通商關係は意想外にも複雜でありました。かかることは平安時代から、平氏の時代を經て鎌倉幕府成立に及んで愈〻盛んとなり、特に幕府は關東に在つて、西國の統制は自から弛み、彼方の宋は北敵の侵略に苦しみつつ、常に我が通商を歡迎したので、商舶の往來は頻りに行はれ、彼我僧侶の渡海も繁く、南宋文化の輸入とその影響は顯著なものがありました。また我が商人には高麗との間に特に定約して毎年所謂進奉船を出して金州(金海)に至るものもあり、高麗はこの地に客館を設けて彼等を接待しました。これらのことをかへりみれば、元が高麗を服して宋に臨むに當つて、我が國を顧慮したことは當然と考へられます。
さて元は我が國に通好を求める使者を出し、高麗をしてその嚮導に當らしめんとしたに對し、高麗は言を左右に托してこれを避け、事件の發展を畏れたのですが、漸く使者は我が國に來ても、その使命は遂に我が國に拒絶せられ、かの文永十一年(元宗十五年)・弘安四年(忠烈王七年)兩次の所謂元寇となつたのです。元寇の顛末は周知のことで、今更に述べる要もありませんから、ここでは主として元宗七年から前後殆んど二十年近い長期にわたつて行はれたこの交渉・事變のために、高麗は如何なる負擔に甘んじなければならなかつたかをみることとします。
元が日本通好に著手した後ち五年、半島慈悲嶺以北は元の領域に編入され、西京(平壤)に東寧府が置かれました。これは直接には、高麗の反臣崔坦が西京以下六十城を以て元に投降したからですが、一面、南宋經略ならびにそれにともなふ日本招諭の用意でもあつたことと推測されます。東寧府は文永ノ役の當年、陞して東寧路總管府とされ、弘安役の後ち九年にして廢せられ、慈悲嶺以北は再び高麗の有に還ります。
元は東寧府創置の年、また五千の兵を遣はして開京・西京・金州(金海)以下すべて十一箇所の要地に屯田を置きました、これも我が國に對する用意たること明かです。
さて我が國との交渉成らず、遂に兵を用ふることになつては、高麗の負擔が愈〻大きくなつたのはいふまでもありません。第一囘の渡海文永役に用ひられた軍船は、大小併せて九百艘、それは全羅道の邉山及び天冠山に於て、工人三萬五千餘を使役して造られた高麗船でありました。また同年渡海の軍は、忻都・洪茶丘等に率ゐられ、總勢二萬六千、そのうち高麗軍は六千に過ぎませんが、殘り二萬のうち、五千はさきの屯田軍、一萬五千は新たに派遣された蒙古軍及び宋人から成る水軍で、それらは皆な高麗を經由して合浦(馬山)から船を出したのです。
四萬の大軍は、先づ對馬・壹岐を襲ひ、進んで筑前に迫り、我が小貳・菊地・大友の諸軍と博多灣頭に戰ひました。我が軍苦戰奮鬪して漸くこれを退けた折柄、忽ちの暴風に遭ひ、元軍は辛うじて逃れ去つたのです。
この失敗にも懲りず元はまた使者を送り、國書をもたらして前意をかさねましたが、我が鎌倉幕府では北絛時宗の態度愈〻硬く、西陲の防備は著著として進められてゐました。かかる間に元は永年の宿題であつた南宋を漸くにして滅ぼし、その翌年を以て、第二囘の出兵を我が國に對して決行します。
今囘、卽ち弘安役には、新しく元の領土となつたばかりの南支那からと高麗からと、二方から兵は發せられました。前者(江南軍)は范文虎に率ゐられる三千五百艘の戰艦と、十萬の南宋人から成り、後者(東路軍)は前囘と同じく忻都・洪茶丘に統率される九百艘の船と四萬の軍から成つてゐます。四萬のうち、高麗兵は一萬で、船は勿論高麗で造られたのです。東路軍先づ至り、博多に迫りましたが、我が防戰・夜襲になやまされて上陸し得ず、江南軍は期に後れて七月漸く來著し、まさに兩軍合して軍を整へんとする時、七月晦日夜半の神風によつて覆沒、僅かに殘る敗兵も、我が軍の捕獲するところとなりました。
かくて元の世祖忽必烈の、前後十六年にわたる企圖は全く水泡に歸し、これがために高麗の餘儀なくせしめられたとこころは、右の如き多數の戰艦の建造、軍兵の提供のほか、水手等雜役の供給、通過の元軍の食糧などの大半は高麗の受持つたところであつて、前後その負擔の總量は有形無形、著しいものであつたとせねばなりません。
さて元宗は初囘の軍の出發三箇月前に薨じ、時に世子ェは元の都(今の北平)に在つて元の世祖の女、齊國大長公主を妃に迎へた直後のことで、世祖は直ちにェを高麗國王に冊封して國に還らしめました(忠烈王)。元宗卽位の頃から旣に高麗は元の藩屬國となつてゐましたが、ここに至つては關係は愈〻密接となり、次に立つ忠宣王は、その齊國大長公主の所生です。これより後ち忠宣・忠肅・忠惠・恭愍の諸王は、すべて元室出の公主を妃とし、卽ち駙馬王であり、元室と高麗王室とは舅甥の間柄となりました。このことは、單に王室の蒙古化を招いたにとどまらず、社會一般にも多方面の影響を投じたと思はれます。蒙古的風俗の流行は最もあらはなことであり、そのほか言語なども蒙古語が入つて常用語となつたものが、幾多ありはせぬかと考へられます。何故ならば、元の支配は、專ら元自體の利uのためのものではありましたが、前後殆ど百年の間、半島に及ぶからです。
元寇の大難を經て、元と高麗との關係が上に述べたやうに一段落してから高麗王は江都時代とはまた異なる意味に於て實際の政治から離れてしまひました。世子はもとより、王自身が元の大都に在つて、開京は空位となり、宰臣は大都よりの號令によつて留守をあづかるといふことは、しばしばであつたのです。
かかる不自然な情態のもとに於いて、一般人民の生活が幸福であり得やう筈は決してありません。それを更に新たにしたのは海寇です。
元寇の後ちをうけて、我が國民の海外に渡航して貿易を營むものは愈〻その數を揩オ、時にその貿易が意のままに行はれぬ時は、非常手段に訴へることなどもありました。(さきに申した金州の客館―接待所―は元寇以後廢止されてゐました)。かやうな事態は、當時我が國に於ては西邊の統制馳緩し、それに加へて半島から大陸沿岸一帶では防備甚だ手薄であつたことなどがその勢を助長して、遂には常に亂暴を事とする徒輩を出ださしめたことと思はれます。かれらの行動に、元寇に對する敵愾心がどの程度まで働いたかは甚だ疑問で、それは彼我の社會狀態が自からに導いた現象で、かの平安朝中期の新羅の海寇と同じく、やはり時代の所産に外ならぬと解すべきでありませう。
海寇と名づけらるべきものの史上に見えるのは、ずつと古く江華遷都以前に始まるやうですが、高麗が痛切にその害を感ずるに至つたのは、元寇の後ち約五十年、忠定王初年からで、京畿以南の諸道は殆ど連年その殘害を蒙り、やがて高麗の流民がその嚮導に當つて、被害は沿海地方から内地に及び、單に所在の米倉等が荒らされるのみでなく、税米運送の船舶などは、海上に於いて拿捕され、その勢は年ごとに愈〻猖獗を極めるに至りましたから、その害は上にも下にも、海にも山にもみられたのです。高麗人の内應し、また海寇にまねた行動をとるものをも生じ、かくて海寇對策は、恭愍王代以後高麗末期の重大問題となります。
恭懲王が王位に卽いた頃は、元の順帝の治世で、時に元室の勢威は漸く衰へ、盜賊各地に起つて、或は國號を建て尊號を自稱するものなどありましたが、就中揚子江方面に勢を養つた朱元璋なるもの最も著はれ、彼は金陵(今の南京)を根據として數年の間に支那の南半を併せ、遂に北進して、元の大都(北平)を占領するに至りました。順帝以下、元の君臣は北に逃れて開平(上都、今のチヤハル省多倫縣の北西)に遷り、朱元璋はこの年、金陵に於いて帝位につき、國號を明と稱しました。高麗恭愍王十七年のことです(西暦一三六八)。
これより先き恭愍王は、卽位後數年を出でぬ頃、早くも元の衰勢に乘じて、東北面(咸鏡道)の、從來久しく元の領域に浸してゐたところを囘復し、西北では鴨麹]を渡つて北進の勢を示しました。然し間もなく明の使者は來つて高麗を招諭しましたので、高麗も之に對し一時、服屬の意を表するに至りました。
さて高麗では、恭愍王の政治がその前半に似ず後半甚だ亂れ、僧遍照(俗名辛旽)を寵用して、朝臣の忌むところとなり、辛旽は誅せられ、王また在位二十三年にして宦者の爲めに弑せられ、王子江寧君禑は、僅か十歳にして侍中李仁任に擁立されました(前廢王)。
開平に遷つた元(北元)はなほも餘勢を張つて明に當らんとしましたから、明の太祖はこれに對し先づ遼東方面の經略を開始し、北元はまたしきりに使を高麗に遣はして援軍を求めます。高麗の朝臣は親元と親明の二派に分れ、方針一定するところありませんでしたが、その間遼東の混亂に乘じて自から利せんとし、親元派の中心人物であつた崔瑩は、曹敏修・李成桂兩將をして、遼陽に明の遼東都指揮使司を攻めしめました。兩將は軍を率ゐて鴨麹]中、威化島に至り、ここに軍を留め、上書して明を攻むることの不利を説きましたが、瑩の容るるところとならなかつたので遂に軍を囘し、逃ぐる瑩を追ふて開京に還り、瑩を流し、王禑を廢して王子昌を立てました(後廢王)。
