北朝鮮正史批判


 北朝鮮の汎太平洋朝鮮民族経済開発促進協会は、インターネット上で同国の正史を掲載している。下のアドレスから入れる。

http://www.travel.dprkorea.com/japanese/


 その歴史解釈の自由闊達さ(?)は南京大虐殺まぼろし派の比ではなく、突っ込みどころ満載である。ここでは、日本や韓国で知られている歴史との比較対照を試みた。参校文献は以下の通り。

    脱北者同志会「虚偽と偽善に満ちた金日成の革命史」『望郷』1999年9月号〜2000年5月号.

http://nkd.or.kr/monthly.html

    姜在彦『金日成神話の歴史的検証』明石書店,1997.

    片野次雄『李朝滅亡』新潮文庫,1997.

    荻原遼『朝鮮戦争 金日成とマッカーサーの陰謀』文春文庫,1997.

    呉善花『韓国併合への道』文春新書,2000.

 なお、上に示した汎太平洋朝鮮民族経済開発促進協会の日本語ページには変な日本語も多いので、正史からの引用は原文から筆者が独自に日本語訳したものであることをお断りしておく。原文のページは下のアドレスから入れる。

http://www.travel.dprkorea.com/korean/



北朝鮮正史
 1866年8月、米国武装海賊船シャーマン号の大同江侵入・略奪に憤慨した平壌の軍民は、敬愛する首領金日成主席の曽祖父であらせられる金膺禹先生を先頭に、シャーマン号を焼き討ちにした。

脱北者同志会
 一介の農民に過ぎない金日成の曾祖父が、軍民を指揮できるはずがない。



北朝鮮正史
 1907年に朝鮮軍が強制解散させられると、反日義兵闘争は愛国軍人も合流してその気勢は絶頂に達した。こうして翌年1月、各道の義勇軍が連合してソウル付近30里地点にまで進撃した。


 1907年12月、義兵連合軍1万がソウル進行を計画したが、先遣隊が日本軍の先制攻撃に破れ失敗した。



北朝鮮正史
 偉大な首領金日成主席の父上であり不撓不屈の革命闘士であらせられた金亨稷先生は1917年3月23日、平壌で朝鮮国民会を結成された。

脱北者同志会
 朝鮮国民会は1914年にハワイ帰りの張日煥という人物によって結成され、金亨稷は中心人物ではなかった。



北朝鮮正史
 積もり積もった民族的憤怒と国の独立を成就しようという火のような想いは、ついに1919年3月1日、全民族的な人民蜂起として爆発した。平壌市民の反日デモで始まったこの蜂起は、瞬く間に三千里江山を巻き込んだ。

片野
 デモはソウル、平壌、鎮南浦、義州、宣川、元山などでほぼ同時刻に始まった。特にソウルのパゴダ公園における独立宣言読み上げが有名。



北朝鮮正史
 偉大な首領金日成主席は1912年4月15日、平壌市万景台の貧しい農家で生をうけられた。

脱北者同志会
 平壌市に隣接する大同郡古平面南里で生まれた。父金亨稷は農民、母康盤石はキリスト教会長老の娘。

荻原
 平壌の比較的裕福な漢方医の家に生まれた。



北朝鮮正史
 偉大な首領金日成主席は1926年10月17日、愛国的で革命的な熱血青年を集め、わが国初の真の共産主義革命組織である打倒帝国主義同盟を組織された。

脱北者同志会
 数え15歳で政治団体を指導できるはずがない。中国共産青年会に加入しただけらしい。



北朝鮮正史
 偉大な首領金日成主席は1930年6月30日、カリュンで開かれた共青および反帝青年同盟指導幹部会で主体思想の原理を明示され、主体的な路線を明らかにされた。

脱北者同志会
 この頃の吉林省の朝鮮人共産主義者の指導者は李宗楽で、18歳の金日成は全く目立たなかった。



北朝鮮正史
 1930年7月には、新世代の共産主義者により初めて党組織が結成され、初の革命的政治軍事組織である朝鮮革命軍が結成された。

脱北者同志会
 1930年8月、李宗楽、金光雪、崔昌傑らにより朝鮮革命軍吉江省指揮部が作られたが、18歳の金日成は幹部ではなかった。



北朝鮮正史
 偉大な首領様は1932年4月25日、わが国初の主体的な革命的武力である反日人民遊撃隊(朝鮮人民革命軍)の創建を全世界に宣布された。

脱北者同志会
 1932年頃の金日成は、安図の干司令を指揮官とする救国軍の別動隊員だった。


 金日成は共青東満特別委から安図に派遣され、遊撃隊組織工作を担当した。1932年4月25日、梁成龍を隊長とする安図遊撃隊が創建され、金日成は汪清遊撃大隊の政治委員に採用された。



