欧米から見た中国


 マルコ・ポーロが中国を訪れたのは、元朝のフビライの治世だった。大航海時代に入ると、マッテーオ・リッチが明の万暦帝の宮廷に入り、イエズス会による宣教の道を開いた。それ以来、中国各地で常時カトリックの宣教師が活動するようになった。英国は清朝廷に貿易の自由化を迫るため、1793年にマカートニー使節団を派遣した。その後英中関係はこじれ、1840年のアヘン戦争につながる。この戦争で清朝廷は威信を失い、太平天国の乱(1851〜64年)をはじめ多くの内乱が起きた。こうした清末の混乱を背景に、欧米列強はこぞって中国に進出し、多数の欧米人が押し寄せるようになった。
 ここでは19世紀までの欧米人による中国人・中国社会への評価をまとめた。漢族以外の民族への評価は、すべて省略した。以下で〔 〕は原文中にある注、[ ]はこのページ独自の注である。なるべく原文どおり入力するように努めたが、注番号や傍点等やルビは省略した。





目次
マルコ・ポーロ『東方見聞録』
オドリコ『東洋旅行記』
マッテーオ・リッチ『中国キリスト教布教史』
アルヴァーロ・セメード『チナ帝国誌』
『イエズス会士中国書簡集』
ジョージ・マカートニー『中国訪問使節日記』
オーガスタス・リンドレー『太平天国』
ハインリッヒ・シュリーマン『シュリーマン旅行記 清国・日本』
グスタフ・クライトナー『東洋紀行』
ジョージ・カーゾン『極東の諸問題』
イザベラ・バード『中国奥地紀行』(リンクのみ)



マルコ・ポーロ『東方見聞録』
マルコ・ポーロ(愛宕松男訳注)『東方見聞録』東洋文庫158,183, 平凡社, 1970-71.

 マルコ・ポーロ (Marco Polo, 1254~1324) はベネチアの商人で、1275年に元の大都に至り、フビライ帝に厚遇され17年間中国にとどまった。1292年に泉州を発ち、1295年にベネチアに帰った。『東方見聞録』は、ジェノバの捕虜となっていた1298年に同囚のルスチケルロに口授したもの。以下でタルタールはモンゴル、カタイは中国北部、マンジは中国南部を指す。

食糧の点から言っても、この国ではそれに不足を来たすようなことはない。それというのも大部分が、特にタルタール人・カタイ人及びマンジの住民は米・ヒエ・アワを常食とするし、それにこれら諸地方では、この種の穀物は一粒の種から百倍の収穫が得られるからである。タルタール人以下これらの住民はパン食をしないで、ただ米・ヒエ・アワに乳や肉を混ぜて料理し、これを常食にするだけである。コムギはこの国にも多少は産し、揚げ煎餅にしたり捏粉菓子として食用に供している。この国では耕しうる土地は残らず耕作されているし、家畜もどしどし増殖してその数は非常なものになっている。 (1巻, p. 254)

カタイの人々は絶えず学問に意を注ぎ科学の探求を志しているから、学識も深く風習も純良であって、この点についてはほかのどの国民よりも優秀であるというのがマルコ氏の見解であった。彼らの風習の中でマルコ氏がひどく嫌悪を感じ全く辟易したのはわずかに一つだけだった。カタイ人は能弁で、話し振りは率直である。人に挨拶を交わすにも和顔微笑しつつすこぶる鄭重であり、食卓をともにしても紳士らしく礼儀正しい。そのほか万事について皆そのとおりである。彼らは両親を非常に尊敬する。もし両親を立腹せしめたり扶助を怠るような息子があれば、それこそ不孝の事実が実証され次第、不孝者の厳罰を職掌とする官署がこれを制裁する。 (1巻, p. 270)

カタイの乙女たちは、貞淑なことと身を持するに謙譲な点では他に比類がない。彼女たちはおしゃべりにうつつをぬかすような見苦しい遊楽にはふけらないし、ダンスに興じることも執ように人にせがむこともない。まして窓ぎわにたたずんで通行人の顔を眺めたり、あるいはまた通行人に己が容貌を見せびらかすなどは絶対にしない。浮いた噂話などに耳を傾けて信じこむこともないし、宴席その他の歓楽場に出入りすることもない。 (2巻, p. 10)


オドリコ『東洋旅行記』
オドリコ(家入敏光訳)『東洋旅行記−カタイ(中国)への道』桃源社, 1979.

 ポルデノーネのオドリコ (Odorico of Pordenone, 1286~1331) はイタリアの宣教師で、1325〜28年頃に中国に滞在した。オドリコは北イタリアのポルデノーネ町付近で生まれ、フランシスコ会の修道院に入った。1314年に東方布教の旅に発ち、ペルシアのソルターニーイェで5〜6年布教活動をした。その後インドへ渡り、マドラスから中国船に便乗してスマトラ島、ジャワ島、ボルネオ島、チャンパを経て広東に上陸した。大都(北京)には3年滞在し、1328年に帰路につき陸路を通って1330年にイタリアに帰国した。

このマンジ州にはゆうに二千の大都市があり、それ等の大都市は非常に巨大なため、トレヴィソもヴィチェンツアもその数に入れられぬほどであり、またこの地方の人口は非常に多くて、我等には信じ難い程である。〔そして多くの場所で我々がヴェネチアの昇天祭で見かける群衆よりも多い人出を見ることが出来た。〕この地には大量のパン・ぶどう酒・肉・魚・米その他世界の人々が用いるあらゆる種類の食糧があり、またこの州のすべての人々は技芸や商業を営み、どんな貧困者でも手足でおのれを助けうる間は、決して施与をうけようとはしない。 (p. 95)

住民は全く美しい身体をもっているが、顔は青ざめており、あごひげは猫ひげで猫のようにまばらで長く垂らしている。女性はと云えば世界最高の美人揃いである。(p. 95)

この大汗の豪奢なこと、および宮廷における壮麗さを語っても、眼で見なければ信ぜられぬだろう。しかしこのような莫大な費用を皇帝が消費することについては誰も驚くにたらぬ。そのわけは大汗の全領土で貨幣として使用されているのは、貨幣として流通する紙幣に外ならぬからであり、他方無限の財宝が皇帝の手許に入ってくるからである。(p. 125)
また長い爪をしているのは上品さのしるしで、人によっては拇指の爪を手先を取りまくほどに生えさせている者もある。そして女性が美人であるというのは、小さな足をもつことである。それゆえ彼女等の母親は娘が生れると、足が決して大きくならぬようにとその足を縛るのが習わしである。(p. 131)


マッテーオ・リッチ『中国キリスト教布教史』
マッテーオ・リッチ(川名公平訳)『中国キリスト教布教史』大航海時代叢書第U期8, 岩波書店, 1982.