ところが間もなく前廢王禑の復位を圖る隱諜が發覺したことを機として、當時最も勢力を有した李成桂は、また王昌を廢し、定昌君瑤(恭讓王)を擁立しました。これより成桂の勢はu〻張り、王氏に代つて李氏開國の氣運至り、それに反對する鄭夢周(圃隱)及びその一派が除かれるとともに、恭讓王は位を讓り、李成桂は與黨に推されて開京の群昌宮に卽位しました。時に成桂は歳五十八でありました(西暦一三九二)。
李成桂は、卽位の當時は、國號もなほ高麗といひ、諸般の制度みな舊のままでしたが、先づ使者を遣はして明の承認を求め、許されるとともに國號改稱の命を受けて朝鮮と定められ、ついで地を相し、都を漢陽卽ち今の京城に遷し、景福宮を創め、新王朝の基地としました。明の承認を得るといふことは、とりもなほさず明の權威によつて王權の保障とするもので、それは對外的といふよりも對内的に必要な條件です。この明を宗主國と仰ぐ所謂事大政策は、太祖によつて樹立されたのですが、なほ二代定宗までは朝鮮國王の冊封を受けることは出來ず、三代太宗に至つて、はじめて國璽を賜はり、完全に明の屬國となりました。
李朝五百年の歴史を顧る出發點は、太祖李成桂一代の經歴を吟味することに在ります。太祖は高麗忠肅王四年乙亥(西暦一三三五)、今の咸鏡南道永興郡K石里に、李子春の第二子として生れました。その遠い祖先は、今の全羅北道全州(完山)の出自と傳へてゐますが、少くとも太祖祖父の頃からは、旣に咸鏡道に居住してゐました。これが第一の要件。次に太祖は武功を以て高麗王廷に地位を得た所謂武人です。その武功は、北方の女眞人征伐と、南方の海寇防禦とに於いて認められた、これが第二の要件。第三の要件は、かの威化島の囘軍を機として、新興の明に臣事する態度を表明して、親明・親元二派に分れてゐた當時の高麗王廷に一定の方策を樹立し、その盟主となり、遂にその擁立した恭讓王の讓りを受けた形式によつて王位に卽いたことであります。
李氏の出身地が今の咸鏡南道永興であることが何故に意味深いかといへば、その地方は從來高麗の領土外に在つたからです。蓋し高麗の北方開拓がその全時代を通じての一大使命であつたことは旣に言及して置いたところです。但し北方といつても西北方面(平安道)では、事件も多く、出入も複雜ではありますが、可なり成功して大略鴨麹]畔に達することが出來ました。それに對して東北方面(咸鏡道)では、或る時は鐡嶺(江原道の北境)、或る時はやや進んで、定平郊外の長城を限りとし、以北は、遼・金・元の北方諸國の領土とされてゐました。睿宗王代尹瓘九城の役として名高い女眞征伐には、一時咸興平野を占領したこともありますが、それはほんの數年にして、また女眞に還附せなければなりませんでした。
かやうにしてこの地方は、概して北方との關係が強かつたとはいへ、その住民たる女眞人は傳統の部族生活を繼續して別天地を營み、南北からの移流民もしばしばみられました。李氏數代は、實にかかる女眞部族の境地に於いて成長したものであります。
李氏が高麗に歸順するはじめは、恭愍王が元の衰頽に乘じて東北・西北相應じて兵を出し、領土擴張をはかつた時、太祖の父李子春が内應助軍したことにはじまります。子春はその功によつて兵馬の官を授けられて咸興に鎭し、太祖はまた父のあとをついで、更に北方の女眞征伐に武功を立て、漸く中央に用ひられるに至りましたが、その根底・背景には、祖先以來撫育した女眞人の力を重く認めねばなりません。
思ふに朝鮮史に於ける李朝時代の史的使命の一つは、現今の朝鮮地方の彊域を大略劃定したこと、言ひ換へれば從來比較的所屬不確實であつた咸鏡道及び平安道奧地を半島の政治圈内のものとしたことであります。その事業に成功したのは、李氏の出身地そのものが、それを旣に豫約してゐるかの如き感がします。この北境經略の問題は、五十年近くの歳月を經て、四代世宗王代に至り、東は豆滿江以南の地を收めて六鎭(鍾城・會寧・慶源・慶興・穩城・富寧)を設け、西は鴨麹]上流地方に四郡(茂昌・虞芮・慈城・閭延)を置いて一段落します。
次に海寇を討つて名を著はした太祖は、卽位に至つては、當然のなりゆきとして、その善後處置に當りました。海寇對策としては、旣に半島に至つたものを討つのは消極的な手段であることいふまでもありません。その本據の地に於いて、その地の主權者によつて發航を抑壓してもらふのを最も賢明の策とします。故にこの禁制については、旣に高麗時代からしばしば使が遣はされ、それに答ふる九州探題の使者も渡海したこともありましたが、太祖は卽位元年早くも使を出して室町幕府に好を通じ、禁制を請はしめ、それとともに、京畿・慶尚・全羅三道に防備の官を出したり、また投降の者には官職を與へてその懷柔に資するなど、各種對策の方針を示しました。二代定宗の元年、我が應永六年(西暦一三九九)に至り、前將軍足利義滿も使を遣はして答書を送りましたので、ここに室町幕府と朝鮮との修交が成立しました。其後彼我使節の往來頻りに行はれ、朝鮮からは、將軍足利義政の時まで、數次の通信使が來り、京都に至つて將軍のために慶弔、修好の意を通じ、幕府からもまた朝鮮國王の吉凶慶弔の使、或は大藏經などを求める使者が出されます。その使者には京都五山の僧侶が充てられ、一行は王都(京城)に至り、鄭重な接待を受け、また隨行の人人は貿易を營むことも出來ました。
公の修交がかくの如くして發展したとともに、其他の私の渡航者に對しても、朝鮮はつとめて優遇し、且つ自由な貿易通商の便を與へましたので、所謂海寇は自然平和な通交貿易者となり、諸大名・諸寺社・商賣の、使船を出すもの漸く多く、やがて朝鮮ではその應接に苦しみ、世宗の頃には貿易の制限に關する定例が自然に立てられ、渡航の港を限つて乃而浦(齊浦、慶尚南道熊川)、富山浦(釜山)、鹽浦(蔚山郡鹽浦)の三浦とし、或は毎年渡航の船數を定めたり、渡航者の手續きを規定したりしました。
かかる傾向は世宗二十五年癸亥、我が嘉吉三年(西暦一四四三)對馬宗氏と朝鮮との間に結ばれた條約によつて一段落を告げます(嘉吉條約、癸亥約條)。これによつて宗氏は、朝鮮關係のことをほとんど一手に掌握する形になりました。
この後ちのことをついでに少し附け加へて置きますと、右の篠約以後我が西邊の人人は、宗氏の紹介によつて渡海しましたが、六十餘年を經た中宗五年庚午、さきの三浦に居留する對馬島人が、年とともに勢を得て來た時、貿易壓迫のことから、宗氏は兵を出して齊浦に攻め人り、三浦の居留民も之に合流して騷動を起しました(三浦の亂)。この事件によつて對馬と朝鮮との交りは一時絶えます、然しかくては對馬の死活にかかはる問題ですから、宗氏は室町幕府に訴へて復舊をはかり、幕府は大内氏をして交渉せしめました。交渉の結果、亂の翌翌年新たに條約(永正絛約・壬申約篠)が出來、宗氏との貿易は、制裁の意味を以つて削減され、三浦のうち釜山・鹽浦の二浦は鎖されて齊浦のみが許されるに至りました。其後約三十年を經た中宗三十六年、我が天文十年(西暦一五四一)またも齊浦で對馬人とその地の住民との喧嘩が起り、三年の後ち居留・貿易の港は釜山に移されました。
以上は、太祖の遺業=南北二つの大問題が、四代世宗の頃までに成就された次第を述べて、ついでに其後の我が國との關係の大事を一二附諭したつもりです。かかる對外問題の解決に對しては、内部の整頓も顯著として進み、文化の興隆も期して待つべきものがありました。
世宗王代は文化の方面に於ても一期を劃する時代です。前代高麗末期以來の風潮はここに實を結びました。高麗末は政治的には混亂した時代でしたが、文化的には活溌な一面を持つてゐます。それは元に服屬以後、高麗の朝臣の元都に往來、逗留するもの多く、そこには南宋の文人の來り住むものもすくなからず、彼我交遊の間に、南宋の思想學問の新しい刺激を受けたこと、また元が高麗人にも科舉の試驗を受ける資格を許し、内外共通の試を行ひ、これに官職を付與したことなどが主な原因となつたと考へられます。また忠宣王が元都に萬卷堂を構へて文士周旋のところとしたことや、元の皇太后が南宋の秘閣から將來した經籍四千三百七十一冊、一萬七千卷を忠肅王に賜はつたといふことなども傳へられてゐます。
