向こ - キミがいちばんほしかったもの -






3






『 あなたがいらないなら、あたしがもらうね 』

頭の中に響いたのは、自分ではない自身の声。
そして目の前からネスティは消える。
まるで初めからそこには誰もいなかったかのように、何の痕跡も残さず。




「で、トリスはそのまま気を失ったのね」
「はい…あっという間で、あたし達も……」
ミモザの問いにアメルは小さく、呟くようにそう答えた。
ベッドで眠るトリスに二人は目をやる。
いつもであれば誰よりも彼女を心配し、守るべき人物がここにはいない。 彼の不在が事態の解明を困難にさせているのだが、この状況下ではトリスの覚醒を待つ他無かった。
「他には何も?」
「悲鳴に驚いて行った時には、もう…」
全く分からないというように、アメルは首を振る。 認めたくは無いがどうしても最悪の事態を考えてしまう。 痕跡を残さず目の前から人が消えるなど、それ以外にありえない。
そう。
彼が『召喚』されでもしない限りは。
「そう…。で、ミニスは何か見なかった? さっきから黙ったままだけど」
ミモザが視線をやると、瞬間、ミニスは身体を硬直させる。何かに怯えているかのように俯き、自分の身体を抱きしめる よう両腕に力を込めた。
「…あ、……あた…」
意味を成す言葉にならず、それでも何かを伝えようと懸命に口を開く。 小さな身体が小刻みに震え、顔色も一層悪くなるように見えた。
まるで恐ろしいものでも見たかのように強張る表情。
「ミニス、言い難ければ無理に話す必要はないのよ? 落ち着いてからでも」
それでもミニスは荒い呼吸を何とか鎮め、途切れ途切れの言葉を口にする。 彼女の手は血が滲んでもおかしくないほど強く、固く握られていた。
「…ふたり、…だった…の……」
「え?」
「……だから…ネスティが消える瞬間、いたの……もう一人……」
感情を交えず、事実のみを伝えようと必死に声を絞り出す。
「もう一人、トリスが」
トリスからネスティを奪った人物の姿。ミニスがその視界に捉えた人物は紛れも無い、トリス―――彼女自身であった。
元々、今日という日にトリスの所へ遊びに行こうと約束をしていたが、驚かせようと本人には隠していた。 無論、ネスティにも秘密で。
ただ、驚かせ、そして笑顔を見るつもりだった計画は、女の子らしいといえばらしいもので、それはたわいも無い悪戯のようなもの。 だが、屋敷を訪れた彼女らを迎えたのは笑顔ではなく、耳を劈くような、絶望にも似た悲鳴。
慌てて声の出所に駆け寄るが時既に遅く、トリスは気を失い倒れ伏していた。無論、真相など分かるはずも無かったが、しかし。
トリスに意識を集中しているアメルは気付かず、代わりにミニスがその目に捉える。
第三者の魔力がまだ残っていた事を。
薄っすら靄のかかった向こうにいるものを。
ネスティを連れ去ったその影がトリスの姿をしていたのを。
「そんな…それじゃ、トリスさんは自分自身にネスティさんを連れ去られたって事に…」
「間違いなくトリスだったのね?」
頷くミニスに、『これは私達だけでどうにか出来る問題じゃないわ』 、と呟くミモザ。 いつもの余裕が消え、焦りと苛立ちが混じった複雑な表情で二人を見つめる。
「おそらく総帥のお力を借りる事になると思うけど……はっきりした事が分かるまで、トリスを宜しく頼んだわよ。 こんな風にネスティが居なくなって…この子も凄く動揺してると思うから」
二人は声も無くただ頷き、ドアの向こうに消えていくミモザを黙って見送った。
その後トリスが意識を取り戻したのは、大分夜も更け、月が空の真上に昇る頃だった。
「…ん……」
ゆっくりと開かれる瞼の向こうに映ったのはいつもの光景。いつもの天井。見慣れた部屋の中、 ただひとつだけ違うのは黒曜石色の優しい瞳がそこに居ない事。
「トリスさん?」
目覚めたトリスに気付いて声をかけるが、虚空を見つめたまま動かない彼女にアメルの心はざわめく。 ミニスの言う事が本当であったら、トリスは自分自身にネスティを目の前で奪われた事になるのだから、その衝撃は想像に難くない。
「…ねぇ、アメル…」
「はい?」
「…あたしってほんと、馬鹿だよね…いっつもいっつも…ネスがちゃんと教えてくれてるのに…あたしが傷つかないですむように、 ちゃんと考えてくれてるのに……自分の意思ばかり通そうとして、結局………ネスを傷、つ…けて…さ…」
熱い涙が頬を伝って流れ、枕を濡らす。
瞳を隠すように両腕を上げて顔を覆うトリスに、アメルは黙って彼女の髪を優しく撫でた。 母親が子を慈しむように、ただ優しく。傷ついた心を癒すように。
まるで身体中の水分を涙に換えるかのようにトリスは泣き続け、そうして疲れて眠った頃、 辺りはうっすらと夜が明け始めていた。


