「ええっ!出航できない!?」 トリスが大声を上げる。 何で、と、食いつかんばかりの勢いで迫るトリスに、ネスティは静かに言った。 「仕方ないだろう?嵐が来るというんだ。…それともキミは沈没船に乗りたいのか?」 「むぅ…」 ここは聖王国領西部の辺境の地、サイジェント。 メルギトスとの戦いも終わり、トリス達は故郷のゼラムへ戻るべくフラットのメンバーに別れを告げ、乗船した。 …したはずだったのだが。 意気揚々と乗り込んだ船の中、小一時間程待たされたかと思えば出航延期の知らせが。 ファナンまでは10日前後という長い航海となる。 只でさえ長い船旅だ。更に嵐で召喚獣に負担をかけられない。 今回は嵐が来ることを事前に予測出来たため、船長からもう2、3日待って欲しい、と申し出がきたのだ。 「しっかし、これからどうするよ?ネスティ」 「うむ…それなんだが……」 フォルテの問いに、ネスティは一つの案を出した。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ ふぅ、と大きなため息をつく。 ナツミはテーブルに頬杖をつき、何やら物思いにふけっていた。 トリス達を見送った後、ナツミ達はここ"フラット"へと戻った。 皆、それぞれ当たり前の、前と変わらない日常へと戻る。 トリス達がいた時はあんなにも賑やかだった家の中も、今はシン、と静まり返っていた。 感慨にふけっての態度であろうとソルは思っていたのだが、ナツミは独り言ともとれるような、そんな台詞を口にする。 「…いいなぁ、トリスは……」 何がいいのか分からず、ソルは『は?』と聞き返した。 「ん…トリスさ、あんなにネスティに愛されて凄いな、って思ったの。だって"ご主人様"だよ、ご主人様。普通言えないって!」 確かに普通は言えないだろう。 あの時のネスティはどうかしてたんじゃないか、と、短い付き合いのソルでさえ思った程だ。付き合いの長いメンバーや、トリスに密かに想いを寄せている男達なんかは、ペトラミアでも受けたかのように固まってしまっていた。 戦いも終わり、恋愛へ走ろうと企むライバル達への牽制なのだろう、と、ソルは理解していたのだが…。 「何だよ、ナツミも言われたいのか?」 「え〜〜〜っ!?や、やだ、やめてよ、恥ずかしいなぁ…」 顔中真っ赤に染め、否定するナツミ。 そんなナツミを見て安心するソルだが、最後のナツミの台詞に態度は一変する。 「んー、…まぁでも言われてみたい気も、ちょっとあったりなんかして…」 言ってしまった大胆発言に、恥ずかしくて両手で顔を覆うナツミ。 しかし、いつまで待ってもソルからの反応はなく、不思議に思ったナツミは、顔を覆う手の隙間から彼をチラ、と覗いた。 そこから見えたソルの顔は、今までに見たことの無い、何とも言えない複雑な表情だった。怒りともまた違う、そんな表情。 一体どうしたものか、訊ねようかどうか迷うナツミの元へリプレが駆け足でやってくる。 「ど、どうしたの?リプレ」 彼女はナツミの問いに、息を切らせたまま嬉しそうに答えた。 「お客さんだよ!二人に嬉しいお客さん!!」 「アタシ達に…お客さん?」 ナツミが玄関へ行くと、そこには申し訳なさそうに微笑むトリスと、ネスティの姿があった。 「…何か、嵐が来るみたいで、あと2・3日は出航できないって…」 トリスが出戻りの理由を簡単に説明する。 他のメンバーはミニスの叔父のマ―ン家で厄介になる事になったが、自分達は蒼の派閥の一員だから、と、街で宿を探しているところ、リプレに偶然会ったのだという。(宿を探すと言い張ったのはおそらくネスティであろう。) 「もう、2人とも水臭いんだから。宿なんか探さなくてもウチに泊まればいいじゃない!皆大歓迎だよ、ねぇ?」 言うまでも無いが、ネスティとしては宿に泊まった方が色々と(?)都合が良い。 だが、このお節介なほど親切な住人を言いくるめるだけの正当な理由の無い彼である。今回は潔く諦めるしかない。 