父の闘病日記  戻る

「ご臨終です」
 平成21年(2009年)8月29日午前2時10分,薄暗い病室で父は静かに息を引き取った。
 平成21年版高齢社会白書によると,日本人の平均寿命は男性79.29歳で世界第四位,女性86.05歳で世界第一位となった。
 小さいころ体の弱かった父が,日本人の平均寿命を超える84歳まで生きられたことは,父自身も想像だにしていなかっただろう。貧乏のどん底で必死にもがき,それを貫き通した父は,その後ろ姿で私達に大切な生きざまを示してくれた。
 肉親の死は,誰もが経験する悲しい出来事だ。病気,不慮の事故など若くして命を落とさなければならなかった人や天寿を全うした人など,人は自分の意図しない様々な形で最期を迎えるわけだが,家族にとってその思いが強ければ強いほど,それは重圧となってのしかかり,悲劇にさえ発展する場合も少なくない。願わくば,元気で長患いしないで天寿を全うし,最期はぽっくり逝きたいものだ。
 父は,私達にひとつも「介護」という大変な作業をさせず,その上,残された家族のために,ある程度死への準備期間を与えてくれて旅立って行った。ここにその闘病日記を残したいと思う。



【3月14日(土)】
  80歳を過ぎた実家の両親はまだ二人で元気に暮らしをしている。
 週末にいつもどおり様子を聞くため電話したら母が出た。「元気にしてる?」「何か変わりない?」と聞くと,「じいちゃんが昨日から具合が悪くごはんが食べられない」という。
  そりゃ困った。今日は土曜日だが,これから行けば何とか間に合いそうだったので,「じゃあ,これから行くからね」と伝えると,父が電話に代わって「来なくていい!」の一点張りだ。
  しかたなく,「今日は行かないけど,明日必ず行くからね」と電話を切った。

【3月15日(日)】
 翌日朝,様子を見に実家へ向かった。家に着いて父の姿を見て愕然とした。もう,その姿は尋常ではなく,やせ細って顔面蒼白,歩くこともままならず,話すのも辛そうだった。
  

 そういえば父は,2.3年前から急に食が細くなり,特に昨年3月仕事を辞めてから急激に体重が落ちてきて,それまでの元気な父とは比べものにならないほど老いた姿になっていた。
 もっとも,もう83歳だから,それは歳のせいかなと諦めていた。それに今までずっと仕事をしてきて仕事が生きがいだった父にとって,腰と膝を痛め辞めざるを得ない状況になって,そのことでちょっと精神的にウツの状態になっていた。
  でも,一緒に暮らしている母にはその変調ぶりは異常に見え,時々不調を訴える父に「医者へ行きなさい!」と度々言っていたそうだ。
  しかし,本人にとっては次第に蝕まれていく自分の体の変調は分かっていたらしく「この冬はもう越せないかも知れない」と弱気になっていたという。
  父は決して医者へ行くのが嫌だった訳ではない。もし自分が入院ということになったら,一人取り残される母のことを思ってのことだったらしい。

  
 尋常でない父を見て,これはただごとではないと判断し,早速車に乗せ病院へ向かった。病院は救急車搬送の患者等で混雑していたが,なんとか診てもらうことができた。
 腹部レントゲンの結果,腸閉塞とのことで即入院となった。父にそのことを伝えると,いよいよ来る時が来たという感じで茫然としていた。胃の内容物除去のため鼻からチューブが通された。同時に点滴も行われた。その後CT検査で手術になるかもしれないと言われる。いろいろ終わって一段落したのがもう夕方だった。
  県外に単身赴任の兄が,とんぼ返りで最終の新幹線で戻って来た。検査の結果,翌日に緊急手術ということになった。
  母を家に送り,再度病院に戻り,父をトイレに連れて行ってから帰宅した。

【3月16日(月)】
  手術をすることに決定。説明では,閉塞部分がえ死していれば切除とのことだったが,かろうじてそれは免れ,小腸や捻じれていた大腸などを正常な状態に戻し手術は簡単に終わった。
  父も意外と元気で,酸素マスク越しに会話もでき,もう翌日には動くよう言われ,そばの手洗い場まで動くことができた。誰もがこれから良くなるだろうと安堵した。

【3月17日(火)】
  腸の状態を直したせいか便通がひどくなり下痢が続く。それに尿がほとんど出ない。

【3月18日(水)】
  今日も下痢がひどく熱も出る。尿も出ない。手術したはずなのに,状態は好転しないばかりか次第に悪くなってきているような感じだ。

【3月19日(木)】
  集中治療室から一旦一般の個室に移る。夕方,父のところに行ったら,何だかかなり苦しそうに顔をゆがめている。熱も39度近くまで上がり下痢も続いていた。看護師さんが少しでも体をさわるとものすごく痛そうな顔をする。呼吸も非常に苦しそうだ。尿も出ない。いったい何が起きたのだろう。心配だったが,一旦家に帰る。

【3月20日(金)】
  車を運転中,病院から電話があり,父の容体が悪くなったから,もう一度緊急開腹手術するから大至急来てほしいと言われる。兄に電話し急いで病院へ向かってもらう。
 血小板の値が7,000まで落ちていた。肝臓の状態もかなり悪いとのこと。この状態では手術できないので,輸血が施される。尿がほとんど出ないので最悪の場合は人工透析になるかも知れないと言われた。
  夕方から手術が始まった。手術の結果,大腸が全体的にひどく炎症しており人工肛門が取り付けられ,それと共に人工呼吸器も取り付けられた。もう意識はなく,体中,あらゆる管でつながれ,このまま多臓器不全でダメになってしまうのでは危惧された。この日は病院に泊まる。

