「何度言ったら分かるんだ?! この粗忽者!!」
そう怒鳴られた方が遥かにマシだ。
彼の毒舌を聞けなくなるくらいなら。



- あなたが大好き - 



事の発端は言わずと知れた我らが調律者、トリス・クレスメント嬢である。
いつものように"秘密特訓よ"とか言いつつ、一人隠れて召喚術の練習をしていたトリスに、一抹の不安を覚えたネスティが声をかけた、その時。
「あ」
ものの見事に、金タライを頭に直撃したネスティは文句を言う間もなくその場に沈んだ。
「や、……やだぁ、ネス! しっかりして!!!」
地面に落ちたタライがクワンクワンと名残の音を鳴らしながら回転していたが、そんな音をもかき消す勢いで、トリスは叫ぶ。彼女の声に驚いた仲間達が二人を発見し、半狂乱になったトリスをどうにかネスティから引き剥がして医者に見せるまで、それはそれは大変な苦労だったらしい。

あの戦いから二年。
奇跡の生還を果たしたネスティは、数ヶ月間あの森で療養した後、トリスと共に一旦聖王都へと戻った。
ラウルは彼らを大喜びで迎え入れ、二人の新たな生活が始まり……と、本来ならば全てがスムーズに運ぶはずだったのだが。
トラブルの無いトリスはトリスに非ず、とでもいうのか。
召喚を失敗した彼女の巻き添えを喰らい、ネスティは気を失ってしまう。
共に戦ったかつての仲間達は、そのあまりのへタレっぷりに、笑いを堪えるのが精一杯で言葉が出ない。心配する者、苦笑する者、呆れる者、ちょっと喜んだ者―――様々ではあったが。
「バカね、トリス。失敗なんてよくある事でしょ? いまさらタライ一つ頭に当ったからってどうってことないわよ」
ミニスの明るい声に慰められ、トリスはそうだよね、と笑う。
自分など何度頭を打ったか分からないほど、失敗を繰り返してきた。
今回はたまたま不意打ちだった。ただそれだけのこと。
トリスの笑顔に皆、安堵の息をもらしたその時。診察を終えた老医師が静かに部屋から姿を現した。
慌てて駆け寄るトリスを見て、医師は言い難そうに顔を歪める。
それに気付いたトリスの表情が曇り、仲間達もその尋常じゃない雰囲気に何かが起こったのだと確信し、息を呑む。
「………」
「せん、せい…?」
「君は…彼の奥さんかね?」
「いえ、っあの、ネス…ネスティはどうかしちゃったんですか?!」
「………」
「先生! ネスは…ネスはあたしの大事な人なんです! 教えて下さい、ネスは…」
「……入りなさい」
医師に促されて入った部屋には、頭に包帯を巻かれたネスティがベッドに座っていた。人の気配に気付き、ゆっくりとこちらに視線を向ける。
「ネス…あの…」
だが。近寄ろうとした足が不意に止まる。
何故躊躇してしまったのか自分にも分からない。
いつもの彼のはずなのに彼ではない別の人間のようで。
トリスはその理由を問うべく、不安げな瞳で老医師を見つめた。
「あの…」
トリスが医師へ尋ねようとした、その時。
「キミは……誰?」
息が止まる。
声の方を向こうとするが、心が拒否するのか、身体が動かない。
「先生、彼女は僕を知っている人ですか?」
何かの聞き間違いであってほしい、そんな彼女の縋るような願いも彼の声に掻き消されてしまう。
わなわなと震える身体を必死に支え、彼の元へと一歩一歩、ゆっくりと歩み寄るトリス。真正面で彼を見つめると、その瞳には不安の色を濃くした己の姿が映し出されていた。
(泣いちゃ、だめ)
そう自分に言い聞かせるように、瞳を固く閉じ、そしてゆっくりと開く。
未だ見知らぬ人間を見るような視線をトリスに向けているネスティに、胸がちくりと痛む。
だが。
ネスティの頬に触れようと恐る恐る伸ばしたその手は、力強い彼の手に捕らえられ。あっという間に引き寄せられたかと思うと、きつく抱き締められた。
「ちょ…ちょっと、ネス?!」
「………」
「あ、あの…ね、ネスってば!」
「………」
「ネ、ス…くる…し…」
「っ!」
突然拘束を解かれ、トリスは面食らう。
自分であれほど力任せに抱きしめていたくせに、今のネスティときたら顔を遠慮なく染め上げ、耳までもほんのり赤くしている。
降参とでもいうかのように、両腕を高く上げ、すまない、と小さく呟く。
「君が泣きそうなのを見たら、抑えきれなくなった…」
照れているためか、目を合わせないよう俯きがちに話すネスティ。
「い、いいよ…あ、謝らなくたって……嫌じゃ…ない…から…」
見つめ合う瞳に、自然と重なる手。そして。
「おい、ネスティ! 記憶喪失って、本当か?!」
「トリス、ネスティは大丈夫なの?!」
甘い雰囲気を豪快にぶち壊すその声の主(達)は。
「フォルテ、と……ケイ…ナ…?」
共に苦難を乗り越えたかつての仲間、(自称)冒険者の剣士と、彼の相棒兼(本人達は頑なに認めないが)恋人である弓の名手、フォルテとケイナの二人であった。

