古関裕而の楽友たち

 

竹久夢二と古関裕而

 


 

慰め、励まし      (文中敬称略)

 私は今、竹久夢二(1884〜1934)と古関裕而(1911〜1989)の芸術と生き方が、大衆から支持されたのはなぜか、そしてこの二人に共通するものは何かを考えている。結論を言えば彼らは、戦争と治安維持法の時代に生き、その芸術は当時の人々を慰め、励まし、 癒してくれたと感じられてならない。

 


 

ロマンチスト

 明治17年生まれの夢二と、その25歳年下で明治42年生まれの古関は、ともに明治・大正・昭和の三代にわたる激動の時代を生きた、ロマンチストである。ロマンチストとは、情緒や自然を重視し、創造的な個性を尊重する人という意味である。情緒や理想を好み、田舎の自然やその奏でる音楽に耳を傾けたいう意味で、二人はかなり徹底していたといえよう。それゆえ彼らの芸術はロマンに満ち、それに接するものを陶酔させずにはおかない。そしてまた芸術家は基本的には、ロマンチストである。ロマンがなければ我々の感覚に訴えるはずがなかろう。

  学生時代の裕而は、おとなしい性格で通っていた。しかしこと音楽の方面になると人が変わった。当時文化の町で通っていた福島には、一流の文化人がしばしば訪れていた。その中には夢二や藤原義江もいた。彼は作曲した楽譜を懐にして宿泊先を訪問し、楽譜を見てもらおうと必死であった。古関は不安な反面、自信もあったろう。しかし一地方の無名の少年が、流行の最先端にいた彼らに自分の価値を認めてもらおうとの無謀な行動は、ロマンチストでなければできないことではないだろうか。 (写真 婦人グラフ表紙 大正15年)

 


 

癒しの芸術

 夢二と裕而は、それぞれの芸術の専門教育を受けることなしに、高い評価を受けていた。しかし、大衆の評価に比して、専門家の評価はけっして高いものではない。

 大正の浮世絵師と名乗った夢二は、その名の通り浮世絵師として評価され、また古関メロディーは、古関節と評価された。しかし反面、大衆はこの二人を熱狂的に支持した。それはなぜだろうか。

 彼らが大衆に支持されたのは、彼らがロマンチストであるとともに、ヒューマニストであったからではなかろうか。竹久の絵の主人公は女性であり、子供であり、小動物であり、里山であった。その作品を見ると、ほのぼのとした優しさを感じさせることは、夢二の人間性に由来するのだろう。美しいもの、弱いもの、小さいもの、可愛いもの、懐かしいものに接したとき、我々の心は癒される。その癒しが大衆に好まれたのではなかろうか。

 また裕而の作曲作品についていえば、その豊かな音楽才能のほかに、若者への励ましや弱いものへのいたわり、望郷の心、優しさがあるような気がしてならない。その意味で彼の音楽もまた、癒しの効果があると思われる。戦時歌謡の「露営の歌」や「暁に祈る」が、当ホームページで投票の上位を占めているのは、単なる懐古趣味とは言い切れないのではなかろうか。

 


 

詩人・画家・音楽家

 ところで夢二と裕而が詩人であったことはあまり知られていない。そのほかにも彼らは、画家(古関は昭和63年9月、画集「風景の調べ」を出版している)であり、ミュージッシャンであった。ただし夢二の音楽は楽譜ではなく、詩的情緒としての音楽で、詩や短歌や俳句や散文詩であり、彼の日記や文章はまさしく音楽そのものでなくなんだろうか。

 

挫折からのスタート

 二人の生い立ちをみてみよう。夢二は岡山県の造り酒屋に生まれたが、彼の物心のつく頃にはすでに家庭は零落し、憧れの神戸中学校に入学するも8ヶ月で中退せざるを得なかった。

