■天使の願い事(1)■
「ごちそうさまでした。おいしかったです」
カタン、と相澤がテーブルに箸を置いた。
「よかった! 量は足りた? もう少し何か作ろうか!?」
「十分ですよ。お茶、淹れますね」
柔らかい表情で立ち上がり、相澤がキッチンへと向かう。
テーブルの上には、きれいに空になった大皿が並んでいる。相澤のマンションで夕食を作るときは、食べる量が調節しやすい大皿の中華料理が多くなる。たとえ作りすぎた時でも、相澤が料理を残すことはない。今日だって、お茶碗にも米が一粒も残っていない。
──相澤くん、いっぱい食べてくれるから、見ていて気持ちがいいんだよね──
八木の頬が思わず緩む。いや、実際は食べている最中から緩みっぱなしだった。
二人分の夕食を作るのは楽しい。自分の身体のための調理と、一緒に食べるための料理は別物だ。その料理を、普段は表情に乏しく食生活に頓着しない恋人が、美味しそうに嬉しそうにぱくぱく平らげていくのだ。
「どうぞ」
相澤が、トレイに湯呑や急須を載せて戻ってきた。
渡された湯呑に口をつけると、ふわりと香りが漂った。緑茶のそれではない爽やかな香りだ。
「このお茶、いつもと違う?」
「中華を作ってくれることが多いから、買ってみました。これなんですけど」
茶葉の袋には『茉莉花茶』と書かれている。
「これ、相澤くんが買ったの!?」
「そんなに驚くことですか? 今時、スーパーにだって売っていますよ」
「いや、そうじゃなくって、相澤君、ジャスミン茶なんて良く知っていたね!?」
「……俊典さん、俺は別に三百六十五日ゼリー飲料だけで生きているわけじゃないんですよ」
相澤が軽く、八木を睨む。
「ははは、そうだよね、ごめんごめん」
バツの悪さを誤魔化すために、八木は湯呑に口をつけつつ顔を隠した。さっぱりとした味が、濃い料理を食べた体に心地よい。何より、今まで一緒に食べた料理をちゃんと覚えていて、それに合うお茶を用意してくれる、その気持ちが嬉しい。
お茶をゆっくりと冷ましながら、食後の身体が落ち着くまで、二人は他愛もない雑談をした。
八木の身体が落ち着いたころを見計らって、相澤が飲み干した湯呑をテーブルに置いた。
「さて、と」
不自然な言葉を口にしながら立ち上がる。
八木の心臓がドクン、と鳴る。普段の相澤は、無意味な独り言など言わない。この言葉の続きを、八木は知っている。それは未だに慣れることのない言葉であり、それを言われる恥ずかしさにも未だに慣れない。そして同時に相澤もまた、不自然な独り言なしでは言えない程度には、慣れていないのだ。
「皿は俺が洗っておきますから」
不自然なほど滑らかに相澤が言葉を発する。
「う、うん、ありがとう」
つとめて冷静に、八木は答える。いつもはクールでかっこいい恋人のポーカーフェイスが、今だけはちょっとだけ憎らしい。八木の頬は既に少し赤くなっているのだ。
「俊典さんは先に風呂、使ってください」
「うん、そ、そうさせてもらうね」
相澤がさっさと皿を重ねてキッチンへと運んでいく。
八木は逃げ出すようにリビングへと向かい、着替えを抱えて脱衣所に飛び込んだ。
「……ふう……」
服を脱ぎながらふと鏡を見ると、そこには真っ赤になった己の顔があった。
「ああもう!」
八木は両手でパチンと頬を叩いた。
付き合い始めてそれなりに月日が経って、もう何度も夜を共に過ごしているというのに──未だに慣れないのだ。セックスのお誘いに。
いい年になってから始まった付き合いだ。お互い、口に出しては言わないけれど、過去にはそれなりの恋愛もセックスも経験している。
確かに、お互いに男相手の恋愛は初めてで、更に八木は『抱かれる』という行為も初めてだった。けれど、原因はおそらく、そこではない。
鏡に写る己の身体を八木は見つめた。
痩せ衰え、若くもないこの身体が、男の性欲の対象になるとは、どうしても八木には思えなかった。
恋人の愛情を疑ったことなどない。同情と憐憫は愛情の一部だ。
同時に、己が抱く愛情もまた、疑いのないものだ。
