■禁句■


 春の日差しが穏やかな休日。
 朝食を終えた二人は、何をするわけでもなく、座っていた。
 窓から差し込む明るい光が、フローリングの床に反射する。
 速水はいつもどおり、ソファーの背もたれに身体を預けていた。
 安積は珍しく、速水の足元の床に座っている。ソファー好きの安積が、床に座るのは珍しい。
 いつもと違う行動には、何かしらの意味がある。
 速水はあえて何も言わず、安積のしたいようにさせていた。
 安積の頭が、速水の膝にもたれかかる。僅かに頭を載せ、安積は速水の方を見ずに呟いた。
「幸せだな……」
 速水が笑う。
「それは良かった」
 速水から僅かに見える安積の顔には、いろいろな表情が入り混じっていた。笑っているような、泣いているような、そんな顔だ。
「こんなに幸せで……」
──許されるのだろうか──
 安積は声に出さずに呟いた。
 速水が、安積の頭に触れた。
「どうした、春の陽気にやられたか?」
「そうかもしれない」
 こんなに穏やかな日を過ごすのは、何年ぶりだろう。
 遥か昔、結婚したばかりの頃──娘が幼いときには、こんな日もあったような気がする。間違いなく、あの頃は幸せだった。おそらく、妻もそうだった──と思うのは、思い上がりだろうか。
 安積は、速水の膝に凭れたまま、大きな窓を見た。
 明るい日差しがカーテンを通して、柔らかな影を作っている。窓の外に見える木は、生命力に溢れる新緑を誇っている。
 速水の手が、安積の頭をやさしく撫でた。
 自分は今、こんなにも幸せで。だからこそ感じる、この苦しさは、罪悪感だ。
 自分は妻を幸せにできなかった。幸せにする、という感覚こそが、思い上がりだったということは、今では十分に分かっている。だが言い方はどうあれ、離婚するまでの数年間、二人の生活が穏やかなものでなかったのは確かだ。
 どちらが悪い、ということではない。おそらく、どちらも悪く、どちらも悪くないのだ。頭では分かっている。
 安積は、最後に会った妻の顔を思い浮かべた。
 妻は今、幸せだろうか。
 幸せなど、所詮、主観的なものだ。外から見た状況で、それを判断することはできない。
 もし──もし妻が、今、幸せでないのなら──
 自分だけがこんなにも幸せでいいのか? それは許されることなのだろうか。
 速水は何も言わない。ただ穏やかな時間が流れていく。
 安積は、速水を見上げた。
 速水はいとおしそうに、安積を見つめていた。
「どうした?」
「……」
 思わず出そうになった言葉を安積は飲み込んだ。
 今の自分が口にしていい言葉ではない。
 それは、安積にとっては、偽りのない本心だ。現実に他の人間に聞かせるつもりは毛頭ないが、気持ちの上では、誰に恥じることなく言える、真実だ。
 だがそれは同時に、贖罪の言葉だ。そして、全てが許される言葉だ。どんな罪も、この言葉の元に許される。人はそう、錯覚する。
 今の自分がその言葉を口にするのは、気持ちを伝えるためではなく、ただ許されたいからだ──安積はそう思った。
「安積」
 速水の手が、頬に触れた。
「言いたくないことは言わなくていい。だが、言いたいことは、吐き出してしまえ」
 安積は首を横に振った。
「……俺は、ひどい男だぞ」
「そうだな、おまえはひどい奴だよ」
 速水は優しく笑った。
「そのおまえのひどい言葉で、俺が傷ついたことがあるか? 本気で怒ったことがあるか?」
 何度もあるだろう。安積はそう思った。二十年間、何も知らずに速水に言った言葉の数々。おまえに幸せにしてもらわなくてもいい、と啖呵をきったこと。怖いのか、と、速水の心を抉ったこと。傷つかないはずがない。
 それでもなお、今、自分を見つめる速水の顔は、こんなにも優しい。
「……本当に、ひどいことを言うからな」
「ああ」
 安積は立ち上がった。ソファーに片膝で乗り上げ、速水を正面から抱きしめた。
「速水……」
「……」
「愛している」
 安積は唇を噛み締めた。肩が震える。
 速水が強く、安積の身体を抱きしめた。
 あやすように、大きな手が頭を撫でる。
「……馬鹿だな、おまえは」
 自分が何故、泣いているのか、安積には分からなかった。
 ただ速水の肩に頭を埋めたまま、安積は泣き続けた。
 
 
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 ようやく感情がおさまり、安積はソファーの隅に腰掛けた。
 速水の顔が見られない。
 自分はまた、速水を傷つけただろうか。そんなことはないと速水の腕は伝えていた。だが、僅かな不安は消えない。
 その時、携帯の着信音が聞こえた。安積の携帯だ。
 応対するうちに、安積の表情が変わる。
「事件か?」
 速水がソファーの上で言った。
「ああ」
 安積は手早く、身支度を整えた。正直、今、速水の傍にいるのはいたたまれない。呼び出されたことに、安積は少しだけ安堵した。
 逃げ出すように玄関に向かい、安積は振り向いた。
 速水は玄関まで、見送りに来ていた。その顔は、苦笑している。
「……すまない」
 先ほどの言葉に対する謝罪なのか、休日を過ごせないことに対する謝罪なのか。安積は自分でも分からなかった。
「安積」
 速水が言った。
「俺も、おまえにひどいことを言ってやろう」
 安積の表情が、こわばる。
「今日、俺はこの部屋でおまえを待っている」
 待っている、という言葉が、安積の心に響いた。
 それはかつて、妻が毎日のように言い、安積を追い詰め、そしていつの間にか言わなくなった言葉だ。そして今まで、速水が安積にこの言葉を言ったことはなかった。
「ずっと待っている。夜中になったら、寝ながら待つ。だから、終わったらここに帰ってこい。必ず、だ」
 速水は安積の顔を覗き込んだ。
「どうだ、傷ついたか?」
 傷つくはずがない。好きな相手が、自分を待っていてくれる。嬉しいに決まっているじゃないか──
 安積は、はっとした。
 速水がにやりと笑った。安積の唇に、自分の唇を軽く重ねる。
「行ってこい」
 安積は笑った。
「ああ、行ってくる」
 ドアを閉め、まっすぐ前を向き。安積は駅へ向かって歩き出した。


END




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