 マッテーオ・リッチ (Matteo Ricci, 1552~1610) はイタリアの宣教師で、1582年マカオに着いて以来死ぬまで中国にとどまり、西洋と中国の文化を互いに紹介する多くの著作を残した。リッチはイエズス会修道士としてゴアに渡り、ヴァリニャーノ (Alessandro Valignano, 1539~1606) の招きでマカオに移り、中国語と中国文化を学んだ。1583年に中国南部の肇慶に定住したリッチは、中国名を利瑪竇と称し、儒服を着て官界への接触をはかった。1601年には北京定住の許可を得、以後『坤輿万国全図』『天主実義』『幾何原本』等の著作を残した。『中国キリスト教布教史』は、リッチが晩年にイタリア語で書いた報告書に依拠している。

しかし普通の食器としては、ポルトガッロ人がポルソラーナ〔磁器〕と呼ぶ器があり、これは世界で最も清潔で美しいものだ。極上品は、その器をつくる土の出るキアンシーノ〔江西〕省産のものである。そこから全国に大量に送られ、さらには他国にも送られてエウローパにも届いている。それは食事にいちばん要求される外観の美しさと清潔さを具え、しかも熱いものや煮えたったものを入れても割れたり壊れたりすることがない。 (p. 17)

わたしたちは、この国民がたいへんにすぐれた才能を具え勤勉であることを、評判や確かな資料をつうじて知っている。さらに、前章で述べたところから、この国の技術がいずれも非常に完璧であることは容易に理解できよう。そのうえ、あらゆる技術を花開かせるのに必要な材料にも、賃金や報酬にも、事欠かない。 (p. 22)

建築は、建物の美しさの点でも、強度の点でも、わたしたちのものよりも劣る。建築に関しては、チーナ人と比べてわたしたちの国の人びとに批判すべきところがあるとは思えない。彼らの建物は、彼らが生きているごく短い年月しか持ちこたえられず、わたしたちの建物のように一〇〇〇年にも及ぶ耐久性は無い。 (p. 22)

チーナ人はたいへんな絵画好きだが、わたしたちには及ばない。彫像や鋳造の技術は非常に劣っている。 (p. 24)

彫刻となると実に惨憺たるものだ。彼らには目に頼る他に比例や均斉に関する規則があるのかどうか知らないが、目というものは対象が大きいと実にやすやすと欺かれるものだ。そのほか、石や青銅で非常に大きな彫像を作る。 (p. 25)

しかし楽器の調律はわたしたちと似ており、同じ協和音を使う。ところが楽曲はことごとく平調歌曲から成り、バス、アルト、テノールという声部の変化がなく、わたしたちのような歌曲もない。そのため、わたしは当地で声部の調和というものに出会ったことがないが、彼らはそれでしごく満足していて、この世にほかの音楽があるとは思ってもいない。 (p. 25)

このように若干の点でチーナ人とわたしたちが異なるところもあるが、きわめて似たところも実に多い。とくに世界中で、彼らとわたしたちにしかないものがひとつある。すなわち、高い食卓で食事をし、椅子に坐り、寝台で寝ることだ。他のいかなる国でも、食べたり、座ったり、眠ったりするときは、すべて床の上で行なわれる。これは遠く隔たったふたつの地の注目に値するところだ。 (p. 28)

彼らが最も精通している学問は道徳学であった。ところが、弁証法をまったく知らないので、語ることも書くこともまるで非学問的で混乱しており、天性の光で捉えたことを格言や談話によってつづってゆく。 (p. 31)

この道徳学についでチーナ人が精通していたのは天文学と数学系の学問だ。算数と幾何学にはとてもすぐれていたが、これもまったく混乱したものだった。 (p. 33)

医術はわたしたちのものとはまったく異なっているが、脈ははかるようである。彼らは、多くの場合、非常に効果的な治療をするが、それは草や根やその他の材料をつかうまったく素朴なもので、むしろわたしたちの薬草療法に当る。 (p. 35)

この王国は非常に広大で人口も多く、食糧もあり、船、大砲、その他の武器をつくる材料もあるので、それを用いれば、少なくともすべての近隣諸国を容易に支配下におくこともできるのだが、それにもかかわらず国王も国民もそれにこだわることもそれを論議することもなく、自国に満足して他国を欲しがるということがない。この点はまさしくわたしたちの国々と非常に異なるところだ。わたしたちは他国に君臨しようと望んでしばしば自らの国を失い、領土拡張の飽くなき欲望にとりつかれて、チーナ人のように、何百年、何千年にわたって固有の領土を維持することもできなかった。 (p. 69)

こういう具合だから、心の雄々しい男は軍人になろうとせず、武官よりもむしろ身分は低くとも文官になりたがる。実際、評価や収入の点でも、人びとが抱く敬意の点でも、文官の方がはるかにまさっている。そして、わたしたちにとってさらに不思議なのは、事実、文官の方が軍人に比べてはるかに高貴な魂をもち、国家に忠実であり、危急の際には、もっぱら軍事に携わる者に比べていとも易々と祖国や国王のために死んでゆくことだ。これは学問が彼らの魂を高貴にするためかもしれず、あるいは、そもそもの初めからこの国は常に武よりも文を高く評価してきたためかもしれない。 (pp. 70-71)

礼儀〔礼〕は、彼らにとって基本的なものとして、書物にも大きく取り扱われる五つの美徳〔仁義智信〕のひとつであり、それは互いを敬い、物事を慎重に行なうことにある。それゆえ、年々、こうした礼儀作法がふえてゆき、一日中そのために出歩いてほかのことをする時間もなくなるほどだ。識者はそれを苦々しく思って嘆くが、なかなかなくすことができない。 (p. 77)

女性はいずれも小柄で、その美の主要な部分は小さな足にあるとされている。そのため、幼いときから足を布できつく縛って、おおきくならないようにする。それゆえ女たちは皆いわば足が不具になり、死ぬまでその布を巻いたままなので、びっこをひくようにしか歩けなくなる。これは、女たちを町なかに出さず、家のなかにとどめておくのが、彼女たちには最もふさわしいことだとして、誰か頭の良い男が考えだしたものらしい。 (p. 98)

犯罪の前にはきわめて寛大で、とくに暴力を伴わない窃盗には寛大である。初犯者が死刑になることはまずない。二度目にはインクと火で泥棒の腕に窃盗を繰り返したという意味の二文字を記す。三度目になると、顔に泥棒という意味の文字を記す。このように、窃盗が露見した回数に応じて、法の定める打擲や入獄の刑罰を科す。このために、ことに下層民の間には泥棒が多い。 (pp. 103-104)

門をこちらに向けるかあちらに向けるか、庭の水を右へ流すか左に流すか、窓をこちら向きにつくるかあちら向きにつくるか、家の前にわたしたちの家よりも高い別の家があるかどうか、そのほか似たようなことで、健康、富、名誉、その他その家庭の幸福を左右しようというのであるから、これほど愚かしいことはあるまい。 (p. 108)

まず第一に無節操なことだ。これは、柔弱で、享楽的であり、あらゆる生活必需品が豊かなこの国の人びとにきわめて顕著なところだ。その点では彼らはひどく節度がないので、成年に達するまでに結婚を待てずに、二〇歳になるまえに青年たちは結婚する。一五歳とか一四歳の者も多い。そのためになかには力が弱くて子供ができない者もあるようだ。それが気に入らなければ、最初の妻を追い出して、改めて結婚することができる。 (p. 109)

それにしても、こうした問題で最も嘆かわしく、またこの国の人びとの悲惨さを明らさまに示しているのは、彼らの間では、自然な欲望のみならず、不自然な倒錯した欲望も少なからず満たされているところだ。それは法律で禁止されもせず、不正であるとか恥ずかしいと考えられることもない。したがって、それは公然と話題にされるし、どこでも行なわれ、それをやめさせる者もいない。都市のなかには、この嫌悪すべきものが隆盛をきわめているところもあり、たとえば、都市の頂点に立つこのパッキーノには、娼婦のように化粧をした男の子供があふれている公道がある。 (pp. 109-110)

そのほか、妻を買うに足るだけの金はあって、妻を買うのだが、やがて息子たちや娘たちを養育できなくなり、せいぜい二、三スクードという、豚一頭、瘠せ馬一頭を売るよりも安い値段で子供たちを売る者がいる。しかもこれは飢饉でも何でもないときのことなのだ。 (p. 110)

多くの地方に見られるもうひとつの悪習は、子供がとくに女の子の場合には、育ててゆけないからと言って、水につけて窒息させ殺してしまうことだ。これは身分のある人や高貴な人びとの間にも行なわれる。子供たちを否応なしに人質にとられるのを恐れるからだ。 (p. 111)

