あたしの兄弟子という人は、知る限りではおおよそ隙というものを見せた事の無い人だった。 「……なんかズルい」 枕を抱きかかえ、ベッドの上で少し拗ねるように頬を膨らませて抗議の声を発する。言われた方はというと、いつまでも起きてこない彼女を起こす、という日課を終え、今まさに部屋を出ようとドアノブに手をかけたところだった。 「何の話だ?」 「だって、ネスはいっつもあたしの寝顔を遠慮なく見てるクセに、あたしには見せてくれた事無いんだもん」 思わず吐かれる呆れのため息。よかれと思っての行動に言い掛かりをつけられれば、眉間に皺が寄ってしまうのも仕方が無い。決して愛想の良い方では無い彼の表情が途端に険しくなる。 「君が僕の手を煩わせず起きてくれればいいだけの事だろう? いつまでも寝ている君が悪い」 ぐぅの根も出ない正論でバッサリと斬る。 だが、トリスとてそう簡単に負けてはいられない。 ちょっとした女の意地が懸かっていたのだ。 「ネスって、あたしが起きた時にはいつもビシッと完璧に身なりを整えてるじゃない?」 「それに何の問題がある」 「問題とかじゃなく、それってあたしにも……気を許してないって事なんだろうな、って……」 語尾が自然と小さくなる。 分かってはいても、流石に声に出して認めるには辛い言葉。 トリスとて、多少なりともネスティが他の人間より自分に心を開いてくれているだろうという自信はあった。だが、こんな些細な事が自分と彼の関係を、積み上げてきた信頼を疑い、自信を崩れさせるとは思ってもみなかったのだろう。 「君の悪い癖だ。すぐそうして早合点する。……トリス、手を出してみろ」 言われるがままに右手を出すと、掌に小さく、冷たい硬質な物が乗せられる。それは銅色の鈍い光を放っていた。 「ネス、これ……」 「僕の部屋の鍵だ。君に合鍵を渡しておくから、僕を起こすなり、寝顔を見るなり、好きにするといい」 「ええっ!」 突然の事に思考が追いつかない。 二の句が続かないトリスの、言葉にならない唇の動きはまるで丘にあがった魚のようだった。 「そ、それって好きな時にネスの部屋に出入りしていいってこと? あたしが? いいの?」 蕾が花開くように、表情を綻ばせる。 元々ギブソン達の屋敷の部屋には鍵などついていなかったが、トリス達御一行は男女入り乱れた大所帯。妙齢の男と女、何か問題があってからでは遅い、と、念の為に各室は内側から施錠出来るドアに変えられた(フォルテがケイナ姉妹の着替え現場に、誤って踏み入った事が直接の原因という話もあるが定かではない )。 だが、ネスティの申し出は、そのプライベートな空間もトリスの侵入を許す、という様なもの。いくら融機人という事を隠す必要が無くなったとはいえ、その変わりようは異常だ。逆に不安になったトリスがネスティに再確認しようとした、その時。 「君が僕より早く起きれたら、の話だが」 にやり、とシニカルに微笑む。 そもそも、トリスはネスティより先に眠り、朝は彼に起こされるというのが日課。一度眠れば最後、朝まで目が覚ます事は無い。そんな彼女が彼より先に起きてその寝顔を見るなんて事は。 「天地がひっくり返っても無理というものだろう。諦めるんだな」 「ええ〜〜〜っ! そんなのズルイ!」 「そう思うなら朝くらい自力で起きろ」 「うっ…」 トリスに反論の術は無かった。 「ま、期待しないで待つとしよう。ハハハ」 小馬鹿にした笑いに腹を立て、ネスティが部屋を出た瞬間、扉に向かって枕を投げつける。ボスッ、と鈍い音を立ててぶつかった枕が静かに床に落ちたが、それでもまだ怒りは治まらない。 「むぅ〜! こうなったら何が何でもネスの寝顔、見せてもらおうじゃないの!」 この時、ネスティはまさか彼女がそんな行動に出てくるとは思いもしなかった。例えこの台詞を聞いていたにしろ、普通は考えないだろう。 まさか――――― 「………何故君がここにいる」 「だってネスの寝顔を見るにはこれしかないでしょ?」 「だからといって何故僕のベッドに入っているんだ……」 寝巻きに着替えて枕を持参。 ネスティはトリスに手痛い逆襲を受ける羽目となった。 「一緒に寝れば寝起きのネスに当たる事もあるでしょ」 「……僕はクジ引きの景品か……」 眉間に皺をよせ、頭を押さえる。彼女の自論は理解に苦しむ。 若い男と狭いベッドで一夜を過ごす。 間違いが起こってもなんら不思議の無い状況下で、あまりにもあっけらかんとしている彼女に溜息が出る。危機意識がなさすぎだ。それとも、自分に対しての絶対的な信頼か、はたまた、異性として見ていないのか。理由はなんであれ、壁一つ隔てた向こうに仲間達がいると思うと、感情に流されて迂闊な行動をとるなど出来やしない。 こういう時自分の性分が頼もしくもあり、また疎ましくもある。 情動に流されてしまいたい自分も心の隅にあった。 彼とて健康な若い男子なのだから。 想いを寄せる相手が隣にいるのに触れる事もままならない状況は、ある意味地獄だった。 「それじゃオヤスミなさい、ネス」 「…ああ、オヤスミ……」 トリスはこうみえてなかなか頑固な性格で、一度言い出したら曲げない面を持っている。今回の事もネスティが寝所を別に移した所で、彼女の気が治まらない限り彼に平穏な夜はやって来ないだろう。早々に諦めたネスティは、泣く泣くトリスと夜を共にする。しかし。 いくら平静を装ってもまともに寝られるはずもなく。 3日目、遂にネスティは睡眠不足でダウンする事となった。 この事は、男性陣から『鋼の理性を持つ男』、女性陣から『ヘタレ』という、何とも不名誉な称号を与えられるきっかけとなった事件…らしい。 結局ネスティの無防備な寝顔はどうだったのかというと。 「やっぱり寝顔なんて誰も見られたくないものだしね、うんうん」 妙に納得した(というか皆を納得させようとしたというか)トリスの発言によってうやむやとなる。 真相はトリスの胸の内、のようだ。
END.■■■■
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あ と が き |