閔妃の言行と評価

 閔妃(明正皇后閔氏, 1851〜1895)は朝鮮第25代国王高宗の正室で、三浦梧楼率いる暴徒によって暗殺された。このため反日のためには格好のアイコンで、韓国では「極悪非道な日帝の野慾の犠牲になった崇高な愛国者」として偶像化しようとする動きがある。しかし一方で、閔氏一族を引き込んでの国政専横、迷信に凝っての国庫蕩尽、高宗の愛人や庶子への虐待といった悪行もよく知られている。このため偶像化に異議を唱える韓国人も多いようである。ここでは閔妃をめぐる葛藤について調べてみた。

양병설, 혐일류, 도서출판 나라, 2006, pp. 60-61.


閔妃の言行


 同じく日本の犠牲になった朝鮮女性でも、生涯がほとんど知られていない柳寛順とは異なり、王妃だった閔妃にはかなりの記録が残されている。ここでは以下の文献に従って、閔妃の生涯を再構成してみた。「大行皇后誌文御製行録」は高宗実録の陽暦1897年11月22日条に含まれているもので、前皇后を追悼するきれいごとのオンパレードである。御製行録に限らず、閔妃の生涯への言及には単なるうわさや小説家的想像も含まれているだろうが、いちいち検証せず載せた。

  高宗実録
  大行皇后誌文御製行録(高宗実録, 陽暦1897年11月22日)
  黄玹(朴尚徳訳)『梅泉野録』国書刊行会, 1990.
  角田房子『閔妃暗殺−朝鮮王朝末期の国母』新潮社, 1988
  片野次雄『李朝滅亡』新潮文庫, 1994.
  呉善花『韓国併合への道』文春新書, 2000.
  金完燮(星野和美訳)『親日派のための弁明A−英雄の虚像、日帝の実像』扶桑社, 2004.
  崔文衡(金成浩・齊藤勇夫訳)『閔妃は誰に殺されたのか』彩流社, 2004.


1851年 哲宗3年 辛亥 満0歳 数え1歳

 10月19日;陰暦9月25日
 京畿道驪州郡近東面蟾楽里で閔致禄の娘として生まれた。その夜、赤い光が夜空を照らし、異香が部屋を満たした。(大行皇后誌文御製行録)

1859年 哲宗11年 己未 満7〜8歳 数え9歳

 父の葬儀で慟哭し、大人顔負けの立派な態度を見せた。(大行皇后誌文御製行録)
 父母とも死亡して孤児となり、ソウル安国洞の感古堂の閔氏邸にあずけられた。(角田)

1865年 高宗3年 乙丑 満13〜14歳 数え15歳

 仁顕王后が夢枕に立ち「王后になって朝鮮に億万年の福をもたらせ」と言った。(大行皇后誌文御製行録)

1866年 高宗3年 丙寅 満14〜15歳 数え16歳

 興宣大院君夫人の推薦で大院君が面接し、高宗の妃に揀択された。(角田)

 5月4日;陰暦3月20日
 仁政殿に詣で、冊妃禮を挙行した。(高宗実録)
 昌徳宮の仁政殿で王妃冊封の式典が挙行された。翌日からさらに3日間、別宮で迎親礼が行われた。(角田)

1868年 高宗5年 戊辰 満16〜17歳 数え18歳

 李尚宮が高宗の長庶子となる墡(後の完和君)を出産した。高宗は墡を王世子にしようとしたが、観相した朴有鵬は「すこし遅らせるのがよい」と答えた。高宗は激怒し、大院君の指図かと疑った。まもなく朴有鵬は死んだ。(梅泉野録)
 閔妃は平静を装い、李尚宮に祝いの品を届け、高宗に王子誕生の祝いを述べた。しかし大喜びする大院君に内心むかついた。この頃、春秋を耽読した。(角田)
 そのころの高宗は李尚宮、張尚宮、干尚宮、河尚宮、安尚宮等を寵愛した。特にとび抜けた美貌をもつ李尚宮に夢中になり、閔妃には眼もくれなかった。李尚宮が墡を生むと、王子誕生を喜ぶ大院君と閔妃との間に溝ができた。(片野)

1871年 高宗8年 辛未 満19〜20歳 数え21歳

 12月15日;陰暦11月4日
 閔妃が男児を出産。(高宗実録)

 12月19日;陰暦11月8日
 男児が大便不通により死亡。(高宗実録)

 嬰児は肛門が塞がれ便を見ることがなく死亡した。閔妃は大院君から贈られた山蔘が原因と思い込み、怨み骨髄に達した。(崔文衡)
 閔妃は大院君から贈られた朝鮮人参が原因と思い込み、大院君に批判的な者たちに「摂政のむごい仕打ち」を訴えた(片野)
 閔妃は大院君から贈られた山参が原因ときめつけ、怨み骨髄に達した。慰霊のため盛大な祈祷を行わせ、その費用はたださえ苦しい王室の財政をさらに圧迫した。また張尚宮をはじめとする尚宮らの祟りで息子が死んだと信じ込み、張尚宮を残酷な杖刑に処した。張尚宮は「王妃こそ、伶人の金夢竜を女装させて内殿にひき入れ、悦楽にふけっている」と叫んだ。(角田)

1873年 高宗10年 癸酉 満21〜22歳 数え23歳

 天から「太平萬歳」の書が降ってきて受け取る夢を見た。(大行皇后誌文御製行録)

 12月24日;陰暦11月5日  批判勢力を糾合して大院君を失脚させることに成功。大院君は京畿道楊州郡直谷の別邸に隠遁することになり、旅立つ日に「あのおんな、尋常の者に非ず」という一言を残して輿に乗り込んだ。(片野)

 高宗の子を産んだ宮女は、閔妃から残酷な拷問を受け、瀕死の状態で宮廷から追放された。宮女の間では「高宗と同衾したら生き残れない」という認識が広まった。高宗は泣く泣く自分に許された唯一の女である閔妃を相手にせざるを得なかった。閔妃は高宗の歓心を得て、次第に政治の前面に躍り出た。(金完燮)

1874年 高宗11年 甲戌 満22〜23歳 数え24歳

 1月27日;陰暦前年12月10日
 閔妃の宮殿に仕掛けられた爆弾が爆発。閔妃は大院君の陰謀と信じた。(角田)

 3月25日;陰暦2月8日
 閔妃が坧(後の純宗)を出産。(高宗実録)

 坧が誕生してから、その好運を祈る祭に節制がなくなり、全国の名山で行なわれた。高宗は遊宴に耽り、賞を乱発した。王夫妻は一日に千金を消費し、内需司の財源で賄えず、戸曹と宣恵廰の公金を持ち出して使った。一年もせずに大院君が十年間貯めた貯蓄を使い果たしてしまった。(梅泉野録)

 11月
 閔升鎬が自宅で爆弾によって暗殺された。閔妃は大院君の仕業と信じ、歯ぎしりして口惜しがった。捜査の結果、申哲均の食客で張姓の者を捕えた。申哲均は大院君の腹心だったが、ひどい拷問の末に獄死した。(梅泉野録)
 大院君の腹心の申哲均が逮捕され、苛酷な拷問の末に自白した。しかし真犯人は従弟の閔奎鎬だった。(角田)

1875年 高宗12年 乙亥 満23〜24歳 数え25歳

 8月
 坧が清国から王世子に冊封された。閔妃は清国が長庶子の墡を冊封する意向であることを察知し、李裕元を釜山の花房義質のもとに送り、清への斡旋を依頼していた。(角田)

 閔妃は坧を王世子にするため、李鴻章に銀二十万両の賄賂を贈った。冊封を受けた後は、金剛山の12,000個もの山嶺ひとつひとつに千両のカネと米一石、絹一疋ずつを捧げ、坧の無病長寿を祈った。(金完燮)

 9月20日;陰暦8月21日
 江華島事件。日本の軍艦雲揚号が、江華島永宗島砲台と交戦。

 11月
 大院君の兄 李最應の家が放火された。閔妃は大院君の仕業と信じた。(角田)

1876年 高宗13年 丙子 満24〜25歳 数え26歳

 2月27日;陰暦2月3日
 日朝修好条規を締結。

 3月26日;陰暦3月1日
 申哲均を斬刑に処した。(高宗実録)

 5月3日;陰暦4月10日
 長庶子の墡を完和君に封爵。(高宗実録)

