田麗玉『悲しい日本人』未訳部分

 田麗玉『일본은 없다』は1994年2月に知識工作所から出版され、日本語訳『悲しい日本人』は同年12月にたま出版から出た。しかし日本語版には皇太子と雅子妃の結婚を扱った第10章と、ふたりの日本人による推薦文が収録されていない。
 第10章は「皇室と宮内庁から迫害される可哀そうな雅子妃」というありがちな図式で、裏が取れそうにない噂がてんこ盛りである。したがって日本で翻訳出版するのは難しいだろうが、似たようなスタンスで書かれたベン・ヒルズ『プリンセス・マサコ−菊の玉座の囚われ人』は結局出版された。たま出版も頑張れば収録できたかも知れないが、おそらく最初から菊タブーに挑戦する気はなかったのだろう。原書では269〜292ページにわたっており、長いのでここでははしょり気味に要約した。ただし原文のニュアンスを残すため、国王(=天皇)、王世子(=皇太子)のような用語や敬称・敬語の有無から漢字の間違いに至るまで、できるだけ原文のまま紹介した。
 推薦文はNHK国際局の松井弘子氏と北海道新聞政治経済部長の小田紘一郎氏(肩書はいずれも当時)が寄せている。小田氏の推薦文の一部は水野俊平『韓国・反日小説の書き方』で紹介されているが、ここではもう少し長めの抄訳を載せた。なぜ日本語訳に収録されなかったのかはわからないが、読みもせずに提灯文を書いた後で内容のあまりのひどさに驚き、出版社からの問い合わせに対して掲載を拒否したのかもしれない。松井氏は「たとえ田麗玉が殺人犯になっても非難しない」と熱狂的なファンぶりを示した。殺人犯ではないが友人の取材記録を盗用する破廉恥人に転落した田麗玉に対し、変わらぬ忠誠を尽くしているのだろうか。


전여옥 지음 "일본은 없다" 知識工作所, 1994.2.
田麗玉(金学文訳)『悲しい日本人』たま出版, 1994.12.


10章 惜しい、マサコ(要約)


惜しい、マサコ

 「外交官も王世子妃も、国のために働くということでは同じではないですか」というのが、ナルヒト(成仁ママ)王世子が29歳の外交官オワダ・マサコ(小和田雅子)に求婚しながらかけた言葉だ。日本マスコミはふたりの出会いから7年をかけて婚約に至る過程を、バラ色のラブストーリーに仕立てて報道した。ヒロインであるマサコは、英語はもちろんフランス語、ドイツ語等を流暢に駆使するキャリアウーマンだ。父親のオワダ・ヒサシ(小和田恒ママ)も外務省の事務次官までつとめた外交官で、マサコが外交官試験に合格した当時から父娘二代にわたる外交官としてマスコミの脚光を浴びた。
 1963年に東京で生まれたマサコは、2歳のとき父親がモスクワ駐在一等書記官の辞令を受けたため、5歳までモスクワで過ごした。その後父親が国連に出向したため、3年間ニューヨークで暮らした。8歳で帰国したマサコは、日本の上流階級が集まる田園調布に住み、高校1年生まで比較的平凡な少女時代を過ごした。当時彼女はあたかもアメリカの少女のような積極性と明るく健康な姿で、友人の間で人気が高かったという。野球が好きなマサコは、中学校3年生の時には自らソフトボール・チームを作り、熱心に練習したあげく大会で優勝を勝ち取るほどの手腕を見せたという。
 父親について再び美国に渡っったマサコは、マサチューセッツ州のバーモント高校1年に編入し、「日本からきたスーパーレディ」と呼ばれるほど抜群の成績を残した。高校卒業後には名門ハーバード大学を志望し、堂々と経済学部に合格した。ハーバード大学時代のマサコは、優れたユーモア感覚と熱心に勉強する学生で、教授たちの間で「日本女学生らしくない日本女学生」として深い印象を与えた。マサコがハーバード大学から優等賞を受けて卒業したのが1985年、7年ぶりに再び日本にいる家族のもとに戻ってきた。
 帰国後、日本をもう少し知るべきだという父親の意向で、マサコは1986年4月に東京大学法学部に学士編入した。同級生だった女性ジャーナリストは、「スポーティな身なりと多少威厳がある体格に大胆なイヤリングをした、ぱっと目立つ女学生」だったと当時のマサコを語る。マサコは日本女性としてはかなり高い165センチメートルの背に、くっきりした目鼻立ちのため「ネパールから来たハーフじゃない?」と陰で東京大学の女学生たちがささやくこともあったという。しかし日本人らしからぬ積極的な行動で、気難しさで有名な東京大学の女学生の間でも、「オワ」という愛称で呼ばれながら人気を得た。
 父親の影響と、有名な女性外交官の村藤美枝との出会いをきっかけに外交官の道に進もうと決意したマサコは、1985年10月に外交官試験を受けた。彼女は試験日まで二ヵ月間毎日12時間ずつ勉強し、一回目の挑戦で見事に外交官試験に合格した。マスコミとのインタビューでは「外交官になった理由は、日本でも男女が同等で差別を受けず働ける分野だと考えたためです。私は日本を男女間に差別がない国にしたいです」と毅然として答えた。友人によると、40倍を越える競争を勝ち抜き外交官試験に合格できたのは、もちろん明晰な頭脳のせいでもあるが、一度やると決めれば最後までやり抜く根気と猪突性、そして積極性のためでもあるという。
 マサコがナルヒト王世子と出会ったのは、外交官試験に合格した直後、スペインのエレナ王女を迎えてのパーティでだった。彼女を初めて見たナルヒトは、言ってみれば一目惚れしてしまった。いつも「対話が可能な、言葉が通じる女性と結婚したい」と強調してきたナルヒトに。外交官試験に合格した彼女の聡明さがある程度作用したと見られる。マサコの第一印象について、ナルヒトは「きらきら光る美しい女性」と表現し、自分の心に大きな波紋を起こしたと明らかにした。

