■古い歌を知っているかね?■


 ぼんやりと意識が覚醒する。無意識にベッドの半分に手を伸ばすとそこに男の身体はなく、ただシーツに体温が残されている。
 キッチンの方から調理器具が触れ合う音がする。
──ああ、そういや夜中に帰ってきたんだったな。まだ寝ていりゃいいのに──
 前日、ウォッカは独り仕事で遠出をしていた。ウォッカはジンの相棒ではあるが、時には別の任務を割り振られることもある。昨日はたまたまそんな日で、ジンの方は次の仕事の下準備をし、夜には独りマンションのベッドで眠った。夜半過ぎ、ウォッカが帰ってきたことは覚えている。明かりを落とした部屋の中で、ただいま帰りやした、と優しく笑うウォッカの顔が記憶に残っている。
 ゆっくりとベッドから起き上がろうとしたジンの耳に、ふと、耳慣れない旋律が届いた。
 否、それはメロディと言うよりは音階の羅列で、曲の体を保っていない。歌詞はなく、ウォッカの声で紡がれるそれは鼻歌だ。
 妙な歌だな──ぼんやりとその声に耳を傾けていたジンは、突然、がばりと跳ね起きた。
「おい、その歌、どこで覚えてきた!?」
「え!? あ、兄貴、おはようございま……す?」
 寝起きの艶姿のままキッチンへと怒鳴り込んできた、その剣幕に驚いたウォッカの手から、卵がひとつ、滑り落ちた。
 
 
 
 前日。
 ウォッカの仕事は奇妙なものだった。
 仕事自体は単純なもので、僻地に住む老科学者の自宅まで行き、過去の研究データを受け取る、というものだった。取引はスムーズで、老人は余生を送るに十分な現金と引き換えに、すんなりとデータを渡した。本来なら幹部であり、しかも荒事に従事することの多いウォッカがするような仕事ではない。何故、自分にこんな任務が言い渡されたのか、それはウォッカの知るところではなかった。自分はただ命令に従うだけだ。
 簡単な仕事ではあったが、ひとつ問題があった。研究データの媒体が、全て紙だったのだ。もちろんプリントアウトされたものではなく、全てが手書きだ。膨大な紙の束をアタッシュケースに詰め込み、組織の研究施設まで確実にハンドキャリーする、それがウォッカの任務だった。
 黄変した紙には、数式やら図形やらがびっしりと書き込まれている。その膨大な量の紙をアタッシュケースに詰め込むため、悪戦苦闘するウォッカに、老人はのんびりと話しかけた。
「あんた、想い人はいるかね?」
「……答える必要はねえな」
 ばさばさとかさばる紙と格闘しながら、ウォッカは内心、呆れていた。およそ、裏社会の人間が取引相手とする会話ではない。
「そうか、では、その想い人は、古い歌を知っているかね?」
 なんでいると決めつけるんだ?──自分の回答が肯定であったことに気づかず、ウォッカの脳裏には銀髪の兄貴分の姿が浮かぶ。
──古い歌、ってのは、クラシックとかオペラのことか? それとも伝統的な地方民謡か──いずれにしても、兄貴は知識豊富だから知っていることは多いだろう──流行歌には疎そうだけれど。
「……答える必要はねえ、って言ってるだろ」
 ウォッカの答えに、老人は笑った。
「そうかそうか、ならばこの歌を歌うがいい」
 老人の口から音の羅列が流れ出る。メロディとして成立しない、歌としての心地よさなど持たないその音を、ウォッカは知らず、口ずさんでいた。その音階は何故か甘く、己の想い人を連想させた。
 
 
 
「──というわけなんでさ、兄貴。俺にも何が何やらさっぱりでして」
 床の卵を片付けながら、ウォッカは困惑顔で弁解した。
 昨日、紙の束をようやくケースに詰め込み、老科学者の家を出て車に乗り込み──ふと振り返ると、そこには朽ちた家があるばかりだった。つい先ほどまでは、古くとも人が生活している家だったというのに。
 夜半、組織に戻ったウォッカは、アタッシュケースを研究者に手渡し、顛末を伝えた。組織の科学者は、その報告を予期していたかのようにただ笑い、忘れろ、とだけ言った。そうして、ウォッカには音の羅列だけが残されたのだ。
「しかし、なんなんですかね、この歌。兄貴は知ってるんですかい?」
 その音階が、ウォッカの低い声に載って滑り落ちる。
 途端に、ジンの顔が真っ赤になった。
「あ、兄貴!?」
「──その歌、俺の前以外では歌うな」
「え、そりゃあいいですけれど、兄貴、何の歌なんですか、これ」
「知らねえ!」
「いや、知らねえってことはねえでしょう!?」
 ウォッカの声を他所に、ジンはベッドに逆戻りして布団を被った。
 あの音階は、古い暗号だ。かつてコンピューターが無かった時代から、暗号は存在した。それは時に絵に、時に音楽の中に紛れ、情報を伝えた。
 古い時代の遺物、単純なその暗号は、頭の中で復号表を思い浮かべれば容易に解読できる。
 あの音階が意味する言葉は──
『愛しています』
 ウォッカの声が甘く言葉を紡ぐ。普段は夜のベッドの中で、それも未だに遠慮があるのか滅多に言われない直接的な言葉が、朝のキッチンから鼻歌になって流れてくる。
「くそっ」
 頬の火照りは未だにおさまらない。まったく兄貴分としての威厳も何もあったものではない。
 しびれをきらしたのか、布団の外側から『兄貴? 大丈夫ですかい?』という声が聞こえる。
 布団の中から出ることもできず、ただこっそりと、ジンは同じ音階を唇に載せた。



END



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