 減税を断行し、閔妃も自らの出費を切り詰めた。(大行皇后誌文御製行録)

1877年 高宗14年 丁丑 満25〜26歳 数え27歳

 3月30日;陰暦2月16日
 張尚宮が高宗の五男・堈を出産。

 誕生の知らせを聞いた閔妃は激怒し、刀を掴んで張尚宮の所に行き、その窓に刀を差し込んで「刀を受けろ」と怒鳴った。張尚宮はすぐに片手で刀の柄を握り、片手で窓を押し開けて出て、ひれ伏して命乞いをした。閔妃は「宜しい。大殿の寵愛を受けているそなたを、今は殺せない。しかし、宮中におくことはできない」と言った。力士を呼んで張尚宮を縛らせ、陰溝のそぱの両方の肉を挟り、外に担ぎ出させた。張氏は兄弟のもとに身を寄せ、十年余り傷に苦しんだ末に死んだ。(梅泉野録)
 張尚宮が秘かに男児を産んでいたことを知った閔妃は血相を変え、刀をひっさげて彼女の許へ急いだ。「父親の名を言え!」と閔妃に詰めよられた張尚宮は、「王様にお聞き下さいませ」と答えた。逆上した閔妃は刀を振り上げ、「子供は助けるが、お前は死ね!」と張尚宮を斬ろうとした。しかし周囲の者に押し止められて、果せなかった。(角田)
 高宗は閔妃に隠れて、哲宗の後宮である淑儀范氏に仕える張尚宮に手を出した。張尚宮が受胎すると、范淑儀の宮では閔妃の逆鱗を恐れ、出産までしっかりと秘密を守った。しかし王子誕生の知らせを聞いた閔妃は、張尚宮を内殿に連行させて拷問を加え、范淑儀の宮から赤ん坊とともに実家に追い出してしまった。張尚宮は火に熱した鉄串で身体の隠密な部分を刺す残酷な拷問まで受け、その傷がついに癒えず、十数年間患った末に死んだ。(金完燮)

1880年 高宗17年 庚辰 満28〜29歳 数え30歳

 2月21日;陰暦1月12日
 完和君が死亡。(高宗実録)

 坧の誕生直後、側女の李尚宮が頓死し、つづいて庶子の完和君が変死した。どちらも毒殺だと噂された。(片野)

 高宗は親政を始めてから、毎日遊興に耽った。明け方の四〜五時頃になって、やっと眠りにつき、午後の四時頃に起きた。王世子(坧)は朝日が窓に差し込むと、両殿下の服をひっぱって「ママ、安らかにお休みなさい」とあいさつした。(梅泉野録)

1882年 高宗19年 壬午 満30〜31歳 数え32歳

 2月21日;陰暦1月12日
 坧の冠礼式を挙行。(高宗実録)

 閔妃は王世子の嘉礼を大院君の居所だった雲峴宮で行うのを嫌い、100万両を費やして大安洞に新宮を造営しようとした。工事が遅れると、李景夏を宮役都監に任命した。(梅泉野録)

 4月6日;陰暦2月19日
 閔台鎬の娘(後の純明孝皇后閔氏)を世子嬪とし、冊嬪式を挙行。(高宗実録)

 冊嬪式後の数日間にわたり文武百官の饗宴が続き、祝儀の多寡によって官位が決まり、賄賂で大罪が減免された。その後も王夫妻は毎晩のように宴を催し、夜を徹して歓楽を尽くした。多くの巫女や芸人が集められ、歌舞に長じた家臣が優遇されて王夫妻の身近に仕え、一回の占い、一曲の歌に莫大な金や高価な品が与えられた。高宗と閔妃は夜が明けるころ寝所にはいり、昼すぎまで姿を現わさない。政務や謁見は夕刻近くになるのが常で、貴族や高官たちの生活もこの時間帯に合わせて営まれた。この年は旱魃による大凶作で農村は疲弊し、またコレラの流行で多くの死者が出た。民衆の怨嗟は勢道政治の中心に坐し、歓楽を尽す閔妃に向けられた。(角田)

 ある側近は、宮中の腐敗ぶりを、次のような文章で手記に留めている。「宮中はつねに長夜の宴を張って歓楽を尽くし、暁に至るが常なるが、故に国王も閔妃も寝所を出ずるのは、何時も午後になるのが常習なり。かくして政務、謁見は、つねに午後に決まれり。斯の如くにして、宮中の空気は益々溷濁腐敗し、魑魅魍魎の巣窟たる観を呈し苛政百出、百姓は冤罪に泣き、誅求に苦しみ、怨嗟の声八道に満つ……」(片野)
 閔妃はいつも宮中に巫女を呼び人れ、巫儀式が行われない日はなかった。優れた占い師にはその場で絹百疋と一万両を渡すなど、湯水のごとく公金を使った。やがて朝鮮の国庫は底をつき、すべての官吏の俸給が滞るようになった。官吏らは利権ブローカーとなって蓄財し、人民の暮らしは悪化していった。(金完燮)

 4月
 増廣覧試で、全羅左道の試験所が求禮県に設けられた。合格発表の前日、三人の者が南門外の河原で埋葬して墳を作り、向かいあって哭をした。哭を止め、いっしょに大笑いした。喪服を脱ぎ捨てて行った。理由を聞くと「私の母は、謹みがなくて隣の人に殺された。あわただしく埋めた。今になり、もう一度、つまびらかにしてみたところ、死んではいなかった。それで喪をやめた」と言った。聞いた人は気違いかと思ったが、数か月後に閔妃の服喪取消が起きた。(梅泉野録)

 7月22日;陰暦6月9日
 壬午事変が勃発。(高宗実録)

 閔妃は黒幕に大院君がいることを察知し、高宗に大院君を招致するよう進言した。大院君は王の急召を受け、昌徳宮に参内した。(角田)

 7月23日;陰暦6月10日
 閔妃が行方不明となり、高宗が「中宮殿今日午時昇遐」とその死を布告。(高宗実録)

 乱兵が閔妃が乗った轎の帷を裂き、髷を掴んで地べたに抛り投げた。武監の洪敬薫が大声で「それは俺の妹で、尚宮になっている者だ。見間違うな」と叫び、背負って走った。群集は疑ったが問い詰めなかった。閔妃一行は花開洞にある前の司禦・尹泰駿の家に潜んだ。尹泰駿が隣の部屋にいて仕え、翔賛・閔應植、進士・閔肯鎬が戸の外に伏し、待していた。漢城から遠い田舎に避難しようと思ったが、旅費がなく心配した。(梅泉野録)
 大院君の腹心である金泰熙が率いる乱軍の一隊約三千人が、敦化門を破って昌徳宮に突入した。乱軍は閔妃を探し出し殺そうとしたが、洪啓薫の妹の衣装を借りた閔妃は、洪啓薫に背負われて昌徳宮から脱出した。安国洞の尹泰駿の家に一時避難し、夜を待って東大門を出て北に当る貞陵方面で一泊した。(角田)

 7月24日;陰暦6月11日
 大院君が参内。閔妃の葬式を7日後の18日に決定。(高宗実録)

 閔妃一行が河を渡ろうとすると、船頭が難色を示し「都から河止めしろと命令が下っている。疑わしい旅人は渡せない」と言った。閔妃は金の指環をはずし、かごの外に投げてやった。広州を過ぎた所で、村の老婆たちが「中殿が淫乱で、この騒ぎを惹き起こした」と言った。閔妃は黙って聞いていた。宮廷に帰還した後、この村を滅ぼした。付き従って行った者たちが、船頭の罪を罰しようとしたが、それは許さなかった。(梅泉野録)
 閔妃は閔応植と尹済翼につき添われて漢江の支流中浪川を渡り、さらに東へ進んで忘憂里峠を越え、漢江本流へ向かった。船賃の交渉がまとまらないのを輿の中で聞いていた閔妃は、金の指輪をはずして閔應植を通じて船頭に与えた。一行は漢江をさかのぼり、楊平で一泊した。川岸で舟を待っている時、村の女たちが「こんな騒ぎが起こったのも王妃のせいだ」と、閔妃の並はずれた贅沢やその一族の専横をののしった。のち王宮に帰った閔妃はこの村の女たちを捕えさせ、極刑に処した。(角田)

 7月25日;陰暦6月12日
 閔妃の小斂(死亡翌日に死者の衣服を改める儀式)を挙行。(高宗実録)