ただ。
──相澤くんは、やさしすぎるんだ──
近所のスーパーに行く、たったそれだけの時間、離れているのが寂しかった。相澤くんも同じ気持ちだったらいいな、という己の望みに気づかされたのは、帰った玄関先でキスをされた時だ。
目の前の子供を助けられないことが怖かった。怖くて泣きたかったのだと、相澤くんが気づかせてくれた。
食に頓着しない恋人と、一緒にごはんを食べたいな、と思っていた。相澤くんは残さず食べて、おいしいと言ってくれた。
己さえ気づいていない望みを、まるで見透かすように探り当てて、そしてかなえてしまう。いつだって、欲しい言葉をくれる。
それならば、この望みもまた──
八木は服をすべて脱ぎ捨て、バスルームへと入った。熱いシャワーを頭からかぶり、ボディソープを手に取る。恋人に愛されたいと望むすべての場所が少しでもきれいに、せめて清潔であるように、八木は丹念に自分の身体を洗った。
入れ替わりに相澤がシャワーを浴びている間、八木はベッドに腰かけていた。肌触りの良い部屋着は、相澤が用意したものだ。この大きなベッドは、二人で寝るために相澤が購入したものだ。そしてこの部屋も──
ガチャリ、と脱衣所のドアが開き、相澤が部屋に戻ってきた。下はスウェットを履いているが、上半身は裸のままだ。普段、ゆるやかな服を着ているので気づきにくいが、その肉体は厚みのある筋肉に覆われている。
長い髪が濡れ、首筋に張り付いている。しっとりと汗に濡れた上半身が目に入り、八木は思わず赤くなって目をそらした。
──ああもう、かっこいいなあ──
相澤のヒーロースーツが、オールマイトのように身体にぴったりとしたものでなくてよかった、と八木は思っている。イレイザーヘッドがこんなにセクシーだと知るのは、恋人の特権だ。
相澤が冷蔵庫からペットボトルを取り出した。
「俊典さんも飲みますか?」
「あ、うん」
そう答えたはずなのに、相澤の手には一本のボトルしかなかった。
キャップを開け、立ったままボトルを煽る。液体を嚥下する喉仏の動きが、座っている八木からははっきりと見える。これはもう、視覚に対する性的な暴力だ。いたたまれず、八木はまた目を逸らす。
「……え? 相澤くん!?」
相澤の手が八木の後頭部を掴んだ。優しく、だが力強く、頭を引き寄せられる。
「ちょっと……ん……っ!」
ボトルからもう一口水を含み、その唇が八木の唇をふさぐ。
「ん……ッ……」
冷たい水と熱い舌が、同時に八木の口腔に侵入する。口の端から水が零れ、喉の内と外を同時に水が流れ落ちる。
水が口腔内から無くなり、熱い舌が上顎を舐めた。その甘い感覚と息苦しさに、思わず八木の手が相澤の腕を掴む。
ようやく舌が口腔内から抜け出し、離れ際に唇をぺろりと舐めた。
「……あいざわ……くんっ!」
息苦しさに涙目になりながら、八木は相澤を睨んだ。
「水を飲むって言ったでしょう?」
意地悪く笑いながら、相澤の舌がなお、喉元の零れた水を舐めとった。
「今のは、水だけじゃなかったよね!?」
「キス、したくなかったですか?」
「……ッ」
八木は思わず、腕を掴む手に力を込めた。一瞬の後、ゆっくりとその力を抜く。
「俊典さん?」
「……私は、そんなにキスしてほしい、って顔してた?」
「顔だけじゃなくて、全身で訴えてましたよ?」
「!? 全身って!?」
「ええ、全身で。唇だけじゃなくって、全身にキスされたい、って。違いますか?」
相澤の手が、部屋着の上からそっと太腿を撫でる。
「あ……ッ」
八木の身体がびくりと震える。内側に秘めた熱が、触れられた場所から暴かれていく。
──ああ、その通りだね、私は唇だけじゃなく、もっと別のところにもキスして欲しいんだ──
「じゃあ、私が望んだら、どこにでもキスしてくれるの?」
「もちろんですよ」
予想通りの熱烈な即答に、八木はひっそりと自嘲した。
──相澤くんは本当に、私の望みはなんでもかなえてくれるんだね──
「俊典さん?」
「じゃあさ……」
