■催眠レインコート■
ランチは、鍋をかき回す手をとめ、時計を見た。
12時30分。
『ちょっと本屋へ行ってくるよ』
そう言って桜井が出かけてから、もう1時間以上たっている。
普段なら、桜井をひとりで行かせたりはしない。
ランチが一緒に行かなかったのは、鍋でいいにおいをたてているビーフシチューのせいだった。
昼食に間にあわせるためには、火を止めるわけにはいかなかった。
だいたい、ビーフシチューが食べたいと言ったのは桜井なのだ。
『…一緒に行きゃ良かった』
その時、かすかな音が、窓の外から聞こえた。
『マジかよ…』
雨だ。
さっきまで日が射していたというのに、大粒の雨粒がどんどん数を増やし、あっという間に窓枠の色を変えていく。
桜井が、傘を持って出たはずがない。
ガスを止め、鍵をつかんで玄関先まで行き、ランチは足を止めた。
本屋へ行く、とだけ言って桜井は出かけた。
…どこの本屋へ行ったんだ?
近所に本屋は、それぞれ逆方向に2軒。少し足を伸ばせば、さらに大きな本屋が1軒。
一旦部屋へ戻り、ランチは携帯を手に取る。
短縮の1番に電話をかけて数秒後。
…桜井の部屋から、軽快な呼び出し音が聞こえてきた。
『…またかよ…』
案の定、桜井の携帯は桜井の部屋にあった。
一人で外出する時は携帯を持っていけと、いったい何度言えば桜井は分かってくれるのだろう。
ドアの外から、本降りになってきたらしい雨音が聞こえる。
春とはいえ、雨はまだ冷たい。
こういう時、桜井は絶対に『迎えに来い』とは言わないのだ。
余計な気をまわしてぐしょ濡れになって帰ってきて、風邪をひく。
容易に想像がつく展開だ。
ランチは勘で1軒の本屋を選び、一番大きな傘を持って外へ出た。
雨で視界が悪い中、向こうから歩いてくる人影が見えた。
どしゃ降りの雨の中を傘もささず、急ぐでもなく、大きな何かをしっかりと抱えて歩いている。
一番遠い本屋で、正解だったようだ。
ランチは、こちらには気付かない様子の桜井に駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「あ…ランチ?迎えに来てくれたのかい?」
すまなそうな、でも少し嬉しそうな桜井の顔。
髪からもシャツからも、雨がしたたっている。
「どうして連絡しねえんだっ」
桜井の顔をハンカチで拭いてやりながら、ランチは思わず怒鳴っていた。
「携帯を忘れてきてしまってね」
「公衆電話があるだろうが」
ハハハ、と桜井は、困ったように笑い、身震いした。
ランチの傘の中で雨にあたらないせいで、かえって寒さを感じるらしい。
とにかく家に帰り、身体を暖めなくては本当に風邪をひいてしまう。
桜井が自分の上着をしっかりと腕に抱えているのが気になったが、今はそれどころではない。
少しでも暖かいように、ランチは自分の上着を桜井に着せた。
玄関から、そのまま部屋に上がろうとする桜井を、慌ててランチは止めた。
「タオル持ってくるから、とにかくその服を脱げ」
「ここでかい?」
「そんなぐしょ濡れのまま、部屋に入る気か」
風呂場へタオルを取りに行き、ついでに浴槽に湯をはる。
玄関へ戻ると、桜井ははりついて脱げないズボンと格闘していた。
ようやく下着だけになった桜井を、ランチは大きなバスタオルで包む。
まだ水のしたたる桜井の髪を、タオルでガシガシと拭いてやる。
桜井の頬は、上気しているのにひどく冷たい。
「もうすぐ、風呂の準備ができるからな」
「ああ、ありがとう」
礼を言いながら、桜井は投げ出したままの自分の上着のそばにしゃがみこんだ。
「ああよかった、濡れていない」
上着にしっかりくるまれた、本屋の大きな手提げ袋。
「…あんた、何考えてんだ」
「え?」
「本なんか、濡れたっていいじゃねえか! それを着ていりゃ、少しはあんただって濡れなかったかもしれないだろ!」
自分を呼ばなかっただけではない。
金で買える本のために、自分の体を粗末に扱った桜井が、ランチは無性に腹立たしかった。
『俺がどれだけあんたを大事に思っているか、あんたには分からねえのかよ!』
声に出せないランチの怒りが、桜井に通じたのか否か。
「…すまない。でもね…」
桜井が袋を開く。
本屋の紙袋と一緒に出てきた、こんな時だと言うのに食欲をそそる匂い。
本屋のものではない袋を差し出しながら、顔色をうかがうように、桜井はランチを見上げる。
「桜の咲いている公園があってね、花見をしている人がたくさんいて、屋台も結構でてい たんだ。
焼き鳥とトウモロコシも売っていたから…」
ランチ、焼き鳥好きだろ?と目で尋ねてくる。
「うっかり、本屋さんに行く前に買っちゃってね。
雨が降ってきたから本屋さんで大きな袋をもらったんだけど、やっぱり濡れないか心配で…」
「だったらなおさら、俺を呼べよ」
語気荒く言いながら、ランチにも分かっていた。
『ランチのために』買ったもののために『ランチを』呼び出すことが、桜井にはできなかったのだ。
…そういう人間なのだ、桜井雅宏とは。
「…買ってこない方が良かったかな…」
相変わらずの上目遣いで、桜井はランチを見上げている。
「…いや、嬉しいよ…」
ランチの言葉に、あからさまにほっとした顔をする、桜井。
「でも、今度またこんなことがあったら、絶対俺を呼んでくれ」
「ああ、すまなかった」
謝りながらも、桜井に反省の色はあまり見られない。
『ホントに分かってるのかよ…』
風呂場から、タイマーの音が聞こえてきた。
「ほら、とにかく風呂で温まってこい」
ランチの言葉に、桜井はのろのろと立ち上がる。
浴室に桜井が入ったのを見届けてから、ランチは台所へと入った。
ビーフシチューの鍋を火にかける。
味を確かめてから、ランチは桜井に声をかけた。
「しっかりあったまれよ」
「ああ」
浴室から、こもったような声で返事が返ってくる。
「あがったら、昼飯にしよう。
ビーフシチューができてるぞ」
「ああ、ありがとう」
「…焼き鳥とトウモロコシも食おうな」
浴室から、とても嬉しそうな桜井の返事が聞こえた。
END
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