お遍路さんの区分分類

 遍路とは 
 
お大師様が約1,200年前(792年)に修行されたと伝わる足跡を辿り巡りゆく修行の旅人を『お遍路(現在は「歩き遍路」と表現されます)』といいます。 「お遍路」はお大師様の歩まれた足跡を辿り巡りゆく修行行為それ自体本来のお遍路な のです。 
 歩き遍路」と「札所巡り」は全くの別世界です。
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お遍路の道中や道筋にこそ「お大師さま」はいらっしゃいます
 お大師様が1200年前に修行されたと伝わる足跡を辿りつつ四国の山野を白衣姿で荷物を背負い、菅笠をかぶって金剛杖を持ち、黙々と歩いて巡る修行をさ れている方々を“お遍路“とか“おへんろさん“と敬いの思いを込めて昔からいっています。
 四国八十八箇所の寺は、江戸時代に四国遍路中興の祖とも称され る宥辨真念聖が四国各地に散在していた寺院の中から88寺を選び1番から88番の番号を付けたことに起因して、現在の八十八箇寺が始まっています。 江戸 時代以降は、お大師様の歩まれた修行足跡を辿る本来の遍路修行に随従して、遍路の道筋に散在する八十八箇寺にも立ち寄り、お大師様をはじめ先人賢哲や聖に 畏敬と感謝の念を捧げつつ、四国(阿波・土佐・伊予・讃岐)の山野を徒歩で巡る“修行の旅”を続けているのです。

 
バス・タクシー・自動車などの乗り物を利用する参拝方式では、お遍路本来の四国の山野を「歩くという原点」から遠く離れきっている為に、「札所の参詣=札所巡り」という形式的表面的な一部分の中に旅行目的を求め、その意味を細々と積み上げることでしか術がなくなってしまいます。 お遍路への姿勢発心そして原点の根本的な違いから、乗り物利用の「四国八十八ヶ所札所巡り」と自分の脚で歩く「四国八十八ヶ所歩き遍路」とでは、お遍路さん自身が経験し・体感するその世界が全く異なってしまいます。 外見や装束などがそっくりで、立ち寄る札所がたまたま同一であったとしても、歩きへんろの一歩に凝縮されている遍路修行の重み修行の道程を省略し札所を巡るだけの軽々な足取りとの間には、比較のしようもないほどの大きな違い開き厳然とあるのです。

お遍路さんの区分  ⇒「お遍路さん」と「札所巡り」と「団体さん

 最近の四国八十八箇所を巡る方々を客観的に区分すると次のようになると思います。 区分根拠は四国八十八箇 所の巡り方と主体性保持の有無により独断で判定しています。 「お遍路さん」と「札所巡りさん」と「団体さん」に大きく区分しますと、より判り易 く整理分類され理解がすすみます。 なお、観光バスなどを利用して四国島内に散在する八十八の札所寺院に参拝することを旅行の主目的として、バスや自動車等で点と点の寺院を足早に車移動してゆく旅行者のことを「札所巡り」さん又は「八十八霊場巡り」などと表現し、それらをまとめて「団体さん」と称して区別しています。 

