古関裕而の楽友たち

古関裕而と海沼實


 古関裕而と同時代に童謡作曲家として大活躍した海沼實(かいぬまみのる)。海沼は数多くの名曲を作り続けながら、日本の誇る音羽ゆりかご会を創設・運営した業績は偉大である。私は、音羽ゆりかご会を2回にわたってインタビューした結果、「古関裕而と音羽ゆりかご会 」の交流と、海沼實と音羽ゆりかご会の功績をまとめた。以下そのインタビューを紹介しよう。なお写真並びに資料は、すべて音羽ゆりかご会提供である。深く感謝申し上げたい。


古関裕而と音羽ゆりかご会


はじめに

  平成11年8月、私は音羽ゆりかご会を訪問し、古関裕而さんとゆりかご会についての座談会をお願いした。お集まり頂いた方は古関さんと親交の厚かった坂田哲郎さん、童謡歌手として一世を風靡(ふうび)した川田三姉妹のうち二女の孝子さん(現姓植村)と、三女の美智子さん(現姓海沼)、そして音羽ゆりかご会副会長の海沼芳勝さんである。

菊田一夫が惚れた人ー坂田哲郎さん

 坂田哲郎さんは、大正5年3月生れで出身は福島県喜多方市。旧制喜多方中学を卒業後現在の明治大学経済学部に進学。昭和9年から元コロムビア社長の武藤与市宅に書生として住み込みながら大学に通い、その頃古関裕而さんと知り合う。
 「昭和10年古関さんが音丸の歌う『船頭可愛や』を発売し、ミリオンレコードとなった。それが古関さんの作曲家としての成功の第一歩であった。古関さんは川俣銀行勤務の後、郡山商業銀行に一時勤務していたことを聞いていたので、本人に確かめたことはあった。昭和15年に「暁に祈る」を野村俊夫作詞で作曲したが、当時の陸軍馬政局の栗林中将から歌詞の書き直しを何度も命じられ苦心して作り上げていた。古関さんも、歌詞の書き直しに応じてメロディーを書き直していた。場所はNHKのあった内幸町の東拓ビルであった。

 古関さんはNHK放送文化賞を頂いているが、古関さんは性格が真面目で、誠実で、誰にでも好かれていたからだろう。古関さんと同県人であったこともあって、仲良くさせて いただいた。私は大学を卒業するとコロムビアの宣伝部や文芸部に所属し、いわば雑用係として、64歳まで務めた。その後クラウンレコ−ドに移り現在に至っている。古関さんとは多くの仕事を一緒にさせて いただいた。古関さんは戦後、菊田一夫さんと仕事をされていたが、菊田さんが一番惚れていた人であった。古関さんは人柄もよく、『出来ないことは出来ない』と言っていた。そこが良かったのかも知れない。」
(写真は座談会に出席された各氏と筆者)

温厚だった古関先生ー植村孝子さん

  「私が古関先生にお会いしていた頃は、終戦直後のNHKの仕事の時で、先生はいつもハモンドオルガンの前に座っておられました。すごく真面目で、驕った感じのない方で、ご性格は海沼實先生とそっくりでした。菊田一夫先生はスタジオで原稿を作られ、しかもその原稿が遅いので、音羽ゆりかご会の子供たちや演劇をやる子供たちが、スタジオで騒いでいるわけではないのですが、待ちくたびれて本番前のマイクの前で話をしていると、先生は『音羽くずかご会』と言って、原稿を投げつけてきたこともありました。しかし、古関先生の怒鳴り声は聞いたこともありませんし、叱られたこともありませんでした。

 その後私は姉の正子の様な変声期もなく、童謡歌手として結婚まで活動しました。柳家金語楼さんと『おトラさん』に一緒に出演させて頂きました。お嬢さんの役でした。また、東映映画の『桃太郎』に美空ひばりさんと出演致しました。 また東宝ミュージカルの『お軽勘平』にトニー谷さんらと出演しました。お軽は越路吹雪さん、勘平は榎本健一さんでした。榎本さんには可愛がっていただきました。時代劇に出演したのはその時一度だけでした。柳家さんはシナリオを書いたりして才能豊かな方でした。昭和34年に結婚しましてからは、引退して専業主婦となっております。母は常々『女は結婚するまでは好きなことをやっても良いが、結婚したら家にいなさい』と言っておりました。しかし姉妹の中で母の言いつけを守っているのは私だけです。