高麗末の朝臣文士は、多く李朝に移つて、その初期の文運を擔當しました。その人人による名ある述作編纂書は、國初半世紀に多數遺されてゐますが、先づ公の意味を持つ、謂はば官撰のもの二三をあげてみますと、第一は太祖以下の實錄です。實錄とは王が薨じますと、その王一代の事蹟・事實を、年月にかけて編修したもので、それは遠く支那の古例に倣ふものです。半島では旣に高麗の初期から行はれて居りました。李朝になつてもその例を踏襲して、太祖實錄は三代太宗の時、河崙等によつて一度撰進されましたが、世宗の末年再び鄭麟趾によつて改修され、漸く出來上り、二代定宗實錄及び三代の太宗實錄は、世宗の初年に成りました。この三代の實錄が定稿に至つたといふことは、深い意味のあることで、これによつて李朝開國の次第、また創業の艶_は後代に明示されたわけです。今後實錄は李朝末期の哲宗實錄に至るまで、代代の重要な責務として繼續編修され、而もそれは一部でなく、はじめ四部を書寫また印刷して、王都(春秋館)の外、星州・全州・忠州・の三箇所に史庫を設けて奉安し、永存を期し、後には五部印刷となり、王都・江華・慶尚北道太白山・江原道五臺山・全羅北道赤裳山の五箇所に分置され、今日李朝の歴史を研究する人人にとつて最も整つた根本史料とされてゐます。總て約千七百卷、千二百冊。
次に舉ぐべきは前朝卽ち高麗四百七十年の歴史の編纂です。前朝の歴史を編むこともまた支那古來の通例となつてゐます。高麗仁宗朝に新羅・高句麗・百濟の「三國史記」が編まれたやうに、高麗の歴史については、李朝太祖の時から著手され、先づその末期卽ち恭愍王から恭讓王までの實錄を編してそれ以前歴代の實錄に加へ、ついで、體裁を改めた「高麗全史」の編纂となり、それは世宗薨去の翌年(西暦一四五一)出來上りました。今世に行はれてゐる「高麗史」(一三九卷)がこれです。その翌年に「高麗史節要」(三五卷)が出來上りました。かく、王朝が變つて早早に前朝の歴史が編まれたことは、文獻の保存と整理に於いて、幸なことでありましたが、その一面には王朝更迭の際に於ける事實を、新王朝の立場から明記して置く必要にも基いたものでありませうから、かの李朝初期三代の實錄の編輯と相表裏して、李朝開國の思想的根柢を示すものであります。
第三はやはり世宗朝に撰進された朝鮮八道の「地理志」です。地理書の編纂が、實際の政治の基本的知識を明かにすることはいふまでもないことで、山林・田野の廣さ、人物の出自、水陸運輸の經路などを知ることは爲政者の切竇緊要のことであり、更にそれらの各種各方面の記述を一部の書物としてつくり上げることは、社會の安定、人民の定著、租税徴收の妥當をはかるためのものでもあります。世宗朝に半島全部にわたる統一的地理書が出來上つたことは、謂れ深いことです。それは世宗六年に著手、十四年に至つて尹淮・申檣等によつて一旦編成され、後に一部分摯竅A世宗實錄附錄の地理志となり、更に數年の後には詩文などを加へた「東國輿地勝覽」として大成され、これは其後數囘の改修を經て「新搏建輿地勝覽」(五五卷)として現存してゐます。所謂「朝鮮八道」の制は、この書によつて最もはつきりと見ることが出來、現在の十三道制が、ここに淵源することは、八道の名によつても、容易に知られませう。
(府) (牧)(大都護府)(都護府) (郡) (縣) (屬縣)
一 京 畿 一 四 七 七 一九 五
二 忠C道 四 一一 三九 九
三 慶尚道 一 三 一 七 一五 四〇 五四
四 全羅道 一 二 四 一二 三八 三
五 黄海道 二 四 七 一一
六 江原道 一 一 五 七 一二 一二
七 咸鏡道 一 一 一二 四 四 二
八 平安道 一 三 一 六 一八 一三
(計 五 一九 四 四五 八一 一七六 八五)
第四は法典の完成です。このことも旣に太祖の時にはじまり、先づ經濟六典となり、次次に下される新條令は、その改正摯竄促がし、太宗・世宗・世祖朝、幾度かの修正事業は相ついで行はれ、次代睿宗元年(西暦一四六九)に至つて、その功を終へ、翌翌年「經國大典」(六卷)として頒布され、李朝の制度典章の大本はここに樹立されました。大典は吏・戸・禮・兵・刑・工の六典に分れ、それはさきの經濟六典以來の編成樣式を襲踏したものですが、更に溯れば唐六典、近くは明會典などの支那法典にも基づくものです。從つてその禮典の如き形式を重んずる部分の外は、前朝來の習慣法を整理立條したもので、半島社會の實情に卽したものでした。故に今後永く祖宗の選制として政務の原則とされ、輕輕しく改廢することを許さず、改正に當つては嚴絡なる手續を必要としました。
かくの如き書物の編纂と密切の關係ある印刷術に關しては、高麗末にはじまる活字の使用が盛んとなり、太宗・世宗の間に銅活字の鑄造されたもの總數數十萬といはれ、有名な朝鮮活字の基礎をなしました。我が國の慶長活字の母體はこれです。
更に廣く初期の文化全體を考へますと、文學・美術・工藝と、各方面に著しい遺品遺作をあげることが出來ますが、中でも最も一般的な朝鮮文化史上、劃期的一大事ともいふべきは、國字卽ち諺文の創作でありませう。
諺文とは、ローマ字などと同じく單音文字で、世宗の二十八年(西暦一四四六)に「訓民正音」として公布されました。最初は母音・子音合せて二十八字から成つてゐましたが、其後二三の變遷あつて、現在は母音十一字、子音十四字、計二十五字で、この組み合せによつて自由に朝鮮語が書寫されるのです。[表省略]
蓋しこの當時までの書寫は、公には漢字漢文を以てするを正式としたこといふまでもありません。漢字を用ひ、その音や訓を借つて、朝鮮語をそのまま冩す法も、旣に新羅一統時代から行はれてゐますが、漢字を脱却し得ない限りその普及性は甚だ乏しいとせねばなりません。我が國では早くも奈良時代に假名の創造が見られ、國民文學の勃興を促しましたのに比ぶれば、朝鮮に於ける諺文の發明の、餘りに遲きに驚かざるを得ませんが、然しとにかくここに、それが公布使用せしめられたことは、朝鮮文化史上實に空前のことといはねばなりません。さうしてこの諺文の源流については、古篆説・象形説・梵字説・西藏文字説・蒙古文字説など數説あつて未だ定説をみないのですが、前後の歴史事情から推して考へれば、蒙古文字説、卽ち蒙古文字にならつて造り出だされたとする説など、最も考へられ易いところであり、またたとへ直接さういふ系統をひくものでないとしても、かかる文字を造り出ださうとした氣運そのものは、やはり高麗末以來の元との頻繁な交通往來、それから受けた刺激が大いにあづかつて力あるものではあるまいかと思はれます。
諺文の制定公布がもたらした第一の結果は、民意の暢達、文化の普及にあることいふまでもありません。そのために却つて爲政者の保守的な人人は諺文禁止の意見さへ出したことがあります。
李朝の國本ともなるべき工作は、かくの如くして行はれ、かくの如くして堅められましたが、然し一般民衆の生活は、また何を基準として統制され、何を中心題目として規範されたでせうか。
李朝に於ける民衆の生活基準を考へる人は、佛教に對する儒教を思ひ浮べるでせう。なるほど佛教が高麗の國教であるとすれば、儒教は李朝の國教といへます。けれどもこの彿教から儒教への轉換は、單なる民衆生活の問題といふことは出來ません。それは先づ政治的社會的問題でありました。
高麗の佛教は、その初期から國家鎭護の功コを認められ、寺院はことさらの加護を受けましたので、新羅中期以來の貴族佛教的傾向は愈〻發揮され、上下の尊崇をあつめ、それに伴ふ經濟的實力は甚だ搗蛯ウれました。經濟方面のみを主としてみれば、寺院は田土と奴婢とを擁して、一般貴族と同一の性質を持つてゐたことがわかります。
かかる政治・經濟兩方面に於ける特權と實力とは、然し高麗四百數十年の經過のうちに、佛教の健全なる信仰・思想の發達を阻害して僧侶の墮落となり、遂には識者の排佛論を起しました。佛教の艶_的頽廢があらはになれば、その物質的實力が爲政者の注意の的となるのは當然なことです。
李朝の建國に際しては、前朝の王室・貴族の田土・奴婢が、新王朝をとりまく重臣たちの所有に置きかへられたとともに、寺院のそれらも亦た多大の變動を受けねばなりませんでした。太祖は先づ度牒の制といつて、僧侶になるには官の許可を必要とし、その許可を受けるためには規定の税を官に納めしめて、僧侶の數を制限し、次には新しく佛寺を創營するを禁斷し、從來の僧侶といへども資格に缺けるものは普通人となして國役に從事せしめました。ついで太宗は一歩をすすめて、中央・地方の寺院に一大斧銊を加へ、殘存するものは曹溪宗・ハ持宗合せて七十寺、天台宗・疏字宗・法事宗合せて四十三寺、華嚴宗・道門宗合せて四十三寺、慈恩宗三十六寺、中道宗・神印宗合せて三十寺、南山宗・始興宗各〻十寺、合せて十二宗二百三十二寺とし、同時に寺田・奴婢の數を、寺格の上下に從つて規定し、他はみな官に沒收しました(太宗六年)。
この方針を一層徹底せしめたのは世宗で、諸宗の分立を禪・教二宗に統合し、寺院を整理して僅か三十六寺の本山に減縮し、それにともなつて寺田・奴婢の數も著しく減少されました(世宗六年)。
