ここでは韓国の三大ポータルであるNAVER, YAHOO!KOREA, DAUMの百科事典と、Wikipedia韓国語版に見られる朝鮮史の記述を検討する。各百科事典の入り口は次の通り。
NAVER http://100.naver.com/
YAHOO!KOREA http://kr.dic.yahoo.com/search/enc/
DAUM http://enc.daum.net/dic100/topView.do
Wikipedia韓国語版 http://ko.wikipedia.org/wiki/%EB%8C%80%EB%AC%B8
このうちDAUMの百科事典は、Wikipediaを含む複数のリンクがあるが、ここではブリタニカを出所とする記述を検討の対象とする。各百科事典の記述は、2007年8〜10月頃のものである。
檀君王倹は一然(1206-1289)の《三国遺事》に登場する朝鮮建国の祖で、天帝である桓因の庶子の桓雄が地上に降りて熊女と交わって生れた子とされる。中国の堯帝の治世(BC2333年とされる)に平壌に都して古朝鮮を建国し、1500年間統治した後、箕子に禅譲して1908歳まで生きて山神になったという。日本では、モンゴルに支配された高麗時代の民族主義の昂揚を背景に創設された神話とする見解が有力である。
しかし韓国の立場では、中国人である箕子や衛満による建国や、まして植民地である漢四郡から朝鮮史を始めることは許されず、何が何でも「朝鮮人による古朝鮮」から始めないと具合が悪い。そこで唯一の文献記録である檀君に何とかして実在性を与えようと必死で、しかもその努力は最近強化される傾向にある。韓国政府は2007年に国定教科書の「三国遺事と東国通鑑の記述によれば檀君王倹が古朝鮮を建国したという」としていた部分を、「三国遺事と東国通鑑の記述によれば檀君王倹が古朝鮮を建国した」と断定する表現に変えた[中央日報 2007年2月23日]。韓国の歴史学界では、これは古朝鮮の建国時期を「事実」として記述したわけではなく、「三国遺事などによれば…」と但し書きがついているので、問題ないとしている[朝鮮日報 2007年2月25日]。しかしこれは「日本書紀によれば神功皇后が朝鮮半島を征伐した」と書くようなもので、教科書に書くべきこととは思えない。北朝鮮はさらに積極的で、1993年の発掘調査で檀君の骨が発見されたとして、平壌にコンクリート製の檀君陵を築造した。さすがにこれを真に受ける者は、韓国にも少ないと思われる。
檀君の史実化に最も積極的なのはYAHOO!KOREAで、逆に最も懐疑的なのはNAVERである。DAUMとWikipediaは判断を回避している。
YAHOO!KOREAの「古朝鮮」の項では、「古朝鮮はBC2333年檀君王倹によって建てられ、檀君は古朝鮮の政治的支配者だった」と断定しており、檀君の実在性を主張しているように見える。一方「檀君」の項では、「檀君は、その存在の歴史的実体の與不を別にして韓半島の先史文化の核心を成して来たという点により大きな意義があり、韓国民族が団合すべき根拠にして求心点という意味で解釈されなければならない」と、歴史的実在性は問題ではないと強弁している。とにかく壇君を単なる神話とすることは、何が何でも避けたいらしい。
一方、NAVERの「古朝鮮」の項では「檀君神話は古朝鮮を建てた中心集団の始祖説話形式で作られ、後に古朝鮮国家全体の建国説話に拡大されたものと思われる」とし、檀君を神話上の存在と見ている。「檀君」の項でも、様々な神話解釈を紹介しながら「檀君の神話がそのまま王朝史であるかのように解釈するのも無理」との立場を明らかにしている。
DAUMの「古朝鮮」の項では、檀君朝鮮を神話としている。しかし「檀君」の項では、「学者たちの間では神話の内容を虚構と認識し〈檀君神話〉と関連する古朝鮮の存在までも否定する見解から、神話の内容をそのまま歴史的事実と信じるべきという主張に至るまで意見が多様だ」として、著者の立場は表明されていない。
Wikipedia韓国語版の「檀君」も「その存在に対してはさまざまな説がある」とし、北朝鮮の檀君陵に対してさえ「その造成年度や墓の主人については南・北間の意見が一致しない」と判断を回避している。
三国遺事の檀君に関する記述は《魏書》と《古記》を引用しているが、魏書には該当する記述がない。古記は世宗実録で言及される《檀君古記》ではないかと考えられているが、現在伝わらない。つまり檀君神話は文献上では13世紀までしか遡れず、それ以前に存在した証拠がない。
しかし1979年、韓国でこうした懐疑論を粉砕するという触れ込みの古書が出現した。李裕ャが出版した《桓檀古記》は、1910年に桂延壽が「三聖記」「檀君世紀」「北夫餘記」「太白逸史」の四書を編纂したもので、李裕ャは次の庚申年(1980年)まで公開しないよう命じられたという。四書のうち「三聖記」は新羅の安含老と元董仲の著述とされ、檀君朝鮮に先立つ桓国(3301年間)と倍達国(1565年間)の超古代史を詳細に記述している。「檀君世紀」は1363年に李嵒が著述したとされ、47代の檀君が2096年間統治した檀君朝鮮の歴史を扱っている。いかにもトンデモ本然とした内容に加え、1979年以前に本書が存在した根拠が見つからないことや、「男女平権」「世界万邦」のような近代的用語が用いられていることから、日本はもちろん韓国でも偽書とする見解が支配的である。
