病気の思い出。
誰だっていいものじゃないだろうけど、あたしにとってそれは。

ひとりだって事を思い知らされる孤独な夜だった。



千の夜と一つの朝。





「…っくしゅん!」
小さなかわいらしいくしゃみが一つ。
アメルが『あらあら』といって慌ててティッシュを渡すと、くしゃみの主はそれを手に取り鼻をかむ。
ぶぶーっと音をたてての行為は、女性らしさに欠けるが、それもトリスならば仕方がないと納得してしまう のは一体どうした訳か。
「風邪ですか?」
「ん? う〜ん、むずむずしただけだと思う」
そう言って赤い鼻で笑うトリスに、アメルは引き出しからなにやら小さな白い包みを取り出し、テーブルの上に置いた。 怪訝そうな顔で上目遣いに視線を向ける彼女に、にっこり笑うアメル。
「風邪は万病の素、とも言いますし」
包みの中はシオン特製の風邪薬。
薬の効果はお墨付きだが、トリスが躊躇せざるを得ないほどそれはとてつもなく苦かった。
元より、薬に甘いものなど無いのだが、お子様的な味覚の持ち主の彼女にとってその苦味は激烈で、 自分のためだと思ってもなかなか口に入れられないらしい。 薬を手にとってから、何度も何度も水を飲み直し飲みなおし、結局カップの中の水を空にする。
「うぅ……」
薬と睨みあい十分は経過したであろうトリスに、アメルは諦めて彼女のカップにハーブティを注ぐ。
カップから湯気が立ち昇り、たちまち甘いミルクの香りが辺りを漂う。
「風邪予防のお茶ですからさほど効果はありませんが、あとはトリスの気合で補って下さい」
「あ、ありがと〜」
心底安心した表情でカップを口に運ぶトリスを見てアメルは微笑むと、自分のカップにも同じものを注いだ。 音を立てながら注がれる乳茶色の液体を見ながら、アメルはふと思いついたように口を割る。
「そういえば…トリスが風邪を引いた時ってどなたがお世話をしてくれてたんです?」
「ネスが面倒みてくれてたよ?」
いとも簡単に答えるトリスにアメルは面食らい、カップからお茶を溢れさせてしまう。
慌ててふき取る彼女の様子を見て、トリスは、ああ、と、驚いた理由を察した。
「風邪くらいならそんなに問題なかったみたい、薬、飲んでたし。 問題は子供の時にかかっちゃうウイルス性の病気」
「ウイルス?」
「水疱瘡とかおたふくとか…小さい頃必ずかかるっていうやつ」
ああ、とアメルは幼い日を思い、相槌を打つ。
自分も幼少の頃、兄同然に育った双子の兄弟と同じ病気をもらったりうつしたりしたものだった。
「ネスには免疫とか抗体とかないから…ホントに注意してたみたい。召喚師になる前って、周り、 子供ばっかりでしょ?余計に注意してたみたい」
水疱瘡などは免疫さえ出来れば、一度かかったものであれば発症することはないが、 ネスティは融機人であるため、例えワクチンを注射して予防しても抗体が出来ることはない。 そのため、危険を感じられた場合何度も同じワクチンを打つ必要があった。
擬似的にその病気を罹患させたような状態を作り出すため、病気そのものの症状が酷くでる事は無かったが、 それでも何度もそれを行うことは彼の身体に良い訳でなく、最小限にするためには、伝染性疾患を持つ人間との 接触を極力避ける必要性があった。
「あたしはほとんど派閥に来る前に済ませてきてたんだけど…はしか(麻疹)だけまだだったの」
「あの高熱と湿疹がでるやつですね?」
アメルの問いに頷いて答えるトリスの表情は、遠い日の事を思い出したためか、憂いを帯びた切なげな ものに変わっていた。