 閔妃一行は漢江を上流へ進み、京畿道驪州の閔泳緯の家にかくれた。(角田)

 7月27日;陰暦6月14日
 閔妃の大斂(再び死者の衣服を改める儀式)を挙行。閔妃の死体が見つからないので代わりに布を納棺することにした。反対意見が続出したが、押し切った。(高宗実録)

 7月31日;陰暦6月18日
 閔妃の成服(葬礼)を挙行。(高宗実録)

 大院君が「言うに忍びない変があった」とし、哀悼を表し、成服するのに変礼でしようとした。大臣・金炳国、洪淳穆らが反対したが、大院君は百官を集めて閔妃の死亡を公表した。(梅泉野録)
 大院君は閔妃の死亡を布告させた。閔妃の遺骸がないことを理由に反対する者もいたが、大院君は布告を押し切った。(片野)

 8月
 忠清北道長湖院の閔応植邸に潜む閔妃の密書を、李容翊が高宗のもとに届けた。閔妃の献策に従い、高宗は趙寧夏を清に派遣し、救援を要請した。(角田)
 閔妃は高宗に、朝鮮国王の名をもって、軍乱鎮圧のために清国軍の派遣を要請させた。閔妃の書状には、天津に滞在中の金允植と魚允中のもとへ閔台鎬と趙寧夏を密行させ、両名の口から李鴻章に出兵を依頼させるようこまかい指図が記されていた。(片野)

 8月26日;陰暦7月13日
 大院君が清軍によって連行され、天津に幽閉された。(高宗実録)

 8月30日;陰暦7月17日
 日本と済物浦条約締結。見舞金5万円、損害賠償50万円、軍隊駐留権、謝罪使の派遣等。

 一旦逃げ帰った花房義質公使が、井上馨、高島鞆之助、仁禮景範とともに、二個中隊の兵士を率いて京城に来た。軍乱の咎を朝廷に帰し、和議をしようと言って舌鋒が苛烈だった。朝廷は李裕元を全権大臣に任命したが、日本人の言うことに従うだけだった。謝罪使として金晩植、朴泳孝、金玉均らを日本に派遣した。(梅泉野録)

 9月7日;陰暦7月25日
 閔妃の生存を発表し、服喪を取り消すよう命令。(高宗実録)

 9月11日;陰暦7月29日
 閔妃は呉長慶指揮下の清国兵100名に護衛され、洪淳穆以下諸大臣を従え、長湖院の閔応植の家を出発した。(角田)
 閔妃は呉長慶将軍が率いる清国軍兵百余名に守られながら、長湖院の隠れ家を後にした。時の領議政・洪淳穆以下、朝鮮政府の高官たちが従った。(片野)

 9月12日;陰暦8月1日
 閔妃が王宮に帰還。(高宗実録)

 閔妃の行列は、南大門をくぐって漢城に入った。群衆は複雑な面持ちで行列を見守った。それでも、ところどころから歓声があがった。(片野)
 王宮に戻った閔妃は自らの不徳を詫びた。(大行皇后誌文御製行録)
 閔妃が昌徳宮に帰還した日から、高宗はいつも自分の視野の中に閔妃がいることを望んだ。(角田)

 閔妃は自身の生存発表と帰還に反対した閔台鎬に、死刑を宣告した。しかし閔氏一族の泣訴によって、処刑は見送られた。(角田)

 閔妃は長湖院に避難していた時に帰還の期日を的中させた巫女を王宮に連れ帰り、眞靈君に封じた。閔妃に寵愛され、多くの金や寶を賜わった。趙秉式、尹榮信、鄭泰好ら高官が争って取り入り、大いに権勢をふるった。(梅泉野録)
 閔妃は王宮へ戻る際、一人の巫女を伴った。閔妃が潜伏した家の召使いだったが、王宮帰還を適中させたことで閔妃に気に入られた。そこで北廟に祭壇と祈祷所を設け、彼女を祭主として王家の福運を祈祷する祭祀を行なわせた。国家財政は窮乏していたのに、祭祀のために国費は惜しみなく費やされた。さらに各地から祈祷師らが続々と集まり、北廟はシャーマニズム宗教センターと化してしまった。北廟の祭主は大霊君と号され、宮廷内で最も重きをなすようになった。取り巻きの祈祷者たちもその威勢にあずかったので、上級の品階や大職を求める官僚たちは、宦官や侍女だけではなく、彼らにも金品を贈って機嫌をとらなくてはならなくなってしまった。(呉善花)

 12月26日;陰暦11月17日
 メレンドルフを参議統理衙門事務に任命。(高宗実録)

1883年 高宗20年 癸未 満31〜32歳 数え33歳

 1月
 閔妃は米国公使フートの夫人と接見した。(崔文衡)

 3月26日;陰暦2月18日
 メレンドルフの献策で当五銭を発行。(高宗実録)

 メルレンドルフは国庫の窮状を知り、「悪貨の鋳造」という打開策をさずけた。それは「当五銭」と呼ばれ、従来の貨幣価値の五分の一しかなかった。この悪貨の鋳造所は、造幣局の名のもとに閔氏一族に独占され、実質的には閔氏一族による私鋳が公然と行なわれた。たまに鋳造される銀貨は国庫に収められる前に、閔氏一族の手で悪貨と交換され、彼らはますます私腹を肥やしていった。そのしわよせは一挙に市場へ、そして庶民へともたらされた。(呉善花)

 6月
 東南諸島開拓使兼捕鯨使となった金玉均は、その捕鯨権を担保に日本政府から三百万円の借款を得ようと図った。絶望的な経済状態を憂慮していた王は、金玉均に委任状を与えた。これを知った閔妃は、メレンドルフに借款の阻止を命じた。メレンドルフの工作によって、借款は失敗した。(角田)
 国王から委任状を下付された金玉均は、その足で三度目の訪日の旅にのぽった。閔妃はメレンドルフを動かし、竹添進一郎公使に融資の中止を申し入れさせた。メレンドルフは、借款は朝鮮政府が関知するところでなく、仮に借りても償還能力はなく、金玉均が持つ委任状は偽物だともいった。(片野)

1884年 高宗21年 甲申 満32〜33歳 数え34歳

 12月4日;陰暦10月17日
 甲申政変勃発。金玉均ら急進派が高宗を説得し、日本軍に護衛を要請。(高宗実録)

 金玉均、朴泳孝らは郵政局での宴で閔泳翊に切りつけた。メレンドルフが閔泳翊の脇を抱えて逃走した。金玉均らは昌徳宮門外に放火し、高宗夫妻に清国軍が乱を起こしたので日本公館に避難するよう求めた。閔妃が難色を示すと、景祐宮への避難を実現させた。王に「日兵来扈」の四文字を書かせ、それを日本公館に持って行った。竹添進一郎公使が兵を引き連れ、景祐宮を警備した。(梅泉野録)
 金玉均と朴泳孝は昌徳宮で高宗に会い、「事大党と清国軍が組んで、反乱を起こしました」報告した。間髪を入れず閔妃が「確かに清国軍か。日本軍ではないか」と問い返した。このとき宮廷内で爆発があり騒然となったため、閔妃も金玉均らの言葉に従い、景祐宮へ移らざるを得なかった。王は朴泳孝の求めるままに「日本公使来護朕」と書いて渡した。日本軍守備隊が来て景祐宮の四門を警固した。急を聞いて集まった閔台鎬、閔泳穆、趙寧夏、さらに尹泰駿、韓圭稷、李祖淵の三営使が次々に処断された。(角田)
 この夜、高宗と閔妃は昌徳宮にいた。金玉均と朴泳孝は「清国軍が反乱を起こして攻めてくる」と奏上し、景祐宮への避難を進めた。さらに語気を強めて高宗に詰め寄り、「日使来衛」と書かせた。竹添公使は日本兵百五十余を従えて、昌徳宮から高宗らを景祐宮へ護送した。金玉均は郵征局内に閉じこもっている要人たちに、景祐宮へ参内するよう伝えさせた。(片野)

 12月5日;陰暦10月18日
 金玉均らが左營使李祖淵、後營使尹泰駿、前營使韓圭稷、左贊成閔台鎬、知中樞府事趙寧夏、海防總管閔泳穆、内侍柳載賢を殺害。(高宗実録)

