文禄・慶長の主役たち


 以下は主に旧参謀本部編『朝鮮の役:日本の戦史=5』徳間書店(1965) に依拠して、文禄・慶長の役を三人の主役の視点からまとめたものである。小西行長は、主要な陸戦はもちろん講和交渉にも深く関与した、第一線の当事者だった。加藤清正は別働隊の役割が多く、おそるべき武勇のほどを誇示した。李舜臣はほとんどの海戦に関与し、連戦連勝のめざましい戦果をあげた。
 当時の日本軍は、陸戦では圧倒的な強さを発揮した。あまりにも日本軍の進撃が速いため、朝鮮が日本軍を先導しているのではないかと明が疑ったほどである。これは100年近く続いた戦国時代のため、兵卒の錬度が高く、武器が洗練され、戦術も高度だったからだろう。しかし「倭寇は水戦に稚拙」という評価が定まっていたように海戦に弱く、補給上の問題を生じた。これは造船技術の差によると考えられるが、それでも元均のような無能な将軍が率いると日本に大敗している。つまり李舜臣は、技術的優位の生かし方を知っていたということだろう。
 ところで下の地図は手作りなので、海岸線がおかしかろうが都市の位置がずれていようが、一切責任は持たない。



小 西 行 長

 生年不詳(1555年頃)、堺商人出身のキリシタン大名。1588(天正16)年、肥後一揆を鎮圧した功労で、肥後の国の半分24万石を与えられ、宇土城を居城とした。1591(天正19)年8月、秀吉に命じられ加藤清正・黒田長政らとともに名護屋城(佐賀県唐津市)の築城に当たった。

 1592(文禄1)年1月、秀吉から旗を賜わり、朝鮮侵攻の先鋒を命じられた。このとき松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・後藤純玄らとともに一番隊に配属され、兵7000人を率いて渡鮮することになった。
 3月12日、一番隊1万3700人は対馬府中に到着し、宗義智と合流した。4月12日、宗義智の兵を加えた一番隊1万8700人は兵船700余隻に分乗し大浦を出帆した。この夜は絶影島に仮泊し、宗義智が釜山城を偵察した。
 4月13日未明、行長は宗義智・松浦鎮信らとともに牛厳洞から上陸し、釜山城を攻撃した。釜山僉使の鄭撥は銃弾に当たって戦死し、一番隊があげた首級は1200にのぼった。
 4月14日、一番隊は東莱城(釜山)を陥落させた。東莱府使の宋象賢は座して刀を受け、日本軍はこれを賞賛し手厚く葬った。
 4月15日、一番隊は機張、左水営(東莱)、梁山を占領し、左水使・朴泓は山林に逃走した。
 4月17日、一番隊は鶴院関(慶尚南道)に進んだ。密陽府使・朴晋はここで一番隊を待ち伏せていたが、銃撃を受けた朝鮮兵はたちまち逃走した。一番隊は直ちに追跡して軍官・李大樹以下300人以上を殺した。朴晋は密陽に逃げ帰り、兵器倉庫を焼いて山間に逃げ込んだ。
 4月18日、行長らは進撃して密陽(慶尚南道)を占領した。4月19日には密陽を発って北上し、清道・大邱(慶尚北道)の二城を壊滅させた。4月23日には仁同城に入り、長川に布陣した。
 4月24日、一番隊は尚州(慶尚北道)を陥落させ、京城から派遣された巡察使・李鎰は蓬髪裸体で逃げ出した。この戦闘で、兵曹佐郎・李慶流や尚州判官・権吉を含む300人以上が戦死した。
 4月26日、一番隊は尚州を出発し、聞慶(慶尚北道)に達した。ここで県監・申吉元を捕え、降伏を勧めたが拒否したため斬った。
 4月27日、一番隊は忠州(忠清北道)を占領した。京城から派遣された三道巡辺使・申砬 は、騎馬で突撃しようとしたが果たせず、水に入り死んだ。
 4月28日、加藤清正ら二番隊が忠州城に到着した。相談の上、一番隊は驪州を経て東から、二番隊は竹山・龍仁を経て南から京城に入ることにした。
 4月29日、一番隊の先鋒は驪州(京畿道)に着き、江原道助防将・元豪は戦わずに退却した。行長らは南漢江右岸で野営し、後続の到着を待った。
 5月2日、一番隊は下流に回り、北漢江を渡り、長躯して京城に向かった。守城大将の右議政・李陽元と八道都元帥・金命元は既に逃走しており、一番隊・二番隊は何の抵抗もなく京城に入城した。
 5月上旬に三番隊の黒田長政、四番隊の毛利吉成らが京城に入り、中旬には八番隊の宇喜多秀家が到着して京城守備将の任についた。そこでさらに北進することに相談がまとまり、一番隊は平壌方面に、二番隊は咸鏡方面に、四番隊は江原方面に進むことになった。
 5月19日、一番隊は京城を出発して臨津に向かい、27日に二番隊とともに臨津江を渡った。臨津江で敵を食い止めるよう命じられていた金命元らは平壌に逃走し、日本軍はたやすく開城を占領した。
 6月7日、一番隊は中和(平安南道)に到着した。9日には平壌の対岸に至り、柳川調信と外交僧・玄蘇が書を送って、かつて宣慰使として日本と接触した李徳馨との面談を要求した。李徳馨は小舟でやって来て調信らに会ったが、降伏を受け入れようとはしなかった。そこで一番隊は東大院付近に布陣し、平壌攻撃の準備を整えた。6月13日には、黒田長政も若干の兵を連れて合流した。
 6月15日、金命元に命じられ寧遠郡守・高彦伯と碧団僉使・柳m令が、宗義智の陣営を襲撃した。しかし行長と長政が援兵を出し、背後から攻撃したため、朝鮮軍は大敗し王城灘を渡って平壌城に逃げ帰った。金命元らは防衛をあきらめ、城門を開いて兵民を逃がし、兵器を池に投げ込んで逃走した。16日、城兵がいないことを知った日本軍は、隊伍を整えて入城し、平壌を占領した。この後、行長をはじめ一番隊の兵1万8700人は、平壌の守備に当たることになった。
 7月16日、明の副総兵・祖承訓は、中和で築城中の日本軍を襲撃した。しかし松浦鎮信・小野木重勝らの奮戦で明軍は後退し、行長・宗義智らの兵が追撃した。この戦闘で史儒や載朝弁らの武将が戦死し、祖承訓は命からがら遼東へ逃げ帰った。
 8月29日、明の遊撃・沈惟敬が、平壌で行長と会見した。行長の要求に対し、沈惟敬は「朝廷に報告して回答するので、往復の日数を50日としよう」といって、9月3日に平壌を発って行った。
 11月下旬、ようやく沈惟敬が平壌に現われ、「講和が成立して人質交換をするのも目前に迫っている」と告げて帰って行った。