 古関もまた中央から離れた東北の片田舎に生まれた。福島師範附属小学校を卒業後、名門福島商業学校に入学する頃には昭和不況の影響受け、家業は傾き、福島で一二を争う呉服屋 の喜多三は、市内の目抜き通りから福島市新町に転居を余儀なくされていた。

  しかし彼らは経済的な挫折(ざせつ)に屈することなく、成功を夢見て上京し、貧苦に耐え、やがては竹久は絵画の道で、古関は音楽の道で栄光を手に入れることになる。しかし竹久はこころざし半ばの50歳を目前にして 逝去してしまう。

 


 

治安維持法と戦争の世紀

 夢二と裕而の生きた時代はどういう時代だったか。夢二とっては明治17年から昭和9年の死に至るまでの間、3つの大きな事件があった。一つは明治44年の大逆事件。2つ目は大正3年から始まった第一次世界大戦。そして大正12年の関東大震災が大きな事件だろう。

 明治42年生まれの古関は、関東大震災のほかには、昭和2年から始まった昭和恐慌、昭和6年の満州事変から始まった15年戦争と敗戦が、その生き方に大きな影響を及ぼしたと見ることができる。

 貧苦の中で夢二は、一時は社会主義的な思想に傾いたが、大正ロマンの 主義に自分の活路を見いだしていった。一方まじめな性格の古関は、厳しい冬の時代に真っ向から取り組み、彼のもつヒューマニズムで大衆の心を癒していた。古関メロディーを歌うことで兵士や家族たちは、生きる望みをつないでいたと言 えるのではなかろうか。

 


 

東大震災

 ところで関東大震災の時、二人はどのような行動を取ったかを見てみよう。

 大正12年9月1日、関東地方に大震災が襲った。当時夢二は39歳の働き盛りで、渋谷宇田川町に、お葉と所帯を持っていたが、彼の家は幸いなことに被災は免れた。彼は恩地幸四郎らと日本の商業美術の拠点を目指して、「どんたく図案社」設立を企画し、雑誌の刊行の意気に燃えていた。しかし共同経営者の印刷所が全壊してしまい、その計画は 烏有 に帰してしまう。失意の夢二は都内の被災状況を視察し描き留め、「都新聞」に「東京災難画信」を連載した。

 一方裕而は福商2年生であった。地震の揺れは彼の住む福島の大町にも伝わり、慌てた彼は2階に駆け上がって遠方を望んだ。しかし東京での出来事は見えるはずもなく、周囲の安全を確認するとまた居間に戻っている。

 大震災の被害は、翌日以降少しずつ伝わってきた。この震災で全・半壊家屋は25万余戸、死傷者は20万人を越え、行方不明者は4万人余に達していた。裕而はこの大惨事に触発され、交響楽「大地の反逆」を作曲し、被災者を悼んだ。 (写真 ゴンドラの唄 大正7年 セノオ楽譜)

 


 

夢二に寄せる敬愛の心

 古関は、福商時代から同級生や恩師、また有名詩人の詩に曲をつけ作曲の修行にいそしんでいた。登場する作詞家は、北原白秋や三木露風、野口雨情などであるが、夢二の詩に作曲したものも数曲ある。それらは初期の音楽ノートにメモされたり、楽譜に書き込まれたりと多様ではあるが、夢二を取り上げたと言うこと自体、夢二を詩人として敬愛していたことになるだろう。また以下でも述べるが、初のレコード吹き込みの時、作詞家として採用した曲は、夢二の「 福島小夜曲 」と、野村俊夫の「福島行進曲」であった。

 古関裕而記念館の収蔵資料となっている古関の音楽ノート第10編には、夢二作詞の「きりきりばった」「柿」「母なる海」「みちのく・せれなあで(福島小夜曲)」などがある。

 


 

詩人として

 夢二と古関はともに、詩に対するある執着があった。竹久は「絵かき」になる前、詩人たらんとしていたのである。

 

   私は詩人になりたいと思った。

   けれど、私の詩稿はパンの代りにはなりませぬでした。

   ある時、私は、文字の代りに絵画を描いて見た。

   それが意外にもある雑誌に発表せられることになったので、

   臆病な私の心は驚喜した。

 

 一方古関は、福商卒業式当日の昭和3年3月1日、同級生同士がお互いに記念の言葉を書いて交換しあったとき、同級生宮尾利雄に次のような詩をサラサラと書いて贈っている。

 

   太陽がぶすぶすと焼けて居る。

   月や星がふるへ上がって居る。

   真黒な花がねむって居る。

   あ! おや?

