〜第四夜〜



「出てきなさいよ、卑怯者!サプレスのエルゴを開放しなさい!!」

夏美は叫ぶ。
悪態をつけば頭にきて出てくるだろうと、ソルの制止を無視して叫び続けた。
「何よ、弱虫!泣き虫!役立たず!!」
そんな子供の喧嘩の様な罵詈雑言、ぶつけたところで普通は出てこないだろうと、ソルはいい加減夏美を止めようとした。
が。

『…黙っていれば好き放題言ってくれる…』

予想に反して子供騙しの作戦?に引っかかる相手だったが、暗闇から現れたその姿に二人は絶句する。
「なによ、その姿…」
元は天使だったかもしれないその姿は、今や天使とも悪魔とも形容し難い、醜い異形の者へと姿を変えていた。その身体から放たれる強い悪臭に、夏美は思わず息を止める。
彼が腕を一振りすると、眼下の大地…遠く十数キロ先まで亀裂が走った。
『どうした?私のこの強大な力に驚き、声もでぬか?ハハハハハ…!』
高らかに笑う声の主。
きっと自分が今、どんな姿でいるのか分からないのだろう。
元は美しかった白い翼も今や朽ち果て、みすぼらしい、黒く、ほぼ骨格だけの小さな翼を残すだけだ。
「そうまでしてアンタが守りたい世界って何だ?力で統べる…力で支配する世界か!?」
『何を今更…貴様ら人間の戯言などもう聞き飽きたわ!!―――我らの力を戦争の道具にした、浅ましい人の子よ』
ぐっと詰まるソル。
しかし夏美はその言葉に躊躇する事無く、異形の堕天使に対峙する。
「そうかもしれない。でもさ、あなた、力を使うたび体がボロボロになっていってるの、分かってるの?ほら!!」
夏美がポケットから取り出した小さな鏡。
そこには元の美しかった天使の姿の面影も無い、醜い姿が映し出されていた。
その身体にエルゴを宿すには魔力の器が小さく、耐えられなかったのだろう。
「力って誇示するものじゃないでしょ?守るために使うんでしょ?…天使の貴方なら分かってるハズでしょ!?」
しかし。
夏美の必死な叫びも、もう届かなかった。
すでにその強大な力に魅入られてしまった彼には、その変わり果てた身体と同じ様に、天使の心など残っていなかった。
『…ふ…ふふ……これも "人の子の呪い" か……ふははははっっ!!サプレスを統べる私に相応しい体だ。構うものか、この体朽ち果てようと "マナ" さえあれば…!!』

もう元の彼には戻せない。
人が悪魔や鬼に憑かれたのと違い、彼は自ら変化を望んだ。
自ら狂気の道を望んだのだ。
彼を救えるとしたら、方法は一つ。
その身に宿すエルゴを開放する事。
そうして、もう罪を重ねさせない事。




―――あとは輪廻の輪の導くままに――――




覚悟を決めた夏美だが、ふと、バノッサとカノンの姿がよぎった。
この堕天使も、あの二人のように結局は利用されただけ。
身勝手な誰かの犠牲になっただけ。
それなのに、倒さなければならない。
(ごめん、バノッサ、カノン…また…また同じになっちゃったよ……)
夏美はやり切れない思いに目を伏せた。

「――アストラルバリア!!」

突然周囲が眩い光に覆われる。
我に返った夏美の目の前には、両手を前に突き出し、反魔の壁を作り出すソルの姿があった。壁は一度だけ魔法を弾くと、音も立てず静かに消滅する。
「今は考えてる場合じゃない、集中しろ!!」
目の前にある背中は、レイドの様に大きくも、エドスの様に逞しくも無い。
だが、夏美にとって一番安心できる背中だった。
(貴方がいてくれるから、あたしは強くなれる…)
夏美は意識を集中させる――エルゴを呼ぶべく、深く、深く、その意識を沈め―――

(聞こえる…?聞こえたら返事をして!サプレスのエルゴ!!あたし達、貴方の傍まで来たよ?)