 1593(文禄2)年1月2日、安州(平安南道)に布陣していた明の提督・李如松は、参謀・李寧を平壌につかわし、「沈惟敬が来たから迎えに来るよう」と言わせた。行長が送った20名のうち、竹内吉兵衛ら3名が順安(平安南道)で生け捕りになり、他の者は囲みを破って平壌に逃げ帰った。
 1月5日、李如松は5万の大軍を率い、平壌を三方から包囲した。6日、明軍は城に近づき、日本軍は銃を一斉に発射してこれを防いだ。
 1月7日、明軍は総攻撃を開始した。大砲を前にたてる明軍に、日本軍は鳥銃で対抗したが、衆寡敵せず内城まで後退した。日本軍の死者は、1600名にのぼった。李如松は、日本軍の退路を空けるため夕刻には兵を城外に引かせた。行長らは夜中に氷の大同江を渡って脱出し、8日には鳳山(黄海南道)に着いた。鳳山の守将大友吉統は、明軍の平壌進攻に怖れをなし、京城に逃げた後だった。吉統はこのことを咎められ、後に豊後の領地を没収された。
 1月9日、行長らは龍泉山城まで退き、そこに黒田隊がいるのを知って安心した。1月11日、行長は白川(黄海南道)で黒田長政と会見した。1月13日、行長は開城に到着した。日本軍は開城を棄て京城まで退却することに決まり、行長ら一番隊も1月16日に京城に入った。
 1月26日、立花高虎の捜索隊が明軍の接近を探知した。報せを受けた日本軍の主力は続々と京城を出発したが、小西行長・大友吉統らは京城の守備に当たった。この日、宇喜多秀家・小早川隆景・立花高虎・高橋統増・小早川秀包・毛利元康・筑紫広門ら日本軍の主力は、李如松の明鮮軍を碧蹄館(京畿道高陽)で撃破した。
 2月12日、京城の日本軍は辛州山城に籠城する全羅巡察使・権慄を攻めたが、撃退された。この戦いで宇喜多秀家・吉川広家・石田三成・前野長康らが負傷し、死傷者は非常に多かった。
 4月8日、沈惟敬が明の経略・宋応昌の使者として京城を訪れ、行長と面会した。行長は諸将とはかって、京城撤退と朝鮮二王子の返還を受諾した。
 4月18日、日本軍は京城から撤退した。4月28日、行長は尚州(慶尚北道)に入り、加藤清正・黒田長政・鍋島直茂らとともにここにとどまった。
 5月8日、行長は石田三成らとともに明使の沈惟敬・謝用梓・徐一貫らを伴い、釜山を出発した。一行は15日に名護屋に到着した。
 5月22日、秀吉は晋州城(慶尚南道)攻撃の部署を定め、行長は第二隊に配属された。23日、秀吉は明使を謁見し、二王子を返すよう行長らに命じた。6月2日、行長は釜山に帰着し、二王子を朝鮮側に返した。
 6月22日、宇喜多秀家が率いる日本軍3万は、晋州城への総攻撃を開始した。倡儀使・金千鎰が率いる城兵の奮戦により、日本軍は多くの死傷者を出した。しかし29日、加藤・黒田隊が城壁の破壊に成功し、ついに城を陥落させた。この戦闘で金千鎰をはじめ、慶尚道右兵使・崔慶会、忠清道兵使・黄進、金海府使・李宗仁が戦死し、日本軍が得た首級は2万を超えた。
 晋州戦闘中の6月28日、行長の家臣の小西如安が明使を伴い、講和のため北京に向けて名護屋を出発した。行長はこれを護送し、7月7日に京城に着いた。行長の要請に応じて明軍主力は8月に京城から撤退し、四川副総兵・劉綖が京城で駐留軍の指揮をとった。
 11月15日、行長は沈惟敬に書を送り、和議がいつまでも整わないことを責めた。12月に沈惟敬は行長が守る熊川(慶尚南道鎮海)を訪れ、行長と秘密に会談した。秀吉が示した講和条件は、明王家の姫の降嫁、朝鮮四道の割譲、朝鮮王子と大臣の人質など、明が受け入れるはずがないものだった。そこで沈惟敬は行長を説得し、日本への封貢で場をしのごうとした。これに対し、加藤清正は秀吉の講和条件をそのまま提示することを主張し、行長との間が険悪になった。

 1594(文禄3)年4月、行長と清正の不仲を知った劉綖は、朝鮮僧の惟政を清正と会談させた。清正が示した条件に対し、惟政は明が受け入れるはずがないことを述べた。行長は清正が講和条件を明示した書を劉綖に送ったことを知り、決裂をおそれこれを取り戻してしまった。
 11月、行長は慶尚右兵使・金応瑞と会見した際、「清正が述べたのは関白から出たものではないので、貴国は封貢のことを明国に伝えてほしい」と述べた。
 12月6日、長く遼東にとどめられていた小西如安がようやく北京に入った。19日の会談で、明側は日本軍全軍の帰国、封は与えるが貢は与えないこと、日本が朝鮮再侵をしないと誓うことを条件としてあげた。