ところが驚いたことにYAHOO!KOREAの百科事典では、「学界の一角ではこれを偽書とみなしているが、そのような歪んだ認識態度は植民史観と異なるところがない」とし、信じない者は非国民と言わんばかりである。この著者にとって、歴史研究とは科学ではなく信仰の問題らしい。 NAVERは偽書説の根拠を提示しながらも、最後には「このような論争は歴史的事実(史実 historical fact)の真偽とともにこれからさらに考察すべき部分だ」として、未解決問題だとしている。 Wikipedia韓国語版は、偽書説と真書説を詳細に紹介しながらも、「大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国両側の主流歴史学界は偽書という意見が支配的だ」としている。 DAUMにはWikipediaへのリンクしかなく、ブリタニカには「桓檀古記」の項はないらしい。
箕子は殷の賢者で、紀元前1100年頃の殷周交替後に朝鮮王に封じられたと《尚書大伝》《史記》《漢書》等にある。かつて朝鮮が中華に事大していた頃には史実とされていたが、日本時代を経て民族主義が高まると否定されるようになった。
YAHOO!KOREAは肯定論・否定論・部分肯定論を紹介しながらも、最後には「箕子墓等は当時の事大思想による歪曲された副産物にすぎず、箕子東来説は任那日本府説と同じくひとつの説に過ぎない」と、教条的民族主義の立場からばっさり斬り捨てている。
DAUMの「箕子朝鮮」の項はごく短く、「現在は箕子朝鮮の存在に対して否定的な立場が優勢で、たとえ存在したとしてもわれわれの古代史と直接的な関係はないものと把握している」としている。
NAVERは《論語》《竹書紀年》といった古文献の箕子関連の記述に朝鮮に行ったという記述がないこと、この時期の黄河流域と朝鮮のつながりを示す考古学的証拠がないことを否定論の根拠にあげている。しかし箕子東来説は殷周時代の黄河流域から朝鮮への人口移動と関係があり、高麗・朝鮮時代に箕子を崇拝したことから韓国思想史に占める比重も大きいなどとして、どこか箕子東来説に未練がありそうな印象を与える。
Wikipedia韓国語版の「箕子朝鮮」に関する項は最も詳細だが、著者の立場は最も曖昧である。箕子朝鮮の存在を否定する観点が多数派であることは明記するが、あくまで両論併記の形をとり、「その存在の與不や性格に対しては多くの主張がある」と述べるにとどまっている。
衛満は前漢の高祖によって燕王に封じられた廬綰の部将で、紀元前200年ごろ廬綰が匈奴に亡命した際、自分は徒党千余名を率いて朝鮮に亡命した。そしてしばらく朝鮮の準王に仕え、西方の辺境を守っていたが、やがて準王をだまし討ちにして政権を奪い、衛氏朝鮮を建てた。衛満は中国の史書ではすべて「燕人」となっているが、亡命の際にまげを結い蛮夷の服装をしたことから、朝鮮人と見る見解もある。
この衛満=朝鮮人説に最も執着しているのはYAHOO!KOREAで、「古朝鮮」の項では「《史記》に出る衛満朝鮮の官職名にも非中国語的な要素が見えるので、衛満朝鮮は檀君朝鮮を継承したものと考えることができる。これで衛満朝鮮は中国人の植民地政権ではない、古朝鮮人の勢力を基盤とする連盟王国的な政権だったことがわかる」とし、何が何でも中国的要素を否定しようという意気込みが感じられる。「衛満」の項でも「国籍は《史記》《漢書》《三国志》等ですべて燕国人となっているが、朝鮮人と考えられる」とやたら強引である。
DAUMはやや懐疑的で、「髪の毛を結い上げる風習は東夷族以外に他の異民族にもあったことで、蛮夷の服というのも漠然と中国人の服装ではなかったというだけなので、明確に断定することは難しい」としている。しかし続けて「衛満の執権を古朝鮮内での単純な政権交替と見るのが一般的な見解だ」として、中国人による植民地化とする見解は否定している。
NAVERは「衛満の出身については、燕国人とする見方も、古朝鮮系流民ともする見方もある」と記すだけで、立場を明らかにしていない。Wikipediaは、衛満=朝鮮人説に触れていない。
紀元前108年、漢は衛氏朝鮮を滅亡させ、その領域および周辺に楽浪・眞蕃・臨屯・玄菟の四郡を置いた。これは朝鮮半島内に漢の植民地ができたことを意味するが、民族主義史観からは何とかしてその意味を極小化する必要がある。そこで後漢以後は政治的な統治が及ばなかったとか、影響はごく狭い地域に限られていたとか、貿易・通信基地に過ぎなかったとか、様々な主張がなされている。その最も極端な例が、漢四郡は朝鮮半島の外にあったとするもので、特に北朝鮮は衛氏朝鮮も漢四郡もすべて遼東半島にあったと言い張っている。
NAVERは漢四郡は衛氏朝鮮の主華派勢力が実質的に支配していたとし、漢による統治は楽浪郡に限られ、それも後漢以降は流移民集団の自治都市的な性格に変わったと主張している。
Wikipedia韓国語版も韓国の研究動向として、統治の実効性に疑問が提起されていること、楽浪郡が貿易基地にすぎなかったこと、衛氏朝鮮も漢四郡も朝鮮半島の外にあったという主張があることを述べている。