返事は無かった。
だが、それでも夏美は呼びかけ続ける。
エルゴの意識までもが乗っ取られていない事を信じて。

『何をしようと無駄な事。エルゴの力は既に我が内にある』
「さぁて、どうだろうな?」

ソルの得意とする霊属性の召喚術は、サプレスの住人相手に効果が薄い。
しかも夏美の意識がここにない今、彼女をも守らなくてはならない。
彼は慎重に相手の動きを待った。
『貴様が守ろうとする世界はそれ程価値のあるものか?…尽きる事無き欲望の渦巻く世界…我らよりタチが悪い』




そう。
だから壊そうと思った。
壊して新しい世界に作り変えようと思った。
人間の醜い部分ばかり見てきたから。

けど。

違ったんだ。
ナツミに会って、色んな人間を見てきて―――自分の間違いに気付いた。
信じてもいい人達に出逢えた。
だから……だから守りたい。
大切な人達が住む、この世界(リィンバウム)を。



世界で一番大切な少女を……






突如、目の前の堕天使が苦痛に蠢き、叫んだ。
何が起こったのかと身構えるソルだったが…
「お待たせ、ソル!」
後ろから響く夏美の声に、ソルは納得する。彼女が何かしたのだと。
「随分かかったな」
振り向かずソルは言う。
「あ、ひっど〜い!その言い方!これでも急いだんだから」
ぷぅっとむくれる夏美の様子を横目で見ながら、ソルは思った。
失いたくない、と。
愛しい者を見る、そんなソルの視線に気付いた夏美は、照れたようにエヘヘと笑った。
ソルはそんな夏美に優しく微笑むが、すぐにその視線を前方の敵へと移す。
「守りは俺に任せろ。お前は……楽に、してやれ」
堕天使へ目をやる夏美。
彼の表情は苦痛に歪み、憎悪の眼差しをこちらへ向けていた。

背筋が凍る。
恐怖が身体を包む。
夏美か怖いのは目の前の彼ではない。
彼をあそこまで変えてしまった人間に対してだ。
「ごめんなさい…ごめんね……今…ラクにしてあげるから…」
夏美はこんな方法でしか救えない自分の無力さが辛かった。
ポタ、ポタ……
夏美の足元の地面が、雨跡のように濡れた。



(優しいナツミ。)
(そうやってお前はいつも悩んで、苦しんで、泣く……)
(だが――――)



「一人で背負わなくていいんだ」
「…え?」
ソルは夏美の手を取った。
「お前の罪は俺の罪でもあるから」
短い言葉の中にある優しさに、夏美の涙は止まる。
しっかりと頷く夏美の表情に、もう迷いは見えない。
ソルの手をしっかり握り締めて、夏美はサプレスの大地で叫んだ。

「至源の時より生じて悠久へと響き渡る、この声を聞け!誓約者たる "ナツミ" が汝の力を望む―――サプレスのエルゴよ!その内なる力を解放し、拘束の鎖を解き放て!!」

夏美の声に反応し、堕天使の体が光を放つ。
…いや、正確には "体の中" が光を放っているのだ。
彼の内にあるエルゴの覚醒(めざめ)―――それは彼の体の崩壊を意味した。

眩しい光に目が眩んだのも一瞬。
だが、そのほんの一瞬で全てが終わっていた。
かつて堕天使だった者がいた場所には、天使が一人、地に横たわっていた。
まるで眠っている様に。
夏美とソルは何も言わず、召喚術を用いて彼の体を埋葬した。
小さな丘が出来た頃、二人の前にやってきたエルとガルマは事の経緯を聞き、ただ『ありがとう』と、それだけ言った。それ以上会話する事は、夏美を傷つけてしまうから。
エルとガルマは指揮官を失った集団と一気に決着をつけるのだと、二人の元を慌ただしく去った。『私達の力が必要な時は、いつでも喚んで下さい』と、言い残し。
んー、と背伸びする夏美とそれを見て苦笑するソル。

