■天使の泣き声■


 やわらかな日差しが公園を包み、さわやかな風が木々をゆらす。子供たちの元気な笑い声が歩道まで届き、その平和な光景に思わず頬が緩む。金色の髪が風にあおられる。そろそろ切ったほうがいいかな、などと考えながら、買い物袋を手にのんびりと歩道を歩く。
 そんな、穏やかな穏やかな、ありふれた春の土曜日。
 カラフルなボールが公園の柵を超え、ポーンとアスファルトに跳ねた。子供が無邪気に笑いながらそのボールを追いかける。
 鮮やかな球体はまるで生き物のように子供の手をすり抜け、道を区切る白い線をも跳び越える。
 急ブレーキの音。迫る大きなトラック。ようやく追いついたボールを手に、呆然と顔を上げる子供。母親らしき女性の悲鳴。
 その瞬間、考えるより先に身体が動いていた。決して油断せず、己を過信せず、ただいつもどおりに迅速に子供を抱えて車道から離脱する。
 ただそれだけのことだった。そのはずだった。
 なのに、とっくに子供を抱えているはずの自分の身体は、未だ歩道にあった。目の前でスローモーションのように、トラックが子供に迫り、周りから悲鳴が聞こえ、そして自分ではない誰か──確かデビューしたばかりの新人ヒーローだ──が疾風のように飛び出し、子供を抱え、向こう側の歩道に着地していた。
 ヒーローは子供を地面におろす。──飛び出しちゃだめだぞ──そんなお決まりの優しいお説教、素直にお礼を言う子供、泣きながら駆け寄る母親、周りの人々のほっとした表情と称賛。
 その様子を八木は、対岸の歩道から見つめた。
 何より子供が助かったことに安堵する。他のヒーローがいてくれて、本当に良かった。
 あの瞬間、身体が動かなかった。恐怖からくる緊張ではない。長年つきあってきた己の身体だ。それくらいは分かる。ただただ単純に、視覚と脳の反応速度に比べ、肢体の反応速度が格段に遅かった。
 能力を失い、肉体が衰えるということは、こういうことなのだ。
 わずかに口を引き結び、八木はひっそりと、その場から立ち去った。
 
 
 
 マンションのドアの前で、八木はそっと深呼吸をした。自分の顔がいつもどおりの笑顔になっていることを確認する。肉体が衰えたとはいえ、長年鍛えた表情筋は未だ健在だ。
「ただいまー」
 合鍵でドアを開け、明るい声で部屋の中に呼びかける。
「おかえりなさい」
 部屋の主であり普段は表情に乏しい恋人が、八木にだけは分かる笑顔で出迎える。
 玄関で買い物袋を受け取りながら、相澤の唇がちゅっと八木を啄んだ。
「な、なに!?」
 思わず赤面した八木に、相澤は平然と答える。
「なにって、おかえりなさいのキスですよ」
「いや、ちょっと大げさすぎない!? すぐそこのスーパーに行ってきただけだよ?」
「距離の問題じゃありませんよ。っていうか、その片道五分のスーパーに行く前に『いってきます』のキスをしたのは誰でしたっけ?」
 う……と八木は言葉に詰まる。確かに出がけに、不意打ちのように唇を重ねて、逃げるように買い物に出かけたのは自分だ。
「それは……だって部屋を出ちゃえば恥ずかしくないから平気だし……相澤くんが待っててくれるって思ったら嬉しくって、つい……」
「俺もですよ。アンタが無事に俺のところに帰ってきてくれたから嬉しいんです」
「無事に、って、大げさだなあ、相澤くんは」
 不意に、公園前での光景が脳裏に蘇る。それをいつもの笑顔で覆い隠し、八木はへらっと笑った。
「で?」
「え?」
 八木の目をまっすぐに見つめながら、相澤は言った。
「俊典さんは、『ただいま』のキスはしてくれないんですか?」
「……相澤くん、君がそんなにキスが好きだなんて、私は知らなかったよ……」
「好きですよ? 俊典さんと同じくらい」
 ああもう、私の恋人は、外見と中身に落差がありすぎる。本当に知らなかったよ、君がそんなに恋人に執着する性質だなんて。もっと合理的に、キスなんてまとめて一週間に一回、とか言ってもおかしくないと思ってたのに──
 外見とはうらはらに情熱的なこの恋人に求められて、嬉しくないはずがない。
 頬の火照りを感じながら、八木は目をつぶって、そっと唇を重ねた。
「ただいま、相澤くん」
「おかえりなさい、俊典さん」
 相澤の手が、八木の頬を撫でる。
「……ところで相澤くん」
「なんですか?」
「私、そろそろ靴を脱いでもいいかな?」
 ああそういえば、と今さら気づいたように、相澤が名残惜しそうに手を離し、買い物袋を手にキッチンへと向かう
「コーヒーでもいれましょうか」
「あ、嬉しいな!」
 答えながら、八木はようやく部屋へと入った。
 
