母の介護日記  

1月16日 朝、施設から「お母さんが亡くなりました」と連絡があった。
もう助かる見込みはなかったけれど、最期の苦しみだけとって穏やかに送ってあげたかったと後悔している。
1月15日 面会に行ったら呼吸が出来なく苦しんでいて、体の所々うっ血していた。
もう為す術がなかった。
1月14日 施設から連絡がありお「母さんが苦しがって脈拍も早いが病院に連れて行きますか」と言われる。
半年位前から食事がうまく摂れていない状態だったので、回復は難しいと思い施設のお医者さんのほうにお願いすることにした。
何か有効な手立てをしてもらえるかと思ったら、病院とは違って風邪などは診てもらえるがその他は酸素吸入だけで何もしてもらえなかった。
2021年
1月1日
何とか新年を迎えることができた。
12月16日 期間限定で2回まで面会が許されたので行った。
耳が遠くて話すことが殆ど理解できないが、持って行った孫の家族の写真をうれしそうに見ていた。
11月30日 期間限定で対面の面会が許されたので行った。
食事があまり満足に取れなくなってエンシュアに頼っているとのことだがその割には元気そうだった。
10月23日 4か月振りに面会に行った。
骨折してから寝たきりの状態が続いたので、どんなになっているか心配したが、その割には元気そうだった。
ただ、食事がうまく摂れていないとのことなので、これからどうなることか。
窓越しの面会からはやく側で話せるようになるといいが、果たしてそれまでもってくれるかどうか。
9月1日 今日95歳の誕生日を迎えた。
随分長生きしたものだ。
大腿骨骨折から2か月経った。
痛みもだんだん薄れてきて以前のように痛い痛いと言わなくなったとのこと。
良かった。
まだまだコロナで面会ができないが、早く以前のように側で話がしたい。
6月26日 施設から連絡があり、母が転倒して足を痛がっているから救急車で病院に運ぶので来てほしいと言われすぐに向かう。
レントゲンを撮ったら大腿骨骨折とのこと。
高齢でもあるし、車椅子生活なので、手術するかどうか話し合った末、そのままにすることにした。
体を動かすたびに痛がるので痛み止めを出してもらい施設に戻った。
一難去ってまた一難、生きている限りこの苦労は続くんだろうね。
長生きってめでたいこと?
6月8日 母の住む町では65歳以上の高齢者のコロナワクチン接種が終わり、64歳以下が始まろうとしている。
高齢者の接種が終わってから、87歳の町長が接種したとのこと。
一番に接種してもいい年齢なのに立派だ。
人口4000人の小さな町なので、スムーズにいったと説明していた。
6月2日 母の面会に行った。
面会といってもガラス窓越しに無線機で話すので、耳が遠い母との会話は成り立たない。
私を見たらすぐ分かり笑顔で手を振った。
「どうした?」と、久し振りに行ったので不思議そうだった。
ワクチンも2回接種が終え、間に合って本当に良かった。
新潟では今日も3人の高齢者が亡くなったとのこと。
ワクチンが間に合っていれば亡くならずに済んだかも知れない。
5月15日 施設から近況を知らせる母の写真が数枚送られてきた。
94歳とは思えないほど元気な姿でホッとした。
施設のほうで本当に良く世話をしてもらっていて感謝だ。
コロナでなかなか満足に面会できないので、写真は嬉しい。
ワクチン接種も一回目が終わり、来週2回目になる。
高齢者施設のあちこちでクラスターが発生している。
間に合うか。
3月17日 母の高齢者施設でコロナ接種が入所者に行われるというので同意書が送られてきた。
4月中旬からとのこと。
小さな町なので早いが、私たちの所はいったいいつになるのだろう。
3月12日 今年は3年振りのドカ雪だった。
古くなった実家が気掛かりだった。
案の定、作業小屋の半分が雪の重みで倒壊していた。
車庫の透明な屋根も破損していた。
撤去するか思案している。
お金かかるねぇ。
3月11日 医療費の還付や保険の手続きで母の所へ行った。
3ケ月振りだったので最初は誰か分からなかったが、すぐに名前を呼んでくれた。
今度はせめて1ケ月に一回くらいは行こうと思う。
ただ、窓越しに無線での会話で、しかも補聴器を使っていないので、まともな会話ができなかった。
顔を見ただけでもよかった。
早く以前のように話ができるようになったらいいな。
2月26日 今年の冬は3年振りの大雪だった。
コロナで施設は面会できない。
ずっと実家に行っていない。
どんなになっているか心配だ。
母にずっと会っていないと、自分の生活に追われて、母のことを気にかけなくなってしまった自分に気づく。
「そういえば母はまだ生きていたんだ」
ワクチン接種が始まれば、面会できるようになるかも知れない。
早くその時が来ることを望む。
2月3日 新潟県でコロナに感染していた高齢者が今日新たに2人亡くなったとのこと。
もし母の施設に蔓延したらと思うと恐ろしい。
早くワクチン接種が始まり、少しでもリスクを減らし、早くコロナが終息してくれることを望む。
2021
1月15日
母の施設から今月の広報誌が送られてきた。
表紙に写っている数人の中に母の元気な顔があった。
施設の人に感謝しかない。
何とかこの状況を乗り切ってほしい。
12月24日 10日ほど前、施設で胃腸炎が流行っていて母も感染したと連絡があり、「もしやコロナでは?」と心配したが、その後、気になっていたので今日様子を聞くため電話した。
「すっかり元気になり、食欲もあります」とのこと。良かった。
コロナもそうだが、どんな感染症も高齢者施設にとっては重大だ。
さらに「すぐ近くに居るから電話を代わりましょうか」と言われた。
電話口に出た母は元気な様子で「そっちはみんな元気だかい?」とむしろこちらを気遣っていた。
面会禁止の中、思わぬ形で母の声を聞くことができ、まさにクリスマスイブのプレゼントだった。