 1595(文禄4)年1月、正使の都督僉事・李宗城、副使の都指揮・楊方亨らは、小西如安とともに北京を出発した。一行は4月2日に京城に到着し、釜山の日本軍営に沈惟敬をつかわし、日本軍の撤退を要求した。これに対し行長は、使節が釜山の日本陣に入ったら撤兵しようと答えた。10月、副使の楊方亨が釜山に到着し、11月には正使の李宗城も着いた。

 1596(文禄5)年1月、行長は沈惟敬を連れて帰国した。惟敬は秀吉に、地図・武経・良馬270匹を献上した。
 4月2日、秀吉が自分を拘留しようとしていると聞いた李宗城は恐慌し、国書・金印を放り出して逃げ出し、道に迷ったうえ首を吊って自殺をはかった。朝鮮人が介抱して蘇生したが、李宗城はそのまま慶州に逃げた。この月、行長は沈惟敬を連れて釜山に戻った。5月4日、明は楊方亨を都督僉事に任じ正使に昇格させ、沈惟敬を副使に任命した。一方朝鮮も、全羅道観察使・黄慎を正使に、大邱府使・朴弘長を副使に任じた。
 6月14日、明使が釜山を出発し、行長もこれと前後して帰国した。明使は閏7月に、朝鮮使は8月17日に堺に着いた。秀吉は「朝鮮王子は自ら謝礼にも来ず、卑しい役人を使者に送るとは無礼千万」と怒り、朝鮮使との会見を拒否した。黄慎らは行長にとりなしを頼んだが、聞き入れられなかった。
 9月1日、秀吉は大坂城で明使を謁見した。翌2日、秀吉は花畠の山荘に僧承兌・霊三・永哲を呼び、明の国書を読ませた。このとき行長は、秀吉が気に入らなさそうな箇所を飛ばしてくれるよう承兌に頼んだが、承兌は拒否してそのまま読んだ。秀吉は「汝を日本国王に封ずる」という箇所を聞くと激怒し、行長を呼びつけていまにも殺そうとした。行長は必死に弁明し、承兌も行長をかばったので、ようやく死罪はまぬがれた。秀吉は直ちに西国諸将に朝鮮再征の準備を命じ、行長には巧名をたてさせ罪を償わせることにした。

 1597(慶長2)年1月、行長は熊川城(慶尚南道鎮海)に入った。この月、加藤清正は西生浦(慶尚南道蔚山)に、鍋島勝茂は竹島に上陸した。また釜山城には宗義智らが、加徳城(釜山)には島津忠恒が講和交渉中からとどまっていた。
 2月21日、秀吉は再征軍の部署を定め、行長は宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・大村喜前・五島玄雅らとともに二番隊に編成され、熊川城で待機した。
 7月、日本軍は三道水軍統制使・元均の水軍が漆川梁(慶尚南道巨済)に碇泊していることを知り、これを殲滅する作戦をたてた。そこで島津義弘・忠恒親子が兵3000人を率いて巨済島に布陣し、藤堂高虎・加藤嘉明・小西行長・島津忠豊らの水軍が7月15日に出発し、敵船の錨地を襲った。元均は兵を率いて上陸したが、待ち受けていた島津兵に襲われ戦死した。
 7月14日、柳川調信が秀吉の命令を持って釜山に到着した。諸将は協議の結果、大挙して全羅道に入ることに決め、行長は宇喜多秀家が率いる左軍の先鋒をつとめることになった。蜂須賀家政、毛利吉成・勝成、生駒一正、島津義弘ら左軍の諸将は、8月初めに泗川(慶尚南道)付近で集合を終え、5日に河東に布陣し、10日に南原(全羅北道)に向け出発した。
 8月15日、左軍は南原城を総攻撃した。この戦闘で明の稗将・李新芳、朝鮮の接伴使・鄭期遠、全羅道兵使・李福男、助防将・金敬老、別将・申浩らが戦死し、左軍があげた首級は3700にのぼった。城守将の楊元は、城が落ちる前に西門から逃げて行った。
 8月18日、左軍は南原を出発し、任実に進んだ。そこから全州(全羅北道)を攻撃する予定だったが、城守将の陳愚衷が戦わず逃げてしまったため、左軍は19日に無抵抗の全州城に入城した。ここで右軍の毛利秀元らと合流した。24日、日本軍は全州城を破壊した。
 8月27日、左軍は全州を出発し、9月1日に石城(忠清南道扶余)を、9月7日には舒州城(忠清南道)を焼いた。ここから帰途に着き、9月15日に井邑(全羅北道)に布陣した。9月16日、左軍の諸将は会議を開き、行長は宇喜多秀家とともに順天(全羅南道)で築城に当たることになった。
 12月に明軍が蔚山城を襲撃すると、宇喜多秀家は救援のため釜山に向かったが、行長は引き続き順天の築城を管理した。