王世子の夢

 マサコより三歳上のナルヒトは、現在の日本国王アキヒトと平民出身の王妃ショーダ・ミチコ(正田美智子)の間に生まれた。色々な面で父親に似たナルヒトは、もの静かで自己表現がが苦手な、内省的な性格で知られている。学習院大学史学科を卒業し、卒業論文の題名は「日本中世の瀬戸内の海運に対する考察」だった。その後、学習院大学の修士課程を経て1983年に英国オックスフォード大学に留学し、英国の歴史を研究した。研究課題は「18世紀テムズ江の水上交通」だった。
 ナルヒトに2年間の英国留学は、彼の女性観を決定する大きな契機になったとされる。留学中に友人に送った手紙には「英国女性たちはいつも自己の意志をはっきりと示し、そのさっぱりした態度がとても気楽で良い」と書かれていた。留学中ナルヒトは人目を気にせず自転車を乗り廻し、金がない留学生のように本屋で立ち読みする喜びも味わい、パブで一杯ひっかけるなど「匿名性」を満喫した。おそらく王世子である彼には、普通の人がすることをしてみるほど楽しいことはなかっただろう。彼は日本に帰ってきた後、英国留学生活を「全てのものが素敵な思い出だった」と言い、今でもしばしばその頃の夢を見るという。