「さて…これでリィンバウムも落ち着きを取り戻すだろう」
「そうだね!じゃ、帰―――」
「…?どうした?」

そこまで言って、夏美の言葉は止まる。
自分は何処へ帰ろうと云うのだろうか。
リィンバウム?
それとも自分の世界?
異世界で生きるには、あまりに多くのものを捨てなければならない。
家族や友人、楽しかった思い出―――――
(捨てられないよ…でも……)
しかし現実へ戻るという事は、隣にいる愛しい者との別れを意味する。

(来てくれた時、もう二度と離れたくないって思った。)
(違う世界でお互い想い合うのは、もう嫌だって思った。)
(どうしたらいいの!?)

胸が締め付けられるような思い。
夏美の苦悩。
しかし、そんな夏美の肩に優しく手を乗せ、ソルは言った。
「さぁ帰ろう、ナツミ。 "お前の世界" へ」
「ソル…?!」
困惑顔の夏美にソルは呆れる。
「何回言わせりゃ気が済むんだ。俺の居場所はお前の隣だ…それがリィンバウムだろうと、異世界だろうと、な」
ソルの気持ちは最初から決まっていた。
生きながら死んだように暮らしてきた自分が、初めて生きる事が楽しく思えた。
嬉しかった。
彼女の傍にいることが。
何が起きても守ろう、と、そう心に誓った。
だから―――傍にいたい。
もう離れ離れでいるのは沢山だ、と、ソルは言った。
確かに現実に戻れば問題は山積みだ。
それでも。
二人の気持ちが一緒なら。
「そうだね。あたしももう、離れ離れは嫌だよ」
夏美が微笑む。
ソルは夏美を引き寄せ、そして強く抱きしめた。
「…お前に会えない間、気が狂いそうだった…!」
ソルの声が耳元で低く響く。



現実世界に戻ってから。
心にポッカリ穴が開いたみたいだった。
いつも何かが足りなかった。
あの空虚感。
まるで自分の半身をリィンバウムに置き忘れたような。
そんな感覚。



「ずっと一緒だよ、ソル…」
「…あぁ……」

夏美はゆっくりソルから離れ、そして恥ずかしそうに微笑んだ。
ソルの笑顔に見守られながら、夏美は現実世界へのゲートを開く。
「―――名も無き世界へ通じる路よ…誓約者の名に於いてナツミが命じる…我の作りし結界を今ひとたび開放し、我の在りし世界へと我らを導く光となれ!!」
ソルと旅立った時と同じ様に、空間に穴が開いたように見える。
少し違うのは、全身がかなり気だるい、という所だ。
どうやら魔力の消耗が激しいらしく、今、夏美の体に殆ど魔力は残っていなかった。
(ソルってば…こんな凄いことやってたんだ…)
感心しながら振り返る夏美。
しかし。

「―――どけっっ!!ナツミ!!」






あたしは何を見ているの?


あれは何?

これは現実?

夢じゃ……ないの?


どうして、ソルが――――――





「…ぐ、はっっ…!!」
夏美は地面に座り込んでいた。
何が起こったのか、理解出来ないほどその意識は混乱している。
目の前に広がる血の海。その先にいるソル。
彼は一本の剣によって、その身を貫かれていた。

「…い……い、いやあぁぁぁぁぁ〜〜〜っっ!!」

夏美の劈くような叫び声が辺りに響く。
『女を庇うか…クク…どうせその女もお前も殺すのだから、意味はないというのに…クックックッ!!』
ソルは薄れそうになる意識を何とか保とうと、その身に刺さる剣を一気に引き抜いた。
「―――ぐぁっっ!!」
そうしてゆっくり声の主に視線を向ける。
「な……!馬鹿、な…」
ソルは自分の目を疑った。
何故なら視線のその先には、先程死んだはずの堕天使の姿があったからだ。
白い羽は、今やソルを刺した返り血で赤く染まっているが間違い無かった。
だが、おそらくもう魔力は使い果たしているのだろう。続けて攻撃を仕掛けてくる様子は無く、立っているのがやっと、という感じだ。恨みの念だけが彼を動かす原動力であるかのようだった。
ソルは自分の血で染まった手をジッと見つめ、そして夏美を見る。
彼女はまだ現実を直視出来ず、座り込んだままだった。
声をかけようとしたその時、ソルの目にある光景が映る。
それは消えかけたゲートの姿だった。

(夏美の魔力が消えかかって、ゲートが閉じようとしているのか…!?)