「…ん、……スさん」
聞き覚えのある声が耳に響く。
だが瞼の重さに目が開かないし、身体はだるいし、で、起きる事が出来ないトリスはそのまま惰眠を貪ろうと決め込む。
「…リスさん、トリスさぁん、起きてくださいの〜」
だが相手も諦めない。声はどんどん大きくなり、身体をゆすって必死に起こそうとする。 向こうも必死ならこちらも必死とばかりに布団をかぶり直すトリス。が。
「おーい、トリス。もうお昼だよー。早く起きないとトリスの分も食べちゃうよ?」
「うえっ、ちょ、ちょっと待ったー!」
いつものクセか、さすがにこの台詞は聞き逃せずに飛び起きる。
「あ、あれ…?」
「おはよ、トリス。久しぶりー」
そう言ってにっこり笑う少女は、サイジェントで出会い、共に大悪魔を封印した 誓約者(リンカー)と呼ばれる少女ナツミ。そして先程までトリスを揺さぶり続けていたのは、 ナツミと誓約を交わしたレビットのモナティだった。
目の前に立つ懐かしい顔ぶれに言葉が出てこない。
「あたし達が来たからにはもう大丈夫。このナツミちゃんにまっかせなさーい!」
「そうですの! マスターにどんとお任せですの〜!」
「あ、あの…二人とも、どうしてここに…?」
混乱する頭に思考が追いつかない。
その時。
「おいおい、二人共。トリスが固まってるだろ?」
盛り上がる二人を優しく制したのは、自分とそう年の変わらない少年だった。
「ソル、まで…?」
ナツミのパートナーであり、護界召喚師の名を持つソル・セルボルト。 その彼までが来たという事は…と、結論づけようとしたトリスの頭をクシャクシャと勢い良く 撫でる手があった。
「こらこら若人〜? このメイメイさんを忘れちゃいない〜? にゃはははは☆」
甲高い声と酒臭い息にトリスは顔をしかめるが、そんな事はお構いなしに酒飲み道士メイメイは トリスを力いっぱい抱きしめ、その豊満な胸で顔を押さえつける。
「め、メイメイさん、苦し……」
トリスの言葉は文字通り、その胸に飲み込まれるのだった。
「さぁて。じゃ、何から説明したらいいかしらねぇ〜。そっちのリンカーさん達にはあらかた説明は済んでるんだけど、 トリスもいることだし、もう1回説明する?」
状況がいまいち飲み込めず疑問符を浮かべるトリスの肩を軽く叩き、ナツミは『そうしてくれる?』と告げる。 メイメイは頷くと、戸惑いに揺れるトリスの瞳に視線を向けた。
「まず〜、ネスティは他の世界の人間に誓約を結ばれて、トリス、貴方の前から居なくなった。と、ここまでは分かるわね?」
途端に表情が強張る。分かってはいるが改めて言葉にされるとその衝撃は胸をえぐられるような痛みを与える。 だが、メイメイは続けた。彼女にとって残酷であっても事実を隠さず伝えなければならない。 そうしなければトリスだけでなく、他の沢山の人間も不幸になるのだ。
そう、トリスからネスティを奪った別のトリス。彼女自身さえも。

