朝鮮史の栞


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   底本:「朝鮮史の栞」朝鮮総督府
      1970(昭和45)年9月15日第一刷発行
      1988(昭和63)年4月10日第二刷発行



目次
朝鮮史の栞
朝鮮史概説(講演手記)
朝鮮の文化(講演手記)



朝鮮史の栞

 本稿は史學に興味を有し朝鮮史を特別に或程度まで知らんと欲する人の爲に起稿せしものなり。其通俗にして實際に適切ならんことは本篇の主旨なりとす。本篇先づ朝鮮史の大系を成す史籍に就て説明し、次に特殊の事項を調査するに資すべき史籍論文に及ばんとす。而して古朝鮮の中、箕氏朝鮮と稱せらるゝ國は朝鮮民族の建てしものなれども、其國斷絶して後に關係なきを以て措て問はず。衞氏朝鮮と半島に於ける漢郡縣との研究は日本及び朝鮮古代史研究にも頗る必要なりと雖も、是れ畢竟東方亞細亞諸國史の研究に支那史研究の必要なる一例にすぎざるを以て、本篇には此部分と朝鮮民族の有史前時代と名づくべき三韓〔狹義に用ひたる〕時代に關するものとを省略することとなせり。朝鮮半島史は朝鮮併合後、東西兩帝國大學共に之を國史科に編入せしも、學問の系統より見れば併合前の朝鮮史は明に東洋史の一部分なるを以て、其研究の進路は之を東洋史の方向に採り、朝鮮學若くば朝鮮史を研究せんと欲する者は先づ東洋史特に支那學の大要を修得すべし。而して更に進んで其研究をなすに當りては、如何なる部分の研究たるを問はず、支那方面の之に對する事項の考察を伴はざるべからざるなり。
 朝鮮史に入るには最初に文學博士林泰輔氏の朝鮮通史を讀むべし。博士の舊著には此外に朝鮮史〔明治二十五年吉川半七發行〕朝鮮近世史〔明治三十四年同上發行〕近世朝鮮史〔早稲田大學講義錄のうち〕あり、朝鮮通史〔富山房發行〕は前記諸書中最近に著述せられたる物にして、他に比類なき良書なるが故に再三通讀し、先づ朝鮮史の大要を知るべし。而して此書と併せ讀むべきは朝鮮社會考〔朝鮮憲兵司令部編纂、京城文星堂發行〕朝鮮風俗集〔今村鞆氏著、京城斯道館發行〕朝鮮物語集〔高橋亨氏著、京城日韓書房發行〕韓國南滿洲〔野口保興氏〕コレア、ゼ、ハーミットネーション〔グリフヰス氏〕等朝鮮に關する雜書なり。地圖は陸地測量部發行の東亞輿地圖〔百萬分一〕長崎・釜山・京城・旅順・鏡城・奉天の數葉を用意すべし。但し何の書を讀み何の説を聞くにも、先人の説が主となることは注意して避くべきことなるが、特に朝鮮の事物の如く學者の研究日尚淺くして、更に新研究新考察の餘地あるものに對しては、冷靜の態度を失はず、後説を容るゝの心構へなかるべからず。朝鮮語に關しては前間恭作氏韓語通〔丸善發行〕國分國夫氏日韓通話〔同上〕高橋亨氏韓語文典〔博文館發行〕ゲール氏韓英字典の類あり、漢字の朝鮮音を知るは全韻玉篇、漢鮮文新玉篇の類によるも可なり。森潤三カ氏の朝鮮年表〔春陽堂發行〕小藤・金澤兩博士共編の朝鮮地名字彙〔丸善發行〕は坐右に備ふるを便とす。尚ほ朝鮮總督府發行の月刊雜誌「朝鮮彙報」には確實なる調査報告の類の掲載せるゝ事あり、東洋協會の「東洋時報」、朝鮮雜誌社の「朝鮮及滿洲」〔月刊〕にも往々有uなる記事あり。

第一章 朝鮮史の大系をなす史籍

 高句麗・百濟・新羅の三國、各國史修撰の事あり。其他記錄野乘の類も多少作成せられしも、現今遺存するものは皆無にして、新羅王朝時代の書籍の如きも其末期の文士崔致遠の桂苑筆耕が、李朝に至りて支那刊本より翻刻されしものあるのみ。文獻の湮滅驚くべし。〔但し新羅僧撰述の佛經注疏釋義の類は日本の古寺に傳はりしもの數種あり、日本續大藏經中に收めらる。〕朝鮮にて撰みし史籍の遺存せるものゝ最も古きは三國史記にして、之に次ぐものは三國遺事なり。但し三國遺事中には史記に先つこと數十年前に撰まれし駕洛國記を收錄すと雖も、省略せるものにして全文にあらず。史記・遺事共に王氏高麗朝に撰まれしものにすぎざるも、今日半島史籍の新羅・高句麗・百濟三國の事を詳にせるもの此二書の外に出でず。此時代の研究は此二書と支那・日本の史籍及び半島の金石文・遺物によるの外なしとす。次に朝鮮史の大系をなす此等の史籍に就て簡單なる説明をなすべし。

第一 三國史記

 新羅・高句麗・百濟三國の史記の義にして、高麗仁宗王二十三年乙丑〔近衞天皇久安元年〕金富軾等王命を奉じて撰す。紀傳體にして新羅本紀十二卷、高句麗本紀十卷、百濟本紀六卷、年表三卷、志類九卷、列傳十卷、併せて五十卷あれど、各卷短きを以て簡單なる書にすぎず。三國史記は金富軾が始めて撰みたるものにあらずして、其當時既に三國史記若くば類似の名稱の史籍の存在せしを、此時更に重撰せしものなることは東文選及東文粹に載する進三國史記箋には一言も記せざれども、高麗の文士李奎報の東明王篇序〔李相國集卷三〕によりて明白なり。此舊三國史記に就ては何等の知る所なし。高麗史洪瓘傳に「睿宗甞覽編年通載、命瓘撰集三韓以來事蹟以進」とあり。吾人は編年通載につきても、洪瓘撰進の書につきても其内容に就て知る所なしと雖も、洪瓘の書が三韓卽ち三國〔三韓が三國の義に用ゐらるゝことは坪井文學博士が甞て史學雜誌に論じ置かれたり〕の史籍にして、此書が睿宗に繼ぎし仁宗王代に傳はり、更に高宗の時に及び李奎報の見るに至りしこと推測に難からず、舊三國史記とは此書若くば此類の書なるべし。三國の史料の現朝鮮に遺存するもの、三國史記と此書よりも百五十年後に撰まれし三國遺事との外には十數通の金石文と若干の遺物遺蹟あるのみ。三國史記の朝鮮史に於ける位置は我が國史に於ける日本書紀の位置を占む。
 此書もしくば舊三國史記が編纂に資せし資料に就て考察せんとす。三國に於ける國史編纂の事蹟を稽ふるに、高句麗には國初に留記と云ふ書ありしを、嬰陽王十一年に刪修して新集五卷を撰み、百濟にも近肖古王頃より記錄あり、新羅には眞興王六年に新羅國史撰まれたり。之を當時半島と大陸との關係及文運の大勢より考察するに事實なるべし。舊三國史記編纂の當時、此等の史籍若くば此等の史籍に系統を有する文獻の、或は斷片ながらも遺存し、延て其重撰の時に及びしが如し。三國史記に引用する東海古記・三韓古記・新羅古事・新羅古記の類は此種の史籍なるべし。而して高句麗・百濟二國に於ては上記二三の文獻以外には極めて簡單なる王代一覽の如きもの、遺存せしにすぎざるが如し。たゞ新羅は他の二國に勝ちて半島を統一し、唐代文化に薫陶せられたる二百餘年の王朝を建て、其末路の如きも少くとも王都は戰鬪の甚しき慘禍を蒙らず、香車寶馬連亘して高麗王氏朝に入り、貴族子弟は身を保ち家を全うして新王朝に移りしが故に、高麗朝に其文獻の多く遺存せしこと論なきなり。三國史記が引用する唐令孤澄新羅國記、崔致遠の年代暦、同文集、金大問の高僧傳・花カ世記・樂本漢山記・雞林雜傳、崔承祐の餬本集の類、李奎報が次韻呉東閣世文詩註〔李相國集卷五〕に引用する新羅記・新羅[示+蒭]記の類は三國史重撰の時に存在せしものなり。金富軾が三國史重撰の時には舊三國史が資料として採りし文獻は尚ほ遺存せるを、富軾は其上更に廣く史料を蒐集して舊三國史記を修正添削し、尚ほ通鑑・冊府元龜等當時新に輸入せられて祕府に藏せられし支那史籍の記事を掇拾轉載して其缺を補ひ、或は其文を美にして以て之を撰せしものならむ。然るに三國史記が引用する遺文史籍の撰者中、令孤澄は唐書藝文志に乾符年代の人とあれども新羅人にあらざるが故に之を外にし、崔致遠・金大問・崔承祐等盡く新羅王朝末期の人なり。新羅王朝史料の缺乏すること驚くべし。此結果として三國史記は此王朝年代に入りてすら錯誤少からず。其一例を擧ぐれば、C海鎭大使弓福卽ち新唐書列傳の張保皐、續日本後紀の張寳高の死が、續日本後紀の詳細なる記事によりて文聖王三年なること動すべからざるに、史記は之を七年に繫げることの如きこれなり。尚ほ他に類例少からず。高句麗紀に於ては試に廣開土王紀と其王陵碑の記事とを比較するに、碑記に誌すが如き詳細なる記事は此王紀に見ざるのみならず殆ど之を缺けり。長壽王以後に至りては更に其國に傳へし記事缺乏し、嬰陽王以後に至りては一層甚だし。百濟紀に於ては威コ王以後史料の缺乏を極む。而して嬰陽威コ兩王以後の二國は共に支那方面と頻繁なる交渉ありしを以て、三國史記は支那史籍より關係記事の文を掇拾して其紙面を塡め、本國のみの事を記すること極めて少し。三國史記に載する支那方面に關する記事は高句麗紀上古の部と他に稀なる場合との外は、其書の全體を通じて支那史籍を抄出し轉寫し或は掇拾し、之を其相當年代の下に何等の顧慮なく挿入せるものにして、或は其中には本國に史料あり乍ら其文を美にするが爲に事實の相異迄も犧牲として、支那人の手になりし文章を竊取せし項ありやの臆測を施し得ざるにあらざるも、縱ひ此事ありとするも極めて少かるべし。其掇拾せし支那史籍は資治通鑑・冊府元龜外臣部・後漢書・三國志・晋書・魏書・宋書・梁書・南史・北史・隋書・新舊唐書等なり。東城王紀の注に齊書云々とあれども南齊書は之を見ざりしが如し。然るに高句麗及び百濟特に百濟の後期には、我が日本書紀に彼土の史料より誌せし比較的豐富なる記事あり。新撰姓氏錄また歸化人の家傳を載す。此日本史籍は三國史記の記事の缺を補ふ事多大にして、之を正すこと少からざるを以て、之に依らずして三國史記のみにて三國特に百濟の事は調査すべからず。駕洛の研究の如きは主として書紀に依るの外なきなり。然るに帶方郡末路の研究は三國史記百濟紀の記事に竢つものあり。此關係は百濟史・日本書紀の關係と量に於て多少の差こそあれ稍類似せるものなり。
 三國史記の紀年に就きては從來學者の之に信ををきしものあるを以て茲に一言すべし。三國中高句麗は最も早く開化せる國にして、早くより記錄あり。而して其國史には其理由若くば事情明ならざるも、始祖東明王朱蒙の元年を漢建昭二年甲申に、其薨年を鴻嘉二年壬寅に紀せり。百濟人は高句麗と同じく朱蒙を以て始祖王とし、之を歴代の中に加へ、三國史記が其始祖王とする溫祚王を第二代の王となせしは新撰姓氏錄の記事によりて明なり。三國史記が溫祚王卽位を高句麗朱蒙王薨年の翌年卽鴻嘉二年癸卯となせしは、新羅朝若くば、高麗王氏朝の史家が三國の年代を比較配置するに當り、高句麗古史籍を其國紀年の基礎とし、之を以て百濟所傳の溫祚王紀年を動かし若くば推定して朱蒙薨去の翌年となせしものならんか。尤も百濟は其文物高句麗より遙に後れて開けしを以て、或は其本國に於て既成の高句麗史紀年に憑藉して之を鴻嘉二年に紀せしことも無しとは斷言すべからざるなり。新羅史が始祖王の卽位元年を朱蒙卽位の歳の同周甲の第一年甲子の歳に紀せしは、其國人の愛國的感情より出でしこと推測に難からず。三國史記の紀年は高句麗に於ては小獸林王、百濟に於ては契王の頃、新羅にありては遙に下りて炤智王以後に至りて信ずべし。小生昨年十二月讀史會大會に於て「三國比較年代考」と題して私考を發表せんとせしが、時間切迫して其説を盡くすこと能はざりしかば、他日之を公表すべければ一讀あらん事を希ふものなり。
 本書は王位繼承の際に三國の古例のまゝに踰月稱元の制をとれり。此事に就きては東洋學報第二卷の拙稿「朝鮮に於ける國王在位の稱元法」を參考すべし。尚ほ彼の小篇起稿の當時心付かざりし一事は、三國史記にも踰月稱元を誤解せし一條のあることなり、卽ち百濟の東城・武寧二王間に於て、東城王は二十三年辛巳十二月に薨せしを以て踰月稱元法に從へば新王武寧は其明年壬午正月を以て元を稱すべきが故に、壬午歳を其元年に紀せざるべからざるに、史記の撰者は不注意にも直に辛巳を其元年となせり。過誤の母は過誤の子を生み、此に因りて史料の混同錯雜を生じ、正しく紀年せば元年壬午十一月なるべき侵高句麗記事を、誤り紀せる元年辛巳十一月の條に記し、重ねて同記事の高句麗紀にあるものを百濟紀に移して二年壬午十一月の條にも抄入し、同一記事を兩年に重出せしめたり。尚ほ燕クせば此類の誤謬は多く發見し得べし。
 本書志類中新羅に關する記事多きを占め、祭祀・樂・職官等に於て高句麗・百濟に關するものは、僅に支那史籍東夷傳中より不用意に二三記事を抄出轉載せしに過ぎず。是れ其本國に於ては稽ふべき文獻の遺存せざりしによる。諸志中、地理志は獨り史學のみならず言語の研究にも有要なる資料少なからず、然るに本書の最良本たる加賀前田本には此部に當る卷三十四より卷三十六までを缺くと聞けり、甚だ惜むべし。列傳は新羅人其大部を占め、高句麗には僅に數人、百濟には二人を收むるのみなるに、高句麗人の列傳に出づる記事は、既に本紀に出で重複せるもの多し。浩瀚なる書にもあらざるに此事あるは粗漏不注意の譏免るべからず。列傳中には文士構成の傳奇的人物あり、溫達・薜氏・都彌の如き是なり。
 本書は其撰成るや直に流布せしが如し。宋の王應鱗の玉海〔卷十六〕に此書が淳熙元年宋朝廷の祕閣に入りし事を記す。本書は高麗朝に於て既に刊行せられしが、李朝に入りて太祖王三年甲戌慶州にて刊行し、中宗王七年壬申同地にて再板せり。此時の慶州鎭兵馬節制使李繼福の跋に「吾東方三國本史遺事兩本、他無所刊而只在本府、歳久刓缺、一行可解僅四五字」とあり。然るに成宗王實錄、王十三年〔成化十八年〕十月の條に、徐居正は此書を印せんことを論じ、王の許可を得たりしことを記す。こゝに印せんとは京城に於て新に刊行印出の事なるか、慶州冊板に就きて印出頒布の事なるか、意義明瞭を缺くと雖も恐くば前者なるべし。然らば刊行の事實行せられざりしか、其事明ならず。東京雜記及び慶州府所藏冊板目錄中に本書及び遺事あるも、乾隆二十四年の完營冊板目錄には慶州の項にも他處の項にも其存在を記せず。思ふに此時既に毀滅したりしならむ。而して東京雜記に記する冊板は或は正コ以後の重刊のものならんか、現存の冊子を見るに正コ刊本よりも新しきものあり。
 此書の日本に傳はりし時代は明ならざれども慶長以後の事なるべし。大日本史にも異稱日本傳にも引用すれども、其書稀少なりしを以て本居宣長を初め諸大家多くは東國通鑑に依りて朝鮮古史を論ぜしものなり。我國に傳はり若くば轉寫されしものに現存するもの加賀本・近衞本・毛利神田本・富岡本あり。近衞本以下寫本にして、加賀本は正コ刊本の如きも、惜いかな五十卷中十五卷を佚す。近年朝鮮にて數部發見されたり。  此書近時刊行され世上に流布するに至れり。一は朝鮮古書刊行會本にして、他は東京帝國大學刊行本なり。大學刊行本に依るべし。
 尚ほ此書に就きては他日稿を改め其研究を詳細に發表せんとするの意あるを以て、通俗を主とする本書にては省略して筆を擱かんとす。

第二 三國遺事

 五卷 高麗忠烈王〔日本伏見天皇御時代〕の時、卽ち三國史記撰述後約百五十年を經て、慶尚道迦智山麟角寺の住持圓鏡冲照大禪師一然これを撰す。一然の傳は不明也。朝鮮總督府參事官室の調査によれば、慶尚道義興に普覺國師一然の塔碑遺存すと雖も、今斷片となり記事明ならず。李朝世宗王實錄地理志に「慶山縣、忠肅王四年丁巳、以國師一然之ク、陞爲縣」とあり。一然に就ての吾人の知識、今日に於ては茲に止まる。安鼎福は其著東史綱目の採據書目中に本書を擧げ、僧無亟一然撰とせり。小生は無亟の語の出處を知らず。東史綱目を調査すれば或は得る所あるべきか。
 本書撰述の目的は其書名・其内容より推測するに、正史卽三國史記に載せざる三國の所傳談話を收錄するにあり。佛ヘ全盛時代の佛僧の手に成りしを以て、佛ヘ關係記事太半を占む。此書に就きては坪井先生の解題、史學雜誌第十一編第九號にあり。
 本書篇首に三國及駕洛の比較年代表あり、三國史記年表に據りし物なるべきも王の在位年數に相異のもの三四あり。篇中に記する干支の相異する物と共に研究上注意すべし。卷一・卷二は紀異篇にして先づ檀君より記し三國の説話遺聞を錄し、駕洛國記を抄略附載す。此駕洛國記に就ては後に改めて説くべし。卷三興法外一篇、卷四義解・神咒・感通・避隱・孝善の諸篇にして、興法以下佛ヘ關係の記事なり。  本書は史籍として三國史記とともに見ざるべからざるものにして、社會的記事は史記よりも本書に多し。其他種々貴重の史料を含み、荒唐無稽の説話中にも得るところ少なからず。一語の注、一句の辭にも意外の事實を包藏するものあり。特に三國の佛ヘ史研究には本書を典據とせざるべからず。但し其記載せる古傳説中には後世の捏造附會構成に係るもの少からざるは、かゝる書籍の性質上止むことを得ざる事なり。魏書・漢書などの記事なりとて掲出せるものに、原本には決して無きものあり。魏書に出づとして誌せる檀君王儉の記事の如きは其一例なり。
 本書中載する處の新羅の郷歌十數首は我が萬葉古歌に比すべきものにして、其文また萬葉體なるを以て文學上、語學上貴重すべきものなるが、今之を解し得る者無しといふ。
 本書もと慶尚道慶州府に冊板ありしを、正コ壬申、三國史記と共に同府にて再板せり。東京雜記の府藏冊板目中には此書の名あるも、乾隆二十四年の完營冊板目錄には之を記せず。傳本頗る稀にして朝鮮にては絶無と稱せられ居りしが、近年金剛山の某寺にて後半の一冊のみを發見せり。日本には幸にも尾張コ川家及び神田男爵家に各一部を遺存す。三本共に同一板木にして、たゞ金剛山本には脱葉を補寫挿入せる部分あり、此部分は兩家本に缺落せず。神田本には養安院の記印あり、コ川家本と共に文祿慶長役の分捕本なるべし。東京帝國大學にては本書を明治三十七年神田本を底本として刊行せるも、此刊本、訂正を要すべき點甚だ多し。坪井先生の手許には訂正再板の稿既に成るものあるも、未だ改版に至らず。日本續大藏經には大學刊本の句讀の誤十數個處を坪井先生が訂正せられしものを收めたり。本書の良本は改正板の出づるを待つの外なし。(大正五、六、八)

第三 駕洛國記

 一篇 高麗文宗王三十年、遼道宗大康二年丙辰、金官〔今の金海〕の知州事某が三國史記の成るに先つこと六十九年に撰せり。三國遺事が之を略して收載せしものゝみ今傳はりて全文のもの傳らずと雖も、原篇の體裁面影を遺存する朝鮮史籍中最古のものなり。此書の題とする駕洛は金海駕洛にして、嚴密に名づくれば南駕洛なり。本書、此南駕洛卽金海駕洛の始祖首露王の開國傳説を錄し、以下仇衝王[仇衡王か]に至る九代に就て略記せり。其記事金官古來の所傳に撰者の見聞を加へ、尚外に開皇暦若くば開皇錄と名づくる古書を參照せるが如し。此所には佛ヘ的修飾多し。開皇錄は今傳はらずと雖も新羅時代の書籍なるべきか。此書によれば仇衝王[仇衡王か]が新羅に下りしは粱中大通四年壬子にして三國史記の所記にも合へり。然れども三國史記の所記は或は開皇錄より採りしものなるかも計られざるが故に、其合不合は何等の調査をなさずして、直に開皇錄記事の正しきを證するものと見做すべからず。さり乍ら余は任那及び駕洛〔加耶と加羅と同じ耶と羅と音通ず〕の研究の結果(一)垂仁紀の意富加羅の意富を大と解するには尚ほ多少研究の餘地あり、又假に意富を大と解しうるとするも大駕洛の名稱は始終一定の駕洛を指すものにあらざること(二)任那と駕洛との關係は從來の學者が考へたるものと異るものあること(三)繼體・欽明の頃には金官駕洛は南加羅と稱し、大駕洛若くば單に駕洛とあるは高靈加羅を指すものなること(四)繼體・安閑頃の壬子、卽梁中大通四年、金海駕洛が新羅に滅されたる結果、朝廷と任那日本府の交通不便となり、任那方面の統治を百濟王に委ねざるべからざるに至り、勢力大に失墜せしこと(五)欽明天皇二十三年任那官家の覆滅は是歳卽保定二年壬午、大加羅卽高靈加耶滅亡の結果なること(六)推古紀三十一年は集解が三十年(壬午歳)に訂正せるを正しとし、其「是歳新羅伐任那、任那附於新羅、於是天皇將討新羅云々」の記事は、欽明天皇二十三年壬午の下に編入す可きを、書紀の撰者誤りて次の壬午に編入せしが爲に、任那滅亡後の日本と任那との關係につきて不明瞭ならしめしこと等を確知するに至れり。拙考近き將來に發表すべし。朝鮮史の栞に要するは駕洛國記撰者が新羅眞興・法興二王代の大加耶〔卽高靈加羅〕を金海にありし加羅なりと誤認し、彼の滅亡の事實を此滅亡の事實と混じ、保定二年壬午滅亡説を主とせしは誤りなる事を明にする一にして、此駕洛國記の所記、諸大家引用して立説せるものなるを以て茲に一言を加へしものなり。
 駕洛國記は駕洛〔加耶〕任那の研究に必要貴重なる史籍なりとす。

第四 高麗史

 李朝官撰の王氏高麗史にして紀傳體なり。世家四十六卷、志三十九卷、表二卷、列傳五十卷、目錄二卷、計百三十九卷あり。金宗瑞・鄭麟趾等王命を奉じて撰し李朝文宗王元年八月成る。其編纂の次第其他に就きては大正四年九月刊行東洋時報第七號に載せたる拙稿「朝鮮書籍解題第十八高麗史」に詳記し、本書の史料となりし高麗時代の記錄に就きては大正四年七月刊行の藝文第六年第七號に載せたる拙稿「王氏高麗朝に於ける修史に就て」と題せるものに述べ置きしを以て此二論文を讀まれん事を希望す。
 高麗史が編纂の資料とせし諸文獻は今や遺存するもの殆ど無きのみならず、高麗朝關係の文獻全體に就きても、其今日に遺存するものは僅に大覺國師集李相國集・破閑集・補閑集・u齋集・陶隱集、牧隱集其他三四書籍と東文選に收むる遺文の類にすぎず。而して上記の諸書多くは麗末の書にして、加ふるに史籍にあらざるが故に、時代に於て既に一方に偏するが上に、史料とすべき記事の量甚だ少し。然りと雖も金石文・遺物遺蹟は前代に比して豐富に遺存し、特に墓誌の如きは多數の發見せられしものありて研究に資すること少からず。又遼・金・元史等支那史籍には高麗關係の記事少からずと雖も全體より云へば極めて少量なり。但し量に於ては少しと雖も尊重すべきものなり、而して高麗朝史の研究には上記諸史籍によりて大陸方面の調査を伴はざれば完全なるものたること能はざること勿論なるも、高麗朝史は主として高麗史に據りて研究するの外なし。此高麗史が比較的豐富なる史料を用ひて編纂され、實錄の體を存することは慶すべし。
 本書卷帙浩瀚にして且つ紀傳體なりしため、朝鮮にては閲讀の便利上よりして東國通鑑行はれ、之に道學上の見地を加へては麗史提綱の類行はれしを以て、本書は多く高閣に束ねられ、傳本漸次に稀少となり容易に見ること難かりき。前田松雲公が桑華書志抄に誌せしによれば、公が元祿辛未に能勢友進の盡力によりて本書を購求せしとき價格黄金百兩なりしといふ。數年前國書刊行會にて此書を刊行し洋裝本三冊に縮刷せるが、日本智識階級の不眞面目なる、斯る良書が低級の娯讀に適せざるの故を以て、此刊本古本屋の㕓頭に曝さるゝもの多く、日ならずして敗紙に歸するの狀況あり。
 前述の如く李朝後期に至り本書の體裁其他に慊焉たる儒者ありて、其體裁を變じたる書出でたり。麗史提綱・彙纂麗史の類是なり。
 麗史提綱 本書は仁祖・顯宗間の儒者兪棨が高麗史を朱子通鑑綱目の體に傚ひて編年體に改め、綱を立て列傳・雜志中の之に屬する記事を目として分注し、事實の明瞭を期せしものなり。二十三卷、刊本あり。李朝の書籍四五種を資料として採り加へたれども、全く高麗史を省略し其體裁を變じたるものにすぎず。
 彙纂麗史 本書は木齋家塾彙纂高麗史の略稱なり。孝宗・顯宗間の儒者木齋洪汝何[韓国民族文化大百科では「洪汝河」]高麗史は元史の凡例を採り元史に準じて作れるを遺憾とし、修史之法は先づ其體統を正すべしとし、高麗史を節約し外に三四の書より史料を採り加へ、記事配列の體裁を改めたるものにして紀傳體なり。四十八卷、刊本あり。禑・昌二王を高麗史は叛逆傳に收めたれど、本書は之を改めて辛庶人傳とし宗室傳に列し、又別に外夷附錄の一卷を設けて契丹・女眞・日本傳を立てたり。當時思想の風潮を見るべし。
 上記二書共に高麗史に對しては何等の權威なき書なり。

第五 東國通鑑

 五十六卷、外に外紀一篇あり。新羅・高句麗・百濟及び王氏高麗の編年史にして、成宗王十五年徐居正等王命を奉じて撰進す。此書に就ては東洋時報第二百五號(大正四年十月)に掲載せし拙稿「朝鮮書籍解題第二十」に詳記せり。高麗史の編纂成るや李朝にては更に麗史長編編輯の議起り、轉じて東國通鑑編纂の方針となり、是れ亦中絶せしが成宗王十四年に至り復び急に著手し忽ち成りしものなり。
 本書は三國史記・三國遺事・高麗史其他二三支那史籍の記事を編年體に書き改めしにすぎず。三國遺事の記事の如き、原本に歳月を記せざるものを强て或る歳の下に收めしを以て、頗る無理なる點なきにあらず。此書が前記諸書の記事を燕クせずして採錄せしものなる事は林泰輔先生の朝鮮史籍考本書の條(史學雜誌第七卷第三號)に詳論あり。本書、三國時代の紀年は三國史記を其儘に採り乍ら、高句麗文咨明王の紀年には三國史記に據らざりしが爲めに一年の誤をなせり。之に因りて其後に出でし諸種の年表、此謬を襲踏するもの多し。
 東國通鑑は研究用として採るべき點なけれども、三國史記・高麗史の紀傳體なるに當り、編年體なるが故に便利なる點多し。此便利なるの一事は此書が研究上の要求なき朝鮮人の間に、他の二書を壓倒して盛に行はれし所以にして、朝鮮にて史籍の稱は直に本書を想起せしむるに至れり。されば刊行の事も屡々ありしものゝ如く大字本・小字本等あり。我國へも文祿慶長役の時以外に舶來せしものあり、支那へも此書を密輸出せんとして譯官の處罰されしことあれど、是れ偶々露現せし一事にすぎずして、其輸出されし數は少からざるが如し。我國にてはェ文年間コ川光圀公京都の一書肆に刊行せしめしより世に行はれ、諸大家此書によりて朝鮮古史を論ずるに至れり。近年朝鮮古書刊行會にて之を刊行せり。
 李朝の後半期に至り、かの高麗史の體裁を改めたる史籍の出でし如く、本書及高麗史を資料とし是に二三の史料を添加し、單に體裁を改めしもの若くば之に類する史籍出でたり。東史纂要・東國通鑑提綱・東史會綱・東史綱目の類是なり。以下順を追うて略説せん。
 東史纂要 宣祖・光海時代の人呉澐の編なり。萬暦三十七年己酉の編者の跋文あり。慶州にて刊行す。東史綱目依據書目には十二卷とあれど、余が見し奎章閣舊藏の朝鮮總督府本は八卷あり。但し東史綱目には本書に地理志の存在することを記せるも余が見し書には之を缺きたりしやに記憶す。本書檀君を記し新羅始祖王卽位甲子より高麗恭讓王壬申に至るまでを編年體に記し列傳を附し、別錄として權兇傳あり、全篇に亘りて往々史評を挿記せり。纂輯諸書として東國通鑑以下二十一種の書名を擧げし中に三國史記・三國遺事共に之を缺く。本書記事を節略すと雖も簡要なりとの評あり。然れども要用ある書にあらず。
 東國通鑑提綱 彙纂麗史の編者洪汝何[韓国民族文化大百科では「洪汝河」]の編なり。十三卷あり。東國通鑑に櫽括を加へし編年體の史書なり。而して東國通鑑提綱と題しながら其記事の三國に止まるは、撰者既に彙纂麗史の著あるが故なりといふ。本書は其凡例の一に「國君嗣世、踰年改元、乃禮之正、金富軾三國史記、皆以先君薨年改元、大失春秋之義、故權近史略、踰年稱元、以正其失、徐氏通鑑既論斥富軾、而强從之其謬甚矣、今悉改正」とし、三國史記及東國通鑑の踰月稱元を排斥して踰年稱元法に改めし爲め、國王在位の紀年には此書と史記通鑑との間に一年の差あり。朝鮮に此稱元法をとりし史籍少からず。讀者の注意を要するものなり。正宗王代に安鼎福の序を附して刊行せり。要用ある書に非ず。
 東史會綱 肅宗英祖間の學者老村林象コの撰なり。小生が閲覽せし帝國圖書館本は寫本にして十三卷あり。之に補遺四卷合せて十七卷ありしが、東史綱目の採據書目には二十四卷と外に附論等ありとし、朝鮮總督府の解題には十二卷とせり。刊本ありしといふ。凡例によるに此書、立綱附目一に朱夫子の綱目に禀ひ、其分類例に通變を行へり。三國より高麗恭愍王までの編年史にして、其筆を此王に止むるは其意の在る處を知るべく、禑・昌二王を記するに廢王の二字を冠し、辛姓と認めざることを暗示せり。本書、諸書を參見して旁蒐去取し論辯諸條には編者の見を記せり。然れども必讀の書にあらず。
 東史綱目 十七卷、首卷一卷、附卷二卷、計二十卷あり。朝鮮英祖・正宗〔正祖〕間の學者安鼎福の編なり。鼎福は順庵又橡軒と號し、學を有名なる星湖李瀷に受け識見あり。本書は私撰の此類の史籍中最も優りたるものにして、編年綱目の體をとり、檀君より高麗末に及び、禑・昌二王の辛氏説を排斥せり。其採據の書には日本の史籍なしと雖も廣く支那史籍を包有せり。其編纂が義例に拘泥せるは編者の宗旨上止むを得ざるものなるべし。書中地名の下には今名を注記せり。これには誤説を其まゝ記せるものもあれど、其説舊來のものなるを以て研究者が必ず一たびは正否を審査せざるべからざるものなり。附卷二卷は目を考異・怪説辨・雜説・地理考・疆域考正・分野考に分ち、編者の考證所見を錄す。近時朝鮮古書刊行會之を刊行せり。座右に置くを便なりとす。
 東國史略の類 三國・高麗時代の事を記せる擧要の書には東國史略・三國史節要等あり。三國史節要十五卷は朝鮮世祖王が盧思愼・徐居正等に命じて編せしめし新羅・高句麗・百濟の三國史なり。小生未だ其書を見ずと雖も撰者より推せば東國通鑑を出でざるべし。東國史略は權近・李・・河崙等が王命を奉じて撰し、太宗王三年八月に成りし書にして、三國史記を取りて撰輯せる編年體なり。一に之を三國史略と稱すといふ。小生未だ此書を見ず。此外に東國史略或は朝鮮史略と稱する書に柳希齡の撰と傳ふるものあり、柳希春の撰と傳ふるものあり。小生甞て撰者の名を記せし此種の書を見しことなし、現今流布する朝鮮史略は六卷あり。檀君より高麗末までの編年略史にして、朝鮮の「十八史略」とも稱すべきものなり。權近等の撰みし書とは全く別異なり。前記二柳のいづれか一の撰なるべきか、是亦明白ならず。撰者全く不明なり。此書萬暦四十五年支那にて刊行せしことあり。四庫全書中に入りし唯一の朝鮮史籍なり。明の東援將士が携歸せしものなるべきか。朝鮮にも刊本あり、東國史略と題せり。日本にても文政五年昌平黌にて明刊本を底本とし、朝鮮刊本を參照して刊行せしを以て廣く行はれしが、今や其書稀少となれり。(大正五、九、一)
 以下李朝史と特殊の題目に關するものを説明すべし。李朝の研究には先づ李朝歴代實錄を第一となすも、卷帙浩翰なるが上に朝鮮にては總督府及李王家に、内地にては東京帝國大學に所藏するのみにて、いづれも貴重書籍なるを以て一般の研究者には見ること難きは遺憾なり。李朝後期の史料に至りては承政院日記を始めとし諸日記・諸謄錄の類數多遺存し、現今朝鮮總督府に保藏せらる(大正二年刊行朝鮮總督府圖書目錄を見るべし)。是れ舊朝鮮官府の作成せる記錄文書に屬し、貴重中の貴重なるものなるが故に容易に閲覽しうべくもあらず、亦普通の研究程度に對しては高遠にすぐるものなり。是等書籍の多くは朝鮮總督府調査刊行の「朝鮮圖書解題」に解題あり、就て見る可し。今研究の栞なるに止まる本篇に於てはたゞ普通一般の書籍に就てのみ説かんとす。
 朝鮮書籍の蒐集の最も多大なるものは朝鮮總督府にして、内地に在りては東京帝國大學・帝國圖書館・大阪圖書館等なるべし。次に紹介する書籍の多くは此等大圖書館ならずとも閲覽の便あり個人に購求の途あるものなり。

第六 國朝寶鑑

 九十卷 李朝の編年史にして官撰なり。撰書の主旨は李朝歴代君王の嘉言善政、範を後王に垂るべきものを誌すにあり。世祖王の時、太祖・太宗・世宗・文宗の四寳鑑成り、肅宗の時、宣祖寶鑑成り、英祖の時、肅宗寶鑑成り、前後併せて六王の寶鑑ありしを、正祖王の時、英宗寳鑑を撰するや、更に十二王の寶鑑を撰し、之を統一して、國朝寶鑑六十八卷となせり。〔正祖王六年西紀一七八二〕其後憲宗王十四年(西紀一八四八)正宗・純祖・文祖の三寶鑑を撰し、李王隆熙二年(明治四十一年)憲宗・哲宗の二寳鑑成り、合せて九十卷刊行せられたり。  本書は極めて修飾せられたる李朝史なり。其材料は主として各代の實錄より採りたるものなれど、其撰書の主旨より推して、之に據りて事實の眞相を見ることの難きは明白なり。事件の時王に利あらざるものは之を記すことを避け、而して其避くること能はざるに至りては極めて體裁よく之を記せり。一例を擧ぐれば淺見倫太カ氏が摘示されし如く、仁祖王五年丁卯の大難を記するに「正月上幸江華、四月至自江華」とし、丙子・丁丑の大事件を記するに「上幸南漢山城、上至自南漢山城」の語のみを以てするの類是なり。尤も斯かる修飾は自國官撰の書には免れ難き弊にして、此書を更に史料として撰みし史籍の襲踏する缺點なりとす。三國史記などにも此類のもの少からざるべし。尚ほ國朝寶鑑は燕山君・光海君など廢位の王は之を有せず。本書は上述の如く記事一方に極偏し修飾あれども太祖より哲宗までの編年史として先づ一讀すべきものなり。

第七 燃藜室記述

 正編三十卷、續編七卷、別集十九卷あり。正編は太祖王代より顯宗王代に至るまで、續編は肅宗王代の記事本末體の史籍なり。各王代に就きて其故事本末を誌し、次に各代の人物傳を附載す。別集は李朝の祀典・官職・政教等、各王代に分入しがたきものを收む。本書は約四百種の野史・隨錄・日記・文集の類より史料を綴拾し、原文の儘に羅列し、其出典を注し「述而不作」の意を附せり。實に李朝末期の史家の創意に出で、彼の大日本史料の體裁の先驅を爲すものなり。此書稿本のまゝ世に行はれ、之を大別して二種の本あり。一は著者の初稿本にして、他は著者が後に修整せる本なり。別に此二本より出でゝ轉寫の際改變せられたるが爲に生ぜし異本數種あり。朝鮮古書刊行會本は好良なる修整本に屬す。
 撰者に就きては「智水拈筆」には圓嶠李匡師の撰とあれ共、李參奉集〔李匡呂、字聖載、號月巖の文集〕に收むる圓嶠の墓誌によるも、燃藜室記述修整本に附する撰者の序文によるも、圓嶠の撰にはあらざるが如し。朝鮮人士の間には圓嶠の子李肯翊の撰なりとの説あり、彼の修整本序文より推すに此人の撰なるべし。朝鮮總督府調査編纂の「朝鮮圖書解題」は此説を採れり。肯翅の傳記は右圖書解題に左の如く誌されたり。
李肯翊字は長卿、燃藜室と號す、全州の人圓嶠匡師の子なり、英祖丙辰に生れ純祖丙寅に沒す、圓嶠の文章と筆名は一世に冠たり、其子肯翊亦潁悟人に絶し、家庭の學を受け著述甚だ富む、少論の論議を最も强硬に主張せし爲、老論局に當るに及び全家酷禍を蒙り縁座して仕官を得ず、竄謫頻數なりしを以て文獻遺失したるもの多く、惟燃藜室記述の一部のみ今に至りて傳へらる
 さて斯く史料を羅列し諸家野史の文を分類轉載せる史籍には、燃藜室記述の出でし前には朝野僉載野漫輯あり、此書と時代を同うして朝野輯要あり藥坡漫錄あり、共に編年にして往々記事本末の體を交ふ。其他朝野會通等三四あり、皆な英祖、正祖の頃に成れるものゝ如し。燃藜室記述は其最も優れたるものにして、朝野僉載之に次ぐ。