いけません

 ナルヒトの積極的な攻勢でふたりが交際を深めて行った1987年春、王族であるタカマドノミヤ(高円宮)の家でデートをしていた頃、マサコは深夜一時を過ぎて帰宅したこともあった。マサコにぞっこんのナルヒトは、話をする間マサコから一瞬も目を離せないほどだったという。しかし1987年10月、ふたりは難関にぶつかる。問題は水保病という深刻な公害病問題を惹き起こし、多くの被害者を出した悪名高い企業「チッソ」の社長と会長を歴任した、マサコの母方の祖父の経歴だった。
 王室のイメージを何より重視する宮内庁の官僚らが、マサコを諦めるようナルヒトに圧力を加えた。ところでナルヒトの反応は意外だった。
 「本当にいけませんか」
 「はい、いけません」
 「ああ、そうですか。それならどうしようもない…」
 ナルヒトは言葉を濁した。表情を変えず淡々と宮内庁の意見を受け入れたが、彼の心は挫折感に打ちひしがれた。ようやく心にかなう女性に出会えたのに、王世子という地位のため諦めざるを得ない心の痛みをなだめるのはたやすくなかっただろう。
 宮内庁と王室は、マサコの祖父に対する国民感情が良くないという理由をあげたが、真の意図は他の所にあったと伝えられる。現国王アキヒトが平民のショーダ・ミチコを王妃に迎え、日本王室は長い伝統を打ち破った。しかし保守的な王室と貴族、右翼勢力は、それによって王室の権威が傷ついたと考えた。それで彼らは、ナルヒトだけは貴族の令嬢の中から王世子妃を選ぶよう願ったのだ。
 一方のマサコは、日本外務省の新米外交官として「仕事の面白さ」にどっぷりはまっていた。経済局に配属されたマサコは、昼夜を分かたず熱心に働き、周囲から「ワーカホリック」とからかわれるほどだった。結婚問題を尋ねる記者たちには、「職業と結婚を両立させたいが、どちらか一方を選ばなければならないのなら、もちろん外交官を選ぶ」とはっきりと述べた。
 マサコが英国留学に出た後、ナルヒトは百人を越える女性たちとの交際説をばらまきながら三十歳を迎えた。さすがに日本王室はもちろん、王世子も焦り始めた。マサコが帰国したのを知ったナルヒトは、ある日宮内庁長官に尋ねた。
 「オワダ嬢はまだ結婚していないのですか」
 王室と宮内庁は、ナルヒトが結婚もせずに年を取るのが不安だった。そこで王世子の胸の内を知った宮内庁長官は、オワダ家と親しい前外務省官僚であるヤナギダニ氏にSOSを打った。「結婚を前提に会いたい」という言葉がマサコに伝えられたのは1992年6月。そして8月にふたりは4年ぶりに再会した。その席でナルヒトは「あなたと結婚したい」とマサコに求婚した。ナルヒトの性格を考えれば、想像もできないことだった。その日からナルヒトはほとんど毎日電話をかけて、積極的な攻勢に出たと言われる。同時に日本王室は「王世子妃報道」を当分の間控えるよう、すべてのマスコミ各社に要請した。

180度の態度変更

 しかしその年の10月、オワダ家は正式にナルヒトの求婚を拒絶すると伝えてきた。優れた能力、貴族にも等しい富と名誉をそなえた家庭環境で育ち、もし女性駐米大使が誕生するならそれはオワダ・マサコだろうと言われるほど外交官として将来を嘱望された女性が、いったい何のために監獄暮らしに等しい王室に飛び込むだろうか。
 現代女性はすでにシンデレラを夢見なくなったのか。自らの努力で小さな成果に満足し、平凡だが充実した生活を望む日本の現代女性で、王世子妃を夢見る人はひとりもいないようだ。実際、王世子妃候補に名前があがった名家の令嬢が急いで結婚したという話も聞かれた。王族にならないのがかえって幸いな時代になった。王室の一員になれば、毎日のように公式席上で作り笑いを強いられ、ついには仮面をかぶったような顔になってしまう例を見てきた日本女性には、王世子妃という席が魅力を失って久しい。それで日本女性の間では、王世子が結婚するのが難しいだろうと同情する人までいるほどだった。
 ところが二ヵ月後の12月12日、オワダ家は態度を180度変えて求婚を受け入れることに決定した。この変化には様々な理由が取りざたされているが、最も有力な説は様々なルートを通じて王世子と結婚するよう圧力が加えられたというものだ。そして王世子の熱心なラブコールが最後に勝利だという普通の人々が信じたがる説、あるいはマサコが外交官経験を土台に王室がかなりよいところだという考えるようになったという説が人々の口に上る。さらには三十路を目前に彼女にボーイフレンドがいなかったためという説等々……。
 しかし最も説得力があるのは、彼女にとって日本王室がそれほど重要な意味を持たないからという逆説的な説だ。つまり王世子の求婚の言葉のように、外交官から王世子妃というもう少し高い外交官の席に移っただけだというのだ。これまで重ねてきた苦労がそのまま顔に現れているミチコ王妃とは違い、マサコは王世子という職業を持つひとりの男と対等な立場で、王世子妃という一種の外交官の職務を果たそうと決心したとされる。
 日本のマスコミは、国際派の王世子妃が王室外交に大きな役割を果たすだろうと期待している。またマサコが、閉鎖的で国民から乖離した保守的な王室を新風をもたらすという期待もある。実際に結婚発表以後、オワダ・マサコは通常の王族のように笑いも話しもしない態度とは違い、マスコミの質問にも気軽に答え、さわやかな笑顔も見せた。また通常二ヵ月間である王世子妃の研修教育期間も、一ヵ月に減らしてしまう改革の意志も見せた。