     体験を土台にして巡り方と主体性の有無を基準にした独自の分類です。
分類 人数区分  区分  交通手段など    概 要 主体性の
3名以下  お遍路さん  徒歩 リュックを背負い、自分の脚で修行の路を巡ります。 自由自在・自業自得・自主自立の世界、本物の「歩き遍路」です。 *年間で3千人弱のお遍路さんが、本物のお遍路で結願されています。
 お遍路さん  徒歩+公共交通機関 リュックを背負い、自分の脚とバス・鉄道なども利用して修行の路を巡ります。 自由自在・自業自得・自主自立の世界です。 歩くという原点が不完全なので心残りと云い訳が生じます。
 札所巡りさん  自転車(含二輪自動車) 歩くという原点から離れます。 荷物は自転車に載せ運びます。 四国に散在する札所を巡りますが点から点への移動旅です。 天候の影響を受けますが自分で計画し、自分の脚力にも依るので主体性は有します。
 自動車(マイカー) 歩くという原点から遠く離れます。 荷物は車に載せ、身軽です。 天候にも左右されず、効率的に四国に散在する札所を巡りますが点から点への急ぎ旅です。 スタンプラリーになりがちですが、自分で計画してルートも選び運転もしますので主体性は有しています。
4名以上  札所巡りの
 団体さん
 伴走車+集団ウォーキング 募集ツアーに参加し、引率され、身軽にウォーキングしています。 おしゃべりもしながらなので、自分のリズムでは行動できず、他の参加者の遅いペースに引きずられてしまいます。 疲れたり遅れると伴走車に拾われ車輛移動できますので始める前から「甘え心」も生じ、「本来の修業とは程遠い」ものとなります。 団体行動ですから時間にも追われ制約されて主体性等はありません。 自由自在・自主自立とは全く異質な遍路姿での集団ウォーキングです。
 自動車・ジャンボタクシー 歩くという原点からは遠く離れてしまっていることから、札所での「参拝形式や装束にこだわる」ようになってしまいます。 他の参拝者やお遍路さんに迷惑をかけないよう注意しながら集団行動で巡ります。 しかし参加者にマナーの劣る人がいれば団体のマナーレベルもその人のレベルまで堕ちてしまいますし、参加者個々の存在感も「参加人数分の一」と希薄です。 募集ツアーに参加し引率されて、札所から札所を急ぎ足で訪れる気楽な自動車旅行です。 業者の企画通り、時間に追われて従うだけですから主体性等はありません。 納経までも他人任せですので札所寺院の名前も定かでなく、旅行内容の優劣や満足度は担当する先達さんの指導や技量水準により決することが多いようです。 そして、四国88箇所の札所を巡ったことがある、という記憶だけが残ります。
 観光バスなど

お遍路さんの

 昔、お遍路さんにも上・中・下の区分があったのだそうです。
○「上遍路」とは、他家の門口に立ち勤行を唱え一手一銭の功徳を受けるなどの修行を重ねながら巡るお遍路さんをいいます。
○「中遍路」とは、他家の門口に立つなどの修行を行わず、四国88個所を歩いて巡るお遍路さんをいいます。
○「下遍路」とは、合力を連ね(人夫を雇い)この人達に荷物を運ばせ自分は身軽に楽をして巡るお遍路さんをいいます。

遍路

 最近では、門口に立ち修行するお遍路さん「修行遍路」(一日七軒、他家の門口での立ち勤行を修めつつ巡る。)は見受けられません し、門口に立ち修行を志す僧侶も全く居ません。 また、お遍路から納経料や志納金の布施を受けている立場の札所寺院自体が逆に境内での托鉢を禁じるなど、 修行遍路への支援姿勢や保護意識も薄れており、修行をしながら遍路を続けることへの理解者や居場所などは無くなってしまった状態と思われます。 そして、 修行の上遍路さんは昭和30年代後半以降に居なくなったと思われます。 お遍路の道中でへんろ道の補修保全活動や道筋の清掃活動など「下座の行」と「利他の心」を抱かれて巡るお遍路さんも稀に見受けられますが、現在の上遍路とはこうしたお遍路さんを指すのだろうと思います。

遍路」修行のお手伝いを希望する方はご相談ください。 上遍路とは、菩提と繁栄等を祈り他家の門口で立ち勤行を納めつつ(一日七軒と伝えられています。)巡る修行の遍路旅を云います。

遍路

 自ら発心し、辛苦を厭わず、雨の日も風の日も、自分の脚で歩いて巡られる「歩き遍路」さんが 現在の中遍路さんに該当するのだろうと思います。

遍路

 観光バスやタクシーツアーなどに参加し、「歩くという原点」から遠く離れ去り、リュックも背負わず、引率されるまま納経まで他人任せの「団体さん」は現在の下遍路なのでしょう。 同様に歩く原点から離れ、自動車や二輪車を利用している「札所巡り」さんも下遍路に含まれるのでしょう。