【3月21日(土)】
  血圧も40代まで低下し父は危険な状態になり,とりあえず遠くの親戚に連絡し,急遽駆けつけてもらった。そしてそれ以後は家族以外の面会は一切断り静かな環境に専念した。
  人生83年にして初めての入院で,僅か1週間でこんなことになるなんて父は想像だにしていなかっただろう。何も言わないでこのまま死んでしまうなら,手術なんて受けさせるんじゃなかった。結果的に父を死へ早めたのではと後悔した。病院に泊まる。

【3月22日(日)】
  小康状態。血圧も低く意識はない。今日は義姉に病院に泊まってもらい,実家へ帰り母と家の片付けを行う。まだぬくもりのある父の布団や愛用の品々を見て複雑な気持ちだ。すべて父に頼りきっていた母はなおさらだと思う。
  透析は検査の結果,カリウムの値が下がっていないとのことで,ひとまず免れた。ひどい下痢が続いたため水分が大量に流れ出ていたので尿が出なかったのだった。

【3月23日(月)】
  小康状態。まだ下痢と熱が続く。腸の炎症がなかなか治まらないようだ。血圧も低い。しかし生来の生命力の強さか,少し目を開けるようなしぐさをする。尿が少し出てきたが血小板の値がまだまだ低い。義姉に泊まってもらう。

【3月24日(火)】
  血小板9000。まだ熱あり。2.3日前からタンの吸引の時,真っ赤な血が混じるようになりしばらく続き吸引は苦しそうだ。それでも2本付けられていた血圧を上げる点滴が1本に減る。目をわずかに開ける。今日は病院に泊まる。

【3月25日(水)】
  毎年3月25日は田舎の春祭りの日だ。実家の裏の神社では賑やかに五穀豊穣の舞が行われていることだろう。舞は「たやさん」と呼ばれる資格を持った人がいて今もそれは受け継がれており,小さい頃,よく見物に行った。そして,神社への参道の両脇には何軒もの出店が並び,多くの子供達で賑わっていた。今はもうひっそりとしている。
休暇を取って一日中父の付添をする。相変わらず血小板の値が低く輸血が続く。肝臓の状態も悪いというので,それがすべてが好転しない元凶だろうか。人工呼吸器を始め,人工肛門,導尿,点滴5.6本・・・とベッドの周りは所狭しと機器が囲って父は管でつながれている。
人工呼吸器は少し意識が戻ると苦しいようだ。父は頭だけはしっかりしているのでそれがかえってかわいそう。今日も病院に泊まる

【3月26日(木)】
  目を少し開けるようになったが,わかるのかわからないのか。人工呼吸器40パーセント,回数10回になる。まだ熱がある。人工肛門からこげ茶色の液体が出ていた。今日も病院に泊まる。

【3月27日(金)】
  朝,熱が出る。兄が病院に行ったら少し顔がわかったようだ。夕方,医師から説明があり,血小板の値はまだ2万,大腸の炎症も治っていないそうだ。口から入れている人工呼吸器を今度は喉に穴を開けてそこに取付けるとのことだ。すんなり呼吸器が外れれば良かったのだが,また越えなければならないハードルが一つできた。血小板を上げる治療が行われる。

【3月28日(土)】
  昨日一旦下がった熱が今朝また上がった。血小板が4万になり,呼吸器の喉への取付手術をするかどうか明日決めるとのこと。少し状態が安定しているので今日は病院に泊まらず家に帰る。

【3月29日(日)】
  夕方行ったら,血小板の値がまた低下していた。でも,目もあけ手も少し動かす。口から入れている人工呼吸器が苦しそうで,歯で押し出そうとする。苦し紛れに手で取り外すといけないので,ベットに手をしばらく固定された。
  このところ吸引した痰が真っ赤で,喉からも出血が続いているようだ。今日は病院に泊まる。

【3月30日(月)】
  病院に泊まった翌日はいつも病院から出勤だ。
  今日は兄が休みを取り,医師から手術の説明を聞く。
  血小板は1万2千に低下,熱は37度8分,状態はあまり良くないがとにかく手術できるような状態になるような治療が朝から行われる。
  夕方,予定通り喉に穴を開けて人工呼吸器の取付手術が行われた。
  入院時37kgにまで体重が減って弱っていた父に,この2週間の間に3回もの手術がよく持ちこたえられたものと,その生命力の強さには驚きである。でも,こんなになった父にこれ以上苦しいことはさせたくない気持ちと,突然入院して何も分からないまま死んでいく父が不憫で,何とか助かってもらいたい気持ちとが交錯した。夕方から1時間くらいで手術は終わった。

【3月31日(火)】
  便に血,吸引のタンも真っ赤で,あちこちから出血しているようだ。熱37度5分,看護師さんが体にさわっただけでも痛そうな表情をする。入院してからずっとそうだが,床ずれ予防のため2時間おきに体の位置の交換,あらゆる点滴,導尿,便のチェック,検温等でゆっくり寝ていられないだろう。今日は病院に泊まる。

【4月1日(水)】
  病院から出勤する。
  朝,熱は一旦下がったが,何だか具合が悪そう。手がグローブのようにむくんでいて,その手でベッドの枠を必死につかんでいる。まるで何かにすがっているような感じだ。夜は苦しいのかさかんに目を開ける。今日も病院に泊まる。

【4月2日(木)】
  朝は37度5分の熱だった。呼吸器を喉に取り付けてからその痛みか,時々顔をしかめる。楽になるはずなのにどうしのだろう。早く落ち着いてほしい。今日も病院に泊まる。