八木は人生で初めて、媚びた笑顔を作った。痩せ衰えた己の身体が男の性欲の対象になるとは思えない。それでも恋人に抱いて欲しいと願ってしまう、それはどうしようもなく浅ましい欲求だ。だから、傲慢と暗愚を踏み超えて己の願いをかなえてもらうためには、この理由が必要なのだ。
「私が抱いてほしい、って望んだら、抱いてくれるのかな?」
「……ああ、そういうことですか。それは違います」
「え?」
笑顔のまま、八木は固まった。と同時に視界が回り、背中がベッドに叩きつけられる。
「……!?」
仰向けになった身体を相澤が抑えつけた。掴まれた肩の痛みに、八木は思わず呻いた。その身体を、ギラついた眼が射抜く。
「アンタが望むから抱くんじゃない。俺がアンタを抱きたいんだ」
「え……え!?」
八木は呆然と、相澤を見上げた。逆光の中、自分を抑えつける男の眼は──まぎれもなく、雄の獣の眼だ。
「俺の答え方が悪かったんですね。俺はアンタの身体中、全ての場所にキスしたい。だから、アンタがして欲しい場所ならどこにでもキスするし、して欲しくない場所にはしない……ように努力している」
「努力なの!?」
「いつもアンタの身体に夢中になっているんで。自制心なんてたいてい吹っ飛んでますよ。ついてに言うと、キスもしたいけれどそれ以上に、身体中すべてを舐め回したい」
「舐め……!?」
「舐めて欲しくない場所は舐めないように努力はしていますよ」
相澤の手がそっと、八木の頬に触れた。
「アンタは勘違いしている。俺は俺がキスしたいからキスするし、舐めたいから舐めるし、抱きたいから抱く。でも、アンタが望まないことはしたくない」
真摯で優しくて、そして欲望を孕んだ低い声が、八木の耳に響く。
「相澤くん……」
「だから、アンタが望まないこと以外で、俺がしたいことは全部する。望むかどうか分からないことは、とりあえずやる」
「え、え!? いや、それはやる前に確認を……」
あんまりな宣言に、八木は思わず抗議の声をあげた。その唇を相澤がふさぐ。
「ん……ッ……」
唇を重ねたまま、相澤の身体が八木に覆いかぶさった。優しくきつく抱きしめられ、熱い舌が再び口腔内を蹂躙する。八木の下腹部に固いものがあたった。それはまぎれもない、相澤の、雄の欲求の象徴だ。
唇が離れ、熱い声が八木の耳元で囁いた。
「もう一度言います。俺がアンタを抱きたいんです」
八木は覆いかぶさる恋人の身体をしっかりと抱きしめた。
「……うん、分かったよ……ありがとう」
「礼を言われることじゃないです」
「うん、そうだね」
相澤の唇が、八木の首筋に吸い付いた。
「あ……」
八木の身体がびくりと跳ねる。そこは、唇の次にキスして欲しかった場所だ。恋人の熱い唇に身体を震わせながら、八木は相澤を抱きしめた。
──やっぱり君はやさしいね。私が気づかなかった、私が本当に望んでいた言葉をくれるんだから──
──『アンタが望むから抱くんじゃない。俺がアンタを抱きたいんだ』──
「ねえ、相澤くん、お願いがあるんだけれど」
「なんですか?」
八木は笑顔を相澤に向けた。媚など必要ない、ただ素直な気持ちを口にする。
「君がしたいこと、全部、私に教えて欲しいな」
ダメかな? と首をかしげた瞬間、八木の身体が痛いほど強く抱きしめられた。
「アンタ本当に、俺の自制心を吹っ飛ばす気か!?」
八木はくすりと笑った。
「うん、吹っ飛ばす。そう決めた。私はまだ、君のことを知らなすぎる。だから教えて欲しいんだ。君の望みを。君のすべてを」
「……俊典さん、理性が残っているうちに言っておきます。俺のやりたいことは、今夜一晩じゃ全部できません」
「じゃあ、今晩できなかったことは来週しよう? それでも全部できなかったら、またその次の週に」
八木の言葉に、答えはなかった。荒々しい息遣いとともに、部屋着が引き剥がされていく。その爛々とした瞳をうっとりと見上げながら、八木もまた、恋人の下肢を覆う衣服を引き下ろした。
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