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本川被爆体験集


本文の無断転載を禁じます。

「原 爆 の 記」   山崎 恭弘

● 生家〜堺町とその周辺

私は、広島市堺町1丁目20番地で生まれた。

家業は祖父、山崎 音助の代から蝋燭、石油製品を扱う商家で、堺町電停角の風月堂の筋を西に入って

数軒目、南側にあった。

近くの光道幼稚園から本川小学校に進んだが、1年生の秋、隣町の塚本町に引越ししたため、生家やその

周辺の記憶はあまりない。

● 塚本町の我が家

我が家は、塚本町61番地(現、中区土橋町61)、本川の西岸で、本川橋と新大橋(現、西平和大橋)のほ

ぼ中間、本川浜恵美須神社の前の小路を西に入った所にあった。

今の中国新聞社屋の少し北になる。3棟続きのこの家には、伯母(父の姉)高橋 マツ・正作夫婦と、

私の父山崎 太佳司、母 巴留子、姉、弟、従兄の利夫らの大家族で住んだ。

家の前には大きな佐方倉庫、その西には宮本下駄店、村越医院と続き、自宅西隣には風呂屋があった。

浜恵美須神社側の川沿いには、回漕店、倉庫が並び、本川橋西詰の西南角には赤煉瓦の芸備銀行、

その川側には有名な本川饅頭の店もあった。

本川橋から堺町へ抜ける筋には、楠原乾物店、水田メガネ、平井薬局などがあり、この角を電車路に沿っ

て南に折れると、汽車食堂、製氷工場があった。

● 小学校の先生方

本川小学校は、自宅の北500m足らず、産業奨励館(後の原爆ドーム)から、元安川、本川を越えて西に

300mほどの川端にあり、校庭の北と西にL字型に配置された鉄筋コンクリート3階建の校舎があった。

担任は、遠藤キヨコ(1〜2年)、方岡勝(3、5年)、伊達忠之(4年)、宮地和藤次(6年)の各先生である。

この他に、入学時の惣野校長、卒業時の川崎校長、山本・山田・大上・女性の岡本・沖本・小国先生などの

名を覚えている。

● 束の間の静穏〜地獄へのカウントダウン

昭和20年春、私は本川国民学校(当時の呼称)を卒業、千田町にある広島高師附中に入学したが、

既に戦局は非常事態を迎え、教練や軍需工場・建物疎開への動員、時折の空襲警報などのため、

授業時間はどんどん減少した。

それでも広島の街は、大空襲もなく、比較的穏やかな日を過ごしていた。しかしそれは、次に来る地獄

へのカウントダウンでしかなかったのである。

昭和20年7月20日、私たち附中の1年生は、農作業支援のため、広島を離れ、加茂郡原村に向かった。

もともと身体が小さく、弱かった私は、消化不良でたちまち腹をこわし、7月末には広島に戻るはめに

なってしまった。

● 原爆投下2日前〜恵美須神社の別れ

私の母と3人の幼い弟たちは、夏前から、空襲の危険を避けて、近所の河野家の世話で、能美島の

西端にある美能に疎開していたのだが、丁度その時、久し振りに広島の我が家に帰って来た。

8月4日、その帰り船で、弟たちと入れ替わる形で、父、母、2歳の末弟充豊、私の4人が島に向かった

のである。私たちの乗った発動機船が、新大橋を潜って見えなくなるまで、恵美須神社横の雁木の上

から、家に残る姉や弟たちが、一生懸命に手を振って見送ってくれた情景を、今でも鮮明に覚えている。

これが私たちの最後の別れとなったのだが、子の死について、ついぞ語らなかった母が、時折、思い

詰めたような表情で「あの時、皆、手を振って送ってくれたんじゃがなあ」と言うことがあった。

母の胸中には、「なぜ、皆を島に連れて来なかったのか」という思いが、終生の悔恨として残って

いたに違いない。

● 8月6日〜燃える火の玉

朝8時過ぎ、私は、疎開先の茶の間で、父、母、弟の4人で食卓を囲んでいた。

突然、北の大窓の外が、パーッと明るくなった。皆、驚いて庭に走り出て空を見上げた。