似非(えせ)遍路

 上・中・下以外にも「遍路じゃない遍路姿の人」がいろいろと居るようです。

こじき遍路 他人の善意やお接待を当てにして、然も、それが当然のごとくに振舞う「心のさもしい遍路」を指します。 受けたお接待を自慢げにブログに載せたりするお遍路さん達はここに属します。 残念ながら、心のさもしい遍路は周りの方々への施しや自らお接待する気持などを持ち合わせていませんので、遍路修業とはほど遠い寂しい方々です。 こじき遍路に堕ちないようにご注意ください。

偽物遍路 縁日や催事場などで、遍路姿を真似て布施を媚びる或いは納札を渡して金をせびる等、善意の方々を騙すだけの「偽物の遍路」を指します。 また、道中で時々姿を現すのですが、札所巡りの「錦札」や「先達札」をこれ見よがしに見せたがる傲慢遍路もここに属します。

口毒遍路 功徳を積む振りをしていても、道中で宿の悪口や寺院への不満、少しばかりの知識を振りかざすなど「周囲に口毒を撒き散らす遍路」を指します。

無謀遍路 気合だけで遍路を始める人で、準備も知識も不十分、軽率で「周囲に心配を押しつけるタイプの遍路」を指します。

Walker   お遍路の装束も身に着けず、自分の都合で「自分勝手にウォーキングしている方々」を指します。

 昔と変わらぬ本物の「歩き遍路」に関心のある方はこちらもご覧ください。⇒ お四国センター 直心(じきしん)              TOP


道中での注意惹起 … 長い道中です。ご無事で、気を付けて!

転ばぬ先の杖 ⇒ 注意惹起 ⇒ 長い道中です。国内で最も安全な四国島内であっても、不快な場面に遭遇することだってあり得ます。 
 

タクシー   上乗せ料金をお遍路さんにさも当然の如くに請求する雲助もどきのタクシーや地域もあるのです。

肉刺などで足を痛めたり、道を間違い日暮れとなった場合などに地元のタクシーに送迎を依頼する場合もあります。 見知らぬ土地で送迎を受けると本当に助かる場合もあります。 然しながら、お遍路さんの状態を見透かして 上乗せ料金を当然の如く要求する雲助のごときタクシーや地域もありますので驚かないようにしてください。
(補足説明)
この地域の住民の殆ど大多数の方々はお遍路さんを大切にしてくださる親切な方々です。 タクシーと同列に認識しないようにしてください。

実体験】  土佐の国、足摺岬区域での出来事でした。 連れのお遍路さんが足を痛めたため、地元のタクシーに電話して送迎を依頼したところ、上乗せ料金として1,000円を最初の電話口から要求され、それを受け入れなければ送迎をしないと申し渡されました。 翌日、別のタクシーに電話で依頼した場合でも同様でした。 後日、お宿でタクシーを紹介してもらったところ、上乗せ料金を強要しない「真面目なタクシーは○○だけです」とアドバイスされました。 乗車区間の料金を支払うメーターはこの地域では通用しないようです。

実体験】  土佐の国、四万十川河口付近の出来事でした。 夕暮れとなり身体の疲労や肉刺の痛みなどもあったことから、地元のタクシーに電話して送迎を依頼したところ、営業所スタート時点から料金メーターを入れますと宣告され 受け入れることを要求されました。 仕方なく同意したところ、タクシーが来た時には 既に1,360円を表示しておりました。  どうやら、お遍路さんには当然に上乗せ料金を強要するのがこの地域のタクシーの習俗のようです。 ちなみに、その営業所からは通常5分位で着く距離だと、地元の方が説明してくれましたが、到着するまでには随分と長時間を要していました。

 

物乞い・たかり・つきまとい   出会うことは殆ど無いと思いますが、念の為に注意されてください。

お遍路の道中で多くの方々から道案内や応援の声掛けを受けます。 そして心温まるお接待を戴くこともあります。 有り難いことです。 然し、極めて稀に応援の素振りを示しながらお遍路さんに近づき物乞いや金品をたかる不逞の輩も稀にいるのです。