YAHOO!KOREAは「漢四郡」という言い方自体が朝鮮の他律性を強調する日帝の植民史観だと猛非難し、「楽浪郡を除外しては存続期間がわずか25年程度と短く、楽浪郡も大同江流域を中心とする狭い地域で命脈だけ維持したということが明かされた」とその意味を極小化する。さらに最後に「最近では漢四郡の位置が韓半島の中ではなく、中国の遼東地方だったという研究結果が出た」と書き、これが現在の定説であるかのような印象を与えている。
一方でDAUMは中国・日本と南北朝鮮で漢四郡に対する見解が大きく異なることを説き、韓国では「中国郡県的な色彩が後漢時代からは大きく後退し、魏晋代に至ると楽浪郡と公孫氏が設置した帯方郡は、中国系移住民集団の自治区域または中国と東方社会との交易を仲介する土着勢力中心の交易都市のような性格を帯びるようになるものと理解している」と記述する。そして今後の研究は「郡県の存在方式、時期による性格、住民構成内容と変化過程、遺物・遺跡上の文化的特性等に対する多様で総合的な接近が要求される」と、客観的でさめた態度に終始している。
広開土王碑は中国吉林省集安県にある高句麗第19代広開土王の業績を記した石碑で、有名な辛卯年条(百残新羅舊是属民由来朝貢而倭以辛卯年來渡□破百殘□□□羅以爲臣民)がある。素直に読めば倭が半島に攻め込んで来て百済や新羅を服属させたとなるが、これは神功皇后の半島征伐や任那日本府説の根拠になるので、南北朝鮮としては都合が悪い。そこで海を渡ったのは高句麗だったとか、百済や新羅の分国が日本列島にあったとか、めちゃくちゃな解釈が横行した。
特に影響が大きかったのは李進煕『広開土王陵碑文の謎』(1972)で、酒匂景信陸軍中尉が1884(明治17)年に持ち帰った拓本はすり替えられており、これに合わせて石灰を塗布した上に文字を書き込む捏造作戦が進められたと主張した。この説に対しては当初から、参謀本部が碑文の日本搬入計画を進めていた中でなぜわざわざ捏造をするのか、参謀本部長だった小松宮彰仁親王がなぜ酒匂本の誤りを指摘した三宅米吉に自家の拓本を提供したのか、捏造後の拓本に意図的と思えない変化があるのはなぜかといった疑問が呈示されていた。そして2006年には1881年に作成された拓本が酒匂本と一致することが確認され、捏造説が成立しないことが明らかになった。しかし韓国では任那日本府の根拠になるようなものは存在を許されないため、どんな反証が出ようが捏造説を放棄する気はないらしい。
NAVERは王建群『好太王碑研究』(1984)の主張を紹介し、石灰塗布は拓工たちが高価販売のために行なったものだと李進煕説を批判したことを伝えている。しかしその直後に「発見初期の拓本は高価販売のためではないのに、操作されたことが現われる部分に対する解明が不足だ」として、李進煕説を擁護する立場に立っている。
YAHOO!KOREAは辛卯年条を変造・誤読と決めつけており、「日本における研究は初期の拓本過程で変造または誤読された資料を無批判的に受容したため、陵碑の辛卯年記事を古代日本の韓半島進出の根拠として提示するために〈倭が韓半島を侵略して百済と新羅を臣民にした〉という当時の東アジアの歴史的状況とは矛盾した見解を日本学界の通説として受け入れており、古代東アジア交渉史において倭を主導的に見ようとする基本的認識の限界から脱せずにいる」と非難している。そして「李進煕の碑文変造説は、日本が主張した任那日本府の虚構を含めた古代韓日関係史の新しい転換点を画してやる契機になった」と勝利宣言し、日本や中国における反論にはまったく触れていない。
DAUMは李進煕説への日本内での反応として、「これに対して日本学界の一部は近代日本史学の体質問題を挙論して自己反省を行しもし、一部では反論を広げもしたが、自体的に既存の任那日本府説を再検討する契機になった」とし、捏造説の真偽よりは研究動向に与えた影響の方に焦点をずらしている。そして「現在では辛卯年記事が倭を主体にしたのではなく、高句麗が主体になったものだという前提の下、碑文内の倭は百済や伽揶の活動に従属的役割をしていたことが明らかにされた」と書き、「高句麗が海を渡って日本列島に攻め込んだ」という解釈が日本での定説であるかのような印象を与えている。最後に王建群が李進煕説を批判したことに触れているが、「研究の新しい転機をもたらし、今一度論議が活気を帯びた」と書くだけで、論争の判定には触れていない。
Wikipediaの「広開土大王陵碑」の項はごく短く、「人々がより精巧な拓本を作るために火を起こして碑石表面の苔を除去する過程で碑面の一部が毀損され、また石灰を塗って碑面を損傷させたことで以後の研究に論難を起こした。特に広開土大王陵碑の辛卯年条は、いまだに大きな論難の種になっている」とあるだけである。
ちなみにNAVERとDAUMは酒匂中尉の姓を「酒句」と書き、「サカオ」とハングル表記している。YAHOO!KOREAはハングル表記のみで「サカワ」としている。しかし読みは「サコウ」が正しいらしい。
前方後円墳は3世紀半ば以降日本で大流行した墳墓形式で、北海道と沖縄を除く日本各地に分布している。朝鮮半島では全羅南道の榮山江流域に確認されており、朝鮮学会編『前方後円墳と古代日朝関係』(2002)によると、次の11基が前方後円墳と認められている。
所在地 | 古墳名 |
---|---|
光州広域市光山區月桂洞古墳 | 長鼓村1,2古墳 |
〃 光山區明花洞 | 花洞古墳 |
全羅南道潭陽郡古西面聲月里 | 月田古墳 |