【4月3日(金)】
  医師から詳しい容体を聞くため,兄が病院に行った。
  それによると,ここ数日間白血球の値が1100まで下がっていたとのこと。今日はその値が僅かに上がり1500になった。少しの菌でもすぐ感染しそうな状態だ。血小板は4万8千になった。でも熱は37度5分だ。しばらくこのように一進一退の状態が続くだろうとのことだ。
  父が入院してからというもの,諦めの気持ちになったり,僅かでも状態が上向くと一縷の望みを持ったりと,まさに綱渡りの状態が続いていた。

【4月4日(土)】
  家へ帰りいろいろな用事を済ませ,久し振りに病院から解放されて過ごした。

【4月5日(日)】
  町内の一斉清掃をして,それから集まりに出席し,夕方また父の病院に行った。
  熱は下がっている。目を開けていて話しかけると何だか私が誰か分かるような感じだ。でも父は,家族が来ると喜ぶというより来なくていいという仕草をする。呼吸器をつけているので声は出せない。まもなく眠った。病院に泊まる。

【4月6日(月)】
  母が風邪で熱を出したので,今日は母のほうに行く。病院まで40km,母のところは病院からさらに20km先だ。遠い。
  食糧を買い母の所へ向かった。熱はあったが意外と元気で安心した。母のところに泊まる。

【4月7日(火)】
  朝3時半に母が起きて台所で何かしている。出勤する私のために朝ご飯を作っていた。「寝ていなさい」と言ってもきかず,結局こちらも起きるはめになった。朝食を済ませ5時半に出勤する。途中,父のところへ寄って顔を見てから職場へ向かった。

【4月8日(水)】
  仕事が終わってから父の病院へ行く。
  血小板5万2千になったが,まだ微熱が続いているという。まだまだ良い状態とは言えないらしい。回復が極端に遅く薬を減らすと途端に状態が悪くなるらしい。
  点滴が1つ減るという。僅かだが快方に向かっているようだ。今のところ安定しているので夜は泊まらなくても良いと言われ11時過ぎに家に帰った。
  母が病院へ行くと父はかたくなに来ないでいいと言うとのこと。

【4月9日(木)】
  残業をしてから夜8時過ぎに病院へ行く。
  痰の血はひとまず治まっていたが,また血小板が4万まで下がった。微熱もある。いったいどうなっているのだろう。でも,一進一退の状態に病院側は精一杯手をつくしてくれている。すべて病院にまかせるしかない。父に声をかけると来るなと言うので,今度はそっと顔をのぞく程度にした。洗濯物を片づけ自宅へ帰る。

【4月10日(金)】
  夕方,父の所へ行く。兄が夕方来ていた。小康状態。状態はあまり良くならないと言う。

【4月11日(土)】
  夕方,また大量に下痢が始まったとのことだ。父の腸はもう極限まで悪くなっていたのだ。そのためこれまで続けていた栄養剤の注入はひとまず中止される。その一方,今まで2本あった血圧を安定させる点滴が1本に減る。相変わらず微熱が続く。

【4月12日(日)】
  このところ晴天が続き,新潟県内はあちこちで桜が満開になった。この週末は行楽地は大変な賑わいになったことだろう。行楽は家族全員の健康あってのこと,今はそれができず悲しい。
  父は,働いている私や兄に自分たちのことで迷惑をかけまいと,これまで必死に頑張ってきた。それなのにこんな状態になった自分の不甲斐なさに情けなく思っているのか,それとも,わざわざ来なくてもいい,仕事に行けと言っているのか,或いは自分のことより母のことを頼むと言っているのか,いつも怒りと悲しみと痛みがミックスされたような顔つきになって体をよじるのだ。反面,兄の嫁さんが来ると,素直に言うことを聞いておとなしくしているからげんきんなものだ。看護師さんが注射を打ってくれて治まった。
  それからというもの,父に声をかけるのは止め,隅から静かに見守ることにした。「じゃ,帰るからね」と手を振ったら安心したように眠りに入った。

【4月13日(月)】
  夕方病院へ行く。土曜日からの下痢が今日も続いていた。もう,父の腸は機能を果たさなくなったのだろうか。でも栄養剤の注入を止めたせいか徐々に治まっているようだ。熱は平熱,血小板の値も良くないながら安定しているとのこと。心拍数がようやく90を割った。これまで,110あって常に心臓に負担をかけていたので,そちらへダメージを与えるか心配だった。よく持ちこたえられたものだと思う。

【4月14日(火)】
  栄養剤の注入を中止したので土曜日から続いていた下痢がひとまず治まった。CT検査の結果,血栓ができているらしく,明日は血管外来で受診とのこと。呼吸器の水がホースの中にたまって,息をするごとに水が上下するので,肺に逆流しないか心配だ。

【4月15日(水)】
  仕事が終わって用事を足してから病院へ行ったので,夜9時近くに着く。父は寝ていた。明日から4日間用があって病院に来れないので,その間のことは兄夫婦にお願いした。おむつや尿パットの補充,洗濯物を片付け家に帰る。

【4月19日(日)】
  夜,兄から連絡があり,父の呼吸器が取り除かれたこと,病室が集中治療室から一般の個室へ移ったと聞く。
  また,近所の人が見舞いに行ったと聞いた。でも,父はこんなになった自分の姿を人に見られるのを極端に嫌っていた。

【4月20日(月)】
  5日振りに父の所へ行った。
  呼吸器が外れたので,まだまだ不自由ながらも二言,三言かすかに話せた。
  入院した時のこと,入院して3回も手術をしたこと,あの苦しい治療に明け暮れた日々のことなどを話してやったが,本人は全く分からないという。頭がボケたわけではなく,頭はしっかりしていて,昨日は兄が来たことなどは覚えていたし,受け答えもしっかりしている。ただ,入院してからの時間は全て空白になっていた。もっとも,本人は三途の川をずっとさ迷い続けていたわけだから,分かるはずもないだろう。もう一歩で渡り終えるところを引き返してきたのだから。
  父は,母に電話して,火に気をつけるように言えなどと母の心配までしていた。また,私に早く帰るよう,無理をするなとまで言った。
  昨日までほとんど話せなかったので,今日は一段と進歩した。私が居なかった4日間のあいだに劇的に回復の兆しが見え希望がでてきた。

