このページでは、19世紀までの日朝中の互いの国への見聞記録から、経済・社会・風俗に関する評価をまとめた。ただしこちとらプロの歴史屋ではないので、漢文も古文書も読めない。とりあえず読んでいないものも含めて、どんな史料があるかまとめておく。
中国は東アジア世界で最も早く文明化した国だったから、日本学・朝鮮学の創始者は当然中国人だった。特に『三国志』魏書東夷伝倭人条は、最古の日本見聞記であるのはもちろん、日本の歴史時代の始まりを告げる文献記録でもある。その後の正史では、『隋書』『宋史』で新たな見聞情報が加えられた。明代に倭寇の被害が深刻になると、中国における日本研究が盛んになった。このうち日本に来たのは、『日本一鑑』(1580頃)の鄭舜功だけらしい。清代に入ると、陳倫炯『海国聞見録』(1744)と汪鵬『袖海編』(1765)が長崎の唐人屋敷に滞在し見聞記を残した。1854年のペリー来航に通訳として同行した羅森も『日本日記』を残している。明治維新後は多くの清国人が来日したが、見聞記としては黄遵憲『日本雑事詩』(1879)が特に有名である。
中国正史の朝鮮情報では、『三国志魏書』『周書』『隋書』『旧唐書』に社会・風俗に関する記述が多い。徐兢『高麗図経』(1124)には、高麗の首都・開城に関する見聞が豊富に含まれている。明代には文禄・慶長の役(1593〜97)への派兵に伴う著作がいくつかあるらしい。また明・清代には朝鮮王が交代するたびに冊封使が派遣されたが、紀行文めいたものを残したかは知らない。
朝鮮人による中国見聞記では、崔溥『漂海録』(1488)が現存する最古のものらしい。清朝廷に派遣された燕行使の記録は多く残されており、朴趾源『熱河日記』(1781)は特に有名である。
15世紀以後は朝鮮人による日本見聞記も充実しており、多くは通信使の帰朝報告である。宋希環『日本行録』(1420)、姜『看羊録』(1597)、申維翰『海游録』(1719)といった独立した著作以外にも、朝鮮王朝実録に帰朝報告が収録されている場合もある。明治維新後は、1881年の紳士遊覧団の日本見聞記があるらしい。
日本人による朝鮮見聞記としては、文禄・慶長の役の時の日記・書簡にわずかに紀行文めいた記述が見られる。玄蘇・玄方ら外交僧や対馬藩士が残した記録もあるらしいが、よく知らない。1876年の江華島条約締結後は多くの日本人が朝鮮を訪れ、見聞記を残した。
日本人による中国見聞記としては、円仁『入唐求法巡礼行記』(838〜847)が最古と思われる。1404年に足利義満が勘合貿易を始めると、複数の外交僧が入明記を残した。文禄の役の時は内藤如安が北京まで行ったが(1594年)、どんな記録を残したかは知らない。鎖国中も漂流民の中国見聞録が残っており、特に国田兵右衛門らの『韃靼漂流記』(1646)は有名である。幕末には、1862年の上海派遣団の記録がある。日清修好条規は1871年に締結され、人の往来が盛んになった。
中国→日本 | 中国→朝鮮 | 朝鮮→日本 | 朝鮮→中国 | 日本→朝鮮 | 日本→中国 | |
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三国志 | 三国志 | 日本行録 | 漂海録 | 吉見家朝鮮陣日記 | 入唐求法巡礼行記 | |
隋書 | 周書 | 世宗実録 | 熱河日記 | 朝鮮時事 | 韃靼漂流記 | |
宋史 | 隋書 | 海東諸国紀 | 遊清五録 | |||
袖海編 | 旧唐書 | 看羊録 | 上海紀行 | |||
日本日記 | 高麗図経 | 海游録 | ||||
日本雑事詩 | 日東壮遊歌 |
井上秀雄他訳注『東アジア民族史1』東洋文庫264,平凡社, 1974.
『三国志』は西晋の陳寿(233〜297)が編纂し、290年頃成立した。これに含まれる魏書東夷伝倭人条は、日本に関する詳細な文献記録としては最古で、日本の歴史時代はこの魏志倭人伝に始まると言っても過言ではない。ただしその後は文献記録が途絶え、『日本書紀』の記述が信頼できる6〜7世紀まで、日本は先史時代に戻ってしまったとも言える。いずれにせよ、この邪馬台国訪問記を書いた無名の中国人こそ、最初の日本学者と言えよう。
朝鮮に関する文献記録としては『史記』朝鮮伝やそれ以前の断片的な記録があるが、社会・習俗に関する記述は『三国志』が最古と思われる。おそらく魏の朝廷か遼東の公孫氏が周辺の蛮夷に関心を抱き、楽浪郡・帯方郡がせっせと調べて報告書を提出したのだろう。この失われた報告書に依拠して、魏略や三国志が書かれたのではないかと妄想される。
夫餘在長城之北、去玄菟千里。南與高句麗、東與挹婁、西與鮮卑接、北有弱水。方可二千里、戸八萬。 夫餘は、長城の北方にあって、玄菟〔郡の郡治〕から〔夫餘の王都まで〕千里はなれている。そして南は高句麗と、東は挹婁と、西は鮮卑と〔境を〕接している。北には弱水がある。国の広さはほぼ二千里四方で、人家は八万戸ばかりである。(p. 49) 其民土著。有宮室倉庫牢獄、多山陵廣澤、於東夷之域最平敞。土地宜五穀、不生五果。其人麤大、性彊勇謹厚、不寇鈔。 人々は、定住生活をしている。宮室や倉庫、牢獄があり、山や丘や広い沢が多く、東夷〔諸民族の居住〕地域では最も平坦な所である。土地は五穀を育てるのに適しているが、五果はできない。夫餘の人々は、体格が非常に大きく、性格は勇敢で、謹み深く親切であり、〔他国へは〕侵略しない。(pp. 49-50) 國有君王。皆以六畜名官、有馬加牛加豬加狗加大使大使者使者。邑落有豪民、名下戸皆爲奴僕。諸加別主四出道、大者主數千家、小者數百家。 国には君王がいる。官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加・牛加・豬加・狗加・大使・大使者・使者がある。村には豪民がいて、下戸は奴僕とよばれている。諸加はそれぞれ四出道を司り、勢力の大きな者は数千家、勢力の小さな者は数百家を支配している。(p. 50) 食飮皆用俎豆。會同拜爵洗爵、揖讓升降。以殷正月祭天、國中大會、連日飮食歌舞。名曰迎鼓。於是時斷刑獄、解囚徒。 飲食にみな俎豆を用いている。宴会で、酒杯を受けたり酒杯を返したりするときも、その立ち居ふるまいは謙虚である。殷暦の正月には、天を祭り、国中で大いに会合を開き、連日飲食し歌舞をする。この〔祭〕を名づけて迎鼓という。この時には刑獄を行なわず、囚人を解放する。(p. 51) 在國衣尚白、白布大袂袍袴、履革鞜。出國則尚繡錦罽。大人加狐狸狖白K貂之裘、以金銀飾帽。譯人傳辭、皆跪、手據地竊語。 国内では、衣服〔の色彩〕に白を尊重し、白布の大きな袂の袍や袴〔を着て〕、革鞜を履く。国外に出るときは、絹織物・繡・錦織・毛織物などを重視する。大人は、その上に狐・狸・狖(黒猿)・白貂・K貂などの皮をまとい、金銀で帽子を飾っている。通訳が言葉を伝える時、みな跪いて両手を地につけ、小声で話をする。(pp. 51-52) 用刑嚴急、殺人者死、沒其家人爲奴婢。竊盜一責十二。男女淫婦人妒、皆殺之。尤憎妒已殺、尸之國南山上、至腐爛。女家欲得、輸牛馬乃與之。 刑罰は厳しく実行し、人を殺せば、殺した当人を死刑にし、その家族は〔国が〕没収して奴婢にする。盗みには、盗んだものの十二倍を償わせる。男女が私通したり、婦人の妬んだりすれば、すべて死刑にされる。妬みによる罪をもっとも憎んでおり、〔その罪により〕死刑にされると、死骸は国の南の山上にさらされ、腐爛するまで放置される。〔死骸が腐爛したのち〕その婦人の家人が〔その死骸を〕ひき取りたいと望んで牛馬を連れていけば、死骸を与える。(p. 52) 兄死妻嫂。與匈奴同俗。 兄が死んだ場合、兄嫁を〔弟が〕妻とする。〔これは〕匈奴と同じ風俗である。(p. 52) 其國善養牲、出名馬赤玉貂狖美珠。珠大者如酸棗。 この国では、犠の牛を多く養い、名馬と赤玉・貂・狖・美珠を産出する。珠の大きなものは酸棗(やまなつめ)ほどもある。(p. 52) 以弓矢刀矛爲兵。家家自有鎧仗。 弓矢や刀・矛を兵器としている。家々には、自分たちの鎧や刀剣類を所蔵している。(p. 52) 國之耆老自説、「古之亡人。作城柵皆員、有似牢獄。行道晝夜無老幼皆歌、通日聲不絶。」 国の老人達は、みずから言う。「〔私たちは〕昔この地へ逃れてきたものです。城柵を作るのに、みな員くつくり、牢獄に似たところがあります。〔この城柵を造るため〕道路を行きかう時、昼夜の別なく、老人も幼児もみな歌を唄うので、一日中歌声の絶えることがありません。」(p. 52) 有軍事亦祭天、殺牛觀蹄以占吉凶。蹄解者爲凶、合者爲吉。有敵諸加自戰、下戸倶擔糧飮食之。 戦争をはじめるときも、天を祭り、牛を殺し〔その〕蹄を見て、〔開戦の〕吉凶を占う。蹄が開いていれば凶、蹄が合わさっていれば吉である。戦争になれば、諸加はすすんで戦う。下戸は食糧を担いで〔諸加に従い、諸加は下戸の荷う〕食糧を飲食する。(pp. 52-53) 其死夏月皆用冰、殺人徇葬。多者百數。厚葬、有槨無棺。 〔有力〕者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には〔殉葬者が〕数百人〔に達する。死者を〕厚葬し、〔遺体を納める〕棺はあるが槨はない。(p. 53) |
高句麗在遼東之東千里、南與朝鮮・濊貊, 東與沃沮、北與夫餘接、都於丸都之下。方可二千里、戸三萬。多大山深谷、無原澤。隨山谷以爲居、食澗水。無良田、雖力佃作、不足以實口腹。其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、祭鬼神。又祀靈星社稷。其人性凶急、喜寇鈔。 高句麗〔の王都〕は、遼東〔郡の治所(遼陽)〕の東千里の所にあって、〔その領域は〕南は朝鮮・濊貊と、東は沃沮と、北は夫餘と境界を接し、丸都の下に都している。〔国の広さは〕ほぼ二千里四方で、戸数は三万である。大山や深谷が多く、原野や沼沢はない。人々は山や谷に住み、澗水を飲んで〔生活して〕いる。良い耕地がないため、耕作に励んでも生活を支えるに充分でない。〔高句麗の〕人々の習俗では、食物を節約し、宮殿を作るのが好きで、住む所の両側に大きな建物を建てて、そこの鬼神を祀っている。また霊星と社稷(土地・穀物の神)を祀っている。人々の性格は凶悪性急で、さかんに他国に侵攻し、財物を盗む。(p. 113) 其國有王、其官有相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台・丞・使者・皁衣・先人。尊卑各有等級。 高句麗には王がおり、その官職には相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台・丞・使者・皁衣・先人などがある。尊卑の身分にはそれぞれ等級がある。(p. 114) 東夷舊語、以爲夫餘別種。言語諸事、多與夫餘同、其性氣衣服有異。 東夷の諸族では昔から、〔高句麗は〕夫餘の別種であるといっている。言語や習俗・習慣は多くが夫餘と同じであるが、ただ性格・気質や衣服には異なるところがある。(p. 114) 本有五族。有涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部、本涓奴部爲王、稍微弱、今桂婁部代之。 〔高句麗には〕古くから五族があった。涓奴部・絶奴部・順奴部・灌奴部・桂婁部であり、もとは涓奴部から王をだしていたが、しだいに衰え弱まり、今では桂婁部が〔涓奴部にとって〕代っている。(p. 114) 漢時賜鼓吹技人。常從玄菟郡。受朝服衣幘、高句麗令主其名籍。後稍驕恣、不復詣郡。于東界築小城、置朝服衣幘其中、歳時來取之。今胡猶名此城爲幘溝漊。溝漊者、句麗名城也。 〔前〕漢の時代には、鼓や笛の芸人を賜わったこともあった。常に玄菟郡に従属していた。漢王朝から礼服や平服の類を与えられ、高句麗県の県令が、〔高句麗人たちの〕名簿を作成し保管していた。そののち、〔高句麗は〕しだいに驕りたかぶってわがままになり、ふたたび〔玄菟〕郡に来なくなった。東方の境界に小城を築き、礼服・平服の類をその中に置いておき、毎年の季節ごとにやってきて、それらを持って行った。今でも高句麗人たちは、この城を幘溝婁と名づけている。溝婁とは、高句麗で城という言葉である。(p. 114) 其置官、有對盧則不置沛者、有沛者則不置對盧。王之宗族、其大加皆稱古雛加。涓奴部本國主、今雖不爲王、適統代人、得稱古雛加。亦得立宗廟、祠靈星・社稷。絶奴部世與王婚、加古雛之號。諸大加亦自置使者・皁衣・先人。名皆達於王。如卿大夫之家臣。會同坐起、不得與王家使者・皁衣・先人同列。 高句麗では官職を任命する時、対盧を置く時は沛者を置かず、沛者を置くばあいには対盧を置かない。王の一族では、大加がみな古雛加を称している。涓奴部はもと国王を出したことから、今は王を出せなくなっていても、その正統の部長は古雛加を称することができ、また宗廟・霊星・社稷を祀ることができる。絶奴部は〔一族の女性が〕代々王と結婚するので、古雛〔加〕の称号を与えられる。大加もまた、みずから使者・皁衣・先人〔の官職〕を置いている。〔それら官職についた人々の〕名は、みな王に報告されている。〔このことは丁度〕中国における卿・大夫の家臣の〔場合〕と同じようである。〔しかし、これらの人たちは〕集会の坐席の順位では王家の使者・皁衣・先人と同列には扱われない。(p. 115) 其國中大家不佃作。坐食者萬餘口。下戸遠擔米糧魚鹽供給之。 高句麗の支配階級は耕作しない。〔したがって〕徒食するだけの者が一万余人もいる。下戸が遠くから五穀・魚・塩などを担い運んできて、〔主家に〕供給する。(p. 115) 其民喜歌舞、國中邑落、暮夜男女羣聚、相就歌戲。無大倉庫、家家自有小倉、名之爲桴京。其人屑C自喜、善藏釀。跪拜申一脚。與夫餘異。行歩皆走。 高句麗の人々は歌舞することを好み、いずこの村も、夜になると男女が群がり聚まり、相ともに歌舞する。大きな倉庫はなく、家々がそれぞれ小さな倉をもっていて、これを桴京といっている。〔また〕人々は清潔で、自分たちで〔酒を〕醸造し、所蔵している〔家が〕多い。跪拝〔の礼を行なうに〕は一方の脚を伸ばす。〔これは〕夫餘とは異なっている。行歩〔の礼〕にはみな小走りする。(p. 115) 以十月祭天。國中大會。名曰東盟。其公會、衣服皆錦繡金銀以自飾。大加主簿頭著幘。如幘而無餘。其小加著折風。形如弁。其國東有大穴、名隧穴。十月國中大會、迎隧神還于國東上祭之。置木隧于神坐。無牢獄、有罪諸加評議、便殺之、沒入妻子爲奴婢。 十月に天を祭る。国中で大集会をする。これを東盟という。その公式の衣服は、みな錦織や繡のある絹織物で、金銀で飾りたてる。大加や主簿は頭に幘をつける。それは幘のようであるが後頭部がない。小加たちは折風をつける。その形は弁〔冠〕のようである。国の東部に大きな洞窟があり、隧穴といっている。十月には国中から大勢の人々が集まり、隧〔穴の〕神を迎え、国の東部の河のほとりに還って、この神を祭る。神のよりしろには、木の隧を用いている。この国には牢獄がなく、罪を犯す者があれば、諸加が集まって評議し、罪があれば即座に殺し、その妻子は〔国が〕没収して奴婢にする。(p. 116) 其俗作婚姻、言語已定、女家作小屋於大屋後、名壻屋。壻暮至女家戸外、自名跪拜。乞得就女宿。如是者再三、女父母乃聽使就小屋中宿。傍頓錢帛。至生子已長大、乃將婦歸家。 高句麗の習俗では、結婚する時、〔両家の〕話し合いがつくと、娘の家では母屋の裏に小屋を作る。これを壻屋とよんでいる。壻は日暮になると嫁の家に行き、戸外で自分の名を名のる。そして跪拝し、嫁の宿に入ることを許してくれるよう願うのである。このようなことを二度、三度すると、娘の両親は壻の願いを聴きいれ、〔娘のいる〕小屋の中に宿ることを許すのである。〔この時〕傍に銭や絹を整えておく。〔夫婦に〕子が生まれ、その子が成人すると、〔壻は〕妻をつれて家に帰る。(pp. 116-117) 其俗淫。男女已嫁娶、便稍作送終之衣。厚葬、金銀財幣、盡於送死。積石爲封、列種松柏。 〔高句麗の男女の〕風俗は乱れている。男女は結婚すると、ただちに少しずつ葬儀のときの衣服を作りはじめる。〔遺体は〕手厚く葬り、金銀・財宝は、死者を送るのに費やしてしまう。〔遺体の上に〕石を積んで土を盛り、松と柏(このてがしわ)を列べて植える。(p. 117) 其馬皆小、便登山。國人有氣力、習戰鬭、沃沮東濊皆屬焉。 高句麗の馬はみな小さく、登山に便利である。国人は気力があって戦闘が上手で、沃沮・東濊はみな〔高句麗に〕臣属している。(p. 117) |
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、濱大海而居。其地形東北狹、西南長可千里。北與挹婁夫餘、南與濊貊接。 戸五千、無大君王。世世邑落、各有長帥。其言語與句麗大同、時時小異。 東沃沮は、高句麗の蓋馬大山の東にあって、大海に沿って住んでいる。その地形は、東北が狭く、西南は長くて千里ばかりである。北は挹婁と夫餘とに〔境を〕接していて、南は濊貊と〔境を〕接している。戸数は五千戸で、〔全体を統治する〕大君王はいない。代々、村落にはそれぞれ長帥(首長)がいて〔村人を指導している〕。その言語はだいたい〔高〕句麗と同じであるが、時々小さな相違がある。(p. 85) 其土地肥美、背山向海、宜五穀善田種。人性質直彊勇。少牛馬、便持矛歩戰。食飮居處衣服禮節、有似句麗。魏略曰。其嫁娶之法、女年十歳已相設許、壻家迎之、長養以爲婦、至成人、更還女家。女家責錢。錢畢、乃復還壻。 東沃沮の土地は肥沃で、山を背にし海に向かった地形であり、五穀の〔生育に〕適し、また耕作や種まきに適している。人々の性格は質素・正直であり、勇敢である。矛を持って歩戦を巧みに行う。飲食・住居・衣服・礼節などは、〔高〕句麗に似ているところがある。『魏略』は、次のように伝えている。「〔東沃沮の人々の〕結婚(嫁とり)のしきたりは、女が十歳になり〔婚約者ができると〕、壻の家が女を迎えて、長年の間養育して、妻とする。成人に達すると、〔女は〕ふたたび自分の家に還る。そして女の家が銭を〔壻の家に〕納める。銭を納めおわると、女はふたたび壻〔のもと〕に還るのである」(pp. 87-88) 其葬作大木槨。長十餘丈、開一頭作戸。新死者皆假埋之、才使覆形。皮肉盡、乃取骨置槨中。擧家皆共一槨。刻木如生形隨死者爲數。又有瓦䥶、置米其中、編縣之於槨戸邊。 東沃沮では、死体を埋葬するには木で槨をつくる。それは長さ十余丈で、一方の端を開いて戸〔入り口〕をつくる。死者がでると、はじめ一時的に土中に埋め、わずかに土をのせて〔死骸〕を覆う。そして皮や肉がまったく〔朽ち〕はてると、〔その〕骨を取り出して槨の中に納める。一家の人々がみな一つの槨を共用している。木を刻んで生きていたころの姿にし、死者の数だけつくる。また瓦製の䥶があり、米をその中に入れて、これを槨の戸の辺に結びかけるのである。(p. 88) |