四世界の中心、輪廻の輪から外れた世界であるリインバウム。
トリス達の住む世界がそれであるのだが、しかし ナツミの生まれた世界もまた別のどこかに存在しており、ひと括りには出来ないのが実情である。
「でもね、世界っていうのはそれだけじゃないワケ。例えばぁ、あの時こうしてたら未来は違ってたかもしれない、って思う事、あるでしょ?」
「あ、はい」
「それは人生の分岐点なワケだけど、実はその可能性の数だけ未来は別に存在してる…例えばトリス。貴方がモナティじゃない、別の 召喚獣を呼び出していたとしたら……どうなってると思う?」
「どう、って言われても…」
「……あたしとの接点が無くなるから、あの悪魔とは別の方法で戦ってただろうね」
戸惑うトリスに代わり答えたのはナツミだった。
「! そ、そっか…モナティがいたからナツミ達に出会えたんだもんね…」
「んー、まぁミモザさんとかカイナとか、そっち経由で知り合えたかもしれないし。実際のところはわからないんだけどさ。 可能性としては考えられるでしょ?」
「可能性……、まさか…じゃあ」
トリスの表情が徐々に青ざめていく。
「そう。誓約して貴方からネスティを奪っていったのは、別の未来を進んだ、もう一人のトリス。貴方ってこと」
だから困っちゃうのよね、とメイメイは付け足す。
「そーいう事情の上にぃ、更に相手の魔力の強さがハンパじゃないでしょ? こっちから簡単に手出し出来ないのよね〜」
「それなら、あたしが…!」
トリスの申し出にメイメイは首を振る。
「ダメダメ、貴方じゃ力が均衡しちゃってるし、第一、同じ世界に同じ人間が存在するには制限もあるし。干渉出来る方法も 限られてるってワケ」
「でもじゃあどうしてネスは……まさか……」
同じ人間が存在出来ない以前に、ネスティを連れていく理由が彼女にあるとしたら、 それは。
「……あっちの世界にネスは居ない、ってこと…なの……?」
考えてみれば単純な話だ。
向こうに彼がいれば、あえてこちらのネスティを召喚する必要など無いのだから。
どんな結末を迎えたのかは不明だが、ネスティを失ったトリスがとった行動が今回のこの事件の全容なのだろう。 他の世界の自分を思い遣る余裕も無い程の、そんな未来。
「あ、あたし…どうしたら…」
今の自分では無いとはいえ、自分自身の行動に恐怖を抱く。
もしこのまま自分もネスティを失ったままでいたら…彼女のように 別の世界にいるネスティを召喚し、誓約して己の下に縛り付けてしまうのではないか。 そしてまた悲しむトリスを生み出し、悲劇を繰り返すとしたら。
「落ち着いて、トリス」
「え…?」
震えるトリスの手を取り、両手で包み込むように重ねる。
「大丈夫。あたし達がネスティを、キミの大事な人を助けてみせるから」
そのために来たんだから、とナツミは太陽のような笑顔を向けた。
「…俺達は元々この世界の住人じゃない。今も時々召喚の門を通ってこの世界に来ているだけだ。 だから向こうの世界の俺達も同じように時を過ごしているはずなんだ」
「そ。あとはメイメイさんにあたし達が居るかどうかさえ調べてもらえれば」
「はいですの! あっちのマスター達が居ない隙に、お二人で突撃するんですの〜!」
ナツミの手の上に更にソル、モナティの手が乗せられる。
まるで三人分の元気を分けてもらったかのように、心までもが温かい。
「…絶対に助けてみせるから……諦めちゃダメだよ、トリス」
「うん…ありがと、みんな…!」
トリスは熱くなる目頭を服の袖で力任せに拭い、パッと顔を上げる。
その強い瞳の輝きに三人は目を合わせて頷く。
「さぁて。話もまとまったところで準備にとりかかるわよ〜?」
メイメイだけはいつもと変わらない口調で笑みを浮かべ、景気づけに、と、トックリから一口含むのだった。