実体験】  西条市の氷見地区での出来事でした。 自転車に乗った60歳過ぎの小柄な男が女性のお遍路に声掛けしてきました。 段々と身の上話を話し、職を失い年金 支給まで不自由している等々と話を続けお遍路の歩みを止めて行く手を遮り、そして金銭をせびりました。 気弱な女性遍路さんは1,000円を施してその男 から離れました。 善意善良な地元の方々の中にも極めて稀にですが、お遍路に災いする不心得者もいるのです。

実体験】 香南市の物部川付近での出来事でした。 60歳前後の男が待ち構えていたかのごとくに 声掛けしてきました。 法華経云々とか、何とか学会とか、地獄に堕ちるとか… の怪しげで愚かしい話を投げかけながら、嫌がるお遍路さんにつきまとい始めたのです。 立ち退くように注意をしても、物の怪に取りつかれているのか或いは邪教に洗脳され 人間としての社会常識も欠落してしまったのか… 離れようとしないのです。 しばらくの間、追い払っても追い払ってもついてくるのでした。 異端宗教に毒され、哀れにも亡者に堕ちてしまった愚かで浅ましい有様を見せつけられた、不快でおぞましい体験でした。 女性のお遍路さんを狙っている様子でしたので注意をしてください。 地元の方々の見回りに期待したいものです。

実体験④-2】 徳島県おの板野町3番金泉寺付近の出来事です。 犬を連れた薄汚い老婆が声掛けしてきます。 どこから来たの…、などと親しげに声をかけてきますが、その結末はのどが渇いたから自販機で飲物を買うお金をくださいと小銭をたかってくるのです。 歩き始めたばかりのお遍路さんにたかり寄る不潔な餓鬼や邪鬼も居るのです。 注意してください。 

 

納経所   僧侶を含め寺院の方々も十人十色、ピンからキリまであります。 稀にですが、傲慢無礼冷酷な仕打ちに遭うこともあります。

お遍路の道中には八十八箇所の寺院もありますので立ち寄ります。 経文を唱え参拝した証として納経帳などで墨 書・朱印を受けます。 「お疲れ様…」・「気を付けて…」などの気遣いや普通の応対をしてくださる納経所がほとんどなのですが、一部の納経所では傲慢無礼な応対をしてしまう愚か者もいるのです。  不思議なことです…、歩き遍路の道中で不愉快な出来事不快感を抱く方々に出合うこともありますが、その殆ど全てが寺院の納経所で生じるのですよ。

実体験】  宇和海沿いでの出来事でした。 勤行を唱えて納経所に立寄りました。 こちらからは「お願いします」と挨拶し、料金を添えて納経帳を差し出しました。  …ビックリでした。 …なんと 記帳を済ませた納経帳を投げて返してきたのです。 墨染の袈裟姿の方でした。 極めて狭い宗門世界に長く安住している からでしょうか、社会常識と極端にかけ離れてしまっている愚か者も中には存在するのです。

実体験 猛暑や厳寒の時期に体験する出来事です。 納経所で記帳を済ませ、料金を支払い、納経帳等の返却を受けた後の収納しているタイミングで遭遇します。 冷暖房の効いた室温を維持するためなのでしょか、お遍路さんの面前でガラス戸などを ピシャ と無表情で締め切る納経所もあります。 「暑いのに…」、或は「この寒いのに…」と あからさまに寺院側の立場や自己都合を最優先しただけの無配慮な対応にさらされると、お遍路の心も凍り付かされてしまいます。 …炎天下を歩き、或は寒風の中を耐えて参拝し 納経所を訪れて 割高な料金を支払っているにも拘らず、少しの我慢や僅かな心配りも無い傲慢な態度と冷酷さが お遍路さんの全身に突き刺さります。 伊予の国の一部の寺院では 何故か、淋しい思いを感じさせられてしまいます。