 福島にもたびたび行っています。母の父の実家が会津の喜多方にありました。福島の人は正直で温かい感じがします。祖父は会津藩士でありましたが、宮大工として日光に来ていたときに祖母と知り合い結婚しました。母は子供たちが大人ずれする事を嫌っておりまして、『こんにちは』や『お願いします』などの必要最小限の言葉しか言わせないような、厳格な教育を受けました。」

古関先生から曲を頂いたー海沼美智子さん

  「私が生まれた時の姉たち2人はスターで、姉たちと一緒に行動している内に、3歳から歌の稽古をするようになり、4歳でNHKで團伊玖麿先生の曲をレコ−ディングしました。その後長女の正子が昭和23年を最後に変声期になったので引退してから、二女の孝子とともにソロを歌うようになりました。私はコロムビアの専属歌手になりましたが、小学校4年の時肺浸潤になりまして、歌はやめましたが、当時の少女雑誌のグラビアなどには出ておりました。古関先生とは4歳頃から仕事をさせて いただいておりますが、その頃は自分が小さいこともあって、どんな話をしたか記憶はございません。古関先生からは『キュ−ピ−ちゃんのおすもう』の曲をいただいて、レコーディングをしております。先生はいつも気を使っておられ、甘いものを差し入れてくれました。

 中学校からは青山学院に進み、英語を勉強し、大学卒業後はイギリス大使館に勤務しました。その頃NHKのジャズオ−デションにも合格しております。父が62歳で亡くなってからは母を助けて、音羽ゆりかご会の仕事に携わり、今はその代表を務めております。母を15間看病しました。現在はゆりかご会の他に早稲田大学教育学部で、生涯学習という教科を担当しております。

 音羽ゆりかご会の仕事に入ってからは先生との打ち合わせもあり、ご自宅には何度もお伺いしております。奥さまが亡くなってからは気落ちしたみたいですが、お孫さんを相手にして気分転換をしていたようです。私が童謡集の復刻版 LPを出す時、先生から次のような挨拶文をいただいております。
   『私が初めて貴女のために童謡を作曲したのは、まだ小学校低学年のころだったでしょうか。(中略)しかし、初めて聞いた貴女の素晴らしい声は、お姉さま達より、はるかにすぐれて驚きました。海沼先生のご指導も素晴らしく天分を伸ばしていかれた。(中略)ことし(昭和54年)6月、日本劇場で私の旧作品をコロムビアの皆様が唱って下さったショウに、音羽ゆりかご会のお子さん達の合唱があり、その打ち合わせに何年かぶりで大人になった美智子さんに久しぶりにお会いして驚きました。音羽ゆりかご会の責任者として、また指導者として、多くのお子様に、歌の楽しさ、面白さを教えておられる姿を見て、うれしくなりました。(以下略) 』  (写真:海沼と音羽ゆりかご会)
                                                                                           

古関先生は控え目だったー海沼芳勝さん

  「昭和54年6月15日から21日まで、日本劇場において『焼け跡に佇む日本人の心を支えた、古関裕而ー哀愁のメロディー』が開催されました。音羽ゆりかご会も出演しまして、『とんがり帽子』や『さくらんぼ大将』、『巨人軍の歌』などを歌っております。その時に古関先生が、『思い出すままに』という挨拶文が出されていますが、先生は『体調を崩してステ−ジには出られません事は残念です』と述べてお られます。昭和55年の、古関先生の作曲50周年のお祝いの時、直前の一週間くらいは毎日のように話し合いを持ちました。古関先生は控え目な方で誰にでも好かれていました。古関先生と親交のあったNHKの藤倉修一さんはまだまだお元気です。古関先生のことをお聞きすれば色々と分かると思います。

