古関裕而の楽友たち

 

丘灯至夫と「高校三年生」 

  

盛大だった歌碑除幕式(文中敬称略)

舟木一夫の歌った「高校三年生」は、21世紀に残る青春歌謡である。平成7年、NHKによって募集された「21世紀に引き継いで欲しい歌」の第4位に、この歌がランキングされている。その記念すべき歌碑が福島県郡山市の駅東口にこのほど建立された。

 

             

平成14年4月13日(土)、郡山駅東口には、この除幕式を見ようと、500人を越える大観衆が集まった。除幕式参列者は、作詩家丘灯至夫と作曲者遠藤実、それに「高校三年生」を歌った歌手舟木一夫と歌碑彫刻家の三坂制(せい)である。

舟木の人気は当代随一で、かく言う私もファンの一人である。現在57歳の舟木は、歌のみならず、舞台やテレビにも出演し、多くのファンを魅了している。

舟木は「『リンゴの歌』『青い山脈』『高校三年生』、この3曲で昭和の青春歌謡は決まっているといわれております。あれから40年、この曲と巡り会えてこの上なく幸せであるとともに、3分02秒の短いこの曲で一生が決まりました。大変感謝しています。」と挨拶し、歌碑の脇の特設ステージで「高校三年生」を熱唱した。

作曲者の遠藤実は、「私があの有名な遠藤実です(笑い)。私は高校に行けなかった憧れを、このタイトルを見、この詩を読んだ時に、自分の夢がこの歌を作曲させたと思います。この歌だけは、歌が先行して、報道関係の方から驚いて取材されました。」と述べた。

 (写真 除幕式での左から舟木一夫、遠藤実、丘灯至夫とノブヨ夫人)

 

 

 『高校三年生』は日本の愛唱歌

 

作詩家丘灯至夫は、「私は生まれたのは小野新町です。しかし生まれてから1年ちょっとで、父親の仕事の関係で郡山市に移ってまいりました。金透小学校を卒業後、生徒が100人足らずの郡山商工学校商業科(現福島県立郡山商業高校)に入学しました。当時は3年制でしたが、まもなく5年制になるから続けなさいといわれましたが、勘弁していただきまして3年で卒業しました。

ここにあるのは楡(にれ)の木ですが、私は楡の木が日本産であることを知りませんでした。どうも作詩家などは講釈師と同じで、見もしないことを見たように書いたりします(笑い)。

私は体が弱いもので、鉛筆1本でやれるものを探したところ、新聞記者と作詩家がありました。新聞記者は30年間定年まで勤めました。作詩家の方は今もって現役で、最近は仏様の歌とか神様の歌とか、また詩吟や新民謡などの仕事をやっています。

舟木さんにいわせれば、私は『高校三年生』と『ハクション大魔王』で食っているといっていますが(笑い)、歌というものはつくった本人は売れるか売れないか分からないものです。

高校三年生のヒットは、歌手と作曲家の力によるものです。本県だけでなく日本全国の愛唱歌となることを期待したいと思います。」とユーモアを交えて謝辞を述べた。

彫刻家三坂制(せい)は、「雲海にたなびくような爽快なイメージをふくらませてデザインしました。この広場がみなさんの憩いの場になるように可愛がっていただきたい。」と挨拶した。

最後に丘の後輩たちの郡山商業高校管弦楽部の演奏に合わせて、会場に詰めかけるファンによって、「高校三年生」の大合唱がなされた。

歌碑は白御影石に、歌詞を刻んだ銘板がついたもので、歌碑建立実行委員会が結成され、多くの善意の寄付が寄せられて完成したものである。歌碑は日展作家の彫刻家三坂制によるもので、歌碑脇には、歌詞にでてくる楡の木が植えられた。

 

歌碑除幕式祝賀会

 

       

除幕式後、会場を移して、郡山ビューホテルにおいて歌碑除幕式祝賀会が開催された。

参加者はこれも500人を越える人々で、遠く九州や盛岡から駆けつけた熱心な舟木のファンも大勢参加し、祝宴を盛り上げていた。

祝辞の中で遠藤実は、「私は舟木君の名付け親です。ですから御三家の中で舟木君が断然人気があるといわれて、ものすごくうれしかった。『高校三年生』の歌が流れてくると、青春が戻ってきます。私は3曲100円の流しをやっている時、この詩に出合って、ときめきました。その時の魂の波動がオタマジャクシになりました。」と述べた。(祝賀会で花束を受ける左から丘、遠藤、舟木と三坂)

 

 

 

 

 

 

人との出会いが大切―舟木一夫 

 

その後舟木は、「20代・30代の時には分かりませんでしたが、人との出会いが自分を決めるといわれております。それが分かったのは私の47歳の、30周年の時でした。遠藤・丘先生のお二人に出会わなかったら今の僕はなかったと思います。この二人は私のご両親です。生んでいただいて有り難うございます(笑い)。

この歌は珍しい歌です。歌詞を見るとメロディーが出てくる。メロディーが流れてきますと歌詞が浮かんでくる。舟木の写真を見ると『高校三年生』が浮かび、『高校三年生』が流れてくると舟木一夫が浮かんでくる。このような歌はそんなに沢山あるものではありません。

またこの歌には思い出があります。この曲はコロムビアの同時録音の最後の曲でして、普通は5〜6回演奏するものですが、この歌だけは、2回目でOKがでた曲でした。

丘先生に最初に出会った時、お体が悪かったので、この方は本当に大丈夫なのかと心配しました。しかし今は、どうやったらこのようにお元気になられるのかと、それが何よりうれしいことです。」と話した。

 

 

日本の心を忘れているー丘灯至夫

 