〃 霊光郡法聖面月山里 | 月桂1号墳 |
〃 咸平郡月也面禮コ里 | 新コ1号墳 |
〃 咸平郡咸平邑長年里 | 長鼓山古墳 |
〃 咸平郡鶴橋面馬山里 | 杓山1号墳 |
〃 霊光郡始終面泰澗里 | チャラ峰古墳 |
〃 海南郡三山面昌里 | 龍頭里古墳 |
〃 海南郡北日面方山里 | 新芳古墳 |
かつて前方後円墳と考えられていた全羅南道羅州郡の新村里6号墳や慶尚南道固城郡の松鶴洞1号墳は、前方後円墳ではないことが確認された。現在認定されている榮山江流域の前方後円墳は、5世紀半ばから6世紀半ばにかけてのものとされる。これは百済がこの地域を併呑しようとしていた時期にあたり、被葬者が倭人か百済人か現地人かで論争が続いている。
韓国では姜仁求らが前方後円墳の半島起源説を主張しており、NAVER、YAHOO!KOREA、DAUMもこの立場である。Wikipedia韓国語版には、前方後円墳に関する項はない。半島起源説を主張する場合、成立年代が新しい榮山江流域の古墳の存在は都合が悪い。このためか、三大ポータルは榮山江流域の古墳に一切言及しておらず、取り上げている前方後円墳は日本で認められていないものばかりである。
古墳名または所在地 | NAVER | YAHOO!KOREA | DAUM |
---|---|---|---|
全羅南道羅州郡藩南面新村里6号墳 | ○ | ○ | ○ |
〃 羅州郡藩南面コ山里2号墳 | ○ | ||
〃 務安郡夢灘面 | ○ | ||
〃 霊岩郡始終面 | ○ | ||
慶尚南道固城郡松鶴洞1号墳 | ○ | ○ | |
〃 咸安郡末伊山 | ○ | ○ | |
〃 居昌郡居昌邑東部洞 | ○ | ||
慶尚北道高霊郡本館洞 | ○ | ||
〃 高霊郡高霊邑 | ○ | ||
〃 星州郡星州邑 | ○ | ||
〃 義城郡錦城面 | ○ | ||
〃 尚州郡喊昌邑 | ○ | ||
〃 慶州市九政洞 | ○ | ||
大邱広域市不老洞 | ○ | ||
ソウル特別市石村洞6,7号墳 | ○ | ○ | |
〃 芳荑洞1,2号墳 | ○ | ○ |
NAVERは高句麗初期に主流を成した方墳に、中国から伝わった円墳が結合して前方後円墳ができたと主張している。そしてソウル地域から次第に南方に伝播し、最後に日本に伝わったとする。そして記述の最後で「日本には完成墳だけがありその始原墳はない。韓国には始原墳が主流をなす。より発達して完成された形態の遺物遺跡が多いことが、必ずしも発生地を現わす指標と見るのは難しい」と、半島起源説を再度強調している。
YAHOO!KOREAも「漢江・栄山江流域で方墳と円墳が結合し、方墳側の祭壇的機能が強調されて前方後円墳が形成されたものと見られる」と半島起源説を主張する。しかし既に前方後円墳でないことが明らかになった新村里6号墳と松鶴洞1号墳に主に言及しているため、まったく説得力がない。
DAUMには「前方後円墳」の項がなく、「羅州古墳群」の項で新村里6号墳とコ山里2号墳を前方後円墳に分類している。そしてこれらが任那日本府説の根拠になり得るとして日本人研究者の関心を惹いたものの、「このような試図は失敗し、かえって日本の前方後円墳の源流が韓半島にあるという主張が発表されもした」と勝利宣言している。
日本書紀によると、大和朝廷は369年から562年まで約200年間任那日本府を置いて半島南端部を支配したことになっている。この実態については日本でも諸説紛々で、「九州の豪族の出先機関だった」「伽耶地域の倭系集団を統治する機構だった」「大和朝廷の外交使節だった」「なかった」等の説が出されている。北朝鮮の金錫亨は、1960年代に「日本列島内の三韓の分国だった」という説を出した。
NAVERは韓国学界の説として「百済の前線基地だった」「大和朝廷の外交使節だった」との主張を紹介しているが、評価は下していない。金錫亨説に対しては、「その事実與不よりは、近代日本史学の帝国主義的体質に対する反省を促す契機になったという点に意味があった」とし、事実か否かは重要でないとしている。
DAUMも百済の前線基地説を紹介しているが、考古学的知見と合致せず、日本書紀の任那日本府は反百済的性格を持つことが難点としている。金錫亨説に対しては、NAVERと同様に日本学界に与えた影響に言及するだけで、分国説自体の真偽には触れていない。
Wikipediaは各種の見解を列挙するだけで、評価はしていない。 YAHOO!KOREAには「任那日本府」の項目はなく、「任那」の項で任那という名前が「大和地方の王権によって韓国洛東江流域の高霊地方に政治的干渉をするために設置した機関だったかのように歪曲、主張されている」と非難している。