そんなネスティの思惑など知らず、にぶちん3人娘はきゃあきゃあと再会を喜ぶのであった。 そんな4人の会話を聞き、面白くないのはソルだ。 彼はトリス達と顔も合わせず、自室へ引きこもる。 苛立ちを抑えるために手にした本も、居間から聞こえる楽しげなナツミの笑い声に心が乱され、集中出来ずに結局放り出した。 「くそっ…」 我慢できず、つい漏れた言葉。 不機嫌の原因は、言わずと知れたナツミである。 「…何が"ご主人様"だよ…」 ベッドに寝転びながら、ソルは、先刻、恥ずかしそうに頬を染めて俯くナツミの姿を思い出した。しかも彼の想像の中では、ナツミはネスティに"ご主人様"と言われ、嬉しそうにしているのだ。 自分の想像に苦悩するソルだが、マヌケとしか言い様が無い。 ソルはネスティに嫉妬している。 ナツミが『ご主人様』と、呼んでもらいたい、そう言ったから。 しかし。 ナツミが呼んで欲しい、と言ったのは、ネスティではなくソル自身である。 彼女にしてみればソルに恥ずかしい発言をしたつもりでいるのに、まさか勘違いされているなどとは思ってもみないこと。 触らぬ神に、祟り無し――――― 不機嫌なソルをそっとしておいたナツミだが、かえってそれが逆効果であった事を、その時の彼女は気付く余地もなかった…。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ その日の夜。 夕食は外でバーベキュー、というリプレの提案にフォルテ達がやって来た。 お酒も入り上機嫌で盛り上がる仲間達。 そんな風に皆が楽しく過ごす中、世の不幸を全て背負い込んだような顔で、一人、食事をするソルの姿があった。 トリスはそんな彼の姿を見つけると、食べかけの串をそのままに、慌てて傍へ寄る。 皆から少しだけ離れた、そんなソルの隣にトリスは腰を下ろした。 「ここ、いい?」 ソルは一瞬驚くが、すぐまたいつもの不機嫌そうな顔に戻り、ああ、と一言だけいう。 そんなソルの態度に苦笑いを浮かべるトリス。 流石に鈍いトリスも自分達が再びやって来た事で、ソルの機嫌を損ねているであろう事に、何となく気付いていた。 しかもあんなに意気投合していたはずのネスティとは目も合わせない。 兄弟子が何かやらかしたのなら、妹弟子の自分が何とかしなければ。 と、いつもとは逆の立場に、ちょっとだけいい気分に浸るトリス。 黙黙と食べ続けるソルに、トリスは思い切って切り出した。 「あの…ごめんね。また急に押しかけちゃってさ」 「………」 「ホントにね、2・3日の間だけだし…あの、あんまり迷惑かけるようなら、あたし達、宿とか探すし……あの…」 トリスの声かけに全く答えず、ソルは黙りこくったままだった。 そんなに彼の機嫌を損ねる程の事をしたのか、と、トリスの気持ちは沈んでいく。 「本当にごめんね。…明日になったらネスと宿探しに行くからさ、今日のところは勘弁してね。じゃ…」 ネス、という言葉にピクリ、と反応するソル。 席を立ち行こうとするトリスの腕をグイ、と掴んだ。 「へっ…?」 驚いて振り返ると、先程までの不機嫌さが嘘のように、極上の笑みを浮かべてトリスを見つめるソルがいる。 しかしトリスは思った。 こういう笑顔はかえって危険だと。 ネスティによって散々経験させられたイタイ思い出…慣れというのか、直感というべきか。トリスは本能でその笑顔の裏にある危険を察知したのだ。 「…ソースついてる」 「あ――――え?」 しかし意外にまともなソルの言葉に、身構えていたトリスは見事に肩透かしをくらう。 慌てて顔を擦るが、汚れの位置が分からずなかなか取れない。 そんなトリスの様子にソルは微笑むと、彼女をグイと自分の元へ引き寄せ、あろうことかその頬にキスをしたのだ。 「――――」 「ほら、取れたぞ」 余りの衝撃に、声もでないトリス。 一瞬何が起きたのか分からなかったが、唇の触れた頬に手をやり、改めてその事実に顔を赤くする。怒りを通り越す程の驚きに、トリスは、何で、どうして、と、途切れ途切れの言葉を口にするのがやっとだった。 