■禁断の果実、幸運の果実■
トレーニングメニューをこなし、アントニオは休憩室でドリンクのストローを咥えていた。隣では同じく、トレーニングを終えた虎徹がだらんと座っている。
それぞれが会社に戻るまでの僅かな時間、これをデートと呼ぶにはあまりに気恥ずかしい。二人は特に会話も無く、何とは無しにテレビ画面を見上げていた。
クリスマスが近いせいか、画面には華やかなツリーやプレゼント向け商品が映し出される。キャスターがにこやかに、今夜は冷えるでしょう、暖かくしてお休みください、などと告げている。
ふと、虎徹が思い出したように声をあげた。
「そうだ、アントニオ。今日、風呂貸して」
「かまわんが、故障でもしたのか?」
「いーや、おまえんちのほうが、風呂デカイから」
当たり前のよう言うその理屈が、さっぱり理解できない。
怪訝そうなアントニオをそのままに、虎徹は立ち上った。
「さてっと、戻るか」
ぐーっと猫のように伸びをして、一瞬だけ照れたような笑顔を残し、虎徹は休憩室を出て行った。
アントニオは頬を緩めた。何が目的かは全く理解できないが、断る理由は何もない。むしろ来てくれるなら大歓迎だ。
アントニオはドリンクを一気に飲み干した。さっさと会社に戻って、残っていた書類を片付けてしまおう。少なくとも自分自身のせいで帰りが遅れるようなことは避けたい。それと──
──今夜は犯罪者が出ないといいんだが──
虎徹と付き合い始めてから、いったい何度、それを願ったことだろう。犯罪者など出ないに越したことはないという正論と、犯罪者が出ないと成り立たない自分の仕事と、今夜の個人的な事情と。それらが複雑に絡み合う。
──まあ、なるようになる、か──
十年以上ヒーローをやってきたが、結局のところ、答えはそれしかない。
「よしっ」
自分自身に気合をいれ、アントニオは休憩室を出た。窓の外では、雪が舞い始めていた。
「うー、寒っ」
チャイムが鳴りドアを開けると、そこには鼻の頭を赤くした虎徹が震えていた。帽子と肩に、雪がうっすら乗っている。
「さっさと入れ」
玄関に招き入れドアを閉めた瞬間、虎徹がぴとっとアントニオに抱きついた。
「うわっ、冷てえ!」
「あー、あったかいー」
胸にすりすりと頬を寄せ、体温で暖を取る。その虎徹を引きはがすか、アントニオは一瞬迷った。部屋に入れてヒーターの前に連れて行く方が、暖かいに決まっている。理屈はそうだ。が──
結局、アントニオはその場で虎徹を抱きしめた。冷えた手に手を重ねて温める。唇で触れた頬は雪のせいで湿っていた。
腕の中の強張った身体が、少しずつ溶けていく。まだ赤い耳をそっと食み、舌でぺろりと舐めてやると、虎徹の身体が寒さではない刺激に震えた。
「ひゃっ」
首をすくめ、虎徹が腕の中から抜け出した。今更のように、顔が少し赤い。アントニオはにやにやと笑いながら、腕を解いた。ふと、虎徹が手に持っているものに目が留まる。
「ん? それ、なんだ?」
「あ、そうだ、はい」
虎徹がビニール袋を渡した。
柑橘系の匂いがする。開けてみると、中には黄色い、グレープフルーツをかなり小さくしたようなものがたくさん入っていた。
「なんだ、これは」
「実家から送られてきたんだよ。風呂に入れると、風邪ひかねーんだって」
「……で、これをうちの風呂に入れるのか?」
「そー。せっかくなら大きい風呂の方がいいだろ?」
「……まあ、かまわんが……」
大きいと言っても、それは虎徹のアパートと比較しての話だ。アントニオの独り住まいの部屋だって、特別大きな風呂がついているわけではない。
アントニオはその果実をひとつ、手に取った。馴染みがないような、でもどこか懐かしいような、不思議な匂いだ。
──食えるのか?──
料理に使えるのか考えながら、アントニオは尋ねた。
「お前、晩メシは?」
「あー、まだ。そうだ、なあこれ、料理できる?」
一緒に送られてきたんだよーと言いながら、虎徹が袋に手をつっこむ。取り出したのは小ぶりのカボチャだった。虎徹も独り暮らしに困らない程度には料理ができるが、丸ごとのカボチャは手に余る。
「了解、だ。何かつまみにしてやる」
「さっすが! クロノスフーズのヒーロー!」
「お前、毎回それ言うな」