 1598(慶長3)年5月、小早川秀秋・宇喜多秀家・毛利秀元・浅野長慶らの兵7万余は帰国したが、行長は引き続き順天城の守備に当たった。
 8月18日、伏見城で秀吉が死去した。徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元の四大老は、徳永寿昌・宮木豊盛を朝鮮に派遣し、講和を結んで全軍を引き揚げさせることにした。
 9月18日、禦倭総兵官・西路大将として再び来鮮していた劉綖は、順天の旧城に入り、行長を捕獲する謀略をたてた。そこで光陽に駐留している王之翰に命じて行長の背後を断ち、旗牌官の王文憲に提督の服装をさせ、伝書鳩を放って伏兵を起こす手はずを整えた。
 9月19日、全羅道巡察使・黄慎が迎えに来ので、行長は松浦鎮信らとともに城を出た。しかし退路を断つ前に伝書鳩が乱れ飛んで伏兵が起こったので、行長は驚いて駆けもどり、鎮信が後ろを守って新城に退いた。劉綖は計画が失敗したことを知ると、すぐさま三隊を進め、新城を包囲した。明の水師提督・陳璘は、李舜臣とともに艦船を進め新城を砲撃したため、行長らは苦戦した。
 10月1日、劉綖と陳璘は陸海から総攻撃をかけたが、日本軍は出撃して明陸軍を後退させ、明鮮水軍も引き潮となり松島の碇泊地に引き上げて行った。
 10月3日、劉綖は陳璘に書を送って夜襲を申し合わせた。しかし劉綖は、董一元が泗川で島津義弘に大敗したとの報告に接し、意気消沈して結局兵を出さなかった。陳璘は約束どおり午後8時ごろ松島から出撃し、日本艦船を襲ったが、潮がにわかに引いて沙船・号船43隻が浅瀬に乗り上げ動けなくなってしまった。日本軍は浅瀬を歩いてこれを焼き払い、陳璘の艦隊はどうすることもできず松島に帰って行った。陳璘は、約束を果たさなかった陸軍を深く恨んだ。
 10月7日、劉綖は新城の包囲を解き、順天旧城に退いた。陳璘と李舜臣も9日に海上封鎖を解いて、古今島(全羅南道莞島)の水営に戻った。
 11月7日、秀吉の死を知った陳璘は、李舜臣と協議して日本軍の帰路を断とうとした。そこで明鮮水軍500余隻は古今島を出発し、10日には順天沖を再び海上封鎖した。この日、撤退のため出航した行長らは、順天新城に引き返さざるを得なかった。
 11月11日、行長は陳璘に使者を送り、講和の交渉をした。15日には陳璘も人質を送ってきたが、松島の水軍は引き上げず、事態は膠着した。
 11月17日、巨済島(慶尚南道)に集まっていた島津義弘・宗義智・立花統虎ら西部方面の諸将は、行長が退路を断たれていることを知り、艦船500隻で救援に向かった。これを知った陳璘と李舜臣は、迎撃のため松島から出帆した。
 11月18日未明、島津艦隊は露梁海峡(慶尚南道、河東・南海間)で明鮮水軍と出遭い、海戦が始まった。この戦闘で李舜臣が戦死し、陳璘も日本軍に囲まれ危うく逃れた。島津艦隊も苦戦し多くの死傷者を出したが、ようやく敵艦を撃退し、巨済島に引き上げた。しかし夜明けとともに引き潮になり、艦船の多くが座礁し、乗員は船を棄てて南海島に上陸した。明鮮水軍は島津艦船を焼き払い、海上を封鎖した。
 11月19日、順天の小西軍は海上に敵艦の姿がないことを知り、新城を出て20日に巨済島に到着した。南海島に上陸した島津隊も、この日に巨済島に帰還した。
 釜山に集結した日本軍は、11月23日から順次帰国の途に着いた。行長は25日に島津義弘らと釜山を出帆し、12月上旬に博多に帰着した。


加 藤 清 正

 1562(永禄5)年、尾張国中村生まれ。秀吉の腹心で、1583(天正11)年に賤ヶ岳の七本槍の一人として功名をたてた。1588(天正16)年、肥後国の半分を与えられ熊本城を居城とした。1591(天正19)年8月、秀吉に命じられ小西行長・黒田長政らとともに名護屋城(佐賀県唐津市)の築城に当たった。

