'07 箱根・伊豆紀行

3月終りから4月初めにかけて箱根から伊豆への旅をした。テーマ(キーワード)は桜、富士、街角散策である。

[1.箱根早雲寺 ]

小田原厚木道路を小田原箱根口ICで降り、国道1号線を箱根湯本から旧東海道に入り少し行くと右手に早雲寺がある。ここのしだれ桜は箱根で最初に咲き、知る人ぞ知る桜の名所だそうである。早雲寺は北條早雲の遺命によりその子氏綱が建立した。建立当時は多くの伽藍塔頭が建ち並び、鎌倉を超える関東一の禅刹として威容を誇ったという。しかし天正18年(1590)4月に秀吉が小田原攻めをした時、この寺が秀吉の本陣とされ、その後秀吉が6月下旬に築いた小田原一夜城に移る時、火を放たれてことごとく灰燼に帰した。7月に北条氏は降伏し、当主の氏政は切腹し、嗣子の氏直は高野山に流された。その後氏政の弟である氏規が大阪河内狭山で存続を許されたという。
 江戸初期に本堂だけが再建されて早雲以下氏綱、氏康、氏政、氏直の北條五代の墓が造られ、その後北條氏ゆかりの品も少しずつ集められている。このあたりは箱根のメインルートから外れているせいか、閑静でゆったりした時が流れて、戦国の世の盛衰を思い巡らせるには打ってつけの場所である。


[2.恩賜箱根公園 ]

 湯本から旧東海道を元箱根に行く。車の通りも少なく快適な道である。箱根関所跡の手前に箱根離宮跡の恩賜箱根公園がある。芦ノ湖に突出した半島で小高い丘になっており、広い有料駐車場の直ぐ上に、良く手入れされた散策路が続いているが、あまり知られていないのか人影は少なく静寂そのものである。ここにはマメザクラという小さな花びらの桜が沢山あるというが、咲くのは4月中旬とかで残念ながら見ることは出来なかった。しかし眺望は素晴らしく芦ノ湖の全景とその先に真っ白な富士山が見られ、予期せぬ大観に大満足だった。


[3.成川美術館 ]

春満開 元箱根の観光船乗り場と道路を挟んだ高台に現代日本画家の作品4,000点を有する成川美術館がある。平山郁夫、加山又造などの秀作は勿論だが、なんと言っても130点を超える山本丘人のコレクションは圧巻である。平成3年の開館3年目に始めて訪れてから4回目の訪館になる。牧進、田淵俊夫などの中堅画家の作品に初めて出逢ったのも此処だった。今年は開館20周年であり特別企画として「春満開 桜・さくら展」と「現代日本画 名作の競演」と題した見ごたえのある名画が多数展示されていた。ここの大展望室からは芦ノ湖の全景と対岸の箱根神社の赤い鳥居の上に富士がそびえる景勝が一幅の絵のように眺められ、思わず長居をしてしまう場所である。


[4.伊豆高原さくらの里,伊豆高原桜並木 ]

 箱根から伊豆スカイラインで伊豆高原に向かう。晴れていれば右に駿河湾左に相模灘を眺める快適なドライブコースである。伊豆高原大室山山麓に37種類、約3,000本の桜の木を植えた「さくらの里」がある。真っ白い大島桜や少し赤みがかった伊東桜は満開だったが、染井吉野は八分咲きくらいだった。その夜は伊豆大島がよく見えるリゾートホテルに泊り、翌朝伊豆高原駅前にある約キロにわたって続く満開の染井吉野の桜並木を抜け、国道135号線を伊豆下田に向かった。(写真は伊豆高原の桜並木)


[5.下田歴史の散歩道
]

 下田港には無料のボランティアガイドツアーがあって、幕末の開国のエピソードなどを説明しながら案内してくれるということを知り予定に組み入れた。このツアーは毎日午前10時出発の2時間コースで、24名の参加者に1名のガイドが付き丁寧に案内してくれる。日米下田条約の調印をした了仙寺や日露和親条約の調印をした長楽寺、ペリー上陸の地点などは良く知られているが、吉田松陰がペリーの船で海外密航を企て、断られて自首したため拘禁されたという。「幕府側としてはペリー艦隊でてんやわんやしている時だったのに、逃げないでわざわざ自首されたのはいい迷惑だった」という話しを聞いたのは面白かった。結局松陰は江戸から長州に送られるのだが、長州で蟄居しているときに松下村塾を開いており、密航に成功していれば明治維新もだいぶ様子が変わっていたのだろうと感慨ひとしおだった。(写真は了仙寺にある黒船陸戦隊調練の図)