へへっと笑う虎徹につられて笑いながら、アントニオは浴室へ向かった。この果実が風呂に入れるものなら好都合だ、まずは冷えた身体を温めて、晩飯はそれからだ。
虎徹が律儀に「お邪魔しまーす」と言いながら、その後に続いた。
ぽちゃん、とひとつ、黄色い果実を湯船に投げ込む。
虎徹は手のひらに、その丸いものをすくい上げた。
「けっこう、匂いが強いな」
「あったまりそうか?」
「うーん、分かんねえけど、いいカンジ」
湯船の中で、虎徹が楽しそうに笑う。
アントニオは服を着たまま、風呂の椅子に腰掛けていた。黄色い塊にナイフで傷をつけ、湯船に放り込んでいく。
虎徹は浴槽の淵に腕をかけ、その上に顎を乗せて、器用に動く手先を眺めている。
アントニオはちらりと虎徹を見た。単純に好奇心なのだろうが、あまりじっと見つめられるとやりにくい。アントニオは手元に集中した。
「なあ、アントニオ」
「なんだ?」
アントニオは目線を動かさず、返事をした。ぱしゃん、と水音が聞こえる。
「一緒に入らねえの?」
「なっ……!」
危うくナイフを落としそうになった。思わず虎徹の方を見る。
虎徹は上目づかいにこちらを見ていた。黒い髪は湯気に濡れ、伸びやかな肢体が水中に見え隠れする。琥珀の瞳が金に近い色で揺らめく。
ごくり、と無意識に喉が鳴る。
濡れた誘惑を振り切り、アントニオは冷静に答えた。
「俺が入ったら、湯があふれてなくなるぞ」
「ちえっ」
虎徹は拗ねたように頬を膨らませた。ふと、ささやかな仕返しを思いつく。
「ほら、これで全部だ」
最後の一つを湯に放り込み、アントニオはナイフを収めた。料理の分を取り分けるのを忘れたが、もうそんなことはどうでもいい。
「なあ、アントニオ」
「ん?」
「えいっ」
虎徹の声と同時に、アントニオはすっと身体を動かした。ギリギリでかわした顔の横を温かい液体が飛んでいく。
「あれ?」
指を組んで水鉄砲を放った虎徹が、呆然とする。
アントニオがにやりと笑った。
「え? バレてた?」
「この状況でお前のすることなんて、だいたい分かる。つきあいの長さは伊達じゃねえぞ」
口の端を吊り上げ、アントニオは獰猛な笑みを浮かべた。大きな手で黒髪の頭を掴む。
「え、あ、いや、これはちょっとしたイタズラで……」
アントニオは虎徹に顔を近づけた。頭を動かせず逃げ場もないまま、虎徹の目に焦りと僅かな怯えが浮かぶ。
「虎徹……」
低い声で囁くと、虎徹はぎゅっと目をつぶった。
「……ひゃっ……」
そのままアントニオは、虎徹の肩口にごく軽く歯を当てた。ぺろりとその肌を舐める。
「あんまり味はしねえな」
虎徹が恐る恐る、目をひらく。
唇を舐め、アントニオは虎徹の頭を優しくぽんぽんと撫でた。
「ちゃんと温まってから出てこいよ。これで風邪ひいたら洒落になんねえぞ」
からかうように笑い、アントニオは浴室のドアを開けた。
「……おう」
バツの悪そうな顔で、虎徹が小さく答えた。
浴室のドアを閉めてリビングに戻り、アントニオは壁に背を預けた。誰に見られるわけでもないのに、赤くなった顔を隠すように片手で口を覆う。
──やばかった──
濡れた肌が、唇が、瞳が、まだ脳裏から離れない。
あの抗い難い誘惑を振り切った、自分の忍耐力を自分で褒めたいくらいだ。
──クソッ、なんてヤツだ──
あんな色気にあてられたら、ガキの頃だったらひとたまりもなかった。今の自分がそれなりの年齢で良かったと思う。
前々から、確かに色気は感じていた。それは匂い立つ、とでも言うのだろうか、本人の自覚しないところで派生するものであり、言ってしまえば片想いをするアントニオの捉え方ひとつだった。
それが恋人になり、セックスをするようになり、アントニオはまたひとつ、虎徹の知らなかった一面を知ることになった。いや知らなかったと言うより、正確には想像以上だったのだ。
自分だたひとりに向けられる誘惑があんなにも強烈だとは思わなかった。虎徹の声、身体、仕草、言葉、その全てが意志を持って求め誘うのだ。それは甘く絡みつき、ダイレクトに雄の本能を刺激する。
しかも、セックスがしたい、抱いてくれ、というなら何も断る理由はない。問題は、虎徹の意志が曖昧な時だ。つまり、あれだけの色気を放っておきながら、するしないの決断をアントニオに委ねているのだ。