 1592(文禄1)年1月、秀吉から旗を賜わり、朝鮮侵攻の先鋒を命じられた。このとき鍋島直茂・相良頼房らとともに二番隊に配属され、兵8000人を率いて渡鮮することになった。
 清正は3月上旬に名護屋を出帆し、対馬で一番隊からの報告を待った。一番隊が4月13日に釜山を落としたとの報せを受けた清正らは、4月17日に釜山に到着し、そこから東進することにした。18日に彦陽城に着いたが、城兵は全員慶州に逃げていたので、そこを占領した。
 4月20日、二番隊は慶州城(慶尚北道)を攻撃した。慶州判官・朴毅長は真っ先に逃げてしまい、二番隊があげた首級は1500を超えた。
 4月21日、二番隊は永川(慶尚北道)に進んだ。そこから新寧、比安と進撃したが、これを阻む敵軍はなく、まるで無人の地を行くようだった。
 4月28日、二番隊は忠州で一番隊と合流した。相談の上、一番隊は驪州を経て東から、二番隊は竹山・龍仁を経て南から京城に入ることにした。両隊は翌29日、忠州を出発した。
 5月2日、二番隊は漢江を渡った。守城大将の右議政・李陽元や八道都元帥・金命元らは既に逃走しており、一番隊・二番隊は何の抵抗もなく京城に入城した。
 5月上旬に三番隊の黒田長政、四番隊の毛利吉成らが京城に入り、中旬には八番隊の宇喜多秀家が到着して京城守備将の任についた。そこでさらに北進することに相談がまとまり、一番隊は平壌方面に、二番隊は咸鏡方面に、四番隊は江原方面に進むことになった。
 5月10日ごろには加藤隊の先鋒が臨津江に至ったが、水量が多く渡れずにいた。そこで小西行長は、宗家重臣の柳川調信を派遣し、朝鮮軍に降伏を勧めることにした。5月15日、調信と僧天荊は臨津江に到着し、加藤隊は番兵を残して後退した。
 5月18日、三道巡辺使・申砬 が河を渡り加藤隊の番兵を襲撃したが、駆けつけた清正ら主力部隊に押し返された。この戦闘で申砬 とその副将・劉克良らが戦死し、渡河部隊は全滅した。
 5月27日、一番隊と二番隊は臨津江の下流を渡った。臨津江で敵を食い止めるよう命じられていた金命元らは平壌に逃走し、日本軍はたやすく開城を占領した。相談の結果、一番隊と三番隊はそのまま平壌に向かい、二番隊は金郊駅から東進して咸鏡道方面に向かうことになった。
 6月初旬、二番隊の兵2万は、安城の民を捕えて先導させ、老里峴を越えた。咸鏡南道兵使・李渾はこれを阻止しようとしたが、遠くに日本軍の先頭を見ただけで逃げてしまった。
 清正は安辺(咸鏡南道)で十日あまり滞在した後、再び前進して永興に着いた。そこで逃走中の二王子の消息を知り、鍋島直茂を残して北進した。北清に着くとここに相良頼房を残し、さらに北進して7月15日ごろには端川(咸鏡南道)に着いた。ここに九鬼広隆を残し、清正自身は北上を続けた。
 7月17日未明、鏡城から南下してきた咸鏡北道兵使・韓克誠は、海汀倉(咸鏡北道城津)で加藤隊と遭遇した。加藤隊の銃撃で富寧府使・元喜以下300人が戦死し、韓克誠はいったん山上に退却した。加藤隊は夜半からひそかに敵に近づき、18日早朝に急襲した。韓克誠は散々に敗れ、死傷者を棄てたまま鏡城に逃げ帰った。
 加藤隊が鏡城に着くと、韓克誠は逃げたあとで、抵抗しようとする者はなかった。加藤隊はそのまま富寧を通り、7月22日には古豊山に着いた。
 7月23日、加藤隊が会寧を攻撃しようとすると、会寧府使・鞠景仁が臨海君・順和君の二王子を縛って降伏を乞うて来た。清正はこれを許可し、二王子と従臣ら20人余りを捕虜とした。
 8月上旬、清正は1000名の精兵に二王子を護衛させて鏡城に送った。そして会寧の土民に先導させて豆満江を渡り、兀良哈(女真族)の城をいくつか焼き払った。
 8月下旬、清正は二王子を伴い鏡城を出て南下した。9月5日に北清、7日に咸興を通過し、安辺まで戻った。
 11月、咸鏡北道評事・鄭文孚は、租米徴収に城外に出ていた吉州守備隊を襲撃した。守備隊は敗れ吉州城に逃げ込んだが、これを知った土民7000人以上が蜂起して鄭文孚に応じ、城を包囲して海汀倉との連絡を遮断した。
 11月23日、吉州の敗報を知った清正は使者を出し、城を守りきれないときは退却して海汀倉と合流し、端川まで退却するよう命じた。鍋島直茂の家臣・鍋島種巻は若干の援兵を率い、食糧を持って吉州に入った。
 12月、海汀倉の守備兵が吉州との連絡のため臨冥駅に向かったが、雙浦で鄭文孚の軍に襲撃され退却した。

 1593(文禄2)年1月、清正の命を受けた佐々木政元らは、精兵500人を率いて吉州に向かった。政元らは吉州守将の加藤右馬允らと会い、撤退して南に向かった。加藤隊は道々の諸城の兵を引き揚げ、全員が安辺まで後退した。
 2月5日、明の経略・宋応昌の使者・馮仲纓が安辺に来て清正と面会した。馮仲纓は二王子の返還と撤兵を要求したが、清正は応じなかった。
 1月には明の提督・李如松が平壌、開城と南下を続けていたため、京城守将の宇喜多秀家らは二番隊の合流を求めていた。そこで清正は鍋島直茂と相談し、咸鏡道を放棄することに決めた。二王子は直茂が守り、清正ともども2月29日に京城に到着した。
 4月8日、沈惟敬が宋応昌の使者として京城を訪れ、小西行長と面会した。行長は諸将とはかって、京城撤退と朝鮮二王子の返還を受諾した。
 4月18日、日本軍は京城からの撤退を開始した。4月28日、清正は尚州(慶尚北道)に入り、小西行長・黒田長政・鍋島直茂らとともにここにとどまった。
 5月22日、秀吉は晋州城(慶尚南道)攻撃の部署を定め、清正は第二隊に配置され城の正面を担当することになった。
 6月22日、宇喜多秀家が率いる日本軍3万は、晋州城への総攻撃を開始した。倡儀使・金千鎰が率いる城兵の奮戦により、日本軍は多くの死傷者を出した。
 6月29日、加藤隊・黒田隊の活躍で、晋州城はついに陥落した。この戦闘で金千鎰をはじめ、慶尚道右兵使・崔慶会、忠清道兵使・黄進、金海府使・李宗仁が戦死し、日本軍が得た首級は2万を超えた。

 1594(文禄3)年1月ごろ、清正は西生浦(慶尚南道蔚山)を守っていたが、秀吉の講和条件を隠して日本への封貢でごまかそうとする小西行長に対し、秀吉の条件そのままで交渉すべきとし、行長との間が険悪になった。
 4月、京城駐留軍指揮官の劉綖は朝鮮僧・惟政を送り、清正と会見させた。会見のあいだ惟政は、行長に対する悪感情をあおろうとしたが、清正は相手にしなかった。

 1596(文禄5)年4月、西生浦の清正に帰国命令が届いた。清正は6月9日に釜山を出帆し、伏見に着くと秀吉から蟄居を命じられた。7月12日に地震が起こると、清正は蟄居中にもかかわらずいちはやく登城し、秀吉に面会した。その後、徳川家康の取りなしで秀吉は怒りを解き、清正から詳しい報告を受けた。
 9月1日、秀吉は大坂城で明使を謁見した。翌2日、秀吉は花畠の山荘に僧承兌・霊三・永哲を呼び、明の国書を読ませた。秀吉は「汝を日本国王に封ずる」という箇所を聞くと激怒し、直ちに西国諸将に朝鮮再征の準備を命じた。

