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江戸時代のタナゴ釣り
序章
タナゴ釣りの起源を推測する
釣り文化誕生の背景

江戸時代・享保年間までの釣り
たなご釣りの夜明け前 明和から享和までの釣り
たなご釣りの夜明けと成熟 化政時代
順次アップしていきます
















「 江戸時代のタナゴ釣り(序章)」

 私はいま、江戸時代の大江戸図を詳細に眺めることを日課としている。
江戸の地図には大別して大江戸図という一枚もの地図と切絵図という分割図があるが、私の場合、もっぱら切絵図を座右に置いて活用している。しかし、この切絵図というものが実に厄介な代物で、今日、われわれが地図を見る場合、多くは上が北になっていて方角を見定めるのに大切な役割を担っているのだが、江戸切絵図の場合、方角がまちまちで苦労する。最近では現代の東京地図に江戸切絵図をダブらせて方角を見やすくしているものも出ているが、気持としては江戸切絵図の地図上で江戸の昔を歩いてみたい・・・。

特に、両国橋を渡った本所・深川一帯は江戸時代の文人墨客が愛した風光明媚な癒しの場所でもあり、また裕福な階層が江戸の粋を求めて遊楽し美食を求めた別天地でもあったのだ。そのうえ、この一帯は海釣りと岡釣りの両方が楽しめる釣り場でもあり、江戸時代中期以降、寺参りや花見見物の人に混じって多くの釣り人が闊歩していたようです。浮世絵師の広重が書いた「江戸名所図絵」でも墨田川沿いから本所・深川さらに中川辺りまでの風景を書いたものも多く、当時の風景を偲ぶ手段として見てみるのも面白いと思う。

たなご釣りを趣味とする私は、以前から江戸時代のタナゴ釣りに関する書物を興味深く読んでいたが、いざ自分が江戸時代にタイムスリップしてタナゴ釣りをしようとすると、不明な点が多くあるのに気づいていました。今日、江戸時代のたなご釣りというと、穂先に鯨の髭を使った長さ45センチぐらい桟取り竿をつまむように持って筏の上に座り、寒い冬の日に「江戸の粋」を唯一の温もりに釣り糸を垂れる優雅な釣り姿を思い浮かべるが、いざ自分がその場所で同じようにタナゴ釣りをしようとすると、解明しなければならない事柄が幾つも出てくる。また、江戸時代のたなご釣りには、筏の上での釣り方だけでなく長さ四五尺の竿を使うタナゴ釣りもあり、釣る時期も桟取り竿の釣りでは11月より2月までの寒中がシーズンであるが、他の釣り方では水温む春から秋までがシーズンという違いもある。

未だに江戸時代のたなご釣りといえば、金屏風に奇麗どころはべらせ杯を片手に贅を尽くした釣り具で遊ぶ大名釣りを思い浮かべる人もいるようだが、少なくとも記述で見る限りそのような釣り風景は出てこない。

たなご釣りが江戸の粋を具現化したものであるとするなら、華美に過ぎたタナゴ釣りは野暮であると、江戸の粋の実践者であった当事の教養人は揶揄したに違いない・・・。

 いずれにせよ、江戸時代のたなご釣りを邂逅しようとするなら、その場所はたなご釣りのメッカともいうべき立川(竪川)がある本所か、木場があった深川一帯を除いては考えられないでしょう。しかもこの一帯は江戸時代中期以降、釣りという道楽を支えていた旗本、御家人が多く住んでいた場所であり、また、多くの釣道具屋が密集していたのである。

さらに付け加えるならば、現存する日本最古の釣り本「河羨録」を書いた津軽采女の屋敷があったのは立川の三つ目通り、屋敷を出て数分から数十分で多くの釣り場に行けたのです。五代将軍犬公方の時代はともかく、大身の旗本という時間も金もある身分の津軽采女・・・・釣りを趣味とした道楽者に、できる事ならお会いし薀蓄に耳を傾けたいものである。「身分をわきまえぬ慮外もの」なんて叱られてお手討ちなったら、釣りどころじゃなくなってしまうかも・・・。

津軽采女の時代に、たなご釣りが成立していたかどうか定かでないが、1600年代終わりから1700年代中ごろには、桟取り竿を使ったたなご釣りは未だなかったと考えてよさそうである・・・・もし津軽采女の時代にこの手のたなご釣りがあったとするなら、「河羨録」に何らかの記述があってよさそうなものであるし、たなごの釣り場は津軽采女の屋敷から僅かな距離でしかないのだから、例え津軽采女がたなご釣りをやらなくても、釣りの一つとして取り上げるのが自然であろう。

江戸切絵図を旅し、江戸時代のたなご釣りにロマンと江戸の粋を夢みるにしても、やはり日本独特の価値観を源とする「桟取りたなご釣り」の起源は抑えておきたいところ・・・。

それでは桟取竿を使う寒中のたなご釣りの起源を何処まで遡るかということであるが、諸文献から推察しても19世紀初頭・・・いくら遡っても18世紀末を上ることはないであろう。しかし、春から秋までのタナゴ釣りとなると釣り方も場所も断片的な記述しかなく、起源を推察するには私見の部分が多くならざるを得ない状況下では慎むべきであろう。