空が、メラメラと燃えていた。

中天で、僅かに赤味を帯びた白い大きな火の玉が、ギラギラとしかし音もなく輝いていた。

どれほどの時が経ってか、サーッと異様な北風が吹いて来た。これは爆風であるが、音については記憶に

ない。その間にも、火球は、見る見る周縁部から光を失って銀灰色の雲へと変化し、ぐんぐん膨れ上がり、

やがて巨大なキノコ雲となっていった。

漠然とした不安はあったが、まさかその下で人々が焼かれつつあるとは夢にも思わず、

「あれは軍の秘密兵器じゃ、あの雲でB29を落とすんじゃ」などと言いながら、あり合せの紙に、

私はその雲をスケッチしていた。

しかし、その後、ラジオから繰り返し流れる広島放送局からの悲痛な調子のアナウンスを聴くうちに、

私たちの不安感は急速に高まり、やがて「広島がおおごとじゃ」という確信に変わって行ったのである。

私たちは、その夜、村の人々とともに美能の松原に立ち尽くし、20qの海を隔てて燃えさかる広島市街の

劫火を、いつまでも見ていた。

● 8月7日〜まだ熱い街を我が家へ

一夜をまんじりともせず過ごした私たちは、翌7日早朝、なけなしの米でつくった沢山のお結びと医薬品と

を持って島の人のポンポン船で広島に向かった。

船は、まっすぐ本川に入ったが、干満の加減か、塚本町までは遡らず、2qほど下流の東岸、吉島刑務所

の高い塀の辺りに接岸した。

途中、両岸の家々は崩れあるいは焼け落ち、雁木には、赤く火脹れした死体が折り重なっているのが見え

た。下船した私たちは、まだ炎さえ上げている熱い瓦礫の中を上流に向かい、新大橋を渡って我が家へと

急いだ。途中、壊れた蛇口からこぼれる水の音の他は、生きて動く物の気配とてなく、無残なまでに

見通しの利く死の街を、黒焦げの死体をよけながらただ夢中で歩いた。

● 焼け跡で見たもの

我が家の焼け跡はすぐ分かった。建物は完全に焼け落ち、炭化・灰化した可燃物、崩れた壁土、焼けてひ

ん曲がったトタン板や金物の残骸の中に、赤い煉瓦、風呂場の白いタイルだけが、辛うじて原形を留めて

いた。焼け跡に入ってすぐ、客間とおぼしき辺りで、寄り添うように、庇い合うように、並んで横たわった2つ

の遺体を見つけた。

半ば炭化している。体の大きさから、姉、迪子(市女2年)と弟、公資(6才)のものだろうと判断した。

その遺体は、燃え残りをかき集めてさらに焼き、骨にした。

しかし、残りの3人は、すぐには見つからなかった。

その日、どのようにして島に帰ったのかは記憶にないが、安否を気遣って浜に出迎えてくれた村人に、

骨を納めた粗末な容器を見せながら、母が、「皆、こんなに小さくなりました」と、乾いた声で言った時の

悲しげな顔が忘れられない。

● 焼け跡の遺体捜索

翌日から海路1時間、定期船での焼け跡通いが始まった。

宇品の桟橋から、御幸橋、鷹野橋を経て塚本町まで、1時間以上かけて歩き、鍬やスコップで、ここぞ

という場所を片っ端から掘った。

何日目かに、北隣の家との境界近くの池の中で、崩れた壁土に埋まった、上半身のみの伯父らしき遺体

を見つけたが、周囲の状況から、伯父ではなく隣人のものと推論した。

結局、伯母夫婦の遺体は、発見できなかった。隣組の世話役でもあった関係で、連絡か何かの用で戸外

に出ていたのであろうと思っている。

4才の弟、功四郎は、なかなか分からなかったが、何日目であったか、最後の望みをかけて掘った納戸の

一角で、崩れた隣家の土蔵の厚い壁土の底から、バラバラになった白い骨片として発見された。

壊れた頭蓋骨の内側には、赤い壁土が半ばガラス化して食い込んでいた。

そこは、弟たちの遊び道具のしまい場所だったのである。

● 親戚の安否

広島市内には父の兄、山崎芳助(土橋町)、父の姉、藤野キヨ(空鞘町)、父の兄の子、山崎利夫(材木町)