11月18日 面会に行った。
菩提寺の住職が亡くなり、その息子が住職になったお披露目の集合写真が送られてきたのでそれを持って行って見せた。
それと共に兄の息子とその子供(母にとってはひ孫)の写真も持って行った。
住職は母より3つ上だったが元気で、母の葬儀は是非とも96歳の住職にお願いしたいから、それまで元気でいて下さいと言っていたが、母より先に逝ってしまった。
実家の近所でも母より若い人が次々と亡くなり、一番年上になった。もうここまできたら100歳を目指してもらいたいものだ思う。
多宝山にセンブリの確認に行き、踏み跡程度の所を初めて下ってみた。
軽くみていたが、意外と急峻で真剣勝負の下山となった。
11月1日 月2回面会ができるので天気も良いことだし、山のついでに行った。
窓越しに無線機での会話だが、母はにこやかに元気にしていた。
この年でまだ親が生きているのは珍しく、本当に有難いことだ。
ここまできたなら100歳を目指してがんばってほしい。
でも、その前にこっちが先に倒れそう。
10月11日 昨日から窓越に10分だけ面会(月2回まで)できるようになり、早速母に面会に行った。
10か月以上会っていなかったので、私のことを忘れているのではないかと心配したが覚えていた。
無線機を通しての会話だったので、あまり話せなかったが、それでも元気な姿を見ることができて良かった。
食事も取れているというし施設の職員さんには本当に感謝だ。
冬物の衣服も持って行った。
9月1日 母の94歳の誕生日です。
こんなに長生きするとは本当に驚きです。
1月からインフルエンザ予防のため面会禁止に引き続き、今度はコロナウイルスの感染予防でずっと会えない日が続いています。
施設の職員さんには本当に良く世話してもらっていて、おかげで元気に暮らしています。
6月1日 「夏物と冬物の入れ替えをお願いします」と連絡があり、持って行った。でもまだコロナの影響で面会はできない。
施設のほうもリモートで面会できるようにしてくれたが、設定が面倒だしカメラの前で話すのも苦手だし、元気でいるならわざわざリモートで会わなくてもいいかなと思って止めた。行こうと思えばすぐに行ける距離なので、コロナが終息して会えるようになるのを楽しみに待つことにしよう。
帰りに畑に寄った。
コシアブラとウコギが元気に育っていた。
タラの木はあちこちに自生している。
立入禁止の札を下げたら少しはいいが、よそ者が無断で採って困る。
山に入っている時ってどうしてこんなに楽しいんだろう。
5月15日 施設利用の明細が施設から届いた。
それと一緒に母の最近の写真が入っていた。
一月から会っていないので、様子が分からなかったが、写真を見て安心した。
1月の時より少しふっくらした感じで表情も良かった。
施設の人にはコロナに負けずよく世話してもらっているので感謝、感謝だ。
介護する人や病院の看護師さんにはもっともっと手当を出していただきたい。
4月30日 母の薬をもらうため病院に行った。
ここまで生きているということは、1月の状態からすると驚きだ。
とりあえず同じ薬を3ケ月分もらった。
病院の患者は相変わらず多かったがそれでも普段の半分位か。いつもは母と同じく車椅子に座っている人が多いが、今日はほとんどいなかった。
母には3ケ月以上会っていないしこれからもしばらく会えないだろう。
早くコロナが終息してもらいたい。
私のことを忘れないよう手紙に書いて母に渡してもらった。
午後から実家の山に山菜取りに行き、久し振りに外の空気を吸いリフレッシュした。
4月15日 施設から連絡があり、母が熱を出したという。
ただ、それほど高い熱ではなく、37度台ということで、一応風邪薬が処方された。
一瞬、新型コロナウイルスか?と思ったが、まだ母の施設には蔓延していないので、ただの風邪で一件落着。
施設の職員さんも大変だと思う。
こちらではせめて面会は行かず、ウイルスを持ち込まないようにするだけしか手立てはない。
4月8日 新潟市で相変わらず新型コロナウイルス感染者が出ているため、感染地域からの面会は禁止となっていて会うことは出来ない。
母の施設に何とか感染が広がらずに終息してくれることを切に願うばかりだ。
母はもう私のことを覚えているだろうか。
1月中旬には終末期を迎えたと誰でも思っていたが、奇跡的に持ち直した。
でも体調は万全でない。
こんなことで別れることになったら今までの苦労は何だったのかと思う。
3月25日 施設から電話があった。
母のことだが、何とか元気に暮らしているとのこと。
2か月前には葬儀の準備をしたほど衰弱し、面会を許されて通ったのが功を奏したのか、何とか持ちこたえた。
そうしたらこの新型コロナウイルスで絶対出入り禁止となり、母にはその後会えていない。2月に体調を崩しまだ万全ではないから、感染したら一発で終わりだ。
何とか介護士さんも気をつけて頑張っていてくださるので、感謝である。
さらに入居者の家族が心配していると思い、こうして容態の電話をしてくれる。
本当に感謝だ。このまま感染することなく終息することを切に願っている。
3月5日 定期検診の日だがこの時期なので薬だけもらいに行った。
病院は相変わらず混雑していた。
今日の検診日まで生きているとはとても思ってはいなかった。
1月中旬には本当にもうダメかと思った。
葬儀の準備もしていたところだった。
インフルエンザ予防が新型コロナウイルスに変わったので、施設では戦々恐々だ。
早く春が来てほしい。
2月17日 母の医療費の還付書類を役場に提出することと、保険証の写しがいるということで施設に行き、母に会った。一週間前に熱も出たとのことだったが、何とか生きていた。持って行ったリンゴを四分の一ほど食べた。また、先日修理してもらった実家の屋根の支払いをしに業者さんの所へ行った。ゼンマイ採りが好きだということで、乾燥したゼンマイを沢山いただいた。