いずれにせよ、資料不足の感はぬぐえないが完璧を求めては歩が進まないことも事実・・・
詳細な記述がなされている当事の日記でも発見されない限り、不明な部分を補って江戸時代のタナゴ釣りを紐解くより他はあるまい。勿論、その時の心構えとして客観的な立場と釣り師としての探究心をバランスよく持ち続けることが大切なのでしょう・・・。

上記のことを肝に銘じながら、江戸時代のタナゴ釣りを私なりに解明し、そして当時の釣り場を江戸切絵図の上で旅し往時を偲びたいと思います。

さしあたっての考察を「江戸時代の、たなご釣り」という仮題で数回に分け発表する予定ですが、解明を試みたい主なテーマは以下の事項です。

 たなご釣りの起源を、文献から推察する。

 たなご釣りの、主な釣り場

たなご竿と仕掛けの変遷

実在した江戸時代のたなご師

 たなご釣りの餌と釣ったタナゴの種類

 タナゴ釣りの周辺道具

 皆様からのご教授、ご指導を頂きながら、更に濃い内容にしていきたいと思っていますので宜しくお願い致します。               2011年5月 

                       江戸釣趣あすか  あすか釣狂人






江戸時代のタナゴ釣り

1・たなご釣りの起源を推測する
[ 釣り文化誕生の背景 ]
釣りは労働代価・・・・すなわち経済的な利に主眼をおいた職業の釣りと、楽しみの要素が勝る趣味の釣りとに大別できるでしょう。
利または漁を主たる目的としない釣り・・・・言葉を変えれば遊び、あるいは趣味性が強い釣りが普及するには、ある条件が整うことが前提になります。
生活のなかで生まれる時間的な余裕や経済的なゆとりを有する階層が存在し、さらに治安が維持されているから安心して釣りができるという社会状況が不可欠なのです。
そういう意味で平安時代以降、日本で前記の事柄を満たしていた人たちは公家をはじめとする特権階級であったし、のんびりと釣りを楽しむ安定した治安がうまれるのは16世紀末を待つことになります。
その当時、特権階級に劣らない教養を持つ階層として僧侶がいるが、仏教思想と殺傷を是認する釣り文化とは相容れないものがあり、僧侶たちと釣り文化を結びつけるのは無理なのかもしれません・・・・。
確かに中世以降、武家の台頭、豪商の誕生により教養を有する階層が増えたことはまちがいないが、釣りを趣味として捉える文化的成熟社会は江戸時代中期の18世紀、五代将軍・綱吉の死をもって一挙に華開くことになるのです。
日本の釣り文化を物語るとき、中国のそれと比べ釣りに関する詩歌が極端に少ないのを特長とします・・・・源氏物語などには貴族邸宅の一部に作られた釣殿という池に面した部屋に、当時の釣り文化を偲ぶことはできるが、この釣殿での遊びは網による漁か池に泳ぐ魚を眺めながら魚料理の宴を楽しむのが主であったようである。
釣りをしたという記述になると、「古事記」や「日本書紀」さらに「類聚国史」などにもあるが文学的な精神性を感じることは少ない。
かたや中国では多くの文人墨客が釣りを愛し、釣りに精神的開放を求めたのは周知の通りであって、このことは中国の文化に対する懐の広さ・・・・別の言い方をすれば科挙制度による学識の広がりが、釣りの面白さ楽しさをエキサイティングな部分だけに偏重するのではなく、内面的に得られる癒し安らぎそして無常観のような精神性を共感できる教養人の裾野を広くした為だと思うのです。
 日本の精神文化の特徴を文学的側面から輪切りにすると、「侘び」「寂び」「自然観」というもの・・・つまり内面の崇高さを評価する特徴があります。
西行しかり利休しかり、そして芭蕉もまた、そういう意味での日本文化の高尚な担い手であるのですが、残念ながら彼らからは釣り文化の匂いをかぐことは出来ません。
言うまでもなく釣りは、感覚でとらえる面白さや実益が手っ取り早く楽しめる趣味であります・・・・大した努力も必要としませんし精神的な掘り下げが、釣りを楽しむ絶対条件ではないのです。それだけに無心で釣り糸を垂れ、四季の移ろいや刻々と変わり行く時間の中で内面と向き合うゆとりは、枯淡の心境に達した釣り師と彼らが釣りに向うスタイルを是認できる精神的に成熟した社会環境が必要だと思うのです。
 