【4月21日(火)】
  仕事が終わってから行ったら,酸素吸入をしていて何だかぐったりしている。洗濯物が大量に出ていた。
  具合が悪いのかと看護師さんに聞いたら,今日は風呂に入れてもらったとのこと。それで疲れてぐったりしていたのだ。
  疲れたためか話かけてもほとんどしゃべらなかった。喉に開けた穴から再び痰の吸引をしていた。

【4月22日(水)】
  用があって病院へ行けなかった。兄夫婦が休んで母と見舞いに行った。
  容体は比較的安定しているが,顔が2.3日前に比べてさらに痩せたのが気になると母は言っていた。そういえば私も昨日,月曜と比べて顔が何だか痩せたなと思った。

【4月23日(木)】
  昨日と一昨日の具合があまり良くなかったので,心配して病院へ行ったが,見た目は割と元気で安心する。
  アップルゼリーというもので飲み込みの練習をしたらしい。酸素吸入をしているし,喉に人工呼吸器を取り付けた穴が開いているので,空気が漏れてまだほとんどしゃべれないが,私達のことや母のことを大分気にしていた。

【4月24日(金)】
   病院で父の洗濯物をしている間にうっかり胸のポケットの携帯電話を水の中に落としてしまった。防水機能のない携帯は水濡れに弱く,以後,使用不能になった。翌日ショップに行ったら新しいものと交換ということになった。中のチップさえ入れ替えたら以前使っていた携帯が使えたので不便は感じなかったが,携帯保障サービスに加入していて良かった。今度は気をつけよう。

【4月26日(日)】
  母を連れて病院へ行くと,父は盛んに来なくていいと体全体で表現している。そして,こんなになった自分の姿を見られるのが嫌だと言う。父の姿は痩せたなんてもんじゃない,まるでもうミイラ状態だ。骨と皮だけになってしまった。昨日は散髪予定だったが,まだ自分で上半身が起こせないので中止した。

【4月27日(月)】
  私が病院へ行くと,父は自分で電動ベットのスイッチで上半身を起き上がらせた。でもまだ元に戻すことはできない。腰が安定していないので,脇へ倒れたら大変だ。昨日とあまり変わらない。 

【4月28日(火)】
   今日は風呂に入れてもらったらしく洗濯物が多く出ていた。8時過ぎに行ったので,それから洗濯をし家に帰ったのが夜10時半だった。風呂に入った割には先日のようにあまり疲れた様子もなく一安心だ。
       毎日来なくていいと父は言うが,もう生活の一部になっているので,来ずにいられない。兄嫁と私と交代で通っている。母にも来なくていいという。なぜなら会うと別れがつらいと言った。父はもう家族と関わらずにひっそりと死にたいと思っているのだろうか。 

【5月1日(金)】
  夜,病院に行って父の様子を見るとちょっとぐったりした感じだ。帰り際ちょうど先生に会って様子を聞いたら,38度近くの熱が出たそうだ。「今は何があってもおかしくない状況ですから,様子をみましょう」とのことだった。
  抵抗力が全くないのでちょっとした菌でもすぐ感染してしまうようだ。

【5月3日(祭)】
  昨日は母の所に泊まり昼間は久し振りに畑に行って野菜を植える手伝いをした。私は農家の出身なのに,農業のことはさっぱり分からない。野菜を植えるのは意外と難しいものだ。トマトの苗は斜めに植えることが今回初めて分かった。畑仕事が大好きな母にとって,場所がちょっと遠すぎるのが難点だ。
  夕方父の所へ行った。痰がからんで苦しそうだった。2.3日前から物を飲み込む練習をしているが気管のほうに入ってうまくできないらしい。何箇月も物を食べていないので,最初から訓練だ。また下痢も始まった。

【5月6日(祭)】
  夜,父の所へ寄る。2.3日前から流動食の練習をしているようだ。
  少し食べても,どうしたことかすぐ下痢になるようだ。
  入院した当初は99パーセント助からない状況だったので,ここまで回復したのは本当に奇跡に近い。でもまだ人工肛門だし,喉の呼吸器の穴も塞いでないから話すことができないし,それになんといってもミイラのように痩せた体がこれからどこまで回復するのか,それともこのまま階段を降りるがごとく弱っていってしまうのか誰も分からない。

【5月7日(木)】
  夜,病院へ行った。父は割と元気だった。朝と昼,食事が出たらしい。無理して食べたと言っていた。洗濯をして帰る。

【5月8日(金)】
  仕事が終わってから父の所へ行った。洗濯物を済ませる。
  喉の呼吸器を取り付けていた穴に取り付けていた器具を今日外したとのこと。それを見せてもらったら5cm位の金具だった。あんなものが喉に入っていたなんて驚きだ。また最初から飲み込む訓練が必要になった。

【5月11日(月)】
  仕事が終わってから父の所へ行って,オムツの補充,洗濯などをした。
  人工肛門のパット等は保険の対象にならず自己負担だ。リハビリ用の履物も用意する。
  状態が少し安定してくると,頭がしっかりしているものだから,母や家のことを心配したり,自分自身のことを悲観したりする。病人は自分で直そうという気力がなければ絶対に回復しない。できるだけ励ますようにする。