の三家族が住んでいた。いずれも爆心地にごく近い。

自宅の捜索の傍ら、それらの家の焼け跡へも回った。

土橋では、芳助・冨美枝夫婦と5人の子、能弘、敦子、友子、勝弘、隆弘が住んでいたが、学童疎開中の

友子を除き、全員が倒壊した家屋の下敷きとなり、奇跡的に脱出できた5才の勝弘の他は、死亡した。

その勝弘も99年6月、肺ガンで亡くなった。

材木町では、従兄、利夫・ヨシミ夫婦が被爆死、空鞘町では、伯母キヨが大火傷を負いながら脱出

したものの、日ならずして死亡した。

私と同級で仲の良かったキヨの一人息子、昌(広島二中1年)は、勤労奉仕で、爆心地近くの

建物疎開作業に出たまま、遂に還らなかった。

彼の母キヨを、可部近くの避難先に見舞った際、火傷の顔にぐるぐる巻いた包帯の中から大きな目だけを

光らせて、「マアチャン(昌の愛称)がね、まだ戻らんのよ」と、切なそうに言った声が耳に残っている。

● 防空壕の中の軍剣

戦争末期、風月堂前をはじめ、市電左官町-堺町-土橋線の廃線跡に、大きな半地下式の防空壕が造られた。

我が家でも、土間を1坪ほど掘り下げてセメントで固め、深さ1間足らずのミニ壕が造られた。

直撃には無理でも類焼には耐えられるだろうという計算だったが、原爆で完全に土間

(壕の天井)が抜け、入れてあった物資は丸焼け、その上に焼けたピアノの残骸、子供用自転車、

瓦などが、うず高く積み重なっていた。

遺体を求めてその中を掘ったところ、軍剣が出てきた。

つまり、被爆の瞬間、軍人の来客があったことになる。

当初、私たちはそれを広島の部隊にいた筈の母の弟、磯井陽三だと思った。

近くに彼の遺体がないことは、彼が倒壊した建物から脱出できたことを意味する。

後で分かったのだが、それは陽三ではなくもう一人の母の弟、磯井久二の剣であった。

久二は原爆の直前、山口から広島へ移動し、5日の夜か6日の朝、母に会うために

我が家を訪ねたのであろう。まことに不運という他はない。

しかし、その後間もなく、被爆直後の通信事情の混乱の中で、美能にいた私たちや

岡山市の実家に連絡がつかぬまま、何も語れず久二は原爆症で死んだ。

もし私たちが彼に会えて、その瞬間のこと、どのようにして家が潰れ、家族が焼かれたのか

を聞くことができていたら、私たちは、彼らの死を確かなものとして受け止め、彼らの人生に

最後の句読点をつけることができたのにと、悔やまれてならない。

また、この時広島にいた陽三も、城の近くで被爆、火傷を負い、10年ほど後に原爆症で

苦しみながら死んだ。

● 近所と小学校の様子

焼け跡のそこここには、焼け残りの板切れに消炭で「**家、○○生存、××死亡」

などと書いた立札があった。

しかし、我が家の近所では、その種の案内は殆ど見受けられず、また私たちが焼け跡整理を

している際も、周りの家で焼け跡を掘り返している様子は全く見られなかった。

恐らく、一家全滅という形だったのであろう。

本川小学校の被爆の実態は百周年記念誌に詳しいが、爆心地に近い我が校は、

爆風をまともに受けた西壁が大きく凹み、内装は完全に焼け、炎に洗われたコンクリート

のごつごつした地肌と窓の鉄枠のみが残っていた。

被爆後すぐ、焼けた北棟内の一室で、私たち卒業生の集まりがあった。

日時、内容、人数については正確な記憶がないが、1級上の女生徒、佐伯さん?が

司会されたと思う。

これを含め、被爆直後、二、三度校舎内に立ち入ったが、黒くあるいは薄赤く焼け爛れた

内部の様相は、この世のものとは思われぬほど物凄く、とりわけ死体が転がっていそうな

屋上や西北角にあった地下靴置場には、怖くて足を踏み入れることができなかった。

この学校では、私の恩師の先生方(当時の呼称は訓導)は、多くの児童とともに殆ど

殉職されたと聞いている。謹んでご冥福を祈りたい。

● 同級生の消息

私の友達にも、戦後二、三年して宮島線西広島駅で出くわした空鞘町の小橋君、塚本町の

近所に住み、美能が実家の河野福雄君、昭和25年夏に塚本町で出会った福下さんを除いて、

誰にも再会していない。

百名近い級友がどうなったのか、今どうしているのか、戦後61年経った今頃になって、

私はそれを知りたいと思うようになり、’06年9月から「同級生探し」を始めた。

現在、上級学校の名簿や口コミ、電話帖などの伝手を手繰って、4名の所在、6名の

被爆死を確認している。

私としては、余命のあるうちにできるだけ多くの友人の消息を確かめたいと念じている。

昭和20年3月の卒業生について情報をお持ちの方は、ぜひ私か同窓会宛にお知らせを頂きたい。

彼ら、彼女らの記録を残す事は、私達の記憶の中に皆を永遠に生かす事だと、私は信じている。

なお、私の姉、山崎迪子(ミチコ)は、昭和19年3月、本川小学校を卒業し、祇園高女を経て

市女に進み、被爆死した。

彼女の事、彼女の友人の事をご存知の方は、併せてお教え頂きたい。

● 「過ちは繰り返しません」〜次代への伝言

私とともに7日に入市被爆した父も母も’99年7月、’00年1月に相次いで他界、弟充豊も

’05年10月、ガンで死んだ。

多くの広島の人がそうであるように、父も母も原爆の惨禍、とりわけ死んだ子らのことを

語ることは、殆どなかった。

また、平和公園近辺の慰霊碑に参る事はあっても、資料館に足を向けることは決してなかった。

しかし、最近では、私が原爆のことを語っておかなければ、焦土に埋もれ七つの川の水底に

沈んだ人々の無念の叫びは、原爆ドームと同じように風化してしまうと思うようになり、

子や孫を連れて帰広する度に資料館に足を運ぶ。

終末時計が、あと数分で24時を指そうという今日、一人でも多くの人、特に次代を担う若い人が、

被爆体験記を通じて被爆の実相を知り、核兵器廃絶、さらに不戦への険しい道程への

エネルギーにして欲しいと、切に願っている。

----------- 2006.11.5 -----------

筆者 山崎恭弘(ヤマサキ ヤスヒロ)生年月日 昭和8年1月13日(1933年)