歴史の古い趣味の釣りとして、イギリスにはフライフィッシィングがあり、日本にはタナゴ釣りがあります。
ともに大陸にへばりつく様な形で存在する島国・・・日本は天皇、イギリスは国王、日本には武士道があり、一方のイギリスには騎士道がある。伝統を重んじる国柄も似たものがある洋の東西で生まれた釣り文化には、釣果だけに偏重しない愉しみ・・・・つまり、釣りによって得られる精神的な充足感あるいは安らぎのようなものがあるのでしょう。
衣食足りて礼節を知る・・・「衣食足りて釣りの真髄を知る」、物質的には恵まれた現代に生きる私たちがタナゴ釣りに求めるもの、そして江戸時代の釣り師たちがタナゴ釣りに求めたもの・・・・その精神に少しでも近づきたい、と思うのです。
食べる魚を得ることを第一の目的としない釣り・・・だからこそ存在していたであろう釣り文化の奥深さを、覗きうかがえたらと願っています。
 たなご釣りは江戸の粋を象徴するものの一つとして、よく例えられます・・・・防寒着も現代とは比べものにならないくらい粗末であった当時、冬の釣りは限られた数奇者だけの楽しみであったのでしょう。
たなご釣り創成期の数奇者の心境を覗き見ることが出来れば、それはたなご釣りの真髄に一歩、近づくことだと思っています。
 [ 江戸時代・享保年間までの釣り ]
 徳川家康の江戸開府以来、動乱の時代の主人公である武士の役割は武から文のほうへと比重が変わってきます。
戦がなくなり時間と体力を持て余した武士たちが、釣りに息抜きを求めたのは自然の成り行きなのかもしれません・・・・。
武勲を立て立身出世する道を閉され、細かい規則だらけの閉塞社会の中で、彼らが魚を獲る面白さ食べる楽しさに快楽を求めた心境は痛いほど理解出来ます。
 江戸時代初期、あの伊達政宗が晩年に領国で釣りを楽しむための計画を立てていたことは有名な話です・・・この計画は正宗の死で中止になってしまいますが、独特の美学を持っていた伊達政宗が描いていた釣りを想像するだけで楽しくなります。伊達男と称される彼が釣りに浸かっていたら、全く新しい釣り道具や遊び心いっぱいの釣り場が整備されていたかもしれません・・・・・。
 現存する江戸時代最古の詳細な釣り記録とされる「松平大和守日記」は、寛永19年(1642年)に越前で生まれた徳川家康を大祖父とする著者が17歳の時から書いた日記で、その一部が今日まで残っている。松平大和守主従一行が万治2923日にハゼ釣りに行ったという記述が、知り得る江戸時代で最も古い釣りの記録であろう・・・。釣りではないが万治256日に鳥越の堀に四手網をいれエビとタナゴを獲った・・・・という記述がタナゴに関する最も古い話です。
この「松平大和守日記」には江戸の釣り、領国の釣りそして漁など多くの記述があるが、肝心の釣り方や仕掛けについての記述がなく、同行者の氏名と釣果に重きを置いているので手釣りをしたのか、はたまた竿釣りでの釣果なのかも定かでない。
このことは、松平大和守の釣りでの関心事は、もっぱら釣果に偏っていた・・・・という表れであり、釣り方についての拘りは少なかったと解釈しています。
江戸時代前期の釣り関連の本では、「本朝食鑑」が重要な位置を占めている。この本は元禄5年(1692年)に人見必大という医者が著わした12巻からなる食物本草研究の百科辞典のようなもので、その中の「鱗介部」の中に趣味性に富んだキスとハゼ釣りの光景が描写されている。とくにハゼ釣りに関しての記述は詳しく、釣り場・ハゼの性質・おもり餌についての説明のあと「江都(江戸)の士民・好事家・遊好きの者等は、偏舟に棹をさし蓑笠をつけ名酒を載せ、竿を横たえ綸を垂れ競って相釣る。これは江上の閑涼忘世の楽しみ・・・」と結ぶ。さらにキスの項ではキスの特長と料理法が紹介され「江都の芝浜・中川では7・8月に官客・市人がかざり舟を浮かべ水遊びをもよおして競って釣る。これは武江の勝れた遊びである」、そしてキスは各地の河海に生息しているが房総の海浜のものが最も大きく駿州・相州でも獲れると締めくくっている。他にアイナメ・カレイ・黒鯛釣りがあることを紹介しているが、具体的には触れていない。
「本朝食鑑」鱗介部は鯉・鮒にはじまるが釣りに関しての記述はなく鮎については、鮎の性質と大井川や京都の掛け釣りのことが簡単に述べられているが、タナゴに関する記述はない。いずれにせよ、「松平大和守日記」から数十年後の17世紀末には、釣りを遊びとして捉え風情を楽しむ人たちがいたことは驚くべき進歩であろう・・・・。
そのほかには尾張藩士、朝日文左衛門が記した「鸚鵡篭中記」という日記に元禄時代の釣りが書いてあり、これは「御畳奉行日記」(中公新書)という題名で出版されている。
この他には「釣秘伝集百カ條」という書物の存在が「何羨録」によって知られているが、残念ながら現在に伝わっていないので、詳細な全容を知ることは出来ない。