第八 紀事類

 肅宗・景宗頃までの事蹟は、燃藜室記述其他前記諸書の如き、寫本を以て世に流布稀ならざる書によりて一應の調査をなすこと難からざるも、英祖以後の事蹟に至りては之を一と纒として記せるものなし。其これあるも極めて簡單なる童蒙の教科書類に過ぎず。然れども此等諸王には紀事と名づくる書あり。恐くは大官世家に於て朝報の類より轉寫せしものなるべし。必ずしも一家一代に成りしものにあらざるが如し。余が見し本中英廟紀事のみは紀事本末體にして稍々類を異にし、或は紀事と稱すべきものにあらざるかの疑あり。正宗紀事純祖紀事憲宗紀事みな編年逐日の日記體にして、紀事詳密にして實錄の體裁を備ふ。惜い哉正宗紀事の外傳本甚だ少し。哲宗時代のものは未だ見たることなし。

第九 小説隨筆類

 李朝に至りて學者・文士が見聞を錄し意見を吐露せる小説漫錄の類多く出でたり。當時の世相人情を知るが爲に一讀すべきもの少なからず。其記事中往々貴重なる史料あり。李朝末期の人にして此等の書籍を叢書とし收輯せるもの亦少なからず。會可樓外史廣史大東野乘叢史説海彙薮ありと雖も、是れ皆な個人が收輯私藏せしものにして一叢書として世に行はれたるものにあらず。内大東野乘のみは朝鮮古書刊行會にて刊行せり。寫本七十二冊あり、仁祖王以前の書五十七種を輯錄す。其書目次左の如し。

 大東野乘
慵齋叢話〔成俔〕 筆苑雜記〔徐居正〕
秋江冷話〔南孝溫〕 師友名行錄〔南孝溫〕
諛聞瑣錄〔曹伸○抄錄本也、非完本〕 丙辰丁巳錄〔任輔臣〕
稗官雜記〔魚叔權○缺下卷〕 己卯錄補遺〔安璐〕
五山説林〔車天輅〕 海東樂府〔沈光世〕
坡劇談〔李陸〕 陰崖日記〔李耔〕
海東野言〔許篈〕 己卯錄續集
乙巳傳聞錄 龍泉談寂記〔金安老〕
聽天遺閑錄〔沈守慶〕 石潭日記〔李珥〕
己丑錄 己丑續錄
海東雜錄 癸甲日錄〔禹性傳〕
癸未記事 時政非
象村雜錄〔申欽〕 亂中雜錄〔趙慶男〕
歴代要覽 再造藩邦志〔申Q〕
光海朝日記 凝川日記
光海初喪錄 長貧胡撰〔尹耆獻〕
寄齋雜記〔朴東亮〕 寄齋史草〔朴東亮〕
璿源實錄 東閣雜記〔李廷馨〕
畸翁漫筆〔鄭弘溟〕 雲巖雜錄〔柳成龍〕
聞韶漫錄〔尹國馨〕 甲辰漫錄〔尹國馨〕
松窩雜説〔李墍〕 松溪漫錄〔權應仁〕
月汀漫筆〔尹根壽〕 梧陰雜説〔尹斗壽〕
C江瑣語〔李濟臣〕 丁戊錄〔黄有・〕
逸史記聞 白日記〔申翊聖〕
癸亥社錄 默齋日記〔安邦俊〕
混定編錄〔安邦俊○大東野乘之を尹宣擧の著とするは誤れるが如し〕 柳川剳記〔韓浚謙〕
竹窓閑話〔李コ泂〕 松都記異〔李コ泂〕
紫海筆談〔金時讓〕 荷潭破寂錄〔金時讓〕
涪溪記聞〔金時讓〕
以上五十七種〔原寫本七十二冊朝鮮總督府藏たり朝鮮古書刊行會本洋裝十三冊とす〕

 叢史・説海・彙藪・廣史は皆數年前白鳥博士が朝鮮にて得られし書籍にして、今東京帝國大學に藏せらるゝといふ。各の寫本一本づゝあるのみにて一般人士に閲覽の事難しと雖も、朝鮮の小説・野乘の類の名を知る便宜を計りて、各叢書收輯の書名を擧げん。

 叢史 寫本五十冊 收輯書名次の如し、
海東樂府〔沈光世〕 乙巳誣案
寄齋雜記〔朴東亮〕 白登錄〔羅萬甲〕
明倫錄 豐安君日錄
滄江日錄 公私聞見錄
宋門記述 幄對説話
搆禍事蹟 黄江問答
芝湖編錄 *艮齋漫錄
辛巳蠱變 竹泉間説〔附〕松都記異
梅翁閑錄 換封竊科
尊攘編 三官記〔李縡〕
楓巖輯話 左溪裒談
擇里志〔李重換〕 僿説
*二旬錄〔具樹勳〕 我我錄
莊陵誌 莊陵謄錄
莊陵誌補〔李書九〕 邪ヘ懲義
闢衛彙編

 説海 寫本百冊。收輯書名次の如し。
東儒師友錄〔朴世采〕 兩先生門人錄〔朴世采〕
溪山記善錄〔李コ弘〕 退溪言行錄〔金誠一〕
牛溪年譜後説 門人問答記〔朴汝龍〕
牛山答問〔安邦俊〕 師友鑑戒〔安邦俊〕
買還答問〔安邦俊〕 松江行錄〔金長生〕
師友名行錄〔南孝溫〕 稗官雜記〔魚叔權〕
乙巳錄 高峯論思錄
眉ー日記[44頁では「眉巖日記」]〔柳希春〕 東溪雜錄〔禹伏龍〕
癸甲日錄〔禹性傳〕 松窩雜説〔李墍〕
經筵講義〔金宇顒〕 柳川剳記〔韓浚謙〕
破睡雜記〔尹新之〕 己丑錄〔安邦俊〕
*己丑記事〔安邦俊〕 辛丑〔卯カ〕記〔安邦俊〔カ〕〕
西征錄〔李純〕 壬丁事蹟〔安邦俊〕
三寃記事〔安邦俊〕 陰崖雜記〔李耔〕
留齋行年記〔李廷馣〕 遜齋日記〔李澹〕
癸甲錄 亂中雜錄〔趙慶男〕
東閣散錄〔鄭[共/土]磅カ〕 象村彙言〔申欽〕
リ窓軟談〔申欽〕 山中獨言〔申欽〕
春城錄〔申欽〕 戊午見聞錄〔李廷龜〕
疎庵言行錄〔李植カ〕 辨誣錄〔丁時翰〕
續玉露〔金尚寯〕 松都記異〔李コ泂〕
竹窓閑話〔李コ泂〕 龍泉談寂記〔金安老〕
北關記事 丙丁錄
樂全漫錄〔申翊聖〕 亂離日記〔南礏〕
銀臺日記 霽湖詩話〔梁慶愚〕
隨手錄〔金澄〕

 彙叢 寫本、十五冊。
錦城日記 己卯遺蹟〔安邦俊〕
搆禍事蹟〔宋疇錫〕 朧西紀事〔李永成〕
尤庵雜記〔宋時烈〕 乙巳傳聞錄〔或云〕幽憤錄
ク兵日記略 松溪漫錄〔權應仁〕
白沙雜記〔李恒福〕 *白沙雜著論辨〔安邦俊〕
朝天紀聞〔李恒福〕 漢陰言行錄〔李貴〕
沙溪筵席問對 沙溪語錄〔宋時烈〕
*朝天紀聞 野史初本〔李植〕

 廣史 第一集より第八集まで百六十冊中、第七集第一冊より第十八冊に至るまで十八冊を除きたる百四十二冊に收むる書籍次の如し。
  第一集
野史之流 春坡日月錄〔李星齡〕
黄兎記事〔李廷馨〕
  第二集
朝野紀聞〔徐文重〕 錦城日記
休窩野談〔任有後〕 聽松遺事〔成運〕
耳目所及〔申欽〕 公餘雜載
朝鮮風俗〔李浚慶〕 磻溪雜識〔柳馨遠〕
  第三集
野史初本〔李植〕 重峰朝天記〔趙憲〕
然松雜記〔權得己〕 觀時錄
己丑事蹟〔黄赫〕 慕堂日記〔黄赫〕
懲錄〔柳成龍〕 筵中説話〔尹卓然〕
癸巳日錄〔姜〕 渉亂事蹟〔姜〕
壬辰遺聞〔閔鼎重〕 辨誣私記〔尹推〕
己卯遺蹟〔安邦俊〕 隴西記事[38頁では朧西紀事]〔李永成〕
文谷行錄〔金昌翕〕 文谷臨命日記〔金昌翕〕
乙巳傳聞錄 郷兵日記略
  第四集
於于野譚〔柳夢寅〕 明倫錄
示兒代筆〔李植〕 敍後雜錄〔李植〕
西征錄〔洪翼漢〕 北行錄〔洪翼漢〕
白沙雜記〔李恒福〕 白沙雜著論辨〔安邦俊〕
默齋日記〔李貴〕 谿谷漫筆〔張維〕
C江思齋錄〔李濟臣〕 C江詩話〔李濟臣〕
玉溪破顏錄〔李貞敏〕 東文問答〔金春澤〕
  第五集
凝川日記〔朴鼎賢〕 筵中講啓〔朴世采〕
隨筆錄〔朴世采〕 正庵雜記〔李顯u〕
石室語錄〔尹宣擧〕 瀋館錄
六吾堂日記〔鄭慶欽〕 南溪遺事〔朴世采〕
沙溪筵席問對 沙溪語錄〔宋時烈〕
北軒雜説〔金春澤〕 朝天紀聞〔李恒福〕
漢陰言行錄〔李貴〕 南冥行錄〔金宇顒〕
丁卯日記〔呉健〕
  第六集
稗官雜記〔魚叔權〕 李氏西征錄〔李純〕
丙辰丁巳錄〔任輔臣〕 戊午黨籍錄〔柳成龍〕
史禍顚末 筆苑雜記〔徐居正〕
諛聞瑣錄〔曹伸〕 龍泉談寂記〔金安老〕
坡劇談〔李陸〕 陰崖雜記〔李耔〕
秋江冷話〔南孝溫〕 師友名行錄〔南孝溫〕
思齋摭言〔金正國〕 己卯黨籍錄〔金正國〕
侯鯖瑣語〔李濟臣〕 東閣雜記〔李廷馨〕
松江時政錄〔鄭K〕 石潭日記〔附〕經筵日記〔李珥〕
白野紀聞〔趙錫周〕
  第七集〔二十冊中十八冊缺〔編者補注參照〕〕
征倭雜志〔申欽〕 王人姓名記〔申欽〕
鶴山樵談〔許筠〕 牛山答問〔安邦俊〕
師友鑑戒〔安邦俊〕 買還答問〔安邦俊〕
  第八集
宋門記述 尤庵雜記〔宋時烈〕
搆禍事蹟〔宋疇錫〕 幄對説話
黄江問答 松江行錄〔金長生〕
芝湖編錄 艮齋漫錄
辛巳蠱變 竹泉間説〔李コ泂〕
農巖雜識〔金昌協〕 三淵雜錄〔附〕龍門問答〔金昌翕〕
我我錄 留齋行年記〔李廷馣〕
遯齋日記〔李濬〕 壬辰遺事〔趙リ〕
壽春雜記〔附〕魏義士傳〔李廷馨〕 疎齋漫錄
燕行雜識〔附〕良役變通議・彊域防關説・喪禮定式・江都三忠傳〔李頤命〕
松窩雜説

 以上は朝鮮叢書中の最良書といふべき廣史の收輯せる書目にして、他の諸叢書に收むるものと重複せるものあり。

(編者補註) 上記諸書中*印を附するは、今西博士遺稿中に在りし「叢書目錄」によりて補ひしものなり。該目錄には、更に廣史第七集の缺本十八冊所収の書名を史學雜誌第三十五編第三號「燒失したる東大附屬圖書館所藏貴重書、朝鮮史の部」によりて補記し、また第九集・第十集を史學雜誌同上號及び增訂叢書擧要卷九によりて補記せられたり。その書目左の如し。
 (第七集)
黄兎記事(李廷馨) 筵中諺話 文谷行錄(金昌翕)
再造藩邦志(申Q) 李氏西征錄(李純) 諛聞瑣錄(曹伸)
白登錄(羅萬甲) 尊攘編(李縡) 左溪裒談
忠逆辨 海東樂府 東溪雜錄
 (第九集)
公私聞見(鄭載崙) 涪溪記聞(金時讓) 紫海筆談(同上)
荷潭破寂錄(同上) 退憂漫筆(金壽興) 效顰雜記(高尚顏)
柳川剳記(韓浚謙) 豐安君日錄 滄江日錄(尹新之)
東岡講義(金字顒) 艮翁疣墨(李墍 歴朝舊聞(朴東亮)
否泰小錄(同上) 寄齋雜記(同上) 名山秘蔵(同上)
笑醒己丑錄(李壽慶) 雲留秘錄(朴東亮) 癸甲日錄(禹性傳)
聞韶漫錄(尹國馨) 關北紀聞(金時讓) 甲辰漫錄(尹國馨)
月汀漫筆(尹根壽) 五山説林(車天輅) 梧陰雜説
松溪漫錄(權應仁) 三官記(李縡)
 (第十集)
塞暄堂師友門人錄(鄭逑) 己丑逆案 勝國新書
勝國遺事(申欽) 李氏西征錄(李純) C江小説
僿説 莊陵誌 大東禪教考(袖龍頤性・草衣意洵)
丹崖漫錄 擇里志(李重換) 梅翁閑錄(朴亮漢)
眉巖日記(柳希春) 病後漫錄(崔奎瑞) 東人詩話(徐居正)
東人詩話序 二旬錄(具樹勳) 北遷日錄(鄭忠信)
明倫錄 乙巳誣案

 此種の稗史小説の類は傳寫の際、省略脱漏せる條項少なからず其本其本によりて記事の量に異同あること少なからず、東洋時報に掲載せる小生の朝鮮書籍解題に其二三を説き置けり、就て見られたし。而して此種の書籍は其著者の文集中に收めしものもあれど、然らざるもの多く、加ふるに寫本を以て少數の讀書界に傳はりしものなるを以て、一たび散逸すれば之を得る事難し。
 李朝近代百年間の書を收輯する叢書は余の管見によれば未だ見ざるなり。此時代の前半はC朝考證學風の影響を受けて、朝鮮の學問は狹隘なる經學繼傳の範圍外に一歩を出し、學問の疆域新しく開拓せられたる時代にして、多くの良書出でたり。其後半は卽ち李太王時代にして國家衰退の際なるを以て、之を收輯して叢書と成すが如き士人少なかりしならんか。或は其人二三ありしとするも、其書傳はらざるか、或は尚ほ世に出でざるか。
 野史小説の類は往々貴重なる史料を含む。殊に朝鮮に於けるが如く史料の種類存否の分量上よりして、君王身邊の日記や官府記錄の類を以て史料の大部分となさざるべからざる國の歴史の研究に於て然り。野史小説の既に散逸せるもの少なからざるも今更に悔みても詮方なし、現在散逸しつゝあり、亦散逸の恐あるに於きては之を保存すること急務なり。然り而して保存の方法は之を世に廣むるにあるのみ、之を刊行するの他に途なし。

第二章 地誌類

 朝鮮地理の研究には三國及び新羅王朝代に就きては三國史記地理志を典據とす。而して日本・支那の史籍の記事が時に此地理志以上の貴重なる史料を供すること論なし。三國時代の地理を研究せんには溯りて韓諸國・支那郡縣の地理に及ばざれば三國時代の地理亦研究すること能はず。これには漢書地理志を初めとして、唐書地理志に收むる賈耽道里記に至るまでの遼東及び朝鮮半島に關する部分及び史記朝鮮傳以下唐書に至るまでの東夷傳中の記事を燕クすべきものなり。王氏高麗朝より李氏朝鮮の初期に亘りては、世宗實錄地理志・高麗史地理志・東國輿地勝覽あり。尚ほ李朝初期に成りし地理書には慶尚道地理志の類あり。此地誌類を添削し集成せるもの前記の實錄地理志なれども、共に未だ世上に流布せず、加ふるに其記事中地方沿革に屬するものゝ如きは輿地勝覽に誌せるを以て、一般の研究には勝覽によりて不可なし。高麗史地理志は輿地勝覽郡縣沿革の條と撰者を同うするを以て、彼此相用ゐて信を稽ふべきにあらず。東國輿地勝覽に繼ぎて增補文獻備考中に輿地考あり。官撰の地誌として此兩書或る意味に於て朝鮮の地誌を完成す。但し城郭・烽燧・驛坫に付きては高麗史兵志、文獻備考兵考を併せ見るべし。王氏高麗國都及び宋・高麗の交通路研究には宣和奉使高麗圖經最も貴重すべし。朝鮮一般地理を論述せるものに李重煥の八域志あり、擇里志東國山水錄・總貫等の別名あり、廣く世に行はれ、我國にても明治初年一部分の直譯出版あるに至れり。朝鮮地理を説くこと簡潔にして明快なり、一讀を要す。東國名山錄・山經道里考等亦參考すべし。
 地方誌には郡縣必ず邑誌あり、各道には此邑志を聚成して一括とせるが如きものあり。邑誌類の世に行はるゝもの、新羅の故都慶州の東京雜記、高句麗の故都にして王氏高麗の西京たりし平壤の平壤誌(一名西京誌)王氏高麗の故都開城の中京誌(一名松都誌)は有名にして、總稱して三京誌の名あり。其他咸興の咸山誌、義州の龍灣誌、廣州の南漢誌、江華の江華誌・濟州の耽羅志等、邑誌中比較的完備せるものとして著明なり。各道の邑志を聚成せるものに北關志・嶺南邑誌・湖南邑誌、錦城括覽等あり、其編纂の方法・年代等によりて價値一ならず。
 地理の考證研究には丁若繧フ我邦疆域考、柳得恭の四郡志、韓鎭書の海東釋史續地理考、李瀷の僿説類選地理門、安鼎福の東史綱目註及び前記の增補文獻備考輿地考あり、新研究に滿鐵調査部の朝鮮歴史地理及び東京帝國大學の滿鮮地理歴史研究報告あり、史學雜誌・東洋學報・東洋時報・藝文等に出でたる諸論文あり。
 地圖は邑誌等に附せる各郡縣地圖などを個人の所好に從てひ輯成せるもの甚だ多く、塩ァ粗漏正確誤謬の各々差あり、其名も好みにまかせて命ぜるものにて、名同うして内容異り、内容同うして名異るを常とす。然れども源流遠く古地圖より出で、之に後世實測の地形を以てせるもの亦少からず。成書としては邱圖、大東輿地圖廣く行はれ、互に優劣の點あり。大東輿地圖は刊本あれど傳本稀少なり。而して陸地測量部の東亞輿地圖(百萬分一)と五萬分一圖とは必ず備ふべきものなり。
 以上は普通一遍の調査者の一覽せざるべからざるものにして、其一二を除きては閲覽購求容易なるものなり。地理書及び地圖の書史は「朝鮮史の栞」の如き所謂「栞」に於ては記述の範圍を超ゆるが故に之を誌さず、次に前記諸書に就て簡單なる説明をなすべし。
 三國史記地理志に就きては三國史記の條に少しく記せり。高麗史地理志は主として梁誠之の手に成りしものゝ如し。王氏高麗時代州縣の沿革を敍し、其記する所輿地勝覽の沿革記事と大差なし。三國史記地理志の説は其まゝ襲用せり。古代地理の研究には三國史記地理志とともに必ず見ざるべからざるものなり。
 慶尚道地理志は世宗王六年甲辰(西紀一四二四)及び七年乙巳に朝鮮地理志纂成の資料として、八道に規式を示して各地理志を纂成せしめ、春秋館に轉送を命ぜしに、是歳慶尚道より提出せしものなり。今存するは其副本とす。  慶尚道地理志續撰は睿宗王元年己丑(西紀一四六九)八道に命じて前志を續撰せしめしとき慶尚道の提出せしものなり。
 前志は副本を、續志は原本を韓國政府より總督府に受け繼ぎしより、係り員諸氏の注意を引き貴重圖書として保管されありしが、昨年三浦博士係員の一氏より其存在を聞知して之を画、し、其研究を發表せられしかば廣く世に知らるゝに至れり。博士の所説は朝鮮彙報大正五年十二月號及び藝文第八年第一號にあり、就て見るべし。  世宗實錄地理志八卷は前記世宗王の時、ヘ命を以て各道より提出せしめし地理志〔前記慶尚道地理志は其一なり〕其他の資料に據りて史臣尹淮・申穡等が推覆して纂成し、世宗王十四年壬子(西紀一四三二)に成りし地理志ありしを、文宗王代に世宗王實錄を撰するに當り、此地理志の各道の記事の末に壬子後に起りし州鎭新設廢合沿革記事を續附して之を實錄地理志として實錄中に編入せしものなり。實錄の一部東京帝國大學に保管せられてより、東大の研究者は沈重の態度を以て孜々として其研究に從事し、此地理志の如きものも別に謄寫相傳へて研究するに至れり。  此書八卷、各道を一卷とし、先づ道の沿革を記述し、次に各府州郡縣に就きて其官員・沿革・城郭・宮殿・祠宇・山川・四境・人口・軍數・姓氏・人物・陵墓・古傳・靈異・土質・田結・土宜・陶器所・驛院・烽火・牧場・寺刹等を擧げたれども、沿革土宜等二三の事項の記事を除けば、他は輿地勝覽に比して甚だ簡略なり。但し戸口・軍數・陶器所・田結等の各項は勝覽に全く削除せり。
 當時慶州府には三國史記・三國遺事の冊板を藏し、其書の流布すること京城よりも多かりしを以て、慶尚道地理志が其沿革を敍するに當り、三國史記地理志を採りしこと明白なり。實錄地理志に至りては三國史記地理志の未詳とせるを、更に研究を進めて考證せるものあり。小生は慶尚道地理志を檢せし時疑を生じ、且つ研究上の興味を感ぜしは其各郡縣戸口數なりしが、更に實錄地理志に誌す相當郡縣の戸口數を見しに、慶尚道地志と其編纂年代が數年を距るに關せず、何等の增減なきに一層疑を深くせしに、實錄地理志に「本朝人口之法不明、錄于籍者僅十之一二、國家毎欲正之、重失民心、因循至今、故各道各官人口之數止此云云」と注記せるを見て實情を知るを得たり。八道地理志は輿地勝覽より更に研究の歩を進めんとするもの、見るを要するものなり。
 新增東國輿地勝覽 五十五卷、李朝官撰の地理誌なり。此書第一稿本五十卷、成宗王十二年に成りしを、更に改撰し新撰輿地勝覽五十五卷として王十八年丁未に成りしを刊行頒布せしが、燕山君の代に又讐校訂正して五十五卷とし刊行せしも、王の末年には私藏を禁じたる事あり。現今世に存ずるものは中宗王代に至り燕山時代に訂正添削せし書に新記事を添錄せしものにして、新增東國輿地勝覽と稱し五十五卷あり。其成るや直に刊行せられて廣く世に流布せしが、後壬辰の役に冊板散失し冊子また稀少となりしかば、光海君の時二三の改訂を行ひ、其三年辛亥再び刊行せり。現今世上に存在するもの多くは此再板本なり。
 本書は政府の力を以て諸種の材料を蒐集し、史臣及び一流の學者の撰せしものなり。彼の實錄地理志の如きは其資料の一なりしなるべし。本書編纂の次第につきては東洋時報第二百六號(大正四年十二月號)所載の拙稿「朝鮮書籍解題二十一 東國輿地勝覽」に詳述せり、就て見られたし。右解題に「本書は大明一統志に傚ひ云云」と書せるは當時小生の研究淺薄なりしより出でし誤謬なるを以て、茲に訂正せんとす。本書は體裁を大明一統志に法りしと雖も徒らに一統志の體裁凡例を移しとりしものにあらずして、方輿勝覽(宋の祝穆撰)と大明一統志との凡例を取捨し更に添削せるものなり。
 本書の題詠の一目を設けたる外に名勝古蹟に關する詩賦序記を關係物件の下に臚列せるは、範を方輿勝覽にとりて勝覽と名づけたる所以にして、單に地志を以て見るべきにあらず。大明一統志には仙釋の一條あるを、本書は全く削除せり。而して最も注意すべきは、彼の慶尚道地理志に誌せる地誌書き上げの規式を見るに「本邑姓氏某某合屬某縣姓氏某某是如分棟施行事」とありて地方の姓氏を記錄せしめ、實錄地理志にも姓氏の一條目あり、輿地勝覽にも此の一條目あることなり。姓氏を錄することは方輿勝覽にも大明一統志にも其他支那地誌類に見えざる事にして、朝鮮地誌の特色なりといふ。(此姓氏の條目の支那撰述の地誌に無きことを注意すべしとは稻葉岩吉氏より與へられたるヘ示なり、小生の考出したるものにあらず)。
 本書は二京及び八道の州府郡縣の各に就て、建置沿革・郡名姓氏・風俗・形勝・山川・城郭・烽燧・宮室・學校・驛院・橋梁・部坊・公廨・佛宇・祠廟・陵寢・古蹟・名官・人物・孝子・烈女・題詠等に目を分ちて記述し、且つ詩賦序記を收錄せり。其編纂以來、李朝の地方行政區劃には變動なかりしにあらずと雖も、大體に於ては其後四百年間大變革なかりしを以て、其記事中の或るものは近代もしくば現代に至るまで變革なきものとして、直に採りて參考に資する事をうべしと雖も、本書が約四百年前撰述の書なることは、此書を參考するに當り念頭を去らしむべからず。
 本書は幾多の資料より編纂せしものなるを以て、記事に誤謬または矛盾あること少なからず。小生が燕ラなる調査をなせしは未だ一小部分にすぎざるも、此中より既に數條を發見せり。然れども是れ實に一微細なる小疪にすぎず、本書の價値はこれによりて減ずるものにあらず。本書は朝鮮の歴史地理研究に典據とすべき重要書籍にして、李朝文藝史を飾るに足るものなり。尤も其地方沿革記事の如きは三國史記地理志に記事あるものは之を採れり。本書沿革の絛と高麗史地理志とは執筆者を同うするが如きを以て、彼此相證用すべきにあらず。沿革の記事には撰者の獨斷若しくば前人の獨斷説も少なからざるべし。本書の中宗王代の刊本は極めて稀少にして、小生の知るものは内閣文庫の文祿慶長役分捕本あるのみにて其他にて見し刊本は光海君三年の刊本なり。これとても多く遺存せず。近年の活字本に京城刊本と朝鮮古書刊行會本とあり。京城刊本は刓缺甚しき惡本を底本とせるを以て空闕多くして全く用をなさず、古書刊行會本は光海刊本より出でし寫本を底本とせるものなり。此刊行本出でてより何人たりとも容易に此書を購求するを得るに至れり。
 增補文獻備考は東國文獻備考を李王隆熙二年に增補改編して改稱せるものなり。二百五十卷の中、輿地考は卷十三より卷三十九まで二十七卷を占め、英祖王朝第一次の編になりし十三考の一なる輿地考に、正祖王代に成りし宮室考を加へ、正祖及び隆熙年間の兩度に增續せるものなり。歴代國界・郡縣沿革・山川・道里・關防〔城郭海防海路に分つ〕北間島疆界・西間島疆界・宮室の諸絛を記述す。李朝の地理を攻究するには勝覽と共に必要の書なり。但し其記事には往々誤謬あり。近時の活印本(五十一冊)あり。
 宣和奉使高麗圖經は宋徽宗皇帝の宣和年間に、高麗に使せし使節の一行に徐競なるものありて、歸國後其見聞を圖にし、之に説明(經)を加へて皇帝に奉りし書なるが、圖は康の變に亡び、文のみ流布して宋代より刊行あり、明代に重刊せられ朝鮮にも早くより刊行ありしが、乾隆年間に至り鮑廷博の知不足齋叢書に收めらるゝに及び廣く世に知らるゝに至れり。其書四十卷あるも圖を失へるを以て實量に於ては三四卷にすぎず。此書は高麗中頃の民情文化を知るに必要のものなるが、其地誌に關する主要なる條項は城邑・門闕・宮殿・海道の諸條にして、海道の條は宋・高麗の航路を記して詳なり。説郛にも本書を收むれども海道の條を抄錄せしものにすぎず。朝鮮古書刊行會の活字本あり。
 八域志は正祖王頃李重煥といふ人の著はせしものにして、四民總論・八道總論・八道各論・卜居總論・地理・生利・貿遷・人心・山水・名山・名刹・海山・四郡山水・江居・溪居・四民總論(再)の諸題に分ちて論述せる朝鮮地理書の名著なり。讀みてuする所多し。此書に種々の名稱あること既記の如し。朝鮮古書刊行會の活字本あり。  邑誌に就きては一々之を解説すること難きを以て其三京誌に就てのみ説かんとす。
 東京雜記は新羅の古都にして高麗の東京たりし慶尚道慶州府の地誌にして、府の舊志に本づき李朝顯宗王十一年庚戌、府使閔周冕が進士李埰・金準を纂集都監として纂補し刊行せるものなり。輿地勝覽を主として三國史記・三國遺事・高麗史・東史纂要等と府の官文書とを重なる資料として編せるものなり。目を分つこと五十、分ちて三卷とす。
 本書が書籍の記事を纂錄するに重きを置き、實査の記事を缺き、郷人の諺傳、俚俗の口碑を採取するに務めざりしは惜むべしと雖も、新羅故都の研究には必要の書なり。肅宗王三十八年壬辰に至り慶州府尹權以鎭、本書の誤謬を指摘して刊誤一卷を著はせり。增補文獻備考は之を誤傳して本書を權以鎭の編となせるは非なり。本書の冊板は其後若干枚を補刻して、今尚ほ慶州に有り。古書刊行會活字本あり、光文會活字本あり。光文會本には權氏の刊誤をも附せり、此本を可とす。  中京志は高麗の故都開城府の地誌なり。仁祖王二十六年戊子、府の留守金堉、時の遺老曹臣俊の松都雜記に勝覽の所載を摭りて松都誌を編して刊行せしを、肅宗王二十六年、府の留守李塾之を增續し上下二卷とし、英祖王三十三年丁丑、留守呉遂采其後に起りし事實を增續して松都續誌を編せり、其後或は補遺を作り、或は續編を作るものありしが、純祖王二十四年留守金履載なるもの諸編を會通し一部五卷の書とし、中京誌と改題して改刊を企て、王の三十年庚寅に成れり。今世上に流布するは哲宗王末年の刊本にして十一卷あり、卷外に地圖と宋の徐競の地理説とを收む。第一卷高麗紀年・國朝記事、第二卷疆域より第十一卷麗陵參奉に至るまで題を分つこと五十なり。本書は輿地勝覽の如きは直に之を轉載して其實地を燕クせず、机上の編纂にのみ止まるものありと雖も、是れ朝鮮の地方誌に普通なる弊にして、本書にのみ責むべからざるものなり。本書は高麗朝文物の研究には缺くべからざる書なり。古書刊行會の活字本あり。
 平壤志は或は西京諒とも稱す。高句麗の都城にして王氏高麗の西京たる平壤府の地誌なり。正編九卷、續編五卷、外に補續あり。正編は宣祖王萬暦十八年庚寅卽ち文祿役に先つこと二年、朝鮮の名臣にして學者たりし尹斗壽の撰したるものなり。支那地方誌の定例に從て記述せるを以て、姓氏の題名を缺けるは朝鮮の地誌として一異例なり。現存する地方誌中其編纂年代の最も古きものなるべく、一名著なるも、詩文の羅列九卷中の四卷を占めたるは偏せりといふべし。平壤の研究には本書の必要なること言を俟たざるなり。續編五卷は英祖王初年に尹斗壽の後孫尹游なる人、觀察使として府に來任し之を編せり。正編と共に併せ見るべし。余が見し刊本は正編續編共に憲宗王三年丁酉平壤府にて重刊せしものにして、此時續添せる事項あり。
 朝鮮學者の古代地理の考證研究の變遷を尋ぬるに、王氏高麗時代に於て金富軾の如き王氏高麗をして新羅朝を繼承するものとの意見を抱くが如く認めらるゝ人は、高氏高句麗の故地の明ならざるものは之を强て或る地に推定せざりしと雖も、之を高氏高句麗を繼承するものなりとの意見を抱く人は、其後に至り高句麗の故地を盡く王氏高麗の領土内に在りと推定立説するに至りし如し。但し金富軾等が高句麗の故地の不明なるものを不明なるまゝにして顧みざりしは、其反高句麗的感情より故意に出でたるにあらずして、ただ其攻究的感興を起すに至らざりしが故のみ。金富軾等が新羅貴族系の人なるに對して、後者は非新羅系の家門の人々なりしならんか。前者は説を立てざりしを以て後者の説はやがて定説となりしが如し。李朝の地理學者に至りては之を古傳説の正しきものと認め、終に之を官撰地理書に著錄するに至れり。然るに麗末に至り、元帝國の統轄力の弛むに乘じ、朝鮮は野人を征して地を東北に拓し李朝に至り豆滿江を界とせんとするに當り、李朝は古所有の因縁を以て境界を劃し得べきものとし、高麗の尹瓘の征服地の如きは遠く豆滿江外に及びしと立説せしが、是れまた官撰地理誌に著錄さるゝに至れり。されば官撰地理志は西北に於ては江外のものをも江内にありと記する奇觀を呈するに至れり。燕山後、半島には經學のみ行はれて古地理に就て研究するものなかりしも、宣祖王の末頃より地理を研究し歴史を論ずる學者漸く多く、歴史地理研究の氣風起れり。之を代表するものは肅宗王代の李瀷(星湖)とす。李瀷の説は僿説類選地理門を見るべし。僿説類選は古書刊行會にて刊行せる本あり。李瀷の説には尚ほ淺薄なるものあり。此時代は朝鮮に於てはC朝反抗の艶_熾盛にして、彼等の注意は西北にあり、終に朝鮮古地を鴨麹]北のC領土にありしとし、此地本我に屬せりと憤慨するに至れり。李瀷の學風を受け更に古代地理を研究し進歩せしめしは彼に師事せし安鼎福なり。其説は其著せし東史綱目の注及び其文集順庵集中に載す。而して李瀷と代を異にせるも其學風を慕ひて憤起せるは丁若繧ノして、其説は有名なる我邦疆域考となれり。丁若繧ニ同時に柳得恭あり、四郡志を著はし、韓鎭書あり、海東繹史續地理考を著はせり。共に正祖より純祖時代に亘るの人なり。而して特に注意すべきはこれより少しく先だちて英祖王代に文獻備考輿地考の成りしことゝす。丁若纉凾フ著書が文獻備考の説の影響を受けしは少々ならざりしなり。然り而して前記諸書の説が一家言にすぎざるものなることは注意すべし。其書の説の批判は近來日本學者に於て試みられたり。前に記せし日本刊行の雜誌及び研究報告に就て見るべし。
 東國文獻備考は早くより我國に傳はりしを以て明治年代の朝鮮古代地理を論ずるもの、此書の説より影響を受け此書の説先入して判斷を誤らしめし事なきにあらず。丁若繧ヘ正祖王代に官承旨に至りしが、純祖王元年黨禍に罹り天主ヘ徒なりと誣せられ地方に配流せられ、久しく流處にありて多くの著述をなせる學者にして、我邦疆域考は其一名著なり。李太王光武七年〔明治二十六年〕此書を增補し大韓疆域考と改題し京城にて刊行せしより廣く世に流布せり。但し、其增補は蛇足なり。柳得恭も亦正祖王代の學者にして四郡志は漢の置きし樂浪・玄菟・臨屯・眞番及び帶方に關する文獻を類聚し、之に其按説を加へたるものなり。四郡の研究には一讀を要するものなり。古書刊行會にて刊行せり。韓鎭書は有名なる海東繹史の編者にして柳得恭の友なる韓致奫の姪なり。鎭書は叔父の意をつぎて此書を編し其成れるは純祖王二十三年癸未にあり。十五卷ありて朝鮮の古地理に關する書誌の記事を輯し、これに按文を附し甚だ便利なるものなれども、其按文中に柳得恭の説を剽窃せるにはあらざるかと思はしむるものあり。
 地圖に就て邱圖・大東輿地圖を解説せんとす。邱圖は二冊あり、寫本を以て行はる、邱は朝鮮の雅名なり。純祖王三十四年甲午金浩然の撰みしものにして、正祖王十五年辛亥に王命ありし按線表の法によりて作圖せしものなり。大東輿地圖は邱圖の類を校訂し、哲宗王十二年辛酉刊行せるものにして二十二幅あり。山川の位置正しく記名正確なれども、道路は兩重要地間を直線を以て其の所在を示し、點を附して里數を示せるを以て其實を失せる部分あり。朝鮮舊地圖中の第一と稱すべきものにして、賞嘆すべし。陸地測量部五萬分一圖或は二萬五千分一圖と併せ見るべし。  以上地理研究の參攷書につきて大體を記せり。之を以て本章の終りとす。但し「朝鮮史の栞」は之を完結せんとせば尚ほ數章を要すべく僅に第二章地誌類を以て終るべきにあらざれども、種々の關係上こゝに擱筆することゝなせり。

(史林第一卷第三・四號、第二卷第一・二・三・四號
大正五年七・十月、六年一・四・七・十月)


朝鮮史概説(講演手記)