濊南與辰韓、北與高句麗沃沮接、東窮大海。今朝鮮之東皆其地也。戸二萬。 濊は、南は辰韓と、北は高句麗と沃沮とに〔境界を〕接していて、東は大海に臨んでいる。いまの朝鮮の東が、みな濊の地である。濊の戸数は二万戸である。(p. 91) 無大君長。自漢已來、其官有侯邑君三老、統主下戸。其耆老舊自謂、與句麗同種。其人性愿慤、少嗜欲。有廉恥、不請(句麗)匄。言語法俗大抵與句麗同。衣服有異。男女衣皆著曲領、男子繋銀花。廣數寸以爲飾。 〔濊には〕大君長はいない。〔前〕漢時代以来、官〔職名〕には侯・邑君・三老があって、下戸を統治している。濊族の老人たちは、古くより、自分たち〔の伝承〕として「高句麗と同種である」と言っている。人々の性格は、慎み深く素直で、欲深いところが少ない。恥を知る心があり、〔困難な時でも高〕句麗に〔援助を〕請うようなことはしない。言語やおきてや習俗は、だいたい〔高〕句麗と同じである。〔しかし〕衣服には異なるところがある。男女の衣服は、みな円い襟をつけていて、男子の場合は〔襟の両側に〕銀花を繋いでいる。〔銀花の〕大きさは数寸で、飾にしている。(p. 97) 其俗重山川、山川各有部分、不得妄相渉入。同姓不婚。多忌諱、疾病死亡輒損棄舊宅、更作新居。有麻布、蠶桑作緜。曉候星宿、豫知年歳豐約。不以珠玉爲寶。常用十月節祭天、晝夜飮酒歌舞。名之爲舞天。又祭虎以爲神。其邑落相侵犯、輒相罰責生口牛馬。名之爲責禍。殺人者償死。少寇盜。作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮。土地饒文豹、又出果下馬。漢桓時獻之。 濊の習俗では、山や川を尊重していて、山や川には〔特別な〕個所があり、妄りに立ち入ることができない。同姓の人々の間では結婚しない。忌みさけることが多く、病気になったり、死者が出たりすると、ただちに旧宅を捨てて、更めて新居を作るのである。麻布〔を織り〕、桑を植えて蚕を飼い、緜を作っている。星宿の動きをうらない暁り、予めその年が豊作であるか凶作であるかを判断する。珠玉を宝物とはしない。常に十月を節として天を祭り、昼も夜も飲食し歌舞する。これを名付けて舞天といっている。また虎を祭り、虎を神として〔崇めている〕。ある村が他の村を侵略したときは、ただちに罰として〔侵略した村の〕捕虜と牛馬を取り上げる。これを責禍と称している。人を殺した場合は、死をもって罪を償う。盗みをする者が少ない。矛は三丈の長さに作り、あるときには数人でこの矛を持ち、巧みに歩戦をする。楽浪の檀弓〔として有名な弓〕はこの地から産出するのである。海からは班魚の皮を産出する。産物は豊かで、斑紋のある豹や果下馬を産出する。〔後〕漢の桓帝の時代(一四七−一六八)に、濊が果下馬などを献上したことがあった。(pp. 98-99) |
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接。方可四千里。有三種、一曰馬韓、二曰辰韓、三曰弁韓、辰韓者、古之辰國也。 韓は帯方〔郡〕の南にあって、東西は海をもって境界とし、南は倭と〔境界を〕接している。〔韓の〕広さは四千里四方ほどである。〔韓には〕三種あり、一を馬韓、二を辰韓、三を弁韓といい、辰韓は昔の辰国である。(p. 196) 馬韓在西、其民土著、種植、知蠶桑、作綿布。各有長帥、大者自名爲臣智、其次爲邑借。散在山海間、無城郭。 馬韓は〔三韓の内で〕西にあって、人々は定住した生活を送り、〔五穀を〕植え蚕を飼い桑を栽培することを知っていて、綿布を作っている。それぞれ〔の国には〕長帥(権力者)がいて、権力の大きな者はみずから臣智といい、それに次ぐ者は邑借という。〔国々は〕山の間や海上に散在していて、城郭は築いていない。(p. 196) 其俗少綱紀、國邑雖有主帥、邑落雜居、不能善相制御。無跪拜之禮。居處作草屋土室、形如冢。其戸在上。擧家共在中。無長幼男女之別。其葬有槨無棺。不知乘牛馬。牛馬盡於送死。以瓔珠爲財寶、或以綴衣爲飾、或以縣頸垂耳。不以金銀錦繡爲珍。其人性彊勇、魁頭露紒。如Q兵。衣布袍、足履革蹻蹋。 〔馬〕韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥(首長)がいるけれども、村落が〔整備されず〕入り乱れていたため、よく統治することができない。〔人々の間には〕跪拝の礼がない。住居としては草屋根の土室(穴)を作り、〔その外〕形は塚のようである。その戸〔口〕は屋根のところにあって、一家の者すべてが〔土室の〕中で生活している。家族の間では、長幼・男女で区別されるところがない。〔人の屍を〕葬るには、〔遺体を納める〕棺はあるが〔棺を納める〕槨はない。また牛馬に乗ることを知らない。牛馬は死体を運送することのみに使用している。また珠玉を財宝として珍重し、或いは衣服に綴りつけて飾りとし、或いは頸にかけたり耳に垂らしたりしている。金や銀また錦織や繡などは珍重しない。〔馬韓の〕人々の性格は強くて勇ましく、頭髪を分けてぐるぐる巻きにし、髪を露わにしている。〔その姿は〕あたかも自然のままの人間のようである。兵は布製の大きな袖の衣服を着、足には革〔の草履〕を履いている。(pp. 204-205) 其國中有所爲及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木鍤之、通日嚾呼作力、不以爲痛。旣以勸作、且以爲健。 国中をあげて行事を行なう時、または国が城郭を築かせる時には、少年で勇健な者たちは皆、自分の背の皮に穴をあけて太い縄を貫し通し、そのうえ一丈ばかりの木をその縄に挿み、一日中大きな声をあげて力づけ、〔これを〕苦痛とはしない。かくて〔村人たちがこの〕作業を励まし、そのうえで〔村人たちは少年たちを一人前の〕健児と認めるのである。(p. 205) 常以五月下種訖、祭鬼神。羣聚歌舞、飮酒晝夜無休。其舞、數十人倶起相隨、踏地低昂、手足相應、節奏有似鐸舞。十月農功畢、亦復如之。 毎年五月には種を播きおわり、鬼神を祭る。人々は群がり集まって歌舞し飲食する。〔それは〕昼夜を通じて休まず行なわれ、その舞は、数十人が一緒に立ちあがって調子をあわせ、地を踏むのに、足を低くまたは高く挙げ、手と足とは同じような調子で動き、そのリズムは中国の鐸舞に似たところがある。十月に農耕が終われば、またふたたび同じようにする。(p. 206) 信鬼神、國邑各立一人主祭天神。名之天君。又諸國各有別邑、名之爲蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。諸亡逃至其中、皆不還之。好作賊。其立蘇塗之義、有似浮屠、而所行善惡有異。 〔人々は〕鬼神を信仰していて、各国の都にはそれぞれ一人を立てて天神を祭らせている。この〔人物〕を名づけて天君といっている。また諸国には、それぞれ特別な地域があり、蘇塗とよばれている。〔そこでは〕大木を立てて、その木に鈴や鼓をかけて、鬼神に仕えている。さまざまな逃亡者がその地域に逃げ込めば、〔逃亡者を〕けっして外部に追い出したりはしない。〔このような風習があるので、この地方の人々は〕しばしば〔秩序に反し〕害になることを行う。馬韓で蘇塗を作る意味は、仏教に似たところがあるが、行なっていることの善悪は異なるところがある。(p. 206) 其北方近郡諸國差曉禮俗、其遠處直如囚徒奴婢相聚。無他珍寶、禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。又出細尾雞、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。 〔馬韓の〕北部で〔帯方〕郡に近い諸国は少し礼俗をわきまえているが、遠い地域では全く囚人や奴婢の集団のようであり〔礼俗を備えていない。この馬韓には〕珍宝の類はなく、動物や草木はだいたい中国と同じである。大きな栗を産出し、〔その〕大きさは梨のようである。また細尾鶏がおり、その尾の長さはみな五尺余もある。男子には、ときどき文身(いれずみ)している者がいる。(pp. 206-207) 土地肥美、宜種五穀及稻。曉蠶桑、作縑布、乘駕牛馬。嫁娶禮俗、男女有別。以大鳥羽送死、其意欲使死者飛揚。魏略曰。其國作屋、累木爲之、有似牢獄也。國出鐵。韓濊倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢。又以供給二郡。 〔弁辰の〕土地は肥沃で、五穀や稲を植え〔育てるのに〕適している。蚕を飼い桑を植えることを知っていて、縑布を作り、牛馬に乗る。嫁を娶る時の作法には、男女で区別があり、〔それぞれ異なる礼儀に従っている〕。大鳥の羽根を用いて死者を送るが、それは死者を〔天上に〕飛揚させたいからである。『魏略』は次のように伝えている。「〔弁辰の〕国々では、屋根を作るのに横に木を積み重ねて作っていて、あたかも牢獄のようである」。〔弁辰の〕国々から鉄を産出する。韓〔族〕・濊〔族〕・倭〔族〕が、みな鉄を取っている。どの市場の売買でもみな鉄を用いていて、〔中国で〕銭を用いているのと同じである。そしてまた〔鉄を楽浪・帯方〕二郡にも供給している。(p. 272) 俗喜歌舞飮酒。有瑟、其形似筑。彈之亦有音曲。兒生、便以石厭其頭。欲其褊。今辰韓人皆褊頭。男女近倭、亦文身。便歩戰、兵仗與馬韓同。其俗、行者相逢、皆住讓路。 〔弁辰の〕習俗は、歌舞し飲食することを喜ぶ。瑟(大琴)があって、その形は筑に似ている。この瑟を弾く、また音曲がある。子供が生まれると、石でもって子供の頭を圧す。〔それは〕頭を狭くしたいがためである。そのため今の辰韓人はみな狭い頭をしている。男女〔の習俗は〕ともに倭に近く、また〔男女ともに〕文身(入墨)している。〔戦闘では〕、歩戦が巧みで、〔用いている〕武器は馬韓と同じである。人々の礼儀では、往来を行く者が出会った場合、すすんで相手に路を譲る。(p. 273) 弁辰與辰韓雜居。亦有城郭、衣服居處與辰韓同。言語法俗相似。祠祭鬼神有異。施竈皆在戸西。其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王。其人形皆大、衣服屑C、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。 弁辰は、辰韓と入り雑って生活している。また〔弁辰には〕城郭があり、衣服や住居などは辰韓と同じである。言語や法俗も共に似ている。鬼神を祭る仕方には、異なっているところがある。竈をそなえているが、〔それは〕みな戸の西側につくっている。〔弁辰の〕瀆盧國は倭と〔境界を〕接している。十二国にはそれぞれ王がいる。〔弁辰の〕人々の体格は大きく、衣服は清潔で、髪は長く伸ばしている。そしてまた広幅の細布を織っている。〔弁辰の〕規律は特に厳格である。(p. 273) |
倭人在帯方東南大海之中、依山島為國邑。舊百余國。漢時有朝見者、今使譯所通三十國。 倭の人々は、帯方〔郡〕の東南にあたる大海の中の〔島々〕に住んでいて、山や島によって国や村をつくっている。もとは百余の国々に分かれていて、漢の時代には朝見して来る国もあった。今、通訳をつれた使者が〔中国や帯方郡に〕通って来る所は、三十国である。(p. 290) 男子無大小皆黥面文身。自古以來其使詣中國皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽斷髪文身以避蛟龍之害。今倭水人好沒捕魚蛤文身亦以厭大魚水禽後以飾。諸國文身各異或左或右或大或小尊卑有差。 〔倭の〕男子は大人・小人の〔身分の〕別なく、みな顔や身体に入墨をしている。古くから、倭の使者は中国に来ると、みなみずから太夫と称している。〔その昔〕夏〔王朝の第六代の皇〕帝少康の子が会稽(浙江省紹興市地方)に封ぜられた時、断髪し入墨して蛟竜(みずち)の害をさけ〔身体を守っ〕た。いま倭の水人が水中にもぐって魚や蛤を捕えるのに入墨するのは、〔少康の子と同じように〕大魚や水鳥の害を防ぎ〔身体を守る〕ためである。しかし今ではそれが次第に飾りにもなっている。〔倭の〕諸国ではそれぞれに入墨の仕方も異なり、或いは左に、或いは右に、或いは大きくし、或いは小さくし、また尊卑〔の身分〕によって〔入墨に〕違いがある。(p. 293) 其風俗不淫。男子皆露紒以木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫。婦人被髪屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之。種禾稻紵麻。蠶桑緝績。出細紵縑緜。其地無牛馬虎豹羊鵲。兵用矛楯木弓。木弓短下長上。竹箭或鐵鏃或骨鏃。所有無與擔耳朱崖同。 倭人の風俗は規律正しく、男子はみな冠をかぶらず木綿で頭を巻いている。その衣服は横幅の広い布で、ただ結び束ねているだけで、ほとんど縫っていない。婦人は〔夷狄風に〕髪を下げたり、髷を結ったりしており、衣服は単衣のように作り、衣の中央に穴をあけてそこに頭を貫して着ている。人々は、稲や麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸を絹績ぎ、細麻や縑や緜を産出する。倭の地には牛・馬・豹・羊・鵲などはいない。兵器には矛・楯・木弓を使用し、その木弓は、下部が短く上部が長くなっている。竹の矢〔を使用し〕、その鏃には、鉄の鏃あるいは骨の鏃を用いる。〔その産物や風俗・習俗の〕有無の状況は、擔耳(広東省海南島)や朱崖(広東省海南島)と同じである。(p. 294) 倭地温暖冬夏食生菜。皆徒跣。有屋室父母兄弟卧息異處。以朱丹塗其身體、如中國用粉也。食飲用籩豆手食。其死有棺無槨封土作冢。始死停喪十餘日。當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒。已葬擧家詣水中澡浴以如練沐。其行來渡海詣中國恒使、一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰。若行者吉善共顧其生口財物。若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹。 倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べ、みな徒跣で生活している。また家屋を建築していて、父母兄弟はそれぞれ寝所を別々にしている。彼らは朱や丹を身体に塗っていて、それは中国で白粉を用いるのと同じである。飲食には籩豆を用い、手づかみで食べている。人が死ぬと〔埋葬するため遺体を〕棺に納めるが、〔墓にはその棺を納める〕槨がなく、棺の上に土を盛り上げて塚を作る。人が死ぬと、はじめの十日余、喪に服する。この間、人々は肉食せず、また喪主は大声で泣き、他の人々は〔喪主の〕傍で歌舞し飲食する。埋葬しおわると〔喪主の〕家中が海や川に入り澡浴をする。それは〔中国における〕練沐のようである。〔倭人たちは〕海を渡って中国に往来する時には、常に一人の人物に頭髪を〔整えるための〕櫛をつかわせず、蟣蝨もとらせず、衣服は汚れたままにさせ、肉食させず、婦人を近づけず、あたかも〔死者の〕喪に服しているようにさせる。これを持衰といっている。もし航海がうまくゆけば、人々は〔彼に〕生口や財物を与える。しかしもし病人が出たり暴風雨の被害に遭った時には、持衰を殺そうとする。〔そうした凶事が起るのは〕持衰が禁忌を守らなかったからである、というのである。(pp. 294-295) 其俗擧事行來有所輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜。其辭如令龜法視火坼占兆。 〔習〕俗としては、行事を行うとか、旅行に出るとか、また何かしようとする時には、骨を灼いて吉凶を占う〔習慣がある〕。最初に卜うことがらを告げる。その〔卜兆の〕解釈は〔中国の〕亀卜の方法に似ており、〔亀の甲を〕焼いて生ずる裂け目を見て、その吉兆の兆を占うのである。(p. 296) 其會同坐起父子男女無別。人性嗜酒。見大人所敬但搏手以当跪拝。其人壽考或百年或八九十年。其俗國大人皆四五婦。下戸或二三婦。婦人不淫不妬忌。不盗竊少諍訟。其犯法輕者没其妻子重者没其門戸及宗族。尊卑各有差序。足相臣服。収租賦有邸閣。國國有市交易有無。使大倭監之。 〔倭人の〕集会では、座席の順序や立ち居ふるまいに父子や男女による区別はない。人々は、性来、酒を好む。大人〔有力者〕に対し尊敬を示す作法を見ると、〔一般の村民は〕ただ手を打つだけであるが、これは中国の跪拝〔の礼〕に相当するものである。〔倭〕人の寿命は、或いは百年、或いは八、九十年〔の長寿〕である。彼らの習俗では、大人はみな、四、五人の妻をもち、下戸〔一般の村民〕でも或る者は二、三人の妻をもっている。婦人は淫らでなく、嫉妬もしない。〔倭人の社会では〕盗みがなく、訴訟も少ない。法を犯した場合、軽い者ではその妻子を〔国が〕没収し、重い者ではその者の家族および一族を殺す。〔身分の序列には〕尊卑の身分に細かい等級があって、それぞれが臣服するに充分な〔秩序が立っている〕。租税や賦役を納めさせ、〔またそれらを収蔵するための〕邸閣がある。国々には市場があって、〔人々は〕物資を交換し合っているが、大倭に命じて市場を監督させている。(pp. 296-297) 下戸與大人相逢道路逡巡入草。傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬。對應聲曰噫比如然諾。 下戸が大人と道で出逢った場合には、逡巡して〔道端の〕草叢に入り、物事を説明する際には、或いは蹲り、或いは跪いて両手を地につける。これは〔下戸が大人に対して〕尊敬の意をあらわす〔作法である〕。受け応えの声は「噫」と言うが、たとえば〔わが国の言葉の〕然諾(承諾の意味)のようなものである。(pp. 298) |
井上秀雄他訳注『東アジア民族史1』東洋文庫264,平凡社, 1974.