目の前の敵を倒す前に、このゲートは閉じてしまうだろう。
夏美の魔力はほぼ無いに等しく、自分の体も、もう―――――
ソルは首から下げた十字架の鎖を引きちぎり、空高く放リ投げた。
「―――ポワソ!!」
ソルが叫び、霊獣が召喚される。
フワフワと愛らしく漂うソレは、主に近寄り、その命を受けコクリと頷いた。
ポワソはその見かけとは裏腹に、強い力で夏美の体をゲートまで押しやる。
夏美がそれに気付いた時には、すでにその体の半分以上がゲートに押し込められていた。
「やめて!離して!!…ソル、嫌だ、ソル―――ッ!!いやぁああああっ!どうして、どおしてよ!もう離れないって、一緒にいるって言ったじゃない!……嫌ぁ〜〜〜〜っ!!」 
夏美が最後に見たソルの姿は、堕天使に召喚術をかけ灰にする姿だった。





召喚術の炎に照らされ、その光景はあまりにも幻想的で。
一瞬、現実じゃないように感じた。
ソルが笑って振り返ったから。
ごめん、と、かすかに唇を動かして。
あたしは涙が流れてる事にも気付かなかった。
あとは暗闇と静寂があたしを包んだ―――――――





ソルはゲートが閉じ、光に包まれ消える夏美の、そんな光景を薄れゆく意識の中で見た。
もう、痛みも何も感じない。
だが、顔にあたる水滴に、ソルは閉じかけていた瞳を開ける。
そこにいたのはポロポロと涙をこぼす霊獣だった。
ソルは心配そうに主を覗くポワソの頭を撫でてやる。
「……ありがとな、ポワ、ソ…」
しかし、徐々にポワソを撫でる力が弱くなり、スルリと地面へ滑る。


『きゅうぅぅぅ―――――――』


サプレスにポワソの悲しげな声が響く。
しかし、閉じられた瞳はそのまま。
もう、二度と開かれる事はなかった―――――――――




















「……さん……橋本さん!!」

夏美が目を開けると、そこには同級生の深崎籐矢がいた。
夏美と目が合い、彼は心底ホッとしたようだった。

――――見渡せば、いつもの教室。
――――いつもの風景。

何だ、夢だったのか、と安心する夏美。
だが、床にこぼれた鎖と十字架のペンダントトップが彼女の視界に入り込んだ時、夏美の記憶は急激に引き戻される。




 ……ナツミ…… 




「……
や、…いや……

夏美の様子がおかしい事に籐矢は気付く。
一点を見つめ、動かない夏美。
「橋本さん!橋本さん!!」
夏美には他の誰の声も届かない。
今聞こえるのは、頭の中に響く、愛しい人の声―――ソルの呼ぶ声だけ。
しかし浮かぶ姿は、血まみれで自分の盾になる、最期の姿だった。
「嫌あぁぁぁぁぁ〜〜〜〜っっ!!!ソルっ!ソルっっ!!」
目の前に広がるのは、悪夢のように繰返される情景。
取り乱す夏美を何とか静めようと、籐矢は彼女の両肩をがっちり掴み無理矢理に視界に入るようにした。

「大丈夫だから!さっきの男ならここにいるから――――」

夏美の動きが止まる。
瞳に光が戻り、ゆっくりと籐矢と視線を合わす。
まだ虚ろだが、籐矢はそれを見て静かに微笑んだ。
「…大丈夫、嘘じゃない。さ、行こうか?」