さらに、いっそう野蛮なのは、希望を失ったために、あるいは他人に害を及ぼすために、自殺することだ。毎年、こうして何千人もの男女がほんの些細な原因から、ある者は野外で、ある者はその敵対者の家の戸口で縊死し、井戸や川に身を投げ毒を飲む。 (p. 111)

官吏が憎悪や金銭のために、あるいは友人に頼まれて、こういう不正を働くので、チーナでは誰もが自分の財産を保つことができず、いつも中傷によって自分の財産がみな奪われてしまうのではないかと怯えて暮らしている。 (p. 113)

この王国では、不正直や嘘が横行し、教養のある人も、貴族や学問を積んだ人でも平然と嘘を言うのは、こうした習慣のためであるのは疑いない。したがって誰もが他人を信頼せず、友人や同郷人の間だけでなく、近い親戚の間や、兄と弟の間、父親と子供の間でも互いに疑いを抱き、誰も信用しようとせず、とても用心深くなる。それゆえ彼らの交際は立派な言葉を並べるだけの外面的な儀礼であって、心のこもった真の友情や愛情を伴わない。 (p. 114)

しかも彼らは何事も外国の書物から学ぼうとはしない。世界に関する知識はことごとく自分たちの国内にあり、他の国々はいずれも無知で野蛮だと考えているらしい。 (p. 115)


アルヴァーロ・セメード『チナ帝国誌』
アルヴァーロ・セメード(矢沢利彦訳注)『チナ帝国誌』大航海時代叢書第U期9, 岩波書店, 1983.

 アルヴァーロ・セメード (Alvaro Semmedo, 1585~1658) はポルトガルの宣教師で、明末清初の中国でイエズス会チナ副管区の幹部として活動した。『チナ帝国誌』は、1641年に出版された。

彼らの住居はわれわれのもののようにきらびやかでもないし、長もちもしない。しかし間仕切りがたくみでずっと便利であるし、清潔であるのではるかに居心地がいい。 (p. 268)

つぎにこの国の物資の豊かさについて語ろう。国土が非常に広大で、いくつもの緯度にまたがっていて、気候がいたって変化に富んでいるために、この国ではさまざまな産物が収穫され、消費されており、まるで神が世界の他の国々にお分けになる一切のものをここに集中なさったかのように思えるのである。 (p. 269)

眼も一般に黒くて小さい。鼻も小さく、われわれヨーロッパ人とちがって高くもなければ長くもない。彼らはこういった形の鼻をおかしく思い、醜悪だと判断している。 (p. 304)

彼らの肉体は均斉がとれてる上に頑丈にできていて力は強い。そのために彼らはすぐれた労働者である。土地自体が大層肥えているうえに、このすぐれた労働者の技術と汗が加えられるものだから、土地は一段とよくなっていったのである。 (p. 305)

彼らは生まれながらにして商人である。彼らが行なってる商いは信じられないほど大規模なもので、ひとつの省から他の省に商品を運んで巨額の利益(他国向けに売りに出される場合をとってみれば、その国内運搬業者たちは、一年に二度に亘って三割の利を得ているほどである)をあげるばかりでなく、同一都市内にあっても同様の利潤をあげている。 (p. 307)

さてもとに戻って、チナ人のことを論じると、彼らは親切で、仲間づき合いもよく、礼儀も正しい。 (p. 310)

彼らの間ではなにごとであろうと残酷なやり方は憎悪されている。したがって、犯罪者を処罰する際に、われわれが凶悪犯人を処罰するとき用いるような四つ裂きとか、やっとこ責めとか、曳きずりまわすとかいったような処罰は行なわれない。死罪に相当するものには、斬首か絞首の刑を与える。 (p. 311)

彼らの礼儀正しさは非常なものであり、儀礼にはいたってやかましい。まるで終わることがないようでもあり、人間に対するものというよりもむしろ神に対するものに思えたりするほどである。 (p. 313)

この土地からもたらされる工芸品が示しているように彼らはいたって器用である。もっとも高級品は一切到来していない。象牙、黒檀、珊瑚、琥珀等の細工に非常に巧みである。とくに婦人の身を飾るための金銀の耳飾りや、こまごましたものの製作は上手である。鎖の製作技術はすばらしい。……銀製のうつわものを使用することでは、ほとんどあらゆる点からいって、ヨーロッパの方に軍配が上がる。……この磁器こそはまさに比類のない美しいうつわである。金糸は当地ヨーロッパにくらべると少ない。しかし紙を縒って本物の金糸そっくりに見せかける技術は大変巧みである。……しかし一般的に見て、あらゆる機器の製作に関しては、われわれの方が彼らに優っている。ただし例のチャラン〔漆〕を使う技術はべつで、これはどうみても類のないものである。 (pp. 314-315)

彼らにごくすばらしい才気が備わっていることは否定できないことである。アリストテレスは、アジアは智においてヨーロッパに優り、ヨーロッパは力においてアジアに優ると述べてアジアの人々を称賛することをちゅうちょしなかったが〔『政治学』第七巻第七章〕、このことは当然チナ人にも当てはまるのである。 (p. 315)

ただ靴はきわめて小さくて、このような小さな足が大人のものであるとはまさに信じられないほどである。もとはといえばこのことは女性が少女期に入って間もないころ、足の成長をとめるために緊縛してしまうのが原因なのである。当地ヨーロッパで言われているように、女を歩かせないようにするためではない。たしかに足が小さいということは美人とみなされる一要素であるという考えをほとんどの人が受け入れてはいるが、分別のあるチナ人たちは、足を小さくするこの風習を大変馬鹿げたことだとしている。 (p. 321)

婦人の籠居は特に目立つことである。街頭では、いといけない年ごろのものであろうと、女性の姿は見かけることがない。男性は女性を家に訪ねることができない。女性の住む部屋は聖所として、特別視されている。 (p. 321)

今日使われている紙の発明は一八〇〇年前のことである。その種類の多さ、生産される量のおびただしさは大変なもので、全世界の紙をもってしても、チナ一国の紙に太刀打ちできるものではないと確信している。紙の質の良さにおいてもかなうところはない。 (p. 328)

算術は、わたしが沢山ある彼らの書物のなかで見たところでは、その証明法といい、図形といい、四則に関してはよく整備されている。代数学には無知である。ごくありきたりの代数をさえ実際に使うことはまれである。 (p. 358)

幾何学はかなりの発達をとげている。非常に遠方の地域については知識をもたなかったので、それらの地域を分割したり、その辺界を記したりすることはできなかったとはいえ、自国を描いた地図は素晴らしく出来がよく、鮮明である。 (p. 359)

天文学。チナ人は数学の全分野に対していたって関心が深い。しかし国民全体からいえば、その知識は乏しい。数学が職業として成り立っていなくて、特定の人が国王の命令でこれを学ぶからである。 (p. 361)

音楽。チナでは音楽は古人の大いに尊ぶところであった。あの偉大なコンフソ〔孔子〕が、自分の統治している国において音楽教育の必要を力説したのも、そのためであった。現在ではチナ人たちは、音楽の基礎が忘れられ、またこの基礎のことを扱ったほとんどすべての古書が失われてしまったといって嘆いている。こういうわけであるから、今日行なわれている音楽は上流人士たちには尊ばれていない。 (p. 363)

絵画についていえば、彼らは技法の完全さを求めないで、人々の好奇心をひきたてることに工夫をこらす。彼らは陰影を使うこともないし、油を用いることもない。 (p. 366)

医学。これこそチナの諸学問のうちで最もすぐれたものであり、それに関する立派な多数の古書がある。そのすべてがチナ人の著したものである。われわれヨーロッパ人の著した書物についてはそこでは知られていない。 (p. 367)