寺院に對する抑壓制限の次第は、大略かくの如きものでありましたが、またひるがへつて思ふに、いかに佛教の艶_的實力が頽ちた當時とはいへ、個人の信仰そのものまでが消失するものではありません。否な王朝變革の際の如きは、却つて無形絶對の力を希求する意欲の強いものがあります。それは一般民衆に於いては勿論、爲攻者自身にもあらはに認められ、太祖の如き表面抑佛策の端を示したにかかはらず、一個の人間としての内面生活には、佛教の信仰を斷念すること出來なかつたのであり、同樣のことは世宗にも世祖にも認められます。從つて李朝の佛教も一概に抑制のみの歴史ではありません。然し大本は旣に決して居り、今後多少の張弛はあるといつても、高麗時代のそれに比すれば勿論いふべき程のものではなく、結局、佛教は李朝のものではありません。
然らば佛教に代るものは何であるか。それは儒教です。廣い意味の儒教は、旣に三國時代から、半島に傳來してゐたのですが、ここに謂ふ儒教は、隋・唐・五代を經て宋に至つて、思想として大成された儒教を意味します。從つて宋儒の大宗とされる朱子の建設した儒教、普通に朱子學といはれるものに外なりません。
朱子の思想は南支那に成立し、元の南北統一とともに北支那に傳はり、その大都(北京)に流行しました。恰かも高麗は元に服屬して國王・世子以下朝臣の、大都に往來繁き時でありましたし、特に元の科舉、卽ち官吏登庸試驗に朱子の學説を採用し、高麗人の應試が許されたことが、その學の半島輸入にあづかつて力あつたことと思はれます。高麗では元の制度にならつて科舉の制を改め、國學を復興し、儒教興隆の端はここに旣にあらはれてゐます。
朱子學そのものの中に排佛思想を多分に含んでゐる上に、當時高麗の佛教界は、さきに述べた如く、それ自身排撃されるに充分なものがありましたから、朱子學が社會に普及されるには恰好の時であり、恰好の説でした。それのみでなく、爲政者は寺院改革と相表裏して、朱子學=儒教を國教とし、文武兩科にこれを課し、中外の學校を充實し、その盛行に努力しました。それは他面、國初の思想刷新と思想統一とを目標としたものであつたでせう。
儒教の任務は、右の如き思想方面の外に、實際社會生活の統制にもあつたのです。高麗時代には、公私の儀式祭祀は殆んど佛教の方式によつて行はれましたが、今やそれに代るものとして儒教の禮が採り入れられるに至りました。さうして禮の最も具體的な基本とされたのが、文公卽ち朱子の著作といはれる文公家禮です。家禮は謂はば士大夫の冠婚喪祭に關する規定で、その根本艶_は家族制度の確立といふことにあります。それは家廟を中心とする祖先崇拜から出發するものですが、その履行は、内に於ては嫡出・庶出の識別を嚴にし、外に對しては同姓・異姓の區別から階級の上下をまで分つもので、佛教の平等無差別觀に對して、これは全く差別觀に立脚するものといひ得るでありませう。家禮を奉行することが出來るといふことは、從つて兩班階級の特權の一つでさへありました。然しそれは一般庶民に模倣され、その生活の一部に採り入れられ、今日に至るまで多方面にその名殘を留めてゐるのです。しかも一歩退いて考へると、禮はややもすれば形式に流れやすきものであり、儒教は儒學ともいはれるやうに知識や義理を尊重し過ぎる弊があります。政策的に採用・獎勵された李朝の家禮また儒教は、この點に於いて民俗を形式化し、民心を輕薄ならしめた恨みがすくなくありません。更に心の慰安とか、靈の救濟とかいふ個人の内面生活に至つては、この新しい規範は前代の佛教の力に及ぶべくもなかつたのです。佛教寺院が、政治上抑壓され、思想的には退化・不純化を餘儀なくせられながら、なほその命脈を保持して現代に至つた所以の一端は、かかるところにも考へられ、また一般民衆の信仰が陰濕に趣いて、巫覡のはびこるに至つた理由も、これらの點に求められるでありませう。
ひるがへつて儒教の今後に於ける推移をみるならば、それは學問や思想の統一には或はある程度の效果をあげ得たかも知れませんが、統一はやがて固定となり、固定は腐敗を導き、謂はば自己分解や醱酵にまで進まねばやみません。それはやがて王位や政權をめぐる朝臣間の軋轢と合流して所謂黨論にまで發展し、李朝の後半約三百年近い間の政治社會をいろどるのです。
所謂黨論の前驅をなす事件は、第十代燕山君の世に起つた朝臣間の内訌に認められます。しかもそれは王位繼承問題に直接關係あることですから、ここに太祖以來の繼承がいかなるものであつたかを先づ通觀してみませう。
太祖は卽位の翌年、その愛する繼妃康氏の所生の芳碩を立てて世子としましたが、異母兄多かつたので、重臣鄭道傳は他日變あることを慮り、事に托してそれらの諸王子を除かうとしました。ところがその謀が洩れて、王子芳遠は世子ならびに道傳を殺害して、兄なる芳果を推して世子とすることを父王に請ひました。太祖はこれに從ひ、ついで位を芳果(定宗)に讓り、その後十年の間はなほ太上王として生存しました。定宗は在位わづかに二年にして弟の芳遠(太宗)に讓り、太宗の子世宗を經て、文宗が立ちましたが、また二年にして薨じ、世子は年十二歳を以て位につきました(端宗)。
太祖卽位後六十餘年、王廷はこの幼主端宗を迎へて、甚だ危くなりました。王の叔父首陽大君は、前王の遺命によつて王を補佐した皇甫仁・金宗瑞などの重臣を除き、遂に讓りを受けて自から王となりました(世祖)。さうして成三問・朴彭年等が、上王卽ち端宗の復位を謀つて居ることを知ると、成三問以下關係の人人七十餘人を殺し、上王を降封して魯山君となし、江原道寧越に移し、ついで死を賜ひました。世祖の子睿宗は在位一年にして薨じ、その子成宗つぎ、その治世は二十五年の長きにわたつて、治績も大いにあがりましたが、その次に立つた燕山君は、素行收まらず、失政が多かつたのです。時に世祖が王位を纂奪した折に功あつた武人韓明澮及びその一族は重んぜられ且つ王室と外戚關係を結んでからは、外戚專權の勢を生じました。それに對して前王成宗に重用された金宗直の一派は、非常に義理をやかましくいひ黨同伐異の風を持する新進氣鋭の政治家に滿ちてゐましたので、兩者は自然相容れぬ立場に立ちました。さうして燕山君四年戊年、早くも世祖卽位の事情に關する史論問題を緒として、抗爭は表面にあらはれたのです。
一體金宗直の學系は、高麗末禑王・昌王の二代に仕へて門下注書の官にあつた人に吉再(冶隱)といふ儒者があり、この人に始まるとされてゐます。吉再は、二王が弑せられると官をすてて慶尚道善山郡に引退し、子弟をあつめて專ら力をその教養につくしました。その門人金淑滋は郡吏の子でしたが、世宗に召されて一代の學者となり、金宗直はその子です。宗直の門下には金馹孫・金宏弼・鄭汝昌以下多數の名士が輩出して、當時一大勢力をなし、この派は詞章派に對する理學派ともいはれ、朱子流の道コ的批判を強調するに得意でした。
それで燕山君四年の事件は、宗直の弟子金馹孫が嘗て世祖を誹謗する史論をしたといふことを表面の理由として、その一派のものを或は殺し、或は流罪に處したのです(戊年の士禍)。同王十年甲子には、更にその殘黨が一掃され、これを甲子の士禍といひます。
燕山君が廢せられて中宗が立つと、金宗直の學派の趙光祖等を信任し、光祖また大いに王のために劃策して儒者政治の本領を發揮しましたので、王はやがて彼等の態度に不滿を持つに至り、これに乘ずる反對黨は、中宗十四年己卯、起つて一舉に光祖等を一網打盡し、理學派の勢力は敗滅に歸しました(己卯の士禍)。然し朝臣の内訌はここに終結したわけでは勿論ありません。中宗の次の仁宗が在位わづか八箇月で薨じ、その弟(明宗)が十二歳を以て位につくと外戚尹任と尹元衡との爭權は激化し、理學派はまたもその禍中に投ぜられて尹任の黨と目せられ、乙巳の士禍(明宗卽位の年)となりました。しかし明宗の末年に及んで、乙巳以來政柄を恣にした尹元衡が歿すると、理學派復活の萠し見え、王は綱紀を振肅し、山林の士(理學派)を登庸しようとしましたが、實現に至らないで王も薨じました。朝鮮第一の儒宗とされる李滉(退溪)や李珥(栗谷)は、何れもこの頃の人です。
ついで立つた宣祖は理學派の新進を舉用して要路につけましたが、その目ざす理想的主張は、當路の大臣の守舊的態度と相容れず、またしても新舊の軋燦となります。所謂士禍時代は、理學派とその周圍との衝突でしたが、今や抗爭は理學派同志の中で行はれ、次第に深刻を加へて行きます。たまたま明宗王妃の弟なる大司憲沈義謙と、さきの尹元衡の親戚で、金宗直派の學流をくむ史曹銓カ金孝元とが、一方は門地と高職により、他方は才氣と文名と、さうして銓カといふ内外官の除拜を專らにする要職とによつて、榮達を求める人人を周圍にあつめ、互に勢を張るに及んで、沈・金のたわいもない個人的確執は、漸く黨爭にまで發展し、義謙の派を西人といひ、孝元の派を東人と稱しました。其後、東人は分れて南人・北人となり、これを西人と合せて三色と呼びます。
