■六月の花■


 六月の日曜日。
 ソファの上に並んで座り、八木は恋人の肩に頭を預けていた。相澤の大きな手が髪を弄ぶ、その心地よさに身を任せる。長い指が戯れのように一房を絡めとり、そっと口づける。するりと解ける髪の束を、またその指が追いかける。声を出さず、ただ飽きることなく繰り返される動きは恋人の愛撫のようであり、また同時に、すがりつく子供のようでもあった。
 八木はちらりと時計を見た。時刻は夕方に近い。一日の終わりが太陽が沈む時刻であるならば、今日という日はもうすぐ終わりだ。
 帰したくない、指先から伝わるその感情を押しとどめ、八木は自身の金糸から男の手をそっと外した。
「そろそろ私はお暇するよ」
 穏やかに笑いながら、ソファから立ち上がる。帰りたくないと訴える己の脚を叱咤する。相澤が何かを言おうとし、そして口を閉じた。
 もう少しだけこのままでと、帰したくない帰りたくないと、どちらかが口にすればそれは現実になってしまう。その誘惑に逆らえる程度には、二人は大人だった。明日は月曜日、それぞれになすべき事柄があり、それに備える時間がそれぞれに必要だ。
 言葉を飲み込んだまま、相澤の指先が、もう一度髪に触れる。
 ふ、と八木は笑った。
「なんですか? 俊典さん」
 不満を押し殺した顔で、相澤が八木を見上げる。
 八木は努めて明るく笑いながら、明るく言葉を紡いだ。
「いや、君も私も、まだまだ青いなあ、と思ってね」
 そっと恋人の首に腕を回し、瞳を覆う黒髪をかきあげ、八木はその額に口づけた。
「だって、また明日、学校で会えるんだよ? なのにこんなに離れがたいなんて、まるでティーンエイジャーだ」
 陽気に笑う八木を、相澤が軽く睨み、腰に腕をまわして引き寄せる。
「俺が十代だったら、アンタに帰るな、って言えたんですけどね」
 そのまま相澤の腕が八木を抱きしめる。逆らわず、八木は近づく唇を受け止めた。
「ん……」
 そっと侵入してくる、その舌に自分の舌を絡める。口腔内のごく浅い位置で、名残を惜しむ熱を分け合う。引き返すことが可能なその深さ、その加減を知ってしまっている自分たちは、もう青いティーンエイジャーではない。
 絡む舌をそれぞれの意思で引き戻し、唇を離し、最後に二人は触れるだけの口づけをした。
「……そこまで送っていきます。買い出しに行きたいんで」
 それくらいいいですよね、という無言の圧力に、それくらいいいよね、と八木は心の中で自分に許しを乞うた。
 
 
 