マスコミの王室虚弱症

 日本のマスコミは本当に王室に弱い。王室に対してはゴシップ記事すら許されない。日本の王室は、国民に君臨して神秘的な王室であると同時に、絶対に変わり得ない保守性を有している。宮内庁の自粛要請を無視してワシントン・ポストが王世子の結婚を報道すると、日本のマスコミは大慌てで後追い報道をした。この時は「マスコミの事大主義」「情報化時代に逆行するジャーナリズムの役割を忘れたあり方」といった自己批判が盛んだった。それにもかかわらず、王世子妃の決定をあくまでもお似合いの国際化カップル、好きな人を最後まで待った王世子の愛の勝利等々、報道は祝賀ムード一色だった。どのマスコミも、「前途洋々のキャリアを棒に振るなんてもったいない。王世子の女性を見る目の高さは認めるが…」といった普通の日本人の感想は報じなかった。
 王世子の結婚発表を最も喜んだのは、デパートだった。不景気に苦しむデパートを筆頭に、日本の経済界は純粋景気効果だけ約3兆3千億円、間接的な景気振興まで合わせれば10兆円の途方もない効果があると喜んだ。株価が上がり、マサコが首にかけた「真珠ブーム」が起き、彼女が使った「グッチのスカーフ」は直ちに2千枚も輸入さた。
 王世子妃という新しい職責を担ったマサコは、果たして日本王室を改革し、新しい伝統を作ることができるだろうか。才能と努力で得た能力を死蔵させず、自らを発展させ続けられるだろうか。人は誰しもハッピーエンドを夢見る。しかし王世子妃内定の報道をひたすら自粛し、発表されれば商業に走る日本というこの島国で、果たしてそんなハッピーエンドが可能なのだろうか。日本人を少しでも知る人なら、疑問を感じずにいられないだろう。

聖なるビジネス

 結婚は本来指摘で個人的なものだ。しかし1993年6月9日に東京で行われたナルヒト王世子とマサコの結婚式は、小さくは「日本王室の維持のためのビジネス」で、大きくは「日本人と王室の関係の再確立」を目的とする国家事業だった。またマスコミの立場から見れば、日本の愚民化政策を対内外的に宣布する重要な契機だった。しかし普通の日本人たちの立場から見れば、ナルヒト王世子の偉大な結婚でなく「マサコの結婚」だったかも知れない。
 パレードが行われる沿道周辺は、あたかも戒厳令が下されたような雰囲気だった。早くも2週間前から新宿周辺の建物は警察によって隅々まで検査され、少しでも怪しい感じがする人は無条件で身体検査を受けなければならなかった。これとは対照的に、王室周辺の公衆電話機は全て金箔をかぶせる等、アラビアの石油王の慶事を連想させるほど派手な祝賀ムードが演出された。デパートは大きな垂れ幕を下げて「王世子とマサコ様の聖なる結婚を祝賀いたします」と叫んだ。
 この日早朝6時にマサコが実家を出た時から、日本のテレビと新聞はすべて助詞ひとつも違わず同じように騒ぎ出した。厳密に言えばそれは報道でなく、称賛一色だった。アナウンサーが「只今マサコ様が出ていらっしゃいます。どう思いますか」と愚問を投げれば、ゲストの女性作家が「とてもお美しいです。このように立派な方が私たちの王世子妃になられるとは、胸が熱くなって涙が出ます」とハンカチで涙をぬぐった。
 この一ヵ月前、ニューズウイーク誌は「プリンセスかプリズナーか」という題の特集を組んだ。この記事が出るやいなや、あらゆるマスコミは日本を愚弄する記事だと騒ぎ立て、国家次元で抗議すべしという極右勢力の立場を擁護しながら興奮した。ニューズウィークの担当記者は「誰もがしている話を載せただけで、何ならさらに多くの話も書ける」と応酬した。結局この問題はうやむやにされた。実際、マサコが外交官の仕事に情熱を傾け、王世子の求婚を一度は拒絶したことは、日本国民なら誰でも知っている。