1月30日 一時期よりは少し良くなったが、まだ相変わらず食べない。
一日おきに行って少しでも何か食べさせようとあれこれ考えて持って行くが、ほとんど食べない。
こうやって自然に衰えて行くのかなと思う。老衰でいくなら一番理想的だ。
1月22日 母は相変わらず食べ物を受け付けない。
寝たきりではなく車椅子に乗っている。
手足は棒のように細くなった。
実家に寄ったら屋根が落木で壊れていたので業者さんに修理のお願いをした。
1月13日 年が明けてから母の食欲が落ちて、ほとんど「いらない」というようになったと施設から連絡があった。
母ももう93歳、食べ物が食べられなくなってはもうダメかなと思い、面会禁止中であるが、特別に会わせてもらう。
見かけは元気そうだし、話すこともちゃんと分かって会話もできる。
昨年から肺炎になったりいろいろ体にダメージがきて、それに食べられなくなってはもう長くないなと思われる。
何とか食べれるものを持って毎日行きたい。
2020年
1月1日
2020年を迎えました。
3月までインフルエンザ予防のため、母の施設は面会禁止で、どうしているか気がかりだ。
まあ、何かあれば連絡が来るので、何もないということは元気でいるのだろう。
早く4月にならないかな。
11月30日 母の様子が心配だったので行った。
肺に水が溜まったとのことで利尿剤が処方され、トイレにあまり行かないことが習慣になっていた母はトイレに行けず、漏らすことが多くなったという。
「トイレに行きたくなってからでは遅いから、その前に行きなさいよ」と言ってもなかなか理解しない。
補聴器の電池がなくなっていたから町の電気屋へ行ったら「お取り寄せになります」と言われ、10km離れた量販店に行ったら「すみません。今売り切れています」といわれ、更に10km離れたドラッグストアに行ったらようやく手に入った。やれやれ、1時間もかかった。田舎は困るよね。
11月21日 健診の日だったので、病院へ連れて行った。
この一週間前には車椅子から立ち上がる時に転んだと施設から連絡があり、また、3日前には肺に水が溜まったから薬が出ましたと連絡があった。
本人はそれほど苦しい様子がないけれど、我慢していることが多く何ともないと言い張る。こちらが時々行った時に注意深く観察するしかない。
家に居た時は、何回言っても言うことを聞かないとつい怒ってしまっていたが、たまに会う今でも腹が立つことがある。
たとえば、出されたお茶は必ず飲みなさいよと何回言っても残すらしい。
転んだ時多分足をくじいたと思うが、腫れているのに何ともないと言う。
トイレに行きたがらない。
施設の人も気にはかけてくれるが、本人がなんともないと言えばそのままだ。
結局我慢して我慢してどうにもならなくなってから手当する。
長生きもある程度元気ならいいが、要介護になって何年も生きてもしょうがないと思うが、こればかりはどうにもならない。だれも自分の先は分からないから。
病院の帰りに実家に寄った。
道端で日向ぼっこをしていた部落の人に母は久し振りに会って嬉しかったようだ。
11月6日 実家の甘柿をもぎに行った。
昨年は行かなかったので、今年は粒が大きめだった。
母の所に持って行ったら、美味しい、美味しいと言って沢山食べた。
売っている柿は渋柿をさわしたものだが、甘柿はあまり売っていない。
個人的にはさわし柿より甘柿が好きだ。
とりわけ実家の甘柿は絶品、100年以上の古木だが、主がいなくなっても毎年こうして実をつけてくれる。
9月29日 「そろっと寒くなってきますので、着るものの入れ替えをお願いします」と施設から連絡があり、冬物を持って行った。
エアコンが効いているが、やはり外気の温度が変わればそれなりに着るものも変えて行かなければならない。
全部に名前を付け、今まで使っていた半袖は持ち帰ってきた。
ベッドに一緒に座りいろいろ話をした。
兄が亡くなって一年経つが、母には言っていない。
病気だということは分かっているので、どうして来ないのだろうとは思わないが、いつも心配している。
9月8日 母の施設の敬老会があったので参加した。
何と町長さんも来賓として来られていた。
この町の町長さん自身も80歳を過ぎた高齢。最多在任という。
施設では100歳を超えた人が8人もいる。
みんな長生きだなあ。
8月22日 海外の山ヘ行っていたので久し振りだった。
3ケ月に一回の定期検診の日。
福祉車両をレンタルし、病院へ連れて行った。
特に変わったことは無く、いつも通りの薬で終わった。
いつも先生にビックリされる。
「元気になったね」と言われる。
でも今年の暑さは大変だったから、施設に入所していて本当に良かったと思う。
あんな暑さでは家にいたら耐えられないだろう。
7月5日 いろいろ煩わしいことはあるが、この歳でまだ親が生きているひとはほとんどいない。
死んでしまってはもう二度とこの世に戻ってこられないから、生きられるだけ生きてほしいと願っている。
幸い施設に入所できたので、それまでのようにな大変さは無くなった。
ただ美味しい物を持って会いに行けばそれでいいのだ。
それさえもしない家族が多い。
自分の番になったらどうするんだろうね。
7月3日 そろっと冬物と夏物の入れ替えをしなければならないと思い、量販店に夏用の上着を買いに行った。
デザインもそうだが、機能性重視で選ばなければならず、90代の母が着るものを選ぶのはなかなか面倒だ。
側にいれば寒い、暑いを気にかけてやれるが、施設では大勢の入居者をいちいち聞く余裕はないと思うし、本人が適切に着る物を選ぶ能力はないので本当に難しい。新しいものをすぐに受け入れなかったり、見たことがないものは自分のものではないと言うし、子供より手がかかる。自宅で介護している人には頭が下がります。