凡そ何れの國、何れの時代にも、政治家の黨派爭ひはあるものですが、李朝史は黨爭の歴史であるとまでいはれるのには、また謂れあることで、宣祖のはじめ東西分派が見られた後ち、二は三となり、三は四となつて、而も遂に一國の衆を擧げて三百年の久しきにわたり、脈〻としてその系統を傳へて今日に至り、正邪順逆のけじめは、卒に明言論定し得ず、互に他を排して相容れないといふことは類例稀れなことでなければなりません。さうしてかかる朋黨の原因については古人の説に、一道學の太重、二名義の太嚴、三文詞の太繁、四刑獄の太繁、五臺閣の太峻、六官職の太C、七閥閲の太盛、八承平の太久、以上八ツの事實が擧げられてゐますが、それは必ずしも原因ばかりではなく、半はむしろ黨爭の結果とすべきものでありませう。然し結局は王權の微弱といふことが根本的な土臺となつたのであつて、朋黨の脈絡ある發展は朱子學の單一なる思想に跼蹐して、一歩も外に出ること出來なかつたからに由ると思はれます。
燕山君戊午の史禍、甲子の士禍、中宗己卯の士禍と相つぐ政爭は、宣祖の初年に至つて朋黨の分立、所謂黨論にまで發展して、國運の不振は顧みられなくなつた時、我が豐臣秀吉の軍勢は、海を渡つて釜山浦の海上にあらはれ、半島朝野の眠りを呼び起しました。所謂壬辰の役です(西暦一二九二[ママ])。
さて成宗・中宗・仁宗・明宗四代は、あたかも我が應仁・文明から永祿に至る所謂戰國時代に相當します。永祿につづく元龜・天正の間、我が國は織田信長によつて天下統一の緒につき、それは秀吉に及んで一層進捗し、海外經路の企圖にまで發展しました。卽ち天正十四(宣祖二十年)、秀吉は九州征伐の準備中早くも大陸遠征を決意し、朝鮮を經由して明國に入らんと、命を對馬島主宗氏に通じました。宗氏は翌年九州薩摩の陣中にあつた秀吉に使を遣はして、朝鮮をして調物及び質子を出さしめんことをはかりましたが、秀吉は朝鮮國王自からの入朝を交渉せしめました。島主は朝鮮と事を起すことは死活にも關する問題ですから、自から渡海して折衝を重ね、漸く通信使を件ひ還つて、關東・奧羽の征伐から凱旋した秀吉に謁し、日本統一の賀を致さしめました。時に天正十八年です。秀吉はその使者に對して、明國遠征の意圖を告げ、朝鮮國王に嚮導すべきを傳へしめました。
その翌年愈〻出兵の準備を命じ、諸將の部署を定め、本營を肥前名護屋に置いて自から鎭し、翌年(文祿元年)三月を以て出陣の期としました。然るに嚮導の命に對する囘答は、宗氏の努力も甲斐なく、その要領を得なかつたので、部署に多少の改定を加へて渡海せしめ、ここに征明軍は征朝鮮軍となりました。總軍十五萬八千七百人、それは第一軍から第九軍に至る九軍に分れ、別に舟奉行(海軍)が附屬してゐます。
かくて第一軍(小西行長)は文祿元年(宣祖二十五年)四月十二日釜山に至り、翌十三日上陸して釜山城を陷れ、翌日東莱を取り、第二軍(加藤C正)は十七日に釜山上陸、第三軍(K田長政)は十八日に金海上陸、諸軍相ついで渡航、第八軍(宇喜多秀家)が釜山に著いた五月二日には、第一軍・第二軍は、早くも京城を占領して居りました。
是より先き朝鮮王廷では、我が軍來るの報俄かに至り、諸城相ついで陷落しましたのに措置を失ひ、四月二十八日、忠州の敗報を受けるや、國王宣祖は遂に都を棄てて北に逃れ、五月八日平壤に入り、途中王子順和君を江原道に、臨海君を咸鏡道に遣はして兵を募らしめました。
その後我が軍は相ついで京城に入り、諸將は議して分擔を定め、朝鮮八道の經略に當り、秀家は京城に駐屯して統制を圖り、諸軍は力めて人民を安堵せしめ、到るところ告示して、行軍の目的が「道を朝鮮に假つて明國に入る」に在る旨をさとし、歸順をすすめ、その營業に勤めしめました。同時にまた政令を布き、租税を徴收して兵糧の支持に備へたのです。
行長は平安道經略の任に當り、進んで平壤を陷れ、國王をして、更に北は義州に遷らしめ、C正は咸鏡道に向ひました。さうして會寧に於いては、土官が順和・臨海二君を捕へて軍を迎へ、C正はこれを受けて勞ひ禮遇を加へ、進んで豆滿江を渡り兀良哈の地、今の間島地方に入り、大いに武威を輝かしました。他の諸軍もまたそれぞれ經略をすすめましたが、ただ水軍は朝鮮に名將李舜臣なるものあり、我が諸將間に一致をかいたこともあり、加へて西南多島海の水路の知識にくらく、屡〻利を失つたのです。
時に秀吉は、名護屋に在つて半島の軍務を指揮し、京城占領の報至るや、直ちに日本・朝鮮・明の三國の處置を考へ、命を下して明年入明の計をなさしめ、自分みづから渡海して軍の統制に當らんとし、數次その期日まで定めましたが、遂に果すこと出來ませんでした。
他方、明にあつては、その服屬國たる朝鮮の危急を聞き、朝鮮の請ひに應じて救援軍を出すことになりました。卽ち是歳七月、明の將軍祖承訓は、遼東より來り、平壤の我が軍を攻めましたが、敗れ還りました。そこで明は、特に沈惟敬を以て媾和の使者となし、我が攻鋒をゆるめ、且つ我が情勢をうかがはしめたのです。惟敬は、平壤に於いて行長と交渉し、囘つて明廷に和を唱へましたが經略宋應昌は新たに命を受けて軍を備へ、提督李如松を將として、翌文祿二年正月、再び平壤を攻めたのです。行長は終に利あらず、城を棄てて南下し、如松は追撃しましたので、小早川隆景等は、死を決してこれを碧蹄館(京城の西北約五里)に迎へ撃ち、大いにこれを破りました。
然るに旣に明の救援軍來つてより、半島各地には、民兵卽ち義兵が蜂起し、我が軍はその鎭定に苦しみました。ここに沈惟敬が再度來り媾和の交渉は京城にて行はれ、行長はまたその衝に當り、その交渉した條件は、明より媾和使節を派遣すること、明軍の撤退、我が軍の京城撤去、順和・臨海二君の還付等であつたらしいのです。これにもとづいて明將宋應昌はその部下二人を媾和使に仕立て、沈惟敬とともに來らしめましたので、四月十八日我が軍は撤兵を開始し、その所謂媾和使は、五月中旬、行長に件はれて名護屋に來り、秀吉に謁しました。この時秀吉が交附した媾和條件は、(一)明帝の女を迎へて我が后妃に備へること、(二)官船商舶を通じ往來せしめること、(三)日・明兩國の大臣が誓詞を交はして通好を誓ふこと、(四)朝鮮の四道を我が國に割讓し、他の四道及び京城を朝鮮に還附すること、(五)朝鮮の王子及び大臣一、二人を質とすること、(六)順和・臨海二王子及び僚屬を還付すること、(七)朝鮮の大臣をして、累世我が國に背かぬことを誓はしめること、以上の如きものでありました。
然るにこの交渉に當つた沈惟敬及び小西行長の家臣小西飛騨守(内藤如安)等は事を急いだので、種種中間に小策を弄し、右の趣旨はために徹底せず、却つて、明が秀吉を日本國王に冊封し、その朝貢往來を許すことを以て中心問題とするに至り、また朝鮮をして特に我が國のために請封の使を明に出ださしめたことさへありました。
かくて慶長元年(文祿五年)九月、明の使は大阪に達し秀吉に謁しましたが、それは冊封の使で、秀吉を日本國王に封じ、諸將に各〻明の官職を授けることを使命とするものであり、秀吉がさきに示した絛件は履行されてゐないので、和議はここに破れ、當時旣に歸國してゐた加藤C正・K田長政等をして再征の準備を整へさせ、明くる慶長二年二月を以て出兵の期としました。C正はその期に先立つて正月十三日蔚山の西生浦に入り、行長はついで熊川に渡り、ここに慶長役は起りました。二月二十一日秀吉は再征軍を部署し、總勢十四萬一千四百九十人、八軍及び南鮮諸城守備隊より成り、慶尚道より進んで全羅道を攻略し、以て忠C道其他に及ぼし、且つ沿岸の要衝に城を築いて、さきに示した媾和條件を徹底せしめようとしました。これに對して明はまた朝鮮の請ひに從ひ、水陸兩軍を出しました。
明軍は南下して、先づ淺野長慶の守つてゐた蔚山城を包圍しましたので、C正は直ちに入つて應援し、ここに有名な蔚山龍城(十二月二十二日から翌年正月四日まで)は行はれたのです。時に毛利秀元の來援あつて明軍は敗走しました。然し明の水陸軍は更に加はり、續續南下して、蔚山から泗川・順天の方面にかけて、各地に戰鬪は行はれ、我が軍も前役のやうな戰績を舉ぐるを得ぬ有樣にありました時、はからずも秀吉は病を獲て薨じ(慶長三年八月十八日)、遺命して出征軍の撤退を命じました。この時恰かも島津義弘は奮戰して明の大軍を泗川に潰亂せしめた時で、これを機として兵を班し、諸將相ついで凱旋しました。その時小西行長は、明將と交渉し、質を交換し、なほ後日朝鮮から使を遣はして和議を調ふべきことを約しました。