 宝福寺にはハリスに仕えた唐人お吉の墓がある。お吉はハリスが下田を離れた後、小料理屋を始めたが、その後町の人たちと折り合えず入水自殺した。その時に誰も引き取り手が無かったのを、ここの住職が哀れに思い引き取って埋葬した。明治になってお吉物語の本が出版されて有名になったため、後の住職が立派な墓石を建てたが、手前にあるお吉宝物館で入場料を払わなければ墓参は出来ないようになっているとかで、お吉を引き取った時の住職がなんと思うかと苦笑してしまった。またこの寺は幕末に土佐藩主の山内容堂に対し幕臣の勝海舟が坂本竜馬の脱藩の罪の許しを請い、認められた場所でもある。その話を聞いて茨城県出身のイバイチとしては、徳川慶喜を頼った水戸天狗党の武田耕雲斎以下300名以上の人々が敦賀で打ち首になったことを想起し、水戸藩周辺には人が居なかったとつくづく思うのである。(写真は宝福寺)

 幕末開港の年譜を観ると1854(嘉永)3月に日米和親条約が調印され、下田、函館が開港されてペリー艦隊7隻が下田に入港した。月に下田条約が調印され事実上の貿易が始まっている。その年の11月に安政に改元されたが、同月安政の大地震が起こり水戸藩では藤田東湖が亡くなっている。その時下田では大津波が来襲して下田の70%以上が壊滅した。稲田(とうでん)寺にはその時の下田奉行が死者の冥福を祈って建てた「津なみ塚」がある。その大津波で下田条約を調印した了仙寺の庫裡、鐘楼も流出したという。そのためか同年12月の日露和親条約の調印は長楽寺で行われた。その年後の安政月に下田玉泉寺に日本最初の領事館が開設されハリスが総領事として着任し唐人お吉物語が生まれるが、ハリスの人柄からもお吉はメイドであって妾では無かったそうである。その後安政(1859)5月に領事館は江戸麻布に移され、同年12月には下田港は閉鎖されている。下田が幕末の激動の中で大きく脚光を浴びたのはその年間だけだった。(写真は津なみ塚)


 その他にもこの地に生れた日本最初の営業写真師「下岡蓮杖」の事や、欠乏所という日米和親条約により「航海上必要な欠乏品」を供給した場所、以前遊郭のあったペリーロードと呼ばれる小川のほとりの雰囲気の良い石畳とガス燈のある通り、下田港繁栄の跡を伝えるなまこ壁の家並み、お吉が晩年小料理屋を営んだ店、江戸時代初期に台風で江戸城納めの材木を流し、17歳の少年を含む16人の船乗りたち全員が責めを負って切腹した薩摩十六烈士の墓など、知られざる下田の歴史、風物の説明を受け、内容の濃い時間の散策だった。(写真は下岡蓮杖の碑及び欠乏所跡,なまこ壁の家並み)


[6.ふるさとガイド松崎 ]

 下田市から国道136号線を伊豆西海岸に進み松崎町に行く。松崎にはなまこ壁の建物が多く残されている。ここにもふるさとガイド松崎という無料のボランティアガイドがあるが土日と祝祭日しか活動していない。観光協会に行ったら中学生が5〜6人来て「セカチュウーのマップください」と言っていた。ポケモンかなにかかと思ったらドラマの「世界の中心で愛をさけぶ」のことで、松崎町でロケをしたそうで20ヵ所も撮影したポイントがあった。しかし自分たちが貰ったのはふるさとガイド松崎マップで古き良き明治の街並みの案内図である。まずメインの長八美術館に行く。漆喰と鏝で美術品を作り上げた入江長八の作品を集めた美術館だが、観光バスも多数立寄るので入館された方も多いと思う。( 写真は長八美術館と長八の作品)


 更になまこ壁通りから、街中を流れる那賀川に架かるときわ大橋を渡る。この橋の欄干には漆喰で桜や燕が描かれていて対岸のなまこ壁の建物と良くマッチし、松崎らしい風情を感じる。橋を渡ると時計台のある明治商家中瀬邸という屋敷がある。立派ななまこ壁の母屋、土蔵に明治の呉服問屋の様子を再現してあり、また鏝絵の道具などが陳列してある。更に那賀川に沿っていくつかのなまこ壁の建物を見て歩き、少し疲れたなと思う頃昭和初期まで呉服商をしていた伊豆文邸という建物があり、その隣に新しく出来た足湯の温泉があった。その少し熱めのお湯に足を浸して元気を取り戻し、次の目的地に向かった。(写真は明治商家中瀬邸と伊豆文邸)