被爆時住所 広島市塚本町61番地(現、中区土橋町61)

本川小学校卒業 昭和20年3月 被爆時身分 広島高師附中1年

同窓会のページ「項目」過去の思いでに卒業写真掲載


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家族写真の悲しみが、絵本になりました。

原爆で両親と妹の五人を失った綿岡さんの家族写真に込める思いが、絵本として出版されました。

「いわたくんちのおばあちゃん」と題した絵本は、原爆ドーム近くの本川小学校に通う孫の家族と

写真に写りたがらない祖母の理由を、下級生が明かすストーリーで描いている。

綿岡さんは、十日市町の自宅で両親ら家族六人そろって写真を撮った数日後に学徒動員先の

工場で被爆し、独りとなった。長女の岩田美穂さんと孫(項目 子供平和宣言)らと写真に収まるの

を好まない。家族を失うのではないかという不安がよぎるためだ。

昭和20年8月 広島市内の自宅にて撮影  「写真右端 綿岡 智津子」(16才)

「私たちのくるしみ」  綿岡 智津子

 私は、昭和20年、十日市町に住んでいました。

8月6日までは、勉強せずに仕事をしていましたが、平和で楽しかったです。

8月6日、私は八時に家を出、日の丸弁当(梅干だけが入っていておかずは入っていない)を持って

作業所に歩いていきました。あの頃は、よっぽど遠くないと、電車やバスに乗ってはいけませんでした。

作業場についたら、お友達とお喋りをしていました。その日はちょうど月曜日でした。

バラック(木)で作った作業場で肉をかんに詰めて、兵隊さんに送る仕事をしていました。

ソーセージもつくりました。おいしそうでした。全部兵隊さんのため、お国のため、と思って働いていました。

作業をしようと思ったら、光ったのです。マグネシウムのように光ったのです。

何がなんだかわかりませんでした。「誰か・・・。」ともかく明るい所を目指して外に出よう、と友達に言われ

、出てみると、そこはくずれた屋根の上でした。そして、私は「何かあったらここに集まろう。」

と家族や親せきの人と決めていた、高須町の別荘に行きました。そこで、誰か来ると待っていたけど

誰も来ませんでした。夕方になってやっとおじさんが一人やってきました。

二人で湯来町の親せきの家に行きました。私は何日かして、家族を探しに行きました。

死骸しかありませんでした。妹とお母さんは抱き合ったまま死んでいました。

建物疎開作業に行った妹は、遺体も、持っていた物も何も見つかっていません。

あの原子爆弾で、私は家も家族も無くしました。私の家族は、両親と妹三人と私の六人家族でした。

その後は、しばらく湯来町の親戚の所で暮らしていました。

その後、井口に部屋を借りて、お料理と洋裁を習う学校にいきました。だけど、お料理学校なのに

材料が無かったので、外でお料理の材料になる草、鉄道草などをとりにいきました。

いものつるで、いも雑炊も作りました。茶きんしぼりというのも作りました。あれがごちそうです。

チョコレートやバナナは食べたことがありません。いもは干しいもにして、保存できる様にしていました。

大事なものなので、もったいなくて料理できませんでした。

食べる所もないし、お店もそうそうありませんでした。

外国の人と日本人は、最初は仲が良かったのですが、戦争をしてから、仲が悪くなってしまいました。

だから、戦争中は外来語を使ってはいけませんでした。ネックレスは首飾り、ハイヒールは高靴、

と言っていました。服装は、「モンペ」といって、綿より安い服でした。

履物はゲタで、防空頭巾を身につけていました。

8月15日に終戦宣言。戦争は頑張ったけど、負けてしまったと、ラジオで放送しました。

とても悔しかったです。湯来のおじさんは、あまりのショックで、上半身裸になって、頭から水を何度も

何度もかぶっていました。私は一人ぼっちになって寂しかったです。もう思い出したくもありません。

戦争は嫌いです。何の為にするのでしょうか。全然分かりません。貴方達は両親がおられて幸せです。

あなたたちが生きている間に、戦争が起こらないように祈っています。

戦争をしても、いいことなど何一つありません。これからの世はどうなるか分かりません。

今は人を平気で殺す人がいて、とても怖いです。昔は人を殺す事など、戦争以外ではありませんでした。

今はおかしいです。何が起きるかわかりません。命を大切にしてほしいです。

みんな元気で親孝行して大きくなって下さいね。


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「原爆と戦争と・・・」  山 口