 『鐘の鳴る丘』には、実在のモデルはいないと菊田先生がおっしゃっていますが、実際はモデルを地でいくような戦災孤児の靴磨きの男の子がおりました。その子は高崎で引き取られ、スペイン語教師として アメリカに渡り、その後ワシントンで日本語プログラム担当となり、日本の高校生とアメリカとをドッキングする仕事をしています。
 『とんがり帽子』は、川田正子と孝子、『さくらんぼ大将』は川田孝子と美智子が歌っております。当時のドラマに出演した豊玉第二小学校の児童を指導された佐藤先生も元気です。」
  (平成11年8月23日)


海沼實と音羽ゆりかご会


再度の訪問

 平成14年1月、音羽ゆりかご会の再度の訪問となった。1度目のインタビューは拙著『古関裕而物語』の連載記事取材のためであった。今回は音羽ゆりかご会の現況と創始者海沼實さんの業績を聞くための訪問で、お話を いただいたのは、海沼美智子さんと海沼芳勝さんである。


作曲家海沼實  (文中敬称略)         

   海沼實(1909〜1971)は、生涯約3,000曲の童謡を作曲し、国民に多くの安らぎと夢、励ましを送った作曲家である。古関裕而と同年生まれの海沼は、古関と軌を一にするかのように、大正7年に創刊された鈴木三重吉主宰による児童文学雑誌「赤い鳥」や「金の鈴」によって多くの影響を受けた人物である。海沼は音羽ゆりかご会を創設するとともに、数々の名曲を作曲している。

 海沼の代表作は、戦前には「お猿のかごや」、「あの子はたあれ」、「からすの赤ちゃん」、「ちんから峠」、「やさしいお母さま」、戦後においてはその才能を遺憾なく発揮し、「見てござる」、「里の秋」、「みかんの花咲く丘」、「農家の皆さん今晩は」(NHK放送主題歌)、「夢のおそり」、「夢のお馬車」、「かあさんたずねて」、「ワン・ツ−・スリ−・ゴ−」(昭和39年度日本レコ−ド大賞童謡賞受賞)、「うまれたきょうだい11にん」(昭和43年度日本レコ−ド大賞童謡賞受賞)などの作品を世に送りだしている。順風満帆だった海沼ではあったが、昭和46年心筋梗塞で逝去、享年62歳であった。(写真 :練習に励む海沼と音羽ゆりかご会)

音羽ゆりかご会の創設と活動 

  海沼實によって創設された音羽ゆりかご会は、現在まで約3,500曲のレコ−ド吹き込みを行っている。海沼の曲を中心に、テレビアニメ主題歌の「鉄腕アトム」、「仮面ライダー」、「ウルトラマン」など、いずれも我々の耳に今もって残っている名曲である。ここでは音羽ゆりかご会の誕生と成長の跡をたどってみよう。

 音羽ゆりかご会創設は、昭和8年にさかのぼる。創始者海沼は家業の菓子屋より作曲家として身を立てることを望み、その修行のために昭和7年、長野県の埴科(はにしな)郡松代町から、親戚であり同郷の先輩であった作曲家草川信を頼って単身上京した。

 海沼は東洋音楽学校に進学する傍ら、文京区音羽にある護国寺の住職佐々木教純の好意によって、護国寺の音羽幼稚園にて園児対象の歌の稽古を始め、ついに音羽練習所の開設に至った。この童謡グループは、北原白秋によって音羽ゆりかご会と命名され、北原白秋作詞、草川信作曲の「ゆりかごの歌」を会歌とした。  

 昭和10年代に入って、ゆりかご会の活動は次第に認知されてくる。昭和13年に創立5周年を迎えたゆりかご会は、翌年には第5回発表会を開催し、「お猿のかごや」や「あの子はたあれ」など16曲の新作童謡を発表し注目を浴びた。昭和15年からレコード吹き込みの依頼があり、同年には上記作品を、また翌年には「花やさん」「からすの赤ちゃん」、昭和17年には「ちんから峠」「欲しがりません勝つまでは」を吹き込んでいる。 昭和18年、ゆりかご会は関東児童唱歌コンクールに出場した。大道真弓(優勝)、川田正子(第2位)らの歌唱力と、海沼實の指導力を高く評価したJOAK(現NHK)は、ゆりかご会と専属契約を結び、以後NHKの電波に乗ってゆりかご会の歌声は全国に広まってゆく。