『周書』は南北朝時代の西魏(535〜556年)と北周(556〜581年)に関する正史で、唐代の636年(貞観10年)に完成した。異域伝には高麗(高句麗)伝と百済伝はあるが、新羅伝や倭伝はない。
治平壤城、其城,東西六裏,南臨浿水。城内唯積倉儲器備、寇賊至日,方入固守。王則別為宅於其側、不常居之。 〔高句麗の〕都は平壌城で、その城は東西に六里あり、南は浿水(大同江)に面している。城内には、ただ食料と武器とを置いて冠賊に備え、賊がやって来るとただちに場内に入り固守した。王は別にその側に邸宅を作っているが、いつも居るわけではない。(p. 162) 丈夫衣同袖衫、大口褲、白韋帶、黄革履。其冠曰骨蘇、多以紫羅為之、雜以金銀為飾。其有官品者、又插二鳥羽於其上、以顯異之。婦人服裙襦、裾袖皆為袂。 〔高句麗の〕丈夫は、袖のある上着、大口の袴、白い皮の帯、黄色い革の靴をつけている。冠は骨蘇といって、たいていは紫の羅で作り、金・銀をまぜて装飾を施した。また官品をもつ者は、さらに二本の鳥の羽根をその上に挿んで、〔身分のすぐれていることを〕顕わし示す。婦人は裾襦を着、裾や袖にはすべて縁どりをしている。(p. 164) 土田塉薄、居處節儉。然尚容止。多詐偽、言辭鄙穢。不簡親疏、乃至同川而浴、共室而寢。風俗好淫、不以為愧。有游女者、夫無常人。 土地は瘠せており、生活はつつましやかであるが、立ち居ふるまいを尚んだ。嘘や偽りが多く、言葉は田舎びて賤しく、冗漫である。親疏〔の区別がなく〕川でいっしょに水浴したり、同じ室で寝るといったふうである。風俗は淫らなことを好み、恥としない。遊女があって、夫は一定の者ではない。(p. 164) 婚娶之禮、略無財幣、若受財者,謂之賣婢、俗甚恥之。 結婚の儀礼としては、一般に〔結納金にあたる〕金品〔の授受〕はなく、もし金品を受け取ったりする者があれば、「売婢」といって、人々は非常に恥ずかしいことだとした。(p. 165) 父母及夫喪、其服制同于華夏。兄弟則限以三月。 父母や夫の喪では、その服制はわが中国と同じである。兄弟の〔死んだ〕時は〔その喪を〕三ヵ月に限った。(p. 165) 敬信佛法、尤好淫祀。又有神廟二所、一曰夫餘神、刻木作婦人之象、一曰登高神、雲是其始祖夫余神之子。並置官司、遣人守護。蓋河伯女與朱蒙雲。 仏法(仏教)を敬い、信仰しており、特に淫祀を好んだ。また神廟が二ヵ所あり、一つを夫餘神といって木を刻んで婦人の像を作っており、もう一つを登高神といって始祖で夫餘神の子だという。両方とも役所を置いて役人を派遣し、守護させている。〔二神は〕恐らく河伯の女と朱蒙であろうという。(p. 165) |
衣服、男子略同於高麗。若朝拜祭祀、其冠兩廂加翅、戎事則不。拜謁之禮、以兩手據地為敬。婦人衣(以)〔似〕袍、而袖微大。在室者、編發盤於首、後垂一道為飾。出嫁者、乃分為兩道焉。 百済の衣服は、男子〔のもの〕は高〔句〕麗とほぼ同じである。朝拝・祭祀の場合には、冠の両側に翅をつけ、軍事の場合には〔つばさを〕つけない。拝謁の礼には、両手を地につけて〔尊〕敬〔の意〕を表している。婦人の衣〔服〕は、袍に似ているが袖はやや大きい。未婚の女性は、髪を編んで首の後ろにまき、一筋を垂らして飾りとする。既婚の女性は、〔髪を〕分けて二筋としている。(p. 249) 兵有弓箭刀矛。俗重騎射、兼愛墳史。其秀異者、頗解屬文、又解陰陽五行。用宋元嘉暦、以建寅月為歳首。亦解醫藥蔔筮占相之術。有投壺、樗蒲等雜戲、然尤尚奕棋。僧尼寺塔甚多、而無道士。 武器には弓・箭・刀・矟がある。〔百済の〕人々は騎射を重んじ、あわせて古典や歴史書を好んでいる。なかでも秀れたものは、かなり上手に文章をつくり、また陰陽・五行〔の説〕を理解している。宋の元嘉暦を採用して、建寅の月を正月とする。また医薬・卜筮・占相の術にも詳しい。投壺〔投げ矢〕・樗蒲(ばくち)などの雑戯があり、なかでも奕棋(囲碁)をもっとも重んじている。〔仏教の〕僧・尼や寺塔は多いが、〔道教の〕道士はいない。(pp. 249-250) 賦税以布絹絲麻及米等、量歳豐儉、差等輸之。其刑罰、反叛、退軍及殺人者斬、盜者流、其贓兩倍征之。婦人犯奸者、沒入夫家為婢。 税は、布・絹・糸・麻や米などで賦課し、その年の出来高を見て取っている。刑罰は、謀叛・敵前逃亡・殺人〔の場合〕は〔これを〕斬〔殺の刑に処〕し、盗みは流刑とし、贓品にはその二倍を徴取する。〔結婚している〕女性が姦〔通〕した場合は、〔その身分を賤民に〕おとして夫の家の婢としている。(p. 250) 婚娶之禮、略同華俗。父母及夫死者、三年治服、餘親、則葬訖除之。 婚姻の儀礼は、ほぼ中国の習俗と同じである。父母や夫が死んだ場合は、三年の間、喪に服し、それ以外の親族の場合は、葬〔儀〕が終わると喪あけとなる。(p. 250) 土田下濕、氣候温暖。五穀雜果菜蔬及酒醴肴饌藥品之屬、多同於内地。唯無駝驢騾羊鵝鴨等。其王以四仲之月、祭天及五帝之神、又毎歳四祠其始祖仇台之廟。 耕地は低湿地にあり、気候は温暖である。五穀・雜果・野菜・酒・甘酒・供物・薬品の類は、ほぼ中国と同じである。ただ〔百済には〕駱駞・驢馬・騾馬・羊・鵞鳥・鴨などはいない。〔百済〕王は、四仲の月に、天や五帝の神を祭り、また毎年、季節ごとに始祖の仇台のお廟を祭っている。(p. 250) |
井上秀雄他訳注『東アジア民族史1』東洋文庫264,平凡社, 1974.
『隋書』は唐の魏徴・長孫無忌らの編纂により、列伝は636年(貞観10年)には完成していた。東夷伝には魏書や周書とは別系統の社会・風俗情報が見られる。倭国伝には有名な「日出處天子致書日没處天子」のくだりがあるが、省略した。
人皆皮冠、使人加插鳥羽。貴者冠用紫羅、飾以金銀。服大袖衫、大口袴、素皮帶、黄革履、婦人裙襦加襈。 〔高句麗の〕人は、みな皮の冠をかぶり、使者となる人はさらに〔冠に〕鳥の羽を挿す。貴人は冠に紫色の羅を用い、金・銀で飾りつける。衣服は袖のある大きな上着、大口の袴、白い皮の帯、黄色い革の履を用い、婦人は裾襦に縁どりしたものを着る。(p. 171) 毎春秋校獵、王親臨之。 春や秋になると、いつも校猟(木の柵などで禽獣の進路を断つ狩猟法)をし、王もみずからそれに参加する。(p. 171) 人税布五匹、谷五石、遊人則三年一税、十人共細布一匹。租戸一石、次七鬥、下五鬥。 人〔頭〕税は、〔一人あたり〕布を五匹、穀物を五石で、遊人は三年ごとに一回の税制で、十人あわせて細布を一匹〔納める〕。租は一戸あたり〔上戸が〕一戸、次が七斗、下〔戸〕が五斗である。(p. 171) 反逆者縛之於柱、爇而斬之、籍沒其家。盜則償十倍。用刑既峻、罕有犯者。 反逆者は、柱に縛りつけ、火あぶりにして斬殺し、その家人を戸籍からはずして〔奴婢とし〕財産を没収する。盗みをしたものは、その十倍を弁償する。刑罰を行なうことがとても厳しいが、まれには犯罪者がある。(p. 171) 毎年初、聚戲于浿水之上、王乘腰輿、列羽儀以觀之。事畢、王以衣服入水。分左右為二部、以水石相濺擲、喧呼馳逐。再三而止。 毎年、年初めに浿水のほとりで聚戯が行なわれ、王は腰輿に乗って〔種々の〕旗を列べてそれを観覧する。行事が終わると、王は衣服を水に入れる。〔そして群衆は〕左右二部に分かれ、水をはねかけたり、石を投げあったりし、喧しく叫びあって〔相手を〕追い馳けあう。〔そのようなことを〕再三くり返して〔後にその行事を〕終える。(p. 172) 俗好蹲踞、潔淨自喜。以趨走為敬、拜則曳一脚。立各反拱、行必搖手。性多詭伏。 人々は好んで蹲踞し、大変きれい好きである。小走りして恭敬〔の礼〕をあらわし、〔跪〕拝〔の礼〕は一脚を引いて行う。立っている時はおのおの〔中国の礼と〕逆に右手を前に重ね、歩くときは必ず手を揺る〔のが礼である〕。人々の性格には、心にもなく人に従うことが多い。(p. 172) 父子同川而浴、共室而寢。婦人淫奔、俗多遊女。有婚嫁者、取男女相ス、然即為之。男家送豬酒而已、無財聘之禮。或有受財者、人共恥之。 父子は同じ川で水浴し、同じ部屋に寝る。婦人は淫奔で、民間には遊女が多い。結婚は、男女の両方とも気にいったもの同士がする。男の家は猪・酒を〔女の家へ〕贈るだけで、財物を贈る儀礼はない。財物を受け取る者があれば、みんながそれを恥ずべきこととする。(p. 172) 死者殯于屋内、經三年、擇吉日而葬。居父母及夫之喪、服皆三年、兄弟三月。初終哭泣、葬則鼓舞作樂以送之。埋訖、悉取死者生時服玩車馬置於墓側、會葬者爭取而去。 死者は屋内に殯し、三年たったら吉日を選んで葬る。父母および夫が死んだら、三年間喪に服し、兄弟〔の喪〕は三ヵ月である。〔その儀式の〕初めと終わりに哭泣し、鼓舞して楽を行なって葬送する。埋葬しおわったら、死者の生きている時の日用品・愛甲品・車馬などをすべて墓の横に置き、会葬者は争って取っていく。(p. 173) 敬鬼神、多淫祠。 また、鬼神を敬い、淫祠が多い。(p. 173) |
其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。 百済の人〔の中〕には、新羅・高〔句〕麗・俀〔倭〕など〔の人〕が雑っており、それにまた中国人もいる。(p. 255) 其衣服與高麗略同。婦人不加粉黛、女辮發垂後、已出嫁則分為兩道、盤於頭上。俗尚騎射、讀書史、能吏事、亦知醫藥、蓍龜、占相之術。以兩手據地為敬。 百済の衣服は高〔句〕麗〔のもの〕とほぼ同じである。婦人は、白粉や眉墨をつけず、辮髪して後ろに垂らし、嫁ぐと〔髪を〕二筋に分け、頭上にまきつける。人々は騎射を重んじ、古典と歴史書を読み、公務をうまくこなし、さらに医薬、〔それに〕筮竹や亀の甲で占う術を知っている。〔また百済では〕両手を地につけて尊敬を示す動作としている。(p. 255) 有僧尼、多寺塔。有鼓角、箜篌、箏、竿、{虎}、笛之樂、投壺、圍棋、樗蒲、握槊、弄珠之戲。行宋《元嘉暦》、以建寅月為歳首。 〔百済には〕僧尼がおり、寺や塔が多い。鼓角・箜篌・箏竿・箎笛〔などの〕楽器や、投壺〔投げ矢〕・囲棊・樗蒲(ばくち)・握槊(すごろく)・弄珠(たま投げ)〔など〕の遊びがある。〔南朝の〕宋の元嘉暦を使用し、建寅の月を正月としている。(p. 256) 婚娶之禮、略同于華。喪制如高麗。 婚姻の〔儀〕礼は、ほぼ中国と同じである。〔葬〕喪の制は、高〔句〕麗〔の葬儀〕に似ている。(p. 256) 有五穀、牛、豬、雞。多不火食。厥田下濕、人皆山居。有巨栗。 〔百済には〕五穀・牛・猪・鶏がいる。煮たり焼いたりしないで〔そのまま〕食べることが多い。耕地は低湿地にあり、人々は山〔地〕に居〔住〕している。大きな栗がとれる。(p. 256) 毎以四仲之月、王祭天及五帝之神。立其始祖仇台廟于國城、歳四祠之。 毎〔年〕四仲の月に、〔百済〕王は天と五帝の神を祭る。〔また〕始祖の仇台の廟を国都に立て、年に四回これを祭っている。(p. 257) 國西南人島居者十五所、皆有城邑。 国の西南には、人の住む島が十五ヵ所あり、〔そこにも、それぞれ〕みな城や邑がある。(p. 257) |
其文字、甲兵同於中國。選人壯健者悉入軍。烽、戍、邏倶有屯管部伍。風俗、刑政、衣服、略與高麗、百濟同。毎正月旦相賀、王設宴會、班賚群官。其日拜日月神。至八月十五日、設樂、令官人射、賞以馬布。其有大事、則聚群官詳議而定之。 新羅の文字や武器は、中国と同じである。壮健なる男子を選抜して残らず軍隊に入れる。烽火や辺境の警備・巡視にはみな軍営や部隊組織がある。風俗・刑罰・衣服は、ほぼ高〔句〕麗・百済と同じである。毎年元旦にはみな祝賀し、〔新羅〕王は祝宴を催して群臣に物を分かち与える。その日には日神と月神とを礼拝する。八月十五日になると、〔新羅王は〕朝廷で音楽を用意して官人に弓矢〔の技を競わせ〕馬や布を褒美とする。国政の重要問題は群臣を集めて詳細にわたり合議し決定する。(pp. 279-280) 服色尚素。婦人辮發繞頭、以雜彩及珠為飾。婚嫁之禮、唯酒食而已、輕重隨貧富。新婚之夕、女先拜舅姑、次即拜夫。死有棺斂、葬起墳陵。王及父母妻子喪、持服一年。田甚良沃、水陸兼種。其五穀、果菜、鳥獸物産、略與華同。大業以來、歳遣朝貢。新羅地多山險、雖與百濟構隙、百濟亦不能圖之。 〔新羅人は〕服の色には白色を尊重し、婦人は長髪を編んで頭上にめぐらせ、種々の綵や珠玉を飾っている。婚姻の儀礼はただ酒食するだけであり、その宴会の盛大さは貧富によって差がある。新婚の夜の新妻は、まず夫の父母に挨拶し、しかる後、夫に拝礼する。人が死ぬと死装束をつけて棺に入れ、埋葬にあたっては高塚墳墓を造営する。王と父母妻子との服喪期間は一ヵ年である。〔新羅の〕田畠ははなはだ肥沃であって、水稲・陸稲ともに栽培されている。穀物や果物・野菜、また鳥獣や産物などは、ほぼ中国のそれと同じである。〔隋の〕煬帝の即位後は、毎年朝貢使を派遣している。新羅の地は峻険な山地が多いため、百済と抗争しているものの、百済はなかなか〔新羅を〕滅ぼすことができない。(p. 280) |
其服飾男子衣裙襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚。人庶多跣足。不得用金銀爲飾。故時衣横幅結束相連而無縫。頭亦無冠但垂髪於兩耳上。至隋其王始制冠。以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾。婦人束髪於後亦衣裙襦裳。皆有襈攕。竹爲梳。編草爲薦。雜皮爲表。縁以文皮。有弓矢刀矟弩[矛贊]斧。漆皮爲甲骨爲矢鏑。雖有兵無征戦。其王朝會必陳設儀杖奏其國樂。戸可十萬。 服飾については、男子ははだ着を着けるが袖は小さい。履物は、一重底の浅履のように〔作って〕漆を塗り、これを足に繋りつけている。庶民はほとんどが跣足で、金銀などを装飾とすることはできない。もとは、衣服は、横広の〔の布〕を結束して連ねただけで縫製もせず、頭には冠りものがなくただ髪を両耳の上に垂らしていただけであった。隋の時代になって、〔倭〕王は初めて冠の制度を定めた。冠は錦や綵をもって作り、金や銀で作った花を飾りとしている。婦人は髪を後ろに束ね、やはりはだ着を着けている。裳にはみな縁どりがある。竹を薄くそいで梳とし、草を編んで薦としている。種々の皮革で上着を作り、色皮で縁どりをする。〔武器・武具には〕弓矢・矟(ほこ)・弩・[矛贊](ほこ)・斧がある。皮革に漆を塗って甲とし、骨を矢鏑とする。〔常備〕軍隊はあるのだが出征はしない。倭王は朝廷で会の際には必ず儀仗を陳ね、倭国の楽伎を奏させる。〔倭国の〕戸数は十万戸ほどである。(p. 324) 其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴。自餘輕重或流或杖。毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項。或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛。或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣。人頗恬静罕争訟少盗賊。 倭国のならわしでは、殺人・強盗・姦通は死罪である。窃盗の罪人には、盗んだ物を計って購わせ、〔購う〕私財がなければ盗まれた人にこれを奴婢とさせる。その他、罪状の軽重により流罪や杖罪がある。訴訟事件の審理があれば、承知しない人間の膝を木で圧迫したり、強い弓の弦で項を鋸で引くように〔拷問〕する。或いはまた、小石を煮えたぎった湯の中に入れ、争っている双方に小石をつかみ上げさせる。道理にはずれている者の手は爛れるというのである。或いは〔また、双方に〕甕の中の蛇ををつかませ、螫された者の言い分は不正だと判定する。人〔の性質〕はきわめて無欲でさっぱりしたもので、争いごとは稀であり、盗賊も少ない。(pp. 324-325) 男女多黥臂點面文身。没水捕魚。無文字唯刻木結繩。敬佛法於百濟求得佛經始有文字。知卜筮尤信巫覡。毎至正月一日必射戲飲酒。其餘節與華同。好棊博握槊樗蒲之戲。 男女ともに体中に入墨して、潜水して魚を捕えている。〔倭人には〕文字がなく、木に刻み目をつけたり縄に結び目をつけたりして〔記憶を助け約束の手がかりとして〕いたが、仏法を敬うようになって百済から仏教経典を求めて得たことにより、初めて文字をもつようになった。卜筮の方法も知ってはいるが、巫覡〔の神がかり〕を最も信じる。毎年正月一日には必ず射芸を行い酒宴を催す。その他の節気はだいたい中国と同じである。〔また倭人は〕囲碁・すごろく・樗蒲などの遊びが好きである。(p. 325) 氣候温暖草木冬青。土地膏腴水多陸少。以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭。俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之。性質直有雅風。女多男少。婚嫁不取同姓。男女相悦者即爲婚。婦入夫家必先跨犬乃與夫相見。婦人不婬妬。死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服。貴人三年殯於外庶人卜日而瘞。及葬置屍船上陸地牽之或以小轝。 気候は温暖で、冬でも草木は緑をなし、土地は肥沃だが、河川が多く陸地は少ない。鵜の首の小さな環〔に紐をつけて〕手繰り、川に入って日に百尾以上もの魚を取る。〔倭人には〕皿やまな板〔を使う習慣〕がなく、檞の葉に食物を盛って手で食べる。〔倭人の〕性質は素直かつ雅風である。女が男よりも多い。同姓不婚で、好き合えば結婚する。花嫁が始めて夫方の家に入る時には、必ずまず〔門口の〕火を跨ぎ、そして夫と相見えるのである。婦人は貞淑で嫉妬などしない。死者の埋葬には棺と槨とを用いる。親しい賓客たちは遺骸のまわりで歌舞し〔て送葬の楽とし〕、〔故人の〕妻子や兄弟は白布で喪服を作る。尊貴の者の場合は家の外〔の殯屋〕で三年間も殯し、庶民の場合は日〔の好し悪し〕を卜って埋葬する。埋葬には遺骸を〔模型の〕船に乗せ、地上でこれを引き摺るか、小さな輿で担いでゆく。(pp. 325-326) 新羅百濟皆以倭爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來。 新羅・百済は、倭〔国〕を大国で珍しい物も多い国として敬仰し、つねに使者を往来させている。(p. 326) |
円仁(足立喜六訳注・塩入良道補注)『入唐求法巡礼行記』東洋文庫157,442, 平凡社, 1970,1985.