 
 
 二人掛けソファの片側に、八木はそっと腰を下ろした。座るときに体重をかけすぎないよう気を付けるのは、もはや習慣だ。
 もちろんこの部屋のソファもベッドも、つくりは頑強だ。二人の体重を支えるのに十分な強度をもっている。
 広めのワンフロアの部屋、その端にある大きなベッドが視界に入り、八木はまた赤面した。
 この部屋は、相澤が新しく借りた部屋だ。それまで最低限の面積と家具で暮らしていた相澤は、八木と付き合い始めてすぐに引っ越し、強度と広さが十分なベッドとソファを購入したのだ。
 『壊れることを気にしながら過ごすのは非合理』というのが本人の弁であり、なによりここは相澤の部屋であり、八木が口を挟む筋はない。もちろん不満もない。ただ強いて言うなら──相澤の合理的な行動は時折、オジサンには恥ずかしすぎるのだ。週末ごとにこの部屋を訪れるようになって久しいというのに、まだこのいかにも『二人で寝ます!』と高らかに宣言しているようなベッドが常に視界にはいる光景には慣れない。
「どうぞ」
「うわぁっ」
 急にコーヒーカップを差し出され、思わず八木は飛びあがった。
「どうしたんですか?」
「べ、べつになんでもないよ、ありがとう」
 カップを受け取り、両手で持って顔を隠すように口をつける。
 相澤もカップを片手に、ソファに腰かけた。空いている方の手が、そっと八木の髪に触れる。
「風、強かったんですか? 春ですからね」
「え?」
「帰ってきた時から気になってたんですけれど、髪が乱れてますよ」
「いや、今日はそこまで強くはなかったけれど……?」
 髪を直す優しい手に身をまかせながら、コーヒーカップに口をつける、その八木の動きが止まった。
 今日、強い風が吹いたのは一度だけ。若いヒーローが疾風のように飛び出して子供を助けた瞬間。その時だけだ。
「俊典さん?」
 八木はカップをテーブルに置いた。自分の顔が、笑顔を保てていることを確認し、穏やかに口を開く。
「そういえばね、さっき公園の前で、子供がボールを追いかけて道路に出たんだ。トラックが近づいていて危なかったけれど、近くにいた若いヒーローが無事に救出したんだよ」
 きっとその時の風だね、と八木は笑った。
「そのヒーローは私なんかよりずっと早く飛び出してね、あっという間に助けたんだ。若くて優秀なヒーローがいるんだなあ、って思ったら、なんだか私も安心したよ」
「……俊典さん?」
「何より、子供が無事でよかった。私も先生としてがんばらなきゃな、って思ったよ。未来のヒーローを育てているんだからね」
「俊典さん!」
 相澤が声を荒げ、八木の肩を掴んだ。八木は笑顔のまま、ゆっくりと顔をあげた。
「どうしたの? 相澤くん」
「アンタ、今、自分がどんな顔をしているか分かってますか」
 相澤の声が震えている。掴まれた肩が痛い。
「え? 子供が助かって嬉しいから笑っているんだけど……変かな?」
「ええ、笑っていますよ。でもその顔は、嬉しいとか安心とか、そういう笑顔じゃない」
「え、じゃあどんな顔?」
 八木はきょとんと首をかしげた。
「今のアンタは、何も怖いものがない、って顔をしている。大丈夫だって周りを安心させるための──ヒーローの笑顔だ」
 相澤の手がそっと、八木の頬に触れた。
