箏曲の魅力―遠藤千晶と八橋検校

 

遠藤千晶―箏曲界注目の若手演奏家(文中敬称略)

平成14519日、「長谷検校記念〜くまもとお城まつり」が熊本市民会館で行われた。多数の応募者の中から予選審査を通過した、箏、尺八、三味線、琵琶のコンクールが開催され、審査の結果、最優秀賞と文部科学大臣奨励賞は、箏の部に出場した福島市出身の遠藤千晶(東京都在住)が、演奏の技術性、芸術性、将来性すべてにおいて完成度が高いとの理由で受賞した。

千晶は福島市天神町出身で、3歳より母に箏曲の手ほどきを受け、芸大の砂崎知子に師事。1986年には第21回宮城会箏曲コンクール児童の部第一位となる。その後東京芸術大学邦楽科生田流箏曲専攻科を卒業、卒業生代表として皇居内桃華楽堂にて皇后陛下ご高覧の栄誉に浴する。またNHK邦楽オーデションに合格、「新春江戸のにぎわい」(2001年)などに出演、ドイツやアメリカなどの演奏会に参加するなど、国内外で幅広く活躍する日本邦楽界期待の若手第一人者である。遠藤は東京芸術大学大学院音楽研究科を終了後、遠藤千晶門下第1回箏曲演奏会を開催。その後上記の表彰となっている。現在は母とともに妙祐会の運営にあたっている。(写真・遠藤千晶)

 

不世出の八橋検校は磐城出身

ところで日本でもっとも有名な土産と言えば、京都「八ツ橋」にとどめを刺すことが出来よう。この「八ツ橋」のネーミングは、実は箏曲に由来し、また近世箏曲の開祖と呼ばれる不世出の八橋検校(けんぎょう)は福島県磐城平出身なのである。
 八橋検校は江戸時代初期の筝曲の演奏家兼作曲家で、江戸初期の慶長十九(1614)年に生まれた。出生地には諸説がある。しかし『箏曲大意抄』(山田松黒著・1779年)によって、いわき市であることが定説となっている。

 

 

筑紫箏の奥義を究める

八橋検校は、幼少より目が不自由で、当時の習いとして「当道座」(盲人の組織で、検校・別当・勾当座頭などの官位名があった)に編入。幼名を城秀といい、初めは大阪の摂津にて三味線で名を高めた。その後『筑紫流筝曲』の伝承者の法水に出会い、筑紫筝の技法を学んでいる。以後岩城平藩主・内藤義概(後に義泰・風虎と号した)に仕え筝曲に励んだ。
 寛永十三(1636)年には、最初の上洛をはたし、勾当の位を得る。さらにこの頃、筑紫筝の奥義を極めたいという思いが断ち切れず、九州肥前国諫早の地にまで赴き、そこで賢順の第一高弟である慶厳寺の僧玄恕に師事、ことごとく秘曲を受け得て江戸に戻ったという。
 寛文三年(1663)頃から京都に移住したとされ、近世筝曲の普及と伝承に貢献する門弟を数多く育てたが、貞亨二(1685)年六月十二日、多くの門弟達に見守られながら、静かに音楽にかけた生涯の幕を閉じた。享年七十二歳。八橋検校は、京都黒谷の金戒光明寺(塔頭・常光院)に葬られ、戒名は『鏡覚院殿円応順心居士』である。

八橋検校の死後その業績を慕う人々の土産として銘菓「八ツ橋」が誕生したと伝えられている。

 

 

箏の魅力 

 平成1512月、遠藤に「箏の魅力」についてインタビューをした。千晶はソフトな語り口で一つ一つ丁寧に語ってくれた。

《学校教育で楽器を教える場合、箏はとても良い楽器です。箏に対しては誰もが初心者であるため同じスタート台に立っておりまして、一斉に教えことが可能です。ピアノとかバイオリンは、誰かしら習っておりますので、皆で一斉に始めることは難しいと思います。

箏の場合はチューニングが難しく、耳を鍛えるには絶好の楽器だと思います。私は母校の福島大学附属小学校で箏の指導(現在非常勤講師)をしていますが、そこの生徒が「先生、箏をチューニングしている間に一つの曲が出来るね」と面白いことをいっていました。

私個人としては、箏は自分の心を映す鏡のようなもので、心の乱れは音楽の乱れとなってあらわれます。また箏は西洋の楽器と同じような演奏も出来ます。実際ビバルディーの「四季」を演奏したCDがかなり売れています。しかし箏はそれだけではなく日本音楽に備わっている独特の「間」を入れることも出来るすばらしい楽器だと思います。この「間」というのは説明は難しく「間」だけで卒業論文を書いた人もおります。》(写真・演奏会を終えて門人たちとともに・前列中央が遠藤・コラッセ福島にて・平成1614日)

 

箏に入るキッカケ

《私が箏に入ったのは母(祐子)の影響です。母は箏を教えていましたので、身近に箏がありました。私の遊びの延長が箏でして、小さい時から自然に慣れ親しんだ楽器でした。ですから箏のレッスンを苦労して受けた記憶がありません。ただしコンクールに出場する時は厳しいレッスンがありましたけど。

中学校2年の時全国コンクールで優勝しましたが、その時自分は特殊なのかなあと勘違いし恥ずかしくてみんなには隠しておりました。

中学校1年生の時から東京にて芸大の砂崎先生の指導を受けました。食べ物や洋服に釣られて行ったこともありました。当時は大変だったと思いますが、母は福島では得られないセンスを身につけさせようとしたのです。ちょうどこの時期は感性を育てる時期でしたので、東京にて修行するのはよい経験でした。そこで芸大出身の方にも数多く接することが出来、憧れを抱きました。そして私の関心も自然と芸大に向いておりました。》

 

楽しみながら弾く

《芸大の大学院を平成10年に卒業した時、急に何もなくなってしまいました。下級生からみれば上級生は神様みたいなものでしたが、いったん卒業すると演奏家としてのスタート台に立ったに過ぎません。今までは学校からいろいろな指導や指示があり、それをこなしてゆけば良かったのですが、すべて自分でやらなければなりませんでした。

卒業後は教授者となって弟子をとるか、演奏家としてステージに立つのか迷いました。そのような二足のわらじを履いている人は少なく、両立は難しく、苦しいものです。

しかし平成145月の全国大会で優勝し、またCD「水晶の音」(邦楽の友社)を出し、福島と東京でリサイタルや箏の指導も行い、自分の目標としていたことが実現しましたので、気持ちに余裕が出来ました。今後は東京や福島を拠点とし演奏や指導に全力を傾けたいと思っております。

 箏は間違わず、誰よりも上手に弾きたいと思っていた頃は何をやってもうまくいかず、箏を弾くことが楽しくはありませんでした。楽しみながら弾くと良い結果が出ます。教え子や後輩には夢を諦めないで続けて欲しいと願っています。そして毎年何かにトライしてゆき、子供達の憧れと目標なりたいですね。

遠藤千晶の箏への情熱は今始まったばかりと言えよう。あの心を癒してくれる箏の音色を私たちはもっと日常生活の中に取り入れて、せめて日々のBGMの一つに加えようではなかろうか。


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