文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱)の記述で気になったのは、NAVERとDAUMが認定している「三大大捷」で、閑山島海戦、第一次晉州城戦、幸州山城防衛戦が選ばれている。閑山島海戦(1592年7月)は、おとりに引っかかって追って来た脇坂安治の水軍を李舜臣が鶴翼陣を張って迎え撃ったもので、日本側は大小39隻を失い、部将の脇坂左兵衛らが戦死するなど惨敗した。第一次晉州城戦(1592年10月)は、長岡忠興・長谷川秀一・木村重茲らが金時敏が守る晉州城を攻めて失敗したもので、晉州城は1593年6月の日本軍9万人以上の総攻撃を受けてやっと陥落した。幸州山城防衛戦(1593年2月)は、日本軍3万が權慄が守る幸州山(京城付近)を攻めて失敗したもので、日本側の死者は非常に多く、宇喜多秀家・吉川広家・石田三成・前野長康らも負傷した。これらの共通点は、攻めて来た日本軍を朝鮮軍が防いで激甚な被害を与えたという点にあり、明鮮側が積極的に仕掛けたものでもなく、戦局に与えた影響が最大というわけでもない。つまり明軍が主体となった戦闘は、いかに戦局を転換させようとも「大捷」には入らないらしい。したがって、李如松が率いる明軍の平壌奪回(1593年1月)や、慶長の役で日本軍の京城攻略を挫折させたとされる稷山(素沙)の戦闘(1597年9月)は、選ばれる可能性はないらしい。
民族主義史観からは、明軍の貢献を極小化することに加え、義兵の貢献を強調し、朝鮮人の利敵行為は過小評価することになる。義兵の活躍については、「倭軍の軍事行動に甚だしい打撃を与えた」(NAVER)、「各地で赫々たる戦攻をたてた」(YAHOO!KOREA)、「埋伏・奇襲・偽装等のような遊撃戦術を駆使して日本軍に大きな被害を与えた」(DAUM)、「武器と食糧補給路や通信網を遮断して日本軍を困難に陥れた」(Wikipedia)等、いずれも高く評価している。しかし臨海君・順和君の二王子が加藤清正の捕虜になった経緯について、会寧府使の鞠景仁が二王子を縛って突き出したことに触れている事典はない。
亀甲船は高麗末からあったとされるが、有名なのは文禄・慶長の役で李舜臣が日本水軍を攻撃するのに使ったものである。これは120〜130人乗りの突撃艇で、刀錐の刃を外に向けてびっしり刺した板で船体を蓋っていた。このため敵船に乗り移って白兵戦に持ち込むという、日本軍が得意とする戦法がとれなかった。当時「倭寇は水戦に稚拙」という評価が固まっていたように、日本軍は海上戦に弱かった。朝鮮水軍が装備や戦術の面で日本水軍を上回っていたことは明らかだが、水戦下手の日本軍を苦しめたからといって、当時の朝鮮水軍が世界的に優秀だったということにはならない。しかし亀甲船については、韓国では「世界最初の装甲艦」といった夜郎自大な評価が横行する傾向がある。
NAVERはまず要約で「世界最初の突撃用鉄甲戦船」とかました後、本文で「敵の火矢や銃丸では貫けない突撃戦船で、16世紀のどの国の戦船とも比べものにならなかった」と自慢している。DAUMの要約は「朝鮮時代に使用された戦闘艦のひとつ」だが、本文に「鉄甲船として世界的先駆である李舜臣の亀船は、壬辰倭乱初盤の相次ぐ海戦で艦隊の先鋒となり、突撃船の威力を余すことなく発揮した」という記述がある。Wikipedia韓国語版も、「李舜臣が壬辰倭乱直前に建造した世界最初の鉄甲軍艦」だとしている。一方、YAHOO!KOREAの要約は「倭冦を撃退するために特殊製作された突撃型手漕船の一種」となっており、本文にも特に過大な評価は見られない。
剣道の日本起源を認めているのはWikipedia韓国語版だけで、三大ポータルはいずれも韓国起源説を主張している。
NAVERはまず古代中国における鉄剣の出現に触れた後、漢書藝文志に「剣道」という語が初出することを指摘する。そして新羅の本国剣を詳しく解説し、「朝鮮時代に至り政策的に武を卑賤視したが、民間によって多くの固有の剣法が秘伝とされたものの、時間が流れるにしたがって衰退した」とする。そして「現在の剣道は、韓国から伝授された剣術が日本内の戦乱過程の下で発展し、後にはスポーツとして体系化された日本の剣道が逆に韓国に入って来たものだ」と韓国起源説を主張する。
DAUMの剣道の歴史に関する記述はごく短く、漢書藝文志に触れた後、NAVERと同様に「現在の剣道は、三国時代初期にわが国から伝授された剣術が日本内の戦乱過程下で発展し、逆にわが国に入って来ることになったものだ」と主張している。
YAHOO!KOREAは、漢書藝文志の用語初出の件以外は中国史への言及を避け、古代朝鮮の兵器の状況から剣道の歴史を説き起こす。新羅の本国剣と、朝鮮時代におけるその衰退に関する記述は、NAVERとほぼ同様である。異なる点は剣道が朝鮮から日本に伝わったとは書かず、それどころか日本への言及を極力避けていることである。伝来については「1896年(高宗33)に、警務庁で警察訓練と陸軍演武学校の軍事訓練科目に剣術が採択されてから、広く普及したのが今日の剣道だ」としている。日本への言及としては「光復後剣道は日帝の残滓だと認識され衰退し始めた」というのが唯一で、驚くべきことに項目全体で「日本」という単語は一度も登場しない。 Wikipediaの「剣道」の項はごく短く、起源については「日本のサムライの剣術がスポーツ化されたもの」としている。
柔道の起源については、NAVERとWikipedia韓国語版は日本起源とし、YAHOO!KOREAとDAUMは東洋圏の共通起源説をとっている。ただしDAUMは、韓国起源説に一歩踏み込んでいる。