6月16日 施設のボランティアに参加した。
今日は窓ガラス拭きの予定だったが、強風のため急遽、食堂のテーブルと廊下の手すり拭きに変更になった。
母がお世話になっているので、出来るだけ協力したいと思っている。
5月30日 定期健診の日。福祉車両をレンタルし母を迎えに行って病院へ連れて行った。
本当は3年前に入院した時に亡くなっていてもおかしくない状態だったそうで、それが見事に回復して元気になったので、先生が驚いていた。
「娘さんが世話をしている人は長生きするんですよ」とのことで、母の回復ぶりにはいつも先生にビックリされている。
5月6日 実家の山と畑の手入れをしてから母の所に行った。
一週間前はちょっと具合が悪かったが回復したらしく、元気にしていた。
畑は母が入所してから何も作らなくなって草や笹で荒れ放題になっていた。
今年は綱を張って立入禁止にしたので、山の山菜は人に採られることなく無事だった。
畑や山は、母が生きている間は何とか少しでも手入れをしておきたいと思っている。
田舎なのでどこが実家の土地の境界かよく分からない部分もあるが、いずれはっきりして甥に引き継ごうと思っている。
4月28日 施設の総会と観桜会があったので参加した。
先日から食欲がなかったが、ようやく戻ってきたと母は言っていた。
高齢だから元気と思っていてもいつ何時どうなるかわからない。
まあ今年93歳になるから、何があっても仕方ないと思う。
入所者の平均年齢は90歳近くのなので年間3分の1は亡くなるという。
昔はみんな自宅で亡くなるのが大半だったが、今は違う。
子どもの数が少なくなったからそれは出来ない。
面倒をみてもらえる施設に感謝だ。
4月18日 桜が満開になった。
母を桜見物に連れて行きたいと思っていたが、車椅子生活になった人を連れ出すのは並大抵のことではない。
幸いなことに施設は元小学校跡地にあるので桜の木が沢山ある。
わざわざ遠くに連れて行くより、施設の桜で十分だ。
外に連れ出し、持って行ったおやつを満開の桜の木の下で食べた。ピクニック気分で母はとても喜んでいた。
4月8日 インフルエンザ予防のため面会禁止が終わり、ようやく母の所に行くことができるようになった。
母は何で私が来ないのだろうと思っていたという。
母に、5月1日から元号が「平成」から「令和」になるんだよ、と字で書いて説明したら、分かっていた。
大正、昭和、平成、令和、と四つの元号を生きることになる。凄いなあと思う。
暖かい陽気になると、畑が好きだった母は気持ちがうきうきとして、落ち着かないだろう。
家に居る頃は、あちこち痛いと言っていたが、今は施設で良くしてもらっているので、悪いところもなく元気だ。
3月11日 半年に一回の施設での母についての打ち合わせの日。
施設でよくやってもらっているので、母は元気にしている。
余暇活動で塗り絵をやったみたいで、リハビリの先生がそれを見せてくれた。
素晴らしい出来具合で、皆で驚いた。
私でも出来ないほど素敵な色使いだった。
打ち合わせが終わって1時間程、買っていったものを食べながら一緒に過ごした。
3月9日 今年は昨年と違って降雪が極端に少なかった。一回も家の周りの除雪をせずに済んだ。有難いことだ。
桜の開花もきっと早いに違いない。
今年は是非外出許可をもらって母を桜見物に連れて行こうと思う。
昨年、兄が亡くなってから母は体調を崩した。
兄が亡くなったことは母には言っていないが、誰か面会に行って伝えたのか、母に「誰か来た?」と聞いても「誰も来ない」とは言っているが・・・
2月28日 3ケ月に一回の定期検診の日。
1月からインフルエンザ対策で面会禁止だったので久し振りだったが、母は元気にしていた。
何で私が来ないんだろうと思っていたそうだ。
病院まで30分、ちょっとしたドライブで気分転換にもなり、実家にも寄った。長年暮らした家が今度他人が住むようになった。ちょっと複雑な気持ち。
まあ、住んでくれる人がいたので、壊さなくてもよかっただけ有難い。
母の用事が終わってから、実家の畑と山に行った。
畑は母が入所してから行っていないので草ぼうぼうに荒れ果てていた。
山の上はちょっとした公園になっていて、子供の頃よく遊びに行ったものだ。
公園は戊辰戦争の激戦地で碑があり、以前、人が住んでいた近くの不動尊はもう誰も住んでいない。
2月1日 今年の雪の降り方は良い。
平地はあまり積もらず、スキー場など降ってほしい所にはちゃんと降っているから。
インフルエンザが猛威を振るっているというが幸いなことに今まで罹ったことはない。風邪もほとんどひいたこともない。
母の施設は厳重な警戒で春まで面会禁止だ。
母はどうしているだろうか気になる。
面会禁止だということが分からず、私が何で来ないのだろうと思っているかもしれない。
1月12日 昨年のこの日は忘れもしない。前日から大雪になり交通が大混乱になった。
ちょうどこの日に入院予定の兄を送って病院へ行った。通常なら30分で行けるところ、3時間かかった。
入退院入口で「じゃあね」「それじゃ」と声をかけあったのが最後になった。
以来、元気な姿で自宅へ戻ることは叶わず7月に亡くなった。
癌との壮絶な戦いだった。
兄は私達家族の自慢だった。
貧乏な家庭から超難関国立大学に入り、大企業に就職し、ようやく貧乏から脱した。
父の望みでもあった。
しかし忙しい仕事で自分の体を顧みる暇がなかった。
ようやく定年になってこれからと言う時に・・・
死んでしまったらおしまいだよね。
2019年
1月5日
実家の賃貸の契約書を取りに不動産屋に行った。
ついでに母の所に寄った。
一カ月振りだったが、元気にしていた。
施設はエアコンが効いているが、やはり冬なので寒いと思うが重ね着をしていなかった。
「寒かったら職員さんに着る物を棚から出してもらって着なさいよ」と言った。
