見渡す限りの深淵。闇の世界。
溶けていく意識の中に、浮かんでは消え、消えては浮かぶ一人の少女の姿。
飲み込まれそうな闇に、最愛の人への想いがこの世界で自我を保たせてくれる唯一の力だった。
「……よぉ、まだくたばっちゃいねーか」
「……何を今更。第一、ここにいる時点でもう、生きちゃいないだろう」
「ケッ…相変わらず口の減らねー野郎だ」
「お互い様だ」
「違いねぇ」
聞こえるのは互いの声だけで、あとは何も見えない。
魔王と呼ばれるソレに飲み込まれてから、一体どれだけの時間が過ぎたのか見当もつかなかった。
ここでは時間の感覚そのものが無いようだ。尤も、それを確かめる術は無いが。
身体は後ろから羽交い絞めにされているかのような拘束感があり、身動き一つとれない。自分が呼吸しているのかどうかすらあやふやで、時折深呼吸して確かめたりする。
バノッサを救おうと、自ら魔王に取り込まれたソルだが、様々なモノを飲み込んだその力は、バノッサと二人がかりでやっとその動きを止められる程、強大だった。
押さえ込むのが精一杯で、どうにも自分達がそこから出る事は出来ない。
「……悪ぃな……テメーだけで何とかするつもりだったんだが…」
「いや。俺も償わなくちゃならない事が山程ある……だから気にしないでくれ」
きっとこれは未来永劫、永遠に続く業だと。
自分達のしてきた事へのせめてもの償いだと、そう、二人は覚悟していた。
『生』に未練が無いわけではないが、それ以上に守りたいものが、大切なモノがあったから。
それを守ろうと、守り続けようと固く心に誓っていた。
しかし。
「中にいるんでしょ! ソル!! バノッサ!!」
「なっ、――――」
「は…ぐれ野郎…か?」
闇の中に届く、懐かしい声。
静寂の空間に凛とした音が響き、空気を震わせた。
「聞こえてたら待ってて! ううん、聞こえなくても今そっちに行く! 助けに行くから!!」
突如闇の中に現れた光は映像となり、外の光景を映し出す。
その中にいたのは夏美と、カノンと、そして―――――もう一人の自分だった。
「馬鹿な……何をやってるんだ、あいつらは…!」
「カノンか……くそっ、あのバカ野郎が……!」
動かない巨大な魔王と呼ばれる怪物。
眠っているのか死んでいるのかまるで分からないソレを前にし、夏美は緊張に息を飲む。
「…多分、お二人で魔王の意識を抑えているんだろうと思います」
カノンの言葉に軽く頷くと、夏美は意を決し、前へと進みだす。
きっと。
多分、絶対。
中に入るしか二人を助ける手段はない。
自ら魔王に取り込まれるしか。
その時、歩き出す夏美の腕が不意に捕まれる。
振り返るとそこには険しい表情の想が、彼女を見つめていた。
「……大丈夫。戻ってくるから」
「……絶対、だ」
「……うん…約束する」
互いに言葉にせず、黙って小指を結ぶ。
ゆっくりとその指を離す夏美に対し、離れていく指を名残惜しそうに見つめる想。
夏美は決心が鈍らないように、バッと後ろを向き、そして再び歩き始める。
魔王のもとへ。
近づくたび、夏美の身体は徐々に黒い靄に包まれて見えなくなっていく。
目を凝らそうと瞼を擦った後、既にそこには彼女の姿は無かった。
「なに……コレ…」
魔王の内部は、一筋の光も通さない、まさに暗黒の世界だった。
胸を締め付けられるような、苦しみと悲しみ。
それらは全て取り込まれた生き物達の悲痛な叫びと想いだった。
だが、それに負けては進めない。
二人も、そしてこの中に居る者達も、誰一人助けられないのだと、夏美は自分に言い聞かせる。
「待ってて。キミ達も絶対に助けるから…元の世界に帰してあげるから……!」
瞬間、夏美の声に、視界が開く。
暗闇が取り払われ、その先に見えたものは。
絶叫する少年と、地に横たわる女性の姿だった。
『どうして…なんであんな奴らを母さんが庇って…!』
少年の声に女性は答えない。
…どうやら既に、息絶えているらしい。
『なぜ母さんだけこんな目に遭うんだ…あんな欲の塊の人間のために母さんが犠牲になる…』
『こんな世界を守るために、母さんは……』
『こんな、こんな人間のいる世界なんて……』
少年の思考がどんどん流れ込んでくる。
それは悲しみ。
底のない絶望。
その思いが深く沈んでいくたび、少年の身体は黒い何かに包まれていく。
(ダメっ!! そんな風に考えちゃダメ!!)
『こんな世界なんて滅んでしまえばいい―――――』
夏美のその叫びが彼に届くことはなかった。
少年の瞳から涙が消え、そしてあっという間に、その姿をオルドレイク、その人へと変える。
高らかに笑いあげる声。
それはオルドレイクがその心を狂気へと変えた、その瞬間の情景だった。
気付くと夏美はまた、闇の中にいた。
「あれが……あの人をあんな風に変えた原因…」
突然の出来事に、思考が追いつかない。
その時、暗闇の中に女性の声が響く。
『……貴女に出来る?』
夏美は振り向くことも、顔を上げることもしない。
『貴女に救える?』
夏美は答えない。
『人間の醜さに愛する者を失って、あの子は…オルドレイクは変わってしまった。悪魔に心を売ってしまった。そんな彼を、貴女は』
「……それでも、それでもあたしはやらなくちゃいけないんだ。オルドレイクだけじゃない。ここにはたくさんの悲しい思いをした人がいるんだから…」
顔を上げる夏美。
その表情に意志の強く、迷いの無い、あの瞳を浮かべて。
「だから」
夏美は目の前に立つ女性に向かい合う。
先程倒れていた、彼の母親の姿と同じ彼女に、夏美は大きく息を吸い込む。
「――――その人の魂を解放しなさい!!」
『ぐあぁぁぁぁあっっっ!!』
夏美が腕を伸ばすと白い光が彼女に直撃する。
もがき苦しむ女性の姿。
『な、なぜ……』
「……あんたの身体から、さっきオルドレイクを包んだ黒い靄と同じ臭いがプンプンすんのよ! 誤魔化されるもんか!!」
『くっ……!』
逃げようとする女性に夏美は続ける。
「っ! エルゴ達、お願い、力を貸して!!」
―――制約者"リンカー"よ。
―――そなたの願い、確かに聞き遂げた。
―――世界の調和のため、力を貸そう。
―――我らが後に続かれよ。
「――――その光、混沌の世界を繋ぐ導きの路。
輪廻の理に従い、全ての迷える魂を在るべき場所へと還せ。
紫紺にサプレス、碧にメイトルパ、黒のロレイラル、そして紅きシルターン。
誓約者たる "ナツミ" が汝らの力を望む。悠久たる時の流れに乗り、四界の扉よ開け!!」
夏美の身体から膨大な力が放たれ、眩い光に辺りは包まれていった。