NAVERは項目の先頭で「区分 格闘技」「起源国 日本」「韓国導入時期 1934年」と箇条書きにし、日本起源を認定している。本文では国際柔道連盟の定款第1条第3項の原文 "The IJF recognizes Judo, as a system of physical and mental education created by Jigoro Kano, which also exist as a Olympic sport" を紹介し、嘉納治五郎が創始者であることを明らかにしている。本当に "an Olympic sport" ではなく "a Olympic sport" と書かれているかは知らない。
Wikipediaの「柔道」の項はごく短く、「二人の選手が相手を攻撃したり、攻撃して来る相手を力の力学で虚点を突いて勝敗を競う日本の格闘技」と解説している。
YAHOO!KOREAは柔道は「韓国・日本・中国を含めた東洋圏のスポーツとして出発」したとし、日本と韓国に分けて起源を解説している。韓国については、「3世紀頃の高句麗古墳である角抵塚に描かれた壁画に手搏・拳法の自由対錬場面が、今日の柔道と考えられている」とめちゃくちゃなことを言っている。しかもすぐ後に「この絵はシルムや跆拳道の原型とも見られるが、これは当時の生活手段や戦争手段としての格闘技がまだシルム・跆拳道・柔道に分化する前だったためと考えられる」とあり、余計混乱する。さらに「また朝鮮時代の《武芸図譜通志》に出る手搏・拳法の絵にも、柔道の一面をうかがえる」と続き、結局朝鮮半島では柔道は未分化なままで終わったことがわかる。これは「朝鮮に柔道はなかった」ことを意味し、脱力感を感じさせる。日本については「日本の柔道は、技術的な源泉を日本古来の素手格闘である力比べ及びシルムに求めることができる」という文から始める。日本語の「スモウ」でなく、韓国相撲を指す「シルム」という用語を使っているため、うっかりすると韓国起源と誤解しやすい。
DAUMはYAHOO!KOREAとほとんど同じで、「韓国・日本・中国を含めた東洋圏のスポーツだった」としている。高句麗の万能壁画と朝鮮時代の絵の説明も、YAHOO!と同じである。ただし日本については、「韓国の手搏・拳法を伝え受けた日本は、16世紀頃柔術という特有の武技を形成して発展させた」として、YAHOO!より明確に韓国起源説を主張している。さらにその後で「韓国の現代柔道は、たとえその根源が三国時代にまで遡る伝統武技だとしても、日本柔道が移植されたものだ」としており、要するに韓国の伝統武技→日本の伝統柔術→日本柔道→韓国の現代柔道という流れを主張したいらしい。
空手については、YAHOO!KOREAとDAUMは日本武術であるとしている。一方NAVERは、インド起源説をとっている。Wikipedia韓国語版には、「空手」の項はない。
NAVERの項目は、「空手」ではなく「カラテ(唐手)」と表記されている。先頭に「区分 格闘技」「起源国 インド(推定)」「韓国導入時期 三国時代」とあり、日本はもちろん中国の影響も極小化しようとする意図が感じられる。本文では、「起源について明らかな定説はないが、古代インドで発生し、中国唐国を経て三国時代に国内に入って来て、14世紀頃日本の琉球(現在の沖縄)に渡ったものと推定される」となっている。しかし三国時代に朝鮮に入って来た打撃系格闘技がその後どうなったかの説明はなく、「跆拳道」の項では跆拳道が2000年前に韓国で独自に創始されたとしているので、跆拳道につながったというわけでもないらしい。また「韓国では光復以後道場が生じ始め…」とあるが、日本時代の朝鮮南部に空手道の道場がなかったとは信じられない。
YAHOO!KOREAには「カラテ(空手)」と「タンス(唐手)」の二項目がある。後者の説明は、「跆拳道」の項とまったく同じである。「カラテ(空手)」の項の要約は「日本伝統武術のひとつ」となっている。歴史については「沖縄に昔から伝わって来た武術であるテ(手)が、中国拳法の影響を受けて赤手空拳の護身術に発達したもの」とあり、NAVERのような歪曲の意図は感じられない。おそらく、跆拳道の韓国起源説が担保されれば、カラテの起源まで捏造する必要はないということだろう。
DAUMの項目名は「カラテ(日本武術) [空手, karate, コンス]」となっており、見出しから日本武術と明記している。起源については、「カラテは数百年の間東洋で発展したが、体系化されたのは17世紀に武器携帯が禁止された沖縄の人々によってであるものと見られ、1920年代に日本に導入された」としている。跆拳道との関係にまったく触れていないのは、NAVERやYAHOO!と同じである。
日本から見れば跆拳道は日本空手の一流派で、崔泓熙が日本で学んだ松涛館空手道を基礎に、1950年代に韓国軍の格闘技として創始したとされる。1954年の名称制定委員会で、テッキョンの語感を含むということで「跆拳道」という名称が採用された。1959年には大韓跆拳道協会が設立された。崔泓熙がマレーシア大使に赴任していた1961年に大韓「跆手道」協会に改称されたが、崔泓熙が1965年に帰国すると大韓「跆拳道」協会に戻された。崔泓熙は1966年に国際跆拳道連盟 (ITF; The International Taekwon-do Federation) を組織し、海外普及に乗り出した。ところが崔泓熙は1973年にカナダに亡命し、ITFの本拠をトロントに移してしまう。残された大韓跆拳道協会は、独自に世界跆拳道連盟 (WTF; The World Taekwondo Federation) を設立して対抗した。スポーツ外交の達人だった金雲龍の尽力で、WTFは2000年シドニーオリンピックで跆拳道を正式メダル種目とすることに成功した。一方ITFは、北朝鮮を含む共産圏への跆拳道普及に力を入れたため、韓国では親北団体とみなされ、崔泓熙は再び韓国に戻ることなく2002年に死亡した。跆拳道の起源については、ITFは「空手道を土台にテッキョン等を研究した」としている。一方WTFは「近くはテッキョン、遠くは三国時代の花郎道と手搏まで遡れる」とし、空手の影響を否定している。