 1597(慶長2)年1月13日、清正は再び渡鮮して西生浦城に入った。
 2月21日、秀吉は再征軍の部署を定め、加藤隊1万人を一番隊とした。清正は秀吉の意を汲んで朝鮮王室に書を送り、領地の分割と人質の提出を要求した。
 3月21日、清正の呼び出しに応じて惟政が西生浦に来た。惟政が清正の要求に応じないので、清正はかつて二王子を生かして返したことを言い立て、惟政に詰め寄った。
 6月10日ごろ、浅野長慶とその兵3000人が大坂を出発し、7月までには西生浦城に入った。これらは加藤隊の出発後、残って西生浦を守った。
 7月14日、柳川調信が秀吉の命令を持って釜山に到着した。諸将は協議の結果、大挙して全羅道に入ることに決め、清正は毛利秀元が率いる右軍の先鋒をつとめることになった。
 7月25日、清正は西生浦を出発し、右軍の集結地である梁山(慶尚南道)に向かった。
 8月上旬、黒田長政、鍋島直茂・勝茂、池田秀氏、長曽我部元親、中川秀成ら右軍の諸将は、梁山で集結を終えた。そこを出発して霊山を経て昌寧に到着、そこから西進して安陰(慶尚南道安義)に向かった。あたりの朝鮮軍は、みな恐れて逃亡したが、黄石山城(慶尚南道咸陽)だけは屈服せずに頑張っていた。
 8月16日夜、右軍は黄石山城を総攻撃した。城守将の安陰県監・郭越は奮戦したが、銃弾に当たって戦死し、右軍は350以上の首級をあげた。
 8月19日、右軍は全州(全羅北道)で左軍と合流した。24日、日本軍は全州城を破壊した。会議の結果、右軍のうち鍋島直茂父子、池田秀氏、長曽我部元親、中川秀成らは左軍と合流して忠清・全羅二道の討伐に当たることになった。一方右軍の主力である毛利秀元、加藤清正、黒田長政らの兵4万は、北進して公州(忠清南道)方面に向かうことになった。
 8月29日、右軍主力は全州を出発し、公州に進撃した。先に全州から逃げた陳愚衷は、駐屯していた公州からも逃げてしまい、右軍は何の抵抗もなしに公州を占領した。右軍は公州で二隊にわかれ、清正と軍監・太田一吉の隊は9月6日に清州(忠清北道)に着いた。
 9月7日、清正らは清州から北上し、8日に鎭川(忠清北道)に至った。しかし毛利秀元と黒田長政は協議の末、京城攻撃を断念し撤退を決め、清正らにその旨を通知した。
 9月14日、清正らは鎭川から撤退を開始し、9月19日には尚州(慶尚北道)まで退いた。永川で土賊を掃討し、10月3日に慶州を通って、10月3日に西生浦(慶尚南道蔚山)に帰着した。
 10月中旬、清正が設計した蔚山城の工事が、太田一吉の監督下に始まった。
 12月9日、明の僉都御使・楊鎬と提督・麻貴は兵4万4800人を率いて、蔚山攻撃のため京城を出発した。また朝鮮の都元帥・権慄の兵1万2500人も、明軍に従って進軍した。
 12月17日、楊鎬は義城(慶尚北道)に着くと、朝鮮人の呂余文に和装させて蔚山城を偵察させた。呂余文は20日に帰ってきて、「まだ城は未完成で、兵は少なく防備は手薄である」と報告した。楊鎬は大喜びで、三方から城を一斉攻撃する作戦を指示した。12月21日、三隊は同時に慶州を出発した。
 12月22日未明、明軍は毛利隊の仮宿営を襲撃した。救援に駆けつけた浅野長慶、太田一吉らもあやうく包囲されそうになり、辛くも城中に退却した。この戦闘で日本軍は460人以上の戦死者を出し、太田一吉も負傷した。清正は知らせを受けると側近20人ばかりと関船に飛び乗って急行し、22日夜9時ごろには蔚山城に入った。
 12月23日、明軍は総攻撃を開始し、西北の柵を破って外郭の中になだれ込んだ。この日の戦闘で、日本軍は660人以上の戦死者を出したが、どうにか持ちこたえた。
 12月24日、明軍は再び総攻撃に出た。この日は東面に攻撃を集中したが、ついに城壁を越えることができなかった。
 12月26日、朝鮮兵が三の丸近くに忍び寄り、火攻めをかけようとした。城内からこれを狙撃すると多数の使者が出たので、朝鮮兵は盾と柴を棄てて逃げ去った。
 12月27日は激しい雨で、明鮮兵は戦意を失った。翌日はこれに寒さが加わり、両軍に凍傷が広まった。城中では食糧が完全に尽き、銃を持ったまま凍死する者まで出たが、士気は高かった。
 12月28日、朝鮮軍は再び火攻めを試みたが、城中からの銃火に阻まれて退いた。この日、楊鎬の使者として降倭の岡本越後が来て、両軍の将の会談と開城を申し入れた。清正は時間を稼ごうとして、会見の約束をして岡本を帰した。

 1598(慶長3)年1月2日、毛利秀元は援軍1万3000人の部署を定め、西生浦城を出発した。
 1月3日、援軍は蔚山府邑の南方の高地に布陣した。この日、楊鎬は清正に使いを出し、約束どおり会見するよう求めたが、清正は答えなかった。
 1月4日、明軍は最後の総攻撃に出たが、城兵も必死で防いだため、楊鎬はついにあきらめて兵を収めた。日本軍の接近を知った楊鎬は、背後を断たれるのをおそれて撤退した。援軍の諸将はその日のうちに蔚山城に入り、清正らを慰問した。
 1月5日、援軍の諸将は慶州まで追撃するか否か相談したが、食糧と兵数が不足ということで中止と決まった。蔚山城は西生浦の兵に守らせ、他の援軍は翌6日にそれぞれの守備地に引き上げて行った。
 5月、蔚山城の修理が終わると、小早川秀秋・宇喜多秀家・毛利秀元・浅野長慶らの兵7万余は帰国したが、清正は引き続き蔚山城の守備に当たった。
 8月18日、伏見城で秀吉が死去した。徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・毛利輝元の四大老は、徳永寿昌・宮木豊盛を朝鮮に派遣し、講和を結んで全軍を引き揚げさせることにした。
 9月10日、明の提督・麻貴は、慶州で配下の明鮮軍3万人を部署につけ、先鋒の騎兵6000人を蔚山に向け送り出した。
 9月20日、明鮮軍の先鋒は蔚山北方の古鶴城に布陣し、麻貴は富平駅跡に布陣した。先鋒隊は城兵をおびき出そうとしたが、日本側はこれに乗らなかった。
 9月28日、麻貴は騎兵を西の谷に伏せておき、各隊を退却させたが、城兵は出て行かなかった。
 10月6日、董一元が泗川で島津義弘に大敗したと聞いた麻貴は、がっかりして慶州に戻って行った。
 10月下旬、徳永寿昌と宮木豊盛が蔚山に来て、清正に撤退命令を伝えた。
 11月23日、清正は蔚山城をあとにし、12月上旬に博多に帰着した。


