ハンセン病患者の懲罰施設「重監房」復元運動について 

新潟大学医学部保健学科助教授 宮坂道夫

 一昨年の熊本地裁判決の確定で、わが国のハンセン病政策の誤りと、それに対する国と国会の過失責任が認められました。これからの日本のあるべき医療の姿を考えてゆく上で、ハンセン病問題は多くのことを教えてくれる大きな「負の遺産」です。特に被害者の多さ、問題の時間的な広がり、絡み合う要素の複雑さなどを考えると、全体が大きな「山脈」のように見えます。その中でひときわ高くそびえたつ不気味な暗い山が、ここでお話しする「重監房」という存在です。

●重監房とは何か
 重監房の正式名称は「特別病室」です。しかしその実体は、裁判を受ける機会も与えられなかったハンセン病患者たちが、過酷な監禁によって命を奪われた場所です。建設された1938年から、その存在が国会で追求されて廃止された47年までの9年間の短い期間に、92名の方々が収監され、そのうち22名もの人が命を落としました。
 ハンセン病療養所という医療施設に懲罰施設があること自体、今日の感覚からすれば信じがたいことですが、これはれっきとした法律に基づいて作られたものでした。日本のハンセン病政策の基盤となった「癩予防ニ関スル件」が1916年に改められ、ハンセン病療養所の所長に「懲戒検束権」という権限が与えられました。これは、裁判の手続きを省略して、所長の裁量によって患者に懲罰を与え、拘束する権限です。
 この法律に基づいて、全国のハンセン病療養所に監禁所が設置され、療養所の職員の手によって患者の監禁や減食(食事の量を通常の半分に減らす)などが行われるようになりました。ここに医学史上にも類例の少ない、医療者が患者を罰する、という制度が確立したのです。しかし、このような監禁所では不十分だというのが、当時指導的な立場にあったハンセン病専門医の意見でした。その一人、光田健輔氏は著書でこう述べています。

    ・・・この懲戒検束という軟禁的な制裁は、凶暴なものに対してはほとんどききめがなかった。・・・結局、ライは刑の対象にならないという誤解が改められ、ライ刑務所ができなければライの凶悪犯は絶えず、可憐な、多くの善良な病者がこうむる苦痛や迷惑は一通りでない。・・・草津の楽泉園ができたのち、全国療養所長会議によってこの困難を法の定める範囲の中で解決しようとして楽泉園内に堅固な監禁所を作って逃走を不可能にすることにした。(光田健輔『回春病室』朝日新聞社、1950年)


●死に至らしめる収監
 こうして、各地の療養所にあった監禁所の「上」に、「厳罰」を与える場所として、群馬県・草津町の栗生楽泉園に設置されたのが、特別病室つまり重監房です。
 重監房での監禁は、「監禁」というような生易しいものではなく、収監者を衰弱させ、精神を破壊し、死に至らしめるようなものでした。当時の記録によると、内部で死亡したり、出所直後に死亡した人たちの死因は、肺炎、腎炎、腸カタル、自殺など、房内の環境が患者を死に至らしめるほど過酷なものだったことをうかがわせるものばかりです。そしてこのことは、重監房の異様な構造にも如実に現れていました。図は跡地を実測して作られた平面図です。八つある白色の部分が、一つ一つの独房です。狭い独房は板敷きで、用便のための穴がありました。非常に狭い窓(横75cm、縦13cm)が壁の上部に一つあるだけで、内部はほぼ暗室のような暗さでした。収監者どうしが声を交わせないように、その窓は独房ごとに違った方向につけられており、隣の独房との間には2メートル近い間隔がありました。独房の壁、各独房の区画を仕切る壁、建物全体を覆う壁と、高いコンクリートの壁が「田」の字のように幾重にも築かれ、さらに建物のすぐ外側に塀がありました。独房に入るためには、壁ごとにつけられている分厚い扉をくぐらなければなりませんでした。
 さらに、この構造物が異様なのは、建物全体を屋根が覆っていたのではないという点です。独房だけが屋根に覆われていて、それを隔てている部分(図の灰色の部分)の上部には何もありませんでした。草津高原の山中にあるこの場所は、冬には積雪が多く、独房の周囲に雪が降り積もり、一切の暖房設備がない内部は、天然の冷凍庫のような状態になったと考えられます。室温はマイナス20にもなったのではないかと言われており、事実、22名中実に18名が冬季に死亡しています。
 このような構造を見るだけで、「特別病室」という正式名称がまるで虚偽的なものに思えてきます。収監者が次々と死亡してゆくにもかかわらず、中に置かれた「診察室」はただの一度も使われず、それどころか医師や看護師が内部に立ち入ったことさえなかったと、当時を知る人たちは証言しています(食事運搬も、便の汲み取りも、さらには死亡した収監者の遺体の運び出しも、すべて患者たちが行わされたといいます)。患者たちは重監房のことを「殺人獄舎」と呼んでいましたが、これは誇張ではありませんでした。
 もう一つ重要なのは、このような恐ろしい収監を、療養所の職員が自分たちの裁量で決定できたという事実です。例えば、ハンセン病療養所では、かつて「患者作業」といって、療養所の運営に関わる様々な作業が患者の手で行われていました。その一つである洗濯作業に使う長靴を新しいものに代えてくれるよう要求したことで収監された人がいます。手足などに感覚障害を生じ、外傷を負いやすいハンセン病患者にとって、洗濯に使う長靴を新調してほしいという要求は不当なものとは思えません。しかし当時の療養所の職員はこの要求をはねつけ、怒った患者たちは洗濯作業を放棄しました。するとその責任をとらされて、作業の責任者が重監房へ収監されたのです。しかも、この収監に抗議した妻が、まるでもののついでのように同時に収監されています。記録によると、この洗濯場の責任者は房内で衰弱し、重体になり、監禁を解かれた一月半後に亡くなりました。