緒言

 茲に六日間十二時間を以て諸君の前に講演せんとするは朝鮮史の概説なり。初め余は僅少の時間を以て、二千年に亘れる朝鮮史の概説を講演せんことは頗る困難なるを以て、或る特殊の時代又は事件に就て講演せんと期せしも、終に概説を講演する方が、朝鮮といふものを紹介するに効果多かる可しと考へて是に至れり。
 朝鮮は今日となりては我が帝國の一部分にして、永劫に離るべからざるものなり。且つ須らく學問といふ高遠なる見地を離れて、目前の實用上より見るも、其知識は極めて必要なるにも關はらず、我が國人が其歴史の知識は甚だ缺乏せり。余は甞て朝鮮に於て朝鮮人教育に從事する人々――我が國の教育者より選拔せられたる人々――が書ける朝鮮郷土史料の幾冊かを閲せしことありしに、朝鮮王を朝鮮の皇帝といひ、甚しきは天皇と稱し、其他の用語日本の宮廷に關すると同一のものを用ゐたるを見て、此人々が朝鮮史を知らざるは許容すべしとするも、果して國史を知れりやを疑へり。我が國の學者・政治家・實業家・官吏にして、朝鮮を知りし者の最も深きものすら、朝鮮の現在の表面を知りしのみ――朝鮮に就て議論するものゝ多くは此現在をも知らざる者多し――その過去を知らざりき、其内臟を知らざりき。巖冬の候に葉落ち草枯れ水流れず、土は凍りて荒凉を極めたる景を見て、其地が春に於ては如何に花咲くや、夏に於て如何に繁茂するや、秋に於て如何に收穫ありしやを知らざるべからず。
 以下講ずる所、諸君に或物を與へ得るとの自信なきも、多少たりとも朝鮮に關する知識を傳ふることを得ば本懷の至りなり。
 朝鮮史は韓民族の歴史なれど、これには今日の朝鮮民族を混成する扶餘種の高句麗・百濟の歴史も添はざるべからず。更に一歩を進めて獨り韓民族のみならず、極東諸民族に重大なる影響を與へし半島に於ける支那の郡縣の盛衰をも説かざるべからず。この支那の郡縣のことは外篇として述ぶ可し。

第一編 上古

第一章 原始時代及び開國傳説

 吾人が文獻に依りて知り得る限りの時代に於ては、今日の朝鮮人の先祖は既に半島に定住し、部落的小國を形成し居れり。但しこの朝鮮人はいづれの地より來りしか、半島の原住民なりや後住民なりやは容易に決し難き問題なり。朝鮮人と日本人とは人種としては最も近きものなることは言語・體質に於て疑ふべからざるものなり。人種學者は Koreo-Japanese group を認む。吾人もこれに異議なし。併し日本人と朝鮮人とが別れしは歴史時代以前にありて甚だ古く、僅に其痕跡を言語と體質とに殘すにすぎず、畢竟人種の問題にして歴史の問題にあらざるなり。原始時代に於て日本人と朝鮮人とが同一の地に住し、同一の言語・風俗を有したる時代ある可し。或は日本より分れて朝鮮に入りしか、朝鮮より分れて日本に入りしか、或は第三の地より分れて、或者は日本に入り、或者は朝鮮に移りしか、全く不明なり。世上の日韓同域論者の説の如きは余の採らざる所なり。兩民族の分離は非常に悠久なる上古にありしと知る可し。次に起る問題は朝鮮人は半島の原住民なりや、或は後住民なりや、これなり。日本島に於ては石器時代の研究により、日本人が後住民なることは爭ふべからざる問題の如きも、一歩を進めて考ふるときは、關東と關西とには著しき相異ありて、關東のものは日本先住民の遺物とするも、關西のものはそれと決し難きものあり。朝鮮に於ても南朝鮮の石器時代遺物が、何民族の手に成りしかは不明なり、或は韓民族のものなるかも計られざるなり。
 紀元前三世紀、卽ち支那戰國時代に於て、半島の北部には支那文明の影響を受けて國家の姿を成立する朝鮮國あり、南には眞番あり、東南には辰國あり、東には臨屯あり。朝鮮以下三國は韓種の國なれども、臨屯は韓種と少しく異れる濊種の國なりしが如し。中最も開け國家の姿が比較的完備せしは朝鮮國にして、他は國名といふよりも、寧ろ地方名とすること事實に近かるべし。されど其地方には大酋長(干岐)ありて、諸酋長の上に立ち、薄弱ながら結合の形ありしが如し。尚ほ此外に今日名の傳はらず、且つ此等の國に屬せざる數多の國ありしこと論なし。
 從來世に信ぜられし朝鮮開國説には箕子開國説あり、檀君開國説あり。この兩開國説に就て評論す可し。
 箕子開國説 殷末の賢人箕子に就ては、支那戰國時代に箕子が蠻夷の國たる朝鮮半島中の一國朝鮮に入りて其王となれりとの傳説あり。もとより朝夷の高麗落ち、義經の滿洲落ち、西郷隆盛の露西亞落ちと同種のものにして、世人の同情より生ぜし不死論にすぎず。司馬遷もこのことを宋世家の條には書きしも、肝要の朝鮮傳には書かず、漢書も地理志にこの事を書き乍ら、其朝鮮傳には史記の其傳を轉載せるのみなるが、第三世紀の中頃に魏の魚豢の魏略に至りて、この事を稍々詳しく書き、其子孫に就て記したり。この魏略の記事は陳壽の三國志及び此書の裴松之の注の記事となりて、後々まで傳はるに至れり。併しこれは樂浪の韓氏の作りし系譜を魚豢が誤りて採用したるものらしく、箕子が果して朝鮮に入りて王統を垂れしや否やの事實問題は別としても、かく後世に傳稱せらるゝ古朝鮮國、卽ち箕氏の朝鮮國には左樣の傳説は無かりしを、樂浪の韓氏が當時流行の門地を粉飾する爲めに、この朝鮮王の後なりと稱して假作せるものなるべし。これが一たび正史に錄せられてよりは、動かすこと能はざる説となりしもの、後に朝鮮の故地を占有せし高句麗にて祭りし神祇の中には箕子神あり。新羅は獨特の開國傳説を有せしを以て箕子を崇祀することなかりしが、其終期には新羅は朝鮮遺民の建てたる國なりとの説を出すに至れり。王氏高麗に至りて其高句麗を繼承せりとの思想と、唐宋文藝に薫育せられたる文士の感情とは、此箕子を周の武王より朝鮮に封ぜられたる理想の君主として尊崇するに至り、事大文書などには屡々箕子の舊域なる語を用ゐて誇り、肅宗王代に至り其國の禮義教化は箕子に始まるとし、其墳塋を求め祠を建つるに至れり。今日平壤城外兔山の上に存する箕子の墓は、此時に或推定の下に作成せられたるものなり。高麗末に朱子學此國に入り、李氏朝鮮に至り明より封冊を得たる正統の王國たりといふ名義を以て、其王朝を正統にせしと、朱子學が政教の全部を支配せしとにより、箕子の故國たることを至上の矜りとするに至り、箕子の尊崇は一層高まり、終に平壤の西郊は箕子井田の跡なりと稱するものさへ出づるに至れり。
 宣祖王の初年に粟谷李珥は箕子志を作り、箕子に關する文獻を集めて刊行せるが、壬辰・丁酉(文祿・慶長)役後には朝鮮は明に藩邦再造の鴻恩を感謝すといふ念慮の熾盛なると共に、正統の天子周武王より朝鮮に封ぜられたる殷の三仁の一たる箕子の尊崇u々高まるに從ひ、光海初年には鮮于寔なる者箕子の後なりと申し出で、箕子殿監の職を世襲するに至れり。これと同時に奇氏・韓氏も箕子の後といふことになれり。この頃に至りて箕子に從て朝鮮に來りしといふ四姓の系譜も出でたり。其後英宗王五十二年に徐命膺なるもの箕子外紀三卷を撰し、前の箕子志の闕漏を補へり。かくて箕子はu々朝鮮現代の人民に近づきしが、今より百年前に幸州の奇某、石凾を開きて箕子以後の系譜を得たりと稱説し、世人は其神異に驚嘆せり。この馬鹿馬鹿しき系譜には、箕子より哀王準に至るまで四十一代の王諡・在位年數を記し、馬韓に入りて更に八代の王を昭載せり。幸州奇氏譜は之を載せて新刊せり。老儒李萬運の如きは之を杜撰謾世と評せり。然るに明治十一年儒生等は箕子志九卷を撰し、これに箕子眞像・手筆及び前記の系譜を載せたり。これより朝鮮には箕子の朝鮮王統四十一代・馬韓八代が古來より傳を有するかの如く扱はれ年表にも載せられ、歐亞紀元合表など之を載せ、我邦にても國史專攷の大家の著作せし年表にも之を載せたるものあり。併し箕子の尊崇は近年に至りて朝鮮に全く絶え、之に代りて開國の祖として檀君の尊崇起り、檀君教(大倧教)とさへ稱する教派出でたり。これ一大事件を語るものなり。次にこの檀君に就て述ぶ可し。
 檀君 新羅・高麗を通じて朝鮮には佛教非常に盛行し、上下を擧げて之を奉信せしかど、此佛教も朝鮮人の神祇に對する崇奉を驅逐すること能はず、朝鮮人は一方に佛教を尊奉信仰し乍ら、尚ほこれと共に其祖先が信奉せる神祇を信奉せり。この痕跡は今尚ほ遺存す。其神祇といふもの、其地の英雄豪傑の靈なることあり、或は更に普遍的性質の神なることあり。神を干岐といへり、今は kom といふ。其地方の守護神を仙人といふ。高麗の中頃に至り僧徒は本地垂跡説を立て、此仙人と佛菩薩との混一を計らんとせしことあり。此仙人の一つに平壤の守護神王儉仙人あり、平壤の古名王險の險の扁を改めて儉とし、人名の如くせり。高麗の中頃恐くば高宗王頃に此王儉仙人に檀君の尊號を奉り檀君王儉と稱しこれを朝鮮開國の神人とし、帝釋の子桓雄が妙香山檀樹の下に降下して生みし子にして、朝鮮を開けりとす。思うに高麗が尊奉せし中華の宋は弱くして、高麗は其北狄視する遼・金が蹴起して皇と稱し帝と號し、中原に命令し韃靼東眞の起るを見たり。高麗自身に於ても其自己が古き文化と悠久なる歴史を有するを見るときは、此蠻夷より起りし大國に對し、多少の自負心なかるべからず、彼等は自國獨特の開國の祖を欲するの情ありしなる可し。高麗は高句麗を繼承せりと自稱するもの、高句麗は王險の地たる平壤に都せり、王儉仙人は開國の神人たりとの傳説、恐くば陰陽道者流(地理讖緯説)によりて構成せられしなる可し。其邪��を醒す栴檀の尊號を有するは疫病除けの効もありし神なる可し。此檀君のことは三國遺事に載せられしを初めとす。これには箕子が封ぜられて朝鮮に來るや、檀君は避けて山に入り神となれりと記すれど、此書が他に引ける注には檀君記といふ書を引きて、檀君が西河河伯の女と婚して北扶餘王夫婁を生みしとす。此河伯女は天神の子解慕漱と婚して朱蒙を生みしと傳ふるものなり。此檀君記は今日傳はらざれど、世宗實錄地理志の記事は此書に據るものゝ如く、これには檀君は朝鮮・尸羅・高禮・南北沃沮・東北扶餘・濊貊を治めしとせり。併し檀君傳は高麗の學者文士に少しも顧みられざりしが、李氏朝鮮に入りて此説を採るものあり、世宗の頃より其尊崇起り尹淮が之を地理志に書し、徐居正が東國通鑑外紀に收錄せしより、此説は上古よりの傳説の如く見倣さるゝに至れり。李氏時代となりて檀君の祭祀も國により行はるゝに至れり。檀君は神人として、箕子は王者として、尊崇せられしが、事大の艶_盛なる時代に於ては箕子は最も尊崇せられたりしも、近年に至りて朝鮮の自主的艶_より檀君の崇拜行はれ、朝鮮人は朝鮮の宗教を奉ぜざるべからずとて、大倧教なるもの出でたり。大正三年「神檀實記」といふ書、此教徒の手に成り、扶餘・高句麗・百濟・濊貊・東沃沮・沸流・遼の王家は皆な檀君の後なりとし、且つ三一神誥といふ僞經さへ作出するに至れり。
 檀君の説がコ川時代我邦に傳はるや、寛政十一年に成りし伴蒿蹊の閑田筆耕には檀君は卽ち素盞鳴尊なりといふ對島人の談を載せたり。次で松浦道輔といふ人、慶應の末年祇園感神院の牛頭天王を佛教より離して、素盞鳴尊が朝鮮の牛頭山に垂跡せしより斯く稱するものなりとの説を立て、尊と檀君とを同一なりとするの説を立て、此説は明治年間に星野博士に裏書きせられ、次で朝鮮に檀君と尊とを合祀せんとする議さへ行はるゝに至れり。滑稽といふべきなり。
 箕子傳説といひ檀君傳説といひ、其實は如上のものなり。此外に新羅の開國傳説に、新羅王家は仙桃神母の出なりとの説あり、新羅國都たりし慶州の西に聳ゆる仙桃山には神母の祠あり。然れども仙桃神母云々の説は、王氏高麗の中頃に金富軾が宋に赴き、仙桃神母が東夷の君長を生めりといふ神仙談を傳へ來たるに基ける小説にすぎず。新羅には六部の祖先天より下れりと傳へ、王家は卵生の祖先より出づとの神話を有せり。加羅諸國の王祖は亦卵生なりと傳へ、或は天神と山神女との間に生れしとし、耽羅は穴より湧出せし三男が、日本王の三女と婚して建國せりと傳へ、高句麗には天神の子が河伯の女に生ましめしといへり。この高句麗の傳説は滿洲諸豪族の祖先の傳説として、C帝室の祖先の出生談ともなれり。この高句麗の傳説や現今滿洲方面に遺存する此種の傳説に就ては、藝文第六年第十一號(大正四年十一月)に「朱蒙傳説及老獺稚傳説」として書き置けり。
 此開國傳説は國民の思想を能く表はすものなれば、必要と思ひ意外にも詳述せり。

第二章 古朝鮮

 偖て紀元前第三世紀に半島には北方に朝鮮、南方に眞番、東南に辰國、東方に臨屯あり、その朝鮮國は韓民族の國であり、辰國も眞番も同樣なるが臨屯は濊種族の國なり。序に申すに、この濊種族は今の江原道方面に居り、沃沮といふが今の咸鏡に居りしが、沃沮は今後全く高句麗に化せられ、後には渤海に入り南方の韓種とは混せざりしが、濊は第四世紀の終り第五世紀の初めまで明白に韓種との區別を存ぜしも、其後全く韓種に入れり。
 この朝鮮國は戰國時代に燕の勢力に壓せられて列水卽ち大同江の南まで退き居たる樣なるが、何分支那方面とは海陸双方より交通の便あるを以て、意外に進歩せるが如し。燕が盛んなる時は列陽卽ち大同江北まで領有せることあるが如し。或は慈悲嶺にて境とせることあるべし。秦は燕の境界を保ちしが、漢興るや半島を棄てゝ遼東の故塞を復し、浿水を界とせり。この浿水はC川江にはあらずやと思はる。斯くなれば遼東の故塞卽ち新しき境と、燕が築きたる朝鮮内の塞との間は漢のものにあらず、併し朝鮮自身も急に此地を充塞すべき發展力なきを以てC川江より慈悲嶺までの間は空地となりしが(無人にあらず、秦末の亂を避けたるもの多く居住す)此處へ滿卽ち衛滿(魏滿ともいふ、衛魏音通)が黨千餘人を聚めて入り込み、此地方にありし亡命者を招集し之を從へ、終には南方の朝鮮を討伐して之を滅ぼし、眞番をも服屬して朝鮮といふ國を新に建て、大同江北の王險卽ち今日の平壤に都を定めたり。この古き朝鮮を、箕子來りて王たりしとの傳説あるにより箕氏朝鮮と云ひ、衛滿の朝鮮を衛氏朝鮮と云ふも、此兩朝鮮は餘程性質相異せり。前者は南方恐くば京城卽ち漢江(古の帶水)流域を中心とし韓種族の國にして、後者は北方に列水卽ち今の大同江流域を中心としたる支那民族の國なり。  衛氏の朝鮮が成立せるは、恐くば惠帝の頃、卽ち紀元前第二世紀の初期なるも、次第に其國力を增進し、漢民族の亡命して此國に入るもの滋々多く國u々强く、衛滿の孫右渠の時に及び漢の命を奉ぜざるに至りしが、時恰も漢帝國が非常の大發展をなせる武帝の時代なりき。此朝鮮に壓迫せらるゝ半島内の韓・濊の小國は、漢帝國の保護の下に此壓迫を遁れんとして武帝に訴へたり。元朔元年(西紀前一二八)今の咸南・江原の方面に在りし薉君南閭は漢に降れり。武帝は其地に蒼海郡を置きこれが經營を試みしも、地理上よりして失敗に終り、莫大の經費を徒費せる後、之を放棄せり。併し武帝が朝鮮征伐の意志は此頃よりして强固となりしものゝ如し。されど當時漢は塞外民族卽ち匈奴と大爭鬪をなし居れる時代なるを以て、區區たる側面の小地にして自己に全然臣屬せずとも侵寇的の態度をとるまでには至らざる朝鮮は之を顧みずして十數年を經たり。此間に匈奴降り、西域通じ、南越平ぎ、其世界的帝國が建設さるゝや、元封二年(西紀前一〇九)秋、朝鮮征伐の軍を出せり。一軍は水軍を編成し、山東省より出發し、列水卽ち大同江に入りて直に王險城〔平壤〕を衝き、一軍は陸軍にて遼東より南下し、浿水を渡りて王險城に向ひ、水陸兩軍協力して之を圍みしが、軍屡々利あらず、翌年夏に至りて漸く之を平定せり。
 衛滿の朝鮮國は其實は國名(政治的稱呼)にあらずして地方名なり。衛氏が韓民族の朝鮮國を滅ぼしたる後に其國名を繼承せりとするは非なり。近くは李氏朝鮮を支那人は尚ほ高麗と呼ぶが如し。

第二編 漢の郡縣及び三韓

第一章 漢の郡縣設置

 元封三年(西紀前一〇八)漢武帝は朝鮮を滅ぼすや、この衛氏朝鮮の地及び此征討によりて漢に服屬せし地に四郡を置きたり。卽ち(1)樂浪(2)玄菟(3)眞番(4)臨屯にして、各郡には幾多の縣ありしなり。(1)樂浪は今の平壤に治して今の平安道・黄海道と京畿道の一部とを管轄し、大同江流域を中心とせり。其人民の多くは漢民族にして衛氏時代の遺民の外に、置郡の後に移住せるものも數多ありしなるべし。其濃度は大同江流域に最も多く、漢江流域に薄く、其上流の如きは影を止めざりしならん。(2)玄菟郡は咸鏡方面にありて沃沮・高句麗等の種族を包有し、(3)眞番郡は錦江の流域に在りて韓種族を包有し、(4)臨屯郡は江原道方面に在りて濊貊種族を包有せり。四郡の疆域は今の慶尚道と全羅南道及び咸鏡北道を除きたる全朝鮮と、鴨麹]の中流の地なりしが如し。然れども樂浪郡卽ち漢民族の地を除きては純然たる郡縣制度は行はれず、漢の郡縣官吏の監督の下に、土人渠帥に官名を與へ、これに自治せしめたる處少なからざりしが如し。而して尚ほ四郡維持の難易は、在住漢人の多少に比例し、漢人の少なかりし地ほど困難なりき。當時慶尚及び全羅南道には韓種族の部落的小國數多存在せり。

第二章 四郡の沿革

 四郡建置の後、僅に二十六年を經て昭帝の始元五年(西紀前八二)に至り、漢民族の移住せざりし若くば稀薄なりし眞番・臨屯・玄菟の三郡は改變を行はざるべからざるに至れり。臨屯・眞番の二郡を廢し、玄菟郡も其大部を放棄し、治を高句麗縣卽ち今の興京地方に移し、三郡の地の樂浪に接する特殊の地方は之を樂浪に併せたり。これより玄菟は朝鮮半島の範圍外に出でたり。
 樂浪郡〔玄菟も同じく〕の政治に就ては、郡太守より縣令に至るまで漢の中央政府より派遣せり。但し四郡設置の初めには吏を遼東よりとれり。郡の守令にして其名を史籍に殘すもの少なからず。昭帝後の樂浪には六萬二千八百十二戸、四十萬六千七百四十人ありし時代あり。郡に三水あり、曰く浿水、列水、帶水なり。此三水が今の何江なるかは久しく議論ありき。粘蝉古碑の發見以來、列水は大同江、帶水は漢江なること爭ふべからざるに至れり。但し浿水は時代に因りて異同あり、文士亦往々國北境の河の義に此文字を用ゐたり。樂浪と漢本土とは海陸の交通容易なりしを以て、此地は事實上漢本土の一部たる狀態を呈し、本土に異らざる文化を有せり。然れども帝國の側面に在り、加ふるに新拓の地を以て、漢人の土豪となりて勢力ありしものも少なからず、彼等は門地に誇り之を本國の名門に繫け、多くの奴婢屬民を有せしが如し。現今大同江南に無數に遺存する彼等の墳墓は、其生活が貴族的の奢侈を致せしを證するに足るものあり。但し其墳墓は平壤對岸の大同江南の原野に密集し、遠く黄州方面に及び、江北に存在すといふも稀薄なりとす。前漢末の大亂に本國よりの支配力の衰退するや、土豪はu々勢力を得て、後漢の初め王調なる者、太守を殺して太守と自稱せしことあり。幸に光武帝が派遣せし新太守は他の土豪の援助を得て亂を平げしが、帝の時には單々大嶺以東の七縣を放棄せり。
 樂浪郡の設置は日本島住民卽ち倭人と漢人との交通を容易ならしめたり。兩地方の交通は朝鮮江華の方面より沿岸を南下し、今の金海地方に至り、對馬・壹岐を經て九州に入り、更に瀬戸内海を東航して畿内地方に入れり。山陰道沿岸の航路は未だ起らざりしならん。
 後漢桓帝の頃(西紀一四七―一六二)に至るや、北方には高句麗種族の興起するあり、南方には漢文明の影響を受けて韓種族・濊種族の興起するあり、郡縣之を制すること能はず、樂浪の人民も多く韓・濊に流入せり。樂浪衰退の結果は其屯有縣〔黄州附近〕以南の地は荒廢して空地となれり。こと恰も漢初に秦故空地上下障を生ぜしと同じ。
 此頃漢本國も大亂となりしが、公孫氏が遼東に割據するや、其第二世の康(西紀二〇七―二二〇)は樂浪の經營に注意し、屯有縣以南の荒地に帶方郡を新設し、將を遣し遺民を收集して韓・濊を伐ちしかば、樂浪・帶方の威稍々揚りしが、この遼東に在りて半島の韓種族を支配せし公孫氏は魏景初二年(西紀二三八)魏に滅ぼされ、魏の明帝は此年若くば前年に、密かに二郡の太守を任命し、遼東を經由せずして海を越えて二郡を平定せしを以て、魏の威遠く倭國に聞え、倭の女王卑彌呼の使節は帶方に來り、魏使も倭國に來れり。魏志に記せる有名なる倭人傳は此使節の見聞を魚豢が魏略に記せしものなり。
 然るに北方の高句麗は、西は遼東・玄菟の方面を、南は樂浪を侵寇し、勢猖獗なるのみならず、遠く南支那の呉と交通し、これに軍需品を供給するの大危險ありしかば、魏は大討伐を加ふることに決心し、正始五年・六年(西紀二四四・五)名將毋丘儉これに大計伐を加へ、此時樂浪・帶方の兩太守も相應じて高句麗に屬せる嶺東の濊を伐ち之を降せしが、二郡の官吏は言語の不通より韓種族と種々の行違を生じ、此翌正始七年若くば八年には韓民族蜂起して帶方郡を攻め、次で其大守を戰死せしめたり。二郡は一時滅亡に頻せし如し。此時高句麗は勁風の如く南進して、一時平壤を占領せるが如し。此頃まで遼東の邊陲にありし扶餘種の百濟人が南下して馬韓の一國伯濟に入り、百濟王國の基礎を立てしも此混雜の際にあるべきか。然れども二郡の秩序は忽ちに囘復せられ、帶方の威は遠く倭國に及び、卑彌呼の使節は郡に詣り狗奴國と相攻撃の狀を説けり。然れども是れ亦一時のみ、北は高句麗に迫られ、南は新興の百濟に侵され、二郡復た振はざるに至りしが、猶ほ土豪の勢力によりて命脈を維持し、晋惠帝(西紀三〇〇頃)の頃に至り、終に百濟は都を漢山(廣州)に奠むるに至りしが如し。此國は帶方を援けしことあるも、之を侵奪すること多く、加ふるに高句麗はu々樂浪を奪ひ、第四世紀の初めには樂浪の名いつしか消失して帶方の稱のみ殘れり。
 是より先き二郡の衰亡に頻するや、二郡に在りて系圖を飾り門地に誇りし豪族は、其部下の小民を率ゐ半島の各地方に流寓し、更に遠く日本に來投するものあるに至り、これと同時に支那文化は諸地方に移植されたり。
 帶方は高句麗の一蹴に滅ぶべくして尚ほ殘存せり。尤も此頃は舊治處卽ち今の京城附近と思はるゝ所を離れて平安道の南部にありしが、第四世紀の初めには遼東には慕容氏起り高句麗を抑へしかば、高句麗は南進の鋒頗る鈍りしなり。帶方・樂浪は其實大同江南恐くば鳳山の一地方にすぎざるに至りしが、遼東の張統なる者、二郡殘餘の民を率ゐて、一つの小さき半獨立國を建て居りしなり。張統は帶方太守と號して高句麗美川王と連年攻撃せしが、南北よりの壓迫に堪へず、建興元年(西紀三一三)其民千餘家を率ゐて慕容氏に歸せり。以後其地を放棄し帶方の名は地理的稱呼として半島に殘りしが、遼東には二郡の僑治ありて其政治的稱呼を存せり。茲に於て漢の郡縣は全く其痕跡を絶ちたり。實に置郡の後四百二十二年なり。これより高句麗は百濟と境を接し激烈なる鬪爭を起せしが、此時慶尚の東南には辰韓種の新羅起り勢力を振ひ、殘餘の韓種の小國加羅諸國は結束して、新に勢威の遠く海外に輝きし日本に援護を仰ぎ、日本の勢力は韓半島に加はり、これと北方より高句麗を制肘する支那方面の勢力とは、永く半島の平衡を保てり。吾人は溯りて韓種族及び三國の興起に就きて説かんとす。

第三章 三韓

 漢の武帝が半島に四郡を置きし時、半島の南方にありし韓種族は此支配の外にありき。今の江原方面に在りし濊種族も臨屯郡設置後三十年ならずして此郡の撤廢せらるゝや殆ど漢の拘束を受けず。此時眞番郡の撤囘と共に全北・忠Cの韓種族も亦獨立の狀態となれり。此韓種族は現今の朝鮮民族の主體をなすものなり。先きに朝鮮の外に眞番辰國の如き稍々强き國が附近の弱小國を附庸として薄弱ながら稍々大なる國を現出せしが、漢代に消失して久しく大國家を現出するに至らざりき。而して漢代に於ける韓種族の數多の小國は、其地理及び土俗上の別よりして三つに區別されたり。馬韓・弁韓・辰韓の三にして、馬韓は忠C・全羅に五十餘國を成して在り。弁韓正しく云へば弁辰は全體に於て慶尚道の西部に、辰韓は其東に各十二國に分れて存在せり。尤も此二つは相混在し、國の數は時代により差異あり。此等の國の中には其後に殘れる地名によりて其位置を指定し得るもの少なからず。
 諸國は既に農耕時代に進み桑蠶の技さへ發達せり。各國には長帥(王)あり大なる者は自ら臣智といへり、叱智・朱日などこれなり。馬韓には辰王と稱する大王あり、辰韓まで威令の及びしことあり。辰韓人は秦人の後と稱すといへり。併しこれは國人が附會せしまでにて採るに足らず。皆相當の開化をなせり。此三韓のことを記せしは西紀二百八十五年頃に成りし陳壽の三國志を初めとし、最も詳細なりとす。併し陳壽は魚豢の魏略より記事を轉載せしが如し。三國志の注は西紀四百二十九年に劉宋の裴松之が撰せしものなるが、此注の東夷傳の部分は、亦魏略よりとれり。魚豢は魏の正始頃〔西紀第三世紀の半頃〕の人にして魏略は其私撰なり。極東に關する記事は當時の見聞を採錄せるものとして頗る貴重すべし。後漢書の三韓傳はこの魏志の記事を抄錄せしものにすぎず。此魏志に韓を總敍して「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」とあるより、半島の南端に日本人の國ありしと解するものあれど、是は遠き北方より見て半島の南は倭國なりといふまでにて、地續きといふには非ず。倭人傳其他行程記より見て此事の眞相を知る可し。
 漢時この韓の諸國中の大なるものは樂浪郡に來貢し、漢の官位を受けたり。日本とは特に交通あり、對馬・壹岐島の住民が兩方の間に立ちて貿易により生計をなせしは此頃よりして然りしなり。後に至りて馬韓諸國は百濟に併合せられ、辰韓諸國は新羅に併呑せられ、弁韓のみ尚ほ韓卽ち加羅の稱を存じて、日本の保護の下に永く殘れり。

第三編 三國

第一章 高句麗及び百濟の南下

 高句麗は濊種の扶餘より出でたる者なり。扶餘は今の奉天の北方より松花江上流にありしが、これより別れて南に移住し、漢初には佟佳江の流域に居れり。東明聖王朱蒙〔鄒牟象解〕は天帝の子解慕漱が河伯の女柳花に生ましめしもの、扶餘より難を遁れて漢孝元帝建昭二年甲申(西紀前三七)卒本に建國せりとすれど、朱蒙傳説は扶餘國の開國傳説にして、三國史記を画、すれば朱蒙の子とする瑠璃明王孺留が開國せりといふ面影あり。此國は漢の亡命者を納れて早くより其文化を受け、三國中最も開化せり。其王統は甲の部族より乙の部族に移りしことありと雖も、史傳は此國に諸部族の統一完成せる後、支那思想によりて修飾せられしものなり。但し何に據りて其建國を前記の歳となせしかは不明なり。紀元第一二世紀の交、太祖大王宮(西紀五三―一四六)の時代より、早くも歴史年代に入れり。王代に漢の政令漸く衰へ、邊防の充分ならざるに乘じ、頻りに漢の遼東に現はれ掠奪を行ひしが、漢末公孫氏の遼東に雄據するや、高句麗は西進の途を塞がれしかば半島に南下して沃沮を從へ、進んで自己と同種族なる濊を服屬し、今の咸鏡・江原の地を領して樂浪を劫し、鴨麹]中流の丸都山下國内城〔今の輯安縣附近〕に都せり。此地は北は滿洲を制すべく、江を下りて海に出づべく、江界に出で牙得嶺を越え長津高原を南下すれば日本海岸に出で半島の後背を制すべく、江界より一たび狄踰嶺を下ればC川江上流に出で、大同江上流に移り樂浪を衝くべし。强健なる身質と素朴なる艶_に、漢民族の文化を攝取せるこの民族には、爛熟せる文化に頽廢せる漢民族は敵し得べくもあらざるなり。第三世紀の上半(西紀二三三)には高句麗は公孫氏より此國に遁入せし南支那の呉の孫權の使節を保護して其國に送還し、翌年は呉より使節を受くるに至りしが、景初二年(西紀二三八)魏が遼東の公孫氏を討滅せし際には軍を出して之を助けたり。公孫氏滅びてより此國は强大なる魏と接觸せしも、强大を恃みて正始三年には鴨麹]口の西に當る遼東の西安平を襲破し、且つ樂浪の方面を侵迫せしかば、魏は今や默視すべからざるなり。且つ此國が呉との交通を完成して、呉に軍需品を供給せんには、由々敷大事なるべきを以て、魏は大討伐を之に加ふるに決し、名將毋丘儉に之を討たしむ。正始五年丘儉歩騎一萬を率ゐて興京地方より佟佳江の支流富爾江の邊に出で、茲に高句麗王位宮〔東川王〕の二萬の軍と會戰し、之を撃破し、風雨の如く丸都に進む。位宮は江界方面より長津高原に遁れ、咸興平野に下走す。位宮逃竄せしかば丘儉は軍を還し、翌年再征す。帶方・樂浪の兵は元山附近に出で既に此地を陷る。丘儉の別將の追撃急なり、卽ち日本海岸を鏡城の方面に遁れ、豆滿江を渡りて遠く買溝に遁れたり。丘儉卽ち丸都山に刊し、不耐城に銘し軍を還せり。此丸都碑は十敷年前滿洲輯安縣板岔嶺上にて斷片を發見せられたり。
 毋丘儉に蒙りたる大打撃は、興起の勢熾盛なりし高句麗には何等の傷害を與へず、高句麗は其國の秩序を直ちに囘復することを得たり。其翌年の頃朝鮮にては韓種族蜂起して樂浪・帶方を覆滅せんとせしことあり。機に乘じて高句麗は丘儉の爲めに破壞されたる丸都を棄て、一時平壤に入りしも、其翌年樂浪・帶方の秩序囘復して退却せしめられしが如し。〔此平壤は或は平地の義にして固有名詞ならざるか、若し然りとせば本記事は撤囘することを要す〕
 三國史記には此東川王十九年(正始六年、西紀二四五)に初めて新羅との交渉記事あり、高句麗江原道より進んで慶尚道の盈コ附近まで領有せしことあり、恐くば迎日方面より入りて侵掠せしならんか。但し時代稍々早きに過ぐるの感あり。正始の大討伐後十八年にして魏滅びて晋となれり。これは帝室の移りしまでにて何等の影響を高句麗に及ぼすべきにあらず。當時南支那には尚ほ呉の存するあり、此南北の對立は側面の高句麗を安穩ならしむるに力ありしが、太康元年(西紀二八〇)晋は呉を滅ぼして支那を統一せしかば、高句麗も危險の位置に立ちしに、晋武帝は四夷の實力を知らず天下無事なりとし、州郡の武備を除きたり。これ高句麗には活躍の地を與へたるべきに、事實は之に反し、此頃既に高句麗に近き幽平地方には鮮卑族の剛健勇武なる慕容氏興起し、晋帝室に忠誠を表せしかば、遼東に存在せし晋の東夷校尉に對して暴威を振ふこと能はず、南方の樂浪・帶方に頻に侵寇せしも、二郡は本國と海上の交通を有せしかば之を滅すこと能はざりき。況んや此頃には馬韓の地に百濟起り、時に帶方を援けて高句麗に當るあるに於てをや。西紀三百年の頃、支那方面に於ては内に八王の亂起り、外には五胡の興起あり、塞外民族は支那に向て大活躍をなせる驚くべき大亂の時代となりしが、高句麗に接觸せし慕容氏はu々强く、高句麗に侵入し之を荒せしを以て、高句麗は南進すら行ふこと能はざるに至れり。此慕容氏の壓迫なかりしならんには、此國は一擧して樂浪帶方を滅ぼし、百濟に迫り、一方氣候和暖にして五穀豐登する洛東の流域に殺到し、新羅・加羅を劫かし直ちに日本との交渉を生じ、極東の形勢に大變動を與へたるべきに、其南進は遲々として振はず、歴史の局面に急激なる變化を見ざりき。西紀三百十三年高句麗・百濟の壓迫の爲めに二郡の痕全く半島に絶えて、高句麗は百濟に接觸せしも、慕容氏の爲めに屡々大打撃を受け、終に之に臣禮を採らざるべからざるに至り、南進のことに暇なきに、百濟また馬韓の諸小國の併呑に忙がしく、高句麗との衝突を避けしものゝ如かりしを以て、兩國の間は暫時事無かりしが如し。
 百濟は扶餘種の一部族が南下して馬韓伯濟國に入りて建てし國なり。其何時代に如何なる經路をとりて此地に入りしかは、上古史上未定の問題なり。其起源に就きても、支那史籍の記する所一ならず。三國史記の其開國記事は百濟史官の粉飾せしものを資料とせしものなるを以て信を措く能はず。但し百濟の古史は東明王朱蒙を第一世とし、其子溫祚王を第二世とせしことは、新撰姓氏錄に載する日本に歸化せし百濟王族の家傳によりて明なり。其溫祚を始祖とするは恐くば三國史記の撰者の修正にして、溫祚王元年を高句麗朱蒙王逝去の翌年とせるも同撰者の修定なる可し。思うに毋丘儉の高句麗大討伐ありて、扶餘種の高句麗大混雜を極め、次で韓種族の蜂起ありて大混亂の頃か、若くば稍々後れて晋武帝の頃〔第三世紀末〕鮮卑の慕容族遼東方面に起らんとして、遼東方面の諸部族が動搖せし頃、其本地を流離して半島に遁入し、馬韓伯濟國の墟に入り安住せしものか。遼東の動亂の爲めに此地の部族が半島に遁入し、遠く伯濟の故地たる忠Cにまで至るの例は、高麗高宗王代(西紀一二一六―七)契丹種族の一部族が高麗に遁人したるの事あり。この部族の如き、高麗が蒙古及び東眞の援を得て滅ぼす力を缺きたらんには、必ず或地を占領して國を建てたるなるべし。同恭愍王代に半島に流入せし紅賊の如きも、半島にして分裂の狀態にありしならんには之を討滅驅逐すること能はざりしなるべく、若し然りしならんには、いづれにか一小國を建てしなる可し。渤海滅亡の時の如きも高麗の太祖時代なりたればこそ其多數の流入者を人民に編入し得たるなれ、若し然らざりせば、必ず彼等は一小國を建てしならん。
 但し百濟が初めて入りし馬韓伯濟國は卽ち稷山なりとの傳説あり、或は事實なるべしと雖も、河南慰禮の地は今の廣州なる可し。此稷山方面に入り間もなく廣州卽ち漢山の地に奠都せしが如し。馬韓諸國は當時高句麗の後援若くば使嗾の下に頻りに來寇せし濊種族〔三國史記の靺鞨〕を防禦せしむるが爲めに、此勇敢なる扶餘種の安住を許せしか。然れども彼等は文化の程度に於て馬韓に劣るものにあらず、政治組織の能力も優れしを以て、流轉の民族たるの境を脱し、北は帶方を壓迫して其地を奪ひ、漢江の南の要地たる漢山に奠都し、此流域を占有し、更に馬韓諸國を併せ初めたるなる可し。これ第三世紀の形勢にして此時辰韓の地に新羅起れり。

