■春はまだ遠く■


 パトロールから戻った速水は、ブーツの音も高らかに交機隊の部屋へと向かっていた。臨海署の廊下は、窓から差し込む柔らかな光に霞み、しかしその窓ガラスは春の強風にガタガタと鳴っている。老朽化してなお、嵐にも潮風にも耐え続けるこの建物を、速水は密かに気に入っていた。
 ふと眼に軽い異物感を感じ、速水は瞼を瞬かせた。自分はもとより、これしきの強風に怯む交機隊ではないが、この埃っぽさには参る。先ほどまで乗っていたバイクも、署に戻ったときにはすっかり白くなっていた。
 制服の埃を払いながら廊下を歩いていると、見慣れた二人組が眼に留まった。階段脇にある自動販売機の前で、立ったままコーヒーを飲んでいる。据え置きのテレビを見ながら、太った男が何やら熱心に話し、姿勢の良い男が静かに頷いている。強行犯係は、今日は比較的平和なようだ。
「よお」
 軽く声をかけると、二人は同時に顔を向けた。
「あ、速水さん」
 須田が愛想よく笑いながら挨拶し、黒木はさらに姿勢を正して黙礼する。いつもどおりの反応に、速水は密かに笑った。
 小銭を取り出し、自動販売機に入れる。ボタンを押すと紙コップの落下音がコトンと聞こえる。
 機械がコーヒーを注ぐ間、速水はテレビに目を向けた。都内の公園らしい場所で、女性リポーターが洋服をパタパタとはためかせながら、春の訪れを伝えている。
「今日は風が強いですね。看板とか、飛ばないといいですけれど」
 須田が誰とは無しに呟く。そうですね、と黒木が真面目な口調で同意する。その声に、コーヒーの出来上がりを知らせる音が重なった。
 速水はカップを取り出した。テレビを眺めながら無意識にポケットを探り、二杯目を買うために小銭を投入口に差し入れる。
「ああ、速水さん、チョウさんなら──」
 速水が我に返って動きを止めたのと、須田が『しまった!』という顔で言葉を止めたのは、ほぼ同時だった。
 小銭が機械に呑み込まれる音がやけに響く。
 今、自分はいったい誰のために二杯目を買おうとしたのか。目の前の二人の会話を聞き流しながら、自分の頭の中を占めていたのは他ならぬ彼らの上司の姿だ。
 ほんの一瞬の、しかし腹の奥底にボディーブローを喰らったような衝撃を押し殺しながら、何食わぬ顔で速水は続けて小銭を投入した。
「──安積がどうしたって?」
「あ……えーっと……」
 取り繕うように言葉を濁しながら、須田は傍の階段の上を見上げた。
──屋上、か──
 お気に入りの場所にいるであろう男の姿を思い浮かべながら、速水は冷静にボタンを押した。
「じゃあ、私たちはこれで……」
 逃げ出すように須田が立ち去り、黒木が不思議そうな顔をしながらも、それに続く。
 点滅するランプを見つめながら、速水は苦く笑った。まったく、大した失態だ。自嘲するより他にない。
 二杯目のコーヒーが出来上がるまでの時間が、やけに長く感じられた。
 
 
 
 片手で二つの紙コップを持ち、片手で屋上へのドアノブを掴む。風圧で押し戻されるドアを速水は腕力で押し開けた。
 柔らかい日差しの下で、遮るものの無い風が音を立てて吹き荒れている。
 その風に煽られながら、安積は手すりにもたれ海の方を眺めていた。寒いのだろう、かなり首をすくめて縮こまっている。
 そこまでしてこんな場所にいることはないだろう、と思わなくもないが、安積のささやかな息抜きに文句をつけるつもりは毛頭ない。何より、安積がこの場所を好む理由が、速水には分かっていた。
「ハンチョウがこんなところでサボりか?」
 風に負けないよう少し大きな声をかけると、安積が驚いたように振り向いた。
「お前こそ、こんなところまでパトロールか」
 少しむっとした顔の安積に、速水は平然と笑った。
「外のパトロールはさっき終わった。今は署内のパトロール中だ。仕事熱心だろう?」
 まだ何か言いたげな安積にコーヒーを差し出す。
 そろそろ戻ろうと思ったんだが──などと言い訳がましいことを言いながら、安積はカップを受け取った。紙コップごしに伝わる暖かさに、安積の表情が僅かに和らぐ。それを見て、速水はひっそりと笑った。
 コーヒーに口をつけながら、安積はまた、目線を海へ戻した。
 速水もその隣で手すりにもたれ、安積と同じ方向を見た。遠くに見える海が、春の日差しに輝いている。風のせいで波が高い。波の合間の光と影が、くっきりとしたコントラストを作り出している。
 何も言わず、速水はただ安積の隣で海を眺めた。できるだけゆっくりと、コーヒーに口をつける。隣の安積がカップに口をつけ、満足そうに息を吐く。
 強い風が容赦なく、二人きりの屋上に吹き付ける。
 安積は海を見ながら何を考えているのだろうか。仕事のことか、部下のことか、娘のことか。それとも、今だけは何も考えていないのだろうか。どちらにせよ、この僅かな息抜きは安積にとって、おそらく本人が思っている以上に大切なものだ。そして少しの間だけ、安積と同じ方向を眺める──それが二十年来の付き合いである自分の特権だ。ささやかな、だが、この上ない特権だ。
 これ以上、何を望むというのか。
 夕方が近づき、水面がキラキラと光を反射する。安積の方を見ようとして、しかし速水は海から目を離すことができなかった。安積を見るより、安積と同じ方向を見ることの方が重要なのだと、そう思い込もうとしていることを速水は自覚していた。
 不意に、安積が動いた。コーヒーを一気に飲み干し、速水のほうを向く。
「俺はそろそろ戻るぞ」
「ああ、俺はもう少しここにいる」
 速水は安積の手から紙コップを取り上げた。
「コーヒー代は?」
「ツケとくさ」
 速水の答えに僅かに笑い、安積はドアへと向かった。去り際に、「ありがとう、温かかった」という小さな声が速水に届く。
 ドアが完全に閉まるまで、速水はその場にいた。
 風音がごうごうと響く。
 速水は身震いした。さっきまで寒さを全く感じていなかった自分に苦笑する。
 手の中の紙コップをしばらく見つめ、速水はそれを握りつぶした。ほんの数分、安積と時間を共有するための、これは対価だ。
 春の嵐に背を向け、速水は建物へと戻った。階段を下りると、自動販売機の前に人影は無かった。
 つけっぱなしのテレビから、先ほどの女性リポーターの声が流れる。明るい声が、今日、東京に桜が咲いたことを告げている。
 その声を聞きながら、速水は対価の残滓をゴミ箱へと投げ入れた。小さく息を吐き、表情をいつもの不敵な笑顔に変える。そしてブーツの音を響かせながら、速水は今度こそ交機隊の部屋へと向かった。



END







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