かくて前後七年にわたる半島の兵火は、一先づ收まつたのですが、この役、秀吉の期待したところは遂に達せられなかつたとはいへ、朝鮮・明をして我が國に對する認識を深かからしめ、内にしては國民の海外發展の氣風を刺戟したこと頗る大であり、典籍の將來、陶工の歸化など、學問・工藝の諸方面に影響したところすくなくないことは、つとに知られて居ることです。
朝鮮にとつては、國の米倉ともいはれる南部諸道に於いて兵を被ること七年にもわたり、殊に我が軍の撤退後も、明軍は久しく駐屯し、誅求をほしいままにしたことを思へば、いふまでもなく大なる國の災でありました。外難も、程度と場合によつては、却つて國力の進展を促がし、民心の沈滯を破つて覺醒更生に資せられること、多多認められますが、當時の朝鮮にとつてのこの七年戰役は、かかる刺激としては、餘りに強きに過ぎるものではなかつたかの感がします。然しまたこれによつて、半島の政治・社會各般種種な方面の、進路方向の改められ、轉ぜられたものもすくなくなく、この戰役の全體的な史的意義は、今後なほ追求せらるべき問題でありませう。
なほ朝鮮の宗主國として救援の大軍を派遣した明は、旣に國力衰退してゐた際であり、これによつて愈〻財政困難を加へ、滅亡の一因をなすに至つたのです。さうしてその反面の事實は、當時漸く勢を示してゐた滿洲の勢力=今の奉天の東方、興京附近を本據とした建州衞女眞奴兒哈赤の勃興を導いたのです。この七年戰役の最も大なる結果は、蓋しここにあります。
我が撤兵に際して小西行長と明將との間に約せられたところの、和議を調へる朝鮮の使者は、其後久しく來りません。慶長五年(宣祖三十三年、西暦一六〇〇)九月、關ケ原の戰によつてコ川氏の天下となりますと、朝鮮の意向も漸く好轉し、對馬の領主宗氏はまたその前後、自領の經濟上、朝鮮との通商の一日も早く復舊することを願望して、極力修交につとめましたので、遂に慶長十二年朝鮮修交使節は來聘し、國交ここに復し、其の後將軍の代る毎に慶賀使を送ることとなり、翌翌年には、宗氏と朝鮮との間に條約を結び、以後江戸時代を通じて、宗氏は朝鮮貿易の權を獨占します(慶長條約、己酉約條)。
右の慶長十二年の使節來朝以後、江戸時代三百年を通じて前後十二囘、朝鮮使節(通信使)は我が國に遣はされました。いま左にその年次、使命などを表示して説明にかへませう。
(年代)(日本) (朝鮮) (正使) (使命) (總人員)
丁未 慶長一二 宜祖四〇 呂祐吉 和好を修む 四六七
丁巳 元和 三 光海君九 呉允謙 大阪平定、日域統合の賀 四二八
甲子 寛永 元 仁祖 二 鄭ャ 家光襲職の賀 三〇〇
丙子 寛永一三 仁祖一四 任絖 泰平の賀 四七五
癸未 寛永二〇 仁祖二一 尹順之 家綱誕生の賀 四六二
乙未 明暦 元 孝宗 六 趙珩 家綱襲職の賀 四八〇
壬成 天和 二 肅宗 八 尹趾完 綱吉襲職の賀 四七〇(參府は一一二)
辛卯 正コ 元 肅宗三七 趙泰億 家宜襲職の賀 五〇〇(參府は一二九)
己亥 享保 四 肅宗四五 洪致中 吉宗襲職の賀 四七五(參府は一一〇)
戊辰 寛延 元 英祖二四 洪啓禧 家重襲職の賀 四七五(參府は 八三)
癸未 寶暦一三 英祖三九 趙曮 家治襲職の賀 四八〇(參府は一〇九)
辛末 文化 八 純祖一一 金履喬 家齊襲職の賀 三三六(對馬にて聘禮)
次に封馬の獨占に歸したといふ通商貿易は、いはば朝鮮から、對馬の物資缺乏を補給してその生活を安定させ、島民の渡海して不法行爲に出るを防ぐといふことを第一義とし、彼我國用の有無相通ずることを第二義とするものです。さきの己酉約條によれば、宗氏は毎年米百石を受け、二十隻の歳遣船を出すことを定められ、舊により釜山浦が唯一の港として開かれ、其處には客館たる倭館を設けて應接のところとなし、宗氏は代官を駐在せしめて貿易の事務を處理させました。倭館は役の直後には、一時釜山港外の絶影島に置かれてゐましたが、己酉約條成立してより、釜山鎭城の南、豆毛浦(今の水昌洞)に新設され、七十年の後ち(肅宗初年)草梁に移され、以後二百年、明治初年まで續きました。
貿易品はほぼ戰役以前と同じく、我が國からは國産の銅・鑞、オランダ船などによつて輸入した蘇木(染料)・水牛角・胡椒などを主とし、朝鮮からは米・大豆・木綿・人蔘・藥材などを以て交易しました。さうしてかかる通商關係は明治維新に至るまで繼續され、ついで一般外交管掌權とともに外務省の所管となるのであります。
宣祖の初年にあらはれた王廷の朋黨は、南人・北人・西人の三派に分立して我が軍に直面したことは、さきに述べたところです。前後七年にわたる戰禍は内部に於けるこの朋黨の爭ひに如何なる影響を投じたでせうか。
黨人はこの大なる危期に際しても、その黨色から脱すること出來ず、國論は常に動搖して歸一することありませんでした。宣祖についで立つた光海君は西人のために廢せられて仁祖が擁立せられ、王室は全く黨爭の具と化し去つたのです。この仁祖の卽位後數年にして、朝鮮にとつての第二の外難は至りました、卽ち五年丁卯(西暦一六二七)に於けるC國軍の入攻です。
Cの太祖奴兒哈赤が、はじめて兵を滿洲興京附近に擧げたのは、宣祖の十六年(西暦一五八三)の頃でしたが、半島動亂の間、次第に勢を張り、北滿洲から間島方面一帶居住の女眞人を從へ、光海君八年(西暦一六一六)の頃には國號を定めて後金と稱し、やがて明と薩爾滸山に戰つて大勝し瀋陽(奉天)・遼陽を略し、遼東地方を盡くその掌裡に收め、瀋陽に都を遷して遼西の經略に着手しましたが、そのこと未だ成らずして太祖は沒し、太宗が位をつぎます。
薩爾滸山の戰の折、朝鮮は明の命に從つて兵を出し、明軍と策應して南方から兵を進め、戰敗れるや元帥姜弘立・副元帥金景瑞はともに後金に降りました。これより後ちは後金に對して向背を明かにせず、密かに形勢をうかがひましたが、明に對する尚慕の念は、おのづから朝鮮をして明に歸向せしめました。ここに後金の太宗は、卽位の翌年(丁卯)を以て、兵三萬を朝鮮に入れ、南のかた明を攻むるに先立つて、背後の固めをしようとしたのです。金軍が黄海道平山に至るの報を聞いて、仁祖は江華島に難を避け、使を出して和を乞ひ、兩國は兄弟の約を結び、朝貢の條件を定め、金軍は北に還りました(丁卯の亂)。この後九年にして後金は國號をCと改めます(西暦一六三六)。
しかるに朝鮮は、その後なほ明に依附する狀を示したので、太宗はみづから大軍を率ゐて來り、京城に迫りました。仁祖は再び江華島に避けんとしてその暇なく、王世子とともに廣州の南漢山城に入りましたが、C軍は進んでこれを圍み、仁祖は守城わづか四十五日にして出で降り、明との交を絶つこと、Cの正朔を奉ずること、質子を出すこと、Cの動兵の際は助軍を出すこと、これまで明に對してとつたと同じき事大の禮をいたすこと等十數の條件を承認しましたので、太宗は南漢城下に受降壇を設けてその降を受けました(丙子の亂)。受降壇の故地漢江江畔の三田渡には滿洲文・蒙古文・漢文三體の「大C皇帝功コ碑」が建てられて今に至り、その當時を物語つてゐます。
その後七年にして、Cは遂に山海關を入つて明の燕京(北平)に都を移して北支那を收め、國姓爺に名高い鄭成功なき南支那の反抗も甲斐なく、四代聖祖のはじめには、支那全土を統一しました。朝鮮では顯宗の初年に當ります。
南漢城下に服屬の誓をしてから、朝鮮は約に從つて毎年冬至・正朝・聖節・歳幣の四行使節を出し、その他臨時に、謝恩・奏請・進賀・陳慰・進香・告訃・問安等の使を遣はしました。就中歳幣は、
黄金一百兩 白銀一千兩 水牛角弓面二百副
豹皮一百張 鹿皮一百張 茶一千包
水㺚皮四百張 黍皮三百張 胡椒十斗
好腰刀二十六把 蘇木二百斤 好大紙一千卷
順刀十把 好小紙一千五百卷 五瓜龍文席四領
各楳花席四十領 白苧布二百匹 各色綿紬二千匹
各色細麻布四百匹 各色細布一萬匹 布一千四百匹
米一萬包
といふ巨大なものです。間もなく四行使節は一行に併されて冬至使行となり、歳幣も次第にその額を減ぜられましたが、この強制された義務の形式は李朝末期にまで及んで履行されたのです。しかもその内面、亡び去つた明に對する崇敬の思想は現實に於ける反Cの感情と相表裏して、李朝後半の思潮をなし、年號の如き、明の最後の年號崇禎を起準として、崇禎後何年といふ數へかたが、永く行はれたこと等は、その最もよい例證であります。
事大關係は明からCへと轉換されても、變らないものはただ黨爭のみ、否な黨爭の發展のみでありました。まことに「李朝史は卽ち黨爭の歴史なり」といふ言葉のいつはりでないことを思はねばなりません。黨爭のるつぼの中に、幾多有爲の廷臣は生死し、王權は代を重ねる毎に微弱となつて行きます。いま宣祖以後の黨派の分裂發展を概觀すれば、それは東西分黨以後約百年の間に次表の如き經路を示し、肅宗朝には大略、老論・少論・南人・北人の四色を以て區別されました。[表省略]