北朝鮮正史
 反日人民遊撃隊を創建された偉大な首領様は、抗日武装闘争の人事戦略的基地、朝鮮革命の根拠地としての遊撃根拠地を創設された。1932年から、敵の執拗な妨害策動にもかかわらず、遊撃根拠地の創設事業は力強く推進された。


 東満の遊撃隊は、東満特別委書記童長栄(中国人)の指導下で組織された。金日成が担当したのは安図遊撃隊だけで、他に延吉、汪清、琿春、和龍でも遊撃隊が組織された。



北朝鮮正史
 金日成主席は、遊撃根拠地に依拠して武装部隊を際限なく拡大強化される一方、遊撃区内で人民の政権である人民革命政府を建てられ、根拠地の人民達に政治的自由と民主主義的権利を保障し、土地改革、8時間労働制、男女平等権のような諸般の民主改革を実施すべく懸命に指導された。


 1932年6月、中共中央は上海で開いた北方会議で、満州における民族主義者との連携よりも階級闘争を優先し、遊撃根拠地にソヴィエト政府を樹立する方針を決議した。ソヴィエト区で行われた施政・改革は、中共中央の方針に沿ったものだった。



北朝鮮正史
 日帝は遊撃区討伐に多大な武力を投入したが、その度に失敗の苦汁を舐めさせられた。特に1933年4月と11月〜1934年2月にあった小汪清遊撃区防衛戦が有名である。

脱北者同志会
 1933年に金日成は梁成龍配下の汪清遊撃隊員だったが、年末に梁成龍が民生団(親日派スパイ組織)の疑いで逮捕されると金日成も一兵卒に降格された。


 金日成は1933年9月6日の東寧県城戦闘に汪清遊撃隊の一部を率いて参加したが、戦闘後も救国軍の呉義成部隊にとどまり、民生団粛清の最中にあった汪清に戻らなかったと思われる。



北朝鮮正史
 偉大な首領様は東岡で1936年5月5日、祖国光復会の創立を全世界に宣布なされた。偉大な首領金日成同志は、祖国光復会会長に推戴された。

脱北者同志会
 祖国光復会は1936年6月に金川で開かれた抗日連軍第1軍・第2軍軍政幹部合同会議で設立が決まった。それ以前に第1軍の呉成崙、厳洙明、李相俊らが発起人となって発足宣言と10大綱領を書いており、主導したのは金日成が所属する第2軍ではなかった。


 在満韓人祖国光復会の宣言と目前10大綱領は1936年6月10日、呉成崙(全光), 厳洙明(厳弼順), 李相俊(李東光)名義で発表された。当時厳弼順は第1軍軍需処長で、呉成崙と李相俊は7月の金川県河里会議で中共南満省委員に任命された。



北朝鮮正史
 偉大な首領金日成主席は、日帝にさらに大きな打撃を与えわが人民ひとりひとりの胸に闘争の火と勝利への信念をお授けになるため、1937年3月歴史的な西岡会議で大部隊による国内進攻作戦方針を出され、朝鮮人民革命軍を三方面に進出させる計画を立てられた。

脱北者同志会
 西岡会議の議長を務めた魏拯民中国共産党書記が、第7回コミンテルン決定にもとづき朝鮮国内侵攻作戦を提議した。金日成は抗日連軍第2軍第6師長として参加しており、唯一の朝鮮人だった。第6師が普天堡、第4師が茂山、第2師が長白を攻撃することになった。



北朝鮮正史
 偉大な首領様が親率された朝鮮人民革命軍の主力部隊は、日帝が〈金城鉄壁〉だと大言壮語した国境警備陣を破り、普天堡を攻撃した。

脱北者同志会
 金日成は襲撃隊90名を率い、鴨緑江をこっそり渡って普天堡に侵入した。



北朝鮮正史
 日帝の銃剣に抑えつけられていた普天堡の街は、喜びと感激で沸きかえった。町中から飛び出して来た人民は、男女を問わず「金日成将軍様がいらっしゃった」、「わが軍隊が来た」と声高く叫びながら熱狂的に歓呼した。偉大な首領様は、人民の前で祖国の光復のため決起するよう呼びかける歴史的な演説をなさった。