 景祐宮に参内した左賛成・閔台鎬、知事・趙寧夏、海防総管・閔泳穆、左営使・李祖淵、右営使・尹泰駿、前営使・韓圭稷らが片っ端から殺された。王はそれを見て、涙を流して叫び、苦しむだけだった。中官・柳載賢が王に食膳をすすると、金玉均はそれを蹴って妨げた。怒って罵る柳載賢を、金玉均が剣を抜いて斬り捨てた。王はぶるぶる震えていた。金玉均は御璽・玉鷲を取り上げ、朴泳孝に授け「宜しく王になるがよい」と言い、高宗を弑逆する謀議をした。しかし沈相薫の説得で取りやめた。(梅泉野録)
 沈相薫から真相を聞いた閔妃は王に向かって、景祐宮の暮しは耐えがたいと訴えた。金玉均はとりあえず景祐宮より大きい桂洞宮への移動を提案した。移動の混乱にまぎれて、沈相薫は外衙門の金弘集と南廷哲の許へ駆けつけた。南廷哲は清国軍の軍営に駆けつけ、救援を要請した。金玉均が打ち合わせのために去ると、閔妃はいっそう強く昌徳宮への帰還を望んだ。王が竹添公使に意見を求めると、竹添は即座に同意した。これで昌徳宮帰還は決った。(角田)

 12月6日;陰暦10月19日
 清国兵が駆けつけ、洪英植と朴泳教を殺した。竹添ら日本人と金玉均らは日本公使館に逃げ、その後仁川から日本へ逃亡した。(高宗実録)

 閔妃が逆賊に説教したところ、賊どもは恐れ入って逃げ出した。(大行皇后誌文御製行録)
 袁世凱が率いる清国軍3000人が昌徳宮に突入し、日本軍と交戦した。朴泳孝、金玉均、徐光範、徐載弼らは退却する竹添公使に従い、千歳丸に乗って日本に亡命した。日本公館が放火され、焼失した。高宗は昌徳宮を出て、北関廟に移った。洪英植、朴泳教は高宗に「袁世凱の兵は退け」との手紙を書くよう脅しつけた。それに憤った武芸庁の兵士たちが、二人をめった斬りにし、肉の塊にしてしまった。高宗は、北廟から清国の統領・呉兆有の営房に移った。(梅泉野録)
 清国軍は北廟付近から秘苑を迂回して、包囲の輪をちぢめてきた。やがて王の近くにも銃弾が飛来する危険な状態となり、金玉均らは護衛兵に王を背負わせて、秘苑の演慶堂に移った。観物軒には閔妃をはじめ後宮の女性たちも、多くの宮女に囲まれて集まっていた。戦闘開始から三時間ほどが過ぎたこのとき、もはや開化派の敗北は疑う余地もなかった。閔妃はまず自分が清国軍の陣営へ行こうと決意し、すでに逃げ腰の朝鮮人護衛兵を尻目に、北廟へ通じる抜け道を歩き出した。竹添公使は引揚げを決定し、いったん公使館へ撤退した。国王と閔妃は清国軍に守られて昌徳宮に帰った。(角田)

 閔泳翊を治療し信頼を得たアメリカ人医療宣教師のホレイス・ニュートン・アレンは、王室の主治医となった。アレンは高宗と閔妃の信頼を得て、宮廷に親しく出入りするようになった。(角田)

1885年 高宗22年 乙酉 満33〜34歳 数え35歳

 10月5日;陰暦8月27日
 大院君が清から帰国。(高宗実録)

 清国は高宗の親露政策を牽制するため、大院君を帰国させることに決した。李鴻章は大院君の許に来ていたその長子李載冕を帰国させ、高宗に大院君の釈放陳奏使を派遣するよう伝えさせた。閔妃は閔泳翊らを天津へ急行しさせ、「大院君は壬午軍乱の主謀者で、彼の帰国はまたも国内に騒乱を起こす基となりますので、このまま清国に留めていただきたい」という伝えた。李鴻章は「大院君が清国に来た後も、朝鮮では禍乱が続発しているではないか。これを見ても、朝鮮の騒乱は大院君とは関係なく、閔氏一門の拙劣な政治が原因と思われる」と反駁した。(角田)

 10月6日;陰暦8月28日
 大院君が参内し高宗と対面。

 対面の席に閔妃の姿はなかった。閔妃は帰国した大院君への憤懣を、対面を避けるというおだやかな行為で示しただけではない。この日から捕盗庁は厳しく壬午軍乱の残党狩りを始め、多少とも当時の大院君とかかわりのあった者はみな逮捕された。軍乱の中心人物はすでに三年前に処刑されていたが、その後も獄につながれていた者は大院君の帰国と同時に極刑に処された。また雲峴宮で大院君に仕えていた何人かは毒殺された。閔妃一派のこの残虐な示威行動に民衆はおびえ、動揺した。(角田)

 10月15日;陰暦9月8日
 ロシア公使ウェーベルと接見(高宗実録)

 ウェーベルは着任直後から朝鮮の真の主導者は王妃であることを見ぬき、閔妃とその一派に近づいて親しく交わった。またウェーベルの妻は華やかな社交界の雰囲気を身につけた女性で、初対面の時から閔妃の心を捉え、王宮では毎夜のように彼女を中心の宴会が開かれた。こうして王夫妻とウェーベルとの友好関係は急速に深まり、ロシアとの密約の温床はととのった。両者の間に介在したのはロシア語をよく解する蔡賢植で、閔妃派の数人も密談に加わった。(角田)
 特にウェーベル公使の家族とともに来韓したソンタクの活躍は、王后の歓心を買うのに注目すべき役割を果たした。彼女はウェーベルの義弟の義妹だった。ソンタクはアルザス・ロレーヌの出身で、フランス語、ドイツ語、英語、ロシア語、朝鮮語を使いこなした。宮内府の外国人接待業務を担いながら、彼女は王后とも親密な人間関係で結ばれた。美貌と洗練さを備えていただけでなく、年齢も王后より三歳下で気楽に応対できた。時が経つにつれ彼女は、西洋各国の風俗習慣はもちろん、世間話もいろいろと聴かせた。(崔文衡)
 ロシアは清国駐在公使カルル・ウェーバーを、初代朝鮮駐在ロシア公使に横すべりさせた。ウェーバーの妻と義妹のミス・ソンタクが、公使の活躍を援けた。ウェーバー夫妻と義妹は連日のように王宮に伺候し、高宗と閔妃の機嫌をとりむすんだ。あわせてロシアの力も売り込み、日本と清国の干渉をあしざまに攻撃した。その耳朶にあたりのいいロシア人たちの話を聞くために、国王と王妃は夜ごとにウェーバー夫妻らを王宮に招いた。高宗と閔妃は、急速にロシアになびいていった。(片野)

 11月17日;陰暦9月30日
 袁世凱が朝鮮大臣に着任。

 漢城に着任した袁世凱は、高宗と閔妃に謁し、清国を侮辱するような親露政策は許さぬと言外に匂わせた。そして最後に、自分は肩書きどおり朝鮮の総理なのだといった。しかし閔妃はこれを無視してロシア公使館の開設を許可し、清国に挑戦する態度を示した。(片野)

(時期不詳)

 閔妃が帯下症を患っていると、ある人が南原出身の崔錫斗を推挙した。処方が少し効いたので、閔妃はたいへん喜び、高山郡守に任命した。次に南原府使に栄転させた。しかし処方が効かないとなると、罪を得て京城の邸で死んだ。死ぬ時、体中の九つの穴から血を流した。人びとは「賜薬を飲んで死んだのではないか」と疑った。(梅泉野録)

 あるとき、高宗が内殿に入ると、慌てふためいて裏の揚げ窓から逃げて行く男がいた。高宗が「誰だ」と聞くと閔妃は「私の眼には人は見えなかった」と答え、「殿下は何を見たのですか」と反問した。高宗は左右の者に聞いてみたが、皆「見なかった」と答えた。閔妃はおもむろに「殿閣に妖気が充ちているのかも知れないので、祈祷をあげなくてはいけない」と言い、とうとう祈祷所を建て増した。閔妃はこのように高宗を愚弄していた。(梅泉野録)

 閔妃は息子には厳しい教育ママだった。(大行皇后誌文御製行録)
 高宗は王世子の坧をひどく可愛がり、食事のたびにおかずを分けて食べさせ、着物を着るたびに袖を引っ張って着せてやった。反対に閔妃は、坧がちょっとでも逆らうと殴った。叱りつけて「お前は王世子だといっても、どうして父母がなかろうか」と言った。こうして、坧は父を恐れず、母を恐れた。(梅泉野録)