第二章 新羅の興起

 新羅は辰韓の一國、三國志に斯盧とあるものにして、第三世紀の初めには未だ特別の大國となり居らざりしものなり。其地は慶尚道に於て洛東江の流域より離れて、迎日に注ぐ兄江の小平野に在り。新羅史官は漢五鳳元年甲子(西紀前五七)朴赫居世居西干の建國せしものなりとなせど、其紀年は其史に記する王の世代に於て到底事實たるべからざるまで延長せり。新羅の上代紀年は信ずること能はざるものなり。其建國の年時を茲に置きしは高句麗が建昭二年甲申(西紀前三七)に建國せりとする高句麗史傳を信じ、自國の開國を是よりも古からしむる爲めに、同一の一周干支の第一年甲子の歳に紀せしなる可し。新羅の王位は一家の繼承せるものにあらず、王種卽ち聖骨中の有力者・聲望者が王種及び貴族に推されて、或は武力によりて王位に登りしものとす。此王種は第六世紀の後半に至り、其傳説によりて三家に分類し、溯りて朴・昔・金の三姓を附せしものとす。新羅王種の姓は支那思想の影響を受け此時初めて附せられしものなり。彼等は骨ありて所謂「家」なかりしなり。之を諸方面より研究するに、今日に傳ふる新羅王國は西紀第二三世紀の頃、我が崇神・垂仁天皇の時代に建てられたるものなる可し。古史は Tradition Legend とより成る、Legend は觀る可からざるも Tradition は事實の面影を傳ふるものとして尊重すべし。新羅の階級五骨の中、第一骨たる聖骨卽ち王種は其血統の混濁を恐れて他骨と婚嫁を通ぜず、異母妹を娶る如きは其常例として避くる所にあらず。(此風習は新羅時代を通じて行はれ、王氏高麗の初期に及べり、聖骨は眞コ王にて絶ゆ)。然れども此眞骨の中には種々の氏族あり、昔氏の如きは明に日本人にして王の婿となりしものなり、後代に至るまで外國人を容れて高貴なる門地を與へ眞骨の待遇をなせしことあり。王族と人民とは明白に種を異にす。思うに王種は征服者として他より入りし種々のものが、幾時代かに結び付きしものなる可し、これには高句麗方面より入りしが如き形跡あり。其政治は君主專制にあらずして貴族政治なりき。大事は貴族が野外に會して之を議す、之を和白といへり。新羅は第一には原始的國家が發展すべき地理上の好位置を占め、第二には特殊の政體を有し、上下一致協力し、第三には韓種の中に强健なる異民族の血を混じてu々强健となり、第二三世紀の頃より漸次强大なる國となれり。

第三章 日本と韓種族との關係

 日本と馬韓・弁韓・辰韓の三韓種族との間には平和的・武力的種々の交渉が早くより存在せしことは明白なる事實なり。これが日本朝廷に關することゝか新羅に關することゝなれば、其傳説も殘ると雖も、他の早く滅びて傳説も史籍をも殘さゞる國若くば豪族のことゝなれば、何等傳ふるに由なし。怡も後代倭寇の事實の多くが彼に傳はりて我に傳はらざると同然なり。併し此交渉に就て注意すべきは常に日本が能動的にして、半島が受動的なりしことなり。これによりて想像すれば、韓種族は日本方面より早く半島に移りしものにて、倭寇は後代の移住の波にて其地に到達定住し得ざりしものとも解せられざるにあらざるも、こは參考としての説にすぎず。新羅史に殘れる上代倭寇記事の多くは日本の地方豪族の行ひしものにて、かゝる事は三韓の他の諸國の上にも行はれたるものなり。

第四章 日本と南韓との關係

 第三世期の後半に至り、百濟は南方馬韓諸國の併呑を始め、新羅は辰韓諸國を併呑して弁韓に及ばんとするや、これ等の諸小國も相當に活躍して頻りに晋に使節を出せり。尤も從來も南支那とは交通ありしが、此等のことは北支那の奧に居りし支那帝室の記錄に上らざりしを、晋が南支那の海に近き處に移りしにより、記錄に上るに至れる事情もある可し。日本に關しては朝廷の威名が半島に達するに至りし崇神・垂仁の御世、加羅の使が來るに至れり。先づ加羅に就きて一言すべし。
 一體、韓といふ文字は加羅卽ち韓那羅、譯して云へば「神の國」のカン音を表はす假字にして、之を日本や半島ではカラと稱したり。馬韓・弁韓・辰韓を總稱してカラと稱したるを、東に新羅起り、西に百濟起り、國々を併呑するや、其地方は新羅となり百濟となり、カラの範圍は次第に狹くなり來れり。而して後々まで殘れるは共同の神話・風俗を有し、同種の觀念のもとに、事あれば團結して共敵に當れる弁辰の國のみとなれり。此十餘の國の中、强きは其盟主を以て任じ、大加洛若くば單に加羅と稱したり。此中で有名なるは、任那と高靈にありし加耶國と安羅等なりしが、任那は今の金海にありて、これも大加洛と稱せし時代あるも、高靈にありしは最も强大にして永く大加羅〔加耶加羅〕或は單に駕洛と稱したり。これに對して金海のは南加良とも云ひ、任那とも云ひ、新羅王朝に至りては追稱して金官とも稱す。斯く區別せざることもありて單に加洛とも稱したるより、後世兩國の事蹟混雜して頗る明瞭を缺くに至れり。併し朝鮮にてはこの殘れる國々の故地の、後々まで知られ居るを數へ擧げて五加耶或は六加耶といふ。日本にてカラと稱するは地理的稱呼にして、決して殘れる國に止まらず、半島は卽ちカラなり。終には此カラの稱呼がアヤ卽ち半島人が阿殘といふ地方に及び、支那までカラとなれり。尤も支那まで廣がらざりし時代にても、其版圖は決して殘存せし加羅諸國に止まらざるなり。その間にいつしか加羅諸國と日本との交通の門戸に當り、且つ洛東江の河口にありて海陸交易の利を有し、最も富み、最も日本に服屬せざるを得ざりし任那國の名を以て日本人は殘存せる諸國の總稱に用ゐたるなり。この事に就きては「史林」第四卷第三・四號に掲載の拙稿「任那疆域考」を見るべし。崇神・垂仁の御世頃になるや、朝廷の御威名を聞き傳へて新羅・加羅の使來れり。併し當時は朝廷の御威光も充分に瀬戸内海から九州までは達し居らざりしものゝ如く、加羅の使節等は、足利時代の亂世に室町幕府へ來れる朝鮮交通者の如く、日本海を迂囘して敦賀に來りしも、斯く地理に明るかりしは其以前より半島と日本島との交通頻繁なりし證據たるべし。併しこの使節の來りしことも、日本書紀の記事にては
 Accident たるに終り、朝廷と半島との Connection とはならざりき。Connection の出來せしは神功皇后の御世に始まる如きも、皇后の新羅征伐の模樣や新撰姓氏錄吉田連の條の記事より見れば、朝廷には加羅諸國保護の爲めに將軍を派遣されし如し。晋の太康年間(西紀二八〇―二九〇)頻りに使を晋に出したる半島の諸小國が、永熙(西紀二九〇)以後には晋に交通せざるに至りしは、是等諸國が日本の爲めに多少の小康を得たるに由るものにはあらざるか。併しこれは或は穿ち過ぎたる説なるやも知れす。如何しても確乎たる Connection は神功皇后が新羅に大討伐を加へられ、百濟が服屬するまでは生ぜざりしなり。上代の日本と半島との關係史は實に百濟服屬史なり。吾人は眼を轉じてこの事情を見ん。

第五章 神功皇后の新羅征伐と百濟の服屬

 仲哀天皇の御世、天皇と皇后とは九州の熊襲征伐に向はれしが、天皇が軍中に崩御さるゝや、皇后は軍を整へて疾風急雨の勢を以て新羅を征伐せられたり。これは新羅にては恐くば婆娑尼師今〔新羅史にては西紀八〇―一一二に當る王とするも年代は信を置くこと能はず〕百濟にては近肖古王頃(西紀三四六―三七五)なり、百濟の年代は信を置くに足る。傳説によれば十月に對馬を出發し、一擧して新羅の王都を覆し王を降し、十二月には既に還御せられたり。此一擧に新羅降伏の基礎成りしは、從來日本の豪族と新羅との間に種種の事件ありしが爲めにして、彼等との關係が朝廷に因りて更新されたるに因るのみ。尤も書紀の撰者は皇后の征伐を新羅史傳のいづれに當つべきかには惑ひしものゝ如し。
 神功皇后の新羅征伐に引きつゞきて加羅諸國の經營成り、比自㶱〔昌寧〕・南加羅〔任那〕・喙〔大邱〕・安羅〔咸安〕・多羅〔陝川?晋州?〕・卓淳〔昌原方面?〕・加羅〔高靈〕等は全然歸服せり。此頃の百濟は日本に服屬して其保護を受けざるべからざる狀態に在りき。
 西紀三百十三年帶方滅びて、同一扶餘種の高句麗と百濟とは壤土を接せり。然れども百濟は南方に發展するに急なりしが如くして、北方は比較的に手緩かなり。高句麗は氣候和暖にして地は美穀を出し海産の豐富なる半島南方の地に下るは其熱望せし所なりと雖も、其遼東に於ける野心は更に大なるものありき。半島の東部に於ては咸鏡〔沃沮〕江原〔濊〕を服屬し、慶尚の東北沿海地方をも領有せし高句麗は强大なる遼東の慕容氏に制肘せられて、充分の活動をなすこと能はざりしに當り、中原を窺へる慕容氏は先づ高句麗を取り、然る後に中原を圖る可しとし、西紀三百四十二年〔故國原王十二年〕これに大討伐を加へ丸都を陷るゝに至りしかば、高句麗もこれに屈服し臣禮を取り其封冊を受け、其後顧の患を絶ち、彼に失ひしものを南方に得んとし、三百六十九年南下して白川に屯せしが、百濟の近肖古王は太子近仇首をして之を急襲せしめしかば、高句麗は却て大敗して軍を還せり。然るに翌三百七十年、慕容氏の燕國は秦王苻堅の名將王猛の爲めに滅ぼされ、北支那の形勢一變せんとするや、前年敗軍の恥を雪ぐは此時にありとして、翌年南下せし高句麗を近肖古王は浿河〔成禮江〕上に敗り、その敗軍を急追して平壤を圍みしかば、故國原王力戰して之を拒ぎ戰死す。近肖古、兵を率ゐて還れり。〔史記には肖古王この時に漢山に奠都せりとす〕百濟近肖古・近仇首父子は斯くの如く武威を揚げしと雖も、是より以後同種の扶餘種たる高句麗とは累世仇敵の國となれり。百濟は媾和すべからざる强大なる怨敵を後方に有するに當り、進んで慶尚の北邊に入り新羅をも敵とせり。而して其國家は馬韓種族の上に扶餘種の建てたるものなれば、此當時に於ては國家の基礎に於て安定を缺くものあり。此狀態に於て百濟は新羅を討伐せる日本朝廷の威名を聽き、近攻遠交の策をとり、使を出して至誠を表せり。日本軍半島に入り全羅南邊の地をとりてこれに與ふ。百濟王は加羅の旱岐等と和親を約し兄弟となり、共に天皇に事へて强國を距ぎ、國家を安全に置くことを誓ひ、千秋萬歳無絶無究に西蕃と稱して朝貢することを誓へり。或は思う、當時の百濟國都は公州の方面に在り、百濟は日本軍の援を得て平壤攻圍の勝利を獲、漢山に奠都せしか。百濟は一方に日本に臣禮をとり一方には使を晋に出して其封冊を受けしが、新羅も日本に質を出し貢を納め服屬の禮をとり、他方には高句麗と結び、高句麗より苻秦への使は新羅使節を伴ひて行きしことあり。百濟王は加羅諸王と和親して共に天皇を奉載して忠順を誓ひしより以後三百年間、其國滅亡に至るまで日本に服從し一たびも反抗せざりしかば、之を賞讃する史家あれども是れ皮相の淺見にして、三百年間日本は其巧言令色に瞞著せられ、半島經營に失敗のみ重ねたり。百濟は日本に依ョせざれば存立すること能はざりしより日本に恭順なりしも、其外交は詐譎を極め、支那に對しても新羅・高句麗・加羅の隣邦に對しても反覆無信の行動のみをとれり。

第六章 半島に於ける高句麗と日本との爭覇

 神功皇后以後、百濟・加羅は結びて兄弟となり、天皇を君父と仰ぐに至れり。日本朝廷が百濟に與へられたる恩寵は、新羅を驅りて日本に質を出し貢を納め乍ら、北方の高句麗に心服せしむるに至れり。茲に一言すべきは日本及び三國の文化これなり。三國の文化を見るに、其最も古くして其最も進歩せるは高句麗なり。漢代より支那の亡命者の此國に流入するもの多く、特に三國より晋代に亘りて支那方面の大亂と共に、有力なる亡命者來寓して支那人の捕虜と共に文物技藝を傳へたり。百濟は故の帶方の墟なり、樂浪・帶方の文化は百濟の成立と共に此國内に復活の徴あり、近肖古王時代に及び文物の光輝を發するを見るに至れり。樂浪・帶方の支那人は、名門の後が流寓して此地に至れるものなるかの如く自稱し、系譜を飾り多數の小民を率ゐて一首領の觀ありしも、時に或は遠く辰韓・弁韓に掠奪隊を組織して侵寇せしものあるが如し。郡の衰滅するや、其本國に還歸せざりし彼等は半島の諸地方に流寓し、或は百濟に或は新羅に、或は遠く日本に入り、其强剛なる者は剿滅せられ、順弱なるものは歸化し其文物を傳へたりと雖も、新羅の如き小國は之を容るゝの力を缺きしものゝ如し。尤も日本は早き時代より支那特に南支那と直接交通ありて其文物の輸入多く、決して半島の支那人のみよりして之を享受せしにあらざりし如きも、この直接の交通も其文化其物をして日本に於て傳統的に發達進歩せしむるには至らざりしものゝ如し。日本の文化は神功・應神時代に於ては高句麗の下にありしものゝ如きも、百濟とは大なる懸隔なかりし如し。新羅は支那交通の途なく其文化遙に劣れり、日本に及ぶべきにはあらざりき。
 神功皇后の新羅征伐を、文華の燦爛たる國へ野蠻剛勇の民族の暴れ込みしものと解すれば大なる誤謬なり。百濟の産出作成せるもの及び支那より輸入したるものに珍奇の物ありて、之を日本に貢せるも、新羅にはかゝる珍奇のものもなし。新羅は討伐せられたる國にして、百濟は進みて服屬を求めたる國なり。日本が百濟を愛せしは自然の情なれど、是が爲めに多くの誤りをなすに至れり。
 日本の武威の半島に最も發揚し國家の强盛なりしは應神・仁コ、特に應神天皇の御世なり。百濟にありては近肖古より辰斯王の間、高句麗には小獸林・故國壤王の頃、新羅には助賁・味鄒王代なり。日本の國威は新羅を壓服したりしが、新羅は日本に質子を出すと共に、高句麗にも質子を出せり。時に支那の北方には苻秦の强國あり、高句麗は惴々として之に恭事せしが、苻秦は江南にありし晋を滅ぼし天下を統一せんと大兵を率ゐて南下し、三百八十三年淝水の一戰に大敗せしより、苻秦に壓せられ居りし諸民族は忽ち興起し、遼東には慕容氏の遺族起り後燕國を建てたり。翌年高句麗、遼東を襲ひ大に勝ちて還る。三百九十二年には有名なる國岡上廣開土境平安好太王立つ。〔廣開土王、新撰姓氏錄には好太王又は好台王と記せり。〕在位二十二年、四百十三年死す。此王の事蹟は滿洲輯安縣洞溝に遺存する有名なる陵碑の銘記に明にして、此銘記は實に古史研究の燈明臺なり。高句麗は輯安縣洞溝の平野に大都城を建て、半島にありては平壤を南進の策源地となせしが日本軍は絶えず海を渡りて半島に活躍し、終に高句麗と接觸し、新羅は高句麗に依ョし、百濟は日本に依ョし、加羅諸國に至りては全く日本の保護を受けて新羅・百濟の間に存在したりしかば、日本と高句麗との間に大戰起り、日本軍は時には遠く慈悲嶺附近に現はれ、高句麗は時に長驅して慶尚の南邊に敗れたり。西紀四百年の合戰、四百四年の合戰の如き頗る注意すべきものあり。廣開土王は亦遼東に活動して後燕と爭ひ地を拓せしが、高句麗は朝鮮・日本の方面より見れば三國の一王國に止まれども、塞外に於ける關係は頗る廣大にして諸民族に及び、高句麗の支庶「雲」なる者は慕容氏に養はれて北燕王となるに至れり。四百十三年廣開土王死して有名なる長壽王立つ。高句麗が早くより南支那の呉と交通せしこと既に記せり。この交通は史に記せざるも常に繼續せしものゝ如し。〔此頃呉は南支那の地理的稱呼なり〕王は南晋にも使節を出せしが、此頃より日本の使も晋及び之に代りし劉宋に赴きしこと數次あり。百濟の使も之に赴き其封冊を受けたり。
 第五世紀の上半の形勢を考ふるに、高句麗は廣開土王代、苻秦滅亡の頃、領土を西方に廣めて遼河を以て北燕と境するに至りしが、北燕王とは宗族を同うしたると此國の强からざりし爲め、後顧の患なかりしに加へて、南支那と交易してこれに滿洲の物産を供給し、彼より珍奇の製造品を得之を諸民族に供給し、國富み兵强かりしを以て、百濟を侵すのみならず新羅をも併呑せんとするに至りしが如し。新羅は高句麗に恭順なりしも、今や之に堪ふること能はず、四百三十三年に至り百濟と和睦して高句麗を共同の公敵となすに至れり。此時の日本にして應神大帝時代の艶_ありたらんには、必ずや此連盟を率ゐて正義の師を出し、高句麗を懲討し大帝國を建て得たるべきに、當時の日本は既に昔時の日本にあらず、應神大帝の雄圖は後繼者にとりて稍々頽廢せるの感あり。應神帝以後韓半島の服從によりて、日本は物質上に非常の富をなせり。而して背後には何等恐るべき敵國なかりき。蝦夷は恐るゝに足らず、四海は美珠珍味を出すのみ、奢侈は人の心身をして散漫ならしむ。仁コ天皇紀より雄略天皇紀に至るまで國史の傳ふる處、宮庭婦人の爭にあらずんば王位の爭のみ、吾人は史を掩うて大嘆すべきに非ずや。長壽王二十三年(西紀四三五)王は使を拓跋魏に出して封冊を受けしが、翌年魏は燕を滅ぼせり。王は魏に毎歳朝貢せり。日本より宋への國書には百濟新羅諸國の使持節都督諸軍事云々と署して、彼に其除正印認諾を求めしが、宋は常に百濟の語を削除せる返書を出せり。これ百濟が彼より王の封冊を受け居りしを以てなり。日本は金海方面に武將を駐在せしめて加羅諸國の朝貢を監督し、百濟・新羅に關する事務をもとらしめしが如し。併し百濟・新羅の和睦は兩國をして日本に依ョ若くば日本を怖るゝこと少なからしめしが如く、新羅は屡々朝貢を闕くに至りしかば、日本は兵を屡々之に加へしも、大なる効果を見ることなきに終れり。雄略天皇の初年に高句麗が兵を新羅に出すや、任那日本府の將軍は前後の思慮もなく之を救ひしが、新羅は之を恩とせず不臣の行動ありしを以て、天皇は四將軍に命じ之を討伐せしめられしに、四將軍の兵は喙〔大邱〕の地を定めしも、軍規の頽廢よりして大敗北に終れり。此頃高句麗と連年の戰爭に疲弊せる百濟は、輕率にも從來何等の關係無かりし北魏に突然使を出して其援助を請ひ拒絶せられたり(西紀四七二)。當時の
Community of nations を考ふるに、支那南北朝・高句麗・百濟・日本は一つの Community に入り、耽羅・加羅もこれに含まれしが、新羅は直接に之に入ること能はざりき。而して南朝・日本・百濟と北朝・高句麗とは相對峙せり。然れども日本勢力の衰微と百濟の疲弊とは新羅をして著々强大ならしめ、他日雄飛の基礎を作らんとするに至れり。
 百濟は高句麗の宗主國たる北魏に高句麗討伐の師を乞ひて拒絶せらるゝの醜態を演ぜしが、民殘にして兵弱かりし百濟の蓋鹵王(加須利)は宮室を壯麗にし土木を起し坑上に踏舞し居りしに、後三年(西紀四七五年)に長壽王は突然大兵を以て百濟の王都漢山〔廣州〕を襲ひ、之を包圍したり。蓋鹵王逃れ出でゝ執へられ斬殺せられたり。新羅は救援の師を出したるも及ばす、蓋鹵王の子文周は新羅の援護の下に卽位し、都を熊津〔忠C南道公州〕に移せり(恐くば日本將軍の帥ゐる加羅の兵もありしならん、日本軍の力によりて熊津に都することを得たるが如し)。高句麗軍は男女八千の捕虜を得て還歸せり。此報の日本に達するや雄略天皇は如何なる處置をとりたまひしか、史に其記事を缺く。
 長壽王在位七十八年、西紀四百九十年死す。此間高句麗の勢力は絶頂に上り、都を平壤に移して百濟を漢江の流域より驅逐し〔三國史記百濟紀によるに百濟は聖明王代まで漢城漢北を領有せり。若し然りとせば地理志も書紀も解すること能ず更に考ふべし〕西は遼河を界とし、東北は遠く滿洲の諸民族を從へ、北支那の魏に仕へて百濟・新羅を計れり。日本は昔日の武威を缺くと雖も、尚ほ百濟・加羅の保護者を以て自任し、其軍事都督たるの稱號を南支那の宋に認めしめんとせり。然れども此時日本の盛時は既に過ぎたり。新羅・百濟の連和は今や百濟をして漸く日本にョむ所少なからしめたり。雄略天皇九年以來二十餘年任那に駐在せし紀生磐宿輔は顯宗天皇三年(西紀四八七)加羅人を帥ゐて百濟と戰ひ、敗れて日本に歸りしも、日本よりは何等問罪のことも、生磐を審問することも無かりしが如し。日本と南支那との國際交通も雄略天皇以後行はれざりしが如し。繼體天皇の時代となりて百濟は東城王(西紀四七九―五〇一)を經て武寧王(西紀五〇一―五二三)に至りて國力漸次增進し、高句麗を破りて强國となり、新羅も慈悲王(西紀四五八―)頃より漸次開化に向ひ、法興王(西紀五一四―五四〇)に至り佛教を奉じ急激に進歩せり。日本にとりて警戒奮起すべきこの時期に當り種々の失政あり、朝廷は加羅諸國の中に御領地を有し居られしに、繼體天皇三年(西紀五〇九)〔百濟武寧王九年〕には此地内に在りし百濟の百姓にて浮逃して貫を絶え三四世なるものまで百濟に遷し貫に附けられたり。百濟は鼎の輕きを知れり、六年には任那の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四縣の地を請へり。此地は晋州方面より熊川に至るまでの慶尚道南部沿海の大部分なり。哆唎の國守穗積押山は其百濟に合するの便なることを奏し、當時の執政たりし大伴大連金村之を可とし、奏して之を賜ふ。此時日本には此處分に對して强き反對者ありしなり。大伴大連・穗積押山等百濟の賂を受けしとの風説ありしといふ。或はこの汚行なきを保すべからず。翌年百濟は伴跛國〔星州地方に在りし加羅の一國〕百濟の巳汶の地〔今の咸寧・尚州の地方〕を略奪せしかば之を還へさしめんことを乞へり。伴跛國も亦朝廷に巳汶を賜はらんことを乞へり。朝廷は百濟・斯羅・安羅・伴跛(賁巴〔巴當作巳〕)の使臣を會して巳汶・帶沙を百濟に賜ふ。伴跛は憤怨して日本に叛せり、物部連は舟師五百を率ゐて之を討ち、大敗北して逃遁し、僅に身命を存ぜしを、百濟の救援により還國を得たり。百濟、此時伴跛を討ちしか、此後伴跛の名史に見えず。高靈の大加耶國は繼體の末年に多沙を亦百濟に與へられしを怒り〔加羅多沙は今の蟾津江河東の地なり、加羅王が臣朝貢之津といふは全加羅を代表しての言なる可し〕新羅に附して其王族の女を娶り日本を離れたり。近江毛野臣、命を奉じ安羅に入り、諸國を會して半島の問題を處理せんとす、國威の失墜見るべし。此事もとより成らざりしに、赴て亦政を失し、加羅諸國更に日本に離反し、壬子(西紀五三二)金海に在りし加羅國は新羅に降り、此前後に喙〔大邱〕・巳呑の地方、亦新羅に降る。

第七章 新羅の强大

 百濟に在りては武寧王死して聖明王立つ(西紀五二三)。王は深く佛法を崇信せしが、新羅との和信は繼續して兵强く、兩國一致して高句麗に當れり。新羅にては法興王死し眞興王立つ(西紀五四〇)。書紀の紀年によれば是歳は卽ち欽明天皇元年なり。新羅興起の勢旭日の如し。大伴金村の失政以來、半島に於ける日本の勢威は地を拂へり。大伴氏これより衰ふ。此時百濟は慶尚沿岸の西半を領有し、新羅は其東半を領有し日本と加羅〔任那〕諸國との直接交通杜絶せり。日本は安羅が日本に忠誠なりしと、高靈加耶が一たび新羅に附せしも間もなく離れて日本に附せしにより、僅に半島に關係を保持するのみ。此時百濟は南方の地方に郡令・城主を置きて其占領を確實にせるが、尚ほ心中には日本を恐るゝの情あると、新羅と和信し乍ら、新羅が加羅諸國を併呑するは斷じて觀過すべからざるを以て、この一事に於ては新羅に拮抗して讓らざりしとにより、僅に加羅諸國は存立せり。百濟の態度は瞹味にして詐譎を事とし、加羅諸國を日本より奪はんとする野心を包藏せり、然るに實力を缺ける朝廷は新羅に奪はれたる任那地方復建の大事を、百濟に托して成すの策を取れり。本國と交通の自由を缺き、勿論何等の兵力を有せざる在半島の日本府の人々は、手を束ねて百濟の爲すがまゝにするより外なかりき。百濟は天皇より托せられたる此重大問題を誠實に處理する意志は毫も無くして、徒らに加羅諸國の旱岐若くば次旱岐や日本府の人を國都に召集して、天皇の任那復建に關する詔書を讀みきかせんとするのみ。日本府の人の中には憤慨して寧ろ新羅に附して、詐譎の百濟に拮抗せんとするものあるに至れり。百濟は之を朝廷に訴へ、朝廷よりは百濟にして南韓に置きたる郡令・城主を撤囘せば日本府の人が新羅に附く如きことなかるべきにつき、之を撤囘せよと勅りせられたれど、百濟は之を奉ぜす徒らに日本府の人、任那諸國の代表者を自己の國都に召集せんとすれどこれに應ずるには彼等は餘りに賢明なりしを以て何等の運びに至らざりき。
 新羅と百濟とは高句麗を共敵として和信を繼續し居れり。此場合に於て百濟が新羅を膺懲して任那聯邦を日本の爲めに復興することは不可能なりと雖も其狡猾なるや、若し能ふべくんば此問題を藉りて新羅を瞞著し、自己の利uを獲得せんとせり。百濟の意志は日本天皇の詔旨を利用して、自己の郡令・城主を置き、自己に隷屬する聯邦を作らんとするに在り、在任那の諸官家が寧ろ新羅の力を藉りて之に反抗せんとせしも亦理なきにあらざるなり。
 然るに高句麗方面よりの事變に因りて、百濟は態度を變ぜざるべからざるに至れり。魏・東魏等を通じて高句麗は其封冊を受け平和なりしが、高句麗には支那文化の移植せらるゝあり、物質上に於て豐富なる時代を現出せしが、王位繼承の内亂等も起り、國内の一致を缺きし爲め、之に敵する百濟も比較的安穩の狀態にありて、加羅諸國に野心を逞うせんとせしに、欽明天皇七・八年(西紀五四六・七)〔聖王二十四・五年〕頃に至り、百濟は態度を一變せざるべからざるに至れり。卽ち高句麗が强大なる力を以て北方より百濟に侵寇せんとするに至りしこと是なり。是に對して安羅國も日本府も救援の師を出さず、天皇九年百濟と高句麗とは馬津の役ありしに、百濟は日本府及び安羅が却て高句麗に通じたりと天皇に奏せり。百濟を棄てんとするの擧動ありしも、未だ兩國の破裂を來たさず、天皇十二年には兩國及び任那諸國の兵連合し大擧して高句麗を討伐せり。在任那日本官人の意志と疏通成りしものか。聯合兵は北進せり。(百濟は南加羅の郡令・城主を撤せしか)。百濟は漢城卽ち百濟の故都たりし今の廣州を取り、平壤卽ち高句麗の南平壤にて今の京城の地を獲たり。新羅軍は竹嶺以外高峴以内十郡の地卽ち今の忠州方面漢江上流の地を獲たり。〔東城・武寧・聖明王紀によれば百濟は漢江流域のみならず漢北をも失ひしことなきに似たり。今日本書紀・三國史記新羅紀・同列傳及び地理志に從ふ〕
 然るに此翌年卽ち欽明天皇十三年(西紀五五二)半島の形勢に大變化を來たせり。前年より傾向ありし新羅の態度は、今や漢江上流形勝の地を獲得せるに因りて表面に現はれ來り、高句麗と和通し、百濟及び加羅〔任那〕の地方を侵奪せんとせり。百濟・加羅・安羅及び日本領土の宰〔日本府の臣〕等朝廷に援兵を乞ひしも日本は兵を出すの力なかりしが如し。翌年百濟は前年高句麗より奪囘せし漢城及び平壤〔北漢山〕を委棄せざるべからず、新羅は漢江上流より壓倒し來りて此地に入り新州を置き、故任那王の子金武力を城主とす、百濟王困窮して和を請ひ新羅王女を聘せり。然れども此時漢江の下流は尚ほ全く新羅に屬せず、百濟若くば高句麗に屬し、兩國の壤地相接し、新羅は黄海に出づること能はざりしが如し。百濟は新羅との和成るや、兵を出して高句麗と戰ひ百合野塞を拔けり。然るに翌十五年に至り新羅と高句麗とは連和せり。前年の勝利に多少心驕りたる百濟王は、日本よりの援軍到着せしにより、一層奮起して舊都熊津に來攻せし高句麗軍を撃退し、王及び王子親ら軍を率ゐて管山城を陷れ、猛進して久陀牟羅〔東安?〕の塞を築く。新州軍主金武力、管山城陷沒の報を得て州兵を提げて難に赴き、急に撃ち百濟王を斬る。王子餘昌も亦圍繞せられて危うかりしが、日本軍の勇戰により本國に遁歸することを得たり。百濟の全軍覆滅せり。一且日本を離れんとせし百濟も、今となりてはョる所日本あるのみ。此時新羅は漢江の下流の地を全く收め、其國黄海に出でしものゝ如し。翌年新羅王は新州の地北漢山に巡幸し、封疆を拓定し十一月還都せり。現存の北漢山上の古碑は此記念の爲めに建立せしものなり。
 新羅が漢江の流域を得て今の仁川地方を領有し、西海に出づるを得しは半島の形勢に大變化を生ぜり。新羅は半島の東南に在りて海に濱せしと雖も、地勢上内海に濱せしと同じく支那方面との交通は高句麗若くば百濟を經由せざるべからず、外國〔支那方面〕の文化は二國の輸入に俟たざるべからず。佛教の如きは高句麗より入り、又百濟と永き平和時代に百濟より輸入せしもの頗る多く、百濟の使節に伴はれて使を梁に出す等のことあり、最も多く百濟より輸入せしが如し。故に文化は非常に後れて、佛教の如きも漸く法興王十五年(西紀五二八)に至りて行はれたり。思ふに文化の攝取力に於ては異常なるものありしなる可し。然るに眞興王十五年に西海に出づることを得しより、俄に一進して支那と直接交通を開くことを得、〔南陽の地方を要港とす〕二十五年使を北齊に出だして以來、年々使節を遣し自由に交通することを得、東方の
Community of nations に入り、他日隋唐と連合して半島を統一するの基を成したり、而して文化の增進は驚くべきものありしが如し。
 百濟は日本にョりて王子餘昌卽位す、之を威コ王とす。新羅の領土が高句麗・百濟間を横絶せるより、高句麗・百濟の攻爭は永く絶えたり。任那地方に在りて日本に忠實にして永く日本の根據地たりし安羅は、欽明天皇十五年前後に新羅に滅ぼされ、任那地方は全く新羅に風靡し、僅に高靈の大加耶のみ遺存せしが、欽明天皇二十二年新羅は之を滅ぼさんとせしかば、日本よりの援軍は慶尚の西邊より入り、百濟の軍と合し救援せしも利あらず、軍覆滅して大加耶滅びたり。神功皇后の建て給ひし雄圖は、今や全く滅びて跡を絶てり(西紀五六二)。後十年欽明天皇は皇太子に「汝須打新羅、封建任那、更造夫婦、惟如舊日、死無恨之」と遺詔して崩御せられたり。新羅は斯く日本を全く南鮮より逐ひ拂ひしも、日本の武威を恐怖するは遺傳的なれば、日本の感情を害せざることに注意し、日本への使節は屬國使節の禮をとりて、若干の貢船の外に任那の名を以て數十年間二三の貢船を出せり。但し貢船に貿易の利は伴へり、日本にては任那復建のこと忘るゝことなく、推古天皇の時代にも此地方の騷擾をきゝて兵を出さんとせしことあり。〔金海の加羅國の宗家、此地を食邑とし王祀をなせり、國史欽明紀後に任那といふもの恐くは是れか〕

第八章 支那南北の統一と其半島壓迫

 半島に於ける三國は局面の變化と、多年の攻爭に疲弊したるとによりて暫時靜平となれり。日本も疲弊せり。極東の諸國は佛教を享受して新しき佛教的文化の建設に多忙なりき。三國の使節は支那に往來し、留學僧は入りて、其王はかの封冊を受け、六朝文化は頻りに輸入せられたり。高句麗と日本との間には從來直接の交通なかりしも、欽明天皇の末年より高句麗の使節は其日本海に濱する咸鏡方面より來航して、兩國の交通は開けたりしが、三國の靜平は百濟をして漸次日本より離れしめたり。然るに支那方面には重大なる變化起れり。多年南北に分立せし支那は、五百八十九年〔新羅が加羅併呑後二十七年〕隋が南方の陳を滅ぼして統一せり。當時高句麗は遼河以東を領有し、尚ほ其西岸に二三の堡塞を有せしかば、其影響は先づ高句麗に來らざるべからず。平原王は陳の滅びたるを聞き、大に懼れ拒守の計を成せしかば、隋の文帝は書を以て之を責めしが、是歳王死して嬰陽王立ち、其封冊を受けたるも、此頃浙く元氣を囘復せし此國は靜平なること能はず、物資豐富なる遼西に掠奪を敢てし、王九年(西紀五九八)〔隋開皇十八年〕王は靺鞨の衆萬餘を率ゐて遼西を侵し撃退せらる。隋文帝大に怒り、直ちに水陸三十萬の軍を出し、一は遼東に向ひ、一は平壤に向ひしかど、水潦に値ひ餽轉繼がず又疫に遇ひ、水軍も風に漂沒せしかば師を還せり。死者十に八九割なり。王恐れて罪を謝せしかば帝は之を赦せり。百濟は此際其詐譎なる外交術を振ひ、表を奉して軍導を爲さんと請へり。當時は百濟・高句麗和好して新羅を制し居りし時代なり。〔推古紀三十一年、田中臣曰く、百濟是多反覆之國道路之聞尚詐之凡彼所請皆非之と〕高句麗は百濟の事を知り其境を侵掠せり、恐くば水軍を用ゐてならん。西紀六百五年、喜功好大秦始皇・漢武帝の事業に倣はんとせる煬帝は先代蓄積の富を受けて位を繼げり。北方及び西域の經營は成れり。帝は啓民可汗の帳幕に高句麗使節を見たり。侍臣の一人は高句麗の地が漢の郡縣の地なることを告げて之を討滅せんことを勸めたり。斯く支那を一統せる隋の威力が半島に漲溢するに當り、推古天皇十五年(西紀六〇七)日本の使節小野妹子は隋に入れり。是歳百濟は使を隋に出して高句麗を討たんと請ふ。百濟は武王璋(西紀六〇〇―六四一)の時代にして、王代を通じて頻りに新羅と攻伐を事とせり。翌年妹子隋よりその使者裴世Cと共に百濟の南路を經て歸國し、更に再び裴と共に國書を持して隋に入れり。「東天皇敬白西皇帝」〔書紀〕の國書を出せしは此時なり。北史によれば、前囘卽ち最初の入隋の折は「日出處天子致書日沒處天子云々」の國書を出せり。これは百濟・新羅・高句麗等、甞て支那の國と對等のことを夢みたることさへなき國には思ひも寄らざることにして、天下に對等國あるを知らざる支那天子にとりては實に亦意外なりしなり。此時日本より留學生隋に人れり、但し新羅・百濟に倣ひしものならん。是歳新羅の使は隋に入りて高句麗を伐たんと請ひ、六百十一年には百濟・新羅兩國復た之を請へり。
 是歳(大業七年、西紀六一一)隋は高句麗討伐の準備全く成り、煬帝親ら湪郡に天下の兵を會し、翌年正月軍凡そ百十三萬三千八百人を二百萬と號し、餽輸者之に倍す。軍を分ちて平壤に向ひ、二月煬帝遼水に至る。「近古出師之盛未之有也」といふ。高句麗の諸城堅守して降らず、水軍の將は大同江に入りしが、敗北して海浦に屯し、別軍の長驅して平壤を去る三里に近づきしもの、高句麗の名臣乙支文コに翻弄せられ軍を還せしに、高句麗軍蜂起して抄掠せしかば大敗北し、遼に到りし時は三十萬五千の軍、僅に二千七百人を殘すのみ。水軍これを聞き亦還れり。高句麗戰勝を日本に報す。此時百濟は隋軍に應じて高句麗を攻むる約なりしに、高句麗とも潜に好を通じ、兵を境上に出して兩端を持せり。翌大業九年煬帝は再擧を計りしが、この出師の爲め天下亂れ、六百十八年隋滅びて唐起れり。