「いや〜ちょいと野暮用で王都に戻ってみたら、お前さんらが帰ってきてるって聞いてな」
「そうなのよ、それでここに来てみたら、ネスティが大変な事になってるって言うじゃない、それで…」 何だかいい雰囲気を邪魔した気まずさに、笑って誤魔化す二人。
が、いつもなら嫌味の一つも返ってくるはずの人物からは、何も無い。それよりも、見られたという恥ずかしさに、二人を前にして何となく居心地を悪そうにするネスティ。
そんな彼に(本人は必死で隠しているつもりだが)不安げな眼差しを向けるトリスを見て、ケイナは言った。
「そんなに落ち込まなくても大丈夫よ。記憶くらいいつだって取り戻せるわよ! ここにいいお手本がいるんだから。ね?」
「ケイナ…」
「だから貴方がそんな顔しちゃダメよ、トリス」
「…うん…アリガト…」
ケイナの笑顔につられてトリスも微笑む。
いつものような笑顔ではないものの、それを見て二人は少し安心する。
「さて…ネスティさんや。そういう事だから、お前さんも恋人と仲良くやってりゃあ、そのうちに思い出すとおもうぜ? あんま、深く考えないこった」
ポンポン、と励ますように肩を叩くフォルテに、眉間に皺を寄せ、怪訝な顔をするネスティ。
文句を言われるのかと思ったフォルテに対し、彼は真顔でこう言った。
「恋人というのは…一体誰のことなんだ?」
その場にいた全員が絶句する。
確かに考えてみると、誰もトリスがネスティの恋人だと説明していないし、そもそも、ここにいるメンバーが自分とどのような関わりがあるのかさえ、彼は一切説明されていなかった。
何だかうやむやのうちに、こうして皆に囲まれているに過ぎない。
「お前さんの中に、"恋人"の記憶は残ってないか? 思い出してみろ。イメージとかでもいい」
フォルテの言葉に頷くと、ネスティは目を閉じ、意識を深く深く辿って記憶を探ろうとする。
「………」
「見えたか?」
閉じた目を、再びゆっくりと開いたネスティに皆の視線は集中する。
「…おぼろげだが……髪は肩に届くか届かないかの長さで…」
「ほぉ」
「小さくて…華奢な感じが、した。…どうだ、当っているか?」
「ああ…それで合ってるぜ。あと、ちいとばかり胸が足りなくて、色気に欠けるがな」
言われた本人より先に、ケイナの鉄拳制裁が飛ぶ。
確かに外れてはいないのだが、そうはっきり言わなくても…と頬を膨らますトリス。
「ま、どうしても思い出せなかったら、最後の手段だが…身体を重ねてみるってのもテだぜ? 案外その慣れた肌の温もりで思い出したりしてな」
ハハハと笑うフォルテだが、ジロリとケイナに一睨みされ、口を噤む。
しかし。ネスティの反応は怒るわけでも笑うワケでもない。
自分を囲む仲間達を一瞥し、その表情を酷く青ざめさせた。
「…僕はそういう趣味の持ち主だったのか?」
「はぁ?」
何の事を言っているのか分からないフォルテは、間の抜けた返事を返す。
「彼女、まだ13、4だろう? あんな幼い少女を恋人にしているなんて…僕はそういう性癖の持ち主だったのか?!」
フォルテに詰め寄るネスティの顔には鬼気迫るものがある。
大迫力だ。
「え? ちょっと待って……恋人って、あたしのコト?!」
彼が自分の恋人と指をさすその人物は。
金色の髪にピンクのフリル付きワンピースが似合う、金の派閥総裁、ファミィ・マーンの愛娘、ミニス嬢であった。
己がロリコンであるという衝撃にワナワナと震えるネスティの様子が可笑しくて、ぷー、と吹出しながらも、何とか笑うのを堪える仲間達。
笑うわけにはいかない。
何故ならば彼らの後ろには…
「貴方の恋人は、あたしよ!」
ミニスに向かう視線を、胸倉を掴む勢いでグルリと反転させて自分の方を向かせる。
えっ、と驚くネスティの反応が面白くなかったトリスは、部屋の中だというのも構わず、召喚の呪文を唱え始めた。
が、しかし。その呪文は。
「☆○△□?!!!」
強烈な音があたりを包み、その場にいた全員が息を呑む。
フン、と鼻を鳴らし、バタバタと走り去ってしまうトリスを呆然と見送りながら、誰一人言葉を発することが出来なかった。
「……いったそ〜……」
ややしばらくしてから、ふと思い出したように音の発生源へと視線を移す。
そこには…正確には床だが…タライと共に転がる、ネスティの姿があった。
誰も悲劇とは思わない。もはや喜劇。
仲間達は皆、そう思ったがあえて口にせず、ただこの状況が打破されれば良いと、切にそう願うのだった。