暗い、机とベッドだけで他に何もない部屋。
角部屋のためか、陽の光もあまり入ってこない薄暗いジメジメした場所が彼女の部屋だった。
「…しはん……ねすは?」
額の上のタオルを換えながらラウルは穏やかに語った。
「あれも今、トリスと同じにベッドの上じゃ。大分退屈そうにしていたからすぐに良くなるじゃろう」
その言葉に不安な色を映した紫紺の瞳が安堵の色を灯す。
「よかった…げんきになったんだね、ねす…なおったら、また…」
高熱のためか意識が朦朧としており、続きを語ることなくそのまま意識を手放す。
安心しきった表情で眠る彼女を見て、ラウルは小さな溜め息を付いた。
はしか――正式には麻疹というのだが――この病気は確実に発症したことがわかるまで、数日の潜伏期間が 存在する。
トリスも例に漏れず数日の潜伏期間の後発症したのだが、問題はその後の事で、 ただの風邪と、いつものようにネスティが彼女の面倒を見たために彼も発病してしまったのだ。
間の悪いことに、ここ数日、ラウルの仕事が立て込んでおり、 ネスティが高熱で倒れたという知らせを受けて、ようやく事態を把握する。 二人の不調に気付いてやれなかった事を悔やんだのは勿論だが、ラウルは息子の対応にいくばくかの 危機感を抱く。
何故自分も罹患すると判っていて彼女の傍にいたのか。
下手をすれば命に関わっていたというのに。
おそらく、彼はトリスが何らかのウイルス性疾患だと予測出来ていたはずだ。 彼の中に眠る一族の記憶が、彼女の症状が何であるかを告げていたであろうから。
罹患すれば抵抗力の弱い自身の体は、通常の人間が罹ったよりも状態を悪くするという 危険性を十分に理解しているのに、それでも。
それでも彼は命の危険を冒してまで、妹弟子のそばに居続けた。
その理由は一体何なのであろうか。
安心しきったトリスの寝顔を見て、ラウルは思う。
「…ネスティ……お前が安息の場所を見つけられたというなら尚更じゃ。 尚更、この笑顔を守らねばならないんじゃぞ?」
派閥の本部の奥で治療を受けているであろう息子を思い、ラウルは呟く。
シン、と静まりかえった部屋に、トリスの寝息だけが響いていた。




額に感じる冷たさに目を開くと、そこには見慣れた不機嫌な瞳。
「え…ネス?!」
「…僕が判らないとは、どうやら君の熱は更に上がっているようだ」
がばっと起き上がったトリスだが、強い頭痛と眩暈に襲われ思い切り顔をしかめる。 無理するな、とネスティは彼女の体を再び横にならせ、額のタオルを乗せた。
「あた、し…?」
グルグルと回る視界に不快感を抱きながらも、そう質問する。
ネスティは近くに置いてあった読みかけの本を手に取ると、彼女のベッドの横にある椅子に腰を下ろし、 盛大な溜め息をつく。
「子供じゃないんだ、熱があることくらい自覚しないか、全く…」
どうやらアメルとの話の最中に倒れたらしく、帰宅した途端のアメルのパニックに巻き込まれたらしい ネスティは、些か疲れきっていた。
「ごめんなさい…心配かけて」
熱があるためなのかトリスの殊勝な態度に、ネスティはふと表情を緩める。
彼女の髪を優しく撫で、頬に添えるその大きな手に、自身の手を重ね、幸せそうに目を閉じた。
「…どうした?」
「ネスの手、ひんやりしてて気持ちいい」
「それは熱があるからだろう」
半ば呆れたようなネスティの声。だが、次の瞬間、彼の手はビクリ、と大きく揺れた。
温かな熱が、ゆっくりと、指に、手の甲に伝わって。
瞳から溢れる熱い涙は、止まることを知らない泉のように、後から後から流れ出る。
「トリス…」
「あたしね、病気になって、ネスが傍にいなくて……ほんのちょっとネスの顔見れなくなっただけで、凄く寂しかった。 ひとりぼっちだったのは前も同じなのに、不思議だよね。だからね、あんな寂しい思いするのはもう嫌だったの、だから」
「だから?」
「…風邪、ひかないように頑張ってたんだけど……」
ここ二年、ネスティが樹になって戻ってくるまでの間は病気一つしなかったトリスだが、彼が戻ってきて流石に気が緩んだのか、昨夜少し冷たい夜風にあたった、それだけであっという間に風邪を引いてしまったようだ。
「あ〜あ…」
心底残念そうな声を洩らし、頭からブランケットをすっぽり被る。
ネスティはそんな彼女に苦笑すると、布越しに彼女の頭をぽんぽん、と優しく撫でた。
「心配しなくても、今度からはずっとそばについているよ。ご希望とあれば朝まで、ね」
ブランケットの下からむぅ、と呻くような声が聞こえ、堪え切れず声を上げて笑うネスティに、 益々ブランケットを強く握り締め、トリスは体を丸く抱え込んだ。




長い、長い幾千もの夜を越えて。

今、やっと夜が明ける。
二人で過ごす朝を迎えて。


それが、きっと永遠のはじまり。