第九章 新羅の唐兵誘致

 西紀六百十八年唐帝國が成立するや、三國の使各例の如く朝貢し其封冊を受けたり。唐は特に高句麗をして隋の俘虜の未還者一萬人を還送せしめたり。高句麗は隋の大軍を撃破せるより大に奮起し新羅に寇したるが、百濟の武王は頻りに新羅に寇して前代に奪はれたるものを奪囘せんとせり。唐帝國の理想は帝國の外に在る小國を藩屬國とし、自己は宗主國となり、屬國王は其封冊を受けて位に上るべく、各國は宗主國の統一の下に平和に人民をして遂生入安ならしむるにあり。三國の攻伐は其默過しうべきものにあらず。況んや三國中新羅・百濟は各使を出して唐に臣事し、其力を藉りて他の二國を壓服せんとする術策をとれるに於てをや。この策は後に至りて百濟に成らずして新羅に成りしものなり。
 高句麗が最近に隋軍を敗りし事實は唐人の關係せることなり。漢以來支那に拮抗せるあり、此時二國之を訴へ、新羅の如きは其朝唐路の塞がれんとせることを訴ふ。唐が之を警戒するの心は、やがて之を忌憚するの心となれり。百濟も唐に對して多少の不安を抱くに至れり。而して其如何なる場合にも第二の依ョすべき處を作り置く政策は、六百三十一年王孫豐璋を日本に質として出せり。而して百濟は貞觀十六年(西紀六四二)〔皇極天皇元年〕王自ら師を率ゐて新羅を侵し、國西の四十餘城を取り、次で高句麗に謀りて新羅の党項城を取り、其唐との交通路を取らんとしたるも事成らざりき。百濟は新羅の大耶城を拔けり。此地は任那の多羅〔陝川〕の地なり。此頃日本は三輪君東人をして任那の國界を觀察せしむ、孝コ天皇卽位の歳の百濟の調進使に任那の使、任那の調を兼領せしめたるはこれに因るべし。
 此時高句麗にありては一世の豪傑泉蓋蘇文政事をとれり。新羅は善コ王代なり、新羅に於て史に見ゆる最初の女王なり。大臣乙祭、政事をハ持し、宗室金春秋、名臣金庾信の活躍を初めし時代にして、日本にては宗室中大兄皇子が中臣鎌足と結び將に活躍せられんとすると恰も作りたるが如き一致を見る。
 貞觀十六年高句麗の泉蓋蘇文(伊梨柯須彌、蓋金)は建武王を弑して寶藏王を立つ。新羅よりは宗室金春秋親ら唐に入りて救援を乞へり。高句麗・百濟を敵とし、日本と任那問題ある新羅の窮狀察すべし。唐は使節を高句麗に出し、新羅との和睦を命ぜしも蓋蘇文命を奉ぜず。太宗は高句麗を親征することを決せり。太宗は百戰百勝して世界帝國を建設せし全力を擧げて、貞觀九年正月兵を高句麗に出せり。大軍は遼東に入り諸城を拔き、太宗親ら安市城を圍む。力攻苦戰數旬に亘るも拔くこと能はず、人あり帝に勸むるに、須らく安市を棄てゝ平壤を衝くことを以てせるも、帝は安市に固執せり。安市動かず、計絶え策盡きしに、早くも遼東の冬は來り、士馬久しく留むべからず、糧も亦盡きんとせしかば帝は師を班せり。後に至りては帝は水陸二軍を編成し水軍を以て平壤を襲はざりしことを悔いしといふ。是歳日本は中大兄皇子・中臣鎌足によりて大化の革新成れり。
 貞觀廿一年唐將李世勣復た高句麗を伐ちしも志を得ず、高句麗の武威は一世を震駭せしめたり。是歳新羅には權臣廉宗謀叛して誅せられ、善コ女王死して眞コ王立つ。百濟にては義慈王立ちて七年なり、新羅を攻めて止まず。金春秋と金庾信と心を併せ、漸く國家を護るを得しが、是歳實に新羅宗室の第一人といふべき金春秋は親しく日本に來り、大に外交の手腕を振ひて歸り、其翌年には金春秋及び其子文王親しく唐に使して天子に謁し、百濟の侵寇を訴へ之を芟除せんことを哀訴し、文王を唐に質として歸還し、海上に高句麗の邏兵に捕へられんとせしも辛うじて免れたり。日本へは沙喙部沙飡金多遂なる者質として來れり。六百四十九年唐太宗死す。遺詔して遼東の役を罷めしむ。是歳百濟の新羅に入りし軍は敗北せしが、金春秋は嫡子法敏を唐に遣して之を告げ、新羅女主が自ら作りしといふ太平頌を獻じ、自國の年號を廢して唐の年號を用ゐ、次で二子金仁問を質として唐に出し、極力其歡心を求め百濟を討伐せられんことを乞へり。唐は百濟に嚴命して新羅を侵寇せざらしむと雖も、百濟は唐の偏頗なる處分に從ふべくもあらず。此時日本にして任那の復興を主張し新羅に迫らば、新羅にとりては由々しき大事なりしなるべし。金春秋の親ら來朝せる、其質を出せる、實に日本を緩和するにありしなる可し。當時日本は國内の大革新に急なり、積極的に半島に行動することを避けしを以て、新羅と日本との間は無事なることを得たり。六百五十六年眞コ女王死して金春秋位に卽く、太宗武烈王これなり。新羅第一の名臣金庾信と相信じ國政をとれり。日本にては孝コ天皇崩じ給ひ、中大兄皇子は中臣鎌足と相信じ政を執り給ひしが、皇極天皇の重祚を請ひ御自ら執政の位に居給へり。此頃より東方蝦夷の經營起れり。
 唐は容易に百濟征伐の師を出さゞりしが、金仁問頻りに之を請うに及び、顯慶五年(西紀六六〇)三月突然兵十三萬を出し、海路より直ちに扶餘を衝き、新羅は其後方より之を衝く。太子法敏はコ物島〔仁川沖のコ積島〕に蘇定方を迎へ軍期を聽き、唐軍は錦江に入り扶餘を前方より、新羅軍は陸路之を後より攻め、僅に三日にして王城を陷れ王を降し之を虜にし、定方は王以下を率ゐて唐に還り、カ將劉仁願をして泗批城を鎭せしめ、王文度を熊津都督とせり。文度任に來り、新羅王と會見の席上に暴死せり。此役、唐は百濟につぎて新羅をも平定するの意志ありしも、此唐の計は新羅の知る所となり、新羅の君民一致して備あり、庾信の如きは唐と決戰せんとせしかば、定方は以て之を中止せしといふ。王文度の死は夫れ或は新羅の手に出づるにあらざるか。
 百濟の都城は僅に三日にして陷り、王も捕虜となりしも、百濟人は奮起して反抗せり。鬼室福信は兵を擧げて任射岐山〔任存城、今の大興〕に據り、達卒餘自進は熊津に據れり。百濟覆滅の報は直に日本に達し、次で福信より請援の使來り、日本に質たる王子豐璋を迎へて王とせんと請ふ。日本は救援に決し翌六百六十一年正月、天皇筑紫に幸し朝倉宮に崩じ給ふ。皇太子中大兄皇子、素服して制を稱し、皇太子の位に止まり長津宮〔大津〕に遷りたまへり。
 百濟の平ぐや唐は直ちに高句麗征伐の師を興せり。六百六十一年契瑟何力・蘇定方等四萬四千の兵を率ゐて高句麗に向へり。高宗は三十五萬の兵を以て水陸より之を伐たんとせしが、諫むる者ありて大兵の派遣を中止せり。蘇定方等は百濟方面より入りて平壤を圍む。泉蓋蘇文の子男生戰ひて利あらず。然るに如何なる理由ありしか高宗は師を還さしめたり。恐くば百濟人の起りて制し難かりしによるか。日本軍は百濟の救援に出發せり、高句麗にも救援に赴けり。高句麗に赴きし軍の行動は傳はらざるが、百濟は日本の援を得て大に振ひ、福信及び僧道琛等は王子豐璋を奉じ周留城を奪ひて根據とせり。百濟囘復のこと成るに近かりしが、豐璋は福信を猜疑して殺せしかば、これより復振はず。唐は四十萬の軍を派して熊津城に入れ、新羅と共に周留城を圍み、日本の戰艦を白村江に焚きしかば、豐璋は高句麗に降り、日本軍は忠勇なる百濟の遺臣と弖禮城に退き、共に發船歸國し、百濟の復興は全く失敗に終れり。
 劉仁願[底本では「劉仁軌」]は留りて善政をなせしかば遺民悦服せしに、唐は政策を一變し劉仁願をして兵に將として熊津を守らしめ、前太子扶餘隆を熊津都督とし歸國せしめ、新羅と古憾を棄てゝ唐の恩寵の下に百濟國を復興し、氷く藩服たらしめんとせり。六百六十五年劉仁願は扶餘隆と新羅文武王金法敏とを熊津就利山に會盟せしめ唐に歸れり。然るに扶餘隆は新羅の壓迫に拮抗して民衆の擕散を妨ぐの力無く、畏怖して唐に還りしかば、此後數年間は劉仁願頒留して百濟は唐の領土たりしも、其後新羅の侵奪する所となり、百濟王國の地は全く新羅の領土となれり。
 六百六十三年百濟は全く平定して、高句麗獨り唐及び新羅に當らざるべからざる危急の秋に當り、國家の柱石たりし泉盖蘇文死し、三子男生・男産・男建隙あり。男産・男建は王を擁して男生を殺さんとせしかば、男生は國内城に在りて唐に降る。唐は此内訌を好機とし大軍を進發せしめ、六百六十八年唐は新羅兵と會して平壤城を陷れたり。唐は安東都護府を平壤に置き之を鎭撫せり。

第四編 新羅王朝

第一章 新羅の三韓統一

 新羅は唐の歡心を求め、哀請して百濟・高句麗を討伐せられんことを求めたり。其辭令の上には半島統一の意志は少しも表はさず、唯二國を伐ちて唐の郡縣とし、新羅の憂患を救はれんとせり。唐は二國を伐ちて之を新羅に與ふるの志意は毫末も有せずして、其地を自國領とすることを期せしのみならず、機あらば新羅をも併せんとせし意志ありしとの説あり。唐兵を招致せるは新羅歴代中の英主にして夙に志を國事に存じ、親ら日本に入ること一度、唐に入ること二度なりし太宗王金春秋と其子文武王金法敏にして金庾信は其股肱の臣なり。〔庾臣の妹は太宗の妃なり、法敏を生む。〕太宗王は百濟の全く平定するを見ずして六百六十一年死したれども、三韓統一の事業の骨子は王の時に成りしを以て、後世王を仰いで統一の英主となせり。新羅は其風尚に據りて考察するに、眞興王の頃より支那に對立する獨立國たらんとの思想は全く缺けり。〔獨立思想は神子神孫を以て任ずる高句麗に多し。高句麗は風雲を得ば中原に帝と稱するの氣慨を缺くものに非ず。日本書紀孝コ紀大化元年の高句麗の使者への詔に「明神御宇日本天皇詔旨天皇所遣之使與高麗神子奉遣之使云々」とあり。〕然りと雖も、三韓を統一して全半島の王たるは其本來の理想なりしなるべく、唐兵招致の當初より此意志を有せしものなる可し。百濟平定して唐の大兵去り鎭留の兵少なし、新羅は擅に其地の占領を初め、唐の詰責に遭うて形式上の謝罪使を出せるのみ。高句麗の滅亡後、高句麗人唐に反抗して起つや、新羅は高句麗人を援けて到る處に唐兵と戰ひ、土地人民を經略したり。高句麗の人、殘民を收合し浿江南に至り、唐の官人を殺して新羅に投ずるや、新羅之を納れて金馬渚〔u山〕に置き、封じて高麗王とし、新羅王國の保護の下に新高句麗王國を建てしめて、〔此王國六百七十年より六百八十四年まで十五年間存立せり。此間高麗の名を以て新羅に附して日本に交通せるは此王國なり〕高句麗人の心を撃ぎ、頻りに其地を併す。在半島の大唐ハ管薛仁貴は書を文武王に送り、辭を嚴にして之を責めしに、王は唐の太宗皇帝は甞て平壤以南の地を新羅に與ふることを約せることありと主張し、平百濟・高句麗の二役に立てし自國の勳功の莫大なることを述べて辨解するのみ。尚ほ到る處に唐兵と交戰せり。而して時に悲哀の辭を以て謝罪するも、行實の伴うものなく、唐兵を翻弄するにすぎず。六百七十七年〔文武王十七年、儀鳳二年〕唐は百濟・高句麗の故地の治し難きを以て高句麗の降王高臧を朝鮮王に封じ、東人の唐にあるものを王と共に歸國せしめ、安東都護府を平壤より鴨麹]北の新城に移し之を統べしめ、前年逃歸せる故百濟太子扶餘隆を熊津都督帶方郡王として百濟の故地に還し、餘衆を安輯せしめたり。扶餘隆は新羅を恐れて國に人らず高句麗に寄治して間もなく病死し、高句麗王は靺鞨と潜通して謀叛し唐に召還されたり。斯くして百濟の地は全く新羅に入り、高句麗の南方も新羅に入り、其北方は新に起りし渤海國に入れり。〔渤海は高句麗遺民が靺鞨に建てし者〕此間唐の新羅に對する政策は甚だ不徹底にして、六百七十四年〔文武王十四年〕新羅王の官爵を削りしも王屈せず、尚ほ唐兵と戰ひ乍ら、翌年使を遣して入貢し謝罪せしかば唐は王の官爵を復せり。王は其翌年まで尚ほ唐兵と戰ひしも唐復た問はず、六百八十年王薨じて神文王の立つや、唐高宗は使を遣し冊立して新羅王とし、先王の官爵を襲がしめたり。但し六百七十六年〔文武王十四年[十六年か]〕以後新羅は唐と攻伐の事無し、三韓統一は此時に完成せりといふ可し。其後則天武氏の時(西紀六九二―七〇四)高句麗降王の孫高寶元を朝鮮郡王とし、百濟降王の孫扶餘敬を百濟王とし、各其國を再興せしめんとせるも、事の成すべからざるを知り中止となれり。百濟全部と高句麗南邊とは既に文武王の時に新羅の州縣となりしこと前述の如きも、唐が浿江〔大同江〕以南の地を新羅に勅賜せるは七百三十五年、新羅聖コ王三十四年なり。

第二章 新羅王朝の盛時

 新羅にては從來眞コ女王までを聖骨の王と稱し、太宗王金春秋以後を眞骨の王といふ。又開國始祖より眞コに至る二十八王代を上代とし、太宗武烈王より惠恭王に至る八王を中代といひ、宣コ王より敬順王に至る二十八王を下代といふ。此區別は政治其他より見て甚だ適切なるものなり。上代は三國時代なり、中代は統一時代の盛時なり、下代は衰世なり。今茲に説かんとするは中代なり。
 太宗武烈王金春秋は眞智王の孫を以て眞コ女主に次で六百五十四年に卽位す。子文武王金法敏に至りて三韓統一の大業を完成せり。此王系は太宗王より八代の後、惠恭王に至り内亂あり、七百八十年王は亂兵に殺されしかば其統絶え、奈勿王十世の孫金良相(宣コ王)位に卽きたり。日本に在りては孝コ天皇の末年より、光仁天皇寳龜十二年に至る百二十七年間とす。文武王代三韓の統一成りて、新羅は從前の如く今の慶州に都し、其領土は大同江及び元山港の北方にある泥河を以て高句麗の遺民が建てたる渤海と境せしも、此境界地附近、特に境界地外は渤海の住民も少なく、新羅の住民も少なかりしを以て、中立地帶を現出せしが如し。唐には使節の往來頻繁にして、毎歳賀正使・朝貢使出發し、之を宗主國と仰ぎて其藩屬國たるの禮をとり、其封冊を受け其文化を輸入せり。佛教盛に行はれ高僧輩出し、其名を唐の高僧傳に列し或は遠く西域に求法せし者少なからず。美術工藝大に起り我が奈良朝と相並んで唐文物を移植し、佛教を中心とせる燦爛たる時代を現せり。實に新羅國都金城と我が奈良と渤海の都上京とは、唐都長安のコロニーたり。地方は州郡縣に分ち、州の下に郡あり、郡の下は縣ありしが、地方豪族又は武將の勢力も稍々大にして、純然たる郡縣制とも見るべからざるものあり。國、門地を重んじ門地なきもの高官に上るを得ず。日本と使臣の往來あり、其間平和なりしが、新羅人の日本を恐怖せしことは甚しく、文武王は遺言して骨を東海の大石上に散し、護國の龍となりて日本の來寇を拒くべしといへり。又四天王寺は狼山の南に建てられ、遠く蔚山を望んで敵國を調服し、孝成王代には關門城を國都の南、毛火郡に築き日本に備へしが、日本は天智天皇以來半島に斷念し、東方蝦夷種の地の經營に從事し、兩國何等の關係を生ぜざりき。渤海との交通はありたるべきも史に記するものなし。惠恭王代に至り内亂あり、之を避けて日本に歸化するものさへありしが、王は遂に弑せられたり。

第三章 新羅の下世

 宣コ王は金氏王奈勿王十世の孫を以て王となれり。併し是は新羅の國體より見れば革命にあらざるなり。新羅末世に立ちし神コ王の如きは、朴氏王阿達羅尼師今の悠遠にして世數不詳の遠孫なり。併し共に眞骨卽王種の人なれば其卽位に何等の疑義なきなり。
 宣コ王より敬順王金傅が國を高麗王に讓る年まで百五十年間十九王を新羅の下世とす(西紀七八六―九三五)。此間には王位繼相の亂屡々起り、衰世時代に於ては豪族漸次地歩を固めたるの形跡あり。然れども新羅都城の文化は爛熟し、文藝の進歩著しく、佛教盛行し國中寺刹相望めり。唐との交通はu々盛にして、僧侶學生の留學する者u々多く、唐長慶の初め(西紀八二一―八二四)金雲卿なる者、唐の賓貢科に登第してより、唐末に至るまで百年ならざるに、登第者五十八人ありしといふ。末期の積衰亂世に出でしものに崔致遠・崔承佑あり。〔歴史と地理第二卷第六號崔致遠傳〕其時代も世相に於て新羅中世と我が奈良朝とは相似、新羅衰世と我が平安朝とは相類する點多けれども、文藝の一事に於ては異なり、我が國に遣唐使が罷みて支那文學が衰頽し初めし頃、新羅に於てはu々隆盛の運に向ひ、之を王氏高麗朝に傳へたり。要するに夫れ丈け支那文學は半島に進歩して日本に進歩せざりしなり。これ實に日本が獨立國の態度をとりしに、新羅が屬國の禮をとりしと、交通の便否とによるなり。新羅と唐との交通路は南北の二路あり、一は全羅の西南角の靈岩方面よりK山島を經て定海縣〔上海〕方面に入るもの、一は山東より黄海道の西北にある避島に來り、仁川方面に入るか大同江に入るものなり。新羅の衰亡は眞聖女王(西紀八八七―八八九)の頃より表面に出で來たり、恰も其宗主國と運命を同うし、各地方に盜賊蜂起するや土豪或は有力なる官吏は兵を擁して自主の態度をとるに至れり。其中强大なるもの二あり、甄萱と弓裔とこれなり。甄萱は百濟の故地の完山に起り、諸地方を併呑し建國して百濟といふ。史家は別けて後百濟といふ。弓裔は北方に起り、松岳郡〔開城〕に次で鐵圓〔鐵原〕に移り、摩震國を建て武泰と建元せり。日本海岸に新羅海賊の出沒せるも此頃なり。弓裔の將に王建あり能く戰ふ。弓裔・甄萱に對しては新羅王廷は手を束ねて何等の策を施すこと能はず、諸城主に命じ出戰することなく固守せしめたり。諸城主は彼に附せずんば此に降るあるのみ、甄萱・弓裔の領土は擴張して相接するに至り、兩者の間の鬪爭起れり。弓裔の將王建は水軍を以て江華方面より南下し、遠く全羅南道の珍島を降し、海を距てゝ全南の南邊を領有する奇觀を呈せり。茲に注意すべきは甄萱は日本と交通を求むるに意あり、延喜年間貢物を進上せしに、日本は陪臣の貢調は受くべからずとて之を拒絶し、又延長年間日本より漂著人を送還さるゝや、彼は使を出して貢を奉りしに、日本は「人臣無私何有逾境之好」とて之を拒めり。
 新羅にては九百十二年孝恭王(金嶢)死して子なし、貴族等議して憲康王の女婿朴景暉を立てゝ王とす、神コ王是なり。新王は阿達羅王の遠孫なり、阿達羅は第四世紀の半頃の王にして、其後朴家の王なかりしに約五百餘年を經て復た王たり。但し新羅の眞骨(王種)なり。(眞骨は眞骨とのみ婚嫁を通ぜり)。
 當時最も强かりし弓裔は其將王建の爲めに九百十八年國を奪はれて死し、王建は高麗國を建つ。高麗の太祖神聖王是なり。茲に於て半島は復び新羅・高麗・百濟に分立せり。新羅は半島の東南に蹙まり、其領土日に削去せらる。支那にありては所謂五代の時期なるが、高麗・百濟共に南北と交通せり。九百二十一年王建は都を松岳郡に移し、王氏五百年の都城を開きしが、是歳新羅王は高麗王と交聘修好し、對等國の交をなすに至れり。九百二十七年甄萱の兵は突如として新羅國都に入り亂暴を極め、景哀王を殺し金溥を立て王として還歸せり、これ敬順王なり。王の五年、九百三十一年高麗太祖は新羅王都に入り、王と語りて去る。秋毫犯さず國人心を高麗に歸す。此間に新羅の領土は漸次他の有となり如何ともすること能はず、九百三十五年高麗太祖に降附を請ふ。太祖これを納れ王を迎ふ。王は府庫の珍寶を車載し高麗國都に入る、高麗之を優遇して其位を太子の上に置き侍從員將を錄用し新羅を改めて慶州とす。これより金氏は高麗朝の貴族たり新羅全く滅びしも其文物は高麗に傳承せり。

第五編 高麗王氏朝

 高麗王氏朝は九百三十五年、後晋天福元年、我が承平六年、卽ち太祖王が建國より十八年を經て新羅を併合してより、一千三百九十二年其臣李成桂に簒奪せらるゝまで四百五十八年間半島を支配せり。此間支那方面にては趙宋起りて一統せるが、塞外種族の契丹强盛にして、常に宋を壓迫せり。高麗は宋を尊崇すること甚しく、其封冊を受け臣禮をとり文物を輸入せしが、終に契丹に入寇せられ、其封冊を受け其正朔を奉ずるに至れり。後女眞種族起りて契丹を驅逐するに及び、亦迫られて其封冊を受け其正朔を奉ぜしが、宋國に對しては之を中華の天子の國として常に戀々たるものありき。元起るに及び其强暴なる侵寇を被り、其封冊を受け年號を奉ずるのみならず、國王は元の皇帝若くば宗室の女に尚し、王子は元にて教育せられ、貴族は女を元の後宮或は大官に納れ、彼に在住往來するもの多く、高麗は全く其藩王國となりしが、元の衰亡するや之を棄てゝ明に歸屬し、間もなく李成桂の爲めに國を奪はれたり。若し高麗王室を中心として政治上より時期を別てば、
前期 自太祖王至毅宗王(西紀九一八―一一七〇) 此期は王室隆盛にして文物の起りし時代にして、更に之を二期に分つ可し。第一期は太祖王より成宗王末年まで七十六年(西紀九一八―九九三)にして支那に於ては宋の盛時にして、高麗は之を宗主國に仰ぎ其文物を輸入せり。第二期は成宗王末年より毅宗王に至る百七十七年間(西紀九九四―一一七〇)遼・金に服屬し乍ら文物の見るべく隆盛なりし時代にして、文臣の政柄を弄せし時代とす。前期は日本關係より見れば平和時代なりとす。
後期 自明宗王至恭讓王(西紀一一七〇―一三九二) 此期は更に三期に分つべし。第一期は明宗王より高宗王に至る九十年(西紀一一七〇―一二五九)武臣專權の時代なり。第二期は元宗王より恭愍王に至る百十五年間(西紀一一六〇―一三七四)元に服屬の時代なり。第三期は禑王より恭讓王に至る十八年間(西紀一三七五―一三九二)滅亡時代なり。後期は日本關係より見れば爭鬪時代なりとす。

第一章 高麗建國 宋朝文物の輸入

 高麗太祖王建は禮成江口、漢江・臨津江が海に入る處に當る江華島を望むの地卽ち河江によりて遠く半島の内地に通ずべく、海によりて南北朝鮮より遠く支那に交通すべき地の豪族より起れり。其父祖は當時地方の豪族が行ひし如く、航海通商によりて勢力を得たるものなる可し。弓裔の起るに及び、往て之に歸し、其將となり、家業の舟師を率ゐ海を渡りて全羅の南方を經略し、能く戰ひ將士の望を繫ぎ九百十七年〔神コ王六年〕弓裔を逐うて之に代り、松岳郡〔開城〕に都し、國を高麗と號す。宋朝の史家誤りて高句麗の再興せしものとせるより、後世其誤を襲ふに至れり。唯新羅に對して其與國の名をとれるのみ。十八年にして新羅國王の降を受けたり。甄萱の後百濟は呉越に交通せしが、高麗は呉越のみならず北支那及び女眞〔當時渤海に入る〕契丹と交通し、渤海が契丹に滅されてより、其國人の高麗に來奔せるもの萬を以て數へしが、盡く之を容れ其國力を增進し新羅併合の翌年、後百濟の王家に内訌あるに乘じ女眞より輸入せる一萬匹の馬を以て騎兵を作り、一擧して之を平げ三韓を一統せり。
 太祖統一の事業成るや北方の經營に著手し、平壤を修めて第二都〔西京鎬京〕とし、厚く佛教を信じ、戒を子孫に垂れて死せり。但し今傳ふる十訓要なるものは僞作なり。高麗の初めには新羅王族の外に姓なし、但し文士が支那風に傚ひて私稱せるものありしが、太祖統一後上流には姓を附するに至れり。婚姻は當時尚ほ異母の兄妹を避けず、太祖の時太祖に附せし地方の城主は、家を分ちて國都と地方とに置き、以て貴族となし、其地方にありて微弱なるものは吏屬に降ちたり。此時代嫡子相續の習なし、故に高麗王朝を通じて一定の繼嗣法なし。太祖死して諸子相次で位に卽く。
 此時代の高麗四圍の形勢を見るに、宋と遼との勢力の平衝上、强勇なりし遼も未だ高麗を制御するに至らず。渤海既に滅ぼされ(西紀九二五)其後には女眞種族が部落的團結を作り居りて、尚ほ遼の勢力の及ばざるあり。日本は平安京に頽廢せる貴族が夢穩かにして、半島の零賊に恐怖せる時代なれば、高麗とは交渉無かりき。此間約六十年、大陸よりの抑壓少なく、事實上獨立を保全し、高麗朝五百年政教の基礎を作れり。此時代に於て高麗國力は新羅積衰の後を受けたりと雖も間もなく囘復せるものゝ如し。藝術は新羅盛時の寫生を去りて、やゝ傳統的式形的となりしも、未だ墮落の徴を呈するに至らず、文學は新羅末に崔致遠等が教養せし東京の子弟、開京に移りて文詞を競ひたりしも、五十年に亘れる彼我の大亂中、留學生の中絶せしことは實に一頓挫なりき。さりとて日本の如く本國の固有文藝が發生するには、外來文藝の輸入甚だ急にして、新羅時代より行はれたる郷歌も終に當代に終熄せり。渤海人の歸化は、彼我同じく唐文化のコロニーたるを以て何等の影響をも文化の上に生ぜざりしが、麗初には支那文士の歸化を歡迎し、光宗王の如きは爲めに本國人の怨をかふに至れり。後周の人雙冀、やゝ後れて宋人周佇・胡宗旦の如き其重なるものなり。
 新羅時代に於ては所謂大唐の文化に接し、之を崇奉愛好すること甚しかりしも、其建國の由來既に古く、國風既に成りて移すべからざりしが故に、其模倣を充分に行ふこと能はざりき。――勿論攝取の能力無し――然るに高麗は門地なき北邊の一武將が、亦門地なき豪傑を率ゐて建てし新國なり、世家貴族の國風改革を妨碍する者なし、國風我より建つ可し。故に此新王廷は新しき制度文物を模倣するに何等の障害を有せざりき。光宗王九年科擧を置き、進士を取らしむ。此事名義のみに近しとするも、新羅の門閥政治と比すれば實に非常の進歩なり。〔進士の試驗は常民に受驗資格なし〕成宗に至り更に一層支那風をとり官號を改め地方行政を改新せり。禮樂多く支那に法とりたり。但し成宗王代鐵錢を鑄造せしも、泉貨は遂に行れざりき。〔高麗史には十六年使用すとあれをど〕
 高麗大祖は開國の當初は天授と建元せしが、何年までこれを使用せしか、此年號は金石文等に一も殘るものなくして明ならず。太祖王十五年使を後唐に出し封冊を受く。翌年使歸りてより自國の年號を止め、後唐の年號を用ゐたり。後唐の滅ぶるや後晋の年號を用ゐしが、光宗王は光コと建元し、〔自西紀九四九至九五〇金石文にて訂正す〕にして止め、後には後周の年號を用ゐ、宋の起るや其封冊を受け其年號を用ゐたり。〔峻豐の字は建隆の年號を避けしなり〕高麗文化の基礎は太祖より成宗までに成りしなり。

第二章 契丹(遼)に服屬と女眞との關係

 國初高麗の領土はC川江〔東は元山附近〕に及べるのみ。其領土鴨麹]口に達せる契丹との間には女眞族ありしを以て、交渉を起すに至らざりしが、光宗王代(西紀九五〇―九七五)に北邊を經營するに及び面倒なる問題起れり。宋の太宗は高麗をして契丹討伐の援兵を出さしめしが、高麗は輕々しく應ぜざりき。高麗人は契丹が渤海を滅ぼせし暴狀を知り、之を蠻夷の國として甚しく毛嫌ひし居れり。然るに成宗王十二年(西紀九九三)遼の聖宗は兵を高麗に入れたり。征伐の主旨は明瞭ならずと雖も、高麗をして宋との關係を絶ち、遼を宗主國と仰がしめ、貿易して此國より物資を得んとせしものゝ如し。高麗は援を宋に請ひしも、宋應ぜざりしかば遼の屬國となり封冊を受けたり(西紀九九六)。然るに間もなく高麗に王位繼承の内亂あり、穆宗弑せられて顯宗立つに及び、遼の聖宗は宗主國の帝王として其罪を問ひ都城を陷れ、顯宗南に奔りしが、高麗起て之に抗するに至り、遼は半島經營の甚だ困難なるを知りて撤退に決し、高麗の恭順謝罪を機として之を許せり。顯宗及び次の宗王の頃は遼に於ては聖宗・興宗の時代、宋に於ては眞宗・仁宗の盛時なり。宋遼の文物高麗に入り、宋の商船は國交の有無に關らず陸續高麗に來れり。磁の如きこの比より燕Iとなれり。又書籍をもたらす。遠き大食の船舶も所謂波斯の珍寶を齎して此の絶域の半島に入り、顯宗代より文宗代に亘りて大藏經の刊行成り、文宗王代に至りて文物隆盛の極に達したり。王は宋の文物を欽慕し、遼に祕して使を出したるに、宋も亦窃に使を出せり。宋の文士の來投せるもの少なからず。宣宗王代には有名なる大覺國師義天入宋せしことあり、國師は高麗の宗室の人、佛典を日本・契丹まで究搜刊行せし佛教史上の一高僧なり。
 高麗にて女眞といふは高麗の北方に住居せし部族の稱にして、刀伊 卽ち夷狄といふ語を漢譯して女眞民族に充て此文字を用ひしものなり。三國史記に見ゆる靺鞨の語に同じ。高麗初期に女眞と稱するものは、必ずしも後に金帝國を建設する中心となりし女眞族に限らざるなり。所謂女眞は鴨香E豆滿の流域及び咸鏡道の地に在りて部落を作り低級の生活をなせり。此西北及び東北の兩女眞、共に高麗に對しては粗暴なる態度をとれり。特に遼の統治力の及ばざりしは東北のものの悍暴なりき。高麗邊境の官吏は女眞部落の酋長に、其高麗に恭順なるべきを絛件とし、入貢の名義を以て高麗國都に來り貿易することを許せり。彼等は其地の粗野なる原始的生産物を高麗王廷に獻じ、其代償として賞賜の名を以て織物其他の高等工藝品を得、尚ほ其將來品を貿易し、莫大なる利uを得たり。王廷は彼等の忠順を嘉して官爵を與へ、其官爵あるものは一定制限の下に更に國都に入りて貿易することを得たり。〔彼等が國都にて暴行せしこと南唐章僚の海外行程記に見ゆ〕此政策は李朝に至るまで野人及び倭人に對してとりしもの、之を字小といふ。女眞は貿易の利uの爲めに侵寇を敢てせざりしと雖も、若し侵寇にして貿易よりも利uある場合には之を行ふことを躊躇せざりき。東北面の女眞は穆宗王の頃よりして高麗東海岸の侵掠を始め、貨物と共に彼等が奴婢として必要なりし男女を掠奪し、顯宗王代に至りu々甚しく、王の十年〔一條天皇寛仁三年〕には其一隊、遠く我が九州を侵せしことあり、國史に刀伊賊これなり。高麗は鎭溟〔元山の南〕に水軍を置き之を防禦せしが、これと同時に西海義州より熙川を經て半島を横斷し、東海の定平に至るまで長城を築き、之を北境とし其南下を防ぎたり。肅宗王代には、此後間もなく金帝國を構成するに至る奧地の女眞部族の完顏部の勢力漸く强く、全部族を統一せんとするの形勢あり。肅宗はこの形勢を覺知し、しかも彼の實力と地理とを全く知らずして林幹・尹瓘に命じ之を討伐せしめて大敗し、睿宗王立ちて王の二年(西紀一一〇七)大兵を以て討伐せしめ、女眞の曷懶甸部卽ち今の咸鏡南道の地に入り、咸興を中心として九城を築けるが、此時は完顏部の酋長盈歌死し、强梟なる烏雅束繼ぎ、將に女眞を統一せんとせし時なりしかば、烏雅束はこれを以て一つの曷懶甸部の失とせず女眞全部の失なりとし、加ふるに其地の豐沃和暖なりしの故を以て、强兵を以て之に抗せしかば、高麗これを守ること能はず、城を撤し地を還し、舊境定平を界とせり。尹瓘等の壯擧は夢の如く破れしのみならず、其後十年を經ずして高麗は此女眞族に臣と稱せざるべからざるに至れり。

第三章 金に服屬と令公の現出

 高麗が睿宗王二年に女眞を伐ちて九城を築き、翌年撤囘せしより僅に數年を經て、女眞完顏部の酋長烏雅束に次ぎたる阿骨多は、遼に叛して其兵を敗り、王の十年(西紀一一一五)には金國と稱し皇帝と號するに至れり。遼は敗北せるのみならず内亂ありしかば、高麗は機に乘じて鴨麹]口の地をとりしが、高麗は遼の正朔を行ふこと能はず、文書皆な干支或は啓統紀年を用ゐたり。されど自國に建元するの思想は全く消滅して存せず。金の眼中に貧弱なる高麗なし、專ら遼方面と交通せしかば、高麗は小康を得て宋と使節を通じ、心窃に之を宗主國と仰ぎしが、仁宗王代は外戚李資謙の叛あり。次で地理讖諱説流行の結果、西京に移都を主唱する者あり、其聽かれざるに及んで此地に反し大内亂となりしが、名臣金富軾之を討平せり。仁宗王の初年より金に臣禮を執るに至れり。毅宗王時代、朝臣は詩詞の文藝の末に耽り、政事は柔弱にして傲慢不遜なる貴公子上りの文臣の手にあり、武臣は其驅使に任じて奴僕の如し。加ふるに毅宗は遊宴を好み、文臣と寺刹郊外に遊び、武臣の困苦屈辱甚し。王の二十四年武臣突然起ちて文臣を殺し一大虐殺を行ひ、次で毅宗をも弑し明宗を立つ。從來佛教を信じ死刑なし。金は容易に明宗の繼承を許さゞりしが、高麗は種々辨明せしかばやがて之を許せり。これより政權は全く武臣に歸し、王位は武臣の左右する處となりしが、武臣亦權を爭うて相爭鬪し、國都は安穩ならざりしが、明宗王二十六年(西紀一一九六)將軍崔忠獻なるもの兵權を握るに及び、此家久しく高麗の政權を世襲し、其主長を令公と稱せり。高麗は世相に於ても時代に於ても、源ョ朝が武家政治を起す前の我が國に似たりしも、彼はョ朝たること能はずして平C盛となれり。千二百十四年高宗王立つ。時に蒙古太祖鐵木眞が漠北に大汗と稱して既に九年なり。高宗二年には蒙古は燕京に入り、金の帝室陷沒せり。
 蒙古民族が疾風急雨の勢を以て膨脹せしことは他民族に影響を來たし、高麗には大陸民族の移住せんとする大事を起せり。蒙古民族が女眞民族(金)を壓倒するや、女眞民族の下にありし契丹民族は其拘束を脱し、其遺族に大遼國を建設するものありしが、これ又蒙古の討伐に遇ひ、全部落を擧げて東方に遁れ金兵を突破し、高宗王三年(西紀一二一六)鴨麹]を渡りて半島に入り遠く忠Cの地に及び、高麗は之が討攘に困難せしが、五年十二月に至り蒙古兵及び當時新に豆滿江流域に建國せし金の宣撫蒲鮮萬奴の大眞〔東眞〕と兵を併せ、翌春江東城に之を殱滅せり。
 高宗王初年高麗政治の實權は崔忠獻にあり、六年忠獻死し其子瑀は家兵を擁し令公の職をつぐ。高麗の形勢は、崔氏が王氏に代りて王家を起すの革命を見るべかりしに、蒙古の壓迫ありて形勢一變せり。契丹の遺種討滅の前後、高麗は蒙古に就きて何等の智識なく、此新興の世界的大帝國に何等顧慮せず、蒙古は西方及び南方の侵略に寧日なかりしかば此邊側の高麗を須らく棄て置きしが、間もなく大蹂躙をなすに至れり。