国のために尽くしてください

 日本王室への批判をタブー視する日本人たちも、アキヒト王と結婚したミチコ妃が王室に入ってどれほど苦労したかは皆認定している。日本有数の製粉会社会長の娘だったミチコ妃は、結婚当時の白黒フィルムを見ればあまりにもきれいだ。恐らく当時も今も日本でそれほどの美人を探すのは難しいほどだ。しかし今の彼女の顔はどうだろうか。まだ50代中盤なのに、まるで70代の老女のようにすっかり老けてしまった。その原因はバセドウ氏病と、宮内庁の執拗ないじめと迫害、そして日本王族の蔑視と虐待のためだという。
 百言千言の言葉よりもミチコ妃の顔自体が、日本王室がどんな所かをよく物語っている。実際にミチコ妃のお母さんは、病床で会いたがった娘についに会えないまま息をひきとったが、死の直前に宮内庁を恨んだと言われる。
 マサコとナルヒト王世子が一緒に結婚記者会見をしたとき、王世子は「すべての力をつくしてオワダ・マサコを守ります」と述べた。祝賀ムード一色の記者会見で、とうてい出てくる言葉ではない。いったい誰からマサコを守るというのか。ニューズウイークの報道どおり宮内庁の「虐待」からマサコを守るという意味だと、日本人たちは皆知っているようだった。
 結婚が発表されてから、日本のマスコミは毎日のようにマサコの家の前に張り込み、彼女の動静を報道した。マサコが真っ赤なコートを着たと言ってはニュースになり、スカーフをどう結んだかで興奮し騒ぎ立てた。マサコのファッションには、ニューヨークのキャリアウーマンを連想させる機能的な大胆さがあった。しかし日が経つにつれ、マサコの表情とファッションが次第に変わって行った。活き活きとしたまなざしとさわやかな笑顔は消え、まるで顔にスコッチ・テープを付けたような人形のような笑顔へと変貌した。ファッションもリボンとレースで飾られた帽子をかぶり、アルプスの少女に女教師の身なりを混ぜたような、似合いもしない「王室ファッション」に変わった。するとマスコミは「マサコ様が上品な王室ファッションに趣味が変わられた」と報道した。朝日新聞等によると「帽子をかぶってくれ」という宮内庁の指示があったという。また噂では、結婚記者会見でマサコがナルヒト王世子よりたくさん喋ったため、王室と宮内庁が非常に不快がったという。
 オワダ・マサコが王世子と結婚するという報道があったとき、一部の女性たちはマサコが王室を改革し、一般国民と隔離した王室に新しい風を呼びおこさないかと期待した。またナルヒト王世子が、宮内庁の反対を押し切って外交官であるマサコと結婚したのは、次の日本国王として「王室の存立」を計ったと見ることもできる。宮内庁の一部職員が反対理由としてあげた「マサコが王世子より背が高く、肌が浅黒く、新婦としては年が行っており」等々を勘案しても、ハーバード大学卒の女性外交官であるオワダ・マサコという作品は、とても結構な伴侶であることに違いないためだ。
 しかし敗戦後にようやく神の位置から人間の位置に降りてきた日本の王族は、象徴的な役割を除いて政治とは完全に分離しており、いかなる政治的な発言も許容されない。この状況で、オワダ・マサコ王世子妃はどのように処身すべきか。たとえば米国の国会議員たちを接見する席で、「米国と日本の半導体問題に対してどう思うか」と質問されたとする。もしも普通の王族のように「そうですね、できるだけよく解決されたらと思います」と言うなら、猫をかぶって嘘をつくことになる。ところが半導体担当外交官の経験を生かして意見を言えば、政治への関与禁止という王室のルールを破ることになる。彼女はいったいどうすべきなのか。もちろん彼女自身が解決して行くべき問題だが、多くの困難が彼女の前に立ちはだかっているのは周知の事実だ。
 35年前にアキヒト王とミチコ妃の結婚式がテレビで中継されると知られると、白黒テレビが飛ぶように売れた。馬車で結婚パレードが行われた日には、全国から40万人を超える人波が押し寄せ、「王世子様万歳!日本王室万歳!」を叫びまくった。しかし日本の新しい王世子妃がロールスロイスのオープンカーに乗って結婚パレードをした時、集まった人波は35年前の半分にも満たない19万人だった。ハイビジョンでの結婚式中継を当て込んで倉庫一杯にテレビを積んでおいた家電メーカーは、全く売れずに落胆を隠せなかった。
 重要なのは日本王室が依然としてベールに包まれているという点だ。商社に勤務する日本駐在のあるフランス女性は、結婚式を見た感想をこのように述べた。「日本王室には、何か秘密が隠されているような感じがします。王と王世子がどのように暮らすのか、日本国民はどの程度知っているのか気になります。王室の人々は国民とは全く違う別世界の人間に見えます。また王室の動きを報道する自由が、日本のマスコミにはないようです。王室報道こそ日本マスコミの水準を知る端的な見本だと思います」
 婚礼の日の朝、娘を王室に嫁がせるマサコのお母さんは、家を出る娘に厳粛な顔で「国のために尽くして下さい」と言った。この言葉は、かつて戦場に息子を送り出す日本のお母さんが「死んで魂になって帰って来い」と、愛する息子にかけた言葉と同じだ。日本はまだ戦争中なのだろうか。