円仁(794〜864)は天台宗の僧侶で、最澄に師事した。838(承和5, 開成3)年7月、三度目の渡海で揚州に漂着した。天台山行きを願うが許可されず、不法滞在を決意し、新羅人の助けを借りて赤山浦法花院にとどまった。840(承和7, 開成5)年2月に赤山浦を発ち、4月に五台山に到着。同年7月五台山から長安に向かい8月に到着。大興善寺の元政和尚、青竜寺の義真から灌頂を受けた。帰国願いを拒否され続けたが、842(承和9, 会昌2)年10月、会昌の廃仏で国外追放となった。845(承和12, 会昌5)年、楚州から乗船しようとしたが拒否され、赤山浦で便船を待った。847(承和14, 大中1)年、新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国した。
原文は国史編纂委員会の韓国史データベース (http://db.history.go.kr) による。
行塩官舩積塩或三四舩或四五舩雙結續編不絶数十里相随而行乍見難記甚為大奇 塩官船あり。塩を積むもの、或いは三、四船、或いは四、五船、双べ結び続け編して絶えず。数十里従って行く。乍見〔始めて見ることで思いがけなく〕して記し難く、甚だ大奇と為す。(1巻, p. 25) 廿九日暮際道俗共燒紙錢俗家後夜燒竹与爆聲噵万歲街店之内百種飯食異常弥滿日夲國此夜宅庭屋裏門前到䖏盡㸃燈也大唐不尒但㸃常燈不似夲國也 [十二月]廿九日〔小月で大晦日にあたる〕、暮際、道俗は共に紙銭を焼く。俗家は後夜〔二時ごろ〕に竹を焼き〔爆竹をあげ〕爆声と与に万歳と導う。街店の内は百種の飯食常と異なりて珍満す。日本国は此の夜宅庭・屋裏・門前到る処に尽く燈を点ずるなり。大唐は爾らず。但常燈を点ず。本国に似ざるなり。(1巻, p. 74) 十五日夜東西街中人宅燃燈与夲國年盡晦夜不殊矣寺裏燃燈供養佛兼奠祭師影俗人亦尒當寺佛殿前建燈楼砌下庭中及行廊側皆燃油其燈盞数不遑計知街裏男女不惮深夜入寺看事供燈之前隨分捨錢巡者已訖更到餘寺者礼捨錢諸寺堂裏并諸院皆競燃燈有來赴者必捨錢去 [一月]十五日、夜、東西街中の人宅は燃燈す。本国の年尽、晦夜と殊ならず。寺裏も燃燈して仏に供養し、兼ねて師影を奠祭〔供えまつる〕す。俗人も且爾り。当寺の仏殿の前には燈楼を建つ。砌〔石だたみ〕下、庭中及び行廊の側には皆油を燃やす。其の燈盞〔灯芯を入れた油皿〕の数は計り知るに遑あらず。街裏〔町中〕の男女は深夜を憚らず寺に入って〔燈灯の〕事を看る。供燈の前には分に随って銭を捨す。巡看〔見まわる〕して已に訖れば、更に余寺に到り、看礼して銭を捨す。諸寺の堂裏並びに諸院も皆競うて燃燈す。来たり赴くものあれば必ず銭を捨して去く。(1巻, p. 77) 其赤山純是巖石高秀䖏即文登懸清寕郷 赤山村山裏有寺名赤山法花院本張寶高初所建也長有㽵田以宛粥飰其㽵田一年淂五百石米 其の赤山は純ら是巌石高く秀でたる処、即ち文登県清寧郷赤山村なり。山裏に寺あり、赤山法花院と名づく。本張宝高が初めて建てし所なり。張の荘田あり。以って粥飯に宛つ。其の荘田は一年五百石の米を得。(1巻, pp. 175-176) 唐國風法官人政理一日兩衙朝衙晚衙湏聼皷聲方知坐衙公私賔客候衙時即淂見官人也 唐国の風は法として官人の政理〔政務〕は一日両衙なり。朝衙晩衙は須く鼓声を聴いて方に坐衙〔長官の執務〕を知るべし。公私の賓客は衙時を候って即ち官人に見るを得るなり。(1巻, p. 231) 十五日發行十五里到平徐村程家断中主心慇懃齋後行十五里到萊州々城東西一里南北二里有餘外廊縦各應三里城内人宅屋舎盛全 十五日、発す。行くこと十五里、平徐村の程家に到って断中す。主の心は慇懃なり。斎後行くこと十五里、莱州に至る。州城は東西一里、南北二里余。外廓の縦横は各応に三里なるべし。城内の人宅、屋舎は盛全〔隆盛〕なり。(1巻, p. 270) 十八日行五里過膠河渡口 萊州界内人心麁剛百姓飢貧 十八日、行くこと五里、膠河の渡口〔昌邑県新河鎮?〕を過ぐ。莱州界内の人心は麁剛〔あらっぽい〕にして百姓は飢貧なり。(1巻, p. 271) 指路正西入谷行過高嶺向西下坂方淂到醴泉寺菓薗喫茶向南更行二里到醴泉寺断中齋後巡礼寺院礼拜誌公和上影在瑠璃殿内安置戶柱堦砌皆用碧石搆作寶幡奇彩盡世珎奇鋪列殿裏 高嶺を過ぎ、西に向かって坂を下れば方に醴泉寺に到るを得。果園にて喫茶して、南に向かい更に行くこと二里、醴泉寺に到って断中す。斎後寺院を巡礼し、誌公和上の影〔像〕を礼拝す。瑠璃殿内に在りて安置す。戸柱、堦砌〔階段の石だたみ〕は皆碧石を用いて構作す。宝幡〔装飾用の旗〕は奇彩、世の珍奇を尽くして殿裏〔内〕に鋪列〔つらね列す〕す。(1巻, p. 279) 向正北行廿里到南接村劉家断中主人従來發心長設齋飯供養師僧不限多少入宅不久便供飯食婦人出來慰客數遍 正北に向かい行くこと廿里、南接〔楼?〕村の劉家に到って断中〔昼食〕す。主人は従来発心して長く斎飯を設けて、師僧に供養することを多少を限らず。宅に入って久しからず、便ち飯食を供せり。婦人出で来たって客を慰むること数遍なり。(1巻, p. 284) 尋常街裏被斬尸骸滿路血流濕圡為泥看人滿扵道路天子時時看來旗鎗交撗遼乱見說被送來者不是唐叛人但是界首牧牛耕種百姓枉被捉來國家兵馬元來不入他界恐王恠无事妄投无罪人送入京也兩軍健兒每斬人了割其眼肉契諸坊人皆云今年長安人喫人 尋常〔戦場でない〕の街裏に斬らるる尸骸は路に満ち、地は流れ土を湿して泥と為る。看る人は道路に満つ。天子は時々着来し、旗や鎗は交横して遼〔=瞭〕乱たり。見に説く〔聞くところでは〕、送られて来たるものは是唐の叛人ならず。但是界首の牧牛・耕種の百姓、枉げて捉われ〔罪なく刑を被る〕来たるなり。国家の兵馬は元来他の界〔敵境〕に入らず。王が事〔軍事行動〕無きを恠むを恐れ、妄りに無罪の人を捉え送って京に入るなりと。両軍の健児〔募兵〕は人を斬る毎に、了れば其の眼や肉を割いて喫う。諸坊〔坊街=市街中〕の人は皆云う、今年、長安の人は人を喫うと。(2巻, p. 218) 山村縣人飡物麁硬愛喫塩茶粟飯澁呑不入喫即胷痛山村風俗不曽煑羹喫長年唯喫冷菜上客慇重極者便与空餅冷菜以為上饌 山村の県人の飡物〔たべもの〕は麁硬にして、愛んで塩茶、粟飯を喫う。渋くして呑するも入らず。喫えば即ち胃痛む。山村の風俗として曾て羹を煮て喫わず。長年唯冷菜〔つめたい料理〕を喫う。上客の慇重を極むる者には便ち空餅、冷菜を与えて以って上饌〔上等の膳部〕となす。(2巻, p. 284) 唐國僧尼夲來貧天下僧尼盡令還俗乍作俗形无衣可着无物可喫銀艱窮至甚凍餓不徹便入郷村劫奪人物觸䖏甚多州縣捉獲者皆是還俗僧囙此更條流已還俗僧尼勘責更 唐国の僧尼は本来貧し。天下の僧尼は尽く還俗せしめられて乍ち俗形となる。衣の着すべきなく、物の喫うべきなし。艱窮至甚〔苦しみ甚大〕にして凍餓〔飢えこごえる〕は徹まらず。便ち郷村に入りて人物を却奪し、〔法に〕触るる処甚だ多し。州県の捉獲するものは皆是還俗僧なり。此に因って已に還俗したる僧尼を条流して勘責すること更なり。(2巻, p. 298) |
井上秀雄他訳注『東アジア民族史2』東洋文庫283,平凡社, 1976.
『旧唐書』は後晋の劉昫の編纂により、945年(開運2年)に完成した。東夷伝には倭国伝と日本伝があるが、目新しい社会・風俗情報はない。
衣裳服飾、唯王五彩、以白羅為冠、白皮小帶。其冠及帶、咸以金飾。官之貴者、則青羅為冠、次以緋羅。插二鳥羽、及金銀為飾。衫筒袖、褲大口、白韋帶、黄韋履。國人衣褐戴弁。婦人首加巾幗。 衣装や服飾では、王だけが五綵(青・黄・赤・白・黒の五色)を〔用い〕、白い羅で冠をつくり、白い皮の小さい帯〔を用いる〕。その冠および帯は、みな金で飾りつける。官〔位〕の高いものは、青(紫か)羅で冠をつくり、その下位の者は緋色の羅を用いる。〔その冠には〕二本の鳥の羽を挿し、金・銀で飾りつける。また上着は筒状の袖のあるもの、袴は大口、白いなめしがわの帯、黄色い革の履〔をそれぞれ用いる〕。庶民は粗衣を着て、〔頭には〕弁をつける。婦人は首に巾幗(くびかざり)をつける。(pp. 99-100) 食用籩豆、簠簋、尊俎、罍洗、頗有箕子之遺風。 食〔器〕には、籩豆(竹と木のたかつき)・簠簋(稷黍などを盛る祭器)・吹E俎・罍洗(大きい樽)を用い、箕子の遺風が盛んである。(p. 100) 其所居必依山谷、皆以茅草葺舍。唯佛寺、神廟及王宮、官府乃用瓦。 〔高句麗人の〕居所は必ず山や谷にあり、みな茅草で舎屋を葺く。ただ仏寺・神廟および王宮・官府だけは瓦を用いている。(p. 100) 其俗貧窶者多。冬月皆作長坑、下燃;煴火以取暖。種田養蠶、略同中國。 〔高句麗には〕貧しい者が多い。冬の月にはみな長坑を作り、下から火をたいて暖を取っている。種田(耕作)・養蚕はほぼ中国と同じである。(p. 100) 其法、有謀反叛者、則集眾持火炬競燒灼之。燋爛備體、然後斬首。家悉籍沒。守城降敵、臨陣敗北、殺人行劫者、斬。盜物者、十二倍酬贓。殺牛馬者、沒身為奴婢。大體用法嚴峻。少有犯者、乃至路不拾遺。 その法律では、謀反する者があれば、みな集まって炬火を持ち、〔先を〕争って〔その謀反者を〕焼き殺す。〔すっかり〕焦げ爛れさすが、体形だけは保ち、その後〔それを〕斬首する。〔謀反者の〕家人はすべて戸籍から外して〔奴婢とし〕、全財産を没収する。城を守る者が敵に降った場合や、戦争に臨んで敗北した場合、〔また〕殺人・強盗をした者は、〔いずれも〕斬殺する。物を盗んだ者は〔盗んだ物の〕十二倍を弁償させる。牛馬を殺した者は身分を落として奴婢とする。大体において法律の適用はひどく厳しい。〔だから〕犯罪者が少なく、路上に〔物が落ちていても〕拾わない。(pp. 100-101) 其俗多淫祀、事靈星神、日神、可汗神、箕子神。國城東有大穴、名神隧。皆以十月、王自祭之。 民間には淫祀が多く、霊星神・日神・可汗神・箕子神を祀る。国城の東に大穴があり、「神隧」という。十月に、王がみずからこれを祭る。(p. 101) 俗愛書籍。至於衡門廝養之家、各於街衢造大屋、謂之扃堂。子弟未婚之前、晝夜于此讀書習射。一般に、書籍を愛読する。貧寒で賦役に就く家に至るまで、それぞれ街路に大きな小屋を造る。それを扃堂という。結婚前の子弟がここで昼夜読書したり、射術を習得したりする。(p. 101) |
其用法、叛逆者死、籍沒其家。殺人者、以奴婢三贖罪。官人受財及盜者、三倍追贓、仍終身禁錮。 〔百済の〕法〔制〕では、反逆者は死刑で、その〔者の〕家〔族や財産〕は没収された。殺人〔を犯した〕者は奴婢〔を〕三人〔提供すること〕で〔その〕罪を贖う〔ことができた〕。官人で賄賂を受けたり、〔他人の物を〕盗んだりした者は、〔それらの額の〕三倍を徴収され、しかも終身禁錮となった。(p. 239) 其王服大袖紫袍、青錦褲、烏羅冠、金花為飾、素皮帶、烏革履。官人盡緋為衣、銀花飾冠。庶人不得衣緋紫。 〔百済〕王は袖の大きな紫〔色の〕袍を着て、青〔色の〕錦〔で作った〕袴をはき、烏(黒色の)羅〔で作った〕冠を金〔製の〕花で飾〔ったものをかぶ〕り、素(白色の)皮帯をしめ、烏の革履をはいていた。官人は、ほとんどが緋(赤色の)衣を着て、銀〔製の〕花で冠を飾った。庶民は緋や紫〔色の〕衣を着ることができなかった。(p. 240) |
朝服尚白、好祠山神。八月望日、大宴齎官吏射。 〔新羅では〕礼服は白色が尊ばれ、さかんに山神を祀っている。八月十五日に大いに宴をはり、官吏の弓術を競わせた。(p. 320) 其建官、以親屬為上。其族名第一骨、第二骨以自別。兄弟女、姑、姨、從姉妹、皆聘為妻。王族為第一骨、妻亦其族。生子皆為第一骨。不娶第二骨女。雖娶、常為妾媵。 新羅では官を設けるのに、〔王の〕一族を上位におく。〔新羅の〕王族には、第一骨と第二骨となずけ〔られたものがあり、彼らは〕その両者〔のいずれか〕に所属している。〔彼らの結婚では〕兄弟の娘・叔母・義姉妹・従姉妹などはみな妻として迎える〔ことができる〕。王族は第一骨で、その妻もまたその族(第一骨)である。〔第一骨の夫と妻の間に〕生まれた子は、すべて第一骨になる。〔第一骨の男は〕第二骨の女を娶らない。たとえ娶ったといっても、たんに侍女とみなした。(pp. 320-321) 畜牧海中山、須食乃射。息谷米於人、償不滿、庸為奴婢。王姓金、貴人姓朴、民無氏有名。食用柳杯若銅瓦。元日相慶。是日拜日月神。 島の山で牛馬を飼い、食べたいと思えば〔これらの牛馬を〕射る。利子をとって穀物を人に貸し、その返済が約束どおりでないと、〔貸主は借り手を〕奴隷にする。王〔族の〕姓は金で、貴族の姓は朴であり、庶民には氏はなく、名だけである。食〔器〕には柳の桮(さかずき)や銅製や瓦製のものを用いる。正月元旦には互いに慶賀する。この日に、日神や月神を拝む。(p. 321) 男子褐褲。婦長襦。見人必跪。則以手據地為恭。不粉黛、率美髮以繚首、以珠彩飾之。男子翦發鬻。冒以K巾。市皆婦女貿販。冬則作灶堂中、夏以食置冰上。 男子は粗末な袴を、婦人は長い下着を着る。人に会えば、必ず跪〔拝の礼〕をする。その跪拝の礼では、手を地につけて〔敬〕恭の意をあらわす。〔新羅の婦人は〕白粉や黛をつけず、美しい髪を首にめぐらし、〔その髪を〕珠〔玉〕や綵で飾る。男子は髪を切る。黒布の帽子を売っている。市〔場〕では婦人たちだけで品物を交換して商いをしている。冬になると竈を家の中に作り、夏には食物を氷の上におく。(pp. 321-322) |
徐兢(朴尚得訳)『宣和奉使 高麗図経』国書刊行会, 1995.