第四章 元に服屬と日本との關係

 高宗王代は日本との關係も危險期に入れり。從來兩國の關係は平和にして其交通も疎遠なりしが、高宗王十年癸未、我が後堀河天皇貞應二年(西紀一二二三)金州に倭寇あり。是れ今後高麗を惱まし李氏朝鮮に及び二百五十年間半島に大患憂を來たせし倭寇の始めとす。當時高麗の請により、武家にて相當の取締りをなせしも、之を制止することは不可能なりしなり。東眞も亦前時の女眞と同じく高麗に侵寇せり。高麗は日本・女眞に恐怖し乍ら將さに後方より大打撃の加はらんとするも知らず、王及び貴族は人民の疲弊を顧みず奢侈文弱に消光せしが、王十八年(西紀一二三一)には蒙古は前年高麗が使節を殺したりと稱して兵を高麗に入れ、掠奪亂暴を極め、遠く忠Cに及ぶ。高麗は罪を謝し臣禮を執りしかば、其兵一且歸りしに、十九年七月高麗は恐怖の極、都を江華に移せしかば、蒙古兵又還入し掠奪をなせり。これより王四十六年に至るまで高麗は其兵を蒙り、數十萬の男女は掠略され殺戮され、州郡煨燼し、高麗の朝野蕭然として神佛に祈禱するのみ。令公の崔家は此間父子世襲して崔竩に至りしが、王の四十五年其家兵たる神義軍に滅され、武將林衍なるもの令公となれり。翌年高麗は太子倎を蒙古に出し哀を乞ふ、此時高宗死す。當時蒙古の憲宗は宋征伐の爲めに南支那にあり、高麗太子は燕京より其陣に赴きしが、憲宗陣中に死し、和林には阿里孛哥の叛亂あり、蒙古軍の人心疑虞を抱きしかば、皇帝忽必烈は大汗の位に卽き、阿里孛哥を伐たんとて北上の途なりしに倎は梁楚の郊に迎謁す。世祖は唐太宗が親征して尚ほ且つ制すること能はざりし高麗が、此時此地に歸服從屬せしを大に喜び、倎をして國に歸り王位に卽かしむ、元宗王これなり。
 忽必烈は大度量ある帝王なり、高麗の綏撫に注意し蒙古軍の掠奪を禁じ高麗の平和を計り、之を保護し其自治を許し、元宗忠敬王其公主を忠烈王に降嫁す。これより高麗の世子及び王族は蒙古と婚嫁し、高麗王室は元帝室の一宗族の如き關係を生じ、王は屡々元に入朝し、王子は元に教育され或は留りて歸らざるものあり。高麗は元の藩王國の如くなれり。  高麗の服屬するや忽必烈は日本を服屬せんとせり。但し彼は日本の地を欲するにあらず人民物産を望むにあらず、日本に臣禮をとらしめ、世界唯一の皇帝たる理想を實現せんとするにあり。當時の鎌倉幕府は宋の歸化僧によりて蒙古の何物なるかを知れり。高宗王代支那方面との交通杜絶して其實況は高麗には多く知られざりしが、之に反して日本と宋との交通は此時代却て盛にして、彼の實況は高麗よりも却て我に多く知られしなり。元は高麗を介して日本に交渉せり。元の望む處が土地にあらず貢物にあらざるに、其通使を拒絶せる日本の態度は、獨立の何たるかを知らざる彼には不可解なりき。
 元が日本に使を出すに就きて、高麗に其導達を命ぜしは元宗王の七年に初まりしが、當時高麗は尚ほ江華に在り、令公及び其軍隊〔三別抄〕が出陸を拒むにより江華を去ること能はざりしなり(江華は島とはいへ守るに易く、他方面と交通の便あり)。元宗十年、王及び世子元にあり、崔坦なるもの林衍を誅するを名として兵を擧げ、慈悲嶺以北を元の直轄領に獻ぜしかば、林衍憤懣して死し、其子は朝臣の有力者に殺されたり。王元より還り、江華に入らずして舊都に入れり。令公を左右せし軍隊三別抄は解散せられて謀叛し、耽羅に入り高麗及び蒙古軍に滅ぼさる。
 元宗王十五年元の世祖の女は高麗世子に降嫁せり。是歳王死して世子立つ、之を忠烈王とす。從來の高麗王は元の一臣にすぎざりしを以て、元より高麗に派遣せる將士は王に對して暴慢なる擧動ありしが、これより王は天子の駙馬なり、將士等も王を敬せざるべからざるに至れり。
 高麗は元の命により日本侵寇に與かれり。百方之を避けんと計りて免るゝことをゑず茲に至りしもの、高麗王は役中征東行尚書省の相丞なりき。此役は高麗に疲弊を來たせしと雖も、高麗の内治には元の官吏の監督あり、其政治は獨立に行ふよりは遙に良政なりしを以て、此疲弊を償うて餘りありき。
 元と高麗とは一家の本末の如くなりしが、相續問題其他に就て種々の紛擾もあり、恭愍王時代に至り、高麗王室と元帝室との間に甚だ面倒なる問題起れり。恭愍王元年は漢民族が元に反抗して兵を擧げし歳なるが、此時元の順帝は高麗の貴族奇氏の女を後宮に納れ居り、これが皇太子を生み奇氏の女は第二皇后となれり。奇家にして族を擧げて元に移住せば何等の問題は起らざりしならんも、此家は高麗を去らざりき。奇氏は一躍して皇太子の外戚となれり。元は其父・其祖に王號を追贈するに至れり。高麗に於ては奇氏は王の臣家なれど、元より見れば其準宗族たるにすぎざる高麗王家よりも尊貴なり。茲に於て高麗にては奇氏が王室を凌駕してこれと爭はんとするの一異觀を呈せり。
 恭愍王五年元使高麗に來りて奇家の諡號を改むるや、此時高麗王廷には之を族滅するの計成り、元使が奇家に封冊後旬日ならずして之を敢行し、毒啖はゞ皿までの度胸を拮へて、直ちに征東行省理問所を罷め元の地を奪へり。元の至正の年號を止め反抗の態度をとれり。元は大擧して征討することを宣言せしも、當時の元は昔時の元にあらず、何の處分をも加ふること能はず曖味に葬り去りき。而も元の皇后奇氏及び太子はこの讎敵を忘るゝこと能はず、高麗もこの仇敵の位置にあることを忘る能はず、兩者は終に離背するに至れり。〔高麗は兵一萬並に日本兵を招き之を討たんとせしことあり〕
 王代には元の流賊(紅賊)の高麗に侵入し都城を陷るゝありて慘禍を蒙りしが、支那方面とは陸路の交通絶えしかば海路南支那と交通せり。當時は日本の南北朝時代にして倭寇の激甚なる、沿海の州郡居民なきものあるに至れり。内治の紊亂も極端に達し、特に權門の公田民田を押領せるもの、人民を私有せるもの多し。これは元が甞て改革を試みて遂げざりしものなるが、王は僧の遍照を拔擢してこの改革に當らしめ、遍照は還俗して辛旽と稱し、鋭意之に當りしに反對甚しく、王も之を用ふること能はざるのみならず、誅するに至りしを以て、改革も失敗に歸せり。
 恭愍王十七年燕京に都せし元は明に迫られ北方に遁走せり。報の高麗に至るや、高麗は頗る去就に迷ひしが、翌年四月明の使節高麗に著せしかば之を恭しく迎へ、使を出して臣禮をとり、北元との交通も絶ちたるにあらざりしも、再び奇氏に關する感情問題起り、衰滅せる元と絶つの利あるを知り、鴨麹]北に兵を出して邊境を固め元と絶てり。二十三年九月王は宮中にて洪倫なるものに弑せられたり。王晩年風疾あり、宮闈の瀆亂せしによる。
 高麗王室は元帝室の保護によりて存立せり、元帝室を離れたる高麗は攀登せし巨木を失ひし蔓草の如し。此時内治は紊亂し、海寇は猖獗なり。況んや恭愍王に次で立ちし禑は、生母の門地甚だ低かりしに於てをや。國弱くして主少なり。群臣は權を爭うて朋黨比周し、激烈なる鬪爭を始めたり。禑王の初年、明よりの使節は傲慢の擧動ありしかば、護送使の一人は憤慨して之を歸途に殺し北元に奔れり。時に元使高麗に來りしかば、高麗は之に仕ふることに決し其年號を用ゐたり。然るに鄭夢周等儒士派のものは明を正統天子として之を奉ずるの考を有し、明に使を出すに至りしが、明は王五年使者を殺すの罪を責め歳貢を納れしむ。馬匹金銀巨額に上り、貧弱なる高麗の辨ずべきにあらず、且つ屡々難題を出せしに、十四年明は鐵嶺以北を明に屬せしめんとせしかば、名臣崔瑩は憤慨して明と絶たんとし、曹敏修・李成桂をして遼東を攻めしむ。士卒恐怖進むに意なし。成桂等は恣に師を鴨麹]より班し、武力を以て王を廢して江華に幽し、尋で崔瑩を殺す。曹敏修及び名儒にして重望ありし李穡は前王の子昌を立てたり。李成桂等は鄭夢周等と結托し親明を主張せしが、孤立せる王室は危きこと風前の燈に似たり。李穡は昌をして明に入朝せしめ、明皇帝の保護により王家を維持せんとせしも、反對者ありて能はず、李成桂・鄭夢周等は其黨の諫官を使嗾して敏修等反對黨を芟除し、終に昌を江華に放ち恭讓王を立て、u々反對黨を芟除し、終には禑王を王氏にあらずして彼の憎まれ僧の辛旽の子なりとて、白日二王を斬るの大逆無道を行へり。次で李成桂と鄭夢周との間に隙あり、成桂等夢周を暗殺し、王の四年王を廢し原州に幽したり(次で之を殺したるが如し)。時に西紀千三百九十二年。日本にては南北朝合一の前年なり。朝鮮に入りて鄭夢周は王氏の社稷に殉ぜし忠臣と稱せられ尊崇を極む。但し李成桂簒奪の事實の詐る能はざるを以て、此罪を罪とし、彼の二王を弑殺するに與せし夢周を忠臣とし、忠臣夢周の與せし弑殺は二王が辛氏なる故に刑せしといふにあり。二王たとひ辛氏とするも、永年奉仕して主君と仰ぎ乍ら、一朝之を殺すは極惡たるを免れざるなり。

第六編 李氏朝鮮

 西紀千三百九十二年、李成桂高麗の王位を簒奪してより、千九百十年〔明治四十二年〕日本に併合となるまで、五百十九年間半島を支配せるは李氏王なり。此間を李氏朝鮮といふ。此時代を王氏高麗時代と比較するに種々の異同あり。一言すれば高麗時代は諸般事物に思想に尚ほ散漫なる所ありて特種の發達の見込みありしに、李氏時代は萬事盡く型に入り、結晶して動かざるに至りしの感あり。
 前朝に在りては事大思想は尚ほ力の問題たるかの感幾分か殘らざりしにあらず、宗主國と仰ぎしものに忠を盡すの考はあらざりしに、李氏に至りては事大は純道義的のものとなるに至れり。前朝にありては佛教盛行し、學問は文詞を重んじたりしに、此朝にては儒教を重んじ道學を重んじたり。李氏朝鮮は全然明朝を宗主國とし道義的に之を尊崇し、之に依ョする國となれり。されば其國内治の狀態自ら支那に於ける帝室の盛衰に左右せらる。今此見地よりして時代を分てば次の如し。
第一 明隆盛時代 前期 開國及び隆盛時代
第二 明衰退時代 禍獄時代
第三 明滅C起時代 後期 被侵寇時代
第四 C衰退時代 黨爭積衰時代

第一章 開國及び隆盛時代

 李氏は高麗恭讓王の位を奪ひて王位に卽くや、直に使を明に出して卽位を承認せられんこと、國號を朝鮮若くは和寧となさんことを請ふ。鴨甑d軍の功を申し立て、其明に忠實なることを陳じたること論なし。明の太祖も明にとりては半島の王廷に一新を要することを知りたる可く、國號を朝鮮と賜ひ、封冊して朝鮮王とす。茲に一言すべきは當時朝鮮人士の國體に關する思想なりとす。
 既に高麗時代に於て、高麗人は自國を以て獨立の國と思惟すること更になかりき。自國は帝王より封冊を受けたる王國たるべく、而して宗主國の正朔を奉ずべしとせり。然れども宗主國の正閏は論ずる所にあらざりき。宗主國を變更することは、此國にとりては未だ國家道義上の問題とはならざりしなり。變更は宗主國の力の問題なりき。而して宗主國と交通杜絶若くば他の理由によりて、改元の詔若くば暦の頒布せられざる場合には、改元を知ると雖も前の年號を用ゐ新年號を用ゐず。又宗主國にして宗主國たるの力を缺き、新宗主國の未だ生ぜざる場合には干支を用ゐ啓統年數を用ゐて年を紀せり。此國は決して建元することなく〔仁宗代西京の叛人が建元せしことあり〕皇帝を以て居らずして、王を以て自ら足れりとせり。帝室の正統なりや否やは全く念頭におかざりしなり。然るに高麗後期に及び、高麗が元の一藩王國の如くなりしとき、元に入りて若くば在りて學問せし高麗人の子弟は少數ならざりき。彼等は元に在りて學びしと雖も、其學問は支那民族の學問にして、從て彼等が感染せし思想は實に宋人の思想(朱子學)にして、これ等は宗主國たる帝國が正統のものなるや僞統なるやの問題に重きを置き、正統の天子とは支那人にして三代以來繼承する所あるものなりき。蓋し高麗には文士多かりき、未だ元に服屬せざる時代に李奎報あり、李仁老あり、呉世才あり、次で崔滋ありしが、半島人の正統天子思想は朱子學より來るもの多し。但し日本人は朱子學を消化して攝取せるも、半島人は消化すること能はず、其艶_より形式をとり、支那人にとりては支那の天子なるを、其天子を以て直に彼等の天子なりとせり。此思想によれば元の帝室は僞なり、明は宋を繼承して正統の天子なり。李成桂は尊王の大義を明かにし名分を正し、明朝を奉戴し明朝より朝鮮國王に封ぜられたり、故に正統の王室なりといふに在り。
 李氏朝鮮は斯くして正統の王室として何人も思議すべからざるものとせられたり。  李太祖成桂が王家を建てしは第五子芳遠の力多きに居りしも、其母の故を以て第八子を世子とせしかば、繼承の亂起り、芳遠異母の諸弟を殺し、兄芳果を王位〔定宗〕に卽かしめ、次で位を己に傳へしむ。之を太宗とす。太宗治國に甥ュし儒學を奬勵し、位を子世宗に禪りたり。當時倭寇甚しかりしかば、世宗は對島を伐ちしも效なくして師を還せり。世宗又賢明にして奄文治に勵まし文教大に起り、王代諺文を作れり。日本とは宗氏と歳船を約し、其倭寇を制せしめしが、倭寇は當時支那方面に向ひしかば朝鮮は無事なることを得たり。朝鮮にては明に事ふるを事大といひ、日本と交はるを交隣といひ、日本及び野人に對する政策を字小といひ、高麗が女眞にとりたる如き政策をとれり。〔日本人の慶尚道に來住するもの多く、兵士となり禁軍に入るものあり、朝鮮人の日本に來れるものまたありたり〕王代に咸鏡北道の經營成れり。文宗・端宗相繼で立ち、世祖は甥の端宗の位を奪ひ王位に卽けり。時に明は帝室漸く弱かりしかば、朝鮮の糊塗に聽き名分を正すこと能はずして之を認めたり。世祖及び其子成宗は名君にして、文物典制この時代に完成し、朝鮮の隆盛茲に極まれり。

第二章 禍獄時代

 千四百九十五年燕山君立つ。王は成宗代其母尹氏が賜死の故を以て關係の大臣を殺し、世祖簒奪直筆の故を以て史臣文士を殺し、專制君主として暴逆を極めしかば、千五百六年國都に革命起り、廢せられて中宗王立つ。王は鋭意政治に務めしが、門閥世家の政權を執るを制せんとし、儒生趙光祖等を登用せしに、年少儒生の政治急峻にして舊守黨の怨を買ひ、舊守黨は宮中と結托し、王が自身先王を廢せしを以て人の亦之に傚はんことを恐るゝの心あるに乘じ、儒生黨を讒して禍獄を起し之を殺し或は放逐せしが、これより禍獄屡々起り、宣祖王卽位の頃は儒生派漸次勢力を囘復し儒生派の世となりしが、思想界は全く朱子學の獨占にして一點の疑義を許さず。明漸く衰へ朝鮮王室亦弱し。朝臣士人は所謂義理の道學に教育せられたれど、人過失なき能はず、人の過失を見ては少しも許容せずして之を相互に攻撃して怨仇となりしに、祖先及び學問の師を尊崇すること極端に達し、一たび之を毀議するものあらばこれと仇敵となり、家系師統に因り和し難き分黨を成すに至れり。

第三章 被侵寇時代

 宣祖王初期、些細なる感情の行違より、朝士の間、東西に分統し相互に爭論せしに、王の二十二年日本豐臣秀吉は明を伐たんがため、道を朝鮮に假らんとし、使を朝鮮に出せり。朝鮮にとりては叛逆を援助せよと强迫されしかの感ありき。從前日本邊境の無識の豪族が朝鮮に船を出し、王廷に差し出せる書には朝鮮國皇帝陛下の語あり、王廷にとりては明に對して僣越の稱呼を有する文書を受取るに就きては多少の議論を生ぜし程なりき、明への感情知るべし。秀吉の使者の行きたる翌年、朝鮮よりは東人黄允吉・西人金誠一使となりて來れり。黄は使節たるの人格才能ありしも、金誠一は事々物々の理窟のみ捏ね、自ら高うして一切の責任を黄に負はせんとするにすぎざりき。金曰く、秀吉は關白にして日本國王の臣なり、朝鮮王は日本國王とこそ國信のやりとりをすべけれ、陪臣たる秀吉と交際すべきにあらずと。朝鮮人の多くは後代に至るまで金を賞するもの多しと雖も、或は其心中を觀破して卑しとせり。兩使歸國して金は善使の名あり。夫れ斯くの如し。我が兵は入らざるべからず。
 我が兵は再度まで朝鮮に入れり、朝鮮は明軍の援助によりて之を退くるをゑたり。我が失敗は軍の統一を缺きしと、兵數の少なかりしにあり。朝鮮は明の藩屏となりて日本に蹂躙されたるに、却つて明に對しては藩邦再遣天地父母の恩ありとて感謝せり。
 黨爭は戰爭中と雖も止まず、戰後u々激烈となれり。西人勢力を失して東人の世となり、東人は分れて南人・北人となれり。光海君の世、廢母の問題にて南人は驅逐せられ、北人權勢を握りしが、西人奮起し光海を廢し仁祖を立てたり(北人は以後全く振はず)。時に朝鮮が從來野人と稱し、其侵寇せざるを條件として其酋長に官職號を與へ、入貢の利uを與へ、所謂字小の扱ひをなし居りしもの、今の滿洲の地に興起し、此所謂「滿洲」は次第に强く、光海時代、明の命を受けてその援軍として行きし朝鮮軍は之に降れり。仁祖四年滿洲太祖死して太宗立ち、明に入るには先づこれに從屬する側面の朝鮮を伐ち、其後顧の患を絶つと共に、物資をこれより得べしとし之を伐ちしに、仁祖王は江華に逃れ、滿洲兵は平山に駐屯して終に朝鮮をして兄弟の約を結ばしめたり。然るに朝鮮は滿洲を輕蔑し明に奉仕をこれ勤めしが、滿洲は國號を大金と稱し次でCと稱し、前日の滿洲の比にあらず、仁祖十四年(西紀一六三六)太宗は朝鮮を親征し、王を南漢山に圍むこと一箇月、翌年春南漢陷り、王は降伏し叩頭の禮を行ひ、全くCに臣屬し王子を質とせり。斯くの如しと雖も尚ほ明を忘れず、窃にこれに志を寄せしが、王の二十二年崇禎十七年(西紀一六四四)明滅び、王死して甞てCに質たりし王子孝宗卽位す。

第四章 積衰時代

 孝宗の頃より南人また出で西人と爭ひしが、朝鮮はもと正統天子より封冊を受けたる正統王國なり。C朝は此思想より見れば僞朝にして胡族の僣稱にすぎざるなり、これに服從するは强力に壓せられて止むを得ざるに出づ。正統王國は正統帝國に殉ぜずんば忠義立たず彝倫立たず、朝鮮の政教は根本的に覆らんとす。茲に於て朝鮮は滅C興明、尊王攘夷を以て立てり。然れども比國民理想は、官府公文書の外はCの年號を用ゐずして明の最後の年號崇禎の紀元を用ゐることにのみ實行せられたるにすぎず、此習慣は近年に及べり。肅宗の時西人は老論・少論に分れ激裂なる黨爭をなし、南人はまた微弱となり、老少二派は共に榮えて互に爭ひ近年に及び、南人は政治を離れ、多く學問研究に隱れ幾多の學者を出だせり。李朝の黨爭は互に禍獄を起し慘酷を極めしが、黨爭常に獄事を以て決戰し、互に武器をとらざりしこと、暗殺等に出でざりしことは一奇現象といふべし。英祖・正祖時代朝鮮は更に振興するの形勢ありしが、これも氣宇狹少にして唯々道學の唱説が盛となり、兩班が祖先忠義の事蹟を誇唱若くば僞作して、家門を誇らんとせし擧動の多かりしにすぎず。漸次積衰の運に向ひ、分黨堅くして爭はなくなれり。然ればC朝考證の學風は此頃に至りて南人間に行はれしが、これとても盛行に至らず。肅宗王代李瀷が憂ひし日本忠義論は、杞憂にあらずして李太王時代に起れり。  尊王攘夷の思想も純祖に至りて滅び、事大は强國に仕ふることゝなりぬ。李太王の時、其國は日本に併合せられたり。

――大正八年八月七日――


本稿は大正八年八月、京都帝國大學夏期講演會に於て、公命により朝鮮史概説を講演せし際に作成せる稿本なり。八月四日開講し、毎日二時間づゝ同九日に至り六日十二時間を以て終了せり。
本稿は京都田中大溝町四岩田方の寓居にて七月二十七日起稿、八月七日脱稿す。此間暑氣酷熱にして身體倦怠し、加ふるに俗累あり、爲めに執筆の時間少なく、多くの日數を要せり。



朝鮮の文化(講演手記)

一 總説

 私は「朝鮮の文化」と申す題にて約十囘に亘りて講演を致さんと存じます。申すまでもなく朝鮮は我が帝國の一部となりましたもの、朝鮮の問題は現在に於て頗る重要なる問題でありまするが、尚ほ將來に於て種々の問題が起るであらうと存じます。我々が充分に朝鮮を知らねばならぬ事は、單に智識上の要求でなくて實際上の必要でありまする。亦この半島の文化は日本の文化に密接の關係を有して居るの點から申しても、日本の文化を理解するには半島の文化を知らねばならぬ。然るに日本人の朝鮮に關する智識は實に淺薄であり、且つ種々の誤解がありまする。實際朝鮮の事に關係して居る人ですら甚しき誤解をして居り、中には滑稽なるまで矛盾な誤解をして居るものがある、それで私は自分の淺學をも顧みず自分の力量をも顧みず朝鮮の文化と申す如き大きな題を以て講演致すことに至りました。而して朝鮮人の智的生活の歴史に就て申し述べたいと存じます。嚴密に申す文化史などは私では解りませぬから講演する事が出來ませぬ。それで題には「文化」とのみで「史」の語を附して置きませぬでした。朝鮮の文化に關する事件を時代を追ふて申し述べる雜談に過ぎませぬ、是は前以て御斷りを致して置きまする。而して本日は先づ朝鮮といふものに就きて一般に亘る大體の事を申し述べて置きまする。  朝鮮とは亞細亞の東南にある半島で、北は滿洲に接し、其南端は海を距てゝ日本の西端に對し、西は黄海を距てゝ北支那に、東は日本島が包擁して居る日本海に瀕し、南北約百九十里、東西は大陸に接する最も廣き處にて百五十里なれどこれは北端の例外にて、先づ五六十里と見るべきでありまする。其西北端境には鴨麹]がありまして、東北境には豆滿江がありまする。此の二江の分水界をなしまするは白頭山でこれが古史の葢馬山脈で、これが朝鮮に入りて半島の東邊を南に走せ、分れてはそのまゝ南に、一は少しく西して更に南に走せて居りまして、この主幹から多數の支脈を出し、肥沃なる谿谷と傾斜地とを作り、平野は實に少なく狹いのでありまする。此の主幹脈の西は表朝鮮で東は裏朝鮮と申します。又彼の中央から分岐して居る山脈の南を南朝鮮、北を北朝鮮とも申しまする。歴史及び文化の舞臺は表朝鮮で、朝鮮の富は南朝鮮にありまする。
 此の半島にある約一千五百萬の朝鮮人、これが近年日本人其他の移住するまで半島内は朝鮮人のみ居住して居ました。而して日本人其他が半島に移住を始めました少しく前後から、朝鮮人は鴨香E豆滿、特に豆滿江を踰えて大陸に移住するものが出來まして、滿洲方面に多數移住して朝鮮部落を作つて居ますが、約五十年以前までは朝鮮は鎖國して居て、朝鮮人は半島外には居住しませんでして、亦半島内は他民族を交へず朝鮮人のみ居住して居ました。尤も倭館には少數の日本人が居たのですが、是れは日本で申さば長崎の出島に和蘭人が居たと同樣のもので、出島のそれよりも一層隔離されて居たのでありまする。併し朝鮮人が全半島を獨占しましたのは古くからでなく、僅に五百年を出でないのでありまする。抑も此の朝鮮人は如何なる由來を持つて居るものでせうか。
 朝鮮人は半島の原住民でせうか、それとも他より移住し來りて原住民を驅逐したものでせうか、これは日本に於ける程明白でありませぬ。日本でも隨分不明な點がありますが、朝鮮では更に不明であります。半島には隨分石器時代の遺物はありまするが、どうも日本程に豐富に種々の品物が殘つて居るのを發見しませぬから、この重大なる問題を解決するには不充分でありまする。紀元前三世紀の頃になりますると、卽ち支那戰國時代になりますると今日の朝鮮人は既に半島の南部から表朝鮮の地に居住して居ました。これは甞て遼東まで居たものが漢民族――燕の壓迫を蒙つて半島内まで退いたものか、或は初めから半島内にのみ居たのか、是れ亦不明でありますが、戰國末秦・漢の頃になりますと、表朝鮮の北部には朝鮮、中央には眞番、南朝鮮には辰國など申す國が出來て居て、支那人に知られました。此等は今日の朝鮮人卽ち韓種族の國で、尚ほ此の外に數多の部落的小國があつたらしいのでありするが、眞番とか辰國とかは國と申しても充分に國家の組織を備へて居るものでなく、或る方面から申さば地方名、但しその名が起るには其間に多少統一の態もありましたでせうが、先づ地方名と見るが適切なる位でありましたらうと思はれる。而して遼河中流の東から鴨高フ上流・中流、裏朝鮮に亘りては所謂濊貊の種族が居ました。この濊貊の種族は遼河中流の左岸に居た扶餘――扶餘から出て鴨高フ流域で建國したる高句麗もやがて成立する形勢にあり、裏朝鮮には濊貊種の臨屯などいふ國が支那人に知られて居ました。而して日本島には支那人の倭、卽ち我々日本人の祖先が居ました。我々の祖先は原住民を東方に驅逐しつゝあつたのである。韓といひ濊といひ、これは漢字の假字で、干もしくば旱或は旱岐などの文字をも假りて表はす日本語のカミといふ語であると思ひまする。各部落の酋長が大陸の北方民族と思じく干卽ちカミと稱したから、此の濊とか韓とか申す名が起つたのであると存じます。日本種と韓種とは近い種族であるが、韓種と濊種とは是れ亦餘りに遠く距つるものではないと思ひまする。當時遼河の東から半島を經て日本島に亘り、後日に高句麗國となり、渤海となり、金となり、滿洲となり、朝鮮となり、日本となり、歴史上に活躍すべき民族の祖先が既に居たのでありまする。而して朝鮮・眞番・臨屯・辰國等半島内の諸國は支那方面の文化を受けて闇Kの中に薄い乍ら光を現はしたものと思はれます。臨屯は今日の元山方面にありましたらしいが、辰國は南韓、眞番は忠C方面に、朝鮮は漢江・大同江方面にありました。この内で最も支那方面に知られ且つ進んで居ましたのは朝鮮でありました。支那では殷末の賢人箕子が此國に入つたとの傳説さへありました。戰國時代に燕が盛になりますと、朝鮮は燕に服從し、次で秦に屬しましたが、漢が起るとその遠くて治し難しといふので全然これに關係を絶つた有樣でしたが、漢が境界を北浿水に置きましたので、朝鮮と漢との間には空人地帶が出來ました。此方面には秦末漢初の亂、所謂漢楚の戰亂を避けて既に支那人が多數避難して居住して居ました樣ですが、漢高祖の末年(西紀前一九五頃)に燕人の衛滿と申す者が亡命して朝鮮の地に入り、支那の亡命者の頭領となり遂に南方の朝鮮を襲ひ征服して、朝鮮の地方の王となり今日の平壤、當時の王險に都しました。衛滿は別に新たに國號を建てませんでした。この以前の朝鮮は箕子が王となつたと云ふ傳説がありまするから箕子朝鮮、あとのは衛氏朝鮮と申し、且つこの二朝鮮を李氏朝鮮と區別して古朝鮮と申します。箕子朝鮮は韓民族の國であつたと推測されますが衛氏朝鮮は多數の支那移住民がこの韓民族を壓倒して建てました漢民族の國でありまする。衛氏朝鮮は支那の移住民を納れてu々盛大になりました。漢では有名なる武帝の世になりまして匈奴を伐ち大帝國を建てましたが、直ぐ側らの半島に於ける朝鮮の存在を許すべきでありませぬ。武帝は早くから朝鮮經營に著目しましたけれども北方匈奴との爭の爲めに意外にも永く之をそのまゝに致して置きました。元封二年(西紀前一〇九)に至りまして朝鮮を討伐し衛氏朝鮮を滅ぼし其地及びこの征伐の結果漢威に服しました地に四郡を置きました。四郡は樂浪・玄菟・眞番・臨屯で、樂浪郡は平壤に中心を置き、衛氏朝鮮の本地を領有し、多數の支那人が居りました。先づ支那人を以て支那人を治めました郡でありまするが他の三郡は韓とか濊貊とかを治めた郡であります。この四郡の範圍は今日の平安・黄海・京畿〔樂浪郡〕・忠C〔眞番郡〕・咸南・江原〔臨屯郡〕・咸北及び鴨刻纓ャ〔玄菟郡〕であります。然るに韓種族を治めたる眞番や、濊貊種族を治めました臨屯・玄菟はどうも治めきれないので、元封二年から僅に二十七年を經て昭帝の始元五年(西紀前八二)に至り、漢は半島の經營を退縮せしめねばなりませんでした。眞番と臨屯とは放棄しました。併し樂浪から日本海へ出る重要地方――海産物の商業上の關係及び地理上からして樂浪方面の勢力のありました臨屯郡の元山・安邊地方は全く棄てきりませんでした。玄菟は滿洲に移され半島外に出てしまひました。それで半島に殘りましたのは朝鮮の故地に樂浪郡のみとなりましたが、此郡は支那人の郡縣で、全く支那同樣で、支那の一部と見るべく、燦爛たる文化を有して居ました。この文化が遠く日本にまで及んだのでありまする。尤も日本が上代に受けた支那文化は獨り樂浪方面からのものゝみではありませぬ。
 茲に扶餘と申します民族は遼河上流の東部に居まして西方の鮮卑や東方の挹婁などよりも餘程に進んで居ましたが、漢初には此民族及びこれに類似のものが前に申しました通り鴨高フ中流以上から裏朝鮮に亘り江原道までも居ました。支那人は之を濊貊と申しましたが前漢代に扶餘民族から分れて鴨麹]流域に建國しました高句麗といふのが强盛になり後漢代になりますると頻りに樂浪郡を惱ましました。而して樂浪郡の南には韓種族が次第に强くなり馬韓・弁韓・辰韓の三韓となり、樂浪郡の東には濊貊種が居ましたが、これは早く高句麗に服屬するに至りました。高句麗は遼東や樂浪を侵寇するので屡々漢の計伐を受けましたが少しも弱らないでu々强くなりました。漢末の大亂となりて西紀二百年頃遼東には公孫氏が自立しこの公孫氏が自然と樂浪をも支配するに至りました。此頃になりますと、樂浪の民は南の韓や北の高句麗に流入するものも少なくなかつた樣ですが、樂浪の南方卽ち今日の京畿方面は荒地になつて居ましたのを公孫氏は經營に力を盡し遺民を招集して帶方都を置きました。これから半島には樂浪と帶方と二郡があり、帶方郡が日本との交通の事などを掌りました。第三世紀の上半になりますと、三國の魏は公孫氏を滅ぼし遼東を支配しましたが、この頃になりまして、扶餘種の一部であつたものが遼東の混亂から半島に移住しまして樂浪・帶方を突破し馬韓百濟の地に入り、所謂百濟國を建てましてこれが次第に强くなりまする。

二 總説(續)

 高句麗は非常に强い。これが常は遼東方面に出やうとして支那勢力と衝突する、支那方面の討伐を受ける、其爲めに南下の勢力は常に弱まされましたが、非常に强い、支那の文化も容れて居る。この第三世紀になりますと半島の東南、今の慶州の地に辰韓から新羅が起りまして次第に辰韓諸國を併呑する、併し文化は非常に遲れて居る、日本にては朝廷の御勢力がやがて九州までも及ぼうとする。新羅に壓迫されたる任那諸國卽ち弁韓の諸國は朝廷に接近して來る。
 支那の一部である樂浪・帶方は高句麗と百濟と南北兩方から侵略されるので次第に縮少し、高等の開化を有するこの地方の豪族は部民を卒ゐて高句麗・百濟・弁辰韓の方面に流浪し或は是等の國の人となり文化を播傳し、遠く日本に來だしました。三百十三年になりますると當時纔に大同江口に殘存した樂浪・帶方の遺民は海路遼東に引きあげまして二郡の痕跡も薄くなりまして、高句麗・百濟は壤土を接し半島には高句麗・百濟・新羅鼎立し、百濟・新羅間の任那諸國卽ち加羅は日本朝廷の保護を受ける。支那本國は八王の亂から引きつゞき五胡の大亂であるが、漢末からの亂に樂浪・帶方人は本國に歸還し、また半島や日本に散亂し、文化を傳へました。第四世紀の中頃から百濟は全然日本の保護を仰ぎて高句麗に拮抗する樣になり日本兵は屡々海を渡りて半島に入り、日本の宰なども駐在しました。日本は支那の南朝などゝ交通しましたが日本と支那との交通は尚ほ古いのでありまする。高句麗の如きは三世紀の上半に既に呉の方面と交通がありまする。第四世紀になりますると日本・高句麗・百濟・新羅で一の世界を作つて居りまする。最も進んで居たのが高句麗で、是れは地勢からして支那文化を早くから容れましたが、次は日本と百濟とで、新羅は遙に後れて居りました。然るに第五世紀末から第六世紀の初めになりますと日本が振はなくなりました。物質的奢侈の中毒でせう。半島の經營は次々失敗する、日本は進まなくなりましたが、第五世紀の初め頃から新羅は主に高句麗方面から文化を容れ俄に進歩し、其中頃卽ち我が欽明天皇の頃になりますと、漢江の流域を領有して支那と直接の交通を始め非常なる勢で進歩し五百六十二年には日本の勢力を全く半島から驅逐しましたので、半島では日本の勢力なしに高句麗・百濟・新羅鼎立しました。高句麗は遼東を有し大陸にも根據を有しましたが、支那方面の勢力の爲めに南進出來ず、新羅・百濟は時々連合して之に當りましたが、どうも百濟よりは新羅が强いので、百濟は常に日本に臣屬の禮を執り之に備へました。六朝の佛教的文化は滔々として半島に入り、更に主として百濟を經て日本に入りました。五百八十九年になりますと隋が支那を統一しましたので半島の形勢には變化を來しました。高句麗が安全でありましたのは支那が南北爭うて居たからでありましたが、偖て統一されますると先づ高句麗は隋の兵を受けました。けれども驚くべき力で之を撃退しました。さうなると高句麗は百濟を味方に引き入れ、又遠く日本の援助を仰がねばならぬ。新に强大になつて高句麗・百濟を敵にし、且つ任那問題から到底日本には容れられませぬ新羅は支那に縋り出しました。支那では隋が滅びて唐といふ世界的大帝國が出現した。支那人は先には漢の武帝の時、今度は唐太宗の時に驚くべき大勢力となり文化を出現しました。隋時代に入りて日本初め半島三國は其文化の影響を受け.且つ之に備ふる爲めに種々の改革がありました、特に日本には種々改革がありました。高句麗は一時は唐太宗の親征の大軍を撃退し天リれこの民族の歴史を飾りましたが、百濟は六百六十年に新羅が迎へた唐兵に滅ぼされ、六百六十八年には同じく高句麗も滅ぼされました。併し百濟・高句麗は實は唐の太宗時代の餘威で滅びましたので、唐の武力も少し西日に傾いてゐた時ですから、新羅は唐を翻弄して百濟の地を奪ひ、高句麗の南邊をとり、大同江から咸鏡南道の南端邊より以南の地を領有して、大體に於て半島を統一し新羅王朝を現出しました。唐は高句麗の方をも經營しかねて放棄の姿となりましたので、高句麗の遺民は滿洲の地に渤海國を立てました。
 新羅は唐に臣禮を執り、盛んに使節を出し僧侶や學生を留學せしめました。これは日本よりも餘程多くありましたので、唐の文化は大にこの國に入りまして、日本の奈良、新羅の慶州、渤海の上京には唐の都の規模の小なる文化的コロニーが出現しましたが、どうも新羅が一番進んで居た樣で、特に日本では遣唐使が止んで唐風の文化が衰へだした頃から、新羅は一層數多の文士を出しました。
 新羅の宗主國でありました唐が大亂に陷りました頃から、新羅も國が亂れて來ましたが、この間にも崔致遠など申す人は金石に立派な文章を殘しました。新羅は九百三十五年、支那では五代の時でありますが、日本では朱雀天皇の承平五年、丁度藤原純友が南海で暴ばれ、平將門が東國で跋扈した頃ですが、北方で新羅に服さないで國を建てた高麗に降りました。これから千三百九十二年、日本では南北朝の合一された歳――一寸申しますが南北朝合一は俗に申す言葉を使用したに止まります、正統の朝廷は一あるのみである――支那の方では元が滅びて明となつてから二十五年、洪武二十五年に高麗は其臣下の李成桂と申すものに國を奪はれました。この四百五十八年間が高麗朝で、先の高句麗と同名でありまするから王の姓をとりまして王氏高麗とも申します。王氏高麗時代は新羅の文化を繼承しまして唐風の文化が入りましたが、この初代には宋の文化を輸入し宋人を優待しその歸化を歡迎しました。宋を欽慕しましたがどうも宋は弱い、高麗は止むを得ず遼や金に屈從しました。高麗は渤海や遼・金からは何等文化の影響は受けて居りませぬが、宋とは機會ある毎に交通しました。これは國際上の事で、この外に宋商の來ました數は夥しい事でありまする。蒙古が起りますると蒙古から三十八年蹂躙され、世祖忽必烈に降り、これからは元の藩王國同樣になりましたがこの關係から高麗へは支那風の學問が傳はりまして、南宋の學問が入り朱子學が傳はり、大に學風を變ずるに至ります。
 高麗も新羅も思想をなすものは佛教でありました、佛教全盛の時代でありますが、高麗になりますと仙人教が佛教に混じて起り、又讖緯地理の説が人心を支配する樣になりました。高麗では二度まで大藏經を刊行しましたが、佛教も次第に腐敗しました。この腐敗しました處へ朱子學が入りました。
 李氏は高麗王廷の一武將から起りまして、寔に陰險なる手段で三王を弑し、王族を全部虐殺して王位に上りましたが、この時は思想界が前代とは異りて居ますので、何とか之を説明せねばなりませんでした。そこで天子とは世界に一つあるのみである、明は此の正統の天王である、朝鮮は此の天子から封冊を受けたるものであるから正統の王室であるといふ事にしました。これが朝鮮の事大でありまする。李氏の初めには佛教は腐敗しきりました、併し日本とはちがつて宗教界を改革して新佛教を唱出する樣な偉人はなく、たとへそんな人の種はあるにしても、非常に狹い比較的政治上の統一の出來た小國では、その出現は活動を許さない。李朝でも太祖は非常な佛教信者でありましたが、太宗は非常に佛教を排斥して儒教を國教としました。其世相に就きましては後日申しませう。
 李氏朝になつてから鴨香E豆滿を界とする空前の領土を獲得した。儒教は盛となり、一切を支配する樣になりましたが、併し種々の迷信は前代から殘り、仙教も社會の裏面には勢力を有して居た。朝鮮では豐臣秀吉の兵を受けたが、明の保護で國を全うしたといふので、之を非常に感謝し藩邦再造の天恩と申す。然るに滿洲にCが起り彼等の天朝を壓迫する、朝鮮では反抗しましたが二度兵を蒙り、仁祖十四年丙子(西紀一六三六)に王の遁げ込みました南漢山城がC太宗の親征軍に久しく攻圍されし結果、持ちきれないで軍門に降り、これからCに臣禮をとるに至りました。然し心中は少しも服さないで明を天朝として仰ぎましたが、其後八年を經て明崇禎帝十七年に明は滅びました。これから朝鮮はCに臣禮をとり乍ら、尊王攘夷興明滅Cを理想とし、官文書の外はCの年號を用ひない、官文書でもCに反抗した時にCの爲めに斬られた主戰論者の後裔に與へる文書には、特別にCの年號を用ひないで、近年まで個人は崇禎の紀元を用ひました。併し朝鮮には宣祖の頃から黨爭が起り、其間に激烈なる政爭があり終に老少南北の四黨となり末路まで來ました。
 朝鮮の儒教は朱子學のみで他を客れない。十七世紀の末から少し考證の學風が入つたが、これとても大して振はないで、末路になると天主教が入り東學が起りました。