「何があったか、だいたい想像はつきます。外でどういう顔をしていてもいい。ただ、俺と二人でいる時に、笑顔を作る必要なんてない!」
 八木は笑みを崩さないまま、困ったように笑った。
「……相澤くんは、鋭いね」
「それくらいのことも分からないんじゃ、アンタの恋人はつとまりません」
「……そうだね、確かに私は怖かったよ」
 ゆっくりと、八木は言葉を紡いだ。
「今日、私は確かに怖かった。自分が死ぬとか、ヒーローでなくなることが怖いんじゃないよ。目の前にいる、助けが必要な人間を助けられない、それがとても怖かった」
「わかってます」
「本当に……本当に怖かったんだ」
 八木の手が細かく震えた。その手を相澤が握りしめる。
「今まで怖いとき、いつも私は笑っていた。他人も自分も欺いてきた。だからね、せっかく君という恋人がいるのにね、私は……」
 八木は穏やかな顔を作って笑った。
「ごめんね。こういうとき、君の前でどんな顔をすればいいかわからないんだ」
 突然、相澤が強く八木を抱きしめた。自分の胸に、八木の顔を押し付ける。
「相澤くん!?」
「泣いてみればいいと思います」
「え!? いやいや、この年で泣くって!?」
 八木の言葉にかまわず、相澤はぎゅうぎゅうと腕の力を強めた。
「笑うのをやめろ、って言っても難しいでしょう。怒りたければ怒ればいい、喚きたければ喚けばいい。今のアンタは泣きたそうだから、だったら泣けばいいんです」
「いやいや、無理だよ!」
「ここには俺とアンタしかいませんよ」
「そういう問題じゃないよ!」
「ああもう、いいからじっとしてろ!」
 相澤の腕が、完全に八木を抑えつけた。
 抵抗のしようもなく、八木はされるがままに相澤の胸に顔を埋めた。温かい体温が、こわばった八木の心を少しずつ溶かしていく。ドクドクと耳に響くのは、愛しい恋人の鼓動だ。大きな手が、優しく八木の髪を撫でる。
 ──今までいろいろなことがあった。楽観できる未来もない。目の前の子供を自分で助けることもできない。
 でも、仕事はあるし、しかも未来のヒーローを育てる仕事、それは未来への希望だ。今だって若くて優秀なヒーローがたくさんいる。
 何より、相澤くんがいてくれる。こんなオジサンの恋人になって、デートして一緒にごはんを食べて、セックスもして。その上、泣いていいだなんて、どれだけ私は愛されているのだろう──
「……ねえ、相澤くん」
「なんですか?」
 優しく髪を梳かれながら、八木は小さな声で言った。
「好きな人とこうやってくっついていてるとさ、それだけでたいていの悩みは消えていくんだね」
「そうですか」
「さっきまであんなに怖かったのに、なんとかなる、って前向きに考えられるんだ」
「それはよかったです」
「私は幸せだね。相澤くんとこうして一緒にいられるなんて、それだけで奇跡だよね」
「それはちょっと大げさです」
「とにかくね、私は今、とっても幸せなんだ」
「はい」
「だからさ……今、私が泣いているのは、幸せだからだよ。怖いからじゃないんだ」
「わかってます」
「本当だからね!?」
 相澤のシャツは既にぐっしょりと濡れている。その胸に未だ顔を埋める八木を抱きしめ、相澤は優しく囁いた。
「俺も泣きたいくらい幸せですよ、俊典さん」



END



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