李  舜 臣

 1545(仁宗1)年、ソウル生まれ。1576(宣祖9)年、武科に及第し武官畑を歩んだが、1586(宣祖19)年に胡人の侵入を防げず逃走したかどで解任された。その後、全羅道観察使・李洸に抜擢され、1591(宣祖24)年2月に全羅道左水使に就任し、麗水(全羅南道)にある左水営を指揮した。かねてから倭侵を予想していた李舜臣は、亀船を製造するなど戦争に備えた。

 1592(宣祖25)年4月、日本軍が釜山・東莱を落すと付近の朝鮮軍は驚き恐れ、慶尚道左水使・朴泓は左水営(釜山)を棄てて山中に逃げ込み、慶尚道右水使・元均も右水営(巨済島)を棄てて戦艦4隻で昆陽の海上に逃げた。
 元均からの救援要請を受けた李舜臣は、いったんは断ったが、部下の説得で出撃することにした。全羅道観察使・李洸は、李舜臣の兵だけでは心配で、全羅道右水使・李億祺に援軍を命じた。
 5月4日、李舜臣と李億祺は、全羅道水軍85隻を率いて左水営を出発し、5日に唐浦(慶尚南道)に着いた。
 5月7日、李舜臣の船団が巨済島の玉浦沖に至ると、これを発見した日本水軍との間に戦闘が始まった。李舜臣は先頭を切って日本水軍の艦列に突っ込み、他の船も続いて矢と銃弾を乱発したため、日本船26隻が火矢に焼かれて退却を余儀なくされた。
 5月27日、日本船団の十数隻が泗川・昆陽に接近し、露梁(慶尚南道、河東・南海間)にいた元均は李舜臣に援助を求めた。
 5月29日、李舜臣は戦艦23隻を率いて急行し、日本船団が停泊している泗川を襲撃した。日本軍は陸上隊と協力して防戦したが、13隻すべてが焼かれてしまった。
 6月1日、亀井真矩の船団が唐浦に停泊していることを知った李舜臣は、これを急襲した。この戦闘で日本軍の21隻のほとんどが焼かれ、兵員は全員陸上に退却した。李舜臣の部下の李夢亀は、秀吉が亀井真矩に賜った金団扇を分捕った。
 6月3日、唐浦にいた李舜臣と李億祺のもとに、唐項浦(固城)に日本水軍が終結しているとの情報が入り、固城に向けて急いで出帆した。
 6月4日、李舜臣は日本艦船33隻を急襲し、大部分の船を焼きつくした。
 6月6日、栗浦沖で李舜臣・李億祺・元均の連合艦隊が、来島通久の艦隊を襲撃した。通久は奮戦したが衆寡敵せず、船を全部焼かれて上陸し、自刃した。その士も多くが、彼に従って死んだ。
 6月22日、義州に逃げた宣祖は、李舜臣が海戦に勝ったという報告を聞いて大喜びした。
 7月6日、脇坂安治は艦船60隻余りを率いて熊川(慶尚南道鎮海)を出帆した。同日、唐浦に着いた李舜臣と元均の連合艦隊は、見乃梁(慶尚南道、統営・巨済間)に日本水軍が集結しているとの報せを受けた。
 7月7日、李舜臣と元均は見乃梁に向かい、これを発見した脇坂安治の船団は一斉に追撃した。李舜臣は日本艦隊を閑山島(統営)の西北に誘い出し、鶴翼陣を張って迎撃した。この戦闘で日本艦船39隻が撃沈され、脇坂左兵衛らが戦死し、安治も危ういところを部下に助け出された。
 7月8日、加徳島付近にいた李舜臣は、日本水軍が安骨浦(慶尚南道鎮海)に係留していることを知ったが、波風が強く出撃できなかった。翌9日、李舜臣は安骨浦に来て、日本船を港外に誘い出そうとしたが、日本側はこれに乗らなかった。朝鮮水軍は各船を交代で進め攻撃したが、日本丸に乗り込んでいた加藤嘉明は大銃を撃ってこれを防いだ。李舜臣はあきらめて引き上げた。
 8月28日、李舜臣らは東莱の長林浦を偵察し、洛東江上流の金海・亀浦付近に日本船団が集結していることを知った。そこで洛東江をさかのぼろうとしたが、川幅が狭いのであきらめた。
 8月29日、釜山浦に日本船団400隻余りが終結しているのを見た李舜臣は、これに襲いかかった。これを見た日本軍は、船と陸から砲撃して防戦した。この戦闘で鹿島万戸・鄭運らが戦死し、李舜臣は加徳島に退却した。