三 國體思想

 私は前二囘の講演に於きまして朝鮮の歴史に就て大體を申し上げました。今囘から朝鮮の文化の本論に入りまする。初めに考へましたには各時代時代に其文化を説かんとしましたが、併し各時代の區ぎりも實は出來るものでない、各時代の文化は前後相受けて何時を切れ目と付けられるものでありませぬ。學校などでならば夫れ/\時代を逐うて講ずることも出來まするが、これは當講演に於ては不適當であると考へましたから、之を文化に關する各種の問題に分ち一つ一つ各時代を通じての講演を致さうと存じまする。其處で今日は朝鮮の自國の國體に關する思想を申し述べようと存じます。
 朝鮮に大きな國が現はれましたのは高句麗・百濟・新羅でありまする。高句麗は最も古く今から二千年以上の頃に既に國をなして居ましたが、百濟や新羅は新しい、それよりも三四百年は新しいと見るべきですが、百濟といふ國は高句麗からは壓迫せられ新羅からは劫かされる、日本をョりにし其屬國となり、大陸の國支那に媚びて居ましたから此は別として、高句麗は北方民族の頑健なる身體に支那の文化を入れた時は中々强い。勿論種々の關係上、支那の封冊は早くから受け屬國の禮を致したが之を盡くすには至らないし、其保護も仰がない、王は神の子である、機會さへあれば支那に入つて皇と稱し帝と號すべきものである。それで第四世紀から第五世紀へかけた廣開土王の如きは、永樂といふ年號を建てゝ居ました。高句麗の歴史の傳はりて居るものは實に簡單でそれも途斷れ/\であるから其後に建元がありましたかどうかは分らぬが、大正四年に發見された佛像後背には建興五年の銘がある、これに上部□の名がある、是は百濟でなくて高句麗でなくてはならぬ。年號を建てるのは支那の思想であつて帝王たるの思想に伴うものである。此國が大きく强くあつたなら遼とか金とか滿洲(C)とか云ふ如きものとなつたに違ひない。それから新羅であるが、此國は法興王の頃(西紀五一四)から支那の文化を高句麗方面から輸入して開けました。此國とても初めから自國は支那に隷屬すべきであるとは考へて居りませぬので、其二十三年(西紀五三六)には建元と年號を立て、それから開國とか大昌とか鴻濟・建福・仁平・太和などの年號が續きましたが、六百五十年日本の孝コ天皇の大化の次の白雉元年に止みました。これは唐の正朔を奉じましたからで、つまり内實までも唐の屬國になつたのでありまする。而して新羅は唐の兵を迎へ百濟・高句麗を滅ぼし、其地を唐から獲得するには唐に抵抗もし、決して從順ではありませんでしたけれども、最早獨立國と云ふ考はない、天下は唐の天下で新羅は唐の新羅でありましたのです。夫れで今日碑文などにも題に新羅と書く場合には有唐新羅と書くのが常である(併し是は新羅末の碑である)新羅時代は所謂名分などを自覺してゞはありませぬでせう、唯自國は唐に臣禮を執りて居るといふまでゝありましたのです。
 新羅の王廷で年號を建てるなどゝは思ひも寄りませんでしたが、民間では多少元氣もありましたか、憲コ王十四年(西紀八二二)熊川州都督の憲昌が叛しました時には、國を長安と號して慶雲と建元しました。それから新羅末に起りました弓裔は武泰とか聖開・水コ萬歳・政開などの年號を立て、弓裔に代りました高麗の太祖王建は天授と建元し、此高麗に對した甄萱は建元したかどうか明でありませぬ。王太祖はその十八年に新羅を併せ、十九年には後百濟を滅して半島を統一しましたが、天授といふ年は元年(西紀九一八)から十六年の三月まで用ひて、夫れからは後唐の使が來て王を冊したので後唐の年號を用ひ、次には後晋の年號を用ひ自國で年號を建てなかつたとの事でありまする。天授といふ年號は金石にも殘らぬ。新羅で建てました年號でも太和といふのは使つたらしい證蹟があるが他は不明でありまする。其他一切の年號は何にも殘つて居りませぬ。天授も果して使用したか如何か、此間の金石などがないから不明である。太祖の二十年に建てた廣照寺眞K大師の碑にはC泰四年十月として居る、後唐は前年に滅びて後晋となつたのであるが、後晋からは冊封使が來ないからC泰の年號を用ひて有唐高麗國として居ます。太祖二十一年七月から後晋の天福を用ひて居て、二十二年に建てました菩提寺大鏡大師碑には天福四年として居るが、たゞ高麗國と書いて居る。二十三年に出來た地藏院朗圓大師塔碑にも興法寺眞空大師碑にも高麗國とのみ書いたが、二十六年の淨土寺法鏡大師碑には有晋高麗と書いてある。
 高麗第三代の定宗が四年(西紀九四九)に亡くなりて光宗が立つと光コと建元しました。高麗史には光宗元年(西紀九五〇)に建元したとなりて居るが、大安寺慈廣大師碑によると其前年からである、是には光コと建元し乍ら有唐高麗國と致して居る。光コと建元したのは獨立思想からではない、この年號は三年までゝ、それからは後周の年號を使用して居る。  此王代に龍頭寺鐵幢〔C州〕・西院鐘〔廣島縣竹原町昭蓮寺藏〕には峻豐といふ年號がある。これは宋太祖の年號の建隆で、高麗太祖の名建、世祖の名隆を避けたものである。光コ以後朝鮮で年號を立てたる事はない、たゞ仁宗王の時に平壤の叛賊が國を大爲と號し天開と建元した事があるのみである。宋の王應麟の玉海には高麗に延祥・正豐の二つの年號あるとし、Cの鐘淵暎の歴代建元考にも何王の年號か不明として居る。延祥は不分明であるが正豐は金の正隆の隆を避けたのである。從て高麗史に建隆の次の乾コ元年十二月から宋の年號を用ひたとあるは誤りである。
 高麗は自國に年號を建てないで宋・遼・金・元・明の年號を其時々に應じて用ひましたが、遼との間に紛議が出來て遼が高麗の賀正使を却けた場合などは、新年號を用ひないで舊年號を用ひ、睿宗王十一年(西紀一一一六)には遼が金に侵されて衰微し其年號を用ひる事が出來なくなると、干支とか啓統紀元を用ひて來た。
 李朝では勿論年號を建てない。
 朝鮮では新羅王代から王國主義で帝國主義は其思想に少しもないのである。勿論領土は必要に應じて北に擴めるべく盡くした。併し此場合には前代の故地であるといふ事が常に申し分であつた。これには王氏高麗も李朝も高句麗を前代として居る。
 朝鮮の王國主義は李朝に至りて儒學が盛になると一つの道義となりました。これは前囘の折にも説きましたから略しまするが、丁度日本の足利時代に日本の地方の豪族が一向に國體を辨ぜず、僧に書かせて送りました文書に朝鮮國皇帝陛下とあると、朝鮮では大に困つた、斯る文書を收めるのは宗主國に對して僣越である、道義に反して居る、併しその心持は惡くはなかつたと見える。賜物なども呉れるので斯る文書は隨分出された樣であるが、これは朝鮮から見れば臣民――朝鮮臣民の禮を執りて來たわけである、日本の豪族は彼に臣下の禮を執つたのである。併し朝鮮は之を受けるのは僣越であるから、金誠一といふ人の説に從へば、次からは斯る語を使用する勿れと諭したとあるが、此の諭した事は確なものには見當らない。  日本は獨立國である、帝國である。帝國主義で勿論王國主義を夢想だにした事はない。この日本の帝國主義と朝鮮の王國主義とが朝鮮との交通に於て二度程問題になりました。一度は豐太閣の時で征韓の役前に(下缺)

四 高句麗の文藝

 今晩は朝鮮の文藝に就て申し述べようと存じます。約二囘若くば三囘に亘ることゝ存じますが、尚ほ前囘時間の都合で申し殘しましたことを一寸申し述べます。それは朝鮮では近年に至るまで明の崇禎の年號を用ひたことでありまする。明の朝鮮に對する政策は第二囘に申しました通り宗主國と屬國といふ名義上の關係を有して居りましたが、明は此名義を有するのみで朝鮮には何等の干渉を致しませんでした。朝鮮の使節は屬國の禮を守りて絶えず明に朝貢いたしました。明からも皇帝の代かはりには登極を告げる詔使とか、王の代かはりには封冊使とかは度々朝鮮へ來まして屬國の扱をしましたが、明人は官吏は勿論のこと一商人も半島内には居りませんでした。勿論宗主國の帝室が屬國の王室を保護する態度を充分にとりまして、王が廢されて新王が立つたとか、兄たる世子を廢して弟を世子にせんとした場合などは容易には之を許しません、病氣であるといへば使節が病氣を見屆けるとか、一應の形式丈けは盡しましたが、これとても深くは干渉しませぬ。朝鮮の外交と申しても日本との交際ばかりですが、これは朝鮮で交隣と申しました、或は事大に對して字小とも申しましたがこれは私交でありまして、明は公然には認めぬ。併しこれとても知つて知らぬ振ですましました。朝鮮には自治を全く許して少しも干渉せぬ、それで朝鮮は甚しく心服しました。これは同じやり方でも明でありましてこそ斯く行きました。そして過去の、世界の文化の狀態でこそ斯く行きましたが、たとへ過去でありましても日本が明の位置になつて明と同じ政策を執つたら如何かと申しますと、日本ではさうは行けませぬ。それは日本は文化上の主權を持つことが出來ませぬからでありまする。朝鮮は支那の文化を享受して、其思想は全然支那文化が支配して居たから如上の結果を生じたものである、日本には何等他を心服せしむる文化の根底がありませぬ、到底他の思想を支配する事は出來ない。また當時の世界は支那・朝鮮・日本であつたから如上の結果を生じたのである、今日とは世界が違ひまする。明は朝鮮に成功しました、其根本は支那の文化が朝鮮を支配したにありまする。朝鮮は日本から明を征伐するから途を假せと申し込まれた、明を征伐するとは朝鮮人の思想から申せば天下唯一の天子の國を侵す大逆無道である、其加擔をせよである、自國へ兵を入れて自國を滅す言ひ懸りであると解するより外なかつたのである。朝鮮人の立場になつて見ると、自分の隣に居つて從來自分に好意を表さないのみならず、自分の家の鷄も捕へて行く、竹林も折りて行く、田畠も暴らす、そして兄弟喧嘩のなぐり合ひばかりして居た家の者が、突然貴樣の本家へ征伐に行くのだから案内しろと拔身で押しかけたと同じだ、驚いて返事も出來ないうちに坐敷まで暴れ込んで强奪を初めたと同樣である。明の爲めに日本兵を蒙つたとは如何しても考へられない、そこへ明から大兵を送つて日本兵を迫ひ拂うてくれた。そしてあとは何等干渉しないで、必要がなくなるとすぐ引き上げた。感謝しないでは居られない。明が衰弱してCが大きくなり武力で朝鮮を服した。而して朝鮮に對しては明の政策を襲踏し自治を許したけれども、朝鮮はCに感謝すべき何物もない、感謝すべき何物がなくともCの文化が朝鮮を心服せしめ朝鮮の思想を支配したならば朝鮮は心からCに服したであらうけれども、Cの文化は何にもない、Cの文化は明の文化、支那人の文化で、滿洲帝室の文化でない。朝鮮人は滿洲帝室に服すべき筈がない。支那の文化に服して居た彼等は明帝室の復興を祈りました。そして飽くまで明の屬國であるといふのでCの屬國になつてからは官府の公文書にはCの年號を用ひ居るが其他には用ひない。崇禎十七年に明が滅びてからは崇禎後幾囘の何干支とか何年とか崇禎紀元を用ひ或は上之幾年何干支といふ書き方をして年代を表しました。
 崇禎紀元の事が意外に長くなりましたが、これから朝鮮の文藝に就て申し述べまする。
 朝鮮に於きまして漢が朝鮮に置きました樂浪・帶方の文藝はこれは朝鮮人の文藝でなくて支那人の朝鮮に於ける文藝でありまするから、此處で説くのは範圍外でありまするが、樂浪・帶方といふのは古代に東方諸國に支那文化を傳へた本地でありまするから、此支那の僻遠の郡縣も其文化は支那の本地の郡縣と差はありませんでした事だけを遺物に就て申し上げたい。
 樂浪・帶方の遺物は今日では大同江の南から黄州邊に亘りて幾多の古墳が累々として殘り、其封土の内には磚で作りました迫り持式の壙があり、壙の中には漆器玉器・銅器など實に立派な遺物がありまする。其磚には文字の書いてあるものもある。此樂浪の遺物としては碑が一基ありまする。この碑は大同江の河口に近い處から三里程奧の平安南道龍岡郡の於乙古城址の附近の野中にありまして、大正二年九月下旬私が發見しましたものです。漢の章帝(西紀前八〇)の頃のもので千八百三四十年前のものであります。又一つは滿洲輯安縣板岔嶺にて發見されたる毋丘儉の紀功碑(正始七年頃のもの)の斷片でありまする。併し是等は朝鮮人の文藝に關係のないものであります。
 漢代の馬韓・弁韓・辰韓の三韓は相當に開けて居りました、而して古くから支那との交通もありましたのですけれども、三韓人の文化文藝上の遺物は今日に至るまで一も發見いたしませぬ。次は高句麗・百濟・新羅の三國でありまするが、度々申しました通り、高句麗は鴨麹]の流域に居まして漢代から餘程開けましたが、今日其舊都でありました輯安縣麻線溝通溝東崗の地方――江界から十四里――皇城坪と申す處へ參りますと無數の大墳墓がありまして、其處に國岡上廣開土境平安好太王(好台王)の陵碑があり、附近の塚墓には「千秋萬歳永固」とか「願大王陵永安如山固如岳」とか「乾坤相畢」などの文字ある磚があり、この乾坤の坤の宇が巛の形に書いてある、是は漢代の風でありまする。偖て比廣開土王陵碑と申すは非常に大きな物で、私が調査に行きました時には文字の刻してある部分丈けしか露出して居ませんでしたが此部分が高さ二十尺八寸五分、方柱形の自然石で幅が最も廣い第三面で六尺五寸、狹い第四面が四尺六寸ありまする。其後K板博士が碑側を掘りましたら下には方形の大きな碑砆があつたといふことです。附近は土山でこんな大きな石材はない、尤も石は附近にありまする稜蠻岩である。江邊ではあるがこんなのを如何して運んで來ましたやら。此碑は長壽王の初年卽ち西紀四百十三年の頃に建てられました、今から千五百年前でありまする。碑文は四十四行、字數は一千八百字程で、文字も立派であるが、堂々たる文章で、碑文は三段に分けて解釋すべきで、第一段には高句麗太祖王創業の神異と廣開土王の偉業とを略述し、建碑の理由を説く、先づ碑の序文とも申すべきものでありまする。第二段は主文で王の勳蹟を記し、日本と交戰したことを主なる記事として居ります。第三段は守墓人烟戸に關して王の教令遺訓を記して居ます。尤もこれは高句麗人が漢人に書かせたものとも見られますが、一方に於ては斯く漢人を使用した此國の文化を見ることが出來まする。
 此他に此王の陵にある瓦の裏には圬先の樣なもので職工が印を附けた文字が書いてある第二△とか漢とかの文字がある。中々良く書けて居る。これは日本の唯今の瓦職人などでは中々こんなには書けませぬ。これで高句麗の普通人の文化の程度が窺はれます。
 それから高句麗の平壤の城壁の用石の中に簡單であるが二十餘字計りの刻文あるものが四個ほど其處此處から發見されましたが、これは漢字で文を成しては居るが漢字を假字にして國語を表示して居る。今日では如何も意味が判然しませぬ。恐くば五六世紀頃のものでせう。かうなればもう漢字は民衆の使用文字になつた證據でありまする。高句麗の古墳に就ては工藝の條に申しますが、其壁畫は驚くべき立派なものでありまする。

五 百濟・新羅の文藝

 前囘に高句麗・百濟・新羅の文藝のうち、其三國中で最も開けた高句麗の文藝に就きて申しましたが、高句麗人の繪畫は古墳の壁畫に實に立派なものが澤山殘りて居ます。金石文でなくて此國の肉筆の文字は私の耳にいたしました處では、平壤附近の大同郡紫足面といふ所の一古墳に壁書があり、是に「王着鎧馬之像」と六字が題してあるさうですが、私は見ませぬ。併し高句麗は文學も先日申しました樣に餘程進歩し、舊唐書には
高麗俗愛書籍、至於衡門厮養之家、各於街衢造大屋、謂之扃堂、子弟未婚之前、畫夜於此讀書習射、其書有五經及史記、漢書、范曄後漢書、三國志、孫盛晋春秋、玉篇、字統字林、又有文選、尤愛重之
とあり。推古天皇の頃には此高句麗から文藝が餘程多く日本に入りました樣で、聖コ太子の師の惠慈などは高麗人で、其他澤山の高句麗の高僧が種々の文化を傳へましたが、後には高麗沙門の道顯などは日本世紀を著述しました。高句麗人の詩は乙支文コが隋將于文仲に贈りました「神策究天文妙算究地理戰勝功既高知足願云止」の詩と、某の人蔘讃、定法師の詠孤石などが殘りて居る。
 次に百濟に就きて申し述べまするが、百濟は遼東方面にて相當に開けました扶餘種のものが漢帶方郡の故地に國を立てましたので漢人で此國に入りしものが多くありて、百濟に文藝を教え傳えました。百濟から日本へ來ました阿直支、これは王子で直支王となつたもの、經典を讀みて菟道稚カ子の師となつた。それから有名なる王仁、これは王姓の人で樂浪人でありまする。三國史記によると神功皇后時代の近肖古王の時に
古記云、百濟開國已來未有以文字記事、至是得博士高興、始有書記、然高興未甞顯於他書、不知其何許人也
とありまするが、高興は高句麗人か帶方人でしたでせう。これは文字の使用を始めたと云ふのでなくて史書を編纂した事、卽ち記錄を作りました事である。百濟人の文章では魏に蓋鹵王〔諱慶司、日本紀には加須利君とす、雄略天皇時代の王なり〕が拓跋魏に上りし上表文がある、是は非常なる名文で實に立派なるものであるが、果して百濟人の手に成つたか、支那人の代作ではあるまいか、疑問がある。併し百濟も非常に進んで來まして聖王〔欽明十五年戰死〕は梁に使を出して毛詩博士浬槃等の經義や工匠畫師を請ひまして許され、又此頃に梁へ講禮博士を請ひましたので、梁からは少くして崔靈恩の三禮義宗を習うた陸詡といふ人を遣はしたといふ事でありまする。百濟人の書きました百濟記・百濟新撰・百濟本紀などは日本に傳はりまして日本書紀編纂の時には史料になりまして尚ほ幾多の逸文が書紀の註になつて殘て居ますが、實に惜しい事には完本は今日には傳はりませぬ。
 百濟の金石文や百濟人の文字は今日には一も傳りませぬ。繪畫は最近に扶餘で古墳の中で發見されましたそうですが、私は未だ見ませぬ。百濟の文藝に就きましては、後周書に百濟の俗を記して
愛墳史、其秀異者頗解屬文、又陰陽五行、……亦解醫藥卜筮占相之術、有投壺樗蒲等雜戯、然尤何奕棊、僧尼寺塔甚多、而無道士
とあり、舊唐書にも
其書籍有五經子史、又表疏並依中華法
とありまする。
 次に新羅に就きて申し述べまするが、新羅は三國中最も遲れて開けました國で此國は支那に交通せうにも西は百濟に、北は高句麗に、南は日本に距てられ到底出來なかつた國でありまする。それで支那との交通は高句麗なり百濟なり他の國を經由せねばならなかつたので非常に遲れて居りまする。梁書に
其國小不能自通使聘、普通二年王名募泰始使隨百濟奉獻方物、……無文字、刻木爲信語言待百濟而後通焉
とありまする。普通二年は五百二十一年で、法興王の八年、わが繼體天皇の御世です。梁書の此記事は少しく酷な樣であるが、要するに此頃まで新羅は非常に低い文化の狀態にありました。是は古墳などに依りましても知れまする。然るにこの法興王代から非常に急劇に進歩した。王の十五年には佛教を國教とした。國が强くなつたので高句麗や百濟から僧侶も文士も來投したでせう。二十三年には元と號を立てる。眞興王〔わが欽明天皇と全く同代〕代になると更に强く、更に文化を輸入した。百濟を經由して留學僧なども出した樣である。これには佛教を崇奉した百濟の聖王の寛厚なる好意もあつたであらう。王の六年には國史の修撰あり、十年には入學僧の覺コが梁から歸國しましたが、十二年から十三年にかけて漢江の流域を高句麗・百濟から略得し今の仁川方面に出たので、以後は支那との直接交通が出來非常に進んで來まして、王は十六年に北漢山に巡幸して封疆を拓定して碑を立て、二十二年辛巳には昌寧に碑を建て、二十九年戊子には咸鏡方面に碑を立てました。是が偶然にも今日まで遺存しました。これらの碑文で當時の新羅が急劇に進んだ有樣も分りますし、新羅の文化の狀態も判りまするし、其記事は史學上莫大なる光明を與ふるものでありまする。
 これから新羅からは僧侶の留學するものなども增加しまして非常に進歩しました。圓光とか慈藏とか唐の高僧傳に名を飾る人も出ました。
 唐の初めには高句麗・百濟・新羅共に子弟を唐に入學せしめました。新羅人の詩には眞コ王が錦を織て五言太平頌を作り唐に獻じた詩句が殘りました。新羅が三國を統一する頃には强首といふ文士が唐への文書を作りましたとありますが父は奈麻といふ十七位中の十一位の人で餘りの家柄でもなし、師に就きて曲禮・爾雅・文選を學んだとある。留學した樣子もありませぬが、立派な文士となりましたのは如何に新羅が進んで居たかゞ分りまする。新羅古記に文章は則ち强首・帝文守直・良圖・風訓・骨沓とあるが、帝文已下の事は逸して傳を立つるを得すと史記にありまする。  任那諸國卽ち加羅諸國に就きては少しも分りませぬ。

六 新羅王朝の文藝

 今日は前囘に續きまして新羅王朝時代の文藝を申し上げます。新羅王朝と申すと第一囘第二囘に半島史の概略を申し述べた時に既に申しました如く、第七世紀の半頃に卽ち我が天智天皇の時に唐兵を招致して百濟と高句麗とを滅ぼし唐を翻弄して百濟の故地と舊高句麗の南部とを領得し、今日の平壤・元山邊を北の堺として以南の半島を領得し半島を統一せる王國を建てました、我が朱雀天皇の天慶六年(西紀九四三)まで約二百七十五年の間でありまする。大體に於て奈良朝及び平安朝の盛期に相當致しまする。
 この新羅王朝の文化は、相當時代の我が文化に餘程似て居る。併し日本と唐との交通が頗る不便で我が遣唐使の船が屡々顛覆し、無事に渡ること非常に困難であつたのに比して、新羅と唐との交通は非常に便利で殆ど危難がありませんでした。これは海上の地理的關係や船の構造にありましたのです。使節の船は毎年出ますし、唐の方の貿易船なども盛に來ました樣であります。而してこれには留學生も僧侶も澤山に參りました。而して留學生にも僧侶にも拔群の成績を擧げました。新羅僧の學問や勇猛なる艶_は非常なるものでありましたが、これは佛教のことを申すときに讓り、今日は文藝のみに就て申しまする。
 新羅の都慶州は文化の點から申しますと唐の都長安のコロニーで、唐の文化は新羅の都、日本の奈良・京都、渤海の上京に輝きました。半島の美術工藝の進歩は前にも後にもない程度に進みました。
 丁度この新羅が半島を統一します頃に出ました文士は强首と申す人でしたが强首といふ人のことは前囘に申しました。併し如何なる文を作りましたか今日では殘りませぬ。統一しました文武王の時代には王廷の文臣が作りました唐への陳情書・謝罪書の樣なものが傳はりて居ますが、實に立派な文章です。文武王にも文武王の父であります太宗武烈王にも、功臣金庾信にも碑が出來ました。太宗王のは龜趺と螭首とが殘り碑身はありませぬが、實に立派な見事な、其技術から申しても今日では到底及びもつかないものです。金庾信のも文武王のも同樣と思ひまするが、全く今日に傳はりませぬ。但だ文武王の碑は百年前までは斷片が四石ほど殘りまして其文が斷篇ながら知られて居る。當時の大學の教授「國學少卿金某」の撰文であるが、四六文で實に立派な文章でありまする。この文武王及び其子の神文王頃には薛聰と申す有名な儒者が出ました。薛聰はこれまた非常に有名なる佛教學者元曉居士――これは別に申しますが――の子でありまする。高麗時代になりますと弘儒侯と追贈され、今日まで孔子廟に配享してありますが、この薛聰といふ人は「以方言讀九經、訓導後世」と傳へられて居ます。併しその詩文は傳はりませぬ。
 新羅では惠恭王(西紀七八〇薨)まで〔桓武天皇十一年、奈良朝に當る時代まで〕を中世とし、政治上では最も良く治まりました時代として居ますが、この時代に出來ました文章文字は前記の碑文の外に甘山寺造像記二、聖コ王神鐘銘(翰林カ金某撰)誓幢和上塔碑などでありますが(其他鐘銘など金石文は三四點ありまする)甘山寺造像記に吏道文のあるのは注意すべきです。吏道のことは後に申し述べまする。
 惠恭王の次の宣コ王以後は新羅の下世と申しまして、王位繼承の亂が屡々起り地方では豪族が漸次地歩を堅めて來る衰世でありまするが、文化の方は爛熟し進歩はu々著しく、學生僧侶の唐に留學せるものu々多く文藝は進歩しました。此時代の風尚を見るには哀莊王二年(西紀八〇一)の鍪藏寺碑がありまする。書家としては金生といふ人があります、素生が卑しいのでか、名は傳はりませぬ。この金生は景雲二年(西紀七一一)に生れて八十餘まで生きたといへば寧ろ前期の人ですが、此人の書は宋人が王右軍の書だと申して、新羅人の書なることを信じなかつたと申します。其文字は高麗の光宗五年(西紀九五四)に建てられた朗空大師白月栖雲碑に集字されて殘りて居ります。姚克一といふ人も能書であつたと申しますが、これも傳はりません。それから金忠義と申す人は唐で畫迹塩ュと許されて居ます。
 新羅で文士として有名であるのは金雲卿で、朝鮮の方の書物では事蹟も充分には明でありませんが冊府元龜によつて餘程明になる。此人は長慶年間(西紀八二一―八二四)に唐の賓貢科に及第して唐に仕へ會昌元年に歸國しましたが、これより唐末まで百年ならざるに賓貢科に及第した新羅人は五十八人ありました。大中年間(西紀八四七―八五九)には金可紀〔一作記〕といふ賓貢進士で博學强記屬文C麗美委容と稱せられた道士風の人がありまする。〔太平廣記〕唐で高官に上り唐の史籍に名を殘して居るものは十數人ありまする。新羅末に出た文士の崔致遠・崔承佑・崔仁滾・金潁・朴仁範などがありまする。而して新羅の文運は其國の最末に於て最高に上り之を高麗朝に傳へました。最も有名なのは崔致遠でありまする。日本では遣唐使も止みて漢文學が衰退する頃から新羅では一層盛んになりました。崔致遠は菅原道眞公と時代を同じうして居ます。この人は咸通九年(西紀八六八)に十二歳で留學し、二十歳で及第し、准南節度使高駢の從事官となり文筆を掌り、二十九若くば三十歳で唐から新羅に歸還しましたが、この人の唐に於ける生涯は僅にこれだけであるが、唐に殘した四六一卷・桂苑筆耕二十卷は唐書藝文志に著錄されてゐます。崔致遠は本國に還りましてから幾多の文を作りましたが、新羅の末の亂世であつたので加耶山海印寺に隱れ、五十歳の頃に法藏和尚傳を書きました以後は消息を傳へませぬ。この人は孤雲又は海雲とも申しました。文集三十卷は今日傳はりませず、桂苑筆耕が存在する計りで新羅人の書で今日に殘つて居るのはこれと法藏和尚傳のみである。文昌侯と謚して薛聰と共に孔子廟に祀ります。この人の教養しました者が高麗に入りて仕へ文筆をとりました。それは高麗朝の條に申しのべます。
 金雲卿や崔致遠の詩句は早くより日本に傳はり、大江維時の編した千載佳句に載つて居るとの事です。崔致遠の句は特に多く九首まであるとの事です。金雲卿の作は新撰朗詠にもあるとのである。〔山田孝雄氏に據る〕千載佳句の編者維時は應和三年(西紀九六三)に六十七歳で沒して居るから、崔致遠とは年齡の差三十九年ばかりあります。
 新羅の民間では如何なる文章があつたかと云ふと、新羅人は漢字を假字として國語を表はして居る、卽ち我が古事記や萬葉集の樣な書き方をして居ます。これは郷歌や金石文にも多く殘つて居る。眞聖女王二年、大矩和尚に命じて集めしめた三代目といふ郷歌集の名も知られて居り、古くは聖コ王十八年の甘山寺彌勒彌陀造像記、元聖王の時の葛頂寺石塔記等があります。

七 高麗の文藝

 前囘に於きまして新羅朝に於ける支那文藝の有樣を申し述べました。新羅朝に置きましては唐の文藝を移植し半島に唐の文化を起し、茲に朝鮮の文化の基礎根底を充分に作り上げました。この新羅朝の文藝はそのまゝ高麗朝に繼承されまして、加ふるに高麗朝に於てu々支那文化を輸入し採用いたしましたから、高麗朝にてはu々支那風になりましたが、何と申しても支那の文藝は唐を最盛時と致しますから、高麗朝が輸入しました支那文藝は新羅のそれの如くではなく、またこの時代に當りました宋は弱くありまして遼・金などの壓迫を受けて居ましたから高麗も同じく遼・金の壓迫を受けて、宋と交通が出來難かつた時代が多くありましたので新羅と唐との關係の如くには至らなかつた。從つて高麗人は新羅人の如き優秀なる支那文學者を出さなかつた、個人としては新羅人には及ばないが、支那文化が國民一體に普及したる程度は遙に新羅時代の上にありました。新羅時代には支那に修得教養されたる文藝の巨樹は點々と聳立して居たが、未だ林を成すに至らなかつた。併し高麗時代には此等の巨樹から種子が芽生へて一般の林となつた。尤も移し植えられた二代目三代目となりて質は劣つて來だしました。
 高麗の初期は新羅の文藝をそのまゝ承け繼ぎました。南北支那との交通は行はれたが、五代の時で留學生が出るまでには至らない。文藝は重んぜられました。高麗太祖十年十二月百濟王の甄萱が王に寄せたる書は新羅末に入唐し及第せる崔承佑の作と三國史記列傳に書いてありますが駢驪體の裝飾文である。之に對して翌年正月に太祖が出した答書は同じく駢驪體の裝飾文で双方を讀んで見ると美文の鬪合せの樣である。この高麗方の文は恐くば崔彦ヒといふ人の作と思はれます。この崔彦ヒといふ人も慶州の人で十八歳に入唐留學し及第し、四十二で歸國し新羅の執事侍カ瑞書院學士となり、高麗に仕へては翰林院大學士となりました(かの答書は崔彦ヒの未だ仕へざる前かも知れない)。太祖の時代には此他に崔承老とか其他數多の文士がありまするが、今日では金石文に此等の人の文が殘つて居る。新羅末から高僧大コの爲めに塔碑を建てる事が流行しました。是等の碑は前囘にも申しました通り實に立派でありますが、今日殘つて居るものが太祖二十年から景宗まで四十年程の間のものだけでも十九基からあり、撰者は八九人あります、いづれも名文です。三國史記列傳に崔致遠の門人等が太祖に仕へて達官に至る者一に非ずとありますが、彼等の中に致遠の門人があるのでありませう。
 高麗になりましてから支那の國勢が唐代と異りました爲めに、僧侶には留學するもの多かつた樣ですが、留學生は睿宗王十年に五人を宋に留學させたことの知られる外、出さなかつたやうですが、その代りに高麗に來りし支那人を厚遇優待して之を師とすることが行はれ出しました。其數は中々の多數で、之を餘りに優待する爲めに臣民の怨を買ふ樣なこともありました。其中に有名なるは光宗(西紀九五〇―九七六)の時の後周人雙冀で、封冊使に從ひ來り、病で留りました。翰林學士となり王に獻言して始めて科擧を置き詩賦頌策を以て進士を取りました。これが科擧の始めである。これから文運大に興つたといふが「惟其倡以浮華之文、後世不勝其弊云」といふ評がありまする。此頃から餘程支那風になり、姓なども廣く附せらるゝに至りましたらしい。次に成宗の頃は崔承老などいふ同じく慶州出の名儒がありまする。成宗時代(西紀九八二―九九七)には契丹の侵寇ありて苦しみましたが、斯樣な間にも西京卽ち今の平壤に修書院といふを開置して、諸生をして史籍を抄出し藏せしめました。穆宗の時代には宋の溫州の文士周佇といふが來まして、この人は顯宗時代に玄化寺碑文を撰しました。この時代は支那や滿洲と交通があり、日本とも相當に交通があり、大食國人も來た時代です。この頃から文宗時代に亘りて崔冲といふ名儒が出ました、文武の名臣で相臣ですが海東孔子の稱があります、東方學校の盛なるは冲より始まるとある。子孫には名儒が出ました。書物の刊行のことも始まりました。〔睿宗十一年、禮記正義七十卷、毛詩正義四十卷〕尤も既に顯宗の時に大藏經の刊行が始まり、宣宗の頃出來たといふ重大なこともあります。顯宗王四年(西紀一〇一三)に崔冲等が史官の職を帶び顯宗・コ宗頃(西紀一〇三二)に七代事蹟三十六卷が出來てから、歴代修史の事も起りました。文宗は明君であつて、高麗の最盛時である、書籍刊行のことも盛に行はれた。宣宗の頃には高麗は藏書國として宋に知られたものか、宋は高麗使節の還歸するに託して所求の書目を授けこれを求めた。併しその幾何が高麗に存して在つたものかは不明である。この頃に宋の泉州人劉載、福州人胡宗且、開封人愼安之などが歸化した。胡宗且は學問はあつたが「頗進厭勝之術」とある。雙冀以下諸人の爲めに朝鮮の支那字音は南支那化したといふ事である。別に述べまするが當時は佛教と共に地理讖緯説が行はれた。高麗人(新羅人も)の思想を支配したものは佛教でありまして儒教ではない、儒教よりも支那文藝が行はれたのである事を知らねばならぬ。
 詩文は盛んに行はれました。仁宗の時には史書では三國史記が出た。毅宗王は文詞を好愛し文官と遊蕩吟咏を事とし、武臣の憤怒を買ひ遂に武臣が蹴起して文臣を虐殺するの大慘事を起すに至りました。
 武臣は文臣を虐殺し明宗を擁立し毅宗を弑してより、文臣の僅に殺戮を免れし者も全く屏息して、一時は暗K時代ともなりましたが、武臣の首領は互に權勢を爭ひ終に政權は其一なる崔忠獻に歸しました。崔氏は令公の名を以て文武の政權を掌握し、四代約六十年傳へましたが、これが相當に文詞の士を愛護しました。この頃から蒙古に蹂躙さるゝに至りました。高宗王代に李仁老・呉世才など云ふ詩人が出で、江華島時代には有名なる李奎報などが出で、又大藏經の再版など出來ました。
 元宗王の時に元の屬國になり、高麗の王室は元の藩王國同樣になり、交通が非常に頻繁になつたのみならず、王子王族朝臣が元に在留する者多くなるに至り、高麗の文藝は全く一變して李氏朝文化の基礎を作るに至りました。  高麗の高宗王以前の文化は新羅時代に入つた唐の文化を基礎とし、これに唐の名殘の宋の文化を加へたものであるが、高宗以後の文化は宋に發生した宋特有の文化で、李氏朝の文化は正しく之を基礎としたものである。
 高麗が元に服屬して、元帝室と高麗王室とは親族關係となりてより、高麗の子弟にして元に教育されしもの少なからず、元の世祖の外孫に當る忠宣王の如きは、元に在りて姚燧・趙孟頫の諸儒と遊び、前古の興亡、君臣の得失を商確し、尤も大宋の故事を喜んだといふ。王の從臣に白彜齋頤正といふものがあり、多く程朱性理の書を求めて還歸したが、崔溥[正しくは權溥]〔忠穆王二年、八十五歳にて卒〕は建白して四書集注を刊行しました。之から朱子學が入つたが、この外にも早くより安社俊といふ儒者が朱子學を講じたとのことであるけれども、この人は名のみ傳はりて事蹟は少しも傳はらない。元に服屬の結果として稼亭李穀・u齋李齊賢・牧隱李穡の如き、元にて學問した朱子學の大儒が出で、また鄭夢周・鄭道傳・李崇仁・權近あり、此等の人々が子弟を教育しました。此等學者の詩文集を見るに、其記する範圍は大陸に亘りて廣く、特にu齋李齊賢の如きは支那の西邊に及んでゐます。併し當時の普通教育は信徒の手に收められて居りました。
 高麗人の文章は金石に多く殘り、高麗時代には高僧の巨碑多く建てられ、是等は當時一流の文章家の手に成つて居ます。併し文も書も、唐にて學びたる新羅人には劣るやうです。