補聴器の電池も替えてやった。
12月30日 一昨日から寒波が押し寄せ、道路はうっすらと雪が積もり凍結している。
無理に遠出をして事故にでも遭ったら大変なので、母の所へは行かないことにしよう。
インフルエンザ予防で面会も制限されていることだし。
母も入所してもうすぐ2年になる。
良い施設に入ることができて本当に良かったと思っている。
新年になって天気が良くなり道路状況が回復したらまた会いに行こうと思う。
今年も「母の介護日記」に訪れていただき本当に有難うございました。
それでは良いお年をお迎え下さい。
12月24日 施設から正月には自宅に帰る人もいる。
しかし母は出来ない。
施設に入る前は、盆暮れは必ず兄の家族が行って楽しく過ごしていたが、昨年施設に入所したし、7月に兄が亡くなってしまったし、更に実家に他人が入居することが決まったので、もう絶対に帰って来ることは出来なくなった。
父が生きていた頃にはほとんど実家のことを気にかけていなかったし、母が一人になってからも煩わしさが先に立った。
今になって思うことだが、何でもっといろいろなことを気にかけてやらなかったのだろうと悔やむ。
自分が歳を取ってくるにつれ、強くそれを感じるようになってきた。
12月20日 仕事で支援をしている人が最近自宅で暮らせなくなって施設に入所した。
施設は3食出るし、安全に風呂にも入れてもらえるし、部屋の掃除も洗濯もしてもらえる。
時々ディサービスで楽しむこともできる。
エアコンが効いて暑さ寒さ知らずで良い事ばかりと思うが、本人に聞くと「自由にできなくてダメだね」と言う。
母もやはりそうだ。
どんなに大変でも家に居た時のような自由がやはり一番いいらしい。
12月16日 田んぼを作ってもらっている契約が今月で切れるので更新の契約に行ってきた。
部落の中でまだ米を作っている人がいて、その人に作ってもらっている。
うちのほかに、数件お願いしている家があるらしい。
作ってもらえるだけでも有難い。
もしその人がいなくなれば耕作放棄地になり荒れ果ててしまう。
最近はそんな田があちこちに見受けられる。
そういう所を利用して何か別の作物ができないだろうか。
もしくは国道沿いの場所はコンビニか大型スーパーなどに活用できないかと思う。
12月14日 施設から着信があった。
何かと思って電話したら、施設の広報誌に母の写真を載せてよいでしょうかということだった。
別に不都合なことは何もないのでいいですよと返事した。
あの位の歳になるとみんな同じく見えて誰が誰だか分からなくなってしまうものだ。
インフルエンザが流行ってきたという。
しばらく母の所には行けないと思うが元気で過ごしてほしい。
12月9日 終活で家の整理をしてかなりすっきりとしたのに、実家の片付けをして使っていない布団、タオルやシーツ、テッシュペーパー、冠婚葬祭時の引き出物、お盆、食器、椅子、洗剤など捨てるにはもったいない物を持ってきたので、また部屋は物で溢れてしまった。
箱に入った石鹸やタオルなどはこれから一生使っても使いきれないほどが出てきた。
自分で買ったものではなく何かの使い物でもらったものだ。田舎ではよくあることだ。
あと、ロウソクだ。
盆暮れや法事では必ず大きなロウソクを2本包んで持ってくるので何十本も溜まっていた。
大きなロウソクなんて使う機会がないので、兄の墓前に持って行って使うしかないが、あんな大きなロウソク燃やしていたら墓地の管理人さんがビックリするだろうね。
12月6日 実家の廊下を張り替えたので最後の確認に行き、ついでに母の所へ行った。
これから雪が降れば行くのが困難になるので、行ける時はできるだけ行こうと思う。
甘柿やル・レクチェを持って行ったら美味しそうに食べた。
インフルエンザ予防のため、家族は面会室のみということだ。
今年の春は風邪をひいてしばらく具合が悪かったらしいが、この冬は何とか風邪をひかずに過ごしてほしい。
12月2日 この時期には珍しいぽかぽか陽気の一日だった。
久し振りに母の所へ行った。
元気な様子で安心した。今日は風呂に入れてもらったそうだ。
母の所へ行く前に実家に立ち寄った。落ち葉が凄かったので掃除した。
もうじき他人が住むようになるけど、綺麗にせずにいられなかった。
11月22日 母の3ケ月に一回の定期検診の日。
病院に連れて行った。
帰りに実家に寄り、「今度借りてくれる人が見つかったんだよ」と最後の家を見せた。
11月13日 「ぽつんと一軒家」というテレビ番組をいつも見ている。
人里離れた場所にぽつんとある家には様々なドラマがあり、とても興味深く、また、田舎出身者として共感を得ることが多くある。
以前住んでいたけど、もう住まなくなった家なのに、定期的に来て手入れしているという人も案外多い。
私の実家も9年前に父が亡くなり、昨年、母が施設に入所してから、空き家になっていた。
人の住まなくなった家なんてすぐに朽ちてしまうし、近所迷惑になるので、定期的に行って掃除をしていた。
「あの家、人に貸したいんだけど」と闘病中の兄に相談したら、最初は壊さなければならないと考えていた兄が私の熱意に「じゃ、3年間だけ頑張ってみな」と言った。
それから実家の片付けが始まった。人に貸せられるようになるまで片付けるのは本当に大変だった。
実家のことを気にかけていた兄は7月に亡くなり、すべて私一人の肩にかかってきた。
自分が生まれ育った所で愛着があるし、母がまだ生きているから、頑張れたと思う。
そして、頑張った甲斐があった。
今週末契約。どうか長く住んでもらえることを祈る。
10月10日 空き家バンクに登録している実家の問い合わせがあった。
少しでも印象を良くするため今日は一日片付けと掃除に行った。
大きな家なので掃除も大変、くたくたになった。
兄がいなくなったので、私一人ですべてやらなければならない。どうか借りてくれますように!