ネスティを別世界から誓約を解除して連れ戻すためには方法として3つある。
一つは誓約した人間が自分から解約し、送還すること。
一番平和的な解決法だが向こうのトリスがとった行動を考えると、簡単に誓約を解除するとは思えない。
二つ目は同等か、それ以上の力でネスティと誓約を結び『二重誓約(ギャミング)』の状態を作り出す。
しかし成功しなかった場合、術者だけでなくネスティの身に何が起こるか分からない危険性を孕んでおり、 簡単には選択出来ない。
そして三つ目。誓約者であるナツミの力で強制的に誓約を解除する方法。
エルゴの力を用い、送還術(パーシング)でネスティを元の世界に還す。
だがこの方法は異世界からの干渉は不可能で、対象の傍で実行する必要があった。 そうなれば向こうのトリスが黙っているはずも無く、下手をすれば抵抗した彼女と一戦交える可能性も考えられる。
「トリスが行って説得してもかえって逆効果になっちゃうだろうから、あたし達が行った方がいいって話になったの。 最後の手段の送還術(パーシング)も使えるしね」
それでも異世界の門を通るのとは訳が違う。
異次元に近い世界へと渡るのだ。何が起こっても不思議ではない。
「大丈夫、あたしには有能なパートナーがついてるんだから。ねっ、ソル?」
照れ隠しのためか咳払いを一つすると、ソルは『ああ』と一言だけ言った。
「…とりあえず説得はしてみるが、正直、あまり効果は期待できない」
ソルの言おうとする事は続けなくともわかる。
説得に応じる精神状態であれば、とっくにネスティはこの世界に戻ってきているはず。
そういう事だ。
だが世界を渡るには一つだけ、問題がある。
ネスティのいる世界に意図的に渡るには、彼のように召喚される以外の方法をとる場合"導くモノ"を必要とするのだ。 路を繋ぐものがなければ最悪、目指す世界から外れるだけでなく元の世界に還れなくなる可能性もある。
「ネスティと連絡がとれれば一番なんだけど〜、流石にムリでしょう? だからぁ、あの子の身につけている物でここにある物と 同じものを探して欲しいのよ」
「例えば?」
「んー、"対"になってる物が一番結びつきが強くていいんだけど、それって難しいじゃない? 靴を片方だけ置いていってる人間なんて いないワケだしぃ〜」
確かにそんな人間は居ない。トリスであれば靴下を互い違いに履く、という裏技をやってくれそうな期待もあるが、相手はネスティだ。 天地がひっくり返ってもそんな状況は有り得ない。
「既製品だと他の人間もそれを身につけている可能性が高い。場所の特定が難しくなるな。 もっと数の少ないレアなものでもあればいいが…」
手で口を押さえるような仕草は、ソルが考え事に集中する時の癖だ。
それを見たモナティは、突然ひらめいたのか『そうですの!』と一際大きな声を上げる。
「トリスさん、ネスティさんとおそろいの物は持っていないんですの〜? マスター達みた……、っむぐぅ!」
「モ〜ナ〜ティ〜? 余計な事は言わなくてよろしい」
口を塞がれ、恐怖に怯えた顔でコクコクと頷くモナティ。何とか解放され大きく息を吐く。
「おそろい……あ、そうだ! これ!」
トリスはポケットから"縁結び"と書かれたお守りを取り出す。
「これ、お守りじゃない」
「うん、そう。ネスが召喚される直前に渡したから、多分まだ持ってるはず」
「だが、これなら出回ってる数が多すぎるんじゃないか?」
ソルの言葉にトリスはお守りの紐を解き、中から小さな黒い欠片を取り出した。
「トリスさん、なんですの、それ?」
トリスが取り出したものは黒い輝きを放つ石―――サモナイト石の欠片。 協力召喚の際、暴走して砕けてしまった誓約済の石の欠片。この世に二つとない石の欠片だった。
ネスティに渡したお守りの中にも同様に、石の欠片を入れていたのだ。
「これで問題は解決ね、メイメイさん!」
目を輝かせメイメイに向き直るトリスに、彼女も笑って答える。
「勿論オッケーよ〜? これなら迷う事なくネスティの所へ送れるでしょうね」
(本当に貴方達の結びつきの強さは偶然すら味方にするのね……いいえ、もうこれは運命と呼ぶべきかしら…)
そう言って目を細め、トリスを見るメイメイの眼差しはどこか遠くを見ているようだった。

「絶対助けてみせるから…待ってて、ネス…!」

そうして彼らは大悪魔メルギトスを封じた"アルミネの森"へと向かう。
異世界に囚われたネスティを取り戻すために。

もう一人のトリスから。

あ と が き

……えー、すみません、間空けすぎました…
協力召喚の際に砕けたサモナイト石はここの伏線でした。 いやー長かった。そのためだけにあのシーンがあったようなものですから。
本当はナツミとソル、そしてメイメイさんの話が入るはずだったんですが、 ソルはともかく、ナツミは例え危険だと言われてもすぐに「OK」してくれそうだったんで あまり絡みはなくすんなり進めてしまいました。
(そしてアメルを入れ忘れた…。彼女は次回にはちゃんと入ってますので;)
多分あと2話で完結するはずな内容ですんで、もう少しだけお付き合い下さいね。
しかし見事にネスティのいないネストリ話だなぁ。

05.10.10