 戦争の激化した昭和19年、20年頃は、学童疎開によって多くの団員は東京から離れていったが、川田正子らの在京組がNHKなどに泊まり込みをしたりして、戦時下の国民の唯一の娯楽を提供した。
  戦後となりゆりかご会はいずれも海沼作品の「里の秋」、「みかんの花咲く丘」、「蛙の笛」、「見てござる」など、数々のヒット曲を歌い、ゆりかご会は日本の児童合唱団の中心的存在として不動の位置を占めるようになる。昭和22年にはコロムビアと専属契約を交わし、またNHKの電波を通して、古関裕而作品の「とんがり帽子」や「さくらんぼ大将」を約5年間にわたって放送した。海沼はゆりかご会のレパートリーとして自曲のほか、中山晋平や草川信、山田耕筰らの作品を歌い、童謡の全盛時代を築いた。その時代に活躍したのが、音羽ゆりかご会の川田三姉妹と大道真弓らであった。

   昭和46年6月13日、戦後の童謡界をリードしていた62歳の働き盛りであった海沼に、突然病魔が襲ってきた。病名は心筋梗塞であった。日曜日であったこともあり、病院をたらい回しにされた海沼は、そのまま不帰の客となってしまった。
  海沼の逝去後の激務を引き受けたのは、妻須摩子であった。しかし作曲家を失ってしまったゆりかご会は、方向転換を迫られることとなった。須摩子らの考えたことは、「鉄腕アトム」の成功でかねてから要望の強かったアニメソングの歌唱への移行であった。その後のゆりかご会は、テレビ界のアニメソング のほとんどを歌唱し、次々とヒットを飛ばしていく。「仮面ライダー」「ゲゲゲの鬼太郎」「帰ってきたウルトラマン」「げんこつ山のたぬきさん」「ウルトラマンレオ」「ゴレンジャー」等々、誰でも知っているあの歌この歌を歌い続け、多くの子供たちによって愛唱された。(写真:海沼が二度受賞したレコード大賞記念楯)

 昭和54年、一人娘の美智子が音羽ゆりかご会を継承すると、その活動範囲はいっそう拡大していく。「忍者ハットリくん」「きてよパーマン」「アラレちゃん音頭」などのアニメソングの吹き込みをはじめとして、ステージ活動も広がり、文化庁の助成により中国公演を成功させる。また故ダイアナ妃の来日の際に、日英両国の童謡を披露したのをはじめとして、外国要人歓迎式典への参加要請も度重なり、海外公演をも積極的に行い始める。

音羽ゆりかご会の指導方針

海沼芳勝 海沼は子供たちの心豊かな成長を願い、「良質で栄養のある心のおやつになるような作品を作りたい」といって、童謡作曲と普及に全生涯をかけておりました。ゆりかご会は学校と同じような教育機関として創設されましたので、スターを養成するプログラムはもってはおりません。童謡を歌い発表する中で、たまたまスターが誕生してきます。音羽ゆりかご会の教育方針は、第一に礼儀、第二に学校の教師たちの理解であります。
   音羽ゆりかご会は日本語第一主義です。日本の歌を縦書きの歌詞を使って覚えるので、楽譜は使用しておりません。歌は耳で覚えていくものというのが海沼の信念でした。歌の基本はことばです。ことばとメロディーが一体化した歌を心で歌うことが大切で、感性が重視されます。歌や歌詞を心でどう感じてどう表現していくかが問われております。

海沼の作曲上の特徴

海沼美智子 父は古関裕而さんと同じように温厚で柔和な人柄であり、怒ったことのない人でした。作曲上の特徴としては、子供が歌いやすいメロディー、指導しやすいメロディーを絶えず心がけていました。また歌って楽しく、みなさんに歌われ、みなさんに評価されるメロディーづくりが大切だという信念を持って作曲していました。コロムビアより 再三大人の歌も作ってほしいとの要望があったようですが、お断りしていました。私のもっとも印象深い曲は、私のデビュー曲の「みっちゃんたっち」です。また好きな曲は「夢のおそり」「みかんの花咲く丘」「里の秋」「みてござる」、また「山茶花」などです。