しかし。 ここは二人だけの世界ではない。 先程までの騒ぎが嘘のようだ。今や火が消えたかのように静まり返っている。 剣の柄を握るシャムロックや箸を折るリューグ。 だが、皆の視線は言うまでもなく只一人――――トリスの兄弟子であり護衛獣の、ネスティ・バスクに集中していた。彼の足元には食べかけの串が落ちており、衝撃の現場を目撃したであろう事実が容易に窺える。 ネスティのトリスに対する愛情が半端でない事は、皆、あの『ご主人様』宣言で十分過ぎるほど承知していた。ゆえに、今更トリスに手を出そうだなんて考える、命知らずな人間はこの中には存在しない。 いや、存在しなかったはずなのだが…… 「ダメだよ、ソル!貴方にはちゃんといるでしょ、大切な人が!!」 「何を当たり前な事を…」 「だったら何でこんな――――」 トリスは油断していた。 ナツミの事を好きな彼が、自分にこんな事をするはずがない。 頬にキスされてもまだ、ソルを信じていたのだ。 「馬鹿だな…お前が一番大切に決まってるだろ?」 あっという間に引き寄せられ、ソルに抱きしめられるトリス。 「〜〜〜!?!!」 トリスの首筋に軽くキスをし、ソルは照れくさそうに愛しいその人の名を口にした。 「ナツミ…」 「トリス、ネスティを止めてくれ〜〜〜〜っっ!!!」 悲鳴にも近い叫びを上げるフォルテの声に、トリスは我に返る。 フォルテとロッカ、ガゼルにジンガ、4人の手により口を押さえられ、体を拘束されているネスティ。ヘキサアームズを召喚しようとしていた程のネスティの勢いは、男4人で止めるのがやっとだった。 だがしかし。 本気のネスティはそれくらいでは止まらない、いや、止まるはずがない。 一瞬の隙をついて4人にパラ・ダリオをかますネスティ。 そうして力ずくで拘束を解いたネスティを止める者は、もう誰もいなかった。 「ってて……あいつ、酒でも飲んでんのか?」 「いや。ネスティはあれが普通だ」 痺れて動けないガゼルに、同じくとばっちりをくらったフォルテが答える。 その自信満々な答えに、ガゼルとジンガは今、真にネスティの恐ろしさを理解した。 「どうやらこれが原因のようですよ?」 痺れる4人の前に、シオンが現れる。 その手にあるのは"茸"だ。 「まさか…」 ガゼルはシオンの後ろで申し訳なさそうに隠れるモナティを見つけた。 怯えるモナティの頭をポン、と優しく撫でるシオン。 「この茸を食べたんでしょうね、ソル君は。これには幻覚作用がありまして…どうやら今までの事は、トリスさんがナツミさんに見えての行動だと思われるのですが」 「ごめんなさいですの…モナティ、皆さんに美味しい物を食べてもらいたくて……」 泣きながら謝るモナティを責める者は誰もいない。 責めるべきは、知っていた筈なのにソルが食べるのを止めなかったシオンの大将、その人なのだが。命の惜しい彼らは誰一人、その事を口にしなかった。 「魔法大戦が始まるね、エスガルド」 ニコニコ笑うのん気なエルジンに、エスガルドはとりあえずフラットの子供達を巻き込まないよう、リプレと共に金の派閥へと送っていった。(勿論、事の成り行きを見たがったミニスとフィズを無理矢理連行したのはリプレである。) ちなみに、唯一頼りになりそうなアメル嬢はというと、モーリンの手により無理矢理飲まされたワインで、すでにダウンしていた…。 「ソル。彼女を離してもらおう」 口論だけで穏やかに(?)終わるかと思ったトリスだが、ネスティの手にしっかりと握られたロッドに彼の真意を読み取る。 ネスはやる気なのだ、と。 男の嫉妬は女の百倍、という台詞を聞いたことがある。 しかし、実際それを自分が体験するとは思ってもみない事。 あんなにいつも自分に馬鹿、馬鹿、言っていた兄弟子が。 自分の護衛獣になり一生傍にいる、と言ってくれた上、更に、己を見失うほど嫉妬している。 (あたし、今、幸せかも…) こんな恐ろしい状況にありながら、明後日な事を考えるトリスが一番恐ろしいような気がするのは気のせいだろうか…。 