宗教への傾倒ぶりからいえばチナ人はハポン〔日本〕人に遠く及ばない。三つの宗教があるが、そのいずれかに迷いこむまいとしてか、あるいはそのすべてに迷いこもうとしてか、彼らは〔奇妙なことに〕それらを折衷しようとつとめている。 (p. 412)

多くの国々がチナの束縛から自ら脱却したことも事実だが、チナ人の方も多くの国を拘束することを望まずに、大胆にも、それらを放任したことも間違いないことである。チナ人は、他国を侵略しようとすれば、それを獲得する際の苦労に加えて、それを維持していくのも大変ということもあって、それよりはむしろ本土に引きこもり、これを平和に保つほうがずっと得だと見なしているからである。 (p. 427)

この多数にのぼる兵士の中で辺境を守るものについていうならば、彼らに勇気がないというわけにはゆかない。何度もタルタリア人を撃退したこともあれば、ハポン〔日本〕人が一五八九年になんらの抵抗も受けずに全コリア〔朝鮮〕を横断した上で、チナの征服を考えた時に、彼らを撃退したこともあったのである。海軍もまた戦闘を行ない、たびたび勝利を収めている。 (p. 429)

このチナの君主の住まいのなかで、彼の第一の都である北京市にあるものは、もしわたしの考えに誤りがなければ、人間がつくったものとしては最上のものといっていいのである。というのは、ヨーロッパ、アジア、アフリカそしてアメリカの各地について、そしてまたそこにある宮殿についてのわれわれの情報が十分なものであるとすれば、これと十分太刀打ちできるほどの宮殿はどこにもありえないと確言してもいいのである。 (p. 455)

この国の統治のしかたには驚嘆せざるを得ないものがある。厳格にことをはこび、人を畏怖させ、儀礼を大切にすることでいうと、大変なもので、このことはどんなに強調しても、しすぎることはないほどである。あれほど国土が広大であるにも拘わらず、罪人一人が罰を逃れようとしても、かくれおおせないのである。 (p. 464)

国王は官吏の言葉が自分の意に副わなくても、その言を聞くし、官吏の方も危険を省みずに自由に言上する。この関係は申し分がなく、両者に対する賞賛を引き起こさずにはすまない。 (p. 506)

女性は大変慎み深い。父親とか夫たちは男に身を売る商売女を経験しているのに、妻はといえば、夫でもない男がどんなものか知ることなどきわめてまれである。 (p. 509)


『イエズス会士中国書簡集』
矢沢利彦編訳『イエズス会士中国書簡集1〜6』東洋文庫, 平凡社, 1970-74.

 『イエズス会士中国書簡集』は、18世紀にフランスで刊行されたイエズス会宣教師の書簡集から、矢沢利彦が中国関係のものを選んで訳出したものである。

1702年11月26日付、フーケからラ・フォルス公宛書簡
古代の教会にあっては信者となった婦人たちが同性のものたちを教えこみ、聖なる洗礼への心構えをさせました。シナの婦人は生来いたって慎み深く、控え目で、男の前にはほとんど姿を現そうとはしませんし、いわんや外国人としゃべったり、かれらの言うことを聴いたりするような勇気をもたないでしょうから、シナにおいても古代教会のやり方を取る必要があります。 (1巻, p. 15)
シナ人は大部分のものがいたって立派な才知をもっているのですが、多分慣れていないせいでしょう、弁証法の細かい議論には弱いのです。 (1巻, p. 18)

1702年、フランソア・ノエル「シナ布教に関する覚書」
なかんずく毎朝路上に遺棄される子供への洗礼は大したものです。シナのように治安のゆき届いた国にあって、このような言語道断な無秩序が大目に見られていることは驚いたことです。北京の人口は数えきれないし、また子供が多すぎると思うものは自分の子供を路上や公共の場所に捨てることになんのためらいももたないからなのですが、子供たちは捨てられた場所で憐れな死に方をするか、野獣に食われてしまうかします。 (1巻, p. 73)

1703年2月10日付、ド・シャヴァニャックからル・ゴビアン宛書簡
しかしながら、これらのひとびとの改宗のために働いている宣教師たちが、当地にあって、克服することの大変むずかしい障壁に遭遇していることは否定することができません。シナ人が他のすべての国民に対してもっている軽侮の念はそのもっとも大きなもののひとつでありまして、この考えは下級の民衆のなかにさえもあるのです。自分たちの国、自分たちの風俗・習慣、自分たちの金言にうぬぼれきっていますから、彼らはシナ起源でないものがなんらかの注目に値するなどということは納得することができません。 (1巻, p. 94)

1765年9月9日付、ブノワからフォルバン伯爵夫人宛書簡
この帝国にはどんなに賞賛しても賞賛しきれないふたつの法律があります。第一はその役人が生まれた町および省で役人の職につくことを禁じるものです。この法を無視することは絶対にできません。これ以上に昔から変わることなく、またこれ以上に正確に守られている法律は恐らくないでしょう。第二の法はかれが公務についている省において一切の縁組みを結ぶことを禁じるものです。 (3巻, p. 306)

1700年11月1日付、ド・プレマールからル・ゴビアン宛書簡
それは世界でもっとも富んだ、またもっとも栄えている国がこの点ではある意味で全世界のもっとも貧しい、またもっとも悲惨な国でもあるということです。土地がいかに広く、いかに肥沃であったとしても、住民を養うには足りません。住民を安楽に暮させるためには四倍の国土が必要でしょう。 (4巻, p. 4)
さらにシナの貧民に対してはヨーロッパの貧民に対するように、彼らが怠惰であるとか、またはかれらが働く気持があるならば暮して行けるだろうというような非難を浴びせることはできません。これらの不幸なひとたちの労働や辛苦は想像を絶するものがあるからです。 (4巻, p. 5)
子供が多すぎて困ることを恐れた両親が好んで棄てるのは女児なのです。かれらは女児には男児に対するほどの憐れみをかけません。けだしかれらは女児の方が厄介ばらいをしたり、生計を得る途を得させるのがむずかしいと考えているからです。 (4巻, p. 10)

1727年12月15日付、コンタンサンからイティエンヌ・スーシエ宛書簡
シナの古代の帝王たちは、徳を鼓吹するために、きわめて賢明な法律と、きわめて純粋な道徳的金言とを子孫に残すだけでは満足せず、これを維持し、これを増大させるために、いくつかの外面的な慣習を定めました。これらのもっともたたえるべき慣習のうちのひとつは各市の知事(知府・知州・知県)がその誠実さと、掟にかなった行為によって推奨に価する人物を専らもてなすために、毎年用意することになっている祝宴であります。 (4巻, p. 153)

1778年7月31日付、無記名の在シナ宣教師の書簡
しかし、信者たちをだまし、かれらを動揺させるために信じられないほど多くの陰謀が行なわれるのです。シナ人はこの点では無情の策略家なのです。役人はどんなに高くつこうと、勝たなくてはならないのです。かれはそれに自己の名誉をかけており、決して退くことはないのです。 (4巻, p. 317)

1712年9月1日付、ヂャックマンからイエズス会会計係宛書簡
ただひとりの役人(知県)がいかに易々と民衆を統治しているかを見てびっくりします。かれは自分の印を押した一枚の紙葉の上に自分の命令を記して町々や村々の辻に貼らせます。そうするとただちに命令が遵守されるのです。 (5巻, p. 167)
わたしはシナ人よりも好奇心の強い国民を見たことがないということをつけ加えておきましょう。かれらはなんでも見たがり、聴きたがります。さらにもしだれもかれらを怒らせないならば、かれらは温和で平和的です。しかしかれらは一旦感情を傷つけられると、ものすごく暴力化し、復讐を好むようになります。 (5巻, p. 169)
稀れにしか起こらないことであるこの種の機会を除けば、シナ人はいたって扱い易い国民で、自分たちに対してなにがしかの権威をもっているひとたちに対しては深い尊敬を捧げます。かれらは通常称讃の言葉をひどく欲しがります。ことに多少学識のあるものはその点が著しいのです。しかしかれらは銀の方を一層欲しがるように思えます。用心に用心を重ねた末でなければ、かれらには決して銀をあずけるわけにはいきません。それでもなおかつしばしば裏切られるのです。 (5巻, p. 170)

1767年9月1日付、ブルヂョワからアンスモ宛書簡
この国民は大きな悪徳をいくつも身につけています。もっとも主なものは傲慢ということです。わたしはかれらが残酷ではないのに驚いています。しかし信仰がかれらの心のような心にはその席を占めにくいということには驚いていません。 (5巻, p. 326)


ジョージ・マカートニー『中国訪問使節日記』
ジョージ・マカートニー(坂野正高訳)『中国訪問使節日記』東洋文庫277, 平凡社, 1975.