●重監房の「世界史」的な重さ
 私たちは今、この重監房を復元しようという運動に取り組んでいます。言うまでもなく、破壊されてすでに半世紀の年月がたっており、設計図などの資料も見つかっていません。果たしてどこまで正確に復元できるのか、私たちも確かな自信を持っているわけではありません。
 それでも復元を目指す意味は、確実にあると信じています。その理由の一つは、この場所が日本のハンセン病問題を超えて、「20世紀の世界史」上の問題として歴史に刻まれなければならないと考えるからです。20世紀は、医学が飛躍的な発展を遂げる一方で、様々な悲劇的事件を通して、「患者の権利」が確立した世紀でした。第二次大戦中、ナチスイツの軍医たちが行った数々の悲惨な実験が明るみに出ました。医師たちが研究目的で強制収容所の収容者や捕虜などに病原菌を注射したり、極寒・酷暑などの過酷な環境に晒したり、二人の人間を無理やり性交させたり、手術で縫い合わせたりしました。こうした研究の被験者の多くは殺害されました。また、米国で起こった「タスキギー梅毒事件」では、黒人の梅毒患者たちがおよそ40年間にもわたって治療されず、梅毒が進行してゆく様子を観察され、その間ずっと虚偽の説明を受け続けました。
 このような悲劇的な事件を大きな契機として、「本人の同意がなければ研究の対象にしてはならない」という医学研究の原則や、「患者には、治療の内容や予測される結果などの医学情報を知り、その治療を受けるか否かを決める権利がある」という患者の権利、今日でいう「インフォームド・コンセント」の原則が確立していきました。
 こうした視点で日本のハンセン病政策を見つめ直すと、特に重監房が象徴する「懲戒検束」の意味の重さが理解されます。重監房で行われたのは治療でも医学研究でもありません。「医療者が、患者の生活指導や療養所の治安維持の目的で、患者に対して死に至るような罰を与えた」という行為です。しかもそれが、一部の医療者によるリンチ的なものとしてではなく、法律に基づいて国の施設において行われたところに大きな意味があります。重監房は、世界の近代医学史上にもおよそ類例を見ない出来事の現場なのです。

●失われた時間を求めて
 復元を目指すもう一つの理由は、重監房への収監の恐ろしさは、この異様な建物を復元してこそ明らかになるだろうと考えるからです。
 重監房跡地には土台が残り、石碑が建っています。それらを眺めていても、記録にあるような凄惨な歴史がこの地に刻まれているとは、容易に信じられるものではありません。歴史から教訓を得ることが大切だと、誰もがいいます。しかし、そのためには「具体的な媒体」が不可欠だと、私たちは考えています。それは例えば体験者の「語り」であり、生々しい「現場」や「遺留品」です。広島の原爆ドームに行き、資料館に展示されている融けたガラス瓶を目にする。アウシュビッツで、殺された人々の毛髪から編まれた毛布を目にする。そういう「具体的な媒体」、「生きた媒体」を通して追体験をしない限り、想像力を持って過去の悲劇に向き合うことは困難ではないでしょうか。
 重監房の残酷な性格は、あの異様な建物の構造にこそ現れています。これを可能な限り復元して、暗黒と冷気に閉ざされた独房に、私たちは入ってみる必要があるのではないか。そうでなければ、そこで数十日間、数百日間と監禁されることの恐怖は理解されないでしょう。この運動が闘う相手は、私たち自身の想像力の限界なのです。
 最後に、私たちの運動は、療養所の外で生きてきた人々と、療養所で暮らしてこられたハンセン病の元患者さんたちが声を合わせて行っているものだということをご理解いただきたいと思います。ハンセン病問題に関わってこられた市民団体の方々、国会議員、学者、文化人、医療福祉関係者など様々な方が呼びかけ人になってくださっています。また、ほかならぬ療養所に暮らすハンセン病の元患者さんたちが、この運動を支援してくださっています。何十年にもわたって分断されてきた二つの国民が、共同して未来を思い描く――そのような運動として、重監房復元を考えていきたいと願っております。


<<
 重監房の復元を求める会 トップページに戻る

<< 新潟大学医学部・宮坂道夫研究室ホームページへ