[7.恋人岬 ]

 松崎から堂ヶ島を過ぎ更に北上すると恋人岬という若者に人気の場所がある。その入口近くにある露天岩風呂からの夕日に染まる海の眺めが素晴らしいというリゾートイン(ペンション)に泊った。しかし生憎の曇天で残念ながら灰色の海しか見えなかった。翌朝食事前に岬の先端まで行く。遊歩道はよく整備され2ヶ所の展望台が作られていて、愛の鐘が設置されている。誰が名付けたのか恋人岬のネーミングと3回鳴らすと愛がかなうという鐘のPRで、展望台の床が磨耗するほど若者が集まり、最近は恋人岬事務局で恋人宣言証明書を発行してくれるのだそうである。西伊豆にはここ以外にも出逢い岬、煌めきの丘、夕映えの丘、黄金崎など夕日と富士山を眺める絶景ポイントが多くあるが、どこも車から降りて眺めるだけである。しかし恋人岬は駐車場から片道20分ほど林間の小径を二人で歩かねばならず、更にその先に視界が大きく広がった展望台があり、夕日を眺めながら愛の鐘を打ち鳴らすシチュエーションが強烈な印象を与える。それが一番人気の大きな理由なのだろうか。


[8.最福寺しだれ桜 ]

 恋人岬の直ぐ先に最福寺という寺がある。ここに名のあるしだれ桜があると聞いて立寄ったのだがまだ咲き初めだった。丁度修善寺近くの大仁町から郷土の歴史を学ぶ団体のバスが来ていて、講師の人が境内一帯が白一色になるほど咲いた素晴らしい満開の桜の写真を見せてくれ、昔は相模灘対岸の清水港からも見えたという話しをしていた。今年は開花が早いと聞いたのだがそれにしても少し早く来過ぎたと言っていた。ここのしだれ桜は新品種に認定されており、学名「サイフクジ」、和名「伊豆最福寺しだれ」という名の大きな八重の白色のしだれ桜で大変珍しく、日本では4種類しか無いそうである。例年は48日頃満開になると言われている。


[9.戸田港 ]

  西福寺から更に国道136号線を北上し、土肥港に着く。国道は此処から伊豆半島の中央部に向い修善寺方面に続くのだが、それに別れを告げて海岸沿いに県道17号線を走るとやがて戸田港の少し先の丘にある出会い岬に着く。此処からの富士の展望も良いが、眼下には戸田(へだ)の街並みと戸田港を包み込むような御浜岬が箱庭のように見下ろせる。
 この港は、日本人が最初に本格的な西洋式帆船を建造したところである。下田の項で記したように1854年(安政元年)11月4日の安政の大地震で下田は壊滅的な被害を受けたのだが、その時ロシヤのプチャーチン提督がディアナ号という帆船で日露和親条約を結ぶために下田に来ていた。同年12月に和親条約は締結されるのだが、地震の時ディアナ号は下田湾に停泊していて大破してしまった。それを戸田港で修理することになり曳航する途中時化に逢い沈没してしまったのである。
 プチャーチン提督以下500名の乗組員は陸路戸田に行き、日本人大工の協力で50人乗りの帆船を建造し、帰国したのである。(残りの450人はアメリカの船を雇って帰国したそうである)


[10.煌めきの丘から三津浜へ ]

 更に西海岸に沿って進む。沿道には桜があちこちで咲き乱れ、駿河湾の紺碧の海が見え隠れして快適なドライブが楽しめる。天気も良く、煌めきの丘や大瀬崎などの絶景ポイントで停車するたび、富士の山容がだんだん大きくなってくる。しかし4月の気象では富士は霞んでおぼろにしか見えず良い写真にはならなかった。そのうち機会を見つけて冬から早春の空気が澄み切っている頃、朝焼け夕焼けの富士と伊豆西海岸の日没の撮影をメインテーマにして、伊豆から山中湖へのルートを走りたい。(写真は煌めきの丘と三津内浦浜から見た富士)
(H19-3-30〜4-1訪)