 ジョージ・マカートニー (George Macartney, 1737-1806) は英国の外交官で、1793年に大使として乾隆帝に謁見した。1792年9月21日、マカートニーは軍艦ライオン号でポーツマスを出航し、1793年8月5日白河岸に上陸した。一行は9月2日に北京を発ち、9月7日に熱河に到着した。9月14日、マカートニーは乾隆帝に謁見し、英国式に片膝をついて敬意を表した。しかし貿易拡大については具体的な成果を出せず、9月26日に北京に戻った。10月7日、マカートニー一行は北京を出発し、天津・杭州を経て12月19日に広東に到着した。1794年1月8日、ライオン号は広東を出航し帰国の途に着いた。

堤の上に鈴なりに群がっていた人間の間に、数名の女性を見かけた。彼女たちはきわめて軽快に歩きまわっていて、中国人に通常見られるような纏足をしていないのだろうと思ったほどである。事実、この習慣は北部の諸省ではあまり見られなくなっているということである。これらの女性はよく日に焼けているが、みめ形は悪くない。髪の毛はいずれも黒くごわごわしているが、それを手ぎわよく編み、頭のてっぺんの所で、かんざしでとめている。子供たちはきわめて数が多く、ほとんどが素っ裸である。男は概して顔立ちがよく、手足がよく発達しており、たくましく筋骨隆々としている。 (pp. 22-23)

中国の建築は他のどこの国の建築とも異なるもので、部分と部分の組合せ方やプロポーションのとり方が、大体において、われわれの流儀とは大きく違う。しかし、全体としての印象は悪くなく、けっして見た目に不愉快なものではない。 (p. 24)

この日と次の日は、主として出発の準備をすることと、旅の日程をとり決めることで費やされた。この仕事をするのに、われわれの世話をするように命ぜられている何人かの官人が、全く驚嘆に値するほど規則正しく、機敏に、手早く助けてくれた。確かに中国政府の機構と権威は、ほとんど即座にどんな困難でも克服し、人間の力でできることなら何でもしでかしてしまうほどによく組織され、強力である。 (p. 27)

ところが、中国人は航海術について並み外れて無知であるために、海岸でしばしば難破して行方不明になる。なぜなら、中国人はヨーロッパ人を知るようになってから二百五十年以上経過しているにもかかわらず、またわれわれの船や航海ぶりを見て讃嘆するくせに、どんな些細な点でも、船の構造や操縦方法をまねしたことがない。頑固に相も変わらず、無知な先祖の古い習慣や不器用なやり方に固執しているのだ。この国ほど船舶操縦技術を必要とする国はないのだから、このような怠慢さ加減はそれだけ一層異常というべきである。 (p. 33)

これほど数の多い包装物(その多くは非常に重く、不恰好で、運びにくい)を短時間のうちに動かす時に示されたあの敏速さ、あの力強さ、あの活発さは、中国以外のどこの国がまねしても、どんな苦心をしようと、とてもかなわないと思う。中国においては一切が国家の直接の支配下にあり、いくら骨の折れる仕事でも、これほどの専制政治の下ではちょっと思いもかけないほど、さっさと、楽しそうに引き受けてやりこなしてしまう。中国人は使える力を何倍かにすることにより、どんな重いものでも持ち上げたり移動させたりするすべを心得ているようである。 (p. 42)

貧民の間では子供を捨てることが普通に行なわれている、と中国の歴史を書いたほとんどすべての書物に出てくるが、彼はそれを事実であると認めた。警察は毎朝早く荷車を一台出して町をまわらせる。荷車は捨て子を拾いあげて、彼らを埋葬するための穴、すなわち墓地へ運ぶ。宣教師たちはしばしばその場に立ち会って、健康そうで元気を回復しそうな子供を二、三人引き取って保護する。残りは、生きていようが死んでいようがおかまいなく、穴の中へ投げこまれる。 (p. 62)

中国人は久しく前からわれわれのヴァイオリンを取り入れている。もっとも、まだ普及しているわけではない。また、このごろでは彼らの音楽を罫紙に記すことを習い覚えている。このことから察せられるのは、彼らは虚栄心や自惚れが強いが、教えを受けることを満更拒もうとしない事柄が多少はあるということである。 (p. 65)

長城が建造された遠い昔、中国はきわめて強大な帝国であったに違いない。のみならず、中国人はきわめて賢明で徳の高い国民であったに違いない。少なくとも、後世の人々が心配をしながら不確実な資源に依存する目にあわないように、みずから巨大な労働力と富とを費やす重荷をあえて背負って、将来の侵略を防ぐことができる恒久的な安全保障となる(と当時考えられた)ものを一挙に建設するという先見の明と、子孫に対する配慮とを彼らが有していたのは立派なことだ。 (p. 77)

現在の王朝が樹立されるまでは、中国は外国を侵略する計画を抱いたことはないようである。現在でも、臣民どもを帝国の境域の中に閉じ込めておくことは、中国が好んで採っている政策の一つである。 (pp. 77-78)

儀式を貫く特徴は、アジア的な高貴さに特有な物静かな威厳と目立たないような華やかさにあった。このようなものはヨーロッパ人の洗練さの程度をもってしては、まだ到達していないところである。 (p. 93)

[北京の]街路はどれも舗装されていない。したがって、雨が降れば泥んこになり、晴れた日には、どこもかしこも、何もかも埃をかぶって不愉快この上もない。しかし、我慢のできないほど街路を不快なものにするのはその悪臭である。毎朝早く、前の晩からのごみや汚物を十分注意して始末しているにもかかわらず、悪臭はほとんど終日漂いつづけている。 (pp. 140-141)

もし北京の宮廷に本当の誠意がないとなれば、長いことわれわれに空約束だけをあてがっておくことができるなどと、彼らは期待してはならないだろう。イギリスのフリゲート艦二、三隻があれば、彼らの帝国の全海軍力を圧倒することができ、中国沿岸の海上交通をひと夏の半ばほどの時間ですっかり破壊し、主として魚を食糧としている沿海諸省の住民を完全な飢饉の状態に陥れることができるということを、彼らが知らないはずはあるまい。 (p. 159)

このあたり[景徳鎮付近]は気持のよい平坦な土地で、自然のままではあまり肥沃ではないのだが、驚くほどによく耕作されている。中国人は確かに世界一の農夫である。私がこれまでに見た江西省の地域の大部分は土壌が瘠せていた。 (p. 185)

そうした話から察知されたことは、中国人は医術ないしは外科術や科学的知識の点で、いかに他の諸国民に遅れているかということである(もっとも機械工学の若干の部門においては、彼らは優れている)。 (p. 188)