   変な花と真黒な花が 急速に伸びたぞ。

   花! 花! 真黒?!

   太陽が赤い臭ひを残して母屋に入って行った。

   星! 月!

   両方の共が フォックス・トロットを踊ってる。

   真黒な変な花が 手を出して指揮棒を取って

   スコアーを開げて スィンホニーをやってるな。

   愉快だ! 気持ちが好い! たまらない。

   星! 月! 黒! 黒!      

 

 宮尾は後年、「音楽と詩、それはそれは不可分のものであり融合されるわけだから、裕而君が詩人であっても不思議ではない。しかし、その才能は商業学校の生徒としては全く異色であった」と述懐している。古関の詩風は、大正末期から昭和にかけてのモダニズムの洗礼を受けており、昭和9年に『 山羊の歌 』を出版した中原中也 と同傾向のものであった。

 


 

出会い      

 ところで夢二と古関の間にはどのような交流があったのだろうか。古関裕而自伝『鐘よ鳴り響け』および拙著『古関裕而物語』の中には該当する箇所が数カ所ある。以下断片的ではあるが二人の出会いと別れを紹介しよう。

 昭和初期には全国的に地方新民謡が流行、「東京行進曲」などの各地方名を入れた地方小唄が次々と誕生していた。古関もそのブームの中で昭和4年に「福島行進曲」を作曲し、また同年、竹久夢二展が福島で開催された時に「福島小夜曲」を作っている。

 元福島ホテル(東北電力前にあった)の経営者杉山秀次の『わが七拾七年では、夢二の来福のいきさつを次のように述べている。

 「夢二が福島に来訪するようになった発端は、助川啓四郎(田村郡出身、後に衆議院議員)にあった。助川と夢二は早稲田大学の同窓生であり、助川が所用で上京した際に夢二のもとに宿泊、そのお礼も兼ねて福島に招待し、後輩の杉山の経営する福島ホテルを定宿にした。大正3年から昭和4年までの15年余の福島往来の総まとめが12景にわたる『福島小夜曲』の詩画であった。」

 古関は昭和4年に福島にて開催された夢二展に出かけた時、奉書巻紙に描かれた の詩画「福島小夜曲」に歌心がわく。自伝では、

 「私は会場でこの詩画の前に立った時、深く感動した。詩を全部ノートに写して帰宅、すぐに部屋にこもり感興の赴くままに作曲した。自分としては快心の作と思えたので、夢二さんに捧げようと図々しくお 宿の福島ホテルを訪ねた」とある。

 古関は12首の短歌のうち次の3首を選びレコードに吹き込みでき上がった曲が「福島小夜曲」であった。(写真:古関裕而直筆色紙 古関裕而記念館提供)

 

    遠い山川尋ねて来たに吾妻時雨て見えもせず

     奥の細道とぼとぼ行きゃる 芭蕉さまかよ日のくれに

    忍ぶ御山に帯ときかけりゃ 松葉散らしの伊達模様 

 


 

裕而夫妻と夢二

 古関は昭和5年6月1日、愛知県豊橋市の 内山金子 と慎ましい祝言を上げた。その1ヶ月後、夢二が再び福島にやって来た。夢二との再会である。福島のど真ん中にあった完成間もない福島ビルディングで個展を開催したとき、古関は妻と共に夢二展覧会に出かけ、その時の様子を自伝では次のように述べている。