徐兢は北宋の官吏で、徽宗皇帝宣和5年(1123)に国信所提轄人船礼物官として高麗に来て、王都開京に1ヶ月ほど滞在した。このときの見聞をまとめたのが『高麗図経』だが、図版は失われている。高麗は仁宗元年で、北方で女真が台頭し、高麗を圧迫した時期に当たっている。原文は韓国古典翻訳院(http://db.itkc.or.kr)による。
若高麗則不然。立宗廟社稷。治邑屋州閭。高堞周屏。模範中華。抑箕子舊封。而中華遺風餘習。尚有存者。朝廷間遣使。存撫其國。入其境。城郭巋然。實未易鄙夷之也。今盡得其建國之形勢而圖之云。 しかし、高麗はそうではない。宗廟、社稷を立て、村里や邑州を治め、姫垣を高くし、塀を巡らして中華を模範にしている。箕子の旧封を治めて中華の遺風、余習のなお存するものがある。朝廷はしばしば使者を遣わしてその国を慰め、安んじている。その境域に入ると、城郭が広大にして堅固である。実にまだ卑しい外国と取り換っていないのである。(pp. 36-37) 故其民居。形勢高下。如蜂房蟻穴誅茅爲蓋。僅庇風雨。其大不過兩椽。比富家稍置瓦屋。然十纔一二耳。 その民家の有様は高低していて、まるで蜂の巣や蟻の穴のようである。刈萱を覆いにしてやっと風雨を凌いでいる。その大きなものもたるきが二本あるに過ぎない。ちかごろ、金持ちがようやく屋根に瓦を置くようになった。しかし、十軒のうち僅かに一、二軒だけである。(p. 43) 蓋其俗無居肆。惟以日中爲虚。男女老幼官吏工技。各以其所有。用以交易。無泉貨之法。惟紵布銀鉼。以准其直。至日用微物。不及疋兩者。則以米計錙銖而償之。 けだしその風俗に常設店は無いのであろう。ただ日中に市をなすだけである。男女老幼、官吏、職人の各々がその所有物でもって交易している。金銭の法は無い。ただ紵布、銀瓶でもってその値に準えている。日用雑貨で匹数や重さの及ばないものには、米で重さを計って償っている。(p. 44) 臣聞東南之夷。高麗人材最盛。 聞くところによると、東南の夷では、高麗の人材がもっとも豊富であるとのことである。(p. 73) 蓋其國人質侏儒。特加高帽錦采。以壯其容耳。 思うにその国の人びとの体格は、短小なのであろう。ただ高帽、錦衣を加えて、その容姿を大きく見せているだけのことである。(p. 89) 麗國多山。道路坎壈。車運不利。又無橐駝可以引重。而人所負載甚輕。故雜載。多用馬。 高麗国には山が多い。道路が険しくて苦しむ。車で運ぶのは不利である。また駱駝がいないので重い物を引っ張ることはできない。そして、人が背負えるのはとても軽い物だけである。したがって雑載には多く馬を用いる。(p. 113) 高麗舊俗。民病不服藥。唯知事鬼神。呪咀厭勝爲事。自王徽遣使入貢。求醫之後。人稍知習學。而不精通其術。 高麗の昔の風習では民は病に服薬しなかった。ただ鬼神に仕えることを知るだけで、のろい、まじないで除災、招福を事ととしていた。徽王〔第十一代文宗〕が貢使を遣わして医を求めた後から、人びとはしだいに習い学んで知るようになったが、その術に精通しはしなかった。(pp. 118-119) 但麗人。大抵首無枕骨。以僧祝髮。乃見之。頗可駭訝。晉史謂三韓之人。初生子。便以石壓其頭令扁。非也。蓋由種類資稟而然。未必因石而扁。 ただし高麗人はたいてい、首に枕骨〔後頭部に突出している骨〕がない。僧侶の剃髪でそれを見るとすこぶる驚き、訝るべきものである。『晋史』は言っている。「三韓の人が初めて子を生む。すぐに石でその子の頭を圧して平たくする」と。そうではない。けだし、種類、資質に由ってそうなるのであろう。必ずしも石によって平たくするのではない。(p. 135) 臣聞高麗。地封未廣。生齒已衆。四民之業。以儒爲貴。故其國。以不知書。爲恥。山林至多。地鮮平曠。故耕作之農。不迨工技。州郡土産。悉歸公上。商賈不遠行。唯日中。則赴都市。各以其所有。易其所無。煕煕如也。然其爲人。寡恩,好色,泛愛,重財。男女婚娶。輕合易離。不法典禮。良可哂也。 聞くところによると、高麗の封地はまだ広くないが、人口はすでに多い。〔士、農、工、商の〕四民の業では儒を貴しとしている。だからその国では、書を知らないのを恥としている。山林が多く、土地は少なく平地は殆んどない。したがって農耕は工芸に及ばない。州都の土産は悉く御上のものにされている。商売では遠くまで行かない。ただ日中に都市に赴くだけである。各々その有るもので無いものと交換している。それで和らぎ楽しむかのようである。しかし、かれらの人となりは、恩が少なく色を好む。一般に財物を好み重んじる。男女が結婚するのにも、軽く合して容易に離れ、典礼に則らない。まったく嘲笑うべきことである。(p. 138) 高麗。工技至巧。其絶藝。悉歸于公。 高麗の職人はいたって巧緻である。その絶妙な芸は悉く御上のものにされている。(p. 139) 高麗俸祿。至薄。唯給生米,蔬茹而已。常時。亦罕食肉。毎人使至。正當大暑。飮食臭惡。必推其餘與之。飮啗自如。而又以其餘。 高麗の俸禄は至って薄い。ただ生野菜、根菜を支給するだけである。常時、食肉はめったにない。いつも使者が至るのはまさに大暑にあたっていて、飲食物の臭気がひどく悪い。必ずその余り物をすすめ与える。それを平気で食う。そしてまたその余りを家に持ち帰る。(p. 150) 又富家。娶妻至三四人。小不相合。輒離去。産子居別室。其疾病。雖至親。不視藥。至死。殮不拊棺。雖王與貴胄。亦然。若貧人。無葬具。則露置中野。不封不植。委螻蟻烏鳶食之。衆不以爲非。淫祀諂祭。好浮圖。宗廟之祠。參以桑門歌唄。其閨B加以言語不通。貪饕行賂。行喜奔走。立則多拱手于背。婦人僧尼。皆作男子拜。此其大可駭者。 また金持ちは妻を娶るのが三、四人にもなる。すこし相合わないと、すぐに離れ去る。子を生むと居室を別にする。疾病だと至親でも、薬の世話をしない。死に至ると、殯の棺を撫でない。王や貴族の子孫といえどもそのようである。もし貧乏人で葬具がないと、野原に剥き出しに置いて塞がないし植えない。螻蛄、蟻、烏、鳶が食べるのに委せておく。衆人はそれを悪いこととは思わない。いかがわしいものを祭り、諂って祭り、仏教を好む。宗廟の祠に参るのに僧侶でしている。その間、唄を歌う。かてて加えて言葉が通じない。欲が深くて財物をむさぼり求め、賄賂をつかう。旅を好み走り回る。立つと多く手を背に拱く。婦人や僧尼の皆が男子を作ると拝みお辞儀する。これは多いに驚くべき事である。(p. 153) 舊史。載高麗。其俗皆潔淨。至今猶然。毎笑中國人多垢膩。故晨起。必先沐浴而後出戸。夏月日再浴。多在溪流中。男女無別。悉委衣冠於岸。而沿流褻露。不以爲怪。浣濯衣服。湅涗絲麻。皆婦女從事。雖晝夜服勤。不敢告勞。 『旧史』が記録に載せている。「高麗のならわしでは、全てが清潔である」と。今に至るもやはりそのようである。いつも中国人の垢の多いのを笑っている。だから朝起きると、必ず先に沐浴し、その後外出する。夏には毎日二度沐浴する。その多くは渓流のなかである。男女の別はない。悉く衣冠を岸に委ねておく。流れに沿って下着を浸しておかしいとは思わない。衣服を洗い、麻絲をぬるま湯の中で動かす事には、すべて婦女子が従事する。昼夜勤めても敢えて苦労を告げない。(p. 159) 杉扇。不甚工。惟以日本白杉木。劈削如紙。貫以采組。相比如羽。亦可招風。 畫摺扇は金銀を塗って飾りにしている。さらにその国の山林、人馬、女子の姿を絵にしている。高麗人にはできない。この畫摺扇は日本で作られたという。その贈られた着物や器物を見ると尤もらしい。(p. 205) 土産茶。味苦澁。不可入口。惟貴中國臘茶。幷龍鳳賜團。自錫賚之外。商賈亦通販。故邇來。頗喜飮茶。益治茶具。 土地産の茶の味は苦く渋くて口に入れられない。中国の臘茶ならびに龍鳳賜団を貴しとしている。下賜品以外に商人もまた通って来て販売している。昔から茶を飲むのをすこぶる喜んでいる。ますます茶器を調えている。(p. 216) 大抵麗人嗜酒。而難得佳釀。民庶之家所飮。味薄而色濃。飮歠自如。咸以爲美也。 たいていの高麗人は酒を嗜む。しかし佳く醸すのは難しい。庶民の家で飲むのは味が薄くて色は濃い。それを平気で飲み、旨いと思っている。(p. 217) 陶器色之青者。麗人謂之翡色。近年以來。制作工巧。色澤尤佳。 陶器の色の青いの〔高麗青磁〕を高麗人は「翡色」と言う。近年以来、作りの工芸が巧みになった。色沢がもっとも佳い。(p. 217) 東夷性仁。而其地。有君子不死之國。又箕子所封朝鮮之境。習俗。素稔八條之ヘ。其男子。出於禮義。婦人。由於正信。飮食以豆籩。行路者相遜。固異乎蠻貉雜類。押頭腁趾。辮髮幅。父子同寝。親族同槨。僻怪也。 東夷の性質は仁である。その地には君子不死の国がある。また、箕子が封ぜられた所であり、朝鮮の境域の習俗には、もともと八条の教えが実っている。その地の男子は礼儀に勝れており、婦人は正しい信義に由っている。飲食は高坏でもってする。路を行く者は譲りあっている。もとより昔、朝鮮の北方にあった国の蠻貉の雑類のように頭を締め括り、手足に胼胝があり、辮髪し、横幅の布裂を衣にし、父娘が同寝し、親族が棺を同じくするような卑しく怪しいのとは異なっている。(p. 269) |
石原道博編訳『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』岩波文庫, 1956.
『宋史』は元の相脱脱らの撰により、1345年に完成した。日本伝には日本人僧や中国人商人の証言が含まれている。
太宗召見「然存撫之甚厚賜紫衣舘于太平興國寺。上聞其國王一姓傳繼臣下皆世官、因歎息謂宰相曰。此島夷耳。乃世祚遐久其臣亦繼襲不絶。此蓋古之道也。 太宗は、「然[ちょうねん、日本僧]を招いて、これを厚く存撫(なぐさめ安んずる)し、紫衣を賜り、泰平興国寺に宿泊させた。上(太宗)は、その国王は一つの姓で継承され、臣下もみな官職を世襲にしていることを聞き、嘆息して宰相にいうには「これは島夷にすぎない。それなのに世祚(代々の位)は遐久(はるかにひさしい)であり、その臣もまた継襲して絶えない。これは思うに、古の道である。(p. 105) 咸平五年建州海賈周世昌遭風飄至日本。凡七年得還。與其國人滕木吉至。上皆召見之。世昌以其國人唱和詩来上。詞甚雕刻膚淺無所取。詢其風俗云婦人皆被髪一衣用二三縑。 咸平五年(第三代真宗、一条長保四年・一〇〇二)、建州(福建建甌)の海賈(貿易商人)周世昌が、風に遭ってただよい日本に至った。およそ七年たって還ることができた。その国人藤吉(藤原為時説もある)とともに来朝した。上(真宗)は、みなこれを召見した。世昌はその国人の唱和の詩をもって来てたてまつった。詞は、はなはだ雕刻(彫刻、ほりきざむ・ほりつける、みがかれている)だけれども、膚浅(うすっぺら・あさはか、浅薄・膚薄)であって取るところはない。その風俗を詢うと、いうには「婦人はみな束髪にし、一衣に二・三縑(かとりぎぬ)を用いる」と。(p. 110) |
宋希環(村井章介校注)『老松堂日本行録』岩波文庫青454-1, 1987.
宋希環(1376〜1446)は朝鮮初期の文臣で、1420(応永27,世宗2)年日本回札使として京都を訪れた。前年に朝鮮が倭寇の根拠地を叩く目的で対馬を攻撃した(応永外寇)のに対し、室町幕府は朝鮮の真意を探るため大蔵経求請にかこつけ無涯亮倪と平方吉久を送った。宋希環は日本回札使として、従事官の孔達や通事の尹仁甫を伴い、無涯らの帰国に同行した。一行は閏正月15日漢城を発ち、4月21日京都に到着、宋希環は6月16日に将軍足利義持に謁見した。宋希環は6月27日に京都を発ち、10月25日漢城に帰着した。
原文は韓国古典翻訳院(http://db.itkc.or.kr)による。
朴加大本無城。歧路皆通。夜夜賊起殺人。無追捕者。 朴加大[博多]は城なく岐路は皆虚なり。夜々賊起こり人を殺せども追捕の者なし。(p. 63) 此國之俗。女倍於男。故其於別店。淫風大行。遊女迨半。見人。則遮路請宿。以至牽衣入店。受其錢則雖白晝亦從。蓋其州州村村。皆緣江海。孕得淑氣。故生女頗有姿色。又男子年二十歲以下。學習於寺者。僧徒髡眉墨畫。塗朱粉面。蒙被斑衣。爲女形率居。王亦擇入宮中。宮妾雖多。尤愛少年男子。故國人皆效之。 日本の俗、女は男に倍す。故に路店に至れば遊女迨半す。其の淫風大いに行われ、店女行路の人を見れば、則ち路に出でて宿を請い、請えども得ざれば則ち衣を執りて店に入らしむ。其の銭を受くれば則ち昼と雖も従う。蓋し其の州々村々は皆海に辺し江に縁う。其の江海の気を孕むが故に、其の生女頗る姿色あり。また其の男子の年二十歳以下にして寺に学習する者、僧徒眉毛を髡り去り、墨を以て眉を額上に画き、朱粉を面に塗り、斑衣を蒙被せて女形と為し、率え居す。其の王尤も少年を好み、択びて宮中に入らしめ、宮妾多しと雖も尤も少年を酷愛するなり。国人これに效うこと、皆王の少年を好むが如し。其の土風此の如し。故に聞きてここに記す。(p. 133) 日本農家。秋耕種大小麥。明年夏刈之。卽種苖。秋初刈之。又種木麥。冬初刈之。以一畓一年三種者。川塞則儲水爲畓。川決則去水爲田故也。 日本の農家は、秋に水田を耕して大小麦を種き、明年初夏に大小麦を刈りて苗種を種き、秋初に稲を刈りて木麦を種き、冬初に木麦を刈りて大小麦を種く。一水田に一年三たび種く。乃ち川塞がれば則ち水田と為し、川決すれば則ち田と為す。(p. 144) 余問曰。此寺僧尼。常於佛殿同宿。其年少僧尼。無乃有相犯者乎。羅笑曰。尼孕則歸其父母家。產後還。臥佛前三日後。衆尼來。請還入本坐矣。 予、三甫羅に問いて曰く、「此の寺の僧尼は乃ち仏殿の内に於て常時同宿す。其の年少し。僧尼乃ち相犯すことなきか」と。羅、笑いて曰く、「尼、児を孕まば、則ち居らずして其の父母の家に帰き、産後寺に還りて仏前に臥す。三日の後、衆尼来りて本の坐に還入するを請うなり」と。予これを観るに、念仏寺・阿弥陀寺と称するは此の如き寺にて、則ち処々皆僧尼は仏宇の内に同宿せり。(p. 160) |
韓国国史編纂委員会
(http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp)
『世宗実録』11年(1429 己酉)12月3日(乙亥)条には、日本に通信使として派遣された朴瑞生の帰朝報告がある。ここには室町中期の日本の経済・社会に関する情報が豊富で興味深い。訳文は、国史編纂委員会の現代韓国語訳を参考に適当に作った。
一。臣到日本、自對馬島至兵庫、審其賊數及往來之路。若對馬、一岐内外大島、志賀、平戸等島、赤間關以西之賊也、四州以北竈戸、社島等處、赤間關以東之賊也。其兵幾至數萬、其船不下千隻、若東西相應、一時興兵、則禦之難矣。 一。臣が日本に使するに当たり、対馬島から兵庫まで、海賊の数と往来する経路を調べて来ました。対馬と一岐の間の島々と志賀・平戸等の島々は赤間関以西の賊、四州以北の竈戸・社島といった所は赤間関以東の賊の根拠地です。その兵力はおよそ数万、船の数も千隻を下らず、もし東西が呼応して一気に兵を起こせば、防ぐのは難しいでしょう。 一。日本尚浮屠、交好所贈之物、無踰佛經。 一。日本はいまだに浅はかで、交際における贈物として仏典に勝るものはありません。 一。日本農人、有設水車、斡水灌田者、使學生金愼、審其造車之法。其車爲水所乘、自能回轉、挹而注之、與我國昔年所造之車因人力、而注之者異矣。 一。日本の農民には、水車を設置して田に灌漑している者がいます。学生の金愼を使わして、その水車の造り方を調べさせました。その水車は水力で自ら回転しながら水を汲み上げており、わが国でかつて作った人力によって水を注ぐ水車とは違います。 一。日本自國都至沿海、錢之興用、勝於布米、故行者雖適千里、但佩錢緡而不齎糧。居路傍者各置行旅寄宿之所、如有客至、爭請接之計、受客錢以供人馬、關梁則大江設舟橋、溪澗設樓橋、其傍居者掌其橋之税、令過客人納錢十文或五文、酌其橋之大小而納之、以爲後日修補之資。至於土田舟車之税、無不用錢、故使錢之術廣、而人無負重致遠之勞矣。 一。日本はその国都から沿海に至るまで銭の使用が盛んで、布や米よりもずっと多く用います。このため旅行者がたとえ千里を行くときでも、銭緡だけ携行して食糧を持ちません。道路沿いに住む人々が旅行者の寄宿所を設置しており、客が来ると争って招き入れ接待し、客の銭を受けて人馬を提供します。関梁では大河には舟橋を設置し、小川には樓橋を設置し、その傍に住む者が橋税を管掌しています。橋を通る客から銭十文や五文を徴収しますが、橋の大小に応じて額が定められ、後日の補修資金にしています。土田や舟車の税に至るまで、すべて銭を用いるため、銭の用途が広く、人々が重い荷を負って遠くを行く労苦がありません。 一。日本以竹爲大索、繋于兩岸、削全木爲舟、鐙子竹索、下於舟上、立柱架梁、排板成橋、使津吏輕取過渉之税、後日橋毀、用以修補。 一。日本では竹で大きな綱を作って両岸につないで置き、丸太を削って舟を作り、竹索に鐙をつけて舟の上に下ろし、柱を建てて梁を仮設し、板を敷いて橋を作っています。津吏に軽微な渡河税を徴収させ、後日橋梁が壊れた際の補修資金に用います。 一。日本之俗、無少大好沐浴潔身、故大家各置浴室、毎閭閻亦累置浴所、其浴室之制、甚巧而便穩、温湯者吹角、聞者爭納錢浴之。 一。日本の俗では年齢を問わず沐浴して身体を洗うことを好み、大家にはそれぞれ浴室を設置し、閭閻ごとにまた色々な浴所を置きますが、その浴室の制が甚だ巧妙で便利です。湯を沸かす者が角を吹けば、この音を聞いた人々が争って銭を出して入浴します。 一。日本街市之制、市人各於簷下用板設層樓、置物其上、非惟塵不及汚、人得易觀而買之、市中食物、無貴賤皆買食之。我國之市、則乾濕魚肉等食物、皆置塵土、或坐或踐。 一。日本の街の市場の制度では、売り手は庇の下に板を張って棚をつくり、その上に商品を置きます。このため土埃で商品が汚れることがなく、買い手はたやすく商品を探してこれを買えます。市場では人々は貴賎の別なく食物を買い求めて食らいます。わが国の市場では乾湿にかかわらず魚肉等の食物を皆土の上に置き、その上に坐ったり踏んだりしています。 一。日本凡金銀銅鐵珍物所産之處、不立防禁、使居其地者世專採用之利、而歳貢於國者有常數、無他差役、故主者不怠、寶産無窮、公私皆ョ其利。 一。日本ではおよそ金銀銅鉄等の貴金属を産する所に防禁を立てず、そこの住民に代々採掘して利益を得ることを認め、国に納める歳貢は一定で他の賦役がありません。このため住民は怠けず、生産が無窮で、公私とも利益になっています。 |
申叔舟(田中健夫訳注)『海東諸国紀』岩波文庫青458-1, 1991.
『海東諸国紀』は、朝鮮議政府領議政・申叔舟が1471(成宗2)年に撰進した日本・琉球の研究書で、長らく対日外交の虎の巻として使われた。ここでは「国俗」の部分(pp. 117-118)を抜書きした。[ ]内は脚注。原文は海東諸国紀全文テキストデータベース (http://sillok.history.go.kr/main/main.jsp) による。
天皇之子娶于其族国王之子娶于諸大臣 天皇の子は其の族を娶り、国王の子は諸大臣を娶る。 諸大臣而下官職世襲其職田封戸皆有定制然世久相并不可為拠 諸大臣而下の官職は世襲す。其の職田・封戸は皆な定制有り。然れども世久しく相并びて拠とは為すべからず。 刑無笞杖或籍家産或流竄重則殺之 刑は笞杖無し。或は家産を籍げ、或は流竄す。重きは則ち之を殺す。 田賦取三分之一無他徭役[凡有工役皆募人為之] 田賦は三分の一を取る。他の徭役は無し。[凡そ工役有れば、皆な人を募りて之を為す。] 兵好用槍剣[俗能錬鉄為刃精巧無比]弓長六七尺取木之理直者以竹夾其内外而膠之 兵は好みて槍・剣を用う。[俗、能く鉄を練りて、刀を為る。精巧比無し。]弓は長さ六、七尺。木の理直なるものを取り、竹を以て其の内外を夾みて之を膠く。 毎歳正月元日三月三日五月五日六月十五日七月七日十五日八月一日九月九日十月亥日以為名 毎歳正月元日・三月三日・五月五日・六月十五日・七月七日・十五日・八月一日・九月九日・十月亥日は、以て名日と為す。人は大小と無く各郷党・族親を会し、燕飲、楽を為し、相に遣るに物を以てす。 飲食用漆器尊処用土器[一用即棄]有筯無匙 飲食には漆器を用う。尊処には土器を用う。[一用れば即ち棄つ]。筯有り。匙無し。 男子断髪而束之人佩短剣婦人抜其眉而黛其額背垂其髪而続之以髢其長曳地男女冶容者皆黒染其歯 男子は断髪して之を束ぬ。人は短剣を佩ぶ。夫人は其の眉を抜きて其の額に黛す。背に其の髪を垂れて之に続け、以て髢す。其の長きは地に曳く。男女冶容の者は皆な其の歯を黒く染む。 凡相遇蹲坐以為礼若道遇尊長脱鞋笠而過 凡そ相遭うときは蹲坐して以て礼を為す。若し道に尊長に遭えば鞋笠を脱ぎて過す。 人家以木板盖屋唯天皇国王所居及寺院用瓦 人家は木版を以て屋を蓋う。唯天皇・国王の所居および寺院は瓦を用う。 人喜啜茶路傍置茶店売茶行人投銭一文飲一椀人居処処千百為聚開市置店富人取女子之無帰者給衣食容飾之号為傾城引過客留宿饋酒食而収直銭故行者富齎粮 人は喜びて茶を啜る。路傍に茶店を置きて茶を売る。行人銭一文を投じて一椀を飲む。人居は処処千百衆を為し、市を開き、店を置く。富人は女子の帰るところ無き者を取り、衣食を給し、これを容飾し、号して傾城と為し、過客を引き、宿に留め、酒色を饋りて直錢を収めしむ。故に行く者は粮を齎さず。 無男女皆習其国字[国字号加多干那凡四十七字]唯僧徒読経書知漢字 男女と無く其の国字を習う。[国字は加多干那と号す。凡そ四十七字なり。]唯僧徒は経書を読み漢字を知る。 男女衣服皆斑染青質白文男子上衣纔及膝裙長曳地無冠或着烏帽[以竹為之頂平字而前後鋭纔足掩髻天皇国王及其親属所着号立烏帽[直而頂円鋭高半尺以綃為之]笠用蒲或竹或椙木[男女出行則着] 男女の衣服は皆な青質に白文を斑染す。男子の上衣は纔に膝に及ぶ。裾は長く地に曳く。冠は無く、或は鳥帽を着く。[竹を以て之を為る。頂は平にして、前後に鋭し。纔に髻を掩うに足る。]天皇・国王および其の親属の着くる所は立烏帽と号す。[直にして頂は円く、鋭く高きこと半尺、綃を以て之を為る。]笠は蒲、或は竹、或は椙木を用う。[男女出行すれば則ち着く。] |
최부 씀, 김찬순 옮김, 표해록 - 조선 선비 중국을 표류하다, 겨레고전문학선집 14, 보리, 2006.