【5月13日(水)】
  今日は母と義姉が父の所へ行った。
  あまり具合は良くなさそうな様子だったとのこと。

【5月14日(木)】
  仕事が終わってから病院へ行く。栄養剤の注入だけやっていた。
  何だかぐったりとした様子だ。呼吸器の穴から息が漏れて話せない。起き上がるリハビリをしているらしいが,あの体では酷な話だ。人間はあんなに痩せてもよく生きていられるものだと驚きだ。おそらく体重は30kgを割ったと思う。

【5月16日(土)】
  病院へ行ったらちょうど兄夫婦も来ていた。
  父は思ったより元気だが,リハビリがあまりうまくいっていないようだ。
  生命維持の限界に今いるので,そのどん底から這い上がるのはかなり難しいようだ。
午後は母の所へ行って一緒に畑仕事をした。母の飲んでいる薬を見たら
複数の医院から20種類以上あった。
  同じような薬がダブっているようなので,今度行く時は,薬手帳を出して必ず聞くよう注意した。

【5月18日(月)】
   父の摂食や運動機能のリハビリはなかなかうまく進まない。本人は一時は望みを持った時期もあったようだが,うまくいかない状態に失望して,もう生きる気力を完全に失っていた。行くたびに「バアさん,頼む」と声を振り絞って言われる。

【5月22日(金)】
  午後から父の所へ行く。
  昼食と夕食の中間のような時間で食事が出ていた。おかゆや玉子豆腐など,仔猫が食べる量より少ないのに手をつけず残していた。これじゃ寝たきりからなかなか脱出できない。父も苦しんでいるのだから焦らないようにと看護師さんに言われる。

【5月23日(土)】
  母の所で一日過ごす。私が行くというと母はありあわせの材料でいろいろ料理を作っていてくれた。一人だとついつい簡単に済ませてしまって良くないので,できるだけ行くようにしようと思う。
実家の納屋や物置を見ると,粗大物などがすっかりきれいに片づけられていて驚いた。母に聞くと,昨年あたりから父が徐々に整理していたとのこと。自分の死期を悟って身辺整理していたのだった。

【5月25日(月)】
  仕事帰りに父の所へ行く。
  なかなか食事がうまくとれないようだ。胃を切除したわけでもなく,腸を切除したわけでもなく,何でこんなに回復が遅いのが歯がゆくてしょうがない。入院前の悪かった状態がトラウマになっているのか,自分自身の人生にもう区切りをつけようと思っているのだろうか。

【5月29日(金)】
  用事を足してから父の所へ行く。
  父は,食事が来るともう何も食べずに片付けてくれと言うらしい。食事といったって仔猫が食べるくらいの量なのに・・・
  父は摂食がうまくいかず誤飲になったり,また運よく摂れてもすぐ下痢をしてしまう自分の体に絶望的になり,しだいに食事を拒絶するようになっていった。
  点滴だけでは力はつかないので,少しでもいいから食べてくれないかと願う。もう自分で体を動かすことさえできなくなりつつある。

【5月30日(土)】
  母が一人になった時のために,実家を母が住みやすいよう改装する準備を始める。
  先の中越沖地震で一部損壊に認定され,あらゆるところにダメージがきているので,なかなか大変だ。

【6月1日(月)】
  いつの間にか6月になった。
  父はもう生きるしかばね状態だ。
  自分のそんな姿を家族にさえ見られるのが嫌で,行くととにかく帰れという。医師や看護師さん以外に見られるのを極端に嫌っていた。
  一人部屋で毎日ベッドで横たわっているわけだから,精神状態がおかしくなるのも無理もない。

【6月4日(木)】
  父はもう生きる気力を完全に失っていた。
  そばで一言二言話をしていると,今度は涙を浮かべるようになった。
  食事さえ取れるようになれば,わずかな望みはあるのに,拒絶しているという。今度は精神的な相談もしなければ・・・

【6月12日(金)】
  こんな状態になると人間は誰でも精神的に参ってしまうと思う。父の場合はそれに輪をかけて極度の心配性だからなおさらだ。家族に心配かけまいと,かたくなに来るなという。私達のことはいいから,とにかく食べなさいと励ます。

【6月15日(月)】
  夕方父のところをのぞいた。薬がきいてきたのか,さわやかな顔で外を見ていた。声をかけずに帰る。

【6月18日(木)】
  昨日から実家の改修が始まった。どんなになったか見たくて夜帰ってみた。15畳と10畳の続き間の床が全部剥がされ,新たに土台が造られていた。100年以上経った家なので土台と床が全部腐っていたらしい。ついでに部屋1つとトイレをバリアフリーで改修し,それに中越沖地震でずたずたになった白壁を全部補修する大掛かりな工事だ。
  帰りに父の所へ寄った。洗濯ものが沢山でていた。

【6月19日(金)】
  午後から休んで父の所へ行った。先週から始まった精神治療の先生が週1回来る日なので立ち会った。父の症状は変わりなく,いまだに食事を拒否している。
  ここでもう一度,生きようという気持ちを持って,少しでいいから食べる気になってくれないかと願う。もう残された時間がない。

【6月21日(日)】
  昨夜は母の所に泊まり,買い物やら家の用事をやった。父の一番仲良しだった同級生が亡くなったと聞いた。そういえば,母は一週間ほど前から"カラス鳴きが悪い,悪い"と私に言っていた。昔から,"カラス鳴きが悪いと死者が出る"と言い伝えられているが,母はもしかしたら父のことではないかと心配していた。夕方父の所へ寄るが相変わらずだ。