麗玉さんとの想い出(抄訳)
松井弘子(NHK国際局職員)

 私は麗玉さんが本当に好きです。彼女は国際性、プロ意識、情熱、明るさ、温和さ、強靭な性格を備えています。暖かい心の持ち主ながらも、物事を冷静な目で眺めることができる洞察力も兼ね備えた…。彼女の全てが好きです。麗玉さんは私にとって無二の親友です。私がどれほど彼女が好きかと言えば、(人々は笑うかも知れませんが)たとえば彼女が人を殺したり、犯罪を犯しても私は彼女を理解でき、決して非難しないと断言できます。これほどの親友は、麗玉さんがおそらく最初で最後でしょう。だから麗玉さんは私の自慢です。
 麗玉さんとの出会いは偶然でした。金ユホン先生の韓国語教室で会ったのが最初です。私は当時韓国で出版予定だった『留学生のための日本留学・生活ガイド』の宣伝のため、しばしば教室を訪れました。そして麗玉さんは、NHK国際放送のアナウンサーでもある金先生を取材するために来たのでした。当時麗玉さんは東京に来て間もない頃でした。私もソウルに留学して帰って来たばかりで、韓国語を使いたかったので、麗玉さんに話しかけました。彼女が有望な女性記者なので好感が持てたのは言う間でもありませんが、麗玉さんはとてもやさしかったです。
 今考えてみても、初めから何ら違和感なくつきあえたのが本当に不思議です。一週間に一度は電話して会いながら、急速に親しくなりました。友だち同士しばしばそうするように、私たちも一緒にご飯を食べてお酒を飲んでおしゃべりをしました。そんなときはいつも「私たちはどうしてこんなにも気が合うのかしら」と、お互いに驚くほどでした。もちろん、価値観が似ているためでしょう。ただし麗玉さんは私よりはるかに客観的で、記憶力も良く、正確に事物を受け入れる目を持っていました。その能力は日本文化、流行、日本人に関すること等々に遺憾なく発揮され、わずか三ヵ月の滞在で三年以上日本にいる留学生よりより多くの情報を集めることができました。持って生まれたジャーナリスト気質はもちろん、豊かな感性も兼ね備えているからに違いありません。
 (中略)
 お互いがお互いの国の言葉で名前をつけたことがあります。麗玉さんは私にきらきら光るという意味で潤煕という韓国名をつけました。私は麗玉さんにサツキ(五月)という名前をつけました。五月の明るい空気、雲一点ない青い空、快適さ、そして「サツキ」はチンダルレに似た花の名前です。草緑と似合うその花の鮮明な美しさ、それがまさに麗玉さんのイメージでした。今考えてみれば「麗玉さんが日本にいる間にもっと色々な所に連れていったら良かったのに、こんなことも一緒にしたら良かったのに」と後悔しながらも、「近い国だからまたすぐ会えるだろう」と自分を慰め、楽しい気持ちで彼女を待っています。
 お互いが好きな男性の話をしたのも忘れられない想い出のひとつです。夫と恋愛していた時期に、麗玉さんを誰よりも先に彼に紹介し、彼のことを麗玉さんにたくさん話しました。結婚前の一年余りの私の恋愛を、麗玉さんは始終一貫見守ったわけです。麗玉さんも、誰にも話さなかった話を私にはしました。私の結婚式のためにソウルから駆け付けてくれ、披露宴ではお祝いの言葉もしてくれました。日本では結婚式の後で両家の親戚と友人が集まった席で、上司や友人が祝辞を述べます。麗玉さんの祝辞は誰よりも立派でした。披露宴が終わった後、たくさんの人たちが「あなたのお友だちは本当にすばらしいですね」と言いました。飾らない正直な気持ちで祝辞を述べたからだと思います。麗玉さんは「日本は嫌な国だったが、ヒロコとは本当に深く話すことができました。国境を超えた無二の親友です。ヒロコを日本人だとは思いませんでした」と言っていました。私はこのように正直に話す麗玉さんに感謝しています。
 今年私に最も喜ばしいことは、何といっても麗玉さんの結婚でしょう。李サンマンさんこそ、麗玉さんの性格を最もよく理解している人だと思います。何度も彼に会ったし、話もしました。やせた体格のサンマンさんは、とてもいい人でした。麗玉さんの一生の伴侶として、最高の理解者になると思います。心から祝福します。
 麗玉さんはあたかも台風の目のようにいきなりやって来て、多くの想い出を残して帰って行きました。私にはそれまでのどんな友人よりも親しい最高の親友になりました。私たちはこれから各々の家庭を育てて仕事もしながら、強く生きていくでしょう。遠く離れていてもいつも互いに信じながら。国境を越えた友情が、私たちを強く結びつけるでしょう。魅力で一杯の麗玉さんの将来を期待しています。