崔溥(1454-1504)は朝鮮前期の文臣で、1487年に推刷敬差官として済州に赴任し、翌年中国に漂流したが生還した。1488年閏正月3日に済州を出港した崔溥らは、暴風に流され浙江省台州府臨界県牛頭付近に漂着した。海門衛で尋問の後、北京に護送されることになり、寧波・紹興・杭州・嘉興・蘇州・臨清・滄州等を経て3月末北京に到着した。4月24日に北京を発ち、6月4日に鴨緑江を越え帰国した。
原文は韓国古典翻訳院(http://db.itkc.or.kr)による。김찬순の現代韓国語訳を参考に解読した。
又遞至二十餘里。其里中有大橋。里人皆揮稜杖。亂撃臣等。肆虣劫奪太甚。吳山者負臣馬鞍。有一人敺撃攘去。臣等被杖前驅。顚仆哭泣。過二嶺。見遞他里。向曙。 また護送者が交替して二十里余りを歩いた。その村には大きな橋があり、村人たちはみなこん棒を振り回してわれわれをぶん殴って乱暴狼藉の限りを尽くした。呉山が私の馬の鞍を担いでいたが、村人のひとりが呉山を殴って鞍を奪って行った。われわれは棒で殴られ追い立てられ、転んでは泣き叫んだ。峠をふたつ越え、護送者が交替し次の村にたどり着く頃には夜が明けかけていた。 凡爲劫盜者。殺越人于貨。肆暴無忌。今江南人。雖或被利心所使。爲盜爲劫者有之。然下山之盜。不殺臣等。且有遺物。仙岩之人。不隱所劫。竟還奪鞍。可以觀風氣柔弱。人心不甚暴惡之驗也。 およそ強盗をする者は財物のためなら暴力を振るうのはもちろん、人殺しも躊躇しない。ここ江南の人も、物欲に駆られて強盗を働くことはある。しかし下山の海賊たちはわれわれを殺しはせず、かえって物を恵んでくれた。仙岩の人たちも盗品を隠さず、結局馬の鞍を返してくれた。これを見るとここの気風は柔和で、人心は甚だしく暴虐というわけではない。 杭卽東南一都會。接屋成廊。連衽成帷。市積金銀。人擁錦繡。蠻檣海舶。櫛立街衢。酒帘歌樓。咫尺相望。四時有不謝之花。八節有常春之景。眞所謂別作天地也。 杭州は東南で最大の都会で、家々は連なり人々は肩をこすって行き交う。市中には金銀が溢れ、人々は錦繍で装う。国内外の船の帆柱が林立し、酒場と歌楼が向かい合って立つ。四季の花が絶えることなく、年中常春の景観をなす。いわゆる別天地とはこのことであろう。 朝廷文物之盛。有可觀焉。然其閭閻之間。尙道佛不尙儒。業商賈不業農。衣服短窄。男女同制。飮食腥穢。尊卑同器。餘風未殄。是可恨者。且其山童。其川汙。其地沙土楊起。塵埃漲天。五穀不豐。其間人物之夥。樓臺之盛市肆之富。恐不及於蘇,杭。其城中之所需。皆自南京及蘇,杭而來。 [北京の]朝廷内は文物が盛んで、見るに値する。しかし巷間では道教と仏教を崇拝して儒学を尊ばず、商売には熱心だが農業を怠っている。また衣服が短くて狭いのは、男女とも同様である。飲食は不潔で、身分に関係なく同じ器を用いる。これは夷狄の習俗が残っているもので、誠に遺憾である。また山は禿山、川は濁り、土地は砂土で埃が撒き上がり天を覆う。五穀の実りも悪い。人口の多さと建物の華やかさや物資の豊富さは、蘇州や杭州に及ばない。城内で使う物資はすべて南京や蘇州・杭州から来る。 人心風俗。則江南和順。或兄弟或堂兄弟,再從兄弟。有同居一屋。自吳江縣以北。間有父子異居者。人皆非之。無男女老少。皆踞繩床交椅。以事其事。江北人心强悍。至山東以北。一家不相保。鬪敺之聲。礮鬧不絶。或多有劫盜殺人。山海關以東。其人性行尤暴悍。大有胡狄之風。 人心風俗について言えば、江南人は温和で、兄弟やイトコ、さらにハトコまでも同じ家屋で暮らす。呉江県以北では親子が別居する場合もあるが、人々はみなこれを非難する。老若男女の区別なくみな床几のような椅子に坐り、それぞれの仕事をしている。江北の人心は凶悪である。山東以北では一家が和を保てず、喧嘩の怒声がどこにいても聞こえて来た。強盗殺人事件も多い。山海関以東は人々の性質がさらに暴悪で胡狄の風が強い。 且江南人以讀書爲業。雖里閈童稚及津夫水夫。皆識文字。臣至其地。寫以問之。則凡山川古蹟土地沿革。皆曉解詳告之。江北則不學者多。故臣欲問之。則皆曰。我不識字。就是無識人也。 また江南人は読書をよくする。田舎の童子や船頭・水夫に至るまで、みな文字を知っている。私が通過した地方で筆談でものを尋ねると、山川古跡から土地の沿革まですべて詳細に解説してくれた。江北には文盲が多い。私が筆談でものを尋ねると、みな字を知らないと答える無知な人々だった。 且江南婦女。皆不出門庭。或登朱樓。捲珠簾以觀望耳。無行路服役於外。江北則若治田棹舟等事。皆自服勞。至如徐州,臨等地。華粧自鬻。要價資生以成風。 また江南では婦女は門外に出ず、朱楼に上がって珠簾を巻き上げ観望するのみだった。道を歩いたり労働したりする女子はいない。しかし江北では畑仕事や舟を漕ぐようなことも、みな女たちが自らしている。さらに徐州や臨清のような地では、着飾って坐って客を引いて売春する者もいた。 江南人死。巨家大族。或立廟旌門者有之。常人畧用棺不埋。委之水傍。如紹興府城邊。白骨成堆。江北如楊州等地。起墳塋或於江邊或田畔里閈之中。 江南では人が死ねば、富家では霊廟と旌門を建てるが、庶民は棺に入れるだけで埋葬はせず、河原に放っておく。このため紹興府の城外には、白骨が山積みになっている。江北では楊州等の地だと、河原や田畔や村の傍に墓を造る。 其所同者。尙鬼神崇道佛。言必搖手。怒必蹙口唾沫。飮食麤糲。同卓同器。輪筯以食。蟣蝨必咀嚼。砧杵皆用石。運磨使驢牛。市店建帘標。行者擔而不負戴。人皆以商賈爲業。雖達官巨家。或親袖稱錘。分析錙銖之利。 鬼神を崇め道教・仏教を尊ぶのは、南北とも同じである。話す時には必ず手ぶりをし、怒れば必ず唾を吐く。飲食はひとつのテーブル、ひとつの食器に盛り、回しながら食べる。シラミは必ず噛みつぶす。砧杵はすべて石製で、運搬には驢馬や牛を使う。市街の商店には看板があり、通行人は荷物を背負ったり頭に載せたりしない。人々はみな金銭に執着し、高官や富豪に至るまで自分で秤を持ち歩き、些細な利益まで追求する。 |
旧参謀本部編, 桑田忠親・山岡荘八監修『朝鮮の役:日本の戦史=5』徳間書店, 1965.
旧参謀本部編『朝鮮の役』には資料編として日記・書簡等からの抜粋が収録されているが、朝鮮の経済・社会に関するものはほとんどない。しかし王宮をみてぶったまげたという記録があるので、後の朝鮮通信使が日本の経済発展に驚嘆したという記録と対比するために掲載して置く。「吉見元頼朝鮮日記」は吉見元頼の家臣・下瀬頼直の筆による。吉見元頼は毛利輝元の家臣で、石州津和野城主だった。
この日(文禄元年十一月十七日)もあらまし京城を見物した。大門の様子は五尺ほどの切石で組み上げ、高さ三間、上に二階があり、組物、えどりのみごとさは言葉に尽くせないほどだ。門口は丸く、また周囲五抱えほどの鐘がある。このような門が七つあって、外郭十三里。峰から谷まですべて石垣と築地でめぐらしてあり、いずれも切石が使ってある。その手際のみごとさはたとえようもない。また内裏は王が退かれるとき、自ら放火したそうで、そのみごとさは見ることもできなかった。 しかし門が残っていた。六間ほどの広さで、上に二階造りのりっぱなお座敷がある。また門柱・戸辺には鉄が貼りつけてあった。どれもすばらしい絵模様がついている。鳳凰と白鷺、また牡丹と白鶴である。天井には龍が身体をくねらせて寝ている。生きて動くように見え、恐ろしいほどである。また門の上に五抱えほどの大鐘がつられ、大太鼓もある。池には島がある。島の大きなものには、石の柱で尾形が作ってあるように見えるが、柱だけが残っている。その島には広さ三間ほどの石の反橋があって、欄干も石でできている。 池には二十人ぐらい乗れそうな舟が二隻浮かんでいる。また堀があり、堀の端には、象・獅子、そのほか唐の動物が石で彫りつけてある。大きな切石に鉄の鐶が打ちつけてある。王の御代のときには象を繋いだのだと唐人はいっていた。 どれも日本の都に聚楽を添えたほどだと大谷刑部少輔殿が仰せられたそうである。(pp. 260-261) |
姜(朴鐘鳴訳注)『看羊録』東洋文庫440, 平凡社, 1984.
姜(1564〜1618)は朝鮮の文官で、文禄の役中の1593年全州別試分科に及第した。慶長の役が勃発した1597年には南原で軍糧の供給に当たっていたが、9月23日霊光沖で一家ともども藤堂高虎の水軍に捕われ、二子は海浜に捨てられた。10月に伊予の大洲に連行され、抑留された。翌1598年6月に伏見に移送され、同国人や藤原惺窩と交流した。1600年2月に釈放され、5月19日釜山に到着した。姜は抑留中に朝鮮人や明国人に託した賊中封疏に見聞や回想を加えて『巾車録』と名づけたが、門人の尹舜擧が『看羊録』と改題して1656年に刊行した。
原文は韓国古典翻訳院(http://db.itkc.or.kr)による。
及賊魁之代信長。而箕斂極焉。糞田取盈。蒿秸不屬於民。故將倭富擬秀吉。農民貧無儋石。 賊魁〔秀吉〕が信長に代るに及んで、その取立てが極端になりました。田の産物は何もかも、藁でさえも、農民のものとはならなかったほどですから、将倭の富は秀吉に擬せられ〔るほどであっ〕ても、農民は貧しくて明日の米すらなかったのであります。(p. 26) 糞其田而不足。稱貸而取盈焉。又不足則納其子女。以爲廝養。又不足則囚繫於岸獄。極其侵掠。旣足而後。乃許解縱。故其民雖當樂歲。只食糠粃。登山採蕨根葛根。以度朝夕。又番遞入直。採薪汲水以供之。倭中之可矜者只小民耳。 〔官では〕その田〔の産物〕を全部収奪しても不足とし、〔無理に〕貸しつけておいては収奪します。それでも足りなければ、その子女を取り上げて奴婢にしたり、まだ不足であれば〔農民を〕囚人として牢獄に繋いだりします。極端に取り立てて、やっと〔収奪量に〕達したのち、許して解き放つのであります。それ故、この〔国の〕農民たちは、豊年であってもただ糠・粃を食べたり、山に登って蕨の根や葛の根を採って朝夕をしのぐのであります。そればかりか、かわるがわる宿直をさせられたり、薪採りや水汲みをさせられます。倭の中で矜れむべき者は、ただ小民〔庶民〕だけであります。(p. 66) 其人短小無力。我國男子與倭角力。倭人輒屈。 その〔倭の〕人は、〔背が低く〕短小で力もありません。わが国の男子が倭と角力をとれば、倭人が屈します。(p. 67) 彼見我國之土地膏腴。衣食豐足。其國之法令刻急。戰爭相尋。常相謂曰。朝鮮誠樂國也。日本誠陋邦也。或人輒因其言開風曰。我國待降倭極其恩恤。飮食衣服。一與將官一樣。間有得三品重秩者云。則聽者莫不吐舌嗟嘆。誠心願歸。 彼らは、わが国の土地が肥沃で、衣食が豊かでみち足りており、〔その反面、〕自国の法令は苛酷で、戦争があいついでいるのを見ているものですから、つねづね、 「朝鮮は誠に安楽な国である。〔それにくらべて〕日本は誠に陋しい国である」 と互いに言っております。ある人がその言葉をもとにしてさとすに、〔こう〕言ったそうです。 「わが国は、降倭を待遇するに極めてめぐみあわれんでいる。飲食・衣服は全く将官と一様で、時には三品の高位を得た者もいる」と。 〔これを〕聞いていた者は舌をまいて感嘆し、誠心〔誠意〕、帰順を願わない者はなかったといいます。(p. 69) 嘗問倭將倭卒曰。好生而惡死。人物同此心。而日本之人。獨好死惡生何也。皆曰。日本將官榷民利柄。一毛一髮。不屬於民。故不寄口於將官之家。則衣食無從出。已寄口於將官之家。則此身非我身。一名膽薄。則到處不見容。佩刀不精。則人類不見齒。刀搶之痕在面前。則指爲勇夫而得重祿。在耳後。則指爲善走而見擯斥。故與其無衣食而死。不若赴敵而爭死。力戰實爲身謀。非爲主計也。 以前〔私が〕、倭将・倭卒に、 「生を好み、死を悪むのは、人〔も、生〕物もその心を同じくするであろうに、日本人だけが死を楽しみとし、生を悪むのは、一体どうしてなのか」 と問うたところ、みな次のように答えた。 「日本の将官は民衆の利権を独占し、一毛一髪〔とるに足らぬ物〕も民衆に属するものはない。だから、将官の家に身を寄せなければ、衣食の出どころがない。ひとたび将官の家に身を寄せてしまえば、この体も自分の体ではない。少しでも胆力に欠けると見なされてしまったら、どこへ行っても容れられない。佩刀がよくなければ、人間扱いされない。刀瘡の痕が顔の面にあれば、勇気のある男だと見なされて重〔い俸〕禄を得る。耳の後ろにあれば、逃げ廻るだけの男と見なされ、排斥される。それだから、衣食に事欠いて死ぬよりは、敵に立ち向かって死力を尽くす方がましである。力戦するのは、実は自分自身のためを謀ってそうするのであって、何も主〔公〕のためを計ってするのではない」(pp. 176-177) 蓋其蛇虺之毒。虎狼之貪。阻兵安忍。囂然好戰之心。不惟得之天性。慣於耳目。而其法令又從以束縛之。賞罰又從驅使之。故其將太半奴才。而皆能得人死力。其卒太半脆弱。而皆能向敵爭死。 要するに、〔倭人の〕その蛇虺の毒、虎狼の貪、阻兵安忍、囂然とした〔騒々しくさわぎたてる〕好戦の心というものは、ただこれを天性として身につけ、耳目に慣れて〔親しんで〕いるというばかりでなく、その法令もまた同じく束縛し、賞罰もやはりまた駆り立てるのである。だから、その将の大半が無能であっても、みな家来の死力を得ることができ、その兵卒の大半が脆く弱くはあっても、みな敵に向かって死をかけて戦うことができるのである。(p. 176) 倭俗每事百工。必表一人爲天下一。一經天下一之手。則雖甚麤惡。雖甚微物。必以金銀重償之。不經天下一之手則雖甚天妙不數焉。 倭〔の風〕俗では、あらゆる事がらや技術について、必ずある人を表立てて天下一とします。ひとたび天下一の手を経れば、〔それが〕甚だしく粗悪で、甚だしくつまらない物であっても、必ずたくさんの金銀でこれを高く買い入れ、天下一の手を経なければ、甚だ精妙〔な物〕であっても、ものの数ではありません。(p. 217) 相天文地理人物者。從古無傳。安國寺者稱稍解天文。然亦不過詭言以惑衆耳。醫僧意安。作日影臺銅渾儀。以測天地四方之遠近。然其於觀天象驗人事則蔑如也。 天文・地理・人物をうらなうというのは、昔から伝わったものはありません。安国寺〔恵瓊〕なる者がやや天文を解すると称していますが、それもやはり、でたらめな言辞で大衆の耳を惑わしているに過ぎません。医僧の〔吉田〕意安が、日影台と銅の渾〔天〕儀を作り、天地四方の遠近を測ったといいますが、それとても、天象を観〔測し〕て人事を験するという点では、全然だめであります。(p. 218) 其所所將者。無一人解文字。其使文字。酷似我國吏讀。 そのいわゆる将倭なる者は、一人として文字(漢字)を解する者がありません。その使う文字は、わが国の吏読に酷似しております。(p. 219) 其宮室務極高爽明麗。而材木皆尖細。轉動爲便。堅緻則百不及我國臺榭。 その宮室〔を築く時〕は、極めて高く爽やかに、明るく麗しいように務め、材木はみな細く作って〔移〕転〔移〕動に便利にしていますが、堅〔固〕緻〔密〕さでは、わが国の台榭(高殿)の百分の一にも及びません。(p. 219) 上賜下或曰貢。上臨下或曰朝。其無等級如此。間或爭詰禮貌則却立冷笑。怡然從之。其麤豪紊亂如此。 上から下に賜うのをあるいは「貢」と言い、上が下に臨むのをあるいは「朝」といいます。その〔身分差に対応すべき〕等級のなさは、このようなものであります。時には、争いのさ中にあっても、〔相手が表面的にでも〕敬意をもって礼儀正しくあしらえば、〔自分は〕あとへ却いて冷笑しながらも、平然とこれに従います。彼らの〔行動の〕粗雑さ、みだりがましさはこのようなものであります。(p. 224) 倭巿中俱唐物蠻貨。若其國所產。則除金銀外。別無珍異云。 倭の市中には、唐物や南蛮の産物がそろっております。倭国の産物らしきものとしては、金銀を除けば、それ以外別にこれといった珍しい物はない、といいます。(p. 228) |
園田一亀『韃靼漂流記』東洋文庫539, 平凡社, 1991.