 以上が元禄6年(1693年)、五代将軍綱吉のよって出された「釣りと釣り舟の禁止令」によって衰退した江戸の釣りが、宝永6年(1709年)綱吉の死によって「生類憐れみ令」が無効になり再び趣味の釣りが復活するまで、文献によって知り得る江戸時代の釣りの概要である。 
江戸時代の釣りを知ろうと思ったら「何羨録」知らずして語れないでしょう・・・・イギリスにはウォルトンによって書かれた釣りのバイブルと称される「釣魚大全」があり、本邦には津軽采女が書いた「何羨録」があります。「釣魚大全」が数百年にわたり版を重ね世界中で愛読されているに比べ、「何羨録」は近年になって解説書が出版されているものも、残念ながら知名度は低い。「釣魚大全」は早い時期に出版され、多くの釣り人が座右に置くことが可能であったのに比べ、「何羨録」は江戸時代を通じて出版されることなくごく一部の人たちによって書き写されていた写本が今日に伝わっているのです。それでも出版もされなかった「何羨録」が高い評価を受けているのは、絵入りで解説してある資料は18世紀前半の釣りを知るうえで他に選択肢がないほど貴重な内容だからなのです。
明和7年(1770年)に日本最古の釣り本でといわれる「漁人道しるべ」が出版されますが、それ以降に出版された釣り本には「漁人道しるべ」同様、「何羨録」の影響を受けた本も少なからずあります。そのような意味もふくめて「何羨録」が、日本の釣り書籍の原点のもいうべき位置にあるといっても過言でないと思います。
 「何羨録」の著者は津軽采女という・・・津軽采女は寛文7年(1667)に生まれ享保元年(1716)に亡くなった四千石の旗本です。五大将軍綱吉に仕えたあとは小普請組のまま無役で終わった彼は、釣りの環境に恵まれた本所三つ目通りに屋敷を構えていました。本所三つ目通りとは、時代が下ってタナゴ釣りのメッカともいわれた竪川や横川・木場など囲まれた場所に位置し、彼が生きていた時代にタナゴ釣りが流行っていたら必ず目にしたことであろう・・・・。余談になりますが忠臣蔵で有名な吉良邸とも近く、采女の最初の正室は吉良上野介の娘で吉良家の後ろ盾であった上杉家に養女に出したのち津軽采女に嫁いでいます。しかも一方の主役である浅野家とも因縁もあり、歴史に登場しませんが討ち入り当時、津軽采女は非常に微妙な立場におかれていたのです。吉良邸に討ち入りがあった翌日、吉良邸への見舞い客の中に津軽采女の名前があります。そんな往時を偲びながら「何羨録」を読むと綱吉の死後、彼が釣りに没頭していった心情の一端を窺い知ることが出きるかもしれませんし、津軽采女の人となりを身近に感じるのではないでしょうか・・・・。
 さて「何羨録」ですが上・中・下の三部からなっています。上の部は鉄砲州から芝品川までの春キス、根の部、同秋キス、そして中川の春および秋キスの釣り方と場所案内・・・その他にカレイ・黒鯛をはじめ海の魚が出てくるが、大部分はキスの項に割いています。
中の部は、キス釣り心がけなくてはならない天候のはなし、下の部は竿・鈎・釣り糸・錘・テンビン・餌の各部からなり、これをもって享保年間の釣りの概要を詳細に知ることができるのです。
「何羨録」の書きあがった時期ですが享保年間の時期とする説がありますが、五代将軍綱吉が死んだのが宝永元年(1709)ですので肯首できます。また「かせんろく」の字は現存する表題が「何羨録」と「河羨録」とがあり諸説分かれるところですが、ここでは「何羨録」を用いる事にします。
「何羨録」キス釣りを主に海と河口の釣りが殆どを占める釣り指南書ですので、タナゴに関する記述は出てきません。したがって「何羨録」の詳細については割愛しますが、それでもタナゴ釣りの歴史を知ろうと思えば、通らなくてはならない解説書なのです。
 津軽采女は寛保三年(1743)に76歳でこの世を去りますが、半世紀後には江戸の釣りを代表するタナゴ釣りが産声を上げていたかと思うと、感慨もひとしおです。
後年、御はり師・ひょうたん屋理介の店には釣りの秘伝書があり、機嫌の良いときには秘伝書を見せてくれたと・・・との話が伝わっていますが、この秘伝書は「何羨録」ではなかったかと思っています。
「何羨録」は津軽采女という、閑と金が存分にあった教養人であったればこそ生まれた名著であることに疑いはありません。
「何羨録」に関する解説書は最近、何種類も出版されていますので雨の日の釣り師の一興として渋茶をすすりながら、18世紀初頭の江戸の釣りを邂逅するのも面白いかと思います。
[たなご釣りの夜明け前・明和からの享和までの釣り ]
明和(1765年)から文化文政時代になる直前の寛政・享和(1800年)頃までに出版された書籍を通じて、タナゴ釣りが誕生する背景を紐解いてみたい・・・・。
いわば、この時期は「たなご釣りの夜明け前」とも位置づけできる時代で、確たる物証には欠けるがタナゴ釣りの匂いのようなものを感じる時代でもあるのです。それだけに、書籍を注意深く読み解き、タナゴ釣りに繋がるような箇所を抜粋してみましたが、反面、たなご釣りへの思いが先行し過ぎると客観的な推考に問題が生じることになるのです。 