ホンネで話した韓国と日本(抄訳)
小田紘一郎(北海道新聞政治経済部長)

 1993年10月、私は韓日編集セミナーに参席するために、訪韓日本記者団の団長として各社の政治部長たちと一緒にソウルを訪問しました。私にはそれが三回目の韓国訪問でしたが、ソウルはどの時より明るく溌刺として見えました。民主化の香りが強く感じられたのです。それにKBS東京特派員だった田麗玉さんと再会できたことは、私のソウル訪問をさらに楽しくしてくれました。
 田麗玉さんと初めて会ったのは1990年、ちょうどライラックの花が盛りの札幌ででした。わが社が主催した外国特派員記者座談会に、特派員代表として来て下さったのです。私はその時座談会の司会をつとめましたが、田麗玉さんが仮借なく吐露して下さった「日本人批判」で、座談会が熱気を帯びて行ったのを今も鮮明に記憶しています。
 今でこそ抜群の日本語の実力を持っておられるが、当時は東京に勤務なさって間もなかったため、日本語が決して流暢でありませんでした。それでも他人の口を借りるでもなく、自身の声で、東京で働いて感じた点を率直に打ち明ける姿に、私はもちろん六百人を越える参席者は感銘を受けました。インテリ女性らしい理知的な容貌ですが、笑うときれいな歯並びがあらわれる可愛い女性だったのも印象的でした。
 二回目に会ったのは東京ででした。転勤で1年半ぶりに東京に来て、プレスセンターで久しぶりに会いました。そこでも彼女は一層鋭く日本の政治、経済、外交に対して批判を並べましたが、その率直な批判は痛快さまで感させてくれました。その中には深い感興を呼び起こすものもありました。
 彼女は梨花女大で学生運動をした時の経験を話してくれました。「その当時私の心は、軍事独裁政権に対する憎しみであふれかえっていましたが、植民地支配でわが国をこんなにまで墜落させた日本に対する憎しみはさらに大きかったんです」と強い口調で言いました。「日本には自分の気持ちを率直に表す男がいません。みんな猫の皮をかぶった軟体動物のようです」という等。
 (中略)
 日本にいる唯一の韓国人女性特派員として、人気を一身に集められたにもかかわらず、彼女はとても規則的で誠実な日々を送りました。彼女は開放的な性格だったため友人が多く、驚くほど広い人脈を持っていました。取材の関係で自民党、新生党、社会党の政治家や新聞記者と付き合うようになるのは当然だが、市井の人々や市民団体にも知人が多く、本当に人気者でした。
 (中略)
 田麗玉さんは人間を評価するの当たり、職業や貧富の差、地位の高下に関係ない公平な目を持っています。これは先天的なものでしょうが、ジャーナリストとして最も重要な資質と言えるでしょう。このような目を持つ田麗玉さんに見られた日本女性。この本の中には、日本人として反省すべき点がたくさん発見できますが、同時に日本人に対する暖かい配慮も感じられます。初めて札幌で会った時に聞いたきわめて冷酷な日本人観に、微妙な変化が生じているのです。田麗玉さん自身も知らぬ間に、胸の奥深くで日本人に共感する心が芽生えたのではないでしょうか。
 口先だけで友好や親善を語る人を私は信じません。露日関係はもちろん、韓日関係でもいかに多くの嘘が真実の友好を歪めさせたでしょうか。見せかけとお世辞で韓日関係を語るのは、もうやめるべきではないでしょうか。田麗玉さんが書いたこの本が、率直に話すことの最初の一歩になることを期待して信じています。田麗玉さんの奮闘を望みます。

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