 閔妃は文章と歴史によく通じていた。百官があげる上奏文は、いつも自分でみていた。『八家文鈔』を愛読し、燕京で良書を購入させた事があった。(梅泉野録)

 閔升鎬の未亡人の李氏は後妻で、若く美人だった。閔泳柱、閔泳達と不倫の関係を結び、子どもを生んで育てた。「閔升鎬と夢で交わって孕んだ」と主張したので、民間では「夢得」と呼んでからかった。閔妃はそれを嫌悪し、金の屑を下賜した。李氏は怒ってそれを撒き散らしし、「後家が喜びを思うのは、当然のことである。中宮がどうして私を正そうとするのか」と言った。しかし李氏は機知が優れていたので閔妃も憎み切れず、後には親しく交際するようになった。(梅泉野録)

1886年 高宗23年 丙戌 満34〜35歳 数え36歳

 8月9日;陰暦7月10日
 総理内務府事の沈舜沢が親露抗清策としてウェーベルにロシアの保護を要請する国書を伝達した。この文書には「奉勅」の文字があり、旧暦で書かれた日付には“韓国宝”が、また沈舜沢の署名には“図章”が押されていた。(角田)

 8月14日;陰暦7月15日
 露朝密約の件を知った衰世凱は、外務協弁・徐相雨を呼びつけ、秘密文書の写本をつきつけて面責した。朝鮮側は口を揃えて事実無根を主張し、ロシア公使ウェーベルも「そのような秘密協定に類する文書を授受した事実はない」と述べた。(角田)

 8月16日;陰暦7月17日
 趙存斗と金嘉鎮を処罰。(高宗実録)

 朝鮮政府は趙存斗、金嘉鎮らを親露抗清策を共謀した罪で幽閉した。閔妃の発意で起こした事件が失敗に終れば、その協力者は責任を負わされ犠牲になるのが常であった。(角田)

 9月10日;陰暦8月13日
 朝鮮政府は9月10日に徐相雨らを清国に派遣し、李鴻章に対しても釈明した。結局この事件は、清国側の条約無効宣言と、ロシア側の全面的否定によって事なきを得た。しかしこれを契機に清国とロシアとの関係は険悪化し、ロシア本国でも外務大臣が駐露清国公使に、袁世凱の朝鮮国政干渉について抗議するに到った。(角田)

1887年 高宗24年 丁亥 満35〜36歳 数え37歳

 王世子妃の冠礼(元服の式)が行われた。王世子妃は、甲申政変のとき虐殺された閔台鎬の娘である。閔妃は自分の生家と最も血筋の近いこの嫁をいとおしみ、父親のない肩身の狭さを感じさせまいと衣裳や髪飾りにまでこまかく心を配って、立派な式典を挙げさせた。(角田)

 7月
 閔氏一族の代表格である閔泳駿が駐日公使として赴任することになった。閔妃は一族の勢力を誇示するためにも、盛大な送別の宴を催した。(角田)

 7月20日;陰暦5月30日
 金允植を配流。(高宗実録)

 袁世凱が外務衙門督弁の金允植に「高宗は王世子の坧に譲位し、大院君がそれを補佐し、閔氏を政界から追放するのがよい」と述べた。それを聞いた閔妃は激怒し、金允植を沔川郡に配流した。高宗31(1894)年にようやく許された。金允植は公正、有能で有名だった。(梅泉野録)

1888年 高宗25年 戊子 満36〜37歳 数え38歳

 7月
 アメリカの女医リリアス・ホートン・アンダーウッドが、閔妃の専属医に就任した。だがこれで閔妃が西洋医学一辺倒になったわけではなく、病気になれば相変らず巫女や祈祷師を集めて鳴物入りで加持祈祷をさせ、各地の寺に大寄進をして、宮廷費を湯水のように使っていた。(角田)

1890年 高宗27年 庚寅 満38〜39歳 数え40歳

 6月4日;陰暦4月17日
 神貞王后趙氏が死去。神貞王后は憲宗の実母で、興宣大院君と謀って高宗を王位につけた人物。

 神貞王后は「閔妃は孝心が厚い」と褒めていた。神貞王后が重体に陥ると、閔妃はつきっきりで看病した。(大行皇后誌文御製行録)
 閔妃が実権を握って以来、神貞王后はその気勢に恐れをなし、いつも閔妃を避けていた。また趙成夏、趙寧夏らが死に、一門が凋落したことを悲しんでいた。ある時、宮中に仕える婦女・宮人に向かい、なかなか死ねないのを嘆いたことがあった。(梅泉野録)

(時期不詳)

 閔妃が毛皮商人に、高価な貂の皮で作った毛張十着を納めるよう命じた。玩賞する際、蝋燭の燃えかすが飛び落ちて瞬く間に燃え尽きた。高宗夫妻は全国の珍奇な特産物を強制的に献上させ、毎晩の宴を盛り上げる芸人に惜しげもなく下賜した。(梅泉野録)

 假注書の李最承が王宮に宿直していると、深夜に歌声と楽器の音色が聞こえてきた。音がする殿閣を覗いてみると、そこは昼のように明るかった。両殿下が、平服を着て坐っていた。階段の下には、頭に鉢巻をし、腕をむきだしにして歌を歌い、太鼓を打つ者が数十人いた。「往き来して逢っていた恋しいひとよ、死のうとも別れられようか」といった調子の、淫らで卑しい雑歌を歌う者がいた。閔妃は太ももを打ちながら「いい」と誉め「そうね、そうよ」と言っていた。(梅泉野録)

 王世子の坧は陰痿を患っていた。成長するにつれ、陰莖は垂れ下がり、まこもの様だった。上に持ち上げていないと、小便がひとりでに出て、いつも席を濡らしていた。一日に、座布団は一回取り換え、ズボンは二回取り換えた。結婚して何年か經ったが、妻と性交できなかった。閔妃は心配し、ある時、宮婢に頼んで王世子に性交の方法を教えさせた。自分は戸の外にいて、「できるのか、できないのか」と聞いた。坧が「できない」と答えると、閔妃は嘆き、溜息をつき、胸を叩いて起ち上がった。人びとは「それは完和君の祟りだ」と言った。(梅泉野録)

 国の慶事の宴会で、高宗が黄州から来た妓生を見初めた。ひそかに召して寵愛し、鄭洛鎔に命じて金の指輪一雙と、化粧代として三千両を下賜した。それを知った閔妃は激怒し、「すぐに殺せ」と捕庁に命じた。鄭洛鎔を厳しく責めたてが、鄭洛鎔が必死に宥めた。(梅泉野録)

1891年 高宗28年 辛卯 満39〜40歳 数え41歳

 1月
 閔妃がそれと知られずヘンリー・サヴェジランダーを接見。

1892年 高宗29年 壬辰 満40〜41歳 数え42歳

 1月28日;陰暦前年12月29日
 王子の堈を義和君に封爵。(高宗実録)

 閔妃が高宗に進めて堈を封爵した。王世子の坧に子が望めないことから、堈の息子を坧の次の王にするつもりだった。そこで完和君の場合と異なり、義和君の堈は厚遇した。(梅泉野録)

 春
 閔妃が大院君爆殺を試みたが、続けて失敗した。ある夜、計画を察した大院君は、枕や布団で人が寝ているかのようにつくろい、別室で様子を伺っていた。しばらくして戸を叩く音がしたので行ってみると、匕首が枕に突き刺さっていた。翌日、妻の府大夫人・閔氏が、宮中に来て高宗で泣きながら訴えたが、高宗はじいっと見ているだけだった。その後また別の夜、大院君が起き出して散歩していると、居室で爆発が起きた。(梅泉野録)

 9月10日;陰暦7月20日
 義和君の冠礼式を挙行。(高宗実録)

 王世子妃の元服式の時とは違い、閔妃の表情は厳しく、冷やかであった。(角田)

1893年 高宗30年 癸巳 満41〜42歳 数え43歳

 9月
 閔妃がメレンドルフ夫人を接見。

 10月7日;陰暦8月28日
 趙煕一を薪智島に配流。(高宗実録)