「馬鹿言うな。彼女(※ナツミ)は俺の女だ」 「何を馬鹿な…彼女(※トリス)が君のモノだといつ決まった?」 「1年前」 キッパリと言い切るソルの言葉に、ほう、とネスティはトリスに視線をやる。 トリスは頭や手を横に振り、体全体で『違う』と必死にアピールした。 トリスも、ソルはナツミと自分を間違えているのだと、一言いえば良いのだが。 どうやらそんな方向にまで頭が回らないようだ。 「仕方ない…体に言い聞かせなきゃならないようだな」 「やるってのか?―――いいだろう」 二人は笑っていた。 今まで見たことの無い、冷酷な笑みを浮かべて。 ソルのレヴァティーン(ギルティブリッツ/範囲:大、威力:80)と、ネスティのヘキサアームズ(ネオインパルス/範囲:単体、威力80)が頭上で唸りをあげ、阿鼻叫喚の召喚大戦が今まさに始まろうとした、その時。 おどろおどろしい闇の生き物が、二人の前に現れた。 「「ブ、ブラックラック…?」」 目玉が無数についたソレは、まるで笑ったかのように目玉を細めて反応した。 二人の背筋が凍りつく。 黄泉の瞬きが二人を直撃し、もうもうと立ち昇る噴煙の中、トリスは地に倒れるネスティの姿を見つけた。 「大丈夫!?ネス――――」 ネスティは慌てて駆け寄るトリスの唇を指で軽く押さえ、彼女の後ろを遠く指差した。 トリスがゆっくり振り返ると、そこには―――――― 「アタシが分かる?ソル」 「…て……ナツミ?どうしたんだ、俺…」 正気に戻り、現状を把握出来ずにいるソルにナツミは少々呆れたように苦笑すると、ゆっくりと顔を近づけた。 「アタシ以外の人に、もう絶対あんな事しないで」 「ナツ――――」 ナツミはソルの唇にそっとキスをする。 唇が離れた後、恥ずかしそうに微笑むナツミを、ソルは堪らず抱きしめた。 「ごめん…」 「うん…」 愛しい者同士の口付けが深く、深く交わされる。 興味津々に見つめるトリスの目を手で隠し、ネスティは『あまりジロジロ見るものじゃないだろう』と、少し照れくさそうに彼女を叱った。 ‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐ (あれが"恋人同士"のキスかぁ…) 騒動も落ち着きフラットへ戻ったトリス達。 だが、ナツミとソルのあんなラブシーンを見せつけられた(?)トリスは、興奮のためか、屋根の上で眠れぬ時間を過ごしていた。 恋人になりたかった人には自分の護衛獣になる、と宣言された。 戦いが終わったら想いを告げようと考えていたトリスへの先制攻撃。 いや、牽制された、というべきか…。 それで諦めようと思ったら、今度はこの騒ぎ。 自分を好きで嫉妬した行為なのか、妹を思うものなのか、はたまた従者としてなのか。 (ワカラナイ) 何もかもがトリスの中でドロドロと渦巻き、考えれば考える程、暗闇に落ちていく気がした。 「いいなぁ、ナツミは…」 「――――何が『いい』って?」 「っきゃ、ネ、ネス!?」 トリスの過剰な反応に、いささかムッとするネスティ。 だが、数時間前の己の暴挙を思い出し、ネスティは懸命に心の火を静める。 が、相変わらず鈍いトリスには、そんなネスティの心の動きなどまるで分かっておらず、 再びため息をついた。 「うかない顔だな?」 ネスティとしては罪滅ぼし(?)に優しく接しようと、笑顔で話しかけたつもりだった。 しかし、トリスにはそれが能天気そうに見え、何だか分からないが苛々し始めた。 (何にも知らないで) (あたしの気持ち、全然知らないで…!!) ここのところ色々ありすぎて、彼女の心は限界にきていたのかもしれない。 「全部ネスが悪いのよ」 「な…?」 「ネスがミニスのトコには泊まれない、って言うから」 「あれは…仕方ないだろう?僕達は蒼の派閥の一員なんだ」 「先輩達は泊まってた」 「それは…」 「フォルテ達には召喚術使うし」 「うっ…」 段々反論出来なくなるネスティに、トリスはここぞとばかりに不満をぶつけ始めた。 