四色興隆の歴史は一一述べないことにしますが、肅宗以後の中央の政界は、老論・少論の爭ひを主流とし、南人は再び表面に立つことは出來ませんでした。宋時烈(尤庵)は、忠C道恩津の出、老論の首領として記憶せらるべき人、道學文章一世の儒宗でありましたが、肅宗十五年、黨禍を以て死を賜はり、八十二歳を以て全羅道井邑に歿しました。
肅宗四十六年の治世をついだ景宗は、わづか四年にして薨じ、これに續いたのは英祖五十二年、正祖二十四年、合せて七十餘年にわたる時代です。この時代は、さきの世宗朝前後の時代とともに、李朝に於ける二大文運振興期とされます。その根底は那邊にあるのでせうか。英祖・正祖が何れも好文賢明の王であり、特に朋黨の弊を矯正せんとして、公平なる人材の登用に意を用ひたことは注意せねばなりませんが、より切實な理由を求めると、先づ内には政爭に敗れた南人一派が、漸くその生くる途を學問に求め、而もその學問たるや、黨論の根據となつた理學以外に、歴史・地理・制度などの實際的方面に志したことが考へられます。次には、從來兩班でもなく、常人でもない中間の位置に置かれた所謂中人階級と、庶孽卽ち妾の子として、たとへ兩班の子といへども、家族制度上嫡出子と斷然區別・差別されて特殊の待遇を受けた身分のものが、漸く實力をもつて社會の表面にあらはれた事實を考へねばなりません。中人は譯學・律學・算學・醫學等の實學を以てそれぞれ試驗を受けて官に仕へたものです。
かくの如き、政治的・階級的・血縁的に敗者の位地に置かれたものが築き上げた學問が、久しく朱子學の義理名分の論や、些細な禮の論に捉はれた人人のそれと異なるべきは當然のことです。
根底の第二は外部の影響に求められます。英祖の卽位は、Cでは世宗雍正帝の初年であり、正祖の末年は仁宗嘉慶帝の初めであります。C朝文運の極盛期とされる乾隆時代(六十年)は、その中間に相當します。前朝、明の末には朝鮮の使者に對して極めて狹量な待遇を示して、使節が明の學者などを私に訪問するのを禁じ、書籍の購求すら頗る制限してゐたに對し、C朝になつてからはそれらの禁防は大いに緩くされ、使節ならびにその隨員一行は、北京に於ける知名の學者に接近し、また書肆に新古の書籍を購つて歸り、C初康熙時代以來興隆したかの考證學の學風は、年毎に半島に傳へられ、その結實は正祖王代に至つて世にあらはれました。
同じ過程を經て、而もやや早く傳來した他の一新要素として特筆すべきものは、西洋學術ならびにキリスト教です。その學術としては天文・數學・砲術などを主とし、キリスト教は、はじめ宗教としてよりもむしろ理學の一派として研究されたやうで、先づ南人學者として有名な安鼎福(順庵)など、それに關する著述を殘して居ります。
學問としてのキリスト教は、やがて宗教として信奉されるに至つて、茲に支那人宣教師周文謨の入鮮(正祖十九年)となり、ついでフランス人宣教師も來つて南北に流行し、爲政者の禁止迫害に遇ふこととなります。その第一囘は純祖の元年辛酉(西暦一八〇一)に、第二囘は三十數年の後ち、憲宗五年己亥(西暦一八三九)に、第三囘は李太王三年丙寅(西暦一八六六)に行はれます。
以上述べたやうな新氣運、新情勢の具體的表徴ともいふべきものが、正祖の初年、王廷に設けられた奎章閣といふ機關です。これは黨爭に疲れ黨爭に腐敗した舊來の議政機關から脱却し、また當時大勢力のあつた外戚の專横と䆠人の掣肘とから逃れ、別個に一新政府を建てたやうなものでした。然し表面は歴代諸王の筆跡・著述などを奉安し、内外の古書を蒐集整理して藏するところであり、この古書籍の集大成は乾隆の四庫全書の規模にならつたものではないかと考へられます。さうして奎章閤の實務を擔當する中堅の職は檢書官でありましたが、その最初に任命せられた朴齊家・徐理修・李コ懋・柳得恭は、何れもさきに申した庶子の身分のものであり、キリスト教に仆れた南人の學者丁若縺E李家煥等、また正祖の僚屬でありました。
正祖は號を弘齋といひ、その述作は「弘齋全書」一百冊として殘つて居ります。この全書は、正祖の一個人としての生活内容を示すとともに、その文治政治の内面を物語るに雄辯であり、正祖を中心とした當代の政治家・文人の傾向をも遺憾なく傳へて居ます。
正祖以後、純祖・憲宗の間、卽ち對外關係の切迫するまでの五十年は、政治的には頽廢期とされてゐますが、學問に於いては、むしろ正祖朝の氣運が圓熟した時期の感があり、その代表者は金正喜(秋史・阮堂)です。彼は、一代の鬼才といはれ、乾隆の大儒翁方綱(覃溪・阮元)に知遇を得、卓拔なる識見を以て經學の堂奧に詣り、新たに實事求是の學を半島に宣布した功を認められてゐます。
正祖の後ち純祖・憲宗・哲宗三代約六十年は、我が國では文化文政から慶應・明治の直前に至る間に相當し、Cでは嘉慶から道光・咸豐にわたり、歐米人の東洋進出が、漸く著しくなつたことを特色とする時代です。東洋最近世の序幕とさへいはれる鴉片戰爭の結果、南京條約(朝鮮憲宗八年、西暦一八四二)によつてCが廣東・福州・寧波・廈門・上海の五港を外國貿易場として開いてから、その趨勢は急に發展し、それより十二年の後ち、我が國が三百年の鎖國を破つて開港したのも、南京條約に起因するとされて居ます。かかる影響が朝鮮にも波及するのは必然のなりゆきでなければなりません。
この時に當つて朝鮮では、純祖が歳十一を以て位についたのをはじめとして、幼主相つぎ、ためにかの正祖が第一に矯正しようとした外戚專權の勢は、またまた甚だしくなり、所謂戚家世道、卽ち外戚にして國政を執ることが續きました。哲宗薨じて李太王が卽位すると、その生父李昰應は、大院君に封ぜられ、世道政治はここにまた一轉します。
大院君は、剛毅果斷の資を以て國政にあたり、大いに人材を登用し、景福宮を再建して權威を示し、諸制度を改革するなど舊弊の打破に努めました。然しキリスト教の禁壓・迫害に於いて、フランス宣教師をも殺したことから、C國駐剳フランス官憲の軍艦派遣となり、江華島はその砲火を受けました(李太王三年)。同年またアメリカ軍艦來つて、前年大同江に於いてその國の商船シヤーマン號が焚掠されたことの罪を問はんとしました。然し兩國軍艦とも、戰利なくして却けられたので、大院君の排外態度は強化せられ、かの「洋夷侵犯、非戰則和、主和賣國」の碑は八道首都に竪てられたのです。
この時我が國は、旣に歐米諸國と國交通商の途を開いて居り、この新氣運に乘じて四隣に活動すべきことを主張するものもありましたので、コ川幕府はみづから使節を朝鮮に遣はして開港をうながし、前の佛・米二國との紛爭をも調停せんとしましたが、未だそのこと實現せずして明治維新となりました。然しその艶_は明治政府に引きつがれ、卽ち維新のはじめ、政府は對馬藩をして朝鮮との外交刷新に盡力せしめ、ついで廢藩置縣とともに外務省が直接その衝に當りましたが、朝鮮は我が國内に於ける新情勢を理解せず、我が政府との國交繼續を承認しませんので、遂にその無誠意を憤り、國内の錯綜した政情ともからまつて所謂征韓論が起り、明治六年九月、西郷隆盛以下の辭職となりました。然しこの年の末、李太王は成年に達し、大院君は國政を王に反上して朝鮮の政情一變し、王妃閔氏一族の執權時代となりました。閔氏はかねてより大院君と不和の間柄にありましたので、これより大院君の施いた方針は、こと毎に改廢され、對外方針も緩和されて、我が國との國交成立についても、非公式交渉が開始されました。
たまたま明治八年(李太王十二年)九月、我が軍艦雲揚が、江華島沖を航行中、江華島草芝鎭の砲臺から砲火を受け、雲揚は退いて永宗鎭に報復の砲撃を加へこれを占領した事件が起りましたので、これを機として我が國は翌年二月、K田C隆・井上馨を正・副の特命全權辧理大臣として江華府に遣はし、ここに修好條規十一款は締結せられ、ついで八月、修好條規附錄十一款、通商章程十一則も京城にて結ばれ、この約によつて先づ釜山港が開かれ、十二年に元山港、十六年に仁川港は開かれました。所謂朝鮮の開港はこの條約の成つた年、卽ち李太王十三年(西暦一八七六)に在り、これより歐米諸國もまた朝鮮との國交通商を開くを得るに至りました。
大院君隱退後の傾向が、右の如く開化覺醒に趣かうとしたに對し、大院君一派は心平らかならず、十九年壬午(明治十五年)閔氏に怨みを持つものと結び、兵士を煽動して王宮を犯し、王妃以下閔氏一族を仆して政權を奪ひ、我が公使館を襲はしめました(壬午政變)。時にC國は朝鮮使臣の請ひによつて兵を出し、大院君をC國に押送して、兵を京城に駐在せしめ、我が國は新たに濟物浦條約を結んで、謝罪・賠償させるとともに、また軍隊を京城に置くことになりました。