以上はWikipedia日本語版と韓国語版に基づいてまとめたものだが、韓国の三大ポータルは崔泓熙とITFには一切触れず、WTFの立場の代弁に終始している。
NAVERの要約は「2000年前韓国で独自的に創始された固有の伝統武術で、今日世界スポーツになった格闘競技」となっている。その直後にも、「区分 格闘競技」「起源国 韓国」という箇条書きがある。本文には、起源に関する詳しい解説はない。
YAHOO!KOREAの要約は「韓国固有の武芸のひとつ」となっており、本文では「東洋武術のうち最も長い歴史を持った武術」と誇大妄想を爆発させている。根源は古代部族国家の祭典競技で、それが三国時代のテッキョンにつながり、高句麗の仙輩と新羅の花朗がそれを修練したとする。高麗時代にはテッキョンは手搏または手搏戯と呼ばれ、《高麗史》の「李義旼が空拳で柱を打つと垂木が動き, 두경승が拳で壁を打つと拳が壁を貫いた」という記述を紹介して「武藝水準も相当に高かった」と自負する。朝鮮時代に一時衰退したが、《武藝圖譜通志》という教科書が書かれ、武藝としても民俗競技としても活力を取り戻したとする。さらに日本時代には、「テッキョンをカラテと呼ばせ、カラテを普及させてテッキョン抹殺をはかった」と日帝弾圧説まで持ち出す。大韓民国建国後に、「テッキョン」の代りに「跆拳」という新造語ができて一般化したとする。WTFは崔泓熙らによる1959年の大韓跆拳道協会の設立を認めず、1961年に大韓跆手道協会と改称された時点から認定している。YAHOO!KOREAの記述もこれに従っており、1961年9月に大韓跆手道協会が設立され、1965年に大韓跆拳道協会と改称されたと説明している。1973年に世界跆拳道協会(WTF)が設立されたと説明するが、崔泓熙とITFに対しては一切言及がない。
DAUMの記述もYAHOO!KOREAとほぼ同様で、要約は「手と足を利用して相手の攻撃を受け止めたり相手に打撃を与える韓国固有の伝統武藝」となっている。起源を古代部族国家の祭典競技とし、それがテッキョンに発展したこと、高麗時代に手搏または手搏戯と呼ばれたこと、朝鮮時代に《武藝圖譜通志》が書かれたこともYAHOO!とほぼ同様の記述になっている。日本時代の弾圧説も同じで、「日帝は政策的にテッキョンを弾圧し、テッキョンがカラテに似ている点をあげてカラテと呼ばせ、カラテの型を普及させてテッキョンを抹殺しようとした」としている。面倒臭かったのか「跆手道」からの改名には触れず、1961年に大韓跆拳道協会が設立され、1973年には世界跆拳道協会が創立されたと説明する。崔泓熙にもITFにも一切言及がない点は、YAHOO!と同様である。
「サシミ」「スシ」は国際的な知名度が高く、英語等でもそのまま通用する。しかし韓国としてはこれがしゃくにさわるため、サシミ→膾、スシ→醋飯と言い換えようという運動がある。しかし全国民的な賛同を得ているわけではなさそうで、百科事典の見出し語も次のようにぶれがある。
百科事典 | 刺身 | 寿司 |
---|---|---|
DAUM | サシミ | スシ |
NAVER | 生鮮膾 | スシ |
Wikipedia韓国語版 | 膾 | 醋飯 |
YAHOO!KOREA | 生膾 | 醋飯 |
DAUMのサシミの項の要約は「日本料理のひとつである生鮮膾」、スシは「日本の代表的な料理のひとつ」となっており、日本料理としての刺身と寿司について記述している。ただしスシの項では、「韓国の東海岸に昔から見られる食醯は、魚・穀類・野菜をきちんとはかって漬けたものだが、日本のスシの起源と関係があるものと思われる」と韓国起源説を示唆している。
NAVERの「生鮮膾」の項では、写真の説明に「生の魚を適当に切ってわさびを溶いた醤油につけて食べる日本料理でサシミとも言う」とある。しかし本文には、日本料理であるという記述は見られない。「スシ」の項では、最初に「国籍 日本」「主材料 生魚」として、日本料理であることを明らかにしている。
Wikipedia韓国語版の「膾」の項はごく短く、「韓国の膾は獣または魚の生身を言う。 牛肉の生の赤身に味付けを和えたものを肉膾と呼ぶ。魚の膾をサシミ(日本語: 刺身)とも言う」と韓国の伝統料理の方を主にした記述になっている。「醋飯」の項では「主に日本で作られるが、韓国等の多くの国でも作られ食べられる」と、日本料理と認定したくないという気持が現れている。
YAHOO!KOREAの「生膾」とは聞き慣れない言葉で、「生の刺身」というようなものである。ともあれこの項では、日本料理としての刺身は一切排除し、韓国伝統の膾の記述に終始している。特に肉膾については「東洋三国の中で特に韓国で発達した料理」として、伝統膾の代表にあげている。他に取り上げているのは、「ニベ膾」「ナマコ・ホヤ膾」「カキ膾」で、なぜかアンモニア臭で有名なエイ膾は取り上げていない。「醋飯」の項の要約は「日本料理のひとつ。酢を混ぜて味をつけたご飯に魚貝類等を載せたもので日本語ではスシと言う」となっており、さすがに寿司に関しては日本を無視することはできないようである。