帰りに母の所に寄った。
元気な様子で安心した。
9月12日 施設で母のことについての打ち合わせ会議があった。
最近の様子や今後の介護のやり方等について説明があった。
最近横になっていることが増えたとのこと。
あれだけ元気で90歳まで自宅で暮らしていた母が、要介護状態になってしまって、どんな気持ちかなと思う。
母は私が面会に来ることが一番の楽しみと言う。
お菓子や果物を持っていくと美味い美味いと言って喜んで食べる。
施設がもっと近ければ良かったのにと思う。
人間はいつまでも不死身ではない訳だから、健康なうちにやりたいことをやっておかないとね。
8月10日 お盆に一時帰宅しますかと施設から問合せがあった。
こんなに暑くては家に連れて帰れないし、私一人ではとても母の世話はできないので、帰宅できない旨を伝えた。
だからできるだけ施設へは行こうとと思っている。
週末は施設の盆踊り大会だ。
入所者にいろいろな行事をやって、楽しませてくれているので有難いことだ。
この特養に入所できて本当に良かったと思っている。
8月4日 闘病中だった兄が亡くなってから久し振りに母の所に行った。
兄が亡くなったことは母には話していない。
これからも話さないでおこうと思う。
兄と私はたった2人の兄妹。4年前から闘病中で母の事まで手が回らず、私もそれが分かっていたから母の世話は全て私がやっていた。
自分の親だから仕方ないし当然やらなければならないと思っている。
親は自分より子どもが先に亡くなるのが一番悲しいことであるし、母も高齢、このまま心にしまっておこうと思う。
母のこと、実家のこと、貧しかった昔のこと、まだまだ話したいことがいっぱいあったのにもうできない。
もうこの世にいないと思うと無性に淋しい。
8月1日 このところ35度前後の気温が続き、エアコンが欠かせない。
昨年母が特養に入所できて本当に良かったと思っている。
もしまだ一人暮らしのままだったらエアコンなんかつけないし、というかつけられないし、大変なことになっていたと思う。
エアコンをつけると電気代がもったいないと思う世代(私もそうだが)で、扇風機でガマンしてしまうところだが、最近の暑さは今までと違う。
でも一日中つけているのも何なんで、公共施設でも行って涼んできましょうか。
7月14日 闘病中の兄に母は昨年から会っていないので、是非会いたいと言うので意を決して会わせることにした。
車椅子を福祉車両に乗せ、少しでも時間短縮のため高速道を使った。
当日はアルビの試合があるらしく高速を降りた途端バイパスは車が動かなかった。
30分遅れて病院に着き、兄と対面、もう話すことができなくなっていた兄の手をにぎり気丈に話しかけていた。
「頑張ってや」「早く元気になれや」と母は言った。
6月7日 病院受診の日。
いつも通り福祉車両をレンタルし母を連れて行った。
先月風邪をひいて1か月位グジグジしていたが、ようやくもとどおりの母に戻った。
病院まで30分かかるが、外に出るのがあまりないのでドライブ気分である。
帰りに実家に寄り、3月に大風で破損した屋根を修理した場所を見せたりした。
寝たきりになるまで病院健診は続けようと思う。
医師も母の元気さに驚いていた。
4月22日 入所している特養の総会・観桜会があり参加した。
施設の性格上、年間に亡くなる人も多く、それは仕方ないが、職員さんにとてもよくしてもらっていて感謝だ。
民謡などいろいろな出し物もあり賑やかに過ごした。
入所者の家族は参加しない人も多く、せっかく楽しく過ごしているのに係わろうとしない。
一旦入所してしまったらもう関係ないと思っているのかしら・・・
3月15日 半年に一回の母の入所方針についての会議が施設であり、出席した。
母は元気で、何と僅かではあるがつかまりながら歩いているという。
施設に入所すれば、歩くことなんかとっくに出来なくなるものと思っていたが、本人の強い意志と施設の職員さんのおかげでわずかではあるが、自由行動もできているらしい。問題なく10分ほどで終わった。その後実家に行って庭の落ち葉の片付けをした。実家の管理も大変だね。来年あたり「空き家バンク」に登録しようかと思っている。
それとも別荘として使おうかな。
3月8日 病院受診の日。
いつも通り福祉車両をレンタルし母を連れて行った。
1月からインフル対策で面会禁止だったので、暫く振りだったが、施設で元気に暮らしていた。有難いことだと本人も言っていた。
ようやく雪が解けたので実家の水道がどこで水漏れしているか調べてもらった。
修理業者は中学の時の同級生。
水回り関係、車関係、雑貨屋、時計屋、町のお店はみんな同級生が跡を継いでいる。
困ったことがあればすぐに来てくれる。有難いね。
2月12日 今年は雪が多い。毎日毎日車を出すのに1時間ほどかかる。
いつまで続くのか、早く春にならないかと思う。
それにしても母が施設に入所して本当に良かったと思う。
そうでなければ実家の雪除けに何回も通わなければならないところだ。
母はいいとして、今一番の気がかりは闘病中の兄のことだ。
1月27日 今年はインフルエンザが猛威を振るっているという。
対策として、3月末まで施設は面会禁止になった。
体力の衰えた老人が罹ったら大変だ。
1月21日 先日降った雪もすっかり消えたので、母のとことろへ様子を見に行った。
その前に実家に寄った。
雪は消え車はすんなり家まで入れた。
大量の杉の葉が落ち、地面を覆い尽くしていた。
春になったら片付けに来なければならない。
母はまだ表情も豊かで元気な様子だった。
栗ごはん、味噌饅頭、焼き芋、リンゴやル・レクチェなどを持って行き2時間程話をしながら過ごした。
この期に及んでもまだ一人で暮らせると思っている。
1月11日 定期受診の日だったので病院へ連れて行った。
こんな日に限ってこの冬一番の寒波が押し寄せ、大雪になった。
40cm位の雪が一度に降り猛吹雪で視界20m、除雪が間に合わなく道路状況が悪い中、何とか行ってきた。
走行距離200km、通い慣れた道とはいえ、細心の注意を払って運転した。