 閔妃が4歳の頃、父の閔致禄が御史・趙鶴年の取り調べを受け罷免された。閔致禄は妻の実家に移る途中、抱いていた閔妃を垣に落とし、足を傷つけ傷痕が残った。閔妃は執念深く趙鶴年を恨んだが、もう死んでいたので、その怒りは甥の趙煕一に向かった。趙煕一は優秀な官僚で人望があったが、閔妃は政吏に命じて罷免した。趙煕一の子の趙性載が科挙に合格すると、閔妃は不快感を示した。(梅泉野録)

1894年 高宗31年 甲午 満42〜43歳 数え44歳

 3月28日;陰暦2月22日
 洪鐘宇が上海で金玉均を暗殺。

 4月14日;陰暦3月9日
 金玉均の死体を凌遲處斬とすることを決定。(高宗実録)

 鷺梁津で、金玉均の死体をばらばらにする刑罰である戮屍處斬を行った。柳在賢の息子が腹を剖き、その肝を啖った。李祖淵の子・李倬も行って見た。閔泳璇、閔亨植、趙東潤、韓麟鎬らは行かなかった。それを聞いた閔妃は嘆いて「宰相の血統の者たちが、中宮の養子にも及ばないのか」と言った。(梅泉野録)

 5月31日;陰暦4月27日
 東学農民軍が全州を占領。

 朝廷は清国に救援を要請することにした。閔妃に電報を打つよう命じられた閔泳駿は「清軍を呼べば日本軍も来る」と言って躊躇した。閔妃は「私が敗れれば、お前らも滅ぶ。つべこべ言うな」と一喝した。(梅泉野録)

 7月22日;陰暦6月21日
 日本軍が王宮を占領し、大院君を迎え入れた。(高宗実録)

 高宗は閔妃と世子に避難するよう勧めたが、閔妃は従わず、敢然と賊に立ち向かう気概を示した。(大行皇后誌文御製行録)
 大鳥圭介が兵卒を率いて景福宮に乱入し、白刃を抜いて高宗夫妻を取り囲んだ。そして大院君の入内を要請した。護衛の平壌兵500人が抵抗すると、高宗を脅して「妄動する者は斬る」との旨を宣告させた。平壌兵は銃を壊し、軍服を裂いて逃げた。日本人は宮中を略奪し、財貨宝物の類をことごとく行李に入れて、仁川港から日本に向けて発送した。(梅泉野録)

 政権に返り咲いた大院君は、直ちに閔氏一派を追放し、次いで閔妃を王妃から廃し庶人に落す準備にかかった。孤立無援となった閔妃は、王宮の奥深くひっそりと暮していた。20歳の王世子が母后を救おうと、祖父である大院君に泣訴した。宮廷内の波瀾を嫌う日本側も大院君を牽制したため、大院君は閔妃の処分を断念するほかなかった。(角田)
 閔妃は大院君が復活してくると、王宮の奥にこもったまま一歩も出て来なかった。大鳥公使や杉村書記官は悶着を嫌い、大院君に閔妃への接触をおもいとどまるように忠告した。(片野)

 8月1日;陰暦7月1日
 日清両国の宣戦布告によって日清戦争が勃発。

 甲午改革の初期、鄭萬朝が作った文の首句に「天佑宗祊うんぬん」というのがあった。尹致昊が「天佑の天をヨーロッパ人が勘違いして、朝鮮もまた天主教だと言わないでしょうか」と心配した。閔妃は中国古典の様々な「天」の用例をあげ、「お前は本当にもの知らずだ」と尹致昊を愚弄した。(梅泉野録)

 閔妃は密かに清国軍に「わが国は上国(清)を信頼し、必勝を祈念する」という書状を送り、また北京に密使を派して、西太后の還暦祝いに銀十万両を贈った。大院君も国王も閔妃も、それぞれ別途に日清両国を相手の二重外交を行なっていた。彼らは、これが日本の情報網にさぐり出され、ただちに日本へ報告されていることを知らなかった。(角田)

 9月1日;陰暦8月1日
 西園寺公望が国王に謁見し、国書を奉呈。(高宗実録)

 大鳥圭介が閔妃の会見を要求した。閔妃は盛装して接見した。その後、大鳥圭介が高宗に「王室の盛衰は賢妻の内助にかかっていることをよくお考えあれ」と、閔妃のカカア天下ぶりを皮肉った。高宗は皮肉に気づかず「わが家もまた、内助がないとは言えない」と答えた。左右の者は口を掩った。(梅泉野録)
 西園寺ら特使一行は国王に会い、日本からの贈り物を献上した後、さらに王妃との会見を求めた。外部大臣の金允植は「わが国には、王妃が外国使節とお会いする習慣がない」と固く断わったが、西園寺一行は聴き入れなかった。ついに閔妃は御簾を半ば巻き上げさせ、宮女二人が前をさえぎって、陛見の礼が行われた。日本側の強引なやり方は、宮廷の人々だけでなく、一般国民にも強い不快感を与えた。(角田)

 9月1日;陰暦8月1日
 朴泳孝から嘆願状が届く。(高宗実録)

 日本政府を後ろ盾に帰国した朴泳孝は、ひとまず仁川の日本人居留地に身をよせた。閔妃は礼服を贈り、朴泳孝を取り込もうとした。(角田)

 10月26日;陰暦9月28日
 井上馨が日本公使として着任し、高宗に信任状を捧呈。

 11月4日;陰暦10月7日
 高宗は井上馨と単独謁見をした。この席で井上は、奏上内容がいずれも重要問題であることを理由に、閔妃の同席を要請した。この日も閔妃は王の後ろの屏風の内にいたが、王の勧めで屏風をなかば開いて会談に参加した。王夫妻は、井上の厳しい大院君批判と王権復活の意向を聞いて満足した。特に閔妃は、閔氏一族の復帰の時も近いと心をはずませた。(角田)

 11月20日;陰暦10月23日
 日本公使井上馨が20条の改革案を提出。(高宗実録)

 閔妃が諸大臣に通告もせず四衙門の協弁を任命したことを知った井上馨は、激怒して高宗に謁見を求めた。閣僚陪席の下で強硬な抗議をすると、屏風の内で傍聴していた閔妃が「王室と世子に対する憂慮さえなければ、婦女子である私が、どうして政治干与などいたしましょう。これもみな、王室と国家の隆盛を願えばこそ」と殊勝な口調で述べた。井上は公然と王妃に釘を刺したことで、いちおう満足した。その上、五人の大臣が過誤を謝罪して、井上に誓約文書を出した。(角田)

 12月9日;陰暦11月13日
 朴泳孝等の甲申政変の主犯をすべて恩赦。(高宗実録)

1895年 高宗32年 乙未 満43〜44歳 数え45歳

 1月
 高宗と閔妃が数回にわたってイザベラ・バード・ビショップを接見。

 4月17日;陰暦3月23日
 下関条約締結で日清戦争が終戦。台湾・遼東半島の割譲、賠償金2億両など。

 5月4日;陰暦4月10日
 日本が三国干渉を受諾。

「このような時が必ず来ると思っておりました。日本は清国との戦いに勝って、何事も己が意のままと心おごったのもつかのま、その高慢の鼻を見事にへし折られて…。それにしてもロシアは何という強さでございましょう。一兵も動かさずに、日本を押えつけてしまったとは。あしたはロシア公使夫妻を招いて、小人数の楽しい宴会をいたしましょう。ウェーベル夫人が、ロシアの珍しい品を届けてくれました。そのお礼も述べたいと存じますので」(角田)

 7月6日;陰暦閏5月14日
 閔妃と閔氏一派がクーデターで政権を掌握。

 閔妃は親日色が濃い第二次金弘集内閣を押しつぶし、閣僚を朴定陽・李範晋・李完用など貞洞派(親米・親露派)中心に大幅に交代させた。(崔文衡)

 7月6日;陰暦閏5月14日
 閔妃暗殺計画が露呈した朴泳孝が日本に亡命。

 朴泳孝は、日本軍の力を借りて閔妃を暗殺しようという計画を兪吉濬に打ち明けた。兪吉濬は慌ててそれを高宗に通報した。計画が漏れたことを知った朴泳孝は、洋服に着替え龍山から汽船に乗って日本に逃げた。(梅泉野録)
 政治浪人の佐々木秀雄が韓在益に密告し、韓在益が沈相薫に伝えたため、朴泳孝逮捕の命令が出た。朴泳孝は日本公使館に逃げ込み、杉村代理公使が兵士と巡査をつけて仁川へ逃がした。(角田)

