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「な、んだ…?」 空耳かと疑いつつも、念のため辺りを伺う。 元々人が簡単に立ち入るような場所ではないため、警戒心など無いに等しかったが、元は悪魔を封じた地。 何があっても不思議ではない。 しかし感じたのは悪魔の気配などでは無く、もっと心を揺さぶるもの。 『ネス……ネスっ…』 心臓が鷲掴みされるかのような痛み。 泣きながら自分を呼ぶ声は、間違いなかった。 「ト、リ……ス…」 名を口にした瞬間、記憶がフラッシュバックするように溢れ出し、彼の記憶の欠如した部分を埋めていく。 マーン家の船でサイジェントへ渡った事。 誓約者達と力を合わせ、メルギトスを封印した事。 モナティの代わりにトリスの護衛獣になる宣言をした事。 そして、愛しい少女の笑顔を。 「うっ…うわあああぁぁあっっ!!」 途端、ネスティは激しい頭痛に襲われ、頭を抱え込むようにしてその場に膝をつく。 頭痛が収まった時、霧がかかっていた頭の中はすっきりと晴れ、ネスティは全ての記憶を取り戻していた。 一つの疑問だけを残し。 「……ここは…何処、なんだ…?」 自分のいた世界ではないが、自分が存在していた世界。 異世界であって完全に異なっていないこの世界へ自分を呼んだのはおそらく。 「ネ、ス………」 「トリ……っ、!」 相当慌てていたのだろう、寝巻きのまま、靴も履かずに飛び出してきた彼女の身体は冷え切り、 足にはいくつもの切り傷があった。 「君は馬鹿か! こんな格好で外に出る奴が…」 彼女を抱え上げ、いつものように小言を言い始めるネスティに、トリスはぐっとしがみ付く。 声を殺して泣くその姿は、まるで、脱走した彼女を連れ戻したあの頃のようで。 「…で……ひとりに…し…いで……」 「……大丈夫だ…僕はここにいる……」 堰を切ったように溢れ出す涙は彼女が眠りに落ちるまで止まる事は無かった。 「……アメル、そろそろ本当の事を話してくれないか」 部屋の中にはトリスを含め、ネスティとアメルの3人がいた。 トリスが泣き疲れて眠ったのを見計らい、ようやくネスティは口を開く。 傷だらけのトリスを抱えて戻ってきたネスティは、足の治療をアメルに依頼はしたものの、 その理由を話そうとしなかった。 そんな彼の様子にアメルも薄々察していたのだろう、 びくりと身体を硬直させはしたが、動揺したり隠したりするような様子は感じさせず、 くるべき時が来た、というような表情で重い口を開く。 「……ネスティさんにお話した事であたしが嘘をついたのは一つだけです」 「嘘? 元天使の君が、か?」 皮肉交じりの言葉だった。 しかし、アメルはそれに反論も肯定もせず、淡々と話し続ける。 「バルレル君はあたしではなく、トリスの護衛獣です。正召喚師の試験で彼女が召喚したのだと言っていました。 他に嘘はありません。ネスティさんがその命と引き換えにメルギトスを倒した事も、この世界を源罪から 浄化し、守っている事も。ただ」 「ただ?」 「それが『貴方ではないネスティ』さんであるというだけ……トリスはネスティさんを失った悲しみに耐え切れず、 別の世界のネスティさんを……貴方を喚んだのだと思います。異世界から護衛獣を喚び出すように」 「なん、だって…?」 「お2人に魔力の繋がりが見えるんです……バルレル君とトリスの繋がりと同じものが」 続く言葉が見つからない。 元の世界へは還れない、 彼女の言葉はそんな絶望的宣告を受けたのと同じだった。 主が解約しなければ元の世界へは戻れない。自由に選択する権利など無い。 誓約で結ばれるとはそういう事だ。 「勝手なお願いだと分かっていますが、トリスを助けて下さい……貴方じゃなきゃ、彼女を救えないんです。 あたし、じゃ…駄目、なんです……」 「本当に勝手な話だな…しかし安心しろ、僕が嫌だと言ったところでどうにか出来るものじゃない。 誓約が僕をここに縛り続けている限り、元の世界へ還る術など無いに等しい。調律者の魔力を打ち破るなど、 エルゴの力でもなければ―――― 」 脳裏にエルゴの王と呼ばれる少女とそのパートナーである少年の姿が浮かぶ。 「そうか、彼らがいたんだ…」 彼らの力を借りればもしかして。 早速、と立ち上がろうとしたネスティの腕を掴んで引き止める。 「アメル、離してくれないか。僕はサイジェントに行かなきゃならない」 「っ、嫌です! 貴方まで居なくなったら、トリスは、トリスはどうなるんですかっ!?」 ネスティはその言葉にも顔色を変えない。 「……僕の世界のトリスが同じように泣いていてもか?」 「!!」 「君の願いはそういう事だ。それに……彼女が本当に望んでいるのは僕じゃない。『この世界』での僕だ」 力の抜けたアメルの手は簡単に外れ、ネスティは扉へと足を向ける。 「…それじゃ貴方はトリスがこのまま死んでしまうのを黙って見てろと言うんですか…?」 「何…?」 だが、続くはずの会話は突然の悲鳴によって中断された。 「……ス…ネス……どこ…? や……いやあぁあああぁっっ!!」 「ち…っ、トリス! トリス! 目を覚ませ!」 ネスティは発狂するトリスの頬を叩き、彼女の名を繰り返し呼び続ける。 「やぁっ、ひとりに、一人にしないで…! ネス…!」 目を開けてはいたが、虚空を見つめる眼差しは焦点が全く合っていない。 まるで錯乱しているかのように差し伸ばす手を払い、振りほどくトリスに、ネスティは暴れる彼女の両腕を 掴み、唇を塞ぐ。 ゆっくりと唇を離すと、トリスの動きは止まっており、虚ろな瞳には光が宿っていた。 「トリス、僕はここにいる。よく見ろ」 「……ね、す…?」 「ああ、そうだ。僕はここだ」 ネスティの姿に安心したのか、トリスは微笑むと、そのまま彼の腕の中で意識を失う。 静かに彼女の身体を横たえると、ネスティは傍に置いてある椅子にどっかりと座り込む。 その表情から焦りと苛立ち、複雑な心境が窺える。 「……毎日、だったのか? これが……」 言葉にせず、アメルは黙って首を縦に振った。 「よく、彼女を見て下さい。貴方のトリスと本当に同じですか?」 確かに自分の中のトリスの姿より、少しほっそりしているように感じる。 元々華奢な彼女ではあったが、今のトリスは痩せたというよりやつれたと言った方が近い。 「……ネスティさんが居なくなって、トリスがどれだけ涙を流したか分かりますか? あんなに笑ってくれたトリスから 笑顔が消えて、食事も殆ど食べなくなって……夜は悪夢で眠れず、毎夜、あたしが召喚術で眠らせていました。 貴方はそんなトリスを黙って見ていろと言うんですか…?」 堪えきれずその場に泣き崩れるアメル。 「…お願いします、もう少し、もう少しでいいんです。トリスの傍にいてあげて下さい…せめて悪夢を見ないで 眠れるようになるまで……お願いします……っ!」 頭を下げるアメルに、ネスティは即答できなかった。 先刻のトリスの様子から、確かに冷淡に割り切れる精神状態でない事は十分に伝わってくる。 自分を騙してまでトリスを守ろうとした彼女の気持ちが分からない訳でもない。 「……分かった。もう少しだけ協力しよう」 苦渋の決断に胸が締め付けられる。 トリスの呼び声はもう聞こえなかった。 |
あ と が き |