 マンションの外は灰色の空だった。梅雨時特有の、湿気の多い空気が重い。雨が降っていないのがせめてもの救いだ。
 住宅街から、スーパーや商店の並ぶ大通りへと、二人は並んで歩く。夕方に近いこの時間、人通りもそれなりに多く、スーパーの駐車場は車でいっぱいだ。家族連れの、子供がはしゃぐ声が喧騒の中に聞こえる。公園のベンチにぽつりぽつりと、若い二人連れの姿が見える。言葉少なに、ただ離れがたい雰囲気が伝わってくる。あれこそが若者の特権だ。
 あのベンチに座る自分たちを想像し、八木は苦笑した。こんな夕方に、自分のような中年男があそこにだらだら座っている姿は滑稽だ。
 でも──八木はちらりと相澤を見た。
──相澤くんなら、おかしくないかもしれない。まだ若いし、相手もオジサンじゃなくてもっと若ければ──
 もやもやとした感情が胸に沸き上がり、八木は慌てて首を振った。
「どうしましたか?」
「え、いや、なんでもないよ!」
 怪訝そうな相澤に、八木は慌てて話題を替えた。
「相澤くんはどこのお店に行くの?」
「そこのドラッグストア、です」
 視線の先に、見慣れたチェーン店の看板が見える。その距離はあと百メートルほどだ。あそこに着いたら、今日はもう、離れなくてはならないのだ。
 明日また会えるのに──もういい年をしたオジサンなのに──喉の奥に何かが痞える。
 八木は、隣を歩く恋人を見た。同時に、相澤もこちらを見た。相澤の、熱を孕んだ視線が八木を捉える。慌てて、八木は目線を彼方へと飛ばした。あの熱量に捕まったら、帰れなくなる。
 恋人の方を見ないよう、手近な店に視線をさ迷わせる。ふと、視界を水色のものが掠めた。大通りに面したフラワーショップ、その店先に飾られているそれは──
──紫陽花?──
 それはかわいらしいブーケの群れだった。組み合わせが少しづつ異なる花の束がいくつも並び、店頭を彩っている。季節柄か水色の紫陽花をメインに、ヒマワリや白いカーネーションのような花など、さわやかな色彩が並ぶ。
「きれいだねえ……」
 知らず、八木は脚を止めていた。灰色の空の下、まるでそこだけ、空気が軽くなっているかのようだ。水色の花弁は、中心が白く、外側に行くにつれ色が濃くなる。紫陽花が、花というものが、こんな色をしているのだと気づいたのは、ここ数年のことだ。
 若いころ、花は花という物体でしかなかった。花束は、華やかさを演出する道具だと思っていた。
 花をきれいだと思うようになったのは──臓器を失い、命を失いかけ、リハビリの日々を送っていたあの頃からだ。
 あれから更に、力を完全に失い、代わりに素晴らしい後継者を得た。力を失うことと後継者を得ることは、ヒーローとして等価、あるいはそれ以上の幸福だ。
 では、肉体の損傷と、花がきれいだと思うことは、等価だろうか。花がきれいに見えて、おそらく人生最後で最高の恋をして、その恋人とたった数時間離れることがティーンエイジャーのように寂しい、そんな今の時間が肉体の損傷の対価だとしたら──それを幸せだと感じるのは愚かだろうか。
 喉の痞えが言葉になって心の中に溢れる。
──相澤くん、君と一緒にいられて、私は本当に幸せなんだよ──
 ふと、視界から水色が消え、八木は我に返った。背後から伸びた腕が、ブーケを持ち上げる。
「あ、相澤くん、ごめんね、ぼーっとして……」
 自失していたのは時間にして僅か数秒だっただろう。慌てて視線を恋人に戻す、その八木にかまわず、相澤はスタスタとレジへ向かった。
「相澤くん……?」
「はい、どうぞ」
 会計を済ませた相澤が、ブーケを差し出した。
「え、え……えぇ!? いや、そんなつもりじゃなくってね、その……」
「これ、きれいなんですよね」
「え?」
 相澤は、八木の手に花の束を握らせた。
「俺は、どの花がきれいだとかは分からないんですよ。だから、アンタがきれいだと思う花が、きれいな花なんです」
 呆然と、八木は手の中の花を見た。中心の白から外側の水色へ、小さな花の中に、色の変化が詰まっている。一緒に束ねられた、黄色や白や緑とのコントラストがとてもきれいだ。
「それに……」
 少し顔を背け、相澤がぽつりと言った。
「特別な日には、きれいなものを贈りたいと思うんですよ、俺だって」
「あ……知ってたんだ」
「当然です、でも、ファンとか関係者からたくさんもらうだろうから、と思って何もしなかったんですけど……」
 珍しく言葉を濁す、その顔が僅かに赤い。
──ああ、相澤くん、私は本当に君のことが……──
「相澤くん」
「なんですか?」
 八木は柔らかく微笑んだ。
「ありがとう」
──大好きだよ──
 
 
 
 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
 
 八木を見送り、ドラッグストアで細々としたものを買い込み、相澤は独り、マンションへの道を歩いていた。
 ふと、先ほどのフラワーショップの前で足を止める。先ほど贈ったのと同じようなブーケが目に留まる。
 どの花がきれいだとかは分からない──それは本当だ。花の良し悪しなど自分には分からない。ただ、あの花束を見つめる、彼の姿はとてもきれいだった。
 相澤は店先のブーケを一つ手に取り、レジへと向かった。自分のマンションに花瓶などないが、コップでも大丈夫か──そんなことを考えながら、本日二度目の会計を済ませる。
 水色の紫陽花と黄色のヒマワリ、それは、恋人の瞳と髪と、同じ色だった。



END



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