 7月25日;陰暦6月4日
 帰任した井上馨公使は夫人同伴で王宮に行き、六千円相当の品を高宗に、三千円相当の品を閔妃に献上した。その席で三百万円を寄贈する計画を述べた。(角田)

 9月1日;陰暦7月13日
 三浦梧楼が朝鮮国駐箚公使として着任。

 9月14日;陰暦7月26日
 閔妃がバンカー夫人と接見。(崔文衡)

 9月15日;陰暦7月27日
 三浦梧楼が井上馨とともに高宗夫妻に謁見。

「私は長らく軍籍にありながら、軍功をたてたこともない無能な軍人でございます。このたび公使として赴任してまいりましたが、外交のことなど何も存じません。今後は、国王陛下のお召しがなければ官邸にひきこもり、写経などいたしながら、この地の風月を楽しむつもりでございます。そのうち観音経一部を清写して、王后陛下に献上いたしたいと存じます」(角田)

 漢城に着任した三浦公使は、数日後には実際的な反日の気運にふれて、ひどく不機嫌になった。反日の元凶が閔妃にあることを知ると、その邪魔者を亡きものにしてしまったほうがいいと考えるようになった。(片野)

 10月7日;陰暦8月19日
 閔氏政権が訓練隊の解散と武装解除を通告。

 ロシアに接近した閔妃は、日本人将校が訓練した訓練隊を解散させた。また閔妃は、甲午改革のおりにあらためられた服制を旧に復させた。この服制の改変も、日本への公然たる挑戦になった。(片野)

 10月8日;陰暦8月20日
 閔妃が暗殺される。

 三浦はかねてから芸人として日本人を王宮に出入りさせ、閔妃の肖像画を描き、それを数十枚写させた。また小村室の娘が閔妃に寵愛され、よく出入りしていた。この夜、三浦は大院君を担ぎ出し、大勢の日本人に閔妃の肖像を持たせ、小村の娘に案内させた。坤寧殿で日本人たちを遮ろうとした李畊稙は、両腕を斬られ絶命した。閔妃は壁に掛っていた衣の中に逃げ込んだが、引きずり出された。小村の娘が顔を確認した。閔妃はしきりに命乞いしたが、日本人によってたかって斬殺された。死体は黒い長い肌着に包み、鹿山の下の樹林のなかで、石油を注いで燃やされた。残骸を幾片か拾い、即刻その焼跡に埋めた。(梅泉野録)
 国王の部屋に押し入った日本人数人は、王の制止をふり切って奥右手の王妃の部屋に乱入した。これを押し止めようとした宮内大臣李耕植は、拳銃で射たれ、さらに肩を斬りつけられ絶命した。乾清宮の神寧閣には、多数の宮女が身をよせ合って震えていた。暴徒たちは容貌、服装の美しい二人を斬殺した。さらに一人の髪をつかんで隣室の玉壷楼へ引き出し、ここで殺害した。女官と王太子を連れてきて首実検をさせた結果、最後の一人が閔妃であると確認された。(角田)
 乱入した日本人たちは、王と王子およびその側近を捕らえ、他の者たちは王后の寝室へと向かった。李耕稙が危険を知らせ、閔妃と宮女たちは逃げようとした。殺害犯たちが迫ると、李耕稙は閔妃を保護するため両腕を広げ王后の前に立ちふさがった。しかしこの行動が、殺害犯たちに彼の後ろの女性が閔妃であると教える結果になってしまった。李耕稙は日本人たちの刀で両腕を切断され倒れた。閔妃は庭に逃げたが結局つかまり、殺害犯たちは閔妃の胸を踏みつけながら何度も刀で刺した。そして念のため閔妃と容貌の似た宮女たちまで殺した。閔妃の亡骸は林の中で火葬にして、燃え残った灰の一部は土に埋め、残りは香遠池や近所の井戸に捨てられた。(崔文衡)

 10月10日;陰暦8月22日
 閔妃を庶人に降等。(高宗実録)

 詔書には「勢道政治で官職を独占し、人命を害し、政治を乱し、残虐さは広く知れ渡った。そのため民生は疲弊し、治安が悪化した」と非難の言葉が続いていた。日本人に強要された詔書だが、人びとは「それは実録である」と言った。(梅泉野録)

 10月11日;陰暦8月23日
 王太子の上訴で閔妃に嬪号を授与。(高宗実録)

 11月26日;陰暦10月10日
 閔妃を王后に復位。(高宗実録)

 12月1日;陰暦10月15日
 閔妃の死去を正式に発表。(高宗実録)


閔妃の偶像化をめぐる葛藤


 金完燮『親日派のための弁明A』扶桑社(2004)によると、閔妃を救国の殉教者と美化する試みは以前からあった。1995年にはミュージカル「明成皇后 The Last Empress」が上演され、大きな反響を呼んだ。教科書問題で反日感情が高まる中、2001年にはKBSドラマ「明成皇后」が大ヒットし、゙秀美が歌うサウンドトラックがバカ売れして、そのミュージックビデオがインターネットを通じて流布した。新聞は反日感情を煽る題材として閔妃を利用し、「乾清宮に響く明成皇后のアリア、日本人の目にも涙」(聯合ニュース 2007年11月8日付)、「日本人は明成皇后殺害事件を知らない」(朝鮮日報 2009年4月19日付)、「鳩山、閔妃の悲鳴が聞こえるか」(中央日報 2009年10月4日付)といった記事が相次いだ。

 2002年初版の小学校6年生用の教科書「初等社会探求6-1」では「明成皇后は朝鮮末期に開化を追求した代表的な人物でした」(p. 97)と、開明的な君主のイメージを植え付けようとしている。さらに驚いたことに、三国干渉は閔妃が超人的な外交力を発揮して実現したことになっている。

조선을 침략하는 데에 걸림돌이 된 청나라를 청-일 전쟁으로 물리친 일본은 승리한 대가로 중국의 요동 반도를 차지하였고, 조선에 대한 침략의 손길을 더욱 노골적으로 뻗기 시작했다. 이에 우리 나라는 서양 여러 나라의 힘을 이용하여 일본의 침략을 막고자 명성황후는 외교적 노력을 통해 러시아로 하여금 프랑스와 독일을 끌어들여 일본을 압박하게 하였다. 그 결과, 일본은 요동 반도를 청나라에 돌려주고 조선에대한 침략의 기세를 누그러뜨릴 수밖에 없었다 일본은 조선에서의 불리해진 정세를 되돌려놓기 위해 경복궁에 침입하여 명성황후를 시해하는 만행을 저질렀다. (p. 18)
朝鮮への侵略に障害となる清国を清・日戦争で破った日本は、勝利の代価として中国の遼東半島を占領し、朝鮮に対する侵略の手道をさらに露骨にのばし始めた。そこでわが国は西洋諸国の力を利用して日本の侵略を防ごうとし、明成皇后は外交的努力を通じてロシアにフランスとドイツを引き込ませ、日本を圧迫させた。その結果、日本は遼東半島を清国に返還し、朝鮮に対する侵略の勢いを弱めざるを得なかった。日本は朝鮮での不利な情勢を挽回しようと、景福宮に侵入して明成皇后を弑害する蛮行を犯した。

 ヤン・ビョンソル『嫌日流』(2006)では、閔妃は宮女に乱暴狼藉を働く日本人壮士を叱りつけ、「私がこの国の国母だ」と毅然として名乗り、刃にかかったことになっている。チョ・ソンゲ他『漫画韓国史』(조성계 만화터, 만화 한국사 18, 지경사, 2011)は小学生向けの学習漫画だが、三浦梧楼公司がなんと忍者部隊を招集し、「キツネ狩り」を命じたことになっている。宮廷に乱入した忍者が「お前が閔妃か?」と訊ねると、閔妃は「そうだ、私が朝鮮の国母だ!とっとと立ち去らぬか!」と叱りつけるが、その途端に刺し殺される。