 父はチャレンジ精神の旺盛な人で、いろんなことに挑戦しておりました。曲の中にはバロック調、ロシア民謡風、オペラ風、ジャズ的のものありと、新しい曲を創作しようとしていまた。私がビートルズの曲を聞いていたとき、父も聴いておりまして、「うまれたきょうだい11にん」はその時誕生した曲です。この曲を含めて、レコード大賞は2度受賞しております。父はレコーディングの編曲を依頼するときには、編曲は別次元のものと考えて、オーケストラのアレンジを注文したりと、柔軟性のある人でした。(写真:音羽ゆりかご会本部でレッスンする海沼美智子と団員たち)

「欲しがりません勝つまでは」

海沼芳勝 海沼の曲の中でただ一曲戦時童謡があります。小国民のための曲で、「欲しがりません勝つまでは」という題名ですが、山上武夫先生が標語募集の時に入選したことばに曲をつけたのです。しかし戦争を望まなかった海沼は、明るくソフトに仕上げまして、みなさんが癒されることを願ったようです。草川信先生も「兵隊さんの汽車」という戦時童謡を作っております。

3代目海沼実のこと

海沼美智子 私の息子が3代目海沼実を名乗っております。父が1代目で私が2代目、長男が3代目となります。私たちは結婚して倉田姓でした。母が長男の名付けをしまして、名前を父と同じ実と付けてくれましたが、その後海沼姓の改姓しましたので、息子は父と同じ海沼実となりました。ただし父の実は旧字体です。
  息子は明治大学史学科を卒業後、跡継ぎを考えて、桐朋音楽大学で木村俊夫先生に師事し、指揮・作曲を学びました。イタリアの国際児童音楽祭で入賞もしております。現在ではカルチャー・スクールの講師もしておりまして、恵比寿と調布で「日本の童謡・唱歌・叙情歌」の指導を続けております。4月からは多摩地区でも教える予定です。

音羽ゆりかご会の現況

海沼美智子 団員は現在は100名くらいです。教室は目黒の本部教室と音羽(の護国寺)教室、川越教室で指導が行われております。在籍の長い団員では童謡を中心にして2,000〜3,000曲を覚えているかもしれません。毎日どこかの教室でレッスンがあります。団員は週2日くらい練習します。

 昭和55年の古関先生の作曲50周年記念ショウーを開催した年は、日本劇場においてウルトラマンやムーミンの公演などを入れまして、計3本の公演をしております。団員は2歳から高校生までおりまして、小学校1年生以上から合唱団の団員として公演に出演します。活動は テレビ・ラジオ・吹き込み・各種式典・イベント出演・CM・発表会のほか、ボランティア活動として老人ホームや児童施設、女子刑務所などにも出向いております。

海外公演で高い評価

  以上のように音羽ゆりかご会の活動は、国内だけにとどまらす、国際舞台での活躍も高く評価されている。平成2年5月2日には有名なカーネギーホール公演を成功させ、童謡約30曲を披露して満席の観衆に多大の感銘を与えている。同行取材した作家の上坂冬子は、「会場に文字通り嵐のような拍手がわき起こった」(信濃毎日新聞)と述べている。また翌年はロサンゼルス公演、平成9年にはイタリアの国際児童音楽祭で入賞を果たし、平成12年にはイタリア公演を2回実施するなど、音羽ゆりかご会の活動は、今や海外にまでその活動を広めている。これらはすべて海沼實とその後継者たちの音楽教育方針が正しかった事を証明している。

 平成15年には音羽ゆりかご会は結成70周年を迎える。あのウィーン少年合唱団に比肩する音羽ゆりかご会の活動を、我々は日本の誇りとして全面的に応援して行きたいものである。
(写真:憧れのカーネギーホールで歌う音羽ゆりかご会) ( 平成14年2月13日)                                                                                                                                  


 1 音羽ゆりかご会  入会等の問合わせ先 音羽ゆりかご会本部   03−3712−9732 
 2 「日本の童謡・唱歌・叙情歌までー日本の心を歌う」
                 問合わせ先 よみうり日本テレビ文化センター恵比寿  03−3473−5005  


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