海からの外敵侵入の危険にさらされていることは広東省が一番であると中国人はみているので、この省に在る軍隊の屯所の数はきわめて多い。われわれが姿を現すところ、いずこにおいても、ことさらに礼砲の発射を繰り返し行なった気配がある。私の想像では、これは軍隊が油断なく警戒に当たっているという印象をわれわれに与え、かつ外敵に対して備えができていることを示そうとしたものである。にもかかわらず、彼らはわれわれの軍隊の持ってるような規律というものを全く知らない。着にくそうな服装を身につけ、武器といえば火縄銃と弓矢と大刀だけである。武器の扱い方も不器用であるし、性格や気質からいっても戦争好きではない。だから、指揮よろしきを得た攻撃に対しては、ろくに抵抗もできないであろう。 (p. 205)

中華帝国は有能で油断のない運転士がつづいたおかげで過去百五十年間どうやら無事に浮かんできて、大きな図体と外観だけにものを言わせ、近隣諸国をなんとか畏怖させてきた、古びてボロボロに痛んだ戦闘艦に等しい。しかし、ひとたび無能な人間が甲板に立って指揮をとることになれば、必ずや艦の規律は緩み、安全は失われる。艦はすぐには沈没しないで、しばらくは難破船として漂流するかもしれない。しかし、やがて岸にぶつけて粉微塵に砕けるであろう。この船をもとの船底の上に再び造り直すことは絶対に不可能である。 (pp. 220-221)

地球上のどの国へ行っても、イギリス人は自分の方が優秀だという意識があるので、ともすれば自惚れと、他人に対する侮蔑感をあえて隠そうとしない。世界でも最も虚栄心が強い国民の一つであり、また少なからず俊敏である中国人が、われわれのこの欠点に気づかず無神経でいるはずがない。中国人がこの欠点を見て平然としていられず、嫌悪を感じるということは当然ではなかろうか。 (p. 224)

⇒英語


オーガスタス・リンドレー『太平天国』
オーガスタス・リンドレー(増井経夫・今村与志雄訳)『太平天国−李秀成の幕下にありて』東洋文庫, 平凡社, 1964-65.

 オーガスタス・リンドレー (Augustus F. Lindley, 1840~1873) は英国人で、中国で船員として働いていたが、1860年に蘇州で太平軍の忠王李秀成と面会し名誉幕僚となった。その後船主となったリンドレーは、清軍と太平天国軍の勢力地域を出入りし、太平天国軍に加わって清軍との戦闘に従軍した。1863年には蒸気船ファイアフライ号を分捕って李秀成軍のもとに戻り、無錫防衛戦に参加した。太平軍の無錫撤退後、リンドレーは上海に戻り、そこから帰国の途に着いた。リンドレーは太平天国に心酔していたため、その視点は徹底して反清・反英的である。

最初、私は外国人の例にもれず、自分が運を共にすることになった人々の、頭を剃り、猿の尻尾をつけた不自然な姿に、かなり嫌悪を感じた。このぞっとする風習は、彼らの吊り上がった眼と奇怪きわまる容貌が自ら漂わす残忍な表情を少なからず強めている。 (1巻, p. 18)

さて、その恰好たるや、まったく想像にあまりある自己歪曲とよちよち歩きの、胸のむかつくような標本である。私はそう断言する。彼女たちはまるで後肢を半分切られて、その跡に棒切れをくくりつけられたカエルが立って歩こうとしているようだ。私にはこれ以上適切な比喩は思いつかない。なぜ、こういう畸形の足を「小さい」と呼ぶのであろうか。私はまったくわけがわからない。私が見たところでは、まったくその逆であるから。なるほど、足の底面は、布をまきつけてから締めつけて蹄のような恰好に小さくし、足指を全部足裏に曲げておさえつけ、その上から靴をきっちりあわせてある。だが、踝や足甲、それから踵を見れば、大きく不恰好な肉塊にほかならず、象の足そっくりである。 (1巻, pp. 19-20)

河幅の狭い水面にはいると、われわれは両岸の中国人から絶えず侮辱や嫌がらせを浴びせかけられた。彼らはあらんかぎりの罵詈雑言――その最もお手やわらかなのが「洋鬼子」(外国の悪魔)――を浴びせかけるだけでは満足せず、しばしば泥や石を投げつけた。兵士も砲艦の郷勇も村民も互いに張りあって外国人へ憎しみを示そうと努めているように見えた。 (1巻, p. 80)

私は彼らがわれわれに応対するその感じのよい態度に強い感銘を受けた。あの不愉快な武力示威を試みて、粗暴で横柄な態度で捜査を行なう清軍とはうってかわって、太平軍は小舟を一隻よこしただけであった。その舟から一人の仕官が当方の船に乗りこみ、取り調べを行なったが、その間驚くほど親切で礼儀正しい態度で振舞った。われわれの目的について得心すると、士官は通行証をおいて立ち去った。真の生気あふるる太平天国人とのはじめての会見は私にたいへん好ましい印象をのこした。 (1巻, p. 81)

ヨーロッパではどこでも中国人は世界でもっとも馬鹿げた、もっとも不自然な民族だと多年考えてきた。彼らの剃った頭、辮髪、吊り上がった目、グロテスクな衣裳、女の歪められた足などは、長い間漫画家の滑稽きわまる作品の制作に画材を提供していた。同時に、中国人がその中に閉じこもって喜ぶ隠遁と迷信と尊大との雰囲気も、つねにヨーロッパ人の嘲笑と軽蔑の種であった。ところが、太平軍のなかでは、人相を除いたほかは、これらのことはみな跡を絶った。そして顔つきまでも改善されたように思われる――もしかしたら隷属から精神的にも肉体的にも解放されたせいかもしれない。 (1巻, p. 88)

太平軍が蜂起する前の中国の状態は、きわめて悲惨であった。約二世紀にわたる暴虐な圧制は、この国の一切のよきもの、高貴なものをあきらかに抹殺してしまった。 (1巻, p. 124)

私は狩猟で遠出したとき漢口の周辺半径二十五マイル以内をくまなく踏査したが、土地の人々は清軍や官憲から離れているところならヨーロッパ人に親切で鄭重であることを例外なく知った。わたしは休息して腹ごしらえするために数多くの村落にはいったが、多くの村では住民から自分の家に来るように慇懃で格式ばった招きを受けた。中国人は私がこれまで出会った国民の中で最も慇懃で礼儀正しい国民の一つであるといわなければならない。私の国や仕事を確かめたい好奇心ではち切れそうになっていたのに、無作法だとかうるさいほどききたがるとかと非難されるようなところはすこしも見られなかった。 (1巻, p. 154)

南京南部は人口が稠密で、私がこれまでに見たどの都市よりも立派で美しい姿をしているように思われた。数多くの堂々たる宮殿や官署が目抜きの場所を占めていた。街路は幅が広くて、とりわけ清潔であった。これは中国では滅多に見られないことであった。大勢の民衆は、みな自由で幸福そうであり、満州人支配下にいる中国人の萎縮した、卑屈な表情とはまったく雲泥の差であった。 (2巻, p. 53)

広い中国の辺鄙な地方で、私は十二歳から二十歳までの目鼻立ちのととのった娘たちが、その母親や投機商人によって、一名六元から三十元までまちまちの値段をつけて売りに出されているのを見たことがある。だから、中国人が、「ときによると、綺麗な娘一人が銭一斤(一ポンド三分の一の重さ)で買える。豚肉よりやすい」と語るのをしばしば聞いた。これが、正に太平天国が断固として容赦しなかった事態であり、かりに外国の干渉がなかったなら、将来、中国にかかることを憎むように教えたであろう。 (2巻, p. 153)

中国人の気質は、表面は無感覚に見えるにもかかわらず、感情が逆上すると狂暴にすらなり得るのである。つまり、これほど逆説的で異常な性格の民族はないのである。中国人の非戦闘員が敵の来たとき全員自殺をすることは周知の事実である。 (4巻, p. 94)

⇒英語


ハインリッヒ・シュリーマン『シュリーマン旅行記 清国・日本』
ハインリッヒ・シュリーマン(石井和子訳)『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫1325, 1998.