越前国三国浦新保村の国田兵右衛門他58人は1644(寛永21→正保1)年、3艘の船で奥州に向かう途中遭難し、ポシェット湾付近に漂着した。そこで土民に襲われ、生存者15人は奉天、次いで北京に送られ、1646(正保3)年朝鮮経由で帰国した。韃靼漂流記は、江戸での国田兵右衛門・宇野与三郎への聞き取りに依拠したものである。
[韃靼]人の体日本の人よりは大に候。上下共に頭をそり、てつぺんに一寸四方程頂の毛を残し長くして三つに組置候、上髭は其まゝ置、下髭は剃申候。大名小名下々百姓までも共通にて候。女の形は頭の毛を真中より両方へ二つに分、後前へ引廻し鉢巻の様に仕候て居申候。(p. 27) 韃靼の都〔奉天〕は、日本道二里四方ほど御座候。其中に王の御座候処、日本にての城の様子にて候。但日本の御城より麁末に御座候。角々に櫓など御座候。二里四方程の内に、屋形作り町屋ひしと造り並候。大形は日本にて堂寺などのごとく、如何にも大きく造り、丸柱にて、瓦は薬を懸候て、五色に光り申候。又常の瓦も御座候。町屋家も日本のごとく作り、不残瓦葺にて候。併結構なる様子は御座無く候。大に丈夫には見え申候。板敷は無之皆切石にて候。(pp. 21-22) 御法度万事の作法、ことの外明に正しく見へ申候、上下共に慈悲深く、正直にて候。偽申事一切無御座候。金銀取ちらし置候ても盗取様子無之候。如何にも慇懃に御座候。(p. 23) 主と下人との作法親と子との如くに見へ申候。召仕候者をいたはり候事、子のごとくに仕候。又主をおもひ候事、親のごとくに仕候ゆへ、上下共に親しく見へ申候。大名衆の義は不存候、拾人廿人程召仕候人、又は其以下は此通りの様子に見へ申候。下人何ほど召仕候共、のこらず女房を為持、夫婦共に扶持仕候。(p. 27) 大明北京の王城は、日本道六里四方も御座候。北京の人申候は大明の道積りにて申候。我等共北京へ参候時と、朝鮮へ参り候時と王城の両方を通申候。何方も此通りのよし申候。(p. 29) 六里四方の中に、屋形作り、町家、透間もなく御座候。日本にて大なる堂寺の如くに丸柱にて作り、瓦は五色にて、細かに結構なる事御座なく候、いかにも丈夫に仕候、但五六間ばかり程も見へ申候間、殊の外大に候。長屋の外は漆喰詰の石垣にて候。町屋も不残瓦葺にて候、物商売の所は、日本の借店の如くに仕、家主は引込居り申候、又左様に無之処も御座候、商物共万沢に御座候、富貴結構に見申候事、韃靼の都とは殊の外違ひ申候。(pp. 29-30) 北京人の心は、韃靼人とは違ひ、盗人も御座候、偽も申候、慈悲も無之かと見へ申候。去ながら、唯今は韃靼の王、北京へ御入座候に付、韃靼人も多く居申候、御法度万事韃靼の如くに仰付候て人の心は能成候はんと韃靼人申候。(p. 30) 北京より、朝せんの境目迄、道能御座候。此間に幅二三町程の川あり。氷の上を人馬共に渡り申候。夏は船にて越候由申候。其外小川共は、沢山に御座候。国境より朝せんの都迄の間に、大小三ツ有之、是も氷の上を通申候。朝せん国の内は、大かた山路にて、広く打開たる所甚稀に候。(p. 32) |
申維翰(姜在彦訳注)『海游録−朝鮮通信使の日本紀行』東洋文庫252, 平凡社, 1974.
申維翰(1681〜?)は朝鮮の文官で、1719(享保4)年に来日した朝鮮通信使に製述官として随行した。通信使は1719年6月に釜山を出航し、9月に江戸に着いた。将軍吉宗に国書を奉じ回書を受け、10月に江戸を発ち、翌年1月に釜山に帰着した。
原文は韓国古典翻訳院(http://db.itkc.or.kr)による。
一時奉國書。張樂鼓以行。行可六七里而至館。其間夾道長廊。莫非層搆。是爲百貨肆。人之觀者。充滿塡塞。華靡眩眼。視江岸倍盛。至此而精神又眩。不知歷幾街而穿幾町。但見一路平直無塵埃。兩邊皆珠簾畫帳繡屋。屋上下皆紅紺紫黃斑紋衣老壯兒男女。
[大坂で]そのとき、国書を奉じ、鼓楽を張り、行くこと六、七里にして館にいたる。その間には道をはさんで長廊がつづくが、層構にあらざるものはなく、これ百貨を交易する店舗たり。見物する人波が充満墳塞し、その華靡なること、眼も眩むばかり。その盛んなること江岸よりも倍加し、ここにいたっては精神もまた眩む。いくつの街を経たのか、いくつの町を通り抜けたのか知らないが、ただ一路平直にして、一かけらの塵埃もなきを見る。両側にはすべて珠簾、画張、繡屋がつらなり、屋の上下はみな青、紅、紺、紫、緑、黄の斑紋衣を着た男女老少が人垣をなしている。(p. 116) 黃昏抵名護屋。自洲股至此。爲尾張州。鉅麗雄富。殆與大坂伯仲。樓前陌上。翠帷彩箔。有紅絲鳳尾。綴以眞珠者。皆貴人姬妾。其爲十字街黃金屋百貨肆。種種奇觀。望之眩眼。 黄昏に名護屋(名古屋)に着いた。洲股からここまでは、尾張州である。鉅麗雄富、ほとんど大坂と伯仲する。楼前の街路に引きまわした翠帷は、箔をもって彩り、紅糸の鳳尾がある。真珠をもって綴った者は、すべて貴人の姫妾である。その十字街の黄金の屋、百家の肆は、種々の奇観をなし、これを望めば眼もまばゆいばかりである。(p. 154) 觀光男女。塡塞充溢。仰看繡屋梁楣間。衆目交攢。無一寸空隙。衣裾漲花。簾幙耀日。視大坂倭京。又加三倍。 [江戸で]見物する男女が墳塞充溢して、繡屋を仰ぎ看れば、梁楣間に衆目があつまって一寸の空隙もない。衣の裾には花が漲り、簾幕は陽に輝く。大坂(阪)、京都に比べて、また三倍を加う。(p. 177) 日本無科第取人之法。官無大小。皆世襲。所以奇材俊物。不能自鳴於世。使民抱恨而圽者。多此類矣。 日本には、科挙試によって人を採用する法がなく、官は大小にかかわらずみな世襲である。奇材俊物が世に出て自鳴することのできない所以である。民間人のなかで恨みを抱きながら世を去るもの、多くはこのたぐいである。(pp. 246-247) 余見倭人所用器皿百物。皆玄漆如鑑。宮室船板橋輿等處。亦皆施漆。漆光照耀。與我國所見判異。 余は、倭人が用いるところの器皿百物を見たが、みな、黒漆が鑑の如く、宮室、船板、轎輿などにもまた、すべて漆を施す。漆の光沢は照輝として、我が国で見るそれとはまったく異なる。(p. 286) 飮食之制。飯不過數合。味不過數品。極其草草。隨食更添。無有餘遺。飯後飮C酒。次進果。果後啜茶而罷。 飲食の制は、飯は数椀、おかずも数品にすぎず、きわめて草々(手軽い)としている。(p. 287) 板爲壁。每一面必設三粧子。推轉開闔。而無樞環之制。一間之廣。皆爲三步。而一國皆同。無毫髮差爽。每間鋪茵席三張。又無差爽。是以障子與茵席。或缺其一。則雖置於他方而補之。皆如合符。國中所用尺度之精。可知也。 板を用いて壁となし、一面ごとに必ず三つの障子を設け、推転開閉に枢環(とぼそで開閉する)の制はない。一間の広さはみな三歩にして、その規格は一国内がみな同じく、少しの差もない。間ごとに茵席(畳)三枚を舗き、その規格もまた差がない。障子と茵席が、その一つが欠けることがあっても、他方からこれを補って、みな符合する。国中で用いられる尺度の精なることが知られる。(pp. 290-291) 蓋以工巧爲尙。而專昧禮法。國君之居。不立制度。而平民富豪。亦可與王侯競奢。其無等級如此。 けだし、工巧のみを尚び、礼法はまったく明らかでない。国君の居は制度が立たず、平民富豪もまた、王侯と奢を競いうる。その等級なきことかくの如くである。(p. 291) 夏月暑時。蠅蜹甚稀。此則以室中精潔無汚。魚肉腐敗者。卽埋于土。廁間臭穢者。卽移田畔。蠅蜹無從而化矣。蚊蝱一起。 夏の暑い時、蝿がはなはだ稀である。これはすなわち、室中を清潔にして汚さず、魚肉の腐敗したものはただちに土に埋め、厠間の悪臭を放つものはただちに田畔に移すからである。だから蝿が生じる余地がないのである。(p. 292) 佛宇亦在閭里中。僧徒與甿俗雜處。時見民家有坐觀音金像。緇徒數人。立而擊磬。又有高大金佛。露坐於道傍者甚多。而造像之工。似不如我國矣。 仏宇はまた閭里のなかにあり、僧徒は民間と雑居し、ときには民家に観音金像を安置して、僧徒数人が立って磬を撃つのを見ることがある。また、高大な金像が路傍に露坐しているものがはなはだ多いが、造像の工は、我が国には如かざるようだ。(p. 293) 日本人求得我國詩文者。勿論貴賤賢愚。莫不仰之如神仙。貨之如珠玉。卽舁人廝卒目不知書者。得朝鮮楷草數字。皆以手攢頂而謝。 日本人が我が国の詩文を求めること、貴賎賢愚を問わず、神仙の如くに仰がないものはなく、珠玉の如くに珍重しないものはない。すなわち、轎を舁ぐ者や僕卒など目に書を知らない者も、朝鮮の楷書数字を得ればみな頭の上に手を合せて謝す。(p. 302) 今觀其俗。不以文用人。亦不以文爲公事。關白以下各州太守百職之官。無一解文者。但以諺文四十八字。略用眞書數十字雜之。爲狀聞ヘ令。爲簿牒書簡。以通上下之情。國君之導率如此。 今、その俗を観ると、文をもって人を用いず、文をもって公事をなさない。関白はじめ各州の太守、百職の官は、一人として文を解するものなく、ただ諺文(仮名)四十八字をもってし、ほぼ真書(漢字)数十字をこれに混用す。これで、状聞や教令をつくり簿牒や書簡もつくって、上下の情を通事あう。国君の指導が、おおむねかくの如くである。(p. 304) 國中書籍。自我國而往者以百數。自南京海賈而來者以千數。古今異書百家文集。刊行於闤闠者。視我國不啻十倍。 国中の書籍は、我が国から往ったものが百をもって数え、南京から海商たちが持って来るものが千をもって数える。古今の異書、百家の文集にして書肆で刊行されたものは、我が国に比べて十倍どころではない。(p. 305) 女色多妖姸怪麗。雖不施脂粉。而大扺細膩皓白。其傅粉濃粧者。亦以肌膚軟澤。自然如本色。卽畫眉紅顏K髮花簪。着五色紋錦衣。以帶束腰抱扇而立者。望之不似人形。髻用冬柏油香膏諸物。髮光如漆。 女性の容貌は、多くのばあい、なまめかしくて麗しい。脂粉を施さなくても、たいてい肌がきめこまかくて白い。その脂粉を施して化粧した者でも、肌が軟らかくてつやつやしく、生来のものの如くに自然である。すなわち、眉を画き、顔をいろどり、黒髪、花簪に五色紋の錦衣を着け、帯をもって腰を束ね、扇をいだいて立つと、これを望めば人の形のようでない。髻には冬柏油(椿油)や香膏の諸物を用い、髪は漆の如くに光沢がある。(p. 311) 淫穢之行。便同禽獸。家家必設浴室。男女同裸而浴。白晝相狎。夜必設燈而行淫。各齎挑興之具。以盡歡情。卽人人貯畫軸於懷裡。華牋累幅。各寫雲情雨態。百媚千嬌。又有春藥數種。助其荒惑云。 淫穢の行はすなわち禽獣と同じく、家々では必ず浴室を設けて男女がともに裸で入浴し、白昼からたがいに狎れあう。夜には必ず燈を設けて淫をおこない、それぞれ興をかきたてる具をそなえて、百媚千媚の雲情雨態(男女交情)を写す(浮世絵の春画のこと)。また春薬(媚薬)が数種あり、その荒惑(心が狂いまどう)を助けるという。(p. 312) 日本男娼之艶。倍於女色。其嬖而惑者。又倍於女色。 日本の男娼の艶は、女色に倍する。人の気にいられ人を惑わすこともまた、女色に倍する。(p. 315) |
金仁謙(高島淑郎訳注)『日東壮遊歌』東洋文庫662, 平凡社, 1999.
金仁謙(1707〜1772)は朝鮮の文官で、1764(宝暦14)年に来日した朝鮮通信使に従事官の書紀として随行した。通信使は1763(宝暦13)年9月に釜山を出航し、翌1764年2月に江戸に着いた。金仁謙は将軍家治への謁見に参列せず、3月に江戸を発ち、6月に釜山に帰着した。この回が、江戸まで往復した最後の通信使だった。また朝鮮通信使の紀行文で、ハングルで書かれているのは本書だけらしい。
11月29日 壱岐・勝本で (pp. 186-187) | ||
丘の上には毎日 | 倭人の女どもが集まり | |
乳房丸出しにして指差しながら | 首を振っておいでおいでをする | |
尻をはだけて叩き | 手を振って招く | |
裾をまくって下を見せ | 呼んだりもする | |
恥じらいというものまったく見られず | 風俗は淫らである |
1月22日 大坂で (p. 241) | ||
美濃太守の宿所の傍らの | 高殿にのぼり | |
四方を眺める | 地形は変化に富み | |
人家もまた多く | 百万戸ほどもありそうだ | |
我が国の都城の内は | 東から西に至るまで | |
一里といわれているが | 実際は一里に及ばない | |
富貴な宰相らでも | 百間をもつ邸を建てることは御法度 | |
屋根をすべて瓦葺きにしていることに | 感心しているのに | |
大したものよ倭人らは | 千間もある邸を建て | |
中でも富豪の輩は | 銅をもって屋根を葺き | |
黄金をもって家を飾りたてている | その奢侈は異常なほどだ |
1月22日 大坂で (p. 242) | ||
この良き世界も | 海の向こうより渡ってきた | |
穢れた愚かな血を持つ | 獣のような人間が | |
周の平王のときにこの地に入り | 今日まで二千年の間 | |
世の興亡と関わりなく | ひとつの姓を伝えきて | |
人民も次第に増え | このように富み栄えているが | |
知らぬは天ばかり | 嘆くべし恨むべしである |
1月22日 大坂で (p. 242) |
この国では高貴の家の婦女子が | 厠へ行くときは | |
パジを着用していないため | 立ったまま排尿するという | |
お供の者が後ろで | 絹の手拭きを持って待ち | |
寄こせと言われれば渡すとのこと | 聞いて驚き呆れた次第 |
1月27日 枋方〜淀間で (p. 248) | ||
河の中に水車を設け | 河の水を汲み上げ | |
その水を溝へ流し込み | 城内に引き入れている | |
その仕組みの巧妙さ | 見習って造りたいくらいだ |
1月27日 京都で (p. 251) | ||
沃野千里を成しているが | 惜しんで余りあることは | |
この豊かな金城湯池が | 倭人の所有するところとなり | |
帝だ皇だと称し | 子々孫々に伝えられていることである | |
この犬にも等しい輩を | 皆ことごとく掃討し | |
四百里六十州を | 朝鮮の国土とし | |
朝鮮王の徳をもって | 礼節の国にしたいものだ |
2月3日 名古屋で (p. 264) | ||
わけても女人が | 皆とびぬけて美しい | |
明星のような瞳 | 朱砂の唇 | |
白玉の歯 | 蛾の眉 | |
芽花の手 | 蝉の額 | |
氷を刻んだようであり | 雪でしつらえたようでもある | |
人の血肉をもって | あのように美しくなるものだろうか | |
趙飛燕や楊太真が | 万古より美女とのほまれ高いが | |
この地で見れば | 色を失うのは必定 | |
越女が天下一というが | それもまこととは思えぬほどである | |
これに我が国の衣服を着せ | 七宝で飾り立てれば | |
神仙鬼神もさながらと | 恍惚感いかばかりだろう |
2月16日 江戸で (p. 282) | ||
楼閣屋敷の贅沢な造り | 人々の賑わい男女の華やかさ | |
城壁の整然たる様 | 橋や舟にいたるまで | |
大坂城〔大坂〕、西京〔京都〕より | 三倍は勝って見える | |
左右にひしめく見物人の | 数の多さにも眼を見張る | |
拙い我が筆先では | とても書き表せない | |
三里ばかりの間は | 人の群れで埋め尽くされ | |
その数ざっと数えても | 百万にはのぼりそうだ | |
女人のあでやかなること | 鳴護屋〔名古屋〕に匹敵する |
汪鵬(さねとう けいしゅう訳)「唐人屋敷」岩生成一編『外国人の見た日本 1 南蛮渡来以後』筑摩書房, 1962.
汪鵬は浙江省銭塘出身の商人で、三回渡日した。1764〜65年に長崎の唐人屋敷に滞在したときの見聞を『袖海編』にまとめた。『外国人の見た日本1』のさねとう訳は抄訳で、全訳は『長崎県史史料編四』にあるらしいが、未見である。
遊女には、かしこいものが多い。ことばも、はきはきして、応対にたくみである。化粧もじょうずで、うつくしい顔に、みごとな衣裳をつけている。(p. 159) 長崎は、またの名を瓊浦[たまのうら]という。まことに風土がすぐれて、山も川もうつくしい。ここに住む人は、中国の人とおなじように、かしこく、さとい。男女が結婚の時をうしなったり、しごとにあぶれたりすることがない。その教えは民を正しくするようになっている。いにしえの中国の道が、ずっとおこなわれているのである。むかしから周の礼をならい、孔子の書をよんでいるので、道徳があきらかになり、ものの順序がみだれず、すべての政事がうまくいっている。中国にまけないはずである。(p. 164) 日本人の性質は、おだやかであって、ひどくおこっていても、とげとげしいことばづかいがなく、むっとした顔つきもしない。(p. 165) 日本の風俗では、葬式があると、酒さかなを断つと聞いていたが、いま見たことのあらましをのべると、肉食をするものは、きわめて少ない。日本人は、あっさりしたものをこのみ、清潔を愛する。(p. 171) |
朴趾源(今村与志雄訳)『熱河日記』東洋文庫325,328, 平凡社, 1978.
朴趾源(1737〜1805)は李氏朝鮮時代の文人で、1780(正祖4)年の祝賀使に随行して北京・熱河に赴き、『熱河日記』を書いた。
突然、自分の身体が瀋陽城内にあった。宮殿城郭から街衢の整然たるさまは、繁華で壮麗である。私はひとりごとを言った。これほど壮観だとは意外だ。家へ帰って自慢話をしてやろう。(1巻, p. 74) へんぴなところのぼろ家でも、その日用の食器は、みな、金や碧の絵付けのある椀や楪〔皿〕であった。奢侈を尊ぶからそうなのではない。陶工や窰元の仕事が、本来、おのずからそうなのである。粗末な瓷器、劣悪な窰が使いたくても、手に入らないのである。(1巻, p. 192) 何百何千という玩具をずらりならべて売買していた。みな子供たちの一時のたのしみに供するものであるが、その品物が珍しいばかりでなく、その作り方も精巧であった。(1巻, p. 298) 大体、中国の名士、大夫は、娼家や酒屋を嫌悪しない。だから、『呂氏家訓』〔宋の『呂氏郷約』か〕で、茶・酒をあきなう店への立入り、出入りを戒めるわけである。朝鮮では、人々の酒の飲みっぷりは、天下にすさまじいけれども、いわゆる酒屋は、みなきわめて貧しいつくりである。道端の小さな角門、藁なわでのれんをつくり、竹細工の輪を燈にしたところは、必ず酒屋である。(2巻, p. 157) 中国の飲食は、みな箸を使い、匙がない。さしつさされつ、名残りを惜しみ、ちびちびと酌みながらたのしさをたすけるが、飯をかきあつめる長い匙がなく、一口食べると、すぐ拾い取る方法である。よく小さな勺を使って羹をすくうだけである。(2巻, p. 178) |
羅森(野原四郎訳)「ペリー随伴記」岡田章雄編『外国人の見た日本 2 幕末・維新』筑摩書房, 1961.