 私は、昭和20年、原爆投下時は、現在の広島大学付属中学校の2年生で、豊田郡戸野村

(現在は加茂郡河内町宇山)に、用水路を作る作業に動員されていました。

私は健康をそこない7月20日に榎町の自宅に帰って来ました。丁度その時、自宅一帯が防火地帯に

いわゆる建物疎開と言われるものです。下旬には舟入本町に転居しました。

話がとびますが、爆撃に関しての僅かな体験をお話します。昭和19年、呉方面に対する空襲があり、

艦載機グラマンによる機銃掃射を広島市内でも受けました。また20年4月、B-29から数発の小型

爆弾が落とされ、千田町・国泰寺町で若干の被害がでました。

重い大きな機銃の音。上空からの爆弾の不気味な落下音。どちらも初めての体験は恐怖でした。

他都市では、焼夷弾爆撃もかなり行われ、燃えやすい住宅地域を絨毯爆撃と呼ばれた雨のように

大量の爆弾を落とす方法で、焼失させ消滅させて来ました。

これによって都市部の防火地帯が作られることになったのです。

私達も20年4月には、市役所付近の建物疎開作業に一週間か、十日間か動員されその作業を行

いました。木造家屋の、引き倒す時の物凄い音は、原爆時の体験と重なり忘れる事は出来ません。

8月6日にも、この作業は市内と市内周辺の中学生1〜2年生、動員された一般の人達によって

行われておりました。

実に悲しいことですが、その殆んどが、、火傷、放射能障害によって死んでいきました。

8月6日は良く晴れていました。私は早く起きて朝食をとり、父が勤めている、観音本町にあった

青果物集荷場(貧しいながら市民への配給・軍隊への納入のためのもの)へ行って、父と何かの

打合せを済ませ、バス道路沿いに舟入本町の自宅へ引き返しました。

観音本町の天満川に架かる観音橋に近い路上でした。かすかなB-29の爆音が聞こえたと思った

そのすぐ後に、青白い強烈な閃光と、アセチレンガスのような匂い、「ヴイー」という鈍い電気が

ショートするような音を感じ、至近弾だと、目と耳を両手で押さえ、防火用水槽のそばに伏せました。

大音響とともに二階建ての家が私の上に倒れてきました。びっくりする余裕もありませんでしたが、

逆上していたと思います。初めての経験です。体中の血液が頭に集まった感じで、自分が自分

で無いように思えました。我に返って、気が付いたら座っており、目の前には大きな梁がありました。

しばらくじっとしていたら、真っ暗の中に、ぼーっとした光が見えました。本能的に這い出しました。

外は2〜3メートル先が見えないような真っ暗な状態でした。

舟入本町の自宅へ帰り母を呼びましたが、もう母はいませんでした。

五日市の親戚の家まで歩く途中に見たものは、悲惨そのものでした。陽光の世界から暗黒の世界

へと一瞬で変わる現実、無残、非情と表現の方法もないような目の前の現実も、逆上した頭では

恐怖も感じなかったようです。真っ黒な雨が降りました。

己斐手前あたりであったと記憶しています。

夕方近く片手を火傷した父が五日市に来てお互いに無事を喜びました。

七日・八日と母を捜しました。九日、江波の小学校に避難していた母が分かりました。

母は足を怪我し、足が動きませんでした。そこに避難する道は火事場の馬鹿力でどうにかたどり

着いたのです。十日にリヤカーを借り叔母と母を迎えに行き、五日市に連れて帰りました。

知人ちか、親戚の人達の話を聞くと、一旦無事で帰ったものの、知人を探しに行ったまま帰って

こなかった人、梁の下敷きになって這い出す事が出来ず、助けようとした家族の人達も、迫って

くる火と煙で、万策つき手を合わせて置き去りにした人、まったく非情・無残そのものです。

私の願いは、戦争とは勝つか負けるしかない、殺人と破壊しか無いものであり、ルールも何も

無いもので絶対に避けなければなりません。

戦争のない社会を作り上げてほしいのです。そして、自分では大切ではないと思っている勉強も

、幅広く学んでほしいのです。そてが、幅広い常識となり、より正しい物の見方が出来、判断力

が養える事になると思うのです。


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「被爆体験」8月6日8時15分  大 浜

 私は、原爆が落ちる前、草津に住んでいました。小網町・土橋町は、広島城の西の方にありました。

小網町・土橋町は、毎日にぎやかでした。昼には、商店街・映画館・食堂などがあり、いつもお祭り

のような町でした。夜には、大人が遊ぶような所でした。時に、さる回しなども行われました。

電車は、江波線がまだありませんでしたが人通りの、さかんな町でした。