江戸時代最古の釣りの関する出版物として、明和7年(1770年)に玄嶺老人によって書かれた「漁人道しるべ」があります。

内容は「何羨録」を参考にし難解な表現を解かり易く改め、文字量も三分の一ほどに簡素化した本ですが、注目すべき点としては懐中竿が紹介されていることです。「近きころ、長門屋六右衛門という竿屋が作り始めた懐中竿は2,3本継ぎで入れ子構造になっている・・・」

しかしこの時点の懐中竿は文面からして海竿のようで、後年タナゴ竿を懐中竿と言ったのとは別物であるようです・・・おそらくは、振り出し竿のことでしょうが断定は出来ません。余談になりますが、振り出し竿の起源は意外と古く京竿に求める説もあるくらいです。

「漁人道しるべ」を「何羨録」のコピーだとして評価しない向きもありますが、わたしは「漁人道しるべ」が出版されたことで多くの釣り人の目に留まり、それ以降の釣り文化の大衆化普及化に大きな役割を果たした功績は大きいと思っています。

次には「闇あかり」という本を「漁人道しるべ」が出版された18年後の天明8年(1788年)に下谷に住んでいた里旭が書き、下谷二丁目の花屋久次郎という人が出版元になって出しています。

内容は、ボラの幼魚と本所・深川・千住あたりの河川の釣り場を紹介する釣り場案内書です。また、手際の良さが釣りの上手下手を決めると説き、更に「春より冬まで四季を通じて絶えず釣りに出る人は稀なり。四季を通じて釣りに出る人は自然と時々の風景釣り場を心得、処々の名も知れて獲物も多い・・・」このことは荒れ易い天候と不十分な防寒着とが災いして、冬に釣りをする人は稀であったという当時の世相を伝えています。

「闇あかり」が後の世に高い評価を受ける要因は、何と言っても当時の釣り具屋の名前と所在地が記されていることでしょう。

  釣道具屋住所

・御 用   東両国元町               吉川助八

・ 仝    東両国元町           瓢箪屋 利 助

・ 仝    両国米澤町           蕨 屋 半 兵 衛

・ 仝    両国米澤町           住吉屋 喜 兵 衛

・ 仝    両国同朋町           わらび屋 定 七

・ 仝    両国横山町           みすや 五 兵 衛

・ 仝    両国横山町           山城屋 弥 兵 衛

・ 仝    深川大橋向           伊豆屋 万右衛門

・ 仝    永代橋向            釣針屋 清 五 郎

・ 仝    永代橋清澄町          油 屋 源  七

・ 仝    永代橋ゑさ場          内川屋 清  吉

・ 仝    本所三ツ目           伊豆屋 七  蔵     

・ 仝    撞木橋際            あさり 佐 太 郎

・ 仝    撞木橋際            はりや 五 郎 七

・ 仝    中の郷             竹 や 政右衛門

・ 仝    浅草蔵前八幡町         蕨 屋 利右衛門

・ 仝    広徳寺前通新堀橋手前      江戸屋 仙右衛門

・ 仝    神田新し橋           針 屋 武 兵 衛

・ 仝    山の宿             伊勢屋 金 兵 衛

・ 仝    田 町             釣針屋 定右兵門

・ 仝    山 谷             ゑびす屋喜 兵 衛

・ 仝    三輪新町            ゑびす屋長 次 郎

・ 仝    三輪新町            はり屋 庄  蔵

・ 仝    下谷屏風坂下          竹 屋 万 五 郎    

 上記の釣道具屋が「闇あかり」で紹介されている店ですが、「闇あかり」は、このほかにも釣道具屋は所々にあり、ことごとくは知りかねる、と結ぶ。そして本所の部では大川橋を渡ってからの釣り場案内が四つ木、梅田あたりまで書かれています。

深川の部では上木場釣り場・中木場釣り場・下木場釣り場の案内と、店の名前・個人名あるいは地名と思われる名称が37件ほど紹介されているが、この名前が何を意味するのか確たることは言えないは残念です。ただ、「堀敷も有らまし覚申候・・・・」との注釈からして、筏の管理者なのか又は筏の上に座り易くするための釣座のようなもの用意している人なのは判りませんが、いずれにしても釣り場の提供あるいは管理を生業としていたのかも知れません。ただ、この深川での獲物は、イナが主で手長エビ、はぜ、鮒も釣りの対象ではあったようですが、タナゴに関する記述は全くありません。

 時代は違いますが「江戸名所図絵」の中に木場の絵があり、この絵の中には多くの釣り人が豆粒のように描かれていて往時の釣を偲ぶ縁として興味深いものがあります・・・・木場に浮かぶ筏の上で竿を二本出す釣り師の先には、筏の上で立ったまま竿を振る釣り師が見え、側には座って同じ様な長さの竿を出す釣り人が見えます。更に川には舟を浮かべ二人の釣り師が同様の長い竿を出し、遠くの貯木場にも三人の釣り師の姿が豆粒のように描かれているのです・・・・その他には釣り具を竿に結びつけ橋を渡る釣り師が一人、合計9人もの釣り師が描かれています。おそらく竿の長さから推測してイナを釣る人たちで手前で並べ釣りをしている人だけが鮒の可能性が高いと思っています。この絵を詳細に調べると登場人物の服装からして暖かい季節のようです。