【6月22日(月)】
  夕方,父の所へ行った。相変わらずだ。

【6月26日(金)】
  父の精神科の診療の日なので,午後から休んで病院へ行く。
  状態は相変わらずだ。おかゆの食事が出たが,父はかたくなに一切拒否している。冷蔵庫に入れておいた昨日母が作ってわざわざ持ってきた茶碗蒸もスプーンでやろうとしたが絶対に口を開けない。
  どうして食事を拒否するのだろうか。もう,自分はダメだから食事を取っても無駄と思っているのか,食事を取れば,下痢でオムツやら何やらで看護師さんに迷惑がかかるのを懸念しているのか,さもなければ,もう何か月も飲み込むことをしていないのでうまくいかず,気管に入って苦しい思いをしたのが頭にあるのだろうか・・・
  父のオムツ券の申請に役場へ行く。

【6月27日(土)】
  昨日は母の所に泊まり,畑仕事を手伝ったりした。
  夕方父の所へ寄る。出ていた足を見るともう骨だけになっていて愕然とする。

【6月29日(月)】
  一人暮らしになった母が何とか暮らせるには,どうしても行政の支援が必要になる。母はまだ自分は大丈夫だと頑張っているが・・・

【7月3日(金)】
  精神的にウツの状態になっているのでその改善が必要だが,もう父のような身体状態になってしまっては効果があるのか無いのか,一縷の望みに託すだけだ。 

【7月5日(日)】
  母の手伝いで実家へ行く途中父の所へ寄った。
  枕もとにきれいな盛り花が飾ってあった。そうだ,7月4日は父の誕生日だったのだ。兄嫁の優しい心使いだった。父は何の花が置いてあるのか意味が分からないと思って「7月4日,84歳,たんじょうびおめでとう」と大きく書いて父にみせた。父はじっとそれを見ていた。
  もう,寝たきり状態で,手だけかすかに動かしていた。

【7月8日(水)】
  父はもう自分で体を動かせない。
  あれほど「来るな!」と言っていた元気ももはやない。
  食事も取れなくなった。歯磨きも自分でできなくなった。
 僅かに手を動かし目を開けるだけ。でも,大きな声で話しかけると分かるらしく首を振る。頭だけはしっかりしている。いっそのことボケてくれたほうがどんなに気が楽だろう。

【7月9日(木)】
  父は入院し,手術をし,意識が戻ってから一貫して私たち家族に来るなと言い続けてきた。それは,働いている私たちに迷惑をかけたくないということと,もう,自分は助からないのだから,死んでいく姿を見せたくないという気遣いからだった。

【7月10日(金)】
  今日は父の精神科の医師による診察日だが母に行ってもらった。母が行ったといっても,耳はよく聞こえないし今後の相談などできる訳はないのだが,誰もいないよりは良いだろう。

【7月11日(土)】
  実家に一人取り残された母が暮らしやすいようにトイレと部屋をバリアフリーに改修した。とんとん拍子に工事が進み約1カ月で完成した。そろっと父の葬儀の準備もしないといけないが,それは誰も口に出さない。いざとなっても兄や私がすぐかけつけられない状況だ。中心になって動いてくれる伯父さん,伯母さんも近くにいない。やはり自分たちで何とかするしかないだろう。葬儀を田舎の風習の中で自宅ですることは,私たちにとってかなり高いハードルになりそうだ。

【7月13日(月)】
  父の所へ行った。小康状態。もう点滴でかろうじて生きている状態だ。
  「私,誰だか分かる?」と大きな声で聞くと,「レーコ」と言った。分かっていた。

【7月16日(木)】
  夕方父の所へ行く。電気を付けて出ていた足にタオルをかけてやった。父はもうベットを起こすこともできず自分の体も動かせなくなった。

【7月18日(土)】
  父に話しかけても,目を開けてこちらを見るだけだ。自分から話すこともできなくなった。反応もあまりなくなってしまった。母の所へ行く。

【7月20日(祭)】
  病院で兄夫婦と一緒になった。父に話しかけてもわずかに首を横に振るだけ。
  今日は母の所で改修の引き渡しがあるので3人で向かった。母の一人暮らしの準備はようやく整った。でも82歳だからこれからどうなるか将来が不安だ。
  帰りに父の所へ寄ったら熱が出ていたらしく水枕で両脇を冷やしていた。

【7月24日(金)】
  父は相変わらずだ。オムツ類を補充して洗濯物を持ち帰った。

【7月26日(日)】
  息子と父の所へ寄った。入院して以来初めて孫である息子が見舞った。
  大きな声で息子の名前を言ったら分かったらしく,今までに見たことのない笑顔になり手を差しのべてきた。父は4人の孫をことのほか可愛がっていたのだった。

【7月31日(金)】
  今まで父と母は町から全く支援を受けずに暮らしてきた。これはガマンしてきた部分が大きく,今後は一人暮らしになった母にはいろいろと支援してもらうようお願いした。

【8月1日(土)】
  母をお寺の盆参に送り,その間に実家の網戸を調整したり,電球を付けたり,今まで父がやっていた仕事を少しやった。
  これから冬になると,冬囲いやゴミ出し,買い物など母一人ではできなくなることが沢山ある。困ったな。

【8月3日(月)】
  父の所へ行ってオムツなどの補充をした。「じゃ,帰るからね」と手を振ったら父もわずかに手を挙げた。

【8月4日(火)】
  今日は義姉が父の所へ行った。電車に乗り継いで行かなければならないので大変だと思う。
  父は体を拭いてもらっていたそうだ。

【8月5日(水)】
  母が病院へ行った。母自身も同じ病院にかかっている。

【8月8日(土)】
  医師から父のことについて説明したいと呼ばれ病院へ行く。
  奇跡が起きない限り,父はもうこれ以上好転の見込みがないと言われる。
  これによって事実上「死」の宣告が行われたことになり,いずれこうなることは覚悟していたのだが大変ショックだった。何も知らない父の顔を見るのが辛かった。
  午後は母の所へ行き,お盆に備えてお墓の掃除をした。今まで実家のお墓の掃除はずっと父がやってきた。昨年もこうして父が掃除をしていたのだ。