──性質が悪りぃ──
アントニオは壁にもたれたまま、天を仰いだ。まだ顔は赤いままだ。口元がにやけているのが自分で分かる。
おそらく一般的にはこういうのを駆け引きと呼ぶのだろう。
その瞬間の激情と快楽を選ぶか、しばしの安息を選ぶか。
選択しなければならない時、アントニオが選ぶのは今のところ、たいていは安息だった。
意気地なし、と言われてしまえば、反論はしづらい。自覚はある。だがそれでも、できるなら安らぎを与えたい。望むことが許されるなら、無邪気に笑っていて欲しい。
──それに、やりたい時は、分かりやすいしな──
アントニオは苦笑した。セックスしたい時の虎徹はあからさまで、判断に迷いようもない。
曖昧な決定権を自分に与えているのは虎徹なのだから、どちらを選ぼうと、それは自分の自由だ、そうアントニオは思った。問題は自分の理性だけなのだ。
浴室から水音がする。そろそろあがってくるころだろう。
アントニオはリビングに置きっぱなしになっていたカボチャを手に取った。
──ベーコンとナッツと一緒に、オイルで炒めるか──
ガーリックを効かせれば、立派な酒のつまみになる。残りはベイクドスクワッシュだ。甘くするより、塩とスパイスを効かせれば食べやすいし、残っても明日、温め直せばいい。
レシピを簡単に思い浮かべながら、アントニオはキッチンへ向かった。
少なくとも今日に限って言えば、自分の選択は正解だ。
今日は一年で一番、夜が長いのだ。飯を食って酒を飲んで、抱き合うのはそれからでも遅くない。
先ほどの虎徹の姿を思い出し、はやる気持ちを抑えながら、アントニオはフライパンを手に取った。
「あー、美味かった」
幸せそうに、虎徹がへらっと笑う。
「そりゃ、良かった」
結局、作った料理はほとんど平らげてしまった。酒も程よくまわり、虎徹の目がとろんとしている。ソファで隣に座り、虎徹がアントニオの肩にこてんと頭を預けた。オレンジ色の、最後のひとかけらをフォークに突き刺す。くるくるとフォークの先を回しながら、虎徹はアントニオを見た。
「なあ、なんでカボチャ食うか知ってる?」
「そりゃあ、風邪をひかないように栄養を取るとか、収穫祭とか、そういうことじゃないのか?」
「まあ、基本そうなんだけどさ、運が付くように『ん』が付くものを食うってことらしいぜ」
アントニオは食品メーカーのヒーローとして知識を総動員した。そうだ、確かオリエンタルタウンではカボチャの別名には『ん』がついていた。
「へえ、そうなのか」
素直に感心するアントニオの膝から太腿を、ぞわりとした感覚が走った。
虎徹がいたずらっぽく顔を覗き込みながら、上へ向かって指を滑らせる。
「だからさ、もっと腹いっぱい喰わせてくれよ」
虎徹の唇が、一文字ずつ区切るように、アントニオの名前を囁いた。
アントニオは苦笑した。本当に、あからさまで分かりやすい。
虎徹の腕を取り、アントニオはその身体を膝の上に乗せた。ソファの上で、向かい合わせで自分を跨らせる。細い腰を撫でると、虎徹が甘い声を漏らしながら、背を逸らせた。
「……ん……っ」
「そういうことを言うと、若い奴らに引かれるぞ」
「お前は?」
いたずらっぽく笑いながら、虎徹が瞳を覗き込む。アントニオは突き上げるように、自分の腰を虎徹に押し付けた。
「あ……ん……っ」
「引いてたら、こんなにならねえよ」
布越しの硬い熱が虎徹に伝わる。それだけで、虎徹の身体はまるで犯されているかのように跳ねた。背中を支えながら、アントニオはシャツの上から胸の尖りに触れた。虎徹の身体がひくりと震える。
「アントニオ……」
虎徹が首に腕を回した。舌を差し出す、その唇は濡れている。甘い吐息に逆らわず、アントニオは大きな手で頭を引き寄せた。
「ん……っ」
唇が重なり、舌が絡み合う。顎から滴る唾液をアントニオは舐め取った。
情欲に濡れた瞳がアントニオを誘う。抗う必要のなくなった誘惑が理性をどろどろに溶かす。
「虎徹……」
低い声で囁くと、虎徹がふわりと笑った。
獰猛な本能に突き動かされるまま、それでも甘く、アントニオはその首筋に歯を立てた。
END
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