 キム・ウニ『朝鮮王朝に最後に咲いた火花、明成皇后』(조선왕조에 핀 마지막 불꽃 - 명성황후, 글 김은희, 그림 박경권, 북스, 2011)は小学生向けのファンタジー小説だが、閔妃が西洋書を読破したり、アレンがピアノでジャズを弾いたり、考証はめちゃくちゃである。この物語では現代の小学生がタイムスリップして体験する都合上、日清戦争(1894)→壬午軍乱(1882)→甲申政変(1884)→三国干渉(1895)の順に事件が数日の間に次々と起こる。三浦梧楼公司はなぜか壬午軍乱の時にはすでに赴任しており、金玉均をそそのかして甲申政変を起こさせたことになっている。大韓帝国の樹立計画を聞いて激怒した三浦は、居室で日本刀を抜いて大暴れし、「獣には獣の方法があるのだ」と意味不明の台詞を吐く。閔妃はなぜかちょんまげを結ったサムライに斬られ、10代の若さで壮絶な最期を遂げる。

 こうした閔妃の偶像化に異議を申し立てているのは親日派とみなされる勢力で、代案教科書での扱いは韓国の歴史教科書を読むに示した通りである。金完燮『親日派のための弁明A』扶桑社(2004)は、権力と贅沢のために国庫を蕩尽した閔妃を非難し、「閔妃を排除したことは決して殺人ではなく、救国の快挙として評価されるべきなのだ」(p. 46)とまで主張した。崔基鎬『韓国堕落の2000年史』祥伝社黄金文庫(2005)は、「日本の愚かな女性作家が、閔妃に同情的な本を書いたことがあるが、閔妃は義父に背恩したうえに、民衆を塗炭の苦しみにあわせ、国費を浪費して国を滅ぼしたおぞましい女である。このような韓国史に対する無知が、かえって日韓関係を歪めてきたことを知るべきである」(p. 245)とした。「おろかな女性作家」は、角田房子を指すらしい。

 KBSドラマ放送後も閔妃の人気は盤石とは言えず、依然として議論の多い存在である。NAVER知識iNを見ても、閔妃擁護派と否定派の間で論争になる場合が多い。下のスレッドでは、質問者は「金玉均を虐殺し外勢を利用し勢道のために国民を苦しめた不正腐敗の元凶」と閔妃を罵倒している。これに賛同する者は、「自分たちを守ろうと外勢を引き込んだ(dlstjs3502)」「近親婚し腐敗をもたらし大院君を追放した国家破綻の主犯(kiss10102)」「無能な王妃で何の業績もない(syh602)」としている。一方で閔妃擁護派は「韓国人なら自分の母親が惨殺されたものとして怒らなければならない (duals01)」「自己犠牲的な愛国者だった(ysm05033)」「利己的でも腐敗の元凶でもなかった(sohee811)」「日帝が行跡を歪曲した(yani0099)」などと反論している。

明成皇后の真実..? [NAVER知識iN pik**** 2008.09.12 08:44]
http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=57371685&qb=66+867mEIOq3vOy5nO2YvA==&enc=utf8§ion=kin&rank=5&search_sort=0&spq=0

 下の質問者も閔妃否定派で、「悪口を言った村を全滅させ、財政を破綻させ外勢を引き込み亡国させた悪女をなぜ美化するのか」と疑問を呈している。これに対し「ドラマは閔妃の実像とは異なり、民衆の支持もなかった(jt93)」という賛成意見と、「国を守ろうと巧みな外交をして日本に虐殺された愛国者だった(jiwoon9011)」という反対意見がひとつずつ付いている。

閔妃が過大評価されたわけは??? [NAVER知識iN dog**** 2009.09.29 13:39]
http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=6&dirId=613&docId=63744803&qb=66+867mEIOyXrOyekA==&enc=utf8§ion=kin&rank=3&search_sort=0&spq=0

 下の質問者は過激な親日派で、慰安婦は自発的な売春婦だったとし、閔妃を「迷信で国庫を破綻させた気違い女」と罵っている。釣りとは思えず、ここまで親日的だとさすがに賛同者はおらず「虫みたいな猿畜生どもが国母を殺したのだから憤激しなければならない(muna1107)」「たとえ悪い母親でもチンピラに殺されたので憤激しなければならない (mistoryhill)」「失政をしたからと殺されていいわけがない(rlawlzxcv, victory7539, sageclear)」といった具合である。

日本を歴史的に叩き続ける理由は何ですか [NAVER知識iN dom**** 2011.02.23 16:476]
http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=126105390&qb=7J2867O47JeQ7IScIOydvO2VmOqzoA==&enc=utf8§ion=kin&rank=223&search_sort=0&spq=0

 下の質問者はネットで閔妃を非難する文をみて、本当にそんな悪女だったのかと素朴に質問している。これに対しては中立的な回答が多く、「民衆の支持はなかったが功罪相半ばする(soamza)」「それなりに努力したが日本人に殺されたため過度に美化された(thekhan_01)」「民衆の不満はむしろ高宗と日本に向けられた(gydms14105)」といった具合である。ただし「利己的な勢道政治に終始し、富国強兵のために何もしなかった(aledmftn)」と、やや否定的な回答もある。

明成皇后が美化されたというのは事実でしょうか?? [NAVER知識iN ID非公開 2011.08.30 19:47]
http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=136260949&qb=66qF7ISx7Zmp7ZuEIOuCreu5hA==&enc=utf8§ion=kin&rank=7&search_sort=0&spq=0

 下の質問者は閔妃嫌いで、利己的な権力の亡者だと扱き下ろし、むしろ興宣大院君こそが英雄だったと主張する。これに対する反応は真っ二つに分かれ、賛成派は「その通りだが興宣大院君の鎖国政策は間違いだった(tmzkdl257)」「日本に殺されたために美化されたに過ぎない(lsb2269)」とする。一方反対派は、「閔氏の権力独占も親露政策も閔妃の責任ではない(94ql1)」「国を守ろうと親露政策を採った(hello3430)」「意志堅固で有能なリーダーだった(yein1354)」と閔妃を擁護している。

なぜ明成皇后を偉人に推戴するんですか? [NAVER知識iN dnr**** 2011.12.18 14:49]
http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=141886350&qb=66+867mEIOyXrOyekA==&enc=utf8§ion=kin&rank=28&search_sort=0&spq=0

 下の質問者は、公金横領や殺人教唆で知られる閔妃がなぜ愛国者ということになるのかと疑問を呈している。ここでも回答は真っ二つに分かれ、閔妃嫌いの回答者は「縁者びいき、不正腐敗、革命妨害、国庫蕩尽をもたらした悪女(laitance)」「国を破綻させた亡国の元凶(ljw990216)」と罵っている。一方で閔妃擁護派は「高宗の方が問題で閔妃がしたのは援護射撃程度だった(mac250)」「開化と富国強兵をめざした愛国者だった(whdejrdl55)」「愛国者ではないが売国奴でもない(cory1010)」などとしている。

明成皇后が...愛国者だったんですか? 疑問ですが... [NAVER知識iN jk8**** 2013.02.04 09:21]
http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=166637272&qb=66qF7ISx7Zmp7ZuE&enc=utf8§ion=kin&rank=24&search_sort=3&spq=1

 下の質問者は、周囲の友人はみな閔妃を称賛しているが、悪女と考える自分がおかしいのかと質問している。これに対しても賛成・反対の回答がひとつずつ付いており、ljw990216は「不正腐敗と外国侵略を呼んだ売国奴だった」とする一方、mac250は「亡国の主犯は高宗で閔妃の責任ではない」としている。

明成皇后に対して [NAVER知識iN ID非公開 2013.02.14 01:22]
http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=167234555&qb=66qF7ISx7Zmp7ZuE&enc=utf8§ion=kin&rank=20&search_sort=3&spq=1

 下の質問者はこれまた閔妃嫌いで、閔妃を擁護するテレビ番組を見て憤慨し、金玉均を暗殺し大院君も暗殺しようとした悪女だったのに、納得が行かないとしている。これに対する回答は質問者の見方に否定的で、「閔妃の行跡は日本人によって歪曲されており、とにかく日本人を憎むのが正しい」「歴史上の人物の評価はそう単純なものではない」(いずれもID非公開)というものである。

閔妃に対して...なぜそんなにも追従するんですか? 売国奴じゃないか.. [NAVER知識iN jk8**** 2013.04.29 01:48]
http://kin.naver.com/qna/detail.nhn?d1id=11&dirId=111001&docId=171675832&qb=66+867mE&enc=utf8§ion=kin&rank=1&search_sort=3&spq=1

 要するに日本に暗殺された女性という点では格好の反日アイコンなのだが、浪費癖や残虐さなど悪女のイメージがあまりにも強いため、一部の民族主義者が必死に美化しようとしてもすんなりとは行かないということらしい。


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