バスや電車や車も今みたいに数も量も多くなく、大きさも小さなものでした。

本川橋のたもとから船が出ていたので交通は、不便ではありませんでした。

大量の米や炭をほかけ船で可部村に、運んでいました。そのころは、米や魚と物々交換してました。

私のおじいさんの家は、草津にありました。仕事場は小網町にあります。

8月6日、朝は私がだだをこねて私のお母さんが仕事に行く時間が遅れたので、亡くならなかったと

母は言っていました。遅れたとは言っても、観音町の電車の中で母とともに被爆しました。

電車の真中に乗っていたために、無傷でした。まだ、朝8時で明るかったのをおぼえています。

原爆が落ちる瞬間には、自分がすりガラスの中に入ったような気がして、一瞬あたりが真っ暗になり

地響きがしました。何が起きたのか分からないまま、泥のような雨が降り始めました。

でも、そのときの私の記憶はなく、火事や雨の事は母から聞いた話しでした。

周りをみわたすと建物は跡形も無くなくなっていました。周りには、がれきのようなものがくすぶり

ポツリポツリ建っていました。それから、私は母に連れられて草津の家に帰りました。

しかし、どうやって帰ったかは分かりません。

橋は無くて、建物は全滅しており、見渡すと山ばかりでした。

それから何日か経って、家族や親戚を探しに行きました。身内のものが舟入にいたと聞いたので

、それをたずねて行きました。するとそこでは、黒焦げになった人達が、川を流れていました。

人間かどうか判断できないぐらいでしたが、足を見ると確かに人間でした。

おじいさんの話によると、草津小学校の目の前だったので、運動場に毎日煙が立っていました。

死体を学校で何十体も何十体も焼いていました。

死体を焼くときに、死体が動くから、生きているのかとはっとした事もありました。

覚えている限り、毎日、昼にしか焼いていなかったと思います。

一年後には、バラックの家が建ち始めました。当初、七十五年ぐらいは、草木も生えてこないと

言われました。ところが一年半ぐらいしたらヨモギや鉄道草が生えてきました。

三年位いしたら、大きな家が建ち始めました。前の倍位いの大きさで道路が出来始めました。

十年後には、びっくりするぐらいにぎやかな町になってました。

みんな国の復興に一生懸命になっていきました。あのころは食べる物も着る物もなかった時代です。

今度は、あなた達が日本を支えていかないといけません。

そして二度と戦争はしてはいけないと思います。

このことは、この地域に住んでいる者の、いや、世界中の人たちの願いなのです。

戦争は人を犠牲にするものだと思います。戦争という事は、本当に考えないといけない事です。

死んでいったらおしまいです。これからどう生きるかはあなたたち一人一人が考えていく問題です。

一発の原子爆弾で地域が壊滅したときには、涙が止まりませんでした。


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「原爆の恐ろしさ」  増 井

 私は1927年(昭和2年)に台湾の鹿港という所で生まれました。

それから、戦争のため兵隊になって日本まで船で行く事になりました。

18才の時の事でした。そして、1945年3月1日に広島の呉に着きました。

原爆の十日前、7月28日に私は、船に乗っていました。すると、アメリカの飛行機が

たくさん飛んできて、私の船に爆弾を落としてきました。そして私の船は呉市の北、

仁方港沖で沈没してしまいました。そしてとうとう私の船も半分にわれてしまいました。

しかし、船の前の部分が軽かったため船は浮かび、船員は全員助かりました。

そして、無事広島の宇品の寮に行きました。

それから、私は寮に入り、毎日弁当だけ持って戦争に行くことになりました。

そして、8月6日、いつもと同じように大八車をひいて、平野町、日冷株式会社へ氷を

運ぶ為、神田通りを通っていると、突然町の中心部の方から「ピカッ」という、まばゆい

光の後、「ドッガーン」と言う音がしました。はじめは、雷かと思いましたが、町の方から

モクモクと大きな雲が上がっているのを見て、これは、ただ事ではないと思い、急いで

大八車を置いて、タカノバシの方へ行ってみました。

御幸橋をわたると家などが全てつぶれ、音が全く無く、こわくなりました。

よーく耳をすますと、遠い所から、「助けてくれー、水くれー。」という声聞こえました。

途中で怖くなり、私は引き返してしまいました。町の中心部からすぐ引き返したおかげで、

私はあまり放射能を浴びずにすみました。