全ては嫉妬心から―――― そんな事など口に出来ないネスティは、仕方なくトリスに言われるが儘にしていた。 しかし、普段ネスティの反論無しに文句を言えた事のないトリスである。 言い慣れないためか、その内容はどんどんずれていく。 派閥にいたら恋も出来ない、とか、ファーストキスがまだだ、とか…終いにはそんな話になっていた。 そんなトリスを見て、彼女もやっぱり女の子なんだ、と、微笑ましく思うネスティだったが、エスカレートしてくる内容に、徐々に笑いを堪えられなくなってくる。 笑いを堪え、肩を震わす兄弟子に、むう、と膨れるトリス。 「何よぉ…」 トリスはいじけて、プイ、と顔を背けた。 そんな些か子供っぽい言動に、ネスティの心は揺れる。 (義父さん…貴方との約束を破る僕の不甲斐無さを、どうかお許し下さい) ネスティは義父であるラウルに、心の中で断りをいれた。 「…そうだな。ご主人様の願いを叶えるのも僕の務めだな」 「!その言い方はやめてって言っ―――――」 静かに触れる吐息。 熱い唇。 痺れる様な感覚が体中に広がり、トリスは目を閉じる。 (夢にまで見たキス) (大切な…大好きな人との、キス) 幸せな気持ちだった。 世界中で今、一番幸せじゃないかと思えるほどに。 目を開けるとネスティが優しく微笑んでいた。 互いの目が合い、えへへ、と照れ笑いを浮かべるトリスを、ネスティは強く抱きしめる。 こんなに近い距離にいるのは幼い頃以来だ。 派閥に来て、トリスがネスティに馴染み出した頃、いつも二人は近くにいた。 しかし、ネスティが彼女を特別に想えば想うほど、彼は彼女を遠ざけるようになる。 (傍にいれば、いつか彼女を傷つけてしまうかもしれないから―――――) そうして互いの距離は離れてしまった、けれど、二人の気持ちはあれからずっと変わらず、ここにある。 ネスティは幼い頃そうしたように、腕の中にいる彼女の頭をゆっくりと撫でた。 「あたしね、ずっと、ずっと、ネスが好きだったの」 「…僕も同じだよ。ずっと…な」 ネスティの腕の中から顔をあげると、途端に、優しいキスが降ってきた。 唇が触れた額にトリスは手をあてる…が、しかし。 彼女は照れ隠しに、言ってはいけない台詞を口にしてしまう。 「さっきもちょっとドキドキしたけど、やっぱりネスがいいや」 嗚呼、トリス…。 君はなんて事を言ってしまうんだ……。 運がいいのか悪いのか。 ここフラットには、出歯亀するような人間はいない。 その事を知ってか知らずか、ネスティはキラリと光る眼鏡の奥で、ニッコリ微笑んだ。 「そうだ。消毒するのを忘れていたな?」 言うや否や、トリスの頬にキスをする。 ソルにキスをされた、その場所に。 「しょ、消毒って…ね、ネス?」 トリスがネスティの暴走に気付いた時にはもう遅かった。 後ずさりするトリスに、爽やかな笑顔を向けるネスティ。 「まだだ」 「ひゃ……!」 唇の触れたその位置は、全神経が集中しているかのように熱い。 首筋へのキスに、体中の力が抜けてしまいそうになるのを、トリスは懸命に堪えた。 やけに長く感じられた数十秒を何とか耐え、もう終わりかとホッと安堵の息を漏らす。 …だが、兄弟子の勢いは止まらなかった。 もしかして、遅効性の茸でも食べていたのかもしれない。 「そういえば、ナツミの世界ではこういう習慣があるそうだ」 そう言って微笑むネスティの笑顔は、さっき暴走したソルにとてもよく似ていた。 (うう…ネスの目が本気だよぉ…) トリスは自分の身に起こるであろう未来に恐怖した。 翌日。 やけに機嫌のいいネスティを皆は不信に思い、何度となくトリスに問いただす。 が、彼女は曖昧に笑って答えを濁し、ケイナ達の不信感を更に煽った。 まぁ、その時の彼女の手が決まって胸元を押さえている事に気付くまで、そう時間はかからなかったのだが。 END
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