昭和10年頃の東校舎(現資料館) | 被爆後の校舎 |
戦争が激しくなり、将来を担う青少年を戦争の被害から守るため、小学校3年生以上 |
を地方へ疎開させる学童疎開法が制定される。 |
本校でも1,100名前後の児童のうち、3年生以上が学童疎開、又縁故疎開し日常 |
生活の自立がまだ十分でない1、2年生と家庭の事情などで疎開できない児童400名 |
余りが学校及び近隣の神社や寺へ通っていた。 |
8月6日の朝も多数の子供たちが登校していた。 |
昭和20年8月「戦時体制で夏休みは10日から20日まで」 |
昭和20年8月6日 午前8時15分 原子爆弾投下 |
爆風をもろに受けたL字型の校舎は、窓枠は吹っ飛び、壁がくの字に折れ曲がる。 |
運動場で遊んでいた子どもたちは一瞬にして真っ黒焦げ、爆風により壁にたたきつけ |
られた子もいたと思われる。教室の中にいた子ども達は窓ガラスの破片を受けて大怪 |
我を負う。爆発時の強烈な熱線により自然発火した炎が窓という窓からごうごうと一斉 |
に吹き上げ、机、椅子・黒板・本・その他天井板・床板など燃やし尽くし自然鎮火。 |
逃げ遅れた子ども達が教室内で黒焦げで発見される。 |
400名余りの児童と教職員10余名死亡。 生存者2名(女性教師と5年生児童) |
「米軍撮影の空中写真(昭和22年4月14日撮影)」
原 爆 被 災 |
8月6日午前8時15分原子爆弾により、鉄筋の校舎建物を残す外、人員校具全滅した。 |
・「職員の状況は次の通り」 |
死亡・校長 川崎政信・教頭 伊達忠之・訓導6名・助教2名・雇員1名・給仕1名・使丁1名。 |
・「児童の状況は推定により大要次の通り」 |
縁故疎開児童数 約500名 ・ 集団疎開児童数 約300名 ・ 残留児童数 約400名(動員 |
少年隊を含む)。 |
・「校舎の状況は次の通り」 |
校舎 外部のみ残存・壁面屈折・屋上壁垣飛散・鉄窓枠はじめ校具一切破壊全焼、一物も |
残さず・講堂 焼失。 |
8月7日 臨時病院となり火傷負傷者残存校舎内に充満す。 |
以後臨時救護所となる・また巡査派出所開設。 |
8月21日 緊急臨時校長会開く。 |
9月 集団疎開児童引取完了、本校児童は暫定的に己斐小学校に併置通学とするも |
その数全然不詳。 |
12月25日 戦災者慰霊祭を行う。 |
そ の 時 「原爆の子」より |
あつい時だったので、ぼくははだかで元気よく、あそびまわっていた。 |
お母さんは風呂場でせんたくをしていて、弟の昌男はしんだいでねていました。 |
私は東の部屋でねていました。 |
おばあさんは、組長さんの家のげんかんの三じょうのたたみの上にすわって、はいきゅうの |
ゲタのかんじょうをしておられた、私はその横にすわっていました。 |
私は起きたばかりでお顔を洗っていました。 |
私がごはんを食べていると、お母さんはもう二階のまどぎわで洗濯ものをほしておられた。 |
私はおばあさんの家について、便所から出て、「飛行機が飛行機が」と言ったか言わない |
うちに。 |
飛行機の爆音がきこえてきました、僕は日本の飛行機か、アメリカの飛行機かどちらだろう |
と思って空を見上げたとたん。 |
峠 三吉『原爆詩集』より |
生存者 居森 清子さん(当時5年生)の体験談より |
8月6日の朝、近所の同級生 青原和子さん(被爆死)と登校。鉄筋コンクリ−ト3階建 て東校舎の地下靴置き場に入った瞬間、原爆にあい、ものすごい音と共に一瞬気を失 う。気がつくとあたりは真っ暗、地獄に落ち込んだと思った。 明るくなるのを待ち、階段からの明かりをたよりに外へ出た。辺りの家々が全てぺちゃん こにつぶれ何もない。遠くの己斐の山、横川の駅が見渡せた。 火が出たから川へ逃げろ」との声で運動場に出て再び驚いた。真っ黒焦げ、またはパン パンにはれた人らしいものが何体も倒れていた。教室から逃げてきた子ども達はガラス片が身体中に突き刺さり、幽霊のような格好で血だらけで逃げ惑う。どこからか「たすけ てぇー、きよこちゃーん、たすけてぇー」と声がした。でもどこから呼んでいるのかわからな い。「ここよー、ここよー」と呼ぶ人を捜し当てたが誰なのか名前もわからないような姿。そ れが、仲良しの高木さんだった。「川まで一緒に行こう」と共に逃げた。当日は8時過ぎが 満潮だったこともあり、川に飛び込んでも川底に足が届かず、やがてほとんどの子が力 尽きて流されていった。私達は大勢の人が乗ったいかだにつかまることができたが、高 木さんは途中で息をひきとり流されていった。涙も出ない、どうしようもない状況だった。 「友達のぶんまで頑張ろう」と自分に言い聞かせやっとの思いで岸に上がった。 (午後3時頃) ( 中略 ) 毛髪が抜けたり、血を吐くなど原爆症に苦しんだ、半年間の闘病生活の後、命をとりと めた。この間「明日は自分が死ぬのではないか、今度は自分の番か」と毎日床につくの が怖かった。朝、お日さまをみられる事に感謝しつつ乗り越えてきた。 しかし両親とは八月六日以来会えず、永遠の別れとなった。 |
まっ黒なお弁当 平和公園の資料館に展示されている黒焦げになったお弁当箱。 これは建物疎開に来ていた当時中学1年生の折面(おりめん)しげるくんのお弁当箱です。 当事は食料確保もままならず、家の裏山を開墾して畑を作っていました。 その日の弁当は、その畑で初めて収穫した作物で作ったお弁当で「今日はご馳走だ!」と 大喜びで持って行ったそうです。 原爆が投下され、帰ってこないしげるくんをお母さんは必死に探しました。 作業をしていたあたりに行って見ると、そこには白骨がズラリと並んでいました。 (爆心地付近にいた人は一瞬のうちに高熱により蒸発したといいます。 ここは骨のみとなっていたようです。) お母さんは白骨をひとつひとつ見てまわり、ついにしげるくんを見つけ出しました。 しげるくんは、あの日持って行ったお弁当箱を抱きかかえるようにして亡くなっていたのです。 お母さんは「あつかったねえ、あつかったねえ・・」と言いながら頭蓋骨の口にお水を注いで あげました。 「粗末な弁当を、ああ、うれしいと喜んで持って出て、よう食べずに死んでしまいました・・・」 お母さんは庭に骨の灰をまき、そこに「白いあじさい」を植えました。今では大きく成長し、 毎年たくさんの花を咲かせています。 「白いあじさい」・・・それは(白米をおなかいっぱい食べさせてやりたいけえの・・・) 母シゲコさんの深い想いが込められているのです。
|
|
原 民喜 「原爆小景」へ |
「被爆者の声」へ |