しかし、その夜、風呂に入っていると髪がバサバサ抜けてしまいました。次の日も髪が抜け、

その上、下痢も始まりました。三日目の朝も同じ症状がでたので、私はやっとこれが原爆の

放射能だと気づきました。そして約一ヶ月位続きました。私は直接原爆を受けてもないのに

放射能だけでここまでの苦しみを受けました。直接原爆を受けた人はどれだけ苦しんだの

だろうと思いました。

今でもあの時の事を思い出すと、ぞっとします。私はそれから、郵便局へ向かいました。

郵便局の前で座っていると、皮膚が垂れ下がり、顔にケロイドがある、とても人間とは思えない

人達が、「水をくれー」と言いながら歩いてきました。

その人達はどうやらケロイドの被害の中でも、一級や二級位の上級被害者でした。

ちなみに私は八級被害者です。その人達に「助けてくれぇー」と言われても、何も出来ない

自分がみじめでした。それから何日かたったある日、戦争が終りを告げました。

戦争が終わった後、私は台湾で生まれたから日本にいてはいけないと言われました。

それから、日本の寮に帰ることも出来ず、台湾に帰るための船もなく、どうしようもないまま、

ケガの治療をしてもらうため似島へ向かうことにしました。似島には、原爆で受けた傷を治療

する病院があり、ケガをした人のひなん所でもありました。

似島に着いて病院へ向かうと、ケガをした人がたくさん地面にねころがっていました。

病院の奥の方では死んでしまった人達を焼いていました。

そのときの何とも言えない悪臭がいまでも鼻に残っています。そして私の治療がすんだあと、

私は呉市吉浦港に行きました。

今でも周りが静かになると、原爆の時の物音一つしない気味が悪いときのことを思い出してしまいます。

もう二度と戦争が起こらないように、戦争で苦しむ人がいなくなり、世界中の人が平和になることを、

私は願い続けています。


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「千の太陽よりも明るく」   山 根 政 則

私は広島市の中心部にある本川小学校を昭和19年3月に卒業をした。

それで原爆投下のあの日は私は広島県立第二中学校の二年生になっていたが,通常の登校日が

急遽勤労作業に振替えられ、現在の広島駅北、当時の東練兵場へ集合を命ぜられた。

さつま芋畠の草取りの仕事である。

畠作業は大嫌いな皆んなであるから,八時になってもすぐには作業にとりかからない。

一点の雲もない快晴の空に,かすかに爆音が広がり東方より米軍の爆撃機B29が一機真っ直ぐにこちらを

めざして飛んでくる。何にでも興味を示したがる中学二年生はたちまち立上がり,

そのB29の方を指しながら口々に何か叫んでいる。

私は太陽がまぶしいので左手を顔にかざしながら目を凝らして機影を追いかけた。

B29は単機で高度も相当高いところから機体をキラキラと光らせながらこちらめざして飛んでくる。

我々のいる地点よりだいぶ東寄りの位置まで来たとき,ポロリと黒いものを機体から離した。

「落した。落した。」 皆が口々に叫ぶ。その物はあたかも鳥の糞の落下そっくりで,

頭上を西方へすーと放物線を描きながら落ちてゆきたちまち見失ってしまった。

これがあの原子爆弾そのものと知ったのは暫く後のことである。

B29の方は爆弾を放り出すや否や信じられないくらいの急旋回で北方へと九十度方向転換し

遁走を始めた。「曲った。曲った。」の声で皆んなは一斉に爆弾の落下方向を追うことを止め,

スピードアップしながら逃げる機影を追って首を西から北の方に向けた。

これが,結果的には良かった。おかげで,閃光のために目が潰れないですんだのである。

飛行機が進路を北に向けてほんの数十秒経ったときか,頭の後ろのあたりがマグネシウムを

焚かれたように轟然と光った。「アチチチチチ」熱線に焼かれた顔と左手に鋭い痛みを感じる。

その瞬間は,側に立っていた友人の頬が太陽の直射下にもかかわらず、 桃色の皮膚が

紙のように真っ白に見えたのを覚えている。これが原爆の信じられぬ閃光の特徴なのだ。

「千の太陽よりも明るく」という言葉は正しい。

その直後,市内から地を這うように伝わり襲ってきた爆風で芋畠に打ちつけられて失神してしまった。

数秒なのか?数分なのか?気が付くと畠の畝の間にひれ伏して両手はしっかり両目を覆っていた。

広島では原爆のことを「ピカドン」と名付けた。

最初に光、続いて大きな音が「ドン」と聞こえたからである。

然し距離が近すぎて、自分には光は記憶しているがドンの音の記憶はない。

頭上を見上げて驚いた。すぐ上を巨大な入道雲が覆っている。

雲は静止しないでむくむく動き膨らみ、その部分々々の色が全部異なる。