1月4日 暮れに母の妹(叔母89歳)が亡くなったことを知った。
母は7人きょうだいで、生きているのは一番下の弟だけになった。
昔は兄弟姉妹が7人8人なんていうのがザラで、父のきょうだいも昨年一人亡くなり妹一人になった。
今のところ母が一番長生きだ。
べつに健康に気をつけていたわけでもなく、ドックなど一度も受けたことがないのにだ。
付け加えるとすれば、母は小太りだった。
そう考えると、人の寿命はある程度決まっているのではないかと思う。
2018年
1月2日
天気が良かったので2週間ぶりに母の所へ行った。
インフルエンザ対策で自由に部屋には入れず別室での訪問だ。
母は元気で年末を施設で過ごした。
この寒さでは家に連れて帰るわけにはいかず、帰宅できなかった。
施設で暮らしていると、家族は心配しなくていい。
食事は出るし、何と言っても快適な温度で寒さ暑さを心配しなくていいからだ。
3月の祭りには帰ろうねと話した。
帰る頃には5cm位雪が積もった。
12月15日 母はまだ自分の名前も書けるし、役場の担当者に掛け合って印鑑登録し、本日中に印鑑証明を発行してもらった。ヤレヤレ・・・
12月13日 相続の手続きで母の印鑑証明が必要になった。
地元の役場に問い合わせたところ、印鑑証明が必要かどうか母が認識できるかどうか聞かれ、そうでないと成年後見人をつけないとダメで家庭裁判所で手続きしなければならないとのこと。
面倒な手続きは若い者でも理解に苦しむところなのに、91歳の母が理解できるかどうか。すんなりと行かず面倒だ。お役所仕事は融通が利かず腹が立った。だから放置された家や土地が増えるのだと納得した。
11月28日 一昨日の墓の開眼供養の様子をスマホに撮ったので母に見せに行った。
ちょうど夕食の時間だった。
やっぱりまだ好き嫌いがあるらしい。
11月26日 実家の墓じまいをやり、新しい墓の開眼供養を行った。
遠い所まで墓参りに行くのは大変になってきたので、今回の決心をした。
11月16日 病院受診の日。
福祉車両をレンタルし、施設まで65km、病院まで往復60km、帰り65kmと大移動だ。
大変なように見えるが、通い慣れた道、母も同じ所にずっといるよりドライブがてら気分転換になる。
結果は良好。医師も驚いていた。
そう考えると運動より食べ物がいかに大事かが分かる。
母の所はそこで調理して提供しているから、出来たてで美味しいそうだ。
栄養を考えて作ってくれているので、「残さないように食べなさいよ」と言ってきた。
11月12日 角田山に登ってから母の所へ行った。
施設で入所者への虐待などが問題になるが、母のところは良くやってもらっていて、本当に有難い。
それにしても施設の職員は大変だと思う。
不自由になった体の人を24時間ケアするわけだから、思い通りにならないこともあるし、何回言っても分からない人もいるし、暴言を吐いたり暴れたりする人もいるわけだから、四六時中穏やかに接するのも限界があると思う。だからと言って命を粗末に扱ってもらっては困る。
国は充分な人員を配置し、それに見合う給料を上げ、介護する側もされる側も、穏やかに残された日々を過ごせるようにならないものかと思う。
11月3日〜4日 母を一時帰宅させた。
兄の家族も来て賑やかに過ごした。
母は施設で快適に暮らしているので、もう自宅の不自由な生活は出来ないが、やっぱり今まで70年も暮らした家だから、たまには帰らせてやりたい。
自宅の柿が今年は大量に実を付けた。
屋根の上に上がって賑やかに柿もぎをした。
10月24日 兄から連絡があり実家の近くの菩提寺にあるお墓の「墓じまい」をするとのこと。
母がまだ生きているが、その前にお墓をきちんとしておくそうだ。
遠方にある墓は高齢になれば行くことが困難になるし、子供や孫にとっても管理する手間が大変になるので思い切って決断した。
新しい墓は今住んでいる場所に設置した。
墓じまいと新しい墓に先祖の御骨を納めることを来月行う。
代々続いて今回生まれた母の曾孫が15代目、長い歴史のある家だった。
田舎暮らしがブームだが、昔の田舎暮らしを思い起こすと、もう二度とあの暮らしはしたくないと思う。
10月23日 11月の連休は、母を実家に一時帰宅させようと思い、準備のために行った。
台風の影響で、地面が見えないほど杉の葉が落ちていて、片づけるのが大変だった。
300坪ほどある敷地をこれまで父と母が毎年毎年掃除をして綺麗にしていたわけだが、あらためて大変だっただろうなあと思った。
今年は柿がたわわに実を付けた。
主がいなくなった家でもちゃんと自然は繰り返す。
母が元気なうちは出来るだけ連れて帰ろうと思った。
10月3日 補聴器の電池が切れたと施設から連絡があり、持って行った。
母は元気に暮らしていた。
施設にいれば家族は安心していられる。
70代で施設に入らなければならない人もいれば、母のように90歳になってから入所する人もいる。
最初は、施設なんて・・と気落ちしていたが、今ではとても良く世話してもらって自分は幸せだと言っている。
隣のベットの人は103歳という。
「あと10年生きれば100歳超えるから、頑張れば」と言うと「そんなに長生きしたくねえ」という。
9月16日〜18日 施設から今まで住んでいた自宅に一時帰宅させた。
手を引けば少し歩けるので、トイレも問題なく行けた。
兄夫婦も来て久し振りに皆そろって食事を取った。
施設の生活に慣れて快適だから、家に帰ってきてもそんなに嬉しそうな感じはしなかったが、まあ元気なうちは時々連れて帰ろうと思う。
9月10日 入所している特養の敬老会があり出席した。
職員のいろいろな出し物や、芸能、歌や踊りを楽しんだ。
町長さんも参加してくれた。
88歳と100歳以上の人のお祝いがあった。
母は90歳から入所したので、今度お祝いされるのは100歳。それまで生きていられるかな・・・
9月7日 母の病院受診の日。
施設まで迎えに行って、病院へ連れて行った。
福祉車両のレンタルで、手違いで軽ではなく、大型のハイエースになり、運転を心配したが、すぐ慣れて快適に運転できた。
