御館跡 所在地 新潟県上越市 戻る
勝山から降りて次に向かったのは「御館」だ。 ここは上越市の街の中にあるため,車で向かう。 最初,五智寺に迷い込んでしまったのでついでに見学した。 境内の三重の塔を見学したり,茶屋でところてんを食べたりした。その後御館へ向かう。 「御館」は住宅街の小さな公園になっており,看板だけがあった。ちょうど地元のボランテアガイドさんがいて,いろいろと説明を受ける。当時はこの公園の何倍もの広さで越後一の規模だったとのこと。 頂いた資料によると, 「関東管領上杉憲政(のりまさ)が小田原城主北条氏康(うじやす)に敗れて越後の上杉謙信を頼ってきた。それは天正21年(1552年),謙信が23歳の時である。謙信は上杉憲政の館として,御館を造営した。以後,御館は,憲政の館であると同時に,上杉謙信の外交折衝の場として公的に使用された。関白近衛前嗣(さきつぐ)を始め,文化人や使節達がここを訪れた。こうして御館は春日山城の応接間として賑わった。ところが天正6年(1578年)上杉謙信が死去すると家督相続をめぐって御館の乱が起こった。翌天正7年3月17日,御館は上杉景勝軍の猛攻撃を受けて落城してしまった。御館跡は直江津駅西方約1kmキロメートル,国道18号線の陸橋「おたて橋」の西方一帯にあった。今日,付近一帯には住宅が立ち並び,御館の面影はない。昭和39年より3年間,発掘調査が行われた。日本でも屈指の館城(たてじろ)であったことがわかった。内郭は東西135m,南北150m,周囲には土塁と塀がめぐっていた。種子島の銃弾,銭貨,武具,馬具,刀剣,曲物,漆器,中国製の青磁や白磁など,高価な遺物がたくさん出土した。上杉家と京都との交流が盛んであったこと,上杉家の優雅な生活ぶりがうかがわれる。」とある。 |
御館跡(現在は公園になっている) | 五智国分寺三重の塔(境内のトコロテンが美味しい) |