実体験 近頃、殆ど全ての人が携帯端末機器類を利用しており、寺院関係者や僧侶達も同様に通信端末を日常生活に活用しています。 身近に情報の溢れる時代であっても、一般社会ではお客様を迎える接客カウンターや受付応対などの場所では携帯端末機器類を業務中に私的使用することを厳に慎みます。 これは守るべき最低限の礼儀・マナーだからですし、札所の納経所でも同じことだと思います。 体験上での判定ですが、雇われている納経所の職員さん達は一般社会に住いし生活していますので業務中に携帯通信機器類を使用してはならないという最低限の礼儀やマナーを知っており遵守しているようにも思います。 しかしながら、寺院の身内や僧侶達の中には納経所で携帯端末機器を無造作・無頓着に使用している姿をお遍路さんの前で見せつけていることがあります。 そして驚くことに、納経帳等に朱印墨書し料金の授受を終えるや否や、お遍路さんの面前で携帯端末機器類を手に取り操作を再開し熱中する無礼な所作を見せつけられる場面にも出くわすことも多くあります。 反面教師として受け入れるには、余りにも軽薄で愚かな姿を無様に晒している札所の納経所もあるのです。

実体験 歩き遍路さんのほとんどが同様に体験することです。なんと!不快な思いをする共通の場所は寺院の納経所なのです。特に団体の添乗員さんと鉢合わせした折の納経所窓口担当者の対応次第に因って歩き遍路さんは苦くて不快な思いを味あわされるのです。長く待たされることに気を遣って声掛けされたり、割り込みで記帳してくださるような心地好い応対をしてくださる寺院が88カ寺の大半なのですが、一部数カ寺には待たされているお遍路さんを無視して馴染みの添乗員と雑談しながら記帳する無神経で傲慢な窓口担当者も現に居るのです。 又、団体添乗員の中には自己中でマナー無視の輩も目に付きますし、年配者になる程その傾向があるようです。

実体験 一部の寺院で納経帳の冊数制限に固執している納経所があります。 何故か? は理解し辛いのですが、それらの納経所側の姿勢には「邪見にまみれた傲慢さ」と「偏見に固執する浅はかさ」そして「遠来の参拝者を愚弄する邪鬼の哀れさ」をお遍路の全ての方々が感じ取っています。 八十八ヶ所霊場の納経所の場で、遠来のお遍路さん達の衆目の前で、お遍路さんの清浄な祈りの心傷つけている悪行を寺院自らが率先して犯していることにも気づかずに、納経(墨書朱印)の冊数のことで憤り罵り合って争っている状況を 敢て衆目に晒している僧侶や寺院関係者には呆れ果てる他に対応する術を持ち得ません。  原点に返って「納経とは御本尊様や御大師様に写経や経文読誦を納めることであって、対価¥300を支払ってまで納経帳に墨書朱印を記することでは無い ということを思い起こす必要があります。  参拝者自らが「破邪の剣」で打ち砕く意で、邪鬼の巣食う納経所への立ち寄りを拒絶し、拒否することも必要な時代になってしまったのでしょうか…!?

 
御朱印」・「御納経」等の意味合いって… ?…?

 近年、全国的に「御朱印ブーム」が広がっていました。 一般的に、神社や仏閣に参拝した折に参拝者の持参した「朱印帳」あるいは「納経帳」に墨書朱印を授け、志納金を納める有様を「御朱印」と云い、全国的なブームにもなり、なかでも有名な神社仏閣ほどその人気を得ている状況です。 神社系は「御朱印」、寺院系では「御納経」と称されています。
 その意味合いについての説明は 神社系では
神様に参拝し御縁を結んだ“証”として、寺院系では御本尊に参拝し写経・読経を納めた“証”として墨書朱印を授け、参拝者は志納として朱印料又は納経料を納めるとされています。 「神様に参拝し御縁を結んだ証」・「御本尊に参拝し写経等を納めた証」が従前からの“権威”付けの根拠であり、“ありがたさ”を感じさせる由縁なのです。 神様も仏様も尊く神聖な不思議の霊性であって信仰の原点でもありますし、神仏の御姿御尊顔を現世で参拝者が拝することはできません。 …然しながら、その“ありがたさの証”として現世に生きている人間が現に物質である朱印帳・納経帳に墨書し朱印を施して、金銭(朱印料・納経料)の受け渡しを現世で、現実に生きている人間が行っているのです。 この故を以って“ありがたさの証”を担当する朱印処・納経所の方々は、その“ありがたさ”を減じたり裏切るような所作をしてはならないのだろうと思います。