この他にも遥か彼方に木場を望む州崎弁才天の絵には川に浮かぶ筏の上で長い竿を出している二人の釣り師が描かれ、本所一つ目の深川八幡御旅所の図には一つ目橋の竪川に繋がれた筏の上で竿を出す人が描かれているが、竿の長さからして桟取り竿ではない。また、深川霊雲院の図には門前を歩く人の中に釣竿を担いでいる釣り師が一人、描かれている。いずれにしても「江戸名所図絵」からは桟取り竿を使ったタナゴ釣りの様子は窺えないし、また他の浮世絵でもタナゴ釣りの様子を描いたものを私は知らない。

この「江戸名所図絵」という江戸の案内本は、神田雉子町の名主であった斉藤幸雄が寛政年間に筆をとり始め、その子の斉藤幸孝が文化年間に続き文政年間になって孫の斉藤幸成が完成した足掛け三十有余年、親子三代に渡る七巻二十冊の大作である。寛政・享和・文化・文政年間は、タナゴ釣りの創生期に入ると考えていますが、当時の風俗を余すところなく伝える絵図は、この時代を知ろうと思えば第一級の資料なのです。「江戸名所図絵」の絵を描いたのは代々絵師の家系であった長谷川雪旦で、天保十四年に六十六歳で亡くなっています。多くは江戸の各地にある名所を線描きの俯瞰図で表わし、斉藤幸雄以下三代が書いた文章が配置されています・・・・その中でも雪旦が描いた人物画の巧みさは驚嘆に値するもので、当時の各階層の老若男女を暮らしぶりはもとより性格までもが分かる人物描写は素晴しいの一言に尽きます。中には虫眼鏡で見なければ見分けつかないような人物も多数、登場しますが、雪旦の筆を取る意識が芸術作品を書くのではなく、あくまでも当時の名所や伝承風俗を資料として後世に伝えることにあった為と、私なりに理解しています。

 タナゴ釣りの創生期と正に時代を同じくする「江戸名所図絵」は、歴史に現れない当時の暮らしぶりを知るうえでも興味深いものがありますし、そこから当時のタナゴ釣りを想像するのも面白いかと思います・・・・。

長谷川雪旦が描いた絵がある本としては、他にも文政10年に岡山鳥が著わした江戸名所花暦が有名ですが、この本などもタナゴ釣りが流行り始めたころの江戸の風物を知る上では面白い本ですが、残念なことに釣りの構図は載っていません。

 

「何羨録」を秘蔵していた瓢箪屋利助の店は東両国元町にあり、「何羨録」の著者である津軽采女が住んでいた本所三つ目通りとは近い。さらに、たなご竿の創作で名をなした蕨屋利右衛門の店が浅草蔵前八幡町に見えるのは、実在した人物として、後の時代であっても彼の逸話の信憑性を補うに充分だと考えます。しかし、天明年間に蕨屋利右衛門がタナゴ竿を製作していたかどうかは不明であり、たなご釣りの確たる誕生はもう少し時代を経てからになると思っています・・・・。

たなご竿の歴史を調べようとすると、蕨屋利右衛門の存在を抜きにして考えられないのです。たなご釣りの強者と幸田露伴が言っている喜多村信節や天保時代の作とされる「釣書ふきよせ」の中に、当時のたなご竿を知るうえで貴重な蕨屋利右衛門の話が出てくるのです。詳細は後の項で書きますが要約すると、享和・文化の頃・・・本所の中に住んでいた武兵衛(本所あたりに多く住んでいた御家人か・・・?)というものは竿作りが上手であった。その武兵衛より利右衛門(蕨屋利右衛門)は学び、継竿の調子を一変する良い竿を作りだした。それまでのたなご竿は穂先の三分しかしならない先調子のものであったが、彼の竿は元よりしなり尚かつ何本継であっても細いものであった・・・・そんな調子の竿を浅草広寺前に店を出していた釣道具屋東作というものが売り流行らせているが、なかなか調子の良い竿は買えない・・・・と書いてあります。

ここで問題なのは、本所に住んでいた武兵衛が享和年間に製作していた竿が、どんな竿であるかという事なのです。西暦1801年の2月に寛政年間が13年で終わり享和元年が始まります・・・・享和年間は4年で終わり、タナゴ釣りの記述が出てくる文化年間へと続くわけですが、僅か4年で終わった享和年間がタナゴ釣りの起源を推測する上で大きな意味をもっていると考えます。

もし武兵衛が改良して作っていた竿がタナゴ竿であるとしたら、たなご釣りの起源を寛政時代まで遡らせることに無理はありません・・・。武兵衛が作った竿が何本継であるか、また長さがどの位の竿であったかを特定するには資料が乏しいので、推測の域を出ませんが、ただ武兵衛から竿作りを教わった蕨屋利右衛門が作ったタナゴ竿は、調子の良さから引く手あまたであったことは間違いなさそうです。