NAVERには日本服という項目があり、本文では「世界的には着物、日本服飾史では小袖として知られる服」としている。起源に関しては、特に言及していない。
DAUMには「キモノ(着物)」というそのものズバリの項目があり、要約は「日本の伝統衣服」となっている。本文には「中国の袍様式の服に由来する」「着物は元来、よく考えられているような日本の服ではない」という記述があり、何とかして日本起源を否定したいという意図が感じられる。
YAHOO!KOREAとWikipedia韓国語版には、着物または和服(日本服)に関する項目はない。
百科事典の項目名は、いずれも純韓国語の花挿しになっている。
YAHOO!KOREAは仏教における供華(供花)が「中国を経て韓国に伝来し、また仏教の伝播とともに日本に渡ることになった」と韓国経由であることを指摘している。その直後でも「仏教の供花とともに花挿しのひとつの様式が1世紀頃である百済のときに伝来し、これは日本へ伝えられた」と、しつこく韓国経由を強調している。そして三国時代から李氏朝鮮に至る韓国花挿しの伝統を延々と記述した後、「日帝強占期の文化的弾圧と文化抹殺政策で、韓国には固有の花挿しが存在しなかったという偏見を生むようになった。光復後にも激変する政治的混乱の中で文化・芸術分野の活動はひどく沈滞し、1950年代後半徐々に生活の余裕と情緒を取り戻して花挿しがまた始まろうとしたとき、日本の花挿しが編入され発展することになった」と因縁をつけている。
DAUMも三国時代からの伝統花挿しについて述べているが、一方で日本のことは完全に無視している。つまり日本への伝播について恩着せがましいことを言わない一方で、日本生け花の影響についても触れていない。
Wikipediaの「花挿し」の項はごく短く、「花挿し(英語: flower arrangement, 日本語: 生花 イケバナ)は、瓶や水盤(水が張られた皿)に花を挿して装飾することを言う」となっている。
NAVERは唐代の《開元遺事》に触れた後、「供花は仏教とともに中国と韓国を経て日本に伝わったが、供花をひとつの様式にまで発展させた国は日本だ」としている。韓国経由に触れながらも、日本生け花の発展に対しては最も肯定的な記述になっている。
漆器は英語でjapanと言うほど、西洋から見て日本を代表する工芸品である。また縄文時代前期の遺跡から漆製品が見つかり、漆器の日本起源説まで出ている。
YAHOO!KOREAは福井県鳥浜遺跡出土品に触れ、日本漆器の歴史が縄文前期に遡るとしている。この考古学的発見の意味を何とかして極小化したいのか、他の箇所で「伝世品は6世紀仏教の伝来とともに韓国人と中国人によって製作された」「特に百済の漆器製作技術は日本漆器に多くの影響を与えた」「江戸時代には漆器工芸が広く普及し韓国の螺鈿技法が伝わった」と、やたら朝鮮半島からの影響を強調している。関係ないが、法隆寺の「玉虫厨子」を「玉忠厨子」と誤記している。
DAUMは縄文遺物に触れず、いきなり「漆製品は仏教の伝来時期の6世紀中葉に中国から韓国を経て日本に伝播された」と来る。そして日本漆器の始原を、奈良時代の黒漆金装飾刀柄と矢に置いている。関係ないが、「玉蟲廚子」は正しく表記している。
NAVERは漆器の歴史に触れいていない。Wikipedia韓国語版には、項目がない。
日本では什器に木製品を多く使ったためか、陶磁器は長らく朝鮮の方が技術的優位にあった。特に文禄・慶長の役で拉致して来た朝鮮人陶工によって日本の陶磁器が大きく発展したことは、韓国人にとって欠かせないエピソードになっている。
DAUMは「1590年代朝鮮侵入のとき朝鮮の陶工たちを強制的に移住させ、日本陶芸は完全な転換をすることになった」とし、李參平(金ヶ江三兵衛)の業績を詳しく紹介している。それ以前の時代についても、「次に弥生陶磁器が全国的に製作されたが、縄文時代より多少精製され装飾は簡素化し、形態は当時の韓国陶磁器の影響を受けたことを見せてくれる」「このような製作は奈良時代と平安時代にかけて、韓国と中国の著しい影響の下で進行した」と、朝鮮半島からの影響を強調している。
YAHOO!KOREAの「陶磁器」の項では、日本の陶磁器に関する説明はない。朝鮮時代の陶磁器を説明した部分で、「青華白磁は17世紀初に日本に伝わり、伊万里青華を生むことになった」とあるが、陶工の拉致には触れていない。それ以前の時代については、「金海土器は……日本の硬質陶器である須恵器の燔造にも影響を及ぼしたことがわかる」「新羅土器は5世紀初日本に伝えられ、河内の陶邑で硬質陶器(須恵器)が燔造された」という記述が見られる。
NAVERには「日本の陶磁器」という項目があり、その中で「日本の陶磁器が急激に発達したのは、壬辰倭乱のとき豊臣秀吉の武将たちが韓国の陶工たちを人質として連れて帰国して窯を築造し、陶磁器を製作させたことに始まった」という記述がある。しかしそれ以前の朝鮮半島からの影響には触れていない。
Wikipedia韓国語版には、「陶磁器」の項目はない。