 ハインリッヒ・シュリーマン (Heinrich Schlieman, 1822~1890) はドイツの考古学者で、1871年にトロイアの遺跡を発掘した。それに先立つ1864年世界漫遊に旅立ち、1865年4月に清国、6月に日本を訪れた。

私はこれまで世界のあちこちで不潔な町を随分見てきたが、とりわけ清国の町はよごれている。しかも天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。町並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。 (p. 19)

私は、城壁の内側でものすごく素晴らしいものに遭遇できると思っていた。しかしそれは、ひどい間違いだった。北京には、荷馬車曳きが泊まる、ぞっとするくらい不潔な旅籠を除けば、ホテルというものはない。 (p. 21)

どこへ行っても、陽光を遮り、呼吸を苦しくさせるひどいほこりに襲われ、まったくの裸か惨めなぼろをまとっただけの乞食につきまとわれる。どの乞食もハンセン病を患っているか、胸の悪くなるような傷に覆われている。彼らは瘠せこけた手を天に上げながら、跪いて額を地にこすりつけ、大声で施物をねだる。 (p. 24)

シナ人は偏執的なまでに賭事が好きであり、貧しい労働者でも、ただ同然で食事にありつけるかもしれないというはかない望みに賭けて、自分の食い扶持の二倍ないし四倍の金をすってしまう危険をものともしない。 (p. 31)

石畳の断片、瓦礫となった下水渠、壊れた軒蛇腹、塑像、石橋……北京の街のそれらすべてが、いまや荒廃し堕落した国民を表していた。現在では二階建ての安っぽい家、汚れきって、首都の道路というよりは巨大な下水渠のような通りに、かつては偉大で創意に富んだ人々が住んでいたのだ。舗装され、清潔な見事な道路、大邸宅、壮麗な宮殿があったのだ。もし少しでもお疑いなら、北京の堂々たる城門や城壁を見るがいい。 (pp. 39-40)

どうしてもしなければならない仕事以外、疲れることは一切しないというのがシナ人気質である。これは言っておかなくてはならないだろう。先日、広東でボートを借りたときもそうだった。 (p. 42)

清国政府は、四億の人民を教化するあらゆる事業を妨げることで、よりよい統治ができると考えているから、蒸気機関を導入すれば労働者階級の生活手段を奪うことになると説明しては、改革に対する人々の憎悪を助長している。しかし、極端な困窮にあえいでいるから、早晩、自国の豊かな炭鉱に目を開き、蒸気機関を使ってそれらを採掘せざるを得なくなるであろう。 (p. 57)

日本人を除けば、シナ人は滑稽物を演ずる技術にもっとも長けた民族であると、私は思う。シナの俳優はどんな小さな「だしもの」でもかならず絹に金糸の刺繍をしたきらびやかな衣装をつけるが、これによって彼らの舞台がいっそう映える。しかし、真に賞讃すべきは、彼らの素晴らしい記憶力だろう。そのおかげで何百とある場面を新たに準備することなく、またヨーロッパの俳優たちのように舞台監督やプロンプターの助けもなしに演じることができるのである。 (pp. 66-67)

しかし私には、ここの歌も音楽も、どうしてこれほど観客を熱狂させるのか、わからない。とにかくこの劇場の音楽、歌を聴いて、私はあらためて、シナ人がハーモニーとかメロディーとかがどんなものかまったく理解していいないことに気づいた。 (p. 67)


グスタフ・クライトナー『東洋紀行』
グスタフ・クライトナー(小谷裕幸・森田明)『東洋紀行』東洋文庫555,558,560, 平凡社, 1992-93.

 グスタフ・クライトナー (Gustav Kreitner, 1847~93) はオーストリーの軍人・外交官で、1877〜80年にハンガリー貴族セーチェーニ・ベーラ伯爵の東洋旅行に同行した。一行は1878年4月1日香港、4月12日上海に到着した。6月に日本旅行を終えた一行は、9月には上海に戻っていたが、旅券の取得に手間取り、上海を出発したのは12月7日だった。一行は長江を遡り、漢口・襄陽を経て1879年1月に西安に着いた。そこから蘭州・涼州を経て、3月に粛州で欽差大臣の左宗棠に面会した。5月に敦煌まで至り、そこから引き返して6月に西寧に着いた。そこからラサへの案内人を探したが見つからず、8月には蘭州に戻り、南下して9月には成都に入った。11月には巴塘に着いたが、結局ラサへ向かうことは断念し、ビルマ国境を越えて1880年1月にバモーに着いた。ここから英国の蒸気船と鉄道でラングーンまで行き、帰国の途に着いた。

上海の人々は、教育や福祉の面で、他の地方に較べ大幅な遅れをとっている。性質はおとなしく、忍耐力に優れ、古い伝統的風習にしばられており、外国人に対する不信、憎悪の念が強い。 (1巻, p. 138)

舞台の奥には楽隊がいる。いったい、ここで演奏されるものを音楽と呼んでいいのかどうか、わたしにはわからない。製鉄所か蒸気鍛冶へでも行けば、中国で供されている音楽がいかなるものであるか、とくと合点がいくだろう。 (1巻, p. 153)

中国人の家庭では、その成員が一定の年齢を超していない限り、最年長者が裁きの権限を持つ。中国ほど父親の権威が高い国はほかにふたつとない。この国では、息子は父親に絶対服従を義務づけられている。官庁を尊び、老人を敬う気風、家庭や社会での秩序、そしてついには己自身の運命に満足するという、この国民のあらゆる美点は、一に父親の権威と息子の服従に存している。しかし、中国人のあらゆる欠点もまた、同じところから発している。例を挙げれば、人間であろうと動物であろうと、およそすべての他者に対するあけすけなエゴイズムと冷酷さがそうであって、先の太平天国の乱の際の戦争捕虜に対する驚くべき残虐行為も、これで説明がつく。 (1巻, p. 161-162)

[上海の]城門の前に来ると、恐ろしいほどの数の乞食が群がっていた。ぞっとするような不具、奇形、傷痍を何のはばかるところなく見せびらかし、吐き気を催させる。ここでは、乞食をすることはほとんどスポーツ並みに扱われているようだ。若い乞食が大はしゃぎで叫び声をあげながら、ひとときもじっとせずあちこち駆けまわっている一方で、悠然と構えているのは、特権を与えられた乞食である。破れた衣服の胸と背に縫いつけてある証明書には、「皇帝の御慈悲により」国内を乞食行脚することを許可する、と書かれてある。 (1巻, pp. 174-175)

中国人は模倣の才能に桁はずれに長けている。自ら何かを発明することは稀で、ヨーロッパ人の行なう事業のうち目立つものがあると、まずその長所を倦まず弛まずじっと盗み取ることに専念する。すっかり自家薬籠中のものにしてしまったところで、師のもとからそっと抜け出し、ひとり立ちするのである。 (1巻, p. 175)

中国の歴史が教えるところによれば、孔子の教義はこの帝国の飛躍発展をいかなる場合にも常に妨げ、遅らせてきている。 (1巻, p. 178)

インド人の場合もそうであるが、特に中国人に欠けているのは率直な性格である。抜け目のない、狡猾な、打算的な性質があって、何をする場合でも前もって仮面をつけているため、直接的な印象は、それだけで早、偏見の重圧に喘ぐこととなり、冷淡さのイメージを壊して血の通った印象を得るのにはかなり長期にわたる研究が必要である。 (1巻, p. 283)