脱北者同志会
 襲撃隊は放火・略奪し、日本人2人を射殺し、ビラを撒いただけで帰った。



北朝鮮正史
 撤収する朝鮮人民革命軍を追って追撃する日帝軍警は、口隅水山で散々に打ち負かされ、間三峰では朝鮮占領軍第19師団咸興74連隊を含む日満軍警連合部隊がほとんど全滅した。


 大川警部が率いる恵山警察署の警察隊が追撃したが、長白県二十三溝の戦闘で日本人巡査5名、朝鮮人巡査2名が戦死した。さらに金仁旭少佐が率いる羅南19師団第74連隊110名が追撃したが、長白県間三峰で抗日連軍第2軍第2師・第6師の連合軍500余名に迎撃され、5名の戦死者を出し撤退した。



北朝鮮正史
 第2次世界大戦が勃発すると、偉大な首領様は自ら小部隊を率いて出陣され目覚しい活躍を続けられ、小部隊と政治小組を作り国内外の広い地域に派遣された。


 金日成は1940年10月末に越境し、国境で拘束されソ連の審査を受けていたが、1941年1月3日付で李桃麟と周保中がソ連極東軍内務部長ワシリイ宛に書いた手紙のお陰で釈放さた。金日成を含む88名は1月中旬にウラジオストク郊外のヴォロシロフにあった南野営に集結した。

脱北者同志会
 金日成は1940年10月、日帝の討伐を逃れソ連に密入国して直ちに収監されたが、中国共産党幹部周保中の口利きで釈放された。



北朝鮮正史
 1945年8月9日、偉大な首領様は朝鮮人民革命軍部隊が祖国解放の聖戦に入る戦闘命令をお下しになった。


 1942年7月にハバロフスクの北西80キロにあるヴァーツコエ野営地で第88旅団が結成され、金日成は日本の敗戦までここにとどまった。

荻原
 金日成は当時ソ連領内の第88師団駐屯地にいて、日ソ戦闘では出番がなかった。



北朝鮮正史
 解放された朝鮮の喜び、再生の喜びは大きかった。民族の太陽であらせられ解放の救星であらせられる金日成主席が、人民達の熱狂的な歓迎を受けつつ祖国に凱旋された。

荻原
 金日成が朝鮮民衆の前に姿を現したのは、1945年10月14日平壌で開かれた朝鮮解放祝賀集会が最初で、群衆の反応は芳しくなかった。



北朝鮮正史
 1945年10月10日、平壌で開かれた党創立大会では、北朝鮮共産党中央組織委員会が結成され、党創建が宣布された。

荻原
 1945年10月13日、平壌で極秘裡に開かれた西北五道党責任者および熱誠者大会で朝鮮共産党北部朝鮮分局が設立された。



北朝鮮正史
 米帝は、綿密で計画的な準備のもとに李承晩傀儡徒党をそそのかし、1950年6月25日、朝鮮民主主義人民共和国に敵対する侵略戦争を挑発した。

荻原
 戦争は北側の38度線全線に渡る奇襲攻撃で始まった。



北朝鮮正史
 戦略的に一時的な後退をした基本前線の人民軍部隊は、10月下旬から11月初旬にかけて全面的な反撃に出るための様々な戦闘を通じて、前線西部では清川江以北に布陣していた敵に殲滅的な打撃を与え、前線東部では黄草嶺、赴戦嶺、長津湖畔、魚郎川一帯で敵の攻撃を効果的に阻止した。


 仁川上陸後の国連軍の猛攻の前に北朝鮮軍は潰走し、1950年10月19日に国連軍は平壌を占領した。同日、中国人民志願軍は鴨緑江を越え、10月25日に第40軍第118師・120師が温井里で韓国軍第6師団第7連隊を撃破し、11月1日には雲山でアメリカ第1騎兵師団と正面衝突した。また中国人民志願軍第42軍は、黄草嶺・赴戦嶺で国連軍の北進を阻止した。

荻原
 1950年10月19日に米韓連合軍が平壌に入場したが、同日中国が参戦し戦況は再び逆転した。



北朝鮮正史
 1951年6月中旬に至ると、前線は基本的に38度線で膠着した。人民軍部隊は前線の主導権をがっちりと確保し、強力な防御陣地に依拠し狂ったように攻撃して来る敵に連続して甚大な打撃を与えた。


 1951年2月頃からはソ連のミグ戦闘機二個航空団が参加していた。


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