いずれにしても西暦1800年前後は、たなご釣りの起源を知る上で重要な年代である事に疑いはありません。

そして西暦1804年2月に享和4年が文化元年と改名されると、いよいよタナゴ釣りの記述がある出版物が現れ、江戸の粋・・・・の象徴の一つとされる「桟取りタナゴ釣り」が、流行始めるのです。

 [たなご釣りの夜明けと成熟、化政時代]

西暦1804年の文化元年からから1830年の文政13年までを略して化政時代と呼び著わし、華の元禄時代とともに江戸文化が大きく開花した時代と言われています。

元禄時代の江戸文化は、京文化の影響を色濃く受けている・・・と解釈する向きがありますが、その背景には京都がもっている貴族文化の雅さと悠久の歴史に対する憧れのようなものがあったとしても当然の事なのでしょう。

それに比べ化政時代の江戸文化は、京文化の先進性を払拭し江戸独自の価値観で作り出した文化ともいえます。もっと端的に言えば武士と町民が作り出した江戸らしさが、成熟した「粋の文化」を生んだと云えるのではないでしょうか。

 かつて奈良時代、遣唐使によって長安よりもたらした仏教文化を範とした天平文化は、唐の影響を色濃く受けていますが、その盛唐の文化を消化し日本独自の文化が華開くには平安時代の貞観年間まで待たなければならなかったのです。

このように、独自の文化が芽生えるには長い時間的経過が必要なのであって、その精神性の背景にあるものは対岸の文化への憧れから脱却し、揺るぎない自分たちへの価値観に裏付けされた自信であると思っています。

 江戸時代に於いても、京都の伝統的文化への憧れは相当に強いものであったのでしょう・・・戦国の世においても京の公家文化を庇護した国持ち大名がいたように、京文化を取り入れることは冨と強さの象徴でもあったのです。

そういう意味で元禄文化に見え隠れする京風の美意識は、当然の結果であって驚きに値することでは有りません。

 今日、伝えられる江戸の色、江戸の音、そして遊びの多くは化政時代に華開いたものが多いのです。また、食文化にしても今日、私たちが当たり前のように食べているマグロの赤身が料理屋の刺身に饗されたのもこの時代で、それまでは白身の魚が多かったようです。

ウナギも大衆料理として庶民に迎えられ、江戸一番の納涼場所として両国橋が人気で、隅田川には多くの納涼船で賑わい有名な花火が色を更に副えたのも、またこの時代です。余談ですが、人気を博した浮世絵師の五渡亭国貞は、たなご釣りのメッカとも云うべき深川は竪川、五つ目の橋の渡し船屋の倅と言われています。

こうした化政文化を支えたのは、厳しかった松平定信による寛政の改革への反動があったにせよ、江戸の町を支えた各階層の人々が従来の文化を迎合するのではなく、自分たちの価値観・経済力で楽しめる遊びを追求したからに他ならないのでしょう。

私は化政時代の文化を特長づけるものとして、「江戸の粋」が当てはまるような気がしています。云うまでも無く「江戸の粋」を生んだ精神性は、「遊びごころ」に集約することが出来ます。他人の庭に憧れるのではなく、限られた条件の中で「遊びごころ」を満足させる心境は、自分たちの価値観への自信に裏づけされた自立に基づくものなのです。

そういう意味において、江戸が江戸らしさを爆発させた化政時代の文化からは、伝統に縛られた堅ぐるしさよりも自由奔放さに溢れた活力を強く感じるし、見かたによっては反骨精神さえ窺えるのです。

「江戸の粋」とは、わかる人だけが分かれば良い・・・他人に媚びることなく、あえて分からせようとしない美意識へのこだわりを大切にしながらも、決して上からの目線ではなく大衆性を無二のものにした文化なのです。

このような時代であったればこそ、世界に類を見ない独自な価値観を有したタナゴ釣りが、花ひらいたのでしょう・・・・。

少なくとも巷間、一部で伝えられているような大名釣り、芸鼓を侍らせ杯を傾けながら釣り糸を垂れる。その道糸は若い芸子の髪の毛を使った、などという逸話を裏付ける資料などは無く、少なくとも化政時代のタナゴ釣りは、喜多村節信が心境を自らの漢詩に著わしているような、侘び寂びに通じる釣りであったのです。

 

 タナゴ釣りに関する記述がある文献で、現存する最も古い本は「江戸海川録」です。東龍斎蔵版の本は文化二年再版とされ、その餌の部に「たなごはうどんにて釣るなり・・・喰いよし」と簡単な説明があり、さらに諸釣時候釣場案内の項で「春の彼岸より鮒くいだす也・・・彼岸にかぎらず水あたたまり水垢が浮かぶ季節は、鮒・たなご食いだす」
僅かにこれだけがタナゴ釣りに関する記述なのですが、少なくとも文化二年(1805年)には、タナゴ釣りは存在していた、という事になります。

ここで注目すべきは、餌にうどんを使っているということです。文政2年に岡山鳥が書いた「丘釣話」の一節にタナゴの独り言として、「・・・なんだ、今日はうどんの粉で餌をこさえててきたな。丘えさ(注・ミミズ)もあるし飯粒よりもうどんのほうが食いがよい、なんて話しを聞いて・・・」があります。「丘釣話」は竿右衛門と針助のたわいも無い掛け合いで始まる釣りの滑稽本で、二人が昼飯を食いに言ったところから魚が登場して釣り人を揶揄するのがあらすじで、その最初の一節に前記のタナゴを擬人化した独り言が書いてあるのです。

