「ウンコがでたい」のはどうしてなのか?

便意を催したとき「ウンコ(ウンチ、大便)がでたい」「ウンコがでてぇんだぃね」と訴える患者さんが良くいます.しかし本来これらは(下痢などの事態を除いては)私たちが自らの意志で排泄するものなのですから、「うんこがしたい」あるいは「うんこを出したい」と言うのが普通なはずです.どうしてこのような表現が使われているのでしょうか?

まじめに、この表現を考察してみます!

群馬県独自の表現というわけではないでしょうが、
この表現の主語ははたして「私」なのか、それとも「ウンコ」そのものなのか?

「排泄物の擬人化」という可能性はどうでしょうか?排泄物も「生き物」ということです.
「汚い排泄物は、自ら勝手に出たがっているので、私はこのような汚い物を好きこのんで出しているんじゃないんですぅ」という責任の逃避的考えなのでしょうか?「便秘だったのも、わたしは私は出したいのに、(外に)出たがらないウンコがわるいのですよ!」という感じなら習慣性便秘の人の口実にもなりそうですね.

上の件に関連して、精神科の知り合いの先生から示唆に富んだ意見を伺いました.
「口から肛門に至るまでは、管腔構造の臓器で連続している.すなわち口から入っているものは、私の中にあるようで、実は物理的には私の体の外に存在しているともいえる」という考えで、排泄物は自分のものではなく、「自分の体の中にある、自分とは別の存在」ではないのか?という考え方です.よって、「自分とは別の存在である排泄物が出るのだから、「ウンコが出たい」のではないか?」というのは・・・ うーん、ちょっと考えすぎ?でしょうか・・・・?

うちの子供が見ている幼児教育用ビデオの中で、おねえさんがトイレに行って排泄をしたがっているキャラクターに向かって「うんちが出たがっているのね!」と問いかけるという実に気になる表現を耳にしました.(もちろんビデオは全国向けのものです.)このことから、この表現は、もともとは幼児に排泄を促す言葉なのかもしれません.「排泄を促す幼児語が浸透した」のでしょうか?しかし幼児ならともかく、大のおとなも結構使っている点は気になりますね・・・

うーん、なんだか、結論が出たような、出たがっていないような、
「ふんぎり」が悪いのが気になりますね.(笑)
この件につきまして、ご意見などございましたら、
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ついでにいうと、糞尿をしたい場合は、群馬では「もる」「もれる」ではなく、「むる」、「むらす」が使われます.特に、切羽詰った差し迫った状態の時には、願望の助動詞「〜たい」と一緒に、
「うんち、むったい!」という表現が使われます.これもチェックしておきましょう!