羅森は広東生まれで、後に香港に移住した。1853年4月にペリー艦隊が香港に来たとき、フィルモア大統領の日本宛国書の漢語訳を作ろうとした。当時香港にいた宣教師のS・W・ウィリアムズは、親交があった羅森に助力を求めた。1854年1月にペリー艦隊が再度日本に向かう際、羅森は中国語通訳官ウィリアムズの書記役として随行し、琉球・日本を訪れた。『外国人の見た日本2』の野原訳は抄訳で、全訳は『大日本古文書・幕末外国関係文書』にあるらしいが、未見である。
ついで、公館内でアメリカ各官が、饗宴の食卓によばれて款待をうけた。ただし、食卓に上ったものは、鮮魚、牡蠣、蜆、玉子、大根、日本酒だけであった。この辺の人民は、牛羊豚を養っていない。また料理をせずに、生のまま食物を客人に出す習しである。鶏を飼っていても、数年の間、料理にも使わずに放ってある。食物の点でいえば、到底中国にかなわないことがわかる。(p. 64) 婦人は、家にいても街路にいても、男と一緒に起居している。道端で呼び止めても、すぐ寄ってくる。雇女のなかには、肌を露わに出して、働いているものが少くない。公衆の面前で、男は太腿を出して憚らない。女が春画をみていても怪しまれない。男女が混浴して平気な銭湯というものさえある。外国人があらわれる度に、男も女も飛んできて見物する。だが二本差しの武士がくると、彼らは道路の両側に身を退いてしまう。(p. 70) 一国には、その一国なりの善政というものがある。日本は国が中国よりも小さいが、しかし略奪暴行の風は、かつて行われたことがない。家屋の入口は、紙を糊づけした障子をはめてあるが、こそ泥が入るようなこともない。世の中が治まるようにする仕方に、それぞれ得意とするところがあることが、これでわかる。(p. 71) 店内にはやはり羽二重、縮緬が積まれていたが、中国のには及ばない。ただ蒔絵の漆器はきわめて見事な品物であり、珍重されている。(p. 74) |
高杉晋作「遊清五録」『東行先生遺文』日記及手稿, pp. 72-124.
(http://porta.ndl.go.jp/Result/R000000008/I000147042)
高杉晋作(1839-67)は奇兵隊で有名な長州藩士で、尊王攘夷派の志士として活躍した。1862(文久2)年に幕府が上海視察団を派遣すると、高杉は幕府使節随行員として参加した。視察団には五代友厚(薩摩藩)や中牟田倉之助(佐賀藩)らも参加していた。官船・千歳丸は4月29日に長崎を出港し、5月6日に上海に到着した。視察団は太平天国の乱で動揺する上海を見聞し、7月14日長崎に帰港した。「遊清五録」は航海日録・上海掩留録・外情探索録・内情探索録・崎陽雑録の五つをまとめたもので、漢文と和文が混在している。
午前漸到上海港、此支那第一盛津港、歐羅波諸|邦商船軍艦數千艘碇泊、檣花林森、欲埋津口、陸上則諸邦商館紛壁千尺、殆如城郭、其廣大巌烈、不可以筆紙盡也、(pp. 75-76) 午前、ようやく上海港に着いた。ここは支那で最も繁盛している港である。ヨーロッパ諸国の商船や軍艦が数千隻も碇泊し、帆柱が森林のように港を埋め尽くしている。陸上には諸外国の商館が並び、その白壁はほとんど城郭のように広大厳烈で、筆舌に尽くし難い。 去英館十五六間計、有橋、名新大橋、去今七年前、古橋朽崩、支那人不能再建、因英人建此橋、支那人毎通行、貢壹錢于英人云、(pp. 77-78) 英館から十五、六間ほど離れたところに橋があり、新大橋という。今から七年前、古い橋が朽ちて崩れたが、支那人は再建できなかった。そこで英国人この橋を架けた。支那人は橋を渡るたびに英人に一銭を払うと言う。 徘徊于街市、土人尾予輩來、土人臭氣蒸人、猶炎暑蒸人、予亦甚窮矣、(p. 78) 市街を歩いていると、地元民が我々につきまとう。地元民の体臭は酷いし、暑さも甚だしく、私も困り果てた。 此日終日閑坐、因熟觀上海之形成、支那人盡爲外國人之使役、英法之人歩行街市、C人皆避傍讓道、實上海之地雖属支那、謂英佛属地、又可也、(p. 79) この日は終日閑だったので、上海の形成について熟考してみた。支那人はすべて外国人の召使になっており、西洋人が市街を歩くと清国人は皆これを避けて道を譲る。上海は支那の領土ではあるが、これでは英仏の領土と言っても過言ではない。 去此到孔聖廟、々堂有二、其間空地種草木、結宏頗備、然賊變以來英人居之、變爲陣営、廟堂中、兵卒枕銃砲臥、觀之不堪慨嘆也、英人爲支那防賊、故支那移聖像他處、使英人居于此云、(p. 81) そこを去って孔子廟に至った。廟には堂がふたつあり、その間の空地には草木を植え、手入れが行き届いていた。ところが太平天国の乱以来英国人が入って来て、軍事拠点にしてしまった。堂内で英兵が銃を枕にして寝ていた。これを見て慨嘆を禁じ得なかった。英国軍が賊から支那人を守るため、支那の聖像を他所に移し、英国人がここに居留しているのだと言う。 六月十四日、暁天與中牟田到西門外、觀支那人錬兵、々々處乃防賊陣営、看其兵法、似威南塘兵法而非者、銃隊以金鼓爲令、爲操引操進、其餘無變化、銃砲盡中國制、而甚不精巧、兵法與器械皆無西洋、唯陣屋用西洋、(p. 82) 六月十四日、明け方中牟田とともに西門外で支那人の錬兵を見学した。錬兵は長髪賊を防ぐためのもので、その兵法を見ると威南塘兵法に似るが同一ではない。鐘太鼓によって銃隊に命令を下し、前進や後退をさせるが、その他は変化しない。銃砲はすべて中国のもので、きわめて不精巧である。器械に西洋のものはなく、ただ陣屋だけが西洋風である。 支那之衰微形勢略記に申候通、然るに如此衰微せし者、何故をと看考仕候に、必竟彼れ外夷を海外に防く之道を知らさるに出し事に候、其證據に者、萬里之海濤を凌くの軍艦運用船、敵を数十里之外に防くの大砲等も制造成さす、彼邦志士之譯せし海國圖志なとも絶板し、徒に僻気象を以唱へ、因循苟且、空しく歳月を送り、斷然太平之心を改め、軍艦大砲制造し、敵を敵地に防くの大策無き故、此衰微に至候事也、(p. 85) 上海は支那南邊の海隔僻地にして、嘗て英夷に奪はれし地、津港繁盛と雖とも、皆外國人商船多き故なり、城外城裏も、皆外國人の商船多きか故に繁盛するなり、支那人の居所を見るに、多くは貧者にて、其不潔なると難道或年中船すまいにて在り、唯富める者、外國人の商館に役せられ居る者也、爾し、城外城裏共、街市に者随分富る商人も居る様子なり、思ふに、少しく學力有り、有志者、皆北京邊江去り、唯今日日雇之人部錢を取り、一日一日之すきわけなす者多し、元と上海者土地より者人者多し、多けれとも皆前文所謂之日雇非人等耳也、(p. 104) |
黄遵憲(実藤恵秀・豊田穣訳)『日本雑事詩』東洋文庫111, 平凡社, 1968.
黄遵憲(1848〜1905)は清末の外交官・詩人・日本学者で、1877〜82(明治10〜15)年に日本に滞在し、『日本国志』(1887)のような日本研究書を書いた。『日本雑事詩』は、滞日中の1879(明治12)年に日本の同文館から刊行された。さらに補筆修正した定本版が1898年に中国で出た。
はじめて来航して、平戸に停泊した時、上陸して、あぜ道づたいにやってくると、夕陽があかく染めたところに、麦の苗がまっさおにみえた。民家のかたわらに、じゃがいもがあったので、これを買おうとおもい、代金をやろうとしても、うけとらない。民風素樸で、まるで桃源にはいったようである。また、長崎では、嫁と姑とがいさかいをする声も聞こえず、道におとしものでもあると、かならずおとし主をたずねて返す。商家では手伝人をやとい、それに鍵をまかせて外出しても、なに一つなくなるということがない、ということだ。まことにすばらしいことではないか! いわゆる「人、礼儀をたっとび、民、盗淫せず」というものであろうか。なんでも二、三十年まえまでは、国内いたるところ、こんな風であったそうだが、いまでは、東京・横浜・神戸の人民は、狡猾なものもいるとのことである。(p. 42) 監獄はたいへん清潔で、起居飲食すべて規律によっている。病人には酒をあたえることもある。ただ拘禁するだけで、械をはめたり縛ったりはしない。身体にも苦しみをうけるということは全然なく、絞首刑に決定したものは、刑を行なうときには、教誨師か神官・僧侶などが、経をよんで後悔させ、来世は天国にうまれかわることを祈るという。(p. 75) 町筋はまことにきちんとしている。何区、何町、何番地ということを、はっきりと地図にしるしてある。家ごとにみな門に名をしるしている。(p. 79) だからかの国の子供は、ことばをならってからは、仮名に通じて、小説をよんだり、てがみをかいたりすることができる。仮名は、ときには漢字につづけてつかわれる。ただ仮名だけつかえば、女でも読めないものはない。(p. 106) おもうに、日本人は天性文章にたくみなのであろう。物茂卿のいってるように、(文章を)わが(中国の)音で、上から読ませたならば、わが国人になかま入りをすることも、むつかしいとはいえない。朝鮮や安南などは、もんだいにならない。(p. 126) 「三国志」にはまた「男女別なきも、しかも淫ならず」といっているが、いま夫婦がそろってあるいていても、妻はしたがい、夫は信頼している風致がみえる。お客をみると、あいさつをするが、羞じしぶるという態度はなく、それかといって狎れてちかづくということもない。やはり、(中国の)いにしえの風俗のとおりである。(pp. 159-160) 清潔ずきであるために、浴場はたいへんに多い。男女混浴をゆるしていたが、ちかごろは、禁令がでた。しかし、なが年の習慣は除きにくいもので、男湯・女湯の距離は極くわずかであるが、いつもみなれているから、すこしもはずかしがる様子もない。(p. 178) 日本の制度は、大部分、唐にならっている。唐のころは、やはり地に席してすわっていた。だから日本では椅子がなかったのである。(p. 210) 日本人は最も模造に長じ、精巧で廉価である。西洋人の商業を論ずるものは、みなその能力をねたみ、日本人にぬすまれ、うばわれることを、おそれているという話である。(p. 257) 日本の漆器は、もっともりっぱなものだといわれている。泥金・描金・灑金で、雲烟・山水・花木・鳥獣をえがき、たくみな画家でも、とてもおよばない。また種々の色漆で描くものがあり、爛々として人の目を射、その意匠は飛動しているような気がする。螺鈿の器は、ちりばめかたが、微に入り、これを拭えば、すこしの塵痕をもとどめないようである。(p. 273) 摺りたためる扇は、じつは日本人にはじまった。またの名を聚頭という。竹をけずって十三本をつくる。長さ三、四寸、これを腰にはさむ。また二尺のながさの泥金紙に鳥木の柄をもちいたものもある。(p. 276) |
柵瀬軍之佐『朝鮮時事−見聞随記』春陽堂, 1894.
柵瀬軍之佐(さくらいぐんのすけ, ?〜1937)は岩手県一関市出身の政治家で、1907(明治40)年以降衆議院議員として活躍した。政治家になる前の1894(明治27)年6月、毎日新聞記者として朝鮮に渡り、日清戦争開始直前の朝鮮の事情を取材した。
釜山府使の厩舎と稱する不潔なる屋宇の前に至れば。二箇の年老いたる婦人瓶を頭上に戴きて進み來れり。余等暫く佇立其爲す所を熟視すれば。彼等は便所の側にて其の瓶を頭上より下ろし。携へたる眞鍮の瓶を執りて。湛へる計りに其の小便を酌み分け。再び是を頭上に戴き。急ぎ南方を指して皈へり行けり。而して其の歩行する度々。ダラ/\と頭上より肩邊に流下する小便は。白衣を霑ほし。恰かも不時の降雨に打たれたる旅人に異ならず。如何に韓人の頭脳の卑底なる是の如く甚だしと雖も。小便を觀る水の如くならずんば。決して斯かる始末は出來ざる筈なり。(p. 11) 朝鮮の農家は概して田園に肥料を施す事を爲さず。多くは路傍若くは明き地を所ろ擇ばず。便所と心得敢て殊更に是を設置する所なし。故に掃除運搬の必要を認めざるは一般なるも。其少しく高貴と呼ばるゝ者の宅に至りては。特に便所の設置ある故。是を掃除運搬するに當りては婦人多くは是れが任に當り。矢張り小便と同じく是を頭上に戴き。男子なれば背に擔ふ。韓人の潔不潔を知らざる既に然り。(p. 12) 只た施政暴横の結果として。彼等は財資を貯蓄するの念なく。家屋を壯麗にするの意なく。生活を高尚にするの心なく。總ての者は皆な纔かに一片憐む可き炊烟を舉げて一日一日を送過する事を勤め。更らに年後生計の策を畫せざるに至りては。轉た感涙の淋漓たるあるのみ也。(p. 13) 朝鮮國が是の如き美なる天然の山河を有して。未だ一人の聞ゆるなきは抑も何如にぞや。其の生民たる多くは頑鈍不明。其家屋たる悉く臭穢不潔。其生活たる總て卑低醜陋。山河の勝と伴う者些ばかりも見る事を得ざるは。眞に怪訝の現象として觀過するの外なきなり。(p. 29) 殊に奇なるは通常人の妾とす。彼等は良人の許諾或は勸奬に依り。夜々春を他人に鬻き。而して其の良人は月末に至れば。自ら奔走して妾が賣春の代を取り立て廻はれり。(p. 38) 文明的利器にして人勞を節する者に向ては。飽まで不同意を表し。徹頭徹尾舊來の面目を維持保存する上に向て一歩も假借する所なきなり。(p. 41) 文學の書史殆んど觀る可き者なく。一世亦た擧げて此般の志想を要請する者なし。況んや工藝美術の如き。優美高尚なる者に至りては。荒涼落寂地を掃て其奇を出さず。適ま骨董店頭陶器銅器竹器。及び軸物等の珍奇なる者なしとせざるも。是れ多くは朝鮮開國以後の作にあらず。高麗新羅の時代に成れる者のみなり。(p. 43) 途すがら行く/\觀る所。草屋茅蘆の不潔狹隘なる家屋。不規則に併立し。道路の兩側には今を盛りと黄金花咲きて蒸々と鼻を劈き。目にさへイトゞ臭氣薫じて容易には開く可くもあらず。左れど流石に京城は輦轂の許なり。豆人寸馬の往來中々に繁く。遠く是を望めば恰も鴻雁の列を正して翔けるが如く。近く是を觀れば鷺鶿の稲田に落ちたらん如く。總ての道路は皆な白衣の人を以て滿たされぬ。(p. 44) 習風の然らしむる所とは云へ。婦人は余等が形影を認めば直ちに踵を廻して遠く戸側に隠れ。或は偶然行き合ふて最早や避くるの機會を有たざる者は。クルリと背を示し。青き覆ひ衣もて顔面を包む。而して小児は亦た不思議相に。ツク子ンと立て余等が形貌を眺め。犬は高く吠えつゝ追はざるに自ら遁て影もなし。(pp. 44-45) 殊に驚くべきは飲食店とす。如何に廣き東京市中の縄暖簾を尋ねたりとて。朝鮮飲食店の醜穢なるにはいかでか及ばん。彼等は立ち乍ら「どぶし」とて。嗅ぐさへ身の毛よだつ程なる惡酒を傾け。且つ牛頭の皮を剝いだる儘。大鍋に投じてグラ/\と煮立たせ。四邊には蟻の如くに白衣の韓人集り來り。銘々勝手に最と長き箸を執り。滅多矢たらに牛頭をほじくりて食ふ様。中々以て其醜状の万一だも形容する可きに非ず。(p. 45) 想像を以て想像し能はざるは韓人一般の生活なり。彼等は元より衣冠嚴裝應對謹嚴容易に半開國の人民として見る可からず。然れども其の生活の程度情態を一見するに至りては。其貧其賤憐む可く。亦た悼む可き者あるを感ず。其原因の如きは彼等疎懶怠惰の致す所多々なる可きも。重大なる主因としては。何人も政治の暴横然らしめしを評し。而して彼等亦堅くシカ信ぜるなり。(p. 54) 地方官の任務を帯びて初めて其地に臨むや。靜かに土地の状況を察し。其地住活者に執りて。最も遵守し難き。寧ろ遵守し得ざる暴令惡法を發布し。配下に向つて先つ釀酒を禁じ。肉食を禁じ。以て凶歳の用意に備ふ可しと警す。元より肉食國なる朝鮮。飲酒家多き朝鮮に於て。是の禁令の到底維持さる可き者に非ざるは。發令者亦既に詳知し居るなり。(p. 57) |
永井荷風「上海紀行」『荷風全集 第一巻』岩波書店, 1992, pp. 365-370.
永井荷風(1879〜1959)は著名な小説家で、『あめりか物語』『ふらんす物語』等の作品を残した。旧制中学卒業後の1897(明治30)年9月、父母と弟とともに上海に旅行した。「上海紀行」は1898年2月に高等師範学校附属尋常中学校の『桐陰会雑誌』に発表されたもので、荷風の処女作とされる。
只見る前方一砲台あり旗旌堂々城壁山の如し四夷犯すと雖何ぞ能敵せんや三千年来の大国の盛思ふに足る(p. 366) 三租界共に是道路往麗楼台玲瓏我東京の比にあらず毎朝馬車あり道路を掃除し更に馬車又水を灑き塵埃人の鼻を穿つを防ぐ其の美租界と英租界の間の花園大橋より英租界を貫き江に傍ひて法界に到る一条の道路は実に上海中第一の壮観となす左は是漫々たる大江軍艦商舶橋を連ね右は是峨々たる高楼瓦を連ね軒を接す其の間一条の道や両傍樹木を植う樹下の人道は東西外人中華人老若男女肩を摩して行く処中央の大路馬車人車自転車争ひて進む真に是東洋第一の貿易場に恥ぢず(p. 367) 古申城(黄浦乃申江に面するを以て申城又春申城と云)は法租界(ふらんす居留地)に接し城中市街花園及官邸鋪子等あり四方高壁を囲し六箇の門あり現在尚夜十時を以て門を関し人をして出せしめず道路家屋皆中国固有の風を存す外人不潔と称して入らざるも中部の楼亭及予園等に至つては実に建築の宏大に驚ざる可からず多年惜哉修めざるが故に今や昼棟朝飛珠簾暮捲の観を失せるも一見誰れか当年の状を思量せざる者あらんや(p. 368) 一日小史華人少山及姜栄金と共に路を小東門に取る蓋し城内小門新北門の二門の間最も商鋪盛大繁栄の処たり小東門に入れば真珠欄干金額の商鋪相接し綢緞衣服象牙珠玉女靴花簪等各色の物価を売買せり道路尽く瓦を敷き甚狭少人常に摩して行く故に輿の外一つの小車を入るゝを許さず而して此両門の間は往々外国人の遊覧する者あるを以て鋪店の中稀に英国話を解する者を見る小東門を入る遠からず邑廟に達す(pp. 368-369) 九月九日是重陽節にして人々登高するの時たり小史客中正に重陽登高の節に遇ふ而して邑廟内園又此日園扉を開くと聞き乃再び姜乃阿部と共に新北門より入る邑廟を拝し終て廟後の園に至る亭あり池あり建築甚宏大記に云ふ明人瀋充庵建つる所と今や粉壁朱欄塵に汚ると雖も又壮観旧時の美を失はず楼内沈香を焼いて神を祭り楼前の庭上静に管絃を奏す俗未だ欧風に流れず節必祭りをなす寔に感す可し(p. 369) |