中国人が過去において経験したし、現在から将来にわたっても経験していくことであるが、ヨーロッパ人はひとたびどこかで足場を築くと、まるでその場所が自分の故郷であるかのように腰をすえてしまう。ヨーロッパ人の利欲は中国人のそれを依然上回っている。中心的な商売は自分の家に集中し、その国の労働力を利用し尽くし、結局荒廃させてしまう。ついには、奇跡でも起こらない限り、一度定着した外国人を追い払うことはできなくなる。ヨーロッパ人が、恐れられながら、心の最も奥底から憎まれる理由は主にこの点にある。 (2巻, p. 61)

[西安の]過去がどんなに栄光に富んだものであり、唐の時代の商業・交易関係がどんなに豊かで華やかなものであったとしても、今はもう、栄華と繁栄の輝かしい日々の面影はまるでない。威容を誇った王宮も一〇〇〇年以上の時の流れには勝てず、崩れ落ちてしまっており、通りで出会うものといえば、ただ、身の毛もよだつ亡霊のような絶望と飢えだけである。 (2巻, pp. 152-153)

金と御馳走をもらって嘆き悲しむ役割を引き受ける年のいった泣き女の一群は、肺腑をえぐるように泣きわめき、呻吟するので、たいていの犬は尻尾を巻いて逃げてしまった。少し先へ行ったところにある飲食店の中には、早くも人々が集まっていて、埋葬の終わるのを待ちこがれている。その後、思う存分悲しもうという人は皆押しかけてきて、豚の焼肉料理や温めた米焼酎で興奮した心を鎮める。こんな時のかん高い泣き声は、儀礼的なものでしかない。なぜなら、中国人は根っからの唯物主義者なのである。自分の死の時が刻々と迫っていることを承知している人々でさえも、いまわの際まで何か口に入れたがる。 (2巻, pp. 196-197)

どんな商店でも、中国人の態度は紳士的である。ヨーロッパ人に対しては特にそうである。商人は法外にねんごろな態度を示す。そして、腹の奥底では最大限の利潤を求めているのだが、特に金銭で取引きする商店で見せる表向きの態度は、この民族の天性たる所有欲と奇妙なコントラストをなしている。 (2巻, p. 226)

中国では、怠け者は飢えるしかない。ふたりの貧乏人が仕事を拒めば、翌朝には二〇人もが押しかけて空いたポストを狙う。このような背景があればこそ、中国人は自己主張もしない謙虚な人間に仕立て上げられているわけで、この性向は、下は苦力から上は芸術家に至るまで同じである。これらの徳性は定着し、天性のものとなっている。 (2巻, p. 227)

中国人はしかし生まれついての嘘つきである。真実のことばが彼らの口から出ることはめったにない。嘘が何の利益にもならない場合でさえ、偽善は育ちのよさのひとつとみなされるくらいである。 (3巻, p. 23)


ジョージ・カーゾン『極東の諸問題』
George N. Curzon, Problems of the Far East: Japan-Korea-China, Kessinger, 2007.

 ジョージ・N・カーゾン (George Nathaniel Curzon, 1859~1925) は英国の政治家で、インド総督、外務大臣を歴任した。ケドルトンの男爵家に生まれ、オックスフォード大で学び、1886年に国会議員になった。1891〜92年インド政務次官、1895〜98年外務政務次官をつとめた。この間世界旅行をしており、1892年には日本・朝鮮・中国を訪れた。
 本書は1894年に出版され、序論の第1章に続き、第2〜3章が日本、第4〜7章が朝鮮、第8〜11章が中国に充てられている。本書は国際政治の研究書だが、朝鮮と中国に対しては見聞記めいた記述がある。

In place of the confined and filthy Korean hostelry, he will sleep with comparative comfort in the ample surroundings of a Chinese inn. He has left behind the most supine and spiritless of the peoples of the Far East, and sees about him the frugal, hard-limbed, indomitable, ungracious race, who oppose to all overtures from the outside the sullen resistance of a national character self-confident and stolid, a religious and moral code of incredible and all-absorbing rigour, and a governing system that has not varied for ages, and is still wrapped in the mantle of a superb and paralysing conceit.(p. 237)
旅行者は朝鮮の狭苦しく汚い宿屋の代わりに、十分な家具が置かれた中国の宿屋で比較的快適に眠ることができる。極東で最も怠惰で覇気がない人民は背後に去り、つましく頑丈で不屈で優雅さを欠く人種を目の当たりにすることになる。中国人は外部からのいかなる干渉にも反対し、不機嫌な抵抗は自信に満ち鈍感な国民的性格をなしている。宗教と道徳律は信じ難いほどあらゆるものを吸収する厳格さで、いまだに堂々たる麻痺した自負心のマントに包まれている。

Most travelers deplore the transition from Japan to China as one from sweetness to squalor, from beauty to ugliness, from civilization to barbarism, from warmth of welcome to cheerless repulsion. And yet I am not sure that a truer estimate is not formed of the prodigious strength of Chinese character and custom by the ability to contrast them with the captivating external attributes of Japan ;
多くの旅行者は日本から中国への移動を、甘美さから汚さ、美しさから醜さ、文明から野蛮、温かい歓迎から活気のない反感への反転と感じて失望するだろう。しかし中国的性格と慣習の驚異的な強靭さを、日本の魅惑的な外見的特徴と対照するに当たって、より真実に近い評価が形成されているのか、私には確信がない。(pp. 237-238)

The people inhabiting such a locality are liable to occasional and appalling visitations of flood, pestilence, or famine. But, these risks excepted, their lives are probably as happy, their condition as prosperous, and their contentment as well assured as those of the rural population in any European country. The taxation imposed upon them is only nominal. The obligations which they stupidly incur to pawnshops or usurers, in pursuit either of the national vice of gambling or of other forms of extravagance, are a greater burden upon them than is the hand of the State. So little fear is there of disturbance that the force behind the provincial government is in most cases ridiculously small.(p. 244)
そうした村落の住民たちは、ときおり襲って来る洪水や疫病や飢饉の危険にさらされている。しかしそうした危険を除いては、ヨーロッパのどの国の農村人口にも劣らぬほど彼らの生活は幸福で、彼らの生活は裕福で、彼らの満足は保障されている。課税は名目的なものに過ぎない。国による課税よりも、国民的な悪習である賭博やその他の放縦のために愚かにも質屋や高利貸しに負った負債の方が、彼らにとって大きな負担なのである。地方政府の背後にある権力によって押し付けられる負担は馬鹿げたほど小さく、恐れるに足りない。

Unique, and of its kind unequalled, is the impression produced by this great city of over three-quarters of a million souls upon even the seasoned traveler. He may have seen the drab squalor of Bokhara and Damascus, have tasted the odours of Canton and Söul, and heard the babel uproar of Bagdad and Isfahan ; but he has never seen dirt, piled in mountains of dust in the summer, spread in oozing quagmires of mud after the rains, like that of Peking ; his nostrils have never been assailed by such myriad and assorted effluvia ; and the drums of his ears have never eracked beneath such a remorseless and dissonant concussion of sound. (p. 245)
この75万人の人口を有する大都市は、慣れた旅行者にさえ他に並ぶものがないほど独特だという印象を与える。彼はブハラやダマスカスの茶色の汚らしさを、広東やソウルの悪臭を、バグダッドやイスファハンの騒々しさを経験済みかもしれない。しかし北京のような、夏には埃の山を築き、雨の後にはどろどろの泥沼となって拡がるゴミを見るのは初めてである。これまで彼の鼻孔はこれほどおびただしい入り混じった悪臭に攻め立てられたことはないし、彼の鼓膜はこれほど情け容赦のない不協和な騒音にさらされたこともない。


イザベラ・バード『中国奥地紀行』
イザベラ・バード(金坂清則訳)『中国奥地紀行』東洋文庫706,708, 平凡社, 2002.

イザベラ・バードの日朝中参照。



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