スポーツコラムNo.5

スポーツ新聞って何?(2001/1/19)


ここ何年も思っているのが題名に書いてあることだ。
インターネットを始めるまでは、F1のある時に(トーチューは売ってないので)デイリースポーツを買っていたのだが(タイムが載っているので)、ネットを始めて必要な情報が集まるようになると、用なしになったので一切買わなくなった。

本当にスポーツ新聞はスポーツを伝える新聞なのか?
1面はスポーツの本質に迫るような記事はなく、スキャンダルな記事が重宝され、そして誇張されて書いてあるのは当たり前、挙句の果てには芸能関係の記事が平気で一面を飾るようになっている(新聞社的にはスポーツをきちんと伝えることよりも大物芸能人の結婚をスクープする方が重要視されているらしい)。

スポーツ新聞という枠にに芸能、釣り、ギャンブル、アダルト等が入っていてスポーツ新聞と名乗っていいのだろうか?
いっそのこと、”何でも新聞”あるいは”娯楽新聞”とでも改称した方が分かりやすいのではないか?
などと疑問に思ってきた。

スポーツ新聞は誰に向けて作られているのかを考えると納得するかもしれない。
どう考えても、スポーツを本当に知りたいという人ではなく(老若男女問わず)、通勤電車の中で暇つぶしのために読む”オヤジ”を第1ターゲットにしているのだろう。
だから長嶋が背番号を見せたとかという、若い人及びスポーツファンにはどうでもいい、本当にくだらない話題が大きく取り上げられるのだろう。他にも高橋尚子の金メダルより、小さなコップの争いの巨人の優勝が1面を飾るという摩訶不思議なことも起こるのだろう。(この時は怒りを通り越して呆れるのみだった)

こうなるのはスポーツ新聞を作っている社内にも問題があると思う。上に立っているのがスポーツ=(スポーツとして問題の多い)野球で育ってきた世代が占められている(だろう)ことがまずひとつ挙げられる。
記事が大きく野球に偏りすぎていて、野球のない火曜付けはサッカーのスキャンダラスな記事が多くある(らしい)というのは偶然だろうか。

他にも担当のスポーツが分かってきた頃に異動があるという風に、担当者の知識・理解が読者の要求レベルに達している人(そこまで要求している読者がどのくらいいるかは未知数・・・そういう人はスポーツ紙には期待してないような気もする)も少ないのではないか(最近全く読んでないので分からないが)。
記者の主張が入った記事が少なく、ただ出来事を書いているだけの場合が多いというのもそういうことが関係しているのだろう。

例えば、署名記事を多くすればそれだけ責任も大きくなり、緊張感を持った記事が書けるようになれば、読者にとって少しはスポーツ新聞を買う価値が出るかもしれない。

そもそも、スポーツ新聞に存在意義はあるのかというと現時点では一部の人を除いて”No!”だと思う。
速報性ではインターネットには太刀打ちできず、記事の内容も専門誌には遠く及ばない。
ではどこに存在意義を見出せばよいのかと。

ひとつは先ほど言ったように記事の内容を充実させることは当たり前だと思う(1面等で大きな写真と大きな見出しを付けるスペースがあるなら、その分だけ内容のある記事が読みたいという読者も少なくないと思う)。

他には色々なスポーツを取り上げることも必要だと思う。もちろん、ひとつのスポーツに特化する新聞も存在するだろう。しかしそれではスポーツ新聞ではなく○○(スポーツ名)新聞とする必要がありそうだが。
そういう意味では今のスポーツ紙のほとんどは野球新聞と言えるだろう。

深く伝えることが困難なら広く伝えることを考えるのが自然なことだと思う(個人的にはスポーツ新聞にはプロ野球のキャンプ等に膨大なスペースを割くよりも、もっとウィンタースポーツの情報を要求したい)。潜在的に多いと思われる色々なスポーツを知りたいスポーツファン(五輪だけなどのにわかファンも含む←はかなり多いと思う)向けに作るのもひとつの手だろうし、スポーツを知る登竜門的な存在になればスポーツ新聞の存在意義が出てくると思う。

やはり、今の低俗で読む価値のない新聞というイメージと実像(筆者だけ思っていることかもしれないが)を変えていかなければ、長嶋世代が死に絶えた時、スポーツ紙は一部の人を除き誰も見向きをしないマイナーな存在となっているだろう。


今のスポーツ新聞が日本のスポーツ文化を象徴していると思うと(文化として存在しているのかさえ定かではないかも)、ため息しか出てこないのだが・・・。

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