新型コロナウィルス(COVID-19)騒動の折、全国で大多数の有名な神社仏閣は参拝制限や拝観制限そして朱印処・納経所閉鎖等の措置がなされました。 他との接触等に因る感染拡散を予防する為、参拝や来訪の自粛要請や協力依頼の趣旨でした。 行政組織等の意向に添い、感染拡散予防に協調する姿勢は多人数の集まり易い施設や観光施設運営者の立場としては当然の対応でありますし、批判されるような筋合いでもありません。 然しながら、大多数の有名な神社仏閣が参拝制限や拝観制限を行い、朱印処・納経所等を神社仏閣側の判断で閉鎖措置がなされたと云うことは、従前の“ありがたさの証”権威付けを自らが放棄し、“証”の根拠が虚しい作り話で絵空事であったと云うことを白日の下にさらけ出した、ということになってしまったのではないでしょうか。…?。
 今後、神社仏閣等を参拝される方々は虚しい絵空事などに惑わされること無く、冷静に“ありがたさの証”について見直してみることも必要なのかな? とも思います。 私ごときには判りませんが、近年に広がりを見せた「御朱印ブーム」も新型コロナ騒動での対応姿勢などからブームの沈静化が始まるかも知れませんネ。

 

お遍路シール   お遍路シールが剥がし棄てられ、減少しています。

 歩き遍路さんにとって道中に貼られている「遍路シール・道標」はありがたいものです。 四国外から来訪するお遍路さんにとって四国島内での「方向・方角」や「道順」等は全くの不案内ですし、地名等は殆ど全てが初めて耳にする言葉です。 四国島内に住まいする方々でさえ、道順や方向方角を間違えることもあるのですから、遠来の四国島外のお遍路さんが不安を抱き道順を間違い困窮するのは当然のことだと思います。  そうしたお遍路さんを導いてきたのが江戸時代であれば真念法師の建立された「真念しるべ石」であり、明治時代であれば中司茂兵衛聖の「道しるべ石」であって、平成の時代の現在では電柱やガードレール等に貼られている「お遍路シール」だと思います。 もしも、このお遍路シールが無いと仮定しますと、ほぼ全ての歩き遍路さんは地図と磁石で遍路道を探しながら、不自由・不案内で見知らぬ土地を不安に駆られながらの苦しい道行きを強いられることだろうと容易に想定されます。

 注意をして欲しいのですが、
最近各行政体が案内シールを貼付しているのですが、案内シールを貼るに伴い既存の「お遍路シール」を剥がし棄て去ってしまいました。 行政の案内シールは行政目線で貼付してあり、道不案内のお遍路さん目線には映りにくい場所や場面も多くあります。 既存の「お遍路シール」が剥がし棄てられるに伴いお遍路さんが戸惑いそして道順や方向を間違えることも最近大幅に増加しています。  お遍路さん、お遍路地図は必ず持参し要所要所では位置と方向を確認しながら歩き遍路を続けられてください。

 
「お接待文化」等にも地域差があります。  高知県内にはお遍路さんを温かく迎えてくれるありがたいお宿等もあり、探せば良いところも多くあるのだろうとは思いますが、高知県内全域で体感する傲慢さ・不躾さ・ケチさ・無関心さなどに接するにつれ ここは高知なんだ… と他県との格差や違いを思い知らされることの多々ある地域です。 加えて、運転マナーは極めて劣悪であり、横断歩道を渡ろうとしても停止しようとする車はほとんどなく、トンネル内でも無灯火で走り抜ける車も多く、「身の危険」を感じることの数多くある油断できない地域でした。  高知の県境を超えるまでは油断せず、道順を地図等で確認しつつ、交通事故等に巻き込まれないように注意してご無事に土佐の国(高知県)を通り抜けられてください。


 昔と変わらぬ本物の「歩き遍路」に関心のある方はこちらもご覧ください。⇒ お四国センター 直心(じきしん)              TOP

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