八 李朝初期の文藝

 前囘に於きまして講ぜる如く高麗が元に服屬しましてから、高麗が元の藩屬國の如くなり、國人の元に往來する者多く、從て元代に於ける支那の學問卽ち宋の學問が高麗に入りました。宋の理學が高麗に輸入されて尊王攘夷、一統といふ事を至上とする學問が入り、高麗人の氣風が餘程變りて參りました。尊王といふ事は支那の正統の帝室を崇奉する事であると、高麗人より引いて李氏時代の人は解釋しました。併しこの思想の變遷は第二囘に申し述べましたから今囘は略します。尚ほ朱子學は白頤正から初まり、李穀・李齊賢・李崇仁・李穡・鄭夢周・鄭道傳・權近の如き大儒を出しましたが、高麗末に李成桂が次第に勢力を得ると、鄭道傳は其爪牙となり不忠不義を極めました。鄭夢周の行動も批難すべき點はありますが、李成桂の黨に暗殺され、李崇仁や李穡は敢然として節に殉ずるには至らなかつたが節を汚すとまでは至りませんでした。
 李成桂は高麗恭讓王から禪讓の體裁で位に卽き、李氏朝鮮朝を立て、明を宗主國と仰ぎ、其王室の位置を固めましたが、此時李氏政教の根底を作りましたのは朱子學者である鄭道傳である。この人は後に太祖の子の間に王位の爭がありましたとき太宗王となつた芳遠に反對して殺されました。而して高麗に叛した者であるといふので後世まで痛く排斥せられます。此點になると朝鮮の人は餘程しつかりして居ます。併し此人には三峰集といふ文集があり、詩文の外に經濟文鑑・經國典などいふ政治上の著述や佛氏雜辨・心氣理篇などいふ著述を收めて居ます。餘程すぐれた人ではありましたが心術がよろしくない。
 李氏三代目の太宗といふ人は正しく唐太宗世民の高祖に於ける如き關係を李太祖に有して居る人であるが、この人は非常に儒教―朱子學を好愛した人で陽村權近を重く用ゐました。權近は一時は李氏に仕へなかつたが、終に仕へました。また高麗朝に於きましては、李穀や李齊賢など佛教を排斥しませんでした。李穡の如きは信者でしたが鄭道傳・權近など李朝に入つた儒者は、極めて烈しく之を排斥しました。太祖王は佛教を崇奉しましたが太宗は痛く排斥しました。これは佛教のことを申す折に申しまするが、これで大打撃を受け、形のみ大きく實はぼろぼろになつて居た佛教は地に塗れて立つ能はざるに至りました。太宗は朱子學主義の政教を執りましたが、太宗もその儒臣の陽村も大氣宇の人ではありませず其國民の末が
Hermit nation となつたのは偶然でありません。而して其政事は既に少しく形式に流れて居ました。
 太宗は佛教に代ふるに儒教を國教とし、二京には大學を設け文廟を立て、各郡縣には必ず文廟を建てしめました。而して文學を奬勵せる結果、書籍印布のことが起りました。
 高麗時代に大藏經が再板まで出來まして、その再板のものは今日まで殘つて居ますことや、其他種々の書籍が板になりました事は前囘に申しましたが、活字印刷のことは申しませんでした。活字は支那では宋時から出來ましたといふ事ですが、今日現存するものでは明板が最も古いのです――最近元板かといふものも出ました――朝鮮へは多分宋から傳はりましたのでせう、高宗王二十一年から二十八年まで(西紀一二三二[正しくは一二三四]―一二四一)の間に崔瑀は古今禮文詳定五十卷を鑄字を以て二十八本印成しましたが、高麗末には鑄字印書の事を司る書籍院といふ役所がありました。
 この書籍院は李氏代にも繼存し、太祖の時に所造の刻字〔木活〕にて大明律直解百本を印出せしめました。太宗王は永樂元年に朝鮮に書籍の流布せぬのは印刷のことが少ないのであるとて大に活字を遣らしめました。而して幾度か改鑄して遂に立派な印刷が出來ました。現今永樂の活字本が殘つて居ます。
 太宗の儒教を基底とせる政教に次ぎて、更に文教を布き名臣輩出し、李氏朝の最も光輝ある時代を出しましたのは海東の堯舜と稱せられる世宗でありまする。
 世宗は集賢殿といふ
Academy を設けました。集賢殿學士は學者至上の榮譽でありました。尤も新羅時代には詳文師(改めて通文博士)あり、又瑞書院を置き、高麗睿宗の時にはC燕閣を作り學士を選し、朝夕經書を講論せしめたと申しまするが、世宗は完備せる集賢殿を作りました、尤もこれは太宗の意志でありました。之は玉堂とも申しまするが、初め文士十人を選して員とし、後に三十人又は二十人に改め、十人は經筵を帶し十人は書筵を帶し、討論考思せしめ之を優遇し、大提學卞季良が之を指畫しました。後代顯要に布列する者多く集賢に出ました。鄭麟趾・梁誠之・尹淮・申叔舟・成三問・朴彭年・崔恒・金時習・徐居正・金宗直・成俔等は此時代に出で、若くば此時代の教養の結果出でました。
 世宗は書を日本・支那に求めて刊行すると同時に、種々の書籍を編纂せしめました。(高麗史・東國地理志・資治通鑑訓義・龍飛御天歌・治平要覽・諸家歴集・醫方類聚・東國正韻・四書五經諺解・孝行錄・三綱行實・農事直説)

九 世宗王の事業

 世宗王の事業中最も注意致すべきは韻書の編纂と諺文の制定とでありまする。朝鮮に於きまして漢字の音韻は永い間に支那のそれとは餘程相違して來ましたらしい。これは朝鮮で訛りましたのもあらう。古音が却て朝鮮に殘りましたのもありませう。亦支那の異つた地方から異つた音を教示されたのもありませう。特に高麗初期に高麗へ來て文教に關係した支那人―双兾の如き―には南支那の人が多くありましたので南支那音が傳はつたとのことです。其處で朝鮮に至りましては漢字の音韻がどうも一定せぬ、亦支那の音とも異つて居る。世宗は韻書を編纂して之を一定しました、字音統一でありませう。申叔舟・成三問・孫壽山などいふ俊才の學士が命を奉じて遼東に參り、當時遼東に流されて居ました明の翰林學士黄瓚といふ人に質問しました。十三度往還したといふ事です。黄瓚は洪武正韻を講説し、中華―當代の支那―の正音を得さしめました。其結果として王の二十九年に東國正韻六卷が出來上り、翌年諸道や學校に頒たれましたが、教には「本國人民、習俗韻已久、不可猝變、勿强使學者隨意爲之」とありましたが、此書は遺憾ながら今日に傳はりませぬ。併し音韻の調査は尚ほ繼續されまして端宗王三年には洪武正韻譯解が公布されました。此書には當時の所謂俗音が併せ記せられてあつたから、若し傳本があるならば有uでせうが、これも傳はりませぬ。今傳はるものは中宗王丁丑に刊行せる崔世珍の四聲通解・韻會・玉篇・訓蒙字會あり、朴性源の華東正音通釋・華東叶言通釋あり、正宗の時の全韻玉篇あり、奎章全韻あり、要するに今日の字音は世宗の頃からして古音を失して來ましたものである。而して此頃になると支那文物崇奉の極として單語が朝鮮語からして支那語に移つたものが非常に多く、古語が失はれました。
 世宗の代に於ける大事業の一つは諺文の制定である。諺文は一に訓民正音とも申します。諺文卽ち音韻文字でありまする。この二十八字の音韻文字制定に著手しましたのは何時頃よりなるか、如何にして制定に到達しましたか、資料がなくて未詳でありますが、一應出來上りましたのは王の廿五年十二月ですが、出來上つて居たのはも少し以前であります。この諺文制定前に世宗王は口訣參定といふことを致して居ります。卽ち假字の使用法を參定したのでありまする。
 口訣のことを申しまする前に吏道といふものゝことを申さねばなりませぬが、吏道は漢文で文書を書いて、その漢文で表示し難き示意の部分を國語で假字を以て表示した、所謂「借中國通行之字、施於語助」であります。この假字を吏道と申しました。これは新羅時代から行はれました。これは漢字で文章を書く場合ですが、今一つ書く場合でなく讀む場合がある。朝鮮人は漢文を讀むには日本の樣に音訓併せ發音して讀まず、又日本の樣に返り點を附けて讀まない。音讀み捧讀みであるが、其語句の間に天爾袁波の類を附けて、或る種類だけの朝鮮語を挿入して讀みました。この朝鮮語を假字で表示するもの、夫れが卽ち口訣である。口訣は漢文を讀むに用ゐる假字である。卽ち句讀用のものでありますが、之を吐とも口訣とも申しまする。口訣には全字口訣と減筆口訣とある。減筆口訣は日本の片假字の樣に音符文字とはならなかつた。
全字口訣   是羅 爲古 乎尼 於飛
減筆口訣  厂
(에 이라 하고 하니 어날)
 に 而)
 世宗王以前に諺文若くば諺文類似のものがあつたといふのは間違で、減筆口訣があつたのみであります。世宗王の時になると音韻文字を制定して國人をして自由に意志を發表せしめようとした。其目的は漢字漢文を書き使用する能はざる低級のものにのみ俗用として用ゐしめんとするにありました。是は既に目的を誤まつて居るのであります。
 諺文の制定は梵字・蒙古字の使用法や、日本人が假字を極端に發達せしめて使用して居るに負ふ所が少なくないと思ひます。諺文制定に關係した申叔舟は蒙古女眞・日本の語に通じてゐた人であります。其字形は古篆に倣ふとありますが、これは俗士を服すべき誇稱で、上の樣な圖から邊々をとりたどりて作れます。
 偖てこの諺文は韻書の諺解や龍飛御天歌や三綱行實に使用されましたが、之を發布すると間もなく、集賢殿副提學の崔萬理といふ人が保守派を代表して反對論を唱へ上疏しました。其反對の理由は
(1) 祖宗以來、至誠事大、一逢華制。諺文若し中國に入らば事大慕華に愧づるあらずや。
(2) 諺文を制するは中國を捨てゝ蒙古・女眞・西夏・日本・西蕃の類の夷狄に同じうするもの也。
(3) 吏道は漢文字を習得して而して後に書き得べし、諺文は漢字の習得を要せず、諺文を用ゐば吏となるもの專ら諺文のみを習うて學問文字を顧みざるに至るべし。從て人倫道コを知らざるもの多きに至らん。
(4) 刑獄の辭に諺文を用ゐば、無智の民に寃獄なかるべしとなれも、刑獄の公不公は獄吏の如何にありて文字にあらざる也。
(5) 諺文は新奇の一藝にすぎず。
と申すのでありました。王が三綱〔君臣父子夫婦〕行實を諺文に譯して低級男女に讀ませようとしたのに對して、應教の鄭昌孫といふ人は「頒布三綱行實之後、未見有忠臣孝子烈女輩出、人之行不行、只在人之資質如何耳、何必以諺文譯之、而後人皆傚之」と上疏するに至りましたので、王は此等の言は儒者識理の言たるか無用の俗儒共であるとて、諺文制定に反對しました副提學崔萬理・直提學辛碩祖、外に五人を義禁府に下し翌日之を釋し、昌孫の職を罷め、反對者に痛撃を加へ、二十七年四月には諺文を用ゐたる龍飛御天歌を公刊しましたが、二十八年(西紀一四四六)八月には諺文の制定を完成し、之を訓民正音と名づけ、其二十八字を公布しました。
 諺文は讀書人や士人には用ゐられなかつた、亦彼等に用ゐしむる目的でもなかつたのは朝鮮文化の獨立の爲めに甚だ惜しむべきである。併し婦人などの間には直に用ゐらるゝに至りました。日本でも假字が婦人に用ゐられ平安朝文學を起し、次で公卿輩にも用ゐられました。是は公卿が婦人化したからである。朝鮮では諺文は低級の男子や宮中の貴婦人間には可なり廣く用ゐられたらしいが、其公布から約五十年を經て燕山君十年(西紀一五〇四)に一の無名の諺文文書のことから一大災厄を蒙り、是歳七月に王は「諺文勿教勿學、已學者亦令不得行用、凡知諺文者令漢城五部摘告、其知而不告者並隣人罪之。諺文行用者、以棄毀制書律、知而不告者、以制書有違論斷、朝士家所藏諺文口訣書冊皆焚之、如翻譯漢語諺文之類勿禁」と令しましたが、專制暴君の感情的に出でたる法令は行はるべきでありませぬ。十一年六月、大妃誕日の箋文は諺文で翻譯して居ます。「如翻譯漢語勿禁」の類でせうか。
 併し諺文は一般に行はるゝに至らないで、吏道にせよ口訣にせよ、諺文に影響を受けないで從來の通り行はれて居ました。宣祖以前のもので訓蒙宇會とか字書類には之を使用したものもあり、金正國の警民編なども漢文の外に諺文で翻譯したるものを附してゐるが、私の知る限りに於ては宣祖以前の肉筆の諺文は一紙片もないらしい。併し宮中の貴婦人などは諺文で自家の運命などを書く事は隨分あるらしい。尤も宣祖以後の事ではあるが宣祖の繼妃金氏にも此種の著があり、英祖の時の莊獻世子の妃にも著があつたのです。其他多くありましても皆な世に出ませんでしたが、壬辰役などの義兵の將の檄文などは全く形式的の立派な漢文で高等教育あるものでなければわかるものでない。併し英祖頃からの綸音などは漢文と諺文と二樣に書いて居ます。朝鮮人が諺文を吏道・口訣の代りに使用し日本の假字同樣に使ひ出しましたのは實に日C戰爭後です。之を國文と申しましたが、これは日本文に模倣したのです。尤も宣祖以後になると諺文で書いた小説が出ました。
 朝鮮の小説には三國時代から新羅王朝へかけて溫達傳・百結先生傳・劍君傳・孝女知恩傳・薛氏傳・都彌傳などありますが、極く短いものです。李朝には金時習の金鰲新話、これは奇怪の談數種で虞初新志の類ですが、李朝後期になりまして金春澤の九雲夢・謝氏南征記、金道沫の倡善感義錄がありますが、皆漢文で―九雲夢には諺文のものもあります―人物も舞臺も支那にとつてゐます。春香傳、これは有名なるもので演劇にします、妓春香と李夢龍の戀愛小説ですが作者は知りませぬ。其他種々ありますが多くは支那小説の翻案にすぎませぬ。近年まで民間の讀み物として廣く行はれ市日など露店にすら賈つて居りましたものは粗惡な紙に粗惡な板で諺文のみで書いた五六枚綴の讀切りもので二三錢のものでした。其他京城には貸本屋がありまして寫本を貸して居た樣ですが、此寫本の不潔さ加減は實に恐ろしい樣です。其小説の内容は演義三國志とか漢楚軍談とかの一節を諺文譯したものにすぎませぬ。
 本日は諺文やそれにつれて小説のことを申しました。次には經學及び史學・文學のことに立ち歸りて申しまする。

十 士林の學風

 前囘及び前々囘に於きましては、李朝の盛時でありました世宗王代の文藝の有樣を申し迎べましたが、千四百五十年(我が義政の時代)に世宗王がなくなりて文宗王が立ちましたが、間もなく死して千四百五十三年には魯山君卽ち端宗王が立ちましたのを、叔父の世祖王が位を奪ひ次で之を殺しました。世祖王が位を奪ふと集賢殿で教養されました朴彭年・成三問・柳誠源・李塏・河緯地などは故君の位を囘復せうとして殺されましたが、この世祖の簒奪といふ事が朝鮮の儒學史に大關係を生じますがこれは後に申します。
 世祖はかゝる簒奪の主でありますが餘程明君でした。同じく集賢殿學士でありました鄭麟趾、申叔舟などは世祖の股肱であります。世祖の子は成宗で此時代(西紀一四七〇―一四九四)が亦頗る文藝の盛時でありまする。有名な人には徐居正(四信)など申す人があり、經國大典が完成發布され(卽位前年)五禮儀が制定され、東國輿地勝覽が出來、東國通鑑が撰ばれました。梁誠之なども此時代に活躍しました。徐居正は筆苑雜記・太平閑話・東國詩話[東人詩話か]などの名著があり、世祖の行爲に憤激して狂的生活を送つたといふ金時習は金鰲新話あり、曹伸には諛聞瑣錄あり、成俔には慵齋叢話あり、文學と共に藝術も榮えました。此頃の人は書畫も巧みでした。茲に此頃までの李朝の書畫に就て一寸申し述べます。
 畫は高麗末の恭愍王が巧みでありましたが、李朝の初めに顧仁といふ明の畫家が來て餘程朝鮮の畫風に顯著なる影響をした樣です。姜希顏は詩も畫も巧みで安堅・崔などいふ人も出來、世宗の頃には宮中に畫院も出來ましたが、恭愍王の畫と稱する者の外に傳はりませぬ。
 書は忠宣王が元に居て趙子ミを賓客の一人としましてから、朝鮮へは其書が夥しく入りまして、子ミ流は全半島人の御家流となりました。高麗末に杏村李ーあり、李氏に入つてから韓修・成石璘あり、魯山君と同じ運命に逢つた安平大君k(匪懈堂)があります。安平大君は古書畫などを多く藏し、富足なる文士的生活をした人であります。
 成宗時代は世宗時代に比しますると最早文化が爛熟して頽廢期に入つて居ますが、此時代の人は悠つたりした文士でありました。日本からは諸豪族からの使として僧侶が入り込み、或は久しく滯在し餘程教養されました樣です。音樂者で徐u成・金小材などは日本に來て死にました。
 朝廷の艶_が皆な文士で太平の政治を致して居りました際に、學問の風尚は次第に變つて來て、山林の儒生から出た峻烈なる學風が行はるゝに至りました。卽ち士林これが成宗の頃から表面に出て來ました。
 既に申しました如く李穡・權近・鄭道傳・鄭夢周などから門閥家貴紳の子弟に移植された學問は、世宗から成宗までの朝廷を飾りましたが、成宗頃になると意外の人の系統から出た學問が行はれ、儒生といふが一種の氣骨を有するに至りました。高麗の禑・昌二王に仕へて注書といふ極めて卑い官に居ました吉再(冶隱)といふ田舍儒者がありました。併しこの人は、節義の非常に固かつた人で、禑・昌二王が朝鮮太祖に弑されますと、官を棄てゝ善山の金烏山といふに隱居し、朱子學を田舍の子弟に講説しました。太宗が禮を厚うして仕官せしめやうとしたが應じませんでした。この冶隱先生は實踐躬行の士で、山林の儒士として固い學問を教へたやうです。其門弟に善山の郡吏の子に金淑滋といふ者がありまして、世宗に召されて都に出で尹祥・金鉤・金末・金泮などゝ相並んで一代の儒宗となり、幾多の英才を教育しました。金淑滋の子は佔畢齋金宗直ですが、世宗の時に出身して、成宗時代には學問文章一代の領袖の稱あり、金宏弼・鄭汝昌・金馹孫・兪好仁・曹偉・南孝溫・洪裕孫・李宗準など最も著名な者であるが、稍々士林といふ一黨をなす形があつたので、李承健といふ史官は「南人相吹墟、師譽弟子、弟子譽師、自作一黨」と書いたといふ事です。徐居正の如きも
姜文良希孟曰、宋朝朋黨之患、起於寇萊公搏撃人物、其流之弊雖程朱亦不免於黨、今觀年少氣鋭新進儒士、日以搏撃人物爲事、弊將何如
と書いて居ります。この成宗代に於ける新進儒生の氣風は黨同伐異の風を帶び餘程野性的で貴公子の學問といふはなくなりました。學問も非常に理窟ぽくなつて來ました。此義理のやかましい學風が山野から起つて、姪たる魯山君の位を簒奪した世祖及び其次の成宗時代に盛んになりましたので、此簒奪問題が無事に通るべき筈がない。南孝溫の如きはその秋江冷話に憤慨の情を表はす記事を留め、成宗代に魯山君の生母で文宗の妃たりし權氏の昭陵が、世祖の爲に陵を廢せられて居たのを成宗二年に復位せんと上書するに至りましたが、金宗直は弔義帝文を作りて世祖簒奪のことを憤慨しました。成宗王の次の燕山君の時に至り、金宗直の弟子たる金馹孫が成宗代の史官として世宗簒奪當時のことを追記直筆し、之に師宗直の弔義帝文を載せ、尚ほ成宗時代のことも直筆し、矯激に亘つて居た史草が柳子光といふ反對黨の者の爲めに摘發されました。戊午の獄なるものが起りまして、金宗直の門徒は或は殺され或は流され、それ/″\罪せられ、宗直は既に死んで居ましたから棺を剖きて屍を斬られた。名士儒生の罪せられしもの數十人でした。
 燕山君は父成宗が宮中で宴會して酒を飮んだ惡い處だけを遺傳した非常な神經質の暴君であつた。これは世祖・成宗時代の宮庭の暗Kが生んだ兒でありました。戊午の禍に次で甲子の禍があり、此時には成宗二年に南孝溫が昭陵を復することを請ひしことありとの故を以て逆賊とし、南は金宗直の門弟たりし故を以て再びその殘りしもの及び南の朋友や此獄事を諫めし者を殺し、其既に死せる南は屍を戮せられた。士林は慘禍を極め、學問は一時絶えしと傳へられる。
 燕山の暴虐が極端に達すると、その十二年(西紀一五〇六)には京城に中宗王を奉じた革命が起つて一夜にして燕山を廢し中宗王を立てました。
 中宗王が位に卽きますと、燕山の時に流竄に處せられて居た金宗直の門徒は皆な許されてそれ/″\登用されましたが、中宗は燕山を廢して擁立された王ですから、自分の位置に惧を抱き、舊閥を恐れて此新進の儒生士林にョるの傾向を生じました。此時に世に出ましたのは金宏弼の門生です。金宏弼は寒暄堂といふ人で金宗直の門人で、師の教に從ひ小學を以て己を律した人、三十になつて他書を讀み後進を訓へたといふ事ですが、宗直が詩文を第一義としたに對して宗直よりも更に學的に固まつて居たこの人は師に貳せざる趣あるに至つた。戊午に熙川に謫せられ甲子に殺されました。金宏弼の弟子に趙光祖・金安國〔慕齋〕・金正國〔思齋〕など著名のものです。
 太宗・世宗の頃から漸次に出來て來た士林―儒生といふ者が成宗・燕山の頃から活躍し中宗の時に至つて大勢力を有するに至りました。
 中宗王より明宗王末に至る五十年間(西紀一五〇六―一五六七)は又一時期を劃します。卽ち朝鮮の全學風が儒生風に化し了る時代でありまする。中宗王は儒生出身の趙光祖(靜庵)を信任し之によりて治を起さんとしました。賢良科を設け試驗によらずして儒士を任用しましたが、趙光祖等年少氣鋭で理想を直に實現せんとする者は君を格するに小學的堯舜を以てし、其一擧一動も聖經に則らしめんといたしました。王が儒生に厭惡の情を起した時、儒生の跋扈に切齒して居た官僚派は機に乘じて趙光祖を讒し、一夜の間にクーデターを行ひ、其黨を捕縛し或は殺し或は流し、一擧して之を覆へしました。之が有名なる己卯士禍でありまする。これは我が永正十六年(西紀一五一九)であるが、尤もこれは儒生に與へたる打撃で學問そのものに向つて加へた打撃ではない。學問や思想の問題でなくて黨派の問題である。學問としての儒學朱子學そのものに就ては少しも異論はないのである。それであるから幾度儒生派が打撃を受けても直ちに囘復する。その囘復するのは卽ち李朝の科擧の制にあるのです。
 李朝では平民から學問の功を以て一代にして貴紳となつた者はない。從つて學問をし科擧に應ずるには一定の家柄のものでなくてはならぬ、卽ち兩班であるが兩班は田舎にも非常に多い。卽ち知識階級の家柄である。これは常民から次第になることも出來るが、兎角相當の官に至つたものゝ子孫である。この兩班で學問し科擧に應じた者でなくては文官にはなれぬ。出來の能くない者は武官になる。武官は輕蔑されて居る。蔭官もあるけれとも幅がきかぬ。文學に達して居なくば出世は到底出來ぬ。それで兩班の子弟は必ず教育される。仕官出來ぬ大多數の子弟は儒生として其位置を有して居る。どうしても儒生及び儒生出身者を壓倒することは出來ぬ。趙光祖等の儒生は排除されたけれども、次ぎ/\と出て來る儒生の勢力は强大で潮の寄せる樣なものである。中宗・明宗の時にはこの儒生出身者は朝廷に勢力を占むるまでには至らなかつたが、大儒が出で子弟を教養した。この子弟が宣祖王時代に朝廷に滿ちた。この大儒で先づ第一に擧ぐべきは李滉・成守琛・徐敬コ・曹植、また道家風の李之菡・鄭磏等であります。

十一 李朝中期の文藝

 前囘に於きましては燕山君の時に至りて野から出ました儒生派が自己の崇奉する朱子學の主義に從つて意氣を尚び、所信の斷行に勇であつて門閥派を凌ぐ樣な事があり、慘禍に罹つた事を申しましたが、燕山の暴政が募りに募つた結果終に西紀千五百六年、我が永正三年に革命が起り、一夜にして其位を廢し、其兄弟である中宗王を迎へました。中宗王は儒生を信任し之を用ゐ、儒生派の首領とも申すべき趙光祖を登用した。趙光祖は靜庵と號し、前に申したる寒暄堂金宏弼(此人は前にも申しました通り佔畢齋金宗直の門人で、燕山君の時に殺されました)の門人である。其處で王廷には趙光祖一派の儒生が用ゐられましたが、彼等は理想の實行に急であつて、國家の元老功臣に對して狹量な攻撃を加へる。而して賢良科といふを設けて科擧に依らないで儒者を登用することを始め、夫れ/″\官位を與へました。趙光祖の仲間は至治に囘することを期し、君を堯舜たらしめんとし、經筵に於て大に説き大に論じ寸毫も餘地なし。そこで王も之を厭ふ心が出て來ました。之に乘じて沈貞・南袞〔金宗直門人なれどC議に容れられず〕等は王に趙等を讒し、十四年己卯遼にクーデターを行ひ之を去つた。儒生千人、寃を訴ふるも容れられず。これで儒生の勢力は一掃されし如くなれど、今となりては到底これを一掃することは出來ない、地方に散じ若くば流された儒者儒生は、其地で子弟を教育する、斯くてその學問は宣傳せられた。中宗・明宗時代には吉再・金宗直の學統を傳へた大儒が出ました。
 金安國(慕齋)金正國(思齋)兄弟は寒暄堂金宏弼の門人で、兄は文衡、弟は左賛成で著述もあり、日本僧などゝの唱酬もある。慕齋の門人に河西金麟厚があり、眉巖柳希春がある。成守琛は趙光祖の門人で己卯後に坡平山下に歸り子弟を教育した。其子が宣祖朝の名儒成渾(牛溪)である。趙光祖の門人に李廷慶(灘叟)白仁傑(休庵)あり、また李彦迪あり、開城に出た獨學で一派の學問―勿論朱子學であるが―を出した徐敬コ(花潭)がある。曹植(南溟)も注意すべき儒士である。しかも此時代に出ました最大の儒者は退溪先生李滉である。これは日本でも儒宗として尊崇されました。その他、仙人風の土亭李之菡と北窓鄭磏もあります。
 宣祖王代になると此等の儒者の中、特に成守琛と李滉との門人が朝に列した(朝にある文官は儒士のみである)。此時代は實に文士の數多輩出したる時代でありまする。此頃になると諸地方に書院が立ち、之を中心に地方の儒生が居ました。書院は政治を議論する所となり、師弟の關係で儒生にもそれ/″\派別を生じましたが、政治の方では東人・西人の二つに別れました。併し之は師弟の分れと見ることは勿論出來ませぬ。併し黨人の關係には師弟關係は注意して見なければならぬ。豐臣秀吉の兵が入りますると是等教養を受けたる儒士は朝にあつて奔走するか、或は野にあつて義兵を擧げました。此時に牛溪の門人で、尤も次の樣な事がなくば名も何も殘らない人姜(睡隱)と申す人が、たしか藤堂高虎の手に捕へられ日本に來て、淀あたりから京都邊に居り、藤原惺窩先生に朱子學を傳へました。惺窩先生の文集に序を書きて居るのは此人でありまする。此人は日本からも二度計り國情を朝鮮王に報告して居ますが、後に朝鮮に還つてから看羊錄を著して日本に居た時の事を書いて居る。惺窩先生の事など澤山書いてある。牛溪から姜―惺窩と面白い學統になつて居ます。
 宣祖の時に王が經書の解釋は朱子學にのみ據らぬともよろしいであらうと申されたに對して、栗谷李珥は以ての外の仰せと極諫した事がありました、朱子學の外一歩も出でませぬ。此頃に陽明全書が傳來したが少しも行はれず、朝鮮人は明に赴いて明の學風の變つて居るのを見て、之を異端に陷れるものとして自ら正を守るを誇りました。
 宣祖・光海の間に醫者では許浚が出て東醫寳鑑を著しました。
 宣祖以後は牛溪成渾・退溪李滉・栗谷李珥の學統のみであるが、是等は必ずしも派を分たない。宣祖以後は禮論をやかましくし、死を以て之を爭ひまする。其後の儒者にはC陰金尚憲、其門人の朴世采、栗谷の門人の沙溪金長生、其門人に谿谷張維あり、尤菴宋時烈あり、同春宋浚吉あり、沙溪の子の愼獨齋金集に俞棨・尹宣擧あり、張維は必ずしも朱子に從はなかつた。

十二 李朝後期の文藝

 宣祖王の頃から經學以外に史學や地理や其他制度・經濟等の學問が少しく芽ざしまして、顯宗・肅宗の頃から行はれ、英祖・正祖の頃に大に行はるゝに至りました。此事に付て申し述べまする。
 先づ史學から申しますると、李朝に於きましては高麗朝からの制をつぎて史官といふがありました。史官は王の左右にありてその政治上の言行を記錄するのみでなく、一切の見聞を書き留める、之が時政記となり、史の祕草となる。王が薨ずると春秋館で此等の記錄―時政記などの外に承政院日記の類がある―を史料として實錄を編纂する、之を某大王實錄と申し、廢王には日記といふ。實錄は活字で印刷する―尤も太祖・定宗のものなどは寫本である―印刷して四ヶ所の史庫及び春秋館に分納する。明宗王までのものは蠟謄本であつたらしい。後代を待つ信史で、李朝時代の間は見るべきものでないといふのが原則である。太祖から哲宗王までのもの凡そ壹千百十五冊あります。此實錄に付きましては詳しく申し述べたいが略します。
 地理の學問は早くから起りまして、世宗王の頃から各道の地理・地圖を撰進せしめましたが、唯今は此時に撰進しました一の慶尚道地理志が殘つて居ます。それから此王の時に尹准・申穡などの地志が出來ました、之を大成したのは成宗王の頃の東國輿地勝覽でありますが、宣祖王の頃からしまして各地方に地方誌=邑誌といふが出來かけました、尹斗壽の平壤志、鄭述の咸安志など今日に傳はりて居ます。地理學も史學と發達が相伴ひまして、史學も宣祖の頃までは史官の史筆あるのみでしたが、この少し前から一私人で政治上の見聞を記錄するもの、中宗代の陰崖日記(これは提出されなかつた史官の史草とも云へるが)宣祖王代になると有名なる栗谷李珥の石潭日記があり、又壬辰・丁酉役になるとその見聞者が幾多の記錄を殘しました。然し一個人で歴史を編纂すること、私史を編することは宣祖以後である。地理に於ても官職なき私人で研究する者が宣祖頃からある、韓百謙の如きはそれである。孝宗・顯宗の時には制度經濟の學者に柳馨遠あり磻溪隨錄を著し、次で肅宗代には星湖李瀷出でゝ新しき學風を立て、經史地理に通じ學問廣く(星湖僿説の著あり)考證風の學を立てましたが、此頃になると史學上の著述が多く出で、顯宗から正祖代にかけて李星齡の春坡堂日月錄、某の朝野僉載・朝野輯要・朝野會通・野漫輯、李肯翊の燃藜室記述等が出でました。有名な著述にも著作者の知れぬのが多い。仁祖以後の學者には黨爭の廢人が多い事は注意すべきである。而して編年・記事本末の別はあるも、多く史料の羅列である、述べて作るのでない。「惡く書いてある人の子孫も怨む勿れ」とあります。正祖王代には官邊でも種々の編纂があるが、文獻備考は有名なものである。李朝では文集の刊行は非常に盛なものであるが、此正祖頃には先祖の忠義の事などを書いて刊行する事が流行して事實を幾百倍にして壬辰・丁酉や丙子・丁卯に義兵を擧げた事などを某先生實記として刊行し、頻りに忠孝傳世の家たらんとしました。(正祖の頃には西學卽ち天主教も來ました、これは次囘に申します)。
 英祖・正祖の頃には各地方の邑志は盡く出來て居ます。此頃李瀷の門人に順庵安鼎福といふがあり、東史綱目を著し頗る博學であります。正祖から純祖頃に丁若繧り、考證著述の大家で、又柳得恭・李コ懋あり、韓致奫あり。金石學も宣祖以後行はれましたが、金正喜に至りて大成します、金正喜はC朝學風の大家である。  地圖には純祖頃の邱圖、哲宗代の大東輿地圖があります。

十三 朝鮮の佛教

 今晩は最終の講演でありますが、佛教の事を極めて概略に申し上げまする。李氏朝鮮に於ける政教の基底は儒教でありました。それで儒教の事を比較的奄オく述べましたが、最近には儒教に代るに基督教や朝鮮人固有の若くば特發の仙教や天教やが行はるゝに至りました。仙教とは神道で、今假りに天教と申しましたは、シヤーマニズムに儒教の天と耶蘇教の天主とを調和して仙教の形を以て現はれた侍天教とか天道教とかでありまする。李朝になりましてからは佛教は衰微しましたが、三國鼎立時代の後期から此佛教が非常なる勢力を有しまして、新羅時代・高麗時代を通じて大なる勢力、といふよりも全體の勢力を有しまして、朝鮮在來の神道も其一部に交はり隱れて存在し、儒教の如きも、儒教と申すよりは支那文藝の方面で尊崇されたにすぎない有樣です。從つて李朝に於ても佛教は絶えないで衰微の極に達しながら命脈を有して來ました。命脈があつたのは社會のいづれかの部分に尚ほ信仰が殘存して、之が生命をつなぐだけの生資を與へるからであります。それで佛教を除きては朝鮮の文化は講説する事は出來ませぬ。
 先づ朝鮮に佛教の渡りましたのは、古傳によりますると當時鴨麹]流域を有し遼東の幾分をも有した高句麗へは小獸林王二年(西紀三七二)に符秦の國から僧・經を送りました。〔梁僧傳は二十五年後とす〕百濟へは枕流王の元年(西紀三八四)に晋から胡僧が來て布教したのが始めで、新羅の方は渡來した年代を高句麗同樣の處まで上げて半島第一の古寺を作成せうとして居ますが、二國よりも年代が後れて訥紙王頃(西紀四一七―四五七)に高句麗から入つたが行はれないで―炤智王代(西紀四七九―四九九)との説もある―法興王十五年(西紀五二八)から行はれたのでありまする。第六世紀の上半には三國共に盛に行はれ、新羅には法興王に次ぎ眞興王が熱烈なる信者であり、百濟には聖明王が亦非常な信者で、聖明王は我が欽明天皇の朝廷に佛像經論を奉りました。我が聖コ太子の頃は半島にても幾多の高僧を出し、彼等は支那に留學し高い佛教の智識と共に支那文化を輸入しました。半島が新羅に統一されました頃には元曉といふ僧が出て、多くの佛典の注疏を書いて居ります。
 新羅王朝代には高僧傳を飾つた幾多の高僧が出で、求法の爲めに印度に赴いた者も少なからずありまして、新羅僧といふ者は見上げたものでした。新羅は全然佛教國となりました。諸高僧の中で比較的名は知られないが、佛經の注疏を書いた太賢は景コ王代(西紀七四二―七六四)の人でありまする。
 王氏高麗時代を通じても佛教は非常なる隆盛の有樣で、民衆の教化は全く佛教にありました。而して幾多の高僧も出ました。一切經の如きは二度まで刊行せられましたし、大覺國師など申す王宗出の名僧も出ました。
 併し餘り隆盛がつゞくと爛熟し腐敗するものであるが、高麗の佛教もやがて腐敗を始めた。日本では日蓮とか法然とか親鸞とかいふ人が出て新鮮の機會を與へ、又新しくて健全であつた禪宗が行はれ出しましたのに、朝鮮には禪宗は入つたが佛教界を一新する人はなかつた。これは支那文化の壓迫が急であつたからで[教派系列表略]もあらう。此佛教が頽廢し形ばかりを供へた大[門<牙]の巨木となつて居た時に、在來の支那文化を根底として芽を出したのが宋學の影響を受けたる儒教で、李朝が起るとこの儒者の手で佛教は社會から取り片付けられ、儒教が之に代つたのである。勿論其間にも多少の變遷はある、王の尊崇で一寸起りかけた事もあつたが、衰へ行く一方で、世宗王の六年(西紀一四二四)には王命で曹溪・天台・ハ南の三宗を合して禪宗とし、華嚴・慈恩・中神・始興の四宗を教宗とし、三十六寺(本山)を置いて兩宗に分隸せしめ、兩宗の總本山を置いた。以後朝鮮の佛教は.禪・教となりました。而して禪・教兩宗は初めは相並んで行はれたが、太古から四代目の碧溪淨心の頃から禪宗の人で教宗を兼修することになりかけて、C虚休靜になるとハ攝八道禪教兩宗兼判禪教兩宗事となり、禪宗と教宗とを一つにして禪教兩宗といふ事になりました。現今朝鮮僧は禪が二三割で教が七八割だそうです。僧は盡く太古普愚を祖として居る。而して社會から全く隔絶して、僧は僧のみの社會を作つて居ました。
 李氏の文化を考ふるには佛教は重きを置かないでよろしいが、新羅や高麗の教化は佛教が主なものである。而して佛教を考へなければ新羅・高麗の事は少しもわからぬものになる。李氏の文化は全く儒教である。
 私は尚ほ藝術の事を申したり、又朝鮮の文化と其一般人民の教化生活との交渉に就て申したかつた、これは附屬として申すのでなく結論として申すべきで主要なるものであるが、こゝに本講演を終結します。

――大正九年十二月――



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