本与板城跡・与板城跡(城山)新潟県長岡市
登山日 2009.2.7
2009年大河ドラマ「天地人」の主人公は、越後の智将「直江兼続」。 直江兼続は永禄3年(1560)上田長尾の長尾政景の家臣・樋口兼豊の子として上田荘坂戸城で生まれた。幼少から聡明で利発な兼続は、上杉謙信の姉である仙桃院に才能を認められ息子の上杉景勝に仕えた。謙信の死後、景虎と景勝が後継ぎ争いをした「御館の乱」では景勝側を勝利に導いた。 上杉家の家臣である与板城主・直江信綱が御館の乱で殺され、直江家が途絶えることを惜しんだ景勝が未亡人お船との結婚を勧め直江家を継ぐことになった。 お船は与板城主・直江景綱の娘で、婿に迎えた長尾信綱が殺されたため、樋口兼続を再度婿に迎え、常に陰で支え賢い女性であった。景勝の信頼も厚く藩政にも一部参与した。 |
本与板城跡は直江氏三代(景綱・信綱・兼続)が居を構えた所である。(場所がどこか分からなかったが、GPSで下の地図の上の赤線の所と分かった) 山頂に実城をはじめ、二の郭、三の郭、帯郭、土塁を巡らし深い空壕によって区分されている郭併列式の山城とのこと。与板観光協会の資料によると、この本与板城を陰城、そして、その後、新たに築かれた与板城を陽城という。 和島から塩之入りトンネルを抜け, 途中「旧塩之入り峠」の看板を見つけ、1時間ほど歩いて寄り道をする。
駐車場の先50mの左側に登り口があった。
辺りは全体的に杉林になっていて、更に先へ進むと一の郭・二の郭間の大空壕跡があり、そこを右へ進んで少し登ると本与板城本丸跡だ。 山頂から与板の町並みや守門をはじめ遠くの山々を見渡すことができた。地図には何も載っていないし、今まで下の石碑があっただけで、ほとんど見向きもされなかった不遇の場所だったが、今回の大河ドラマの主人公の居城跡とあって、一気に日の目をみることとなった。
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さて、本与板城から下り、次は与板城に向かった。これも登り口の看板が随所にあり迷うことなく到着する。ただ駐車場は登り口にはなく300mほど離れた道路の反対側だった。 与板城は、本与板城から2km位離れたところにあり、兼続が新たに築き居城した場所である。資料によると、「西山丘陵のほぼ中央に位置し、中越を一望に収め、全山すべて自然に城郭の型をなし、さらに人工を加えた豪壮な山城である。実城(本丸)は104mの山頂にあり、二の郭、三の郭から兵溜などの主郭は一列に配され、それぞれ土塁をめぐらし、各郭は4〜9mの空壕によって区分され、兵溜側には斜面15mの大空壕がある。また、実城北側の出丸は一線の尾根にいくつか設けられ、東側一帯には各尾根に大小様々な付属郭がある。兵溜には烽火台の跡もあり大壕東側に馬場・弓場・射撃場跡もみられる。」とある。 登山口から階段を登ると神社に突き当り、その右奥から山道が始まっていた。地図には「城山」となっており山頂へのルートも載っているところだが、100m足らずの標高なので今まで登山としての対象の山ではなかった。
山頂は広く、神社の建物と石碑、狛犬、四等三角点があった。また、兼続が会津移封前に植えたという5本の杉のうちの一本が400年経った今でも健在で「城の一本杉」として残っていた。眼下には与板の町並みと遠く守門岳や川内の山々を望むことができた。
階段を登ると車道に出たが雪が多くなってきて長靴に雪が入り始めたので、のろし台らしき所まで上がらないで来た道を本丸まで戻り、北側の登山口に下った。 3月いっぱいはハイキング道を整備中で足場が悪く(立入禁止中)注意が必要だが、それ以後は道も良く整備され簡単に登れるようになるだろう。 |
本与板城跡↓ | お船の方生誕御館跡の碑が今回新しく建てられた |
与板城跡↑ |
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