【8月17日(月)】
  一週間振りに父の所へ行った。
  今までの父の様子と違い,何か苦しそうにもがいている様子だった。手には厳重にグローブがはめられ,それをさかんにばたつかせていた。苦し紛れに体につながっている管を外してしまわないためとのことだ。

【8月21日(金)】
  手のグローブは取れていたが,体をさかんによじって苦しんでいる様子だ。そして,時々体が痙攣していた。明らかに今までの様子と違っていた。顔をのぞくと,私のことが分かって今度は泣き顔になった。

【8月24日(月)】
  もう,全身をよじる力もなくなり,僅かに動かすだけになったが,それでも渾身の力で苦しんでいるような様子が分かった。医学的にもうどうすることもできず,奇跡が起きない限り回復の見込みはないと言われているので,父の姿を見るのが辛かった。

【8月27日(木)】
  このところの父の様子が異常なので,午後は休暇を取って先生に会って話を聞こうと思っていた矢先の午前9時半,病院から連絡があり,父の呼吸が荒くなり血圧も低下してきたからすぐ来てほしいと言われ,急きょ病院へ向かう。県外の兄にも連絡し来てもらう。母にもすぐタクシーでかけつけてもらった。
  病院に着くと既に母が先に来ていて,父を見ると,酸素マスクをつけていて荒い呼吸で苦しそうに肩で息をしていた。まだ意識はあり母が担いできた2本のおふだを父の目の前にかざすと一瞬読むしぐさをしたので驚いた。兄夫婦も夕方には来て,いよいよ来る時がきたと気を引き締める。この日は病院に泊まる。
先生からここ1・2日位だろうと言われる。夜は小康状態が続き,呼吸が少しずつ弱くなってきていた。

【8月28日(金)】
  朝8時,主治医がきて大きな声で父の名前を呼んだら一瞬大きな目を開いて反応した。しかし,それ以後はもう呼びかけにも全く反応しなくなり,体も動かすこともなくなり,半開きの目も次第に白く濁ってきて,酸素マスクの中で僅かに呼吸するのみとなった。昨日から尿も全く出なくなっていた。 
夕方,これからに備えて母達には一旦家へ帰ってもらう。
まもなく人生の幕を閉じようとしている父の顔を見ながら,それまでの父の人生を思い起こしていた。


  父の家は貧しい農家で,姉2人,妹3人の6人きょうだいの3番目,8歳で母を亡くし,19歳で父を亡くしてから一家の大黒柱として頑張ってきた。22歳で結婚し兄と私が生まれた。
  五反ほどの田んぼと僅かな畑で生計を立てていた私達が子供の頃は,想像を絶するほどの貧しい生活だった。冬場は関東方面に出稼ぎに行き,その仕事が無くなると小さな町工場で配達の仕事をしたりして,母共々朝から晩まで身を粉にして働いて生計を立てていた。僅かな田んぼだから機械化とは程遠く,全部手作業で田植えから稲刈り,脱穀までやり,稲をはざ木まで運んで,それをはざ木の上にいる両親に手渡す仕事をいつも手伝わされた記憶がある。
  テレビや冷蔵庫もなく,囲炉裏で薪を燃やし,井戸水を使って生活していた。
  その後,農業も機械化が進み,僅かな田んぼは人の手にゆだねることになり,父は公共料金の検針,集金の仕事を始めるようになる。これは入院する一年前の82歳まで続けていて,まさに父の生きがいだった。
  酒が好きで,気の小さい父は酒を飲むと気が大きくなり,時々母を困らせていたものだ。
  たまには温泉にでも行ってのんびりすればいいのに,それさえすることなく極貧生活のまま働きずくめで駆け抜けた人生だった。そんな父が哀れに思えてならなかった。


  ソファーでうとうとしていた夜中の1時過ぎ看護師さんに起こされ,父の血圧が下がってきたから,母に知らせたほうがよい言われる。
  その間にも血圧は徐々に低下し,呼吸も弱く断続的になり,もうダメかと思った時,母と兄が到着した。主治医も来て,それから5分後,涙を流している母に看取られながら父は静かに息をひきとり84年の生涯を閉じた。5カ月に及ぶ壮絶な戦いが終わった。最期まで手を尽くしてくれた主治医や看護師さんには感謝の気持ちでいっぱいだった。


―いよいよ葬儀へー

  
 冠婚葬祭は,その地域の文化の一番の象徴であると言われる。
当初,近くの会場でやるつもりだったが,母や周りの人の強い希望で自宅で行うことになった。
  私も兄も実家から出て暮らしていて,部落や親戚の付き合いはそれまで父が一手に引き受けていて,部落の習慣・風習が何も分からず,全て1からやらなければならなかった。父も生前それを危惧していて,自分の葬儀について克明に書き記して,あとは頼りにしていた従兄弟と相談するよう言い残していた。
  しかし,その大事な紙がどこにあるのか見つけられず,結局15年ほど前に行った法事の記録を基に段取りをしていた。部落には古くからの親戚が7軒あり,母でさえこの親戚との繋がりが定かではないようだった。
  実家では何と父の父が亡くなってから64年振りの葬儀となった。
  

 病室を片付け,50分後に遺体と共に病院を後にした。外では悲しみを洗い流すかのような激しい雨が降っていた。
  自宅では義姉が準備して待っていて,午前5時から菩提寺の住職をはじめ2人のお寺さんによって枕経が行われた。その後,父の死が部落の人達に知らされ,早朝から続々と砂糖1kgを持って部落の人がお参りに来た。なぜ砂糖1kg持って来るのかは分からないが,多分,昔は料理などは全部その家で作っていたからそのなごりだろうか。
  その後,伽見舞いが次から次へと届けられた。昼過ぎから,今度は本格的に葬儀の打ち合わせが行われた。自宅で葬儀をするといっても最近は葬祭センターに依るところところが大で,部落の人達がやることは少なくなってきているようだ。
  