そこで、タナゴ釣りの餌に関する発展を推測するヒントのようなものが「丘釣話」に載っている事実を記憶に留めておく必要があるでしょう。

ある意味、餌にうどんを使うようになるには試行錯誤の末の結果であると考えるのが妥当であり、うどんを餌に使う前段階としてミミズや米粒などが主な餌であった時代があったとの推測に無理は無いと思っています。現に、後代には、このことに触れている本もあるのです。

 いずれ項を改めて、餌・竿・季節・釣場所を時系列化してタナゴ釣りの起源と時代変遷の解明に取り組みたいと考えています。

「江戸海川録」では、タナゴ釣りの季節は春の彼岸ころからとしています。という事は、深川・木場界隈で流行った桟取りのたなご釣りとは、季節が合わないのですが、この一節をもってタナゴ釣りの起源が、冬の桟取り釣りに先行して春彼岸からの釣り方があったと断定するのは危険が多いと思うのです。そこで、たなご釣りの起源を本所・深川界隈で行われた俗にいう桟取り釣りに絞り込まないと、たなご釣りの起源を推測することは甚だ困難なことになってしまいます。最初からタナゴに絞った釣りと、ついでにタナゴを釣る釣りとでは釣技や道具立ての上で大きな開きがあるからです。

 「江戸海川録」に続いてタナゴ釣りのこと触れている書物として「釣竿類考」があります。作者不詳の写本は文化年間の作とされていますが、ここではその説を踏襲することにします。「たびらこ(たなごの古名)竿は、はね竿(海釣りで使う手ばね竿)の細きものなり。また、鯨を丸く削って煙管のらお竹のごとくなる仕込みにて、抜き出して用いるなり。鮒、たびらこのうけ(浮子)下に付ける錘は露玉のごとし」さらに、たなご釣りの浮子(中通し)と針の絵を図解している貴重な資料である。「釣竿類考」で解説しているタナゴ竿は、今日われわれが言う桟取り竿と断定して間違いはないであろう。ただ竿の形が振り出し竿なのか、または盛岡竿のように入れ子になっている竿なのか、はたまた今でいう継ぎ竿のように継ぎ足していく竿なのか検証を必要とすると思っています。

半世紀も前の享保八年に書き表された「何羨録」には、既に入れ子構造の振り出し竿でさえ載っているくらいですから、技術的には振り出し竿や盛岡竿のような一本仕舞いの竿も作ることは可能であったのです。

いづれにせよ、創成期のたなご釣りを知る上で、「釣竿類考」は欠かすことが出来ない貴重な情報を今日に伝える重要な本であることに間違いありません。

タナゴ釣りの起源を推測することを難しくしているのは、現存する「江戸海川録」が再版でるということです。残念なことに初版の時期を確定するのは、初版本が発見されない限り難しいことでしょう。「江戸海川録」の存在からタナゴ釣りの起源を文化元年頃と推測する説もありますが、可能な限り他方面からもタナゴ釣りの起源を推測するのに必要な事項を分析する必要が有ると思うのです。

そういう意味において、たなご釣りの発展を想像できるような竿の長さや形状、餌や仕掛け、それに釣り方などが物言わぬヒントになると考えています。

 

さらに化政時代のタナゴ釣りを解明しようとするなら、喜多村節信の「嬉遊笑覧」の存在なくして語ることができないでしょう。かの釣聖といわれる大文豪、幸田露伴が喜多村節信を称して「たなご釣りの強者」と称していますが、たなご釣りの発展に尽くした彼の功績は大きく、天保時代以降、明治に至るまで「嬉遊笑覧」の影響を受けた本が少なからず存在しています。

作者の喜多村節信は江戸で代々続く三家ある町名主の家柄であるとの説がありますが、私も頷けます。上司にへつらう必要もなく金にも困らない・・・時間と金とを自分を高めるためにだけに費やせる家柄であったから、自分自身を高めるために読書をし趣味に没頭できたのだろう。そういう意味では「何羨録」を著わした津軽采女と共通点の多いし、また人の羨む身分であったのです。

文政十三年の自序がある「嬉遊笑覧」の第12巻、漁猟の項にタナゴ釣りに関する記述があり、この中に喜多村節信が、初めて親類の小娘の髪を道糸に使ったときのことが書いてあります。使い始めたその年は誰も真似する者などいなかったが、翌年からは多くの釣り人が道糸に女の子の髪を用いるようになった。「嬉遊笑覧」には前記した竿のことを始め、喜多村節信がこだわったタナゴ釣りへの拘りのようなものがうかがえ、タナゴ釣りの歴史を紐解こうとしたら欠かせない書籍に違いない。

 黒田五柳が書いた上下2巻からなる美濃版の写本「釣客伝」は文政の頃に書かれたという説もあるが、ここでは天保年間の作として紹介は天保時代以降幕末までの項にゆずる。