■夜と昼の境目に■


 聞こえるはずのない波の音がする。この寂れたホテルに入る前、ちらりと見た深夜の海はとても昏く、陸の物を喰らう波の音が響いていた。その光景が脳裏をよぎり、だが次の瞬間には身体を絶え間なく貫く衝撃が頭の中を白く埋め尽くす。
「ッ……兄……貴ッ」
 覆いかぶさる男の汗がぽたりと滴り、ジンの唇から零れる唾液と交じり合う。海の潮に似た味が舌先に広がる。
 今、現実に聞こえるのは波の音ではない。古びたベッドがギシギシと軋む音と、愛しい男の獣じみた息遣いだ。波の音のように聞こえるのは、己の胎内を穿つ雄が脈打つ振動か、あるいは己の心臓の音か。
 ひときわ深く貫かれ、ジンの腰が跳ねあがった。口からは歓喜の悲鳴が漏れる。
「あ、ウォッ……カ……っ……そこ、もっと……っ」
 無意識に締め付けたのだろう、自分を見下ろすウォッカが低く呻く。情欲に目をぎらつかせながら、耐えるように歯を食いしばる、その顔が最高にいやらしい。
 力の入らない脚を持ち上げ、逞しい腰に絡めて続きを促せば、呻き声とともに内壁が更に激しく擦られる。
 腹の中が熱い。それが自分の熱なのか、男の杭の熱なのか、それを区別することは無意味だ。
 ウォッカが腰を揺さぶりながら囁く。
「すげえですぜ……兄貴の中……ぐちゃぐちゃに蕩けているのに……キツ……ッ」
 すげえ、イイ──吐息を漏らすように零れた言葉に、ジンは精一杯の薄笑を返した。
「俺の身体がイイってんなら……それはお前がそう仕込んだからだ……っ」
 一瞬、意味を図りかねた顔でウォッカの動きが止まった。次の瞬間、獰猛な笑みで腰を突き上げる。
「ヒ……ッ」
 のけぞるジンの身体を、ウォッカが抱きしめる。熱い身体が密着し、ジンの固く立ち上がった雄が腹に擦られる。貫かれたまま、口腔内に捻じ込まれた厚い舌を、ジンは受け入れた。舌が絡み合い、溢れた唾液が頬を伝ってシーツを汚す。
「う……ん……ンッ……!」
 舌が引き抜かれ、次の瞬間、最奥を貫かれる。堪えきれず、ジンの雄が弾ける。腰がびくびくと震え、同時に内壁が男を締め付ける。
「兄貴……く……ッ」
 ウォッカが低く呻きながら動きを止めた。
「……あ……」
 震えが未だに治まらない身体の最奥で、ジンは熱い迸りを受け止めた。それは寄せるばかりで返すことのない波のように、ジンの中を浸していった。
 
 
 
 ふと、ジンは目をあけた。だるい身体を引きずり、ゆっくりと起き上がる。カーテンを閉めることを忘れた窓の向こう側、昏い海の上の空が薄紫色に霞んでいる。
 気を失っていたのは一時間程度だろうか。備え付けのデジタル時計の緑色の光が、午前四時前を示している。
 薄闇の中、古びたホテルの内装が目に映る。擦り切れたカーテン、くすんだ壁紙、色あせた花の絵、染みが目立つカーペット、二つ並んだ古いシングルベッド。ベッドは一つが未使用のままで、自分がいるもう片方はぐちゃぐちゃだ。そのシングルベッドの半分に、ウォッカがこちらに背を向け、身体を縮こまらせて眠っている。
 ジンはそっと、その背中に触れた。男の背に墨で彫られた獰猛な獣は、今はその宿主と同様、穏やかな姿をしているように見える。
 煙草に火をつけ、ジンは再び窓の外を見た。
 昨夜は埠頭で荷の受け渡しがあった。この国の人間ではない相手から、この国では手に入らないものを手に入れるための取引だ。相手の船に積まれた大きなコンテナと、こちらが持参したジュラルミンケースを交換し、取引は恙なく終わった。コンテナを埠頭の貸し倉庫に隠したその帰り道、この海辺のホテルに泊まったのはただの気まぐれだった。手荷物の取引とは異なり持ち帰るものは何もない、気まぐれが許される状況はそうあるものではない。
 海辺の寂れた観光地、その寂れたホテルの寂れた部屋。
 吐き出した煙草の煙が遮るまでもなく、薄汚れた窓から見える海辺は白く霞んでいる、
 ジンはそっとベッドから降りた。シャワーで軽く汚れを落とし、着慣れた黒い服を身につける。
「兄貴……?」
 浴室から出ると、ウォッカが目を擦りながら身体を起こしていた。
「こんな時間に、どうしやした?」
「ちょっと出てくる。お前は寝てろ」
 ドアに向かうジンの後ろで、バタバタという音がした。
「ちょっとだけ待ってくだせえ、俺も行きやすから」
 それから五分と経たないうちに、ウォッカは身体の汚れを洗い流していつものスーツを着込み、ネクタイを締め終えていた。
 一時間程しか寝ていないのにタフだな、とジンが笑うと、それはこっちの台詞ですぜ、とウォッカが苦笑いをした。
 
 
 
 夜明け前の砂浜を、二人は並んで歩いた。砂に革靴がとられ、歩きにくい。
 潮の香りが強い。波音は静かで、寄せては返すを繰り返している。
 水平線の上、薄紫だった空の色が徐々にオレンジがかってくる。夜明けの海は奇妙な色をしている、そうジンは思った。それは夜が──自分たちの世界の時間が終わり、表の世界の時間が始まる、境目の色だ。
 水平線から太陽の上端が見え始め、水面に僅かな光が映る。時折、海鳥が空を横切る。
 薄紫色の空気の中、ジンは足を止め、見るとはなしに海の向こうを眺めた。
「……にき……兄貴!」
 己を呼ぶ声に気づき、ジンは視線を隣に動かした。
「なんだ?」
「いや、兄貴が……」
 言いづらそうにウォッカが口ごもる。
「なんだ、言え」
「いやその……兄貴の髪が、空と同じ色に見えたんですよ。光の加減でしょうけど」
「……?」
「だから、その……うまく言えねえんですけど、兄貴と空が同じになっちまったように見えて……空に溶けちまいそうで……」
 なんだ、そりゃあ──呆れつつ、ジンは自分の髪を見た。確かに、薄紫とオレンジが混じったような、空と同じ色をしている。元が銀色なのだから仕方がない。
 そう思いつつ、ジンはウォッカを見た。
 髪が長く肌が白いジンとは異なり、ウォッカの身体はほぼ全てが黒だ。シャツもワインレッドで落ち着いているし、肌の色も普通だ。明け方の空の色に染まることのない、揺らぎない色彩だ。
──ああ、そういうところが、こいつのいいところだ──
 闇の中でも光の中でも、ウォッカは同じ色をしている。海や空のように、時間や季節によって色を変えたりはしない。夜の色にも昼の色にも染まることがない。
「ウォッカ」
「あ、へい」
 慌てたように、ウォッカが返事を返す。
 ジンは薄く笑った。
「帰るぞ」
 もうすぐ日が昇る。俺たちは、俺たちの世界へ帰る。俺たちの黒い世界へ。
 
 
 
 薄い朝日の中、黒いポルシェが海辺の一本道を走る。
 運転席でステアリングを握りながら、ジンはサイドミラーをちらりと見た。薄紫の空は徐々に色を失い、ただ明るいだけの光が満ちてゆく。
 助手席でウォッカがあくびを噛み殺している。その様子に心の中で笑い、ジンはアクセルを踏んだ。



END



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