 「昭和5年7月頃、夢二さんはまた福島で個展を開かれた。この時は絵ばかりでなく自作の人形や、扇に水彩や詩を書いたものなど多彩だった。私は結婚後間もない妻を夢二さんに紹介した。話をしているうちに夢二さんはつっと手を伸ばして壁に飾った扇子を一つ取って気軽に『はい』と妻にくださった。桃色の薄絹にすかんぽを緑で描いたものである。

    すかんぽの (すか)きをかめばたらちねの母をぞしのべ伊香保の山に 

  さらさらと散らし書きの詩が、遠い豊橋の母と別れてきた若い妻には一層うれしかったらしい。『芸術的な深い瞳でやさしい方ね』と、この思いがけない贈物に感激していた。」

 


 

夢二との別れ

  古関は昭和5年9月、コロムビアに入社するため妻とともに上京し、翌年には早稲田大学応援歌「紺碧(こんぺき)の空」を作曲し、新進気鋭の作曲家としてその実力が認められつつあった。

 一方夢二は、昭和5年2月には銀座資生堂において「雛によする展覧会」を開き、5月には「榛名山 美術研究所につき」との宣言を公表し、群馬県榛名山に商業美術研究所を開設しようと精力的な活動を展開していた。

 翌年、夢二の念願だった渡米計画は本格化し、5月7日に横浜を出港して一路アメリカ に向かった。しかしアメリカの生活は病気や友人との諍い、展覧会の不振などで愉快なものではなかったようだ。昭和7年にはアメリカを出発し、ヨーロッ パへと向かうが、ナチスドイツの猛威をふるうかの地は、決して住み良いところではなかった。昭和8年9月、夢二は失意の内に神戸港に帰着する。彼はすでに49歳になっていた。

 昭和9年1月、夢二は友人正木不如丘の経営する信州富士見高原療養所に入院した。病名は「入院当時は喉頭結核で、後には 肺壊疽 」(岡崎まこと『竹久夢二正伝』)である。入院生活は9か月に及んだが、病勢は一進一退を繰り返していた。しかし9月1日の明け方、夢二は「すまないね」、「あり・がとう」との言葉を残し目を閉じた。享年49歳で戒名は「竹久亭夢生楽園居士」。友人有島生馬ら手によって、 東京都の麹町(こうじまち)心法寺で葬儀が盛大に挙行され、遺骨は東京雑司ヶ谷(ぞうしがや)墓地と、岡山県邑久郡にある竹久家代々の墓に分骨埋葬された。

 そのころ古関は、「利根の舟唄」や「都市対抗野球行進曲」などのヒット曲を作曲発売し、大作曲家の道を歩みつつあった。

 


 

明日への糧

 昭和58年、雑誌「月刊ふしくま」の半沢重夫が、74歳の古関に夢二の思い出を尋ねた。古関は夢二を懐かしんで次のように語った。

 「昭和4年に県庁前の議事堂で彼の展覧会があり、喜んで見に行きました時に、福島 の短い詩を写しているうちに自然とメロディーが浮かんじゃいましてね。で、この曲をぜひ夢二さんに届けたいと思ったら、福島ホテルに泊まっていることが分かったんです。その時楽譜を置いてきまして、代わりに鉛筆で書いた素顔絵を頂いて、本当に嬉しかったのを覚えています。その時の楽譜がだいぶ過ぎてから、東京の三越デパートで開かれた 『竹久夢二展』の隅に出されました。面白いですね。」

 新世紀に入っても、我々の心は不安に満ちている。平和からだんだん遠ざかっているような気がしてならない。歴史は繰り返すと言われているが、あの石川啄木が「 時代閉塞の現状 」を書いたときと、なんと似ているではないか。こんな時代だからこそ、私たちは心の安らぎを求めたくなる。心が渇き、癒されたいと思っている。夢二の絵や古関音楽を楽しんで、明日への糧にしたいと思うのは私だけではないはずである。(平成14年2月)

 

 


Copyright (C) 2002 Hidetaka.Saito All Rights Reserved.