■小さな恋の物語(1)■
夏の終わりの日曜日。
相澤は小高い丘へと向かう坂を上っていた。ヒグラシの鳴き声が降り注ぐ中、息を乱すことなく、遊歩道とでも呼ぶべき土の坂を淡々と上っていく。
買い出しのついでに、その丘へ立ち寄ろうと思ったのはただの思い付きだ。市内が一望できる丘からは、勤務先である雄英高校を望むことができる。周辺の地理を把握しておくのは、教師としてヒーローとして当然だ。住み慣れた土地とはいえ、知らぬ間にビルや道路が建設されることもある。土地の変化を把握するのに、この丘は便利だった。
ふと、相澤は目を細めた。夏の終わり特有の西日がきつい。目を酷使する己の個性にとっては、あまり良い状況ではない。頂上は間近だが、ゴーグルをかけようかと首元に手を伸ばしたその瞬間、相澤は息を呑んだ。
目線の先、丘の頂上の先端には、木の柵が立てられ形ばかりの転落防止チェーンが張られている。その柵に手をかけ、一人の男が市街地を眺めていた。後ろ姿なので顔は分からない。折れそうなほどに細い身体が、土の上に細く長い影を映す。わずかな風になびく髪が、オレンジ色の夕日に溶けて消えてしまいそうだ。
その現実離れした色彩に、相澤は思わず歩みを止めた。ざあっ、と残暑の熱風が丘の上を吹き抜ける。
と、その時。
「うわぁっ!」
男の手から、数枚の紙が舞い上がった。同時に、手に持っていたらしい紙袋がどさりと落ちる。
反射的に、相澤は地面を蹴った。風に舞う紙をすべて掴み、着地する。男があわてて、こちらに駆け寄ってきた。
「……どうぞ」
差し出した紙の束を、男は嬉しそうに受け取った。
「ありがとうございます!」
人の好さそうな微笑みを浮かべる、その男の長めの髪が風になびく。身長は相澤より高く、しかしその身体は相澤よりずっと細く、そしてオレンジ色に見えた髪は混じり気のない金だった。
思わずその姿に見とれた相澤は、一瞬で己を取り戻し、取り繕うように紙の束に視線を落とした。
「学習指導要領?」
見覚えのあるその表題が、思わず口に出る。男が照れ臭そうに笑った。
「来年の春から、高校の非常勤講師を務めるんです。教員免状は持っていないので、少しでも勉強しようと思って」
頑張っているんだけど、難しくって──そんなことを言いながら、男は地面にしゃがみ、落ちた紙袋を拾った。
その動きを何気なく視線で追った相澤は、少しだけ眉をしかめた。紙袋から零れた数冊の書籍、その一冊のタイトルは──『すごいバカでも先生になれる!』──。
「あ、いや、これは……」
相澤の視線に気づいたのか、男が慌ててその本を紙袋に押し込む。
「……お恥ずかしい。専門的な教育論の本も買ったんですが、分からない言葉が多くて……この本なら何とか理解できそうだったので……」
「理解できない専門書を読むより、自分が理解できるものを足掛かりにする方が、自己学習においては合理的だ」
「え……?」
男がぽかんと、相澤を見上げた。
「あなたが理解できると判断したのなら、それはあなたにとって必要な本なんです。何が理解できて何が理解できないか、それが分かっているなら大丈夫だと思いますよ」
「あの、貴方はいったい……?」
なおもぽかんとしている男に、相澤は微笑んだ。
「すみません、俺の勝手な想像で物を言いました。よかったら分からないところを説明しましょうか? 少しは役に立つと思いますよ。これでも一応……高校教師なので」
「え! それは嬉しい……です!」
男の顔がぱあっと明るくなった。相澤より年上であろうと思われるのに、無邪気とも言えるその表情は、不思議と違和感がない。
教師という職は本当に便利だ、と相澤は改めて思った。一般人に対して、プロヒーローであることを告げずに済む。ヒーローという職業名は、良くも悪くも一般人との間に距離を作ってしまうのだ。
「でも、いいんですか? あなたのお仕事でもないのに。えっと……」
「相澤です」
今さらのように、相澤は名乗った。
「日曜の午後は特にすることもないし、かまいませんよ。そこのベンチ……は風が強いから、下の喫茶店でどうですか?」
「ありがとうございます! では、お言葉に甘えてさせてもらいます、相澤さん」
「敬語はやめてください。それと……相澤さん、もやめてもらえますか。あなた、年上ですよね。さん付で呼ばれると落ち着かない」