(何よ何よ、ネスの馬鹿ぁ…!!)
トリスは自室のベッドに潜りながら、恋人への恨みを呪詛のように呟く。
「そこまで忘れなくたっていいじゃない…」
思わず零れる涙をどうしても止めることが出来ず、トリスはグスグスと鼻をすすった。
しかし、ノックに続いてゆっくりと扉の開く音と近付いてくる気配に、すすり泣きを止め息を呑む。
「……すまない。君を傷つけるつもりは無かった。ただ…」
「……ただ、何?」
「"色気が無い"というから、僕は…てっきり……」
その言葉にトリスはガバリとベッドから這い出て、再びネスティに掴みかかった。
「それって、あたしに色気を感じた、ってこと?!」
「…うっ……いや、それは…」
「はっきり言ってくんないと、許してあげない」
ゲンキンなもので、しどろもどろのネスティの態度に気をよくしたトリスは、先程の怒りなど何処へやら。すっかり笑顔でネスティに迫っている。
耳までも赤く染める初々しい彼の態度を見て、トリスは思った。
こんなネスティはもう見られないのではないか、と。
いつも主導権は彼に握られ、自分は翻弄される一方で。たまには攻守逆転というのもやってみたい。
(強行手段、かも)
先刻のフォルテの言葉を思い出す。
「…ね……」
その雰囲気の違いに、思わず身を引くネスティだが、それに構わずトリスは彼に詰め寄る。詰め寄られ後ろを失くしたネスティは、それでも彼女を避けようとし、バランスを崩す。

トリスはそんな彼を見てクスリ、と小悪魔のような艶っぽい微笑みを浮かべると、勢いよく彼にのしかかり、身体の自由を奪うように、押さえつけ、ベッドに倒れこませた。
「な…っ…! い、一体何の…」
「…ネスがあたしを思い出してくれるなら…あたし、何でもするから。だから…」
心臓が早鐘を打つ。
こんな風に自分から迫るのは初めての経験だ。
トリスは真っ赤になってうろたえるネスティの問いかけを無視し、ゆっくりと唇を寄せる。
それは初めてのトリスからのキスであった。
初めは触れる程度。しかし徐々に深く口付ける。
角度を変え、何度も口付けを重ね。恐る恐る差し入れた舌も、いつも彼がしてくれたように絡めていくと自然に反応が返った。
次第に吐息は熱くなり、もはやその深さに息も出来ない。
やっと唇が離れた時には意識は朦朧としていて、まともな思考は残ってないように感じた。
だが、トリスはそれで終わらせるつもりは無い。ここからが勝負だと言わんばかりに、不敵に微笑む。まるで何かを吹っ切ったような笑顔だ。
「?! お、おい…っ!」
ネスティの静止の声も無視して、トリスは彼の上着のボタンを次々と外していく。
「ま、待ってくれ、ッ、と…!!」
鎖骨の下に触れる生暖かい感触。そして痛みを伴うほど、強く吸われる。
「…ネス」
「っ、な…なに、を」
「…ネスはあたしのモノ。あたしだけの人なんだから…」
「……っ」
「だから誰にもあげない」
所有の印を白い肌へ無数に散らし、トリスは満足そうに笑った。

「だいすきだよ、ネス」




「ずるいずるいずるい!! ネスの嘘つき! おたんこなす!!」

素肌をブランケットで覆い隠し、トリスは半べそをかきつつ、ネスティを睨みつけた。
言われた方はというと、気にも留めず飄々と涼しい顔で言い返す。
「僕は嘘は言ってない。君が勝手に勘違いしただけだろう?」
「……っ、そ、それじゃあ言ってくれればいいじゃない! "もう記憶は戻った"って! 黙ってるなんて卑怯じゃない!!」
「仕方ないだろう。言う機会を逃してしまったんだ」
「ネスの卑怯者。鬼畜……!」
「好きに言ってろ……さて。皆にはなんと説明するんだ? ありのままを言う訳にもいくまい」
「いっ、言えるワケないでしょ〜〜!! ネスの馬鹿! スケベ!!」
「ほぅ? そんな態度をとってもいいのか? 何があったのかミモザ先輩に訊かれたら、僕は話してしまうかもしれないぞ? 先輩は誘導尋問が上手いからな」
「! や、お願い、それだけは…!」
トリスの反応に、ニヤリとシニカルに笑う。こんな時の彼は何を考えているか分かったものじゃない。
「それじゃあ、口封じといこう」
そう言って彼女の唇をそっと塞ぐ。
触れるだけの軽いキスだ。
鳩が豆鉄砲をくらったかのような顔をするトリスだが、それは単に油断させる手段だったのか。
次の瞬間には胸元を唇が這い、鎖骨の下に強く口付けられた。
「っ…ン…!」
「…これでおあいこだ」
してやったり顔のネスティを見て、トリスは悔しさに唇をかむ。

「…っ、次は負けないんだから!」
「……そうだな」
「……?」
トリスの反応も意外なら、返すネスティの反応も意外だった。



「あんな情熱的な君を見られるなら、記憶喪失も悪くはないな」

「!!」



やはり最後はいつもの二人。
結局、二人は自覚は無くても互いに独占したがりだ、と、そういうことらしい。



2003.5.14