中心部の雲は原子核反応の余熱が残っているのだろうか赤い火球状。

その外の雲部分は暗紫色、更なる外は暗青色、更に外は灰色。

中心の火球部はまだ明るいので、取り巻く雲を通して赤さが透けて見えている。

それぞれの雲はむくむくとダイナミックに動きつつ色も変化し続けている。

絶望的な気分のなか隣家の友人を捜しだし,二葉山南の尾長から牛田東に通ずる峠越へに、

牛田早稲田神社隣接の自宅へ帰ることができた。

途中,峠の高度が徐々に高まって行くにつれ広島市中の惨憺たる情景が望見された。

もう幾条かの黒い煙が上がり始めていた。頭上の原子雲はずいぶん巨大化して,

すっかり市全体を覆い尽している。その天辺の縁の部分は白く輝いているのだ。

早稲田に着くと近所の藁屋根の農家が炎上中で紅蓮の炎を上げていた。

消す人は見当たらない。自宅に帰ると奇跡的にも両親,六人の兄弟は誰も市中に出なかったので

無事であることを知り安心した。母親は私の顔をみるなり、「まあちゃんおおごとよ!

牛田に爆弾が落ちたんよ!」と目を張って言う。私は「何を言っとるん。

爆弾は広島の真ん中に落ちて、今峠から見たが広島じゅうが火事だらけよ。」と答えた。

とにかく市民には原爆のスケールが巨大すぎたのだ。自宅はといえば、

爆風で母屋の屋根は全体が北側にずり上がっており、縁側をL字形に囲む総ガラスの雨戸

はガラスが総て砕け、柱に突き刺さっている。

庭の百年を経た黒松は南西側の葉が赤茶色に焦げて縮れていた。

私は母親から火傷の手当、といっても薬がないのでごま油を塗られ、包帯を顔から

背、腕にかけてぐるぐる巻きにされただけだった。

しばらく休んで外に出てみた。被爆後幾らか経過した時だが、市中から火傷し

着衣がボロになって垂れ下がったままの市民が続々避難をしてきた。

ここは行き止まりの場所なので、多くの人が早稲田神社境内の樹木の下に休むというより

倒れ込んで動かなくなっていた。しきりに「水、水」の声がする。

元気な大人が小声で「水をあげてはいけんよ。すぐ死ぬから」と囁く。

なかでも、やかんの音が聞こえた途端身動きしないでいた人が腕だけをにゅっと延ばし

「みずー」の声を聞いた瞬間だけは忘れられない。

翌日以降は当地にて行き倒れて息を引き取った人々を牛田公園にて荼毘に付すため、

付近の大人が集められて作業に当たった。

父も連日奉仕に出たが、帰宅後は「言えないよ」と言ったまま全く無言。

父は亡くなるまでに一回もその説明をすることはなかった。

当時風向きによっては煙と臭いが自宅まで漂ってきて、数ヶ月間はうちでは魚は食べなかった。

私は被爆日8月6日の前日の5日には昔の材木町、今の広島国際会議場のある場所で

建物疎開作業をしていた。8月6日は一学年下の1年生が作業を受け持ったのだが、

不運にも300人全員が亡くなった。この一日の差は今も心の負い目になって今日に至っている。

それから幾星霜。東京にずっと暮していた自分は,たまたま帰広して平和公園を訪れたとき,

全く偶然に広島二中の原爆慰霊碑を見つけた。

碑の裏に廻って,懐かしい先生方のお名前と級友Y君の名前,

それからいつも牛田町から一緒に通学した一年生M君の名前を見つけたとき,

ボロボロボロと両眼から涙が噴き出して止らなかった。

今でも慰霊碑を囲み水を湛えたあの池を見るたびに,「みずー」のあの声が必ず耳元に蘇るのである。

(付記)自分は原爆のことについては長年文章に書いたことはなかった。

それは思い出したくないし,触れたくもないという潜在意識が絶えず働いている故であろう。

私は原爆の出てくる映画は見ない。原爆に関する本も読まないことにしていた。

唯一読んだ記憶があるのは、昭和三十年代の出版であろうか、ロベルト・ユンクというドイツの

ジャーナリストの書いた「千の太陽よりも明るく」という原爆の開発と使用のいきさつを書いた書物である。

これでマンハッタン計画というものの存在を知った。この本一冊で充分であると思っている。

近年は若干変化してきた。即ち原爆についての体験を知人友人そして若い人に求められるままに

体験談として,意見も含めて努めて語るように心がけている。

近年ますますこの傾向が激しくなってきたように思われる。

それは「語りべ」の存在が必要だと自覚してきたことによる。

今回もそういった経緯で当時の記憶を書かせて頂きました。

----------- 2005.10.31 -----------

(注)山根政則の被爆場所:広島市松原町(今のホテルグランビア付近)距離:2km

   私の当時の自宅位置:広島市東区牛田早稲田1丁目 距離:3km