この頃より革新派と守舊派との對立は著しく、前者は年政治家洪英植・朴泳孝・金玉均等を中心とし、後者は戚族閔・趙兩氏を以て中心とします。二十一年甲申(明治十七年)革新派は我が國の援助を求めて反對派を仆し、政權を握らうとして、遂に日C兩國兵の衝突となりました(甲申政變)。この問題は翌年、天津に於ける日C間の條約によつて解決され、兩國はともに京城から軍隊を撒することとなりました。其後日Cの衝突を再び誘導したものが、東學黨の亂です。
東學黨は、塵尚北道慶州出身の崔濟愚なるものを教祖とする東學道に起原するもので、東學道は哲宗十一年(西暦一八六〇)濟愚が、儒・佛・道三教の長をとつて一教としたもの、當時邪學とされたキリスト教に對抗するを標榜してゐましたが、その徒はこれを政治問題に利用し、往往叛亂を企てるものもあり、頗る危險視されてゐました。李太王三十一年甲午(明治二十七年)全羅北道井邑郡に全琫準といふものが、地方官の失政を機として起ちますと、全羅南北道・忠C南北道の東學の徒はこれに應じて、空前の大叛亂となりました。當時國政に當つてゐた閔氏はその鎭壓に苦しみ、C國の救援を求め、C國はこれに應じて兵を出すとともに、天津條約により、我が國に通告して來ましたので、我が國もまた出兵し、これが鎭定に當りました。
東學の亂は、朝鮮の政治の腐敗に原因するものに外なりませんから、その亂が先づ收まると、我が國は日C兩國の出兵を機會に、朝鮮の政治を改革し、この種の禍根を絶たうとし、これを朝鮮政府に勸告し、C國の協力を求めましたが、C國はこれに應じなかつたので、遂に兩國間に開戰を見るに至りました(日C戰役)。
山縣有朋を第一軍司令長官とする我が征C軍は、平壤を占領してゐたC軍を破つて、進んで鴨麹]を渡り、大山巖の第二軍は旅順口を陷れ、別に山東半島の威海衞を攻め、連戰連勝の勢でありましたので、C國は李鴻章を遣はして馬關(下關)に和を講ぜしめました(明治二十八年四月)。
この戰によつて朝鮮は事實上C國の覊絆を脱し、馬關絛約によつてその確認を得、また戰のまだ終らないうちから、我が國の指導によつて官制百般の改革を行ひ、それは甲午改革(明治二十七年)として有名であります。改革の翌年(李太王三十三年)には建元して建陽元年といひ、その翌年には國號を改めて大韓帝國と稱しました。しかしこの間、内部の情狀は未だ必ずしも外形と一致せず、改革を喜ばぬもの往往あり、閔氏の黨はこれに乘じて起ち、また政權を握つて反動的政策に出ました。これを利用して、新たに朝鮮に大勢力を張らんとしたのがロシヤであります。
C國が我が國との戰に敗れてその内實を世界に暴露すると、ロシヤ・ドイツ・フランスは、先づ我が國の遼東半島占有を東洋平和に害ありとして、これをC國に還附するやう勸告し來り、我が國はやむを得ずこれを容れたのですが、三國はそれぞれ、これを以つて恩をC國に賣り、就中ロシヤが、明治三十一年、二十五年間租借の名を以つて旅順・大連を取り、この地にシベリヤ鐵道とを連絡する鐵道の敷設權を得たことは、それが朝鮮の安危に關すること大なるはいふまでもありません。ここに我が國は、ロシヤと朝鮮に關する協商を行ひ、互に内政に干渉しないことを約しました。
明治三十三年、C國に於ける排外運動=義和團の亂が起つたのを好機として、ロシヤは大兵を滿洲に入れ、亂の平定後もなほ撤兵せず、滿洲占領に異ならない狀態を示して、C國及び韓國に大なる脅威を加へ、更に兵を半島に進めましたので、我が國は韓國の保護のためロシヤに交渉しましたが、ロシヤは半島に對する欲望をすてず、且つ我が國の、半島に於ける行動を抑へようとしu〻壓迫を加へましたので、遂に我が國は明治三十七年二月、ロシヤに封して宣戰を布告しました。宣戰の詔勅に、
韓國ノ存亡ハ實ニ帝國安否ノ繋ル所ナリ然ルニ若シ滿洲ニシテ露國ノ領有ニ歸セン乎韓國ノ保全ハ支持スルニ由ナク極東ノ平和亦素ヨリ望ムベカラズ
とあることは、開戰の最大目的とするところが那邊にあるかを明示されて居り、我我の深く省察すべき點であります。
日露開戰とともに、韓國は我が國と攻守同盟を結んで、共同の敵に當ることとなり、我が軍の勝利重なるにつれて、その態度は愈〻固く、財政監督、外部顧問などのことについて協約を定め、我が國との關係は密着しました。
戰役は、陸に於ける奉天の大捷(明治三十八年三月十日)、海に於けるバルチツク艦隊の撃滅(五月二十七日)を以て大勢を決定し、ポーツマスに於ける媾和條約の締結(九月五日)となりました。その第二條には、
ロシヤ帝國政府ハ日本ガ韓國ニ於テ政治上軍事上及經濟上ノ卓絶ナル利uヲ有スルコトヲ承認シ日本帝國政府ガ韓國ニ於テ必要ト認ムル指導保護監理ノ措置ヲ執ルニ當リ之ヲ阻礙シ又ハ之ニ干渉セザルコトヲ約ス
とあり、我が多年の希望はここに漸く認められました。この條文によつて我が國は、同年十一月、韓國保護協約を結び、その外交を接收し、統監を京城に駐在せしめることとし、伊藤博文が初代統監に任命されました。明治四十年七月、李太王は位を太子(李王)に讓り、新王は我が國との協約を更に新たにして、統監は外交のみならず、内政に關しても、指導監督するに至りました。
然るに永年にわたる内政の紊亂は、これを收拾挽囘するに容易でなく、民衆の安堵は、このままでは到底保し難いものあり、明治四十二年十月、伊藤統監のハルピンに於ける遭難、同十二月に於ける内閣總理大臣李完用の遭難あつた後ち、一大革新の必要を痛感せしめました。ここに統監曾禰荒助に代つて新たに赴任した統監寺内正毅は、李總理大臣と交渉を重ね、兩國相互の幸福を攝iし、東洋の平和を永久に確保せんがため、韓國を日本に併合すべきことが約せられ、明治四十三年八月二十二日、併合條約は調印を了しました。よつて我が明治天皇は、同月二十九日を以て、普く國民に諭し、且つ併合のことを關係列國に通知し、韓國を改めて朝鮮とし、九月三十日、朝鮮總督府官制は公布せられ、十月一日初代總督として寺内正毅が任命せられ、ここに總督政治はその第一歩をふみ出だしたのであります。
爾來歳を經ること二十七年、總督の代はうつること七たび、總督政治は創業・守成の兩期を經て建設期に及んで居り、半島の山川は、その人文の開化とともに、全く面目を改め、しかも前途なほ洋洋たるものを認めることが出來、朝鮮の開發は、むしろこれからだといふ感を深くするのであります。
以上二十五節にわたつて申し述べ來つたところを、ここに囘顧しますと、半島の歴史は、漢の樂浪郡設置以降を數へても二千年に及び、その間の推移は、實に複雜を極めて居ります。就中その歴史を色どつてあざやかなのは、北方滿洲に統一的勢力の出來上つてよりは、滿洲と支那本部と、南北對立の形勢を左右する力が、おのづから半島に認められたことであります。わけても滿洲に興つた諸國は直接領土を半島に接しましたので、その南下に當つては、先づもつて武力を以て半島の向背を問ふことを常とし、半島の蒙つた災禍の最も直接的なものはこれでありました。然し今や新興滿洲國と我が朝鮮とは「鮮滿一如」の言葉の通り、密接不離の關係に在り、形勢は昔日と一轉一換致しました。この點は現在の朝鮮を認識するに當つての根本的要件でありませう。
次に半島から考へてみれば、陸路は遼東を經て北支那に通じ、海路は東支那海を航して山東半島、また南支那に達し、支那文化の輸入には極めて有利な位地にあります。これは一見惠まれて居る如くでありながら、しかも文化の發達には却つて障害多いことであつて、新らしき刺激による新らしき文化の成熟しないうちに、また次の刺激が來ては、半島の文化そのものの滿足なる成育は期し難いこと申すまでもありません。政治上、たえず何れかの國の正朔を奉じなければならなかつたやうに、文化の上でも、次次にその母體をかへて行きました。故に文化の變遷は屡〻あつたにもかかはらず、一つのものの繼續した發展・展開は困難であつたのです。
第三に我が國の立場から顧みますと、我が國の支那交通、廣く大陸發展は、多く半島を經由して行はれんとし、又た行はれました。同時に大陸文化は、時に半島を經て輸入傳來しました。この點に關して半島の演じた役割は古く且つ大きかつたとせねばなりません。
けれども東洋が東洋だけで生活する時代が終つて、所謂世界時代となつて約百年、我が日本が東洋の盟主としての責務を負ふに至つた今日では、政治・文化あらゆる關係は一變しました。この時に當つて半島が我が領土の一部となつて、その高度なる治安のもとに、民衆は生を安んじ、東西の要素を融合大成した我が文化の恩澤に直接に浴することが出來るに至つたことは、單に東洋のみならず、世界平和のために、祝福すべきことであります。(完)