「じゃあ……」
男は首をかしげて、微笑んだ。
「相澤くん?」
ばくんっと相澤の心臓が脈打った。そんな動揺を必死に宥めつつ、相澤は冷静を装って答えた。
「それでいいです。 ところで、あなたは?」
「あ、八木、です」
「八木さん……」
相澤は少しの間、思考を巡らせた。
「すみません、俺の知り合いにも八木がいてややこしいんで、下の名前でもいいですか?」
「えっと、いいけど……俊典です」
相澤はゆっくりと、その名前を声に出した。
「じゃあ、俊典さん」
その瞬間、目の前の男の顔が赤くなった、ように相澤には見えた。それは夕日が傾き、男の頬を横から強く照らすせいだ。
「西日がまぶしいですね、さっさと移動しましょうか」
「う、うん」
紙袋と書類を手に、二人は並んで坂道を下った。
夕暮れの喫茶店に書類と本を広げ、二人はしばし勉強に没頭した。
「相澤くん、この文章の意味なんだけれど──」
「ああ、これ、分かりづらいんですよね、お役所言葉だから。この部分がこっちの章を指していて──」
八木の質問に、相澤はひとつひとつ丁寧に答えていった。前提となる知識が無いにもかかわらず、八木の理解はとても早かった。教えていて気持ちがいい。頭のいい人なんだな──と相澤は思った。
「──ふう」
八木が小さくため息をついた。その声に、相澤は顔をあげた。気が付けばもう二時間が経過している。八木の顔に疲労が浮かんでいる。
「大丈夫ですか?」
「あ、うん、大丈夫だよ」
にっこりと八木は笑った。その顔色が、心なしか白い。
「ああ、すっかり暗くなっちゃったね」
窓の外を見て、八木は呟いた。
「ありがとう、とっても助かったよ! 相澤くんは教え方が上手だね!」
「……なら、よかったです」
生徒に一度も言われたことのない言葉だな、と相澤は思った。まあ、相手が子供と大人では、教え方が違うのは当然だ。
書類と本を片付け、八木が伝票を手に取った。
「お礼にもならないけど、ここは払うよ」
「あの、よかったら、晩飯……一緒にどうですか」
立ち上がりかけた八木が一瞬、驚いた顔をした。残念そうに微笑む。
「ごめん、この後、用事があるんだ。それに……私はあまり食べられないから」
一瞬の間の後、八木が苦く笑った。言わなくてもいいことを言った──そんな顔だ。相澤もまた、かける言葉を瞬時に見つけることができなかった。
「……今日は本当に助かったよ。ありがとう、相澤くん」
そう言って、八木はレジへと向かった。支払いを終え、ドアベルを鳴らして八木が去っていく。
その姿がすっかり見えなくなってから、相澤はテーブルに突っ伏した。
「……連絡先、聞きそこねた……」
連絡先が分からなくては、もう二度と会えない。
テーブルの上、目線と同じ高さにある、八木が使ったコーヒーカップの白さが目に痛かった。
翌週、日曜日、夕方。
西日が差す中、相澤は坂道を上っていた。
こんな偶然に頼るなど非合理を通り越して馬鹿げている。それに──
別れ際の、八木の苦い顔が脳裏に浮かぶ。つらいことを言わせてしまった。もう自分には会いたくないだろう。勉強だって、あの人ならもう十分、自力で進められる。自分と会うメリットなど、あの人にはない。それでも一縷の望みに縋ってしまう、この感情は──極めて非合理だ。
頂上が近づく。息などあがるはずもないのに、心臓だけがドクドクと脈打つ。先週と同じくきつい西日の中、ゴーグルのことなど忘れて、相澤は一歩を踏みしめた。
市内が一望できる丘の先端、木の柵と形ばかりのチェーン、オレンジ色の夕陽の中──溶けるような金の髪が目に映った。
少し照れたように微笑みながら、男は言った。
「えっと、まだ分からないところあってね……よかったら教えてくれないかな? 相澤くん」
「……もちろん、いいですよ」
それしか相澤は言えなかった。八木は嬉しそうに笑った。
「ありがとう! お礼に、今日は晩ご飯もおごるよ!」
「え……?」
少し俯き、八木は言葉を紡いだ。
「あんまり食べられないから……私が食べられるものがある店になっちゃうけど、いいかな?」
喉につまる言葉を相澤は絞り出した。
「もちろん……嬉しいです」
よかった、と八木は柔らかく微笑んだ。
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