  夕方から翌日にかけて家の飾り付けや準備に追われた。屋外には数基の花輪,屋内も幕や祭壇,生花,灯篭などの飾りものが搬入された。最近は白黒の幕はあまり使われなくなったようだ。
  今の家は父のお爺さんの代に建てた古い家だ。昔は冠婚葬祭は全部自宅でやっていた。火葬場は部落の外れの小高い所にあって部落の人達の手によって木を組んで荼毘に付していた。

  夕方5時,いよいよ旅立ちの支度と納棺の儀式だ。
 読経の中,まず体を清め,足袋や脚絆,手甲をはめて白装束に身を固め,六文銭の袋には父があの世で大好きだったお酒が買えるようお金を入れてやり,愛用品や酒のパックを入れた。そして,入院する前,母と一緒に折っていたという千羽鶴や紋付の羽織も一緒に棺に納められた。棺の上には金襴緞子の布がかけられた。
  この間に親戚の人達が次々と集まって来た。兄も私も職場には葬儀は親族のみで執り行う旨の通知をしていたので混み合うこともなく,納棺がスムーズに進み,午後6時半,予定より早くお通夜が始まる。
  菩提寺である如法寺住職をはじめお寺さん5人が来られ読経が始まった。回り経など読経は延々と1時間半におよび,最期に35日の読経も行われた。
  すべて終わったのが午後8時。その後通夜振る舞いが行われる。テーブルを出しオードブルやお寿司などで夜遅くまで賑わった。

  翌日は,いよいよ告別式の日。家の中に入るのは親族と親戚のみだ。
  昨日と同じく5人のお寺さんによる1時間半の読経の後,棺を部屋の真ん中に移動させ蓋を開けて最期のお別れだ。順番に父の顔の周りに花を置いてお別れした。
  その後親戚や部落の人達によって,棺が霊柩車まで運ばれた。村中の人や父を偲んで多くの人が集まってきて見送ってくれた。喪主の挨拶の後,マイクロに乗り火葬場へ向かった。
  20分ほどで火葬場に着き,お参りし,最後に父の顔を見て火葬場を後にした。
  お寺さんを送りそれと入替に兄の家族と母,従兄弟が礼参に行く。
  2時間ほど経ってから再度マイクロバスに乗り,お骨拾いに行った。骨だけになった父を見て,人間の命はなんてはかないものかと切なくなった。
  家ではこの間にも読経が続けられていた。骨箱に入った父が自宅に戻り,午後2時,会場を移してお斎が行われた。父の思い出話で時が過ぎていった。
  午後4時半全員で自宅に戻る。
  このあと,午後7時から部落の人全員がお参りに来る「お初夜」があるのだ。7時前,部落の人が次々と家に集まってきた。
  午後7時読経が始まる。1時間ほど読経後,住職のお話があり,父と住職との関わりなどを話された。
  

 父は19歳で父を亡くしてから一家の大黒柱として家を守り,寺の世話役,総代などを今の住職と共に六十数年間やってきた。入院する直前にも具合の悪い中,寺の会計報告などをやっていたとのことだ。
 父の戒名は「寶祥院慈運與楽居士」,地位も名誉も無かったけれど,人生を精一杯生きた証だった。
  部落の人達が帰られてようやく3日間におよぶ葬儀が終わった。自分の葬儀を一番心配していた父の遺影に向かって,「これで良かったですか?」と問いかけた。

  
 葬儀が無事終わり初七日までの間,家の後片付けや諸々の手続きに奔走しあっという間に時間が過ぎた。
  一週間後,初七日が行われた。お寺さんが2人来られ,家族だけでお経をあげてもらった。
  初七日が終わると飾り付けも簡素になり,1人帰り,2人帰り,最後に私が帰り家には母一人取り残された。「何にも寂しくない」と母は強がりを言っていたが,これから徐々に寂しさがこみあげてくるだろう。私も11日振りにようやく我が家へ戻った。
  9月7日から仕事に復帰した。みんなが私の仕事を手分けしてやっていてくれた。感謝。
  
 父の病院へ行くことがなくなりいつもの生活になった。でも,保険やら何やらで平日休まなければならないことが沢山あった。それに今度は母が一人暮らしになったので,そのケアが重くのしかかってきた。
  もう83歳だから,一人暮らしはできれば避けたほうがよいけれど,母自身,元気なうちは住み慣れた今の場所が一番いいと言っている。せめて私が定年になるまで元気でいてほしいと願っている。

  
 10月10日,49日の法要が親族のみで執り行われた。
  人は死後七週間の間は,一週間ごとに守り本尊が守ってくれて七週間かけてあの世へ渡って行くという。一週間目は不動明王,二週間目は釈迦如来,三週間目は文殊菩薩,四週間目は普賢菩薩,五週間目は地蔵菩薩,六週間目は弥勒菩薩,七週間目は薬師如来で,毎週お経をあげてもらってお参りした。
2人のお寺さんの読経の後,菩提寺である如法寺の裏手にあるお墓へ向かった。
お墓まで50mほど山道を登らなければならず,足の不自由な住職や母には大変な労力だった。
  久しく開けてないお墓は重く,数人がかりでこじ開けて無事納骨が終わった。
  実家の広い家にはいつもの平穏な時間が戻って来た。でも,父の姿はもうどこにもない。

  今年も家の前にある柿の木が,たわわに実を付けた。
  父は,新米が採れると,米と一緒にいつもこの甘柿を入れて送ってくれたものだった。そんなほんの些細なことが重く思い出される今日この頃である。