丘は「日本の歌が今おかしくなっています。ベストヒット曲の半分はタイトルが日本語でありません。今日本語は、3,000語くらい忘れられていると言われております。これは日本人が日本の心を忘れているという重大な時期にきているのではないかと思われます。私は今、詩吟の会などで新しい歌を作ろうと頑張っております。その日本語の意味を十分引き出して作曲していただいた遠藤先生には感謝します。

『高校三年生』の言葉はすごく易しくて、小学生でも作れるような詩です。先に作った方が勝ちなんです(笑い)。40年を過ぎてもこの歌が歌われることは、作詩家としても作曲家としても有り難いことです。

私はこの世であんまり歌を作りすぎたので、今度はあの世で歌を作って舟木さんに歌を贈ります(爆笑)。」と、会場を爆笑の渦に巻き込みながら謝辞を述べた。

 

 

フォークダンスに衝撃

 

「高校三年生」は、東京オリンピックの前年の昭和38年、学生服の舟木が歌って大ヒットした歌だが、丘はこの歌の成立を次のように語っている。

「レコードがでる前の昭和37年、『毎日グラフ』の記者だった私は、取材のため東京都世田谷区の松陰学園高校の文化祭を訪れました。その時、校庭で男女がフォークダンスを踊る光景を見たんです。びっくりしましたよ。大正生まれの私らの世代は男女の間のそういう自由というものがなかったんですからね。それで衝撃を受けて『フォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ黒髪が』という詩が最初にできたんです。そういう光る一行があれば、あとはそれに言葉をつないでいけばいいわけで、一番最初の『赤い夕日が校舎を染めて』などもあとからつけたものです。」(「ひまわり倶楽部」平成12年5月号)

 デビュー曲としてこの歌をもらった舟木は、当時17歳であった。

舟木は、「歌をもらった時、第一印象は歌謡曲ぽくないなと思った。そして『フォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ黒髪が』というフレーズが、すごく照れくさく感じた」と述べている。その話を聞いた丘は、「若い舟木君でさえ恥ずかしく思うこの言葉を、最初に思い浮かべて詩ができた。」(福島民報新聞 平成1110月)と振り返っている。

 

 

岡本敦郎の「高校三年生」

 

「最初に作った『高校三年生』は、岡本敦郎(あつお)を想定したものでした。ところが題名が大人向けでない。まして岡本には向かない、という理由でボツにされたのです。その題名が8年後に、舟木一夫の歌う全く別な歌詞でよみがえったわけですから面白いものです。たぶん岡本の歌ではこんなにヒットしなかったでしょうね。」(「ひまわり倶楽部」)

 岡本の歌う「高校三年生」は、女子高生をイメージした歌だったようだが、郡山商工学校に通っていた頃の丘は病気がちで、「4日登校すると2日休む」状況であった。丘は満足に学生生活を楽しんだ記憶がないとのこと。そんな丘にとっては、青春を謳歌する男女学生の姿は、ぜひ歌として残しておきたいテーマであったに違いない。

 

 

青春歌謡の系譜

 

この世に青春を称える歌は数限りなくある。また各学校にある校歌や応援歌は、それぞれその役目を果たしている。しかし校歌・応援歌は、所詮個々の集団での青春歌でしかない。そんな中で舟木の歌うこの歌は、個人を越え、集団を越え、世代を越え、我々を青春の一ページに呼び戻してくれ、青春の尊さを実感させる歌である。丘は私たちにすばらしい青春賛歌を残してくれたのである。

 丘は語った。「私は西條八十先生宅に40年近く出入りさせてもらいましたが、その先生が一度だけほめてくれたのが『高校三年生』でした。考えてみると、学校の同窓生など大勢で肩を組んで歌える歌としては、戦前からの『同期の桜』(昭和13年)、そして西條先生作詞の『青い山脈』(昭和24年)があり、そのあとが『高校三年生』という流れがあるわけです。そういうものを師匠と弟子で作れたことは、私としては非常によかったとおもいます。」(「ひまわり倶楽部」) (写真 丘灯至夫の『高校三年生』直筆 丘灯至夫記念館提供)

 

  

 

             

 

青春に贈るエール 

 

「高校三年生」という言葉は、なんと甘酸っぱい言葉であろう。しかし現役の高校教師として高校3年生に接している私は、彼らの進路に悩む姿に日々接し、彼らの苦悩が痛いほどよく分かる。明日を夢見る多感な世代であるはずなのに、人生や進路に日夜研鑽(けんさん)を積まなければならない彼らは、プレッシャーに押しつぶされそうになっている。でも私たちの世代になると、「あの時代」が、たまらなく懐かしいものとして蘇ってくる。

高校1年生はその無邪気さや従順さゆえに「天使の世代」、高校2年生は自由奔放と無頓着さのゆえに「悪魔の世代」、そして3年生は人生や未来に苦悩することから「疾風怒濤(しっぷうどとう)の世代」と名付けるのはあまりに酷であろうか。

丘灯至夫はそんな青春にエールを贈っているに違いない。

「私たちの青春時代は戦争に明け暮れ、満足できるものではなかった。しかしその中でも目標を持って頑張って生きてきた。『泣いたり、怨んだりする』青春とは、春を迎える冬の季節ではあるまいか。でも、青春の厳しさがあるからこそ豊かな未来が拓けるのではなかろうか。そしていつかは『高校三年生』をともに歌い、青春を懐かしもう。」と 。

(平成14年5月3日)

 

 

参考資料

 

ちばぎん総合研究所「ひまわり倶楽部」平成12年5月号 

福島民友新聞 平成14年4月14日号

デイリースポーツ 平成14年4月14日号

福島民報新聞「20世紀・ふくしまの肖像」平成1110


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