 1593(宣祖26)年2月6日、平壌で明軍が勝ったことを知った李舜臣は、これに呼応しようと左水営を出発し、熊川に向かう途中で李億祺・元均の船団と合流した。
 2月10日、朝鮮水軍は熊川を襲撃し、銃や弓をさかんに発射したが、日本軍は陸上から応戦するだけだった。
 2月12日、李舜臣は再び熊川を攻撃したが、日本船隊はいっこうに出て来なかった。
 2月18日、李舜臣はみたび熊川を攻撃したが、特に戦果はなかった。
 2月22日、李舜臣はよたび熊川を攻撃したが、先鋒の船4隻が港内深く入りすぎ、浅瀬に乗り上げて日本軍に捕獲されてしまった。
 3月6日、李舜臣は熊川に5度目の攻撃をかけたが、やはり戦果はなかった。
 7月14日、李舜臣は朝廷に願い出て、本営を閑山島(慶尚南道統営)に移した。
 8月、李舜臣は三道水軍統制使に昇進し、全羅・慶尚・忠清道の水軍を統括することになった。

 1597(宣祖30)年1月、忠清道兵使にかわっていた元均は、李舜臣の声望をねたんで上訴した。これによって李舜臣はソウルに押送され、死刑になる直前、 右議政・鄭琢の弁護で助命された。
 3月30日、李舜臣は釈放され、都元帥権慄の幕下に入り白衣従軍した。李舜臣にかわって三道水軍統制使になった元均は、閑山島の水営を統率していたが、日夜酒と女に浸って軍事をかえりみず、士卒も愛想を尽かし号令も守られないありさまだった。
 7月初旬、都元帥・権慄は元均を昆陽(慶尚南道泗川)に呼びつけ、日本軍が続々と上陸しているのに何もせずにいることを激しく叱責した。
 7月7日、元均は戦艦数百隻を率いて閑山島を出帆し、釜山の日本水軍を攻撃しようとした。しかし波が高かったので引き返し、夜になって加徳島(釜山)に上陸した。これを知った高橋統増・筑紫広門らに襲撃され、400人以上が戦死し、元均はあわてて巨済島方面に逃げた。
 7月11日、この敗戦を知った権慄は元均を再び呼びつけ、鞭で打って復讐戦を命じた。
 7月15日、巨済島に碇泊中の元均の艦隊を日本水軍が襲撃し、160隻が捕獲または炎上させられ、朝鮮水軍はほぼ壊滅した。元均は兵を率いて巨済島に上陸したが、待ち受けていた島津隊に襲撃され戦死した。
 8月2日、巨済島の敗戦を知った宣祖は、李舜臣を再び水軍統制使に任命した。
 8月17日、晋州にいた李舜臣はすぐさま会寧浦(全羅南道)に行き、まず戦艦10隻を手に入れ、部下にも船をかき集めさせた。
 8月28日、李舜臣は集めた船団を率いて珍島(全羅南道)に陣取った。
 9月6日、日本水軍は陸軍の全羅・忠清道掃討に呼応して慶尚南道から西進し、於蘭浦に着いた。珍島の碧波津にいた李舜臣には12〜3隻の戦艦しかなく、勝ち目はないと見て鳴梁(全羅南道、珍島・海南間)に退いた。
 9月14日、李舜臣らは右水営(全羅南道海南郡門内面)の沖に移った。
 9月16日、藤堂高虎らは敵艦が右水営にいることを聞き、水路の危険を考えて中型艦ばかり数十隻で出撃した。ところが12〜3隻の李舜臣軍に惨敗し、数隻が撃沈された。この戦闘で来島通総ら10人が戦死し、藤堂高虎は負傷、毛利高政もおぼれかけるなど惨憺たる結果に終わった。

 1598(宣祖31)年2月、明の水師都督・陳璘は艦船500隻余りを率いて来鮮し、唐津(忠清南道)に碇泊した。
 8月、陳璘は戦艦数百隻を率いて南下し、古今島(全羅南道莞島)で李舜臣の朝鮮水軍と合流した。
 9月14日、陳璘と李舜臣は古今島を出発し、順天(全羅南道)に向かった。
 9月19日、禦倭総兵官・西路大将として来鮮していた劉綖は、小西行長が籠もる順天新城を包囲した。陳璘と李舜臣は、これに呼応して新城を砲撃し、行長を大いに苦しめた。
 10月1日、劉綖と陳璘は陸海から総攻撃をかけたが、日本軍は出撃して明陸軍を後退させ、明水軍も引き潮となり松島の碇泊地に引き上げて行った。
 10月3日、劉綖は陳璘に書を送って夜襲を申し合わせた。しかし劉綖は、董一元が泗川(慶尚南道)で島津義弘に大敗したとの報告に接し、意気消沈して結局兵を出さなかった。陳璘は約束どおり午後8時ごろ松島から出撃し、日本艦船を襲ったが、潮がにわかに引いて沙船・号船43隻が座礁し、やむなく松島に引き上げた。
 10月7日、劉綖は新城の包囲を解き、順天旧城に退いた。陳璘と李舜臣も9日に海上封鎖を解いて、古今島の水営に戻った。
 11月7日、秀吉の死を知った陳璘は、李舜臣と協議して日本軍の帰路を断とうとした。そこで明鮮水軍500余隻は古今島を出発し、10日には順天沖を再び海上封鎖した。この日、撤退のため出航した小西行長は、順天新城に引き返さざるを得なかった。
 11月11日、行長は陳璘に使者を送り、講和の交渉をした。15日には陳璘も人質を送ったが、松島の水軍は引き上げず、事態は膠着した。
 11月17日、巨済島(慶尚南道)に集まっていた島津義弘・宗義智・立花統虎ら西部方面の諸将は、行長が退路を断たれていることを知り、艦船500隻で救援に向かった。これを知った陳璘と李舜臣は、迎撃のため松島から出帆した。
 11月18日未明、露梁海峡(慶尚南道、河東・南海間)で明鮮水軍と島津艦隊が出遭い、海戦が始まった。この中で李舜臣は銃弾に当たって戦死したが、子の莞は父の死を隠して奮戦した。陳璘も自ら戦艦を進めたが、日本軍に囲まれ危うく逃れた。島津艦隊も苦戦し多くの死傷者を出したが、ようやく敵艦を撃退し、巨済島に引き上げた。


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