施設で暮らしている母は久し振りに外出したので、気分転換になり嬉しそうだった。
4か月も入院していたのに元気になったので医師もビックリしていた。
8月5日 忙しくてなかなか母の所へ行けなかった。
2週間振りだった。
随分会っていないような感覚だ。
でも母は施設でよくしてもらっていて、すこぶる元気な様子だった。
時々町の知り合いや親戚が訪ねていくようで、今日は誰々が来たと言っていた。
昨年こんな暑さの中で倒れていた母を救急車で病院に運んだ。
でも施設はエアコンが効いていて快適で何も心配することはない。有難いことだ。
来月になって暑さが一段落したらまた実家に少し連れて帰ろうと思う。
母もそれを楽しみにしている。
7月16日 久し振りに母の所へ行く。
穏やかに暮らしているせいか元気な様子で一安心。
私が行くのを待っているようで、話をしていても1時間はあっという間にすぎてしまう。
いつでも食べられるように、こっそりとおやつをベットの横に置いてきた。
いつも行くと空になっているから、食べているのだろう。
また涼しくなったら実家に連れて帰れるよう、部屋の掃除と周りの草取りをした。
7月7日 何やかやと忙しくて2週間ぶりに母の施設を訪問した。
いくら暑くても昨年のように心配しなくてよいし、食事の心配もしなくてよくなったので助かる。
快適な場所で栄養を考えた食事、風呂にも入れてもらえて、それなりに文化活動もある。
ただ、母は動くことがすきだったので、車いすに座ったまま動いてはいけないということがイヤらしい。
まあ勝手に動いて何かあったらいけないので、それは仕方ない。
歩けなくなった以外、すこぶる元気で、まだ会話も充分できるし、これからも暇を見つけてたびたび行こうと思う。
6月15日 定期健診の日。
特養に入所すれば、そこの提携の医師がいて、何かあれば診てくれるが、4ケ月お世話になった病院の医師に引き続き診てもらいたくて連れて行った。
寝たきりになってしまったら無理だが、まだ椅子から立ち上がったりの動作は出来るのでしばらくは連れて行こうと思う。
あのまま病院でダメになってしまうかと思ったが、見事に復活したので、医師も驚いていた。
母は久し振りにドライブできたと喜んでいた。
実家にも寄って来た。
5月30日 産直市場と道の駅に寄りながら母を見舞った。
週一回の割合で往復120kmの道のりは目を瞑っても行けるほど通い続けた道である。
保険の手続きの手紙が来ていた。
特養に入ると住所から何から全部特養の住所になるので(保険証も特養が預かる)、早い話が家族は何もしなくても用事が足りる。
その性質上もう最期を迎えるのは時間の問題という人も多く、それはいずれは人間はそうなるのだから、しかたないことだけれど・・・
母はまだ頭はしっかりしているので出来るだけ面会に行っていろいろ話をしたいと思う。
先日、お出かけしたようで、楽しそうな写真が部屋に張ってあった。
ベッドの脇にいつでも食べられるようにこっそりと少しばかりのおやつも置いてきた。
5月11日 産直市場と道の駅に寄りながら母を見舞った。私が行くと母は本当に嬉しそうだ。
快適な温度の部屋で、バランスのとれた3食の食事が出て、風呂にも入れてもらえて、トイレにも連れていってもらえて、リクレーションで楽しんだり、こんな良い所は他に無いと思う。あんな過酷な一人暮らしに耐えていないで早くこうすればよかった。それにしても女性入所者が圧倒的に多いのは女性が長生きだからだろうか。
5月6日 昨年の9月に入院して以来、病院とショートステイの施設を行ったり来たりで、今まで住んでいた家に帰ることは不可能と思っていた。
しかし、今度実家の近くの特養に入所して、症状も安定しているので、思い切って一時帰宅することにした。
父は一度も自宅に帰ることなく5か月入院して亡くなってしまった。
リフォームした家に一度でいいから帰らせてあげたかったが叶わなかった。
今回母はその望みを叶うことができた。
また秋にでも調子が良かったら一時帰宅をさせてあげたいと思う。
4月6日 実家に寄ったら、母が親しくしていた近所のおばあさん達が母に会いに行きたいと言い車で送って行った。
昨年9月に入院して以来なので本当に懐かしく母もとても喜んでいた。
母の元気そうな姿に驚いていた。
一人暮らしが不安になってきたら我慢せず適正な施設にお願いしたほうが本人のためでもある。
しかしそれは本人より周りの家族がいろいろと手続きをしないと話が先に進まないし、本人が家がいいと言い張っていてはどうすることもできない。
それにしても独身で家族のいない人は歳を取ったらどうするんでしょうかね。
3月30日 本日ようやく特別養護老人ホームに入所した。
特養は公的な施設で費用も他より安いし、最期までいることができるので人気があり、入居まで何年も待たなければならないと聞いていたので、今回本当に良かった。
施設に行く前に、母が暮らしていた家に立ち寄った。
昨年9月以来だ。母は懐かしそうにじっと見ていた。
今度家にも近いのでたまに帰って半日くらい過ごしてもらおうかと思っている。
3月8日 母の住んでいた町の施設から連絡があり、転所できる見通しとなった。
やはり長年住んでいた場所の施設にお願いするほうがいいと思って決めることにした。
昨年9月に体調を崩して入退院を繰り返したりして、本当に大変だった。
それまで元気に歩いていた母が、入院によって寝たきり状態になってしまった。
一度でいいから家に連れて帰りたいとも思う。
親の死は誰もが通る道だが、だんだん弱っていく母を見るのは辛いね。
2月28日 夕方母の所に行っていたら、兄夫婦もちょうど来た。
久し振りに施設にみんなそろって母は本当に嬉しそうだった。
孫の名前をすぐ忘れるので、紙にメモして渡しておいた。
孫に今春子供が誕生する。母にとってはひ孫になり、13代続いた家系も安泰だ。
それにしても長生きしたもんだ。
2月20日 3日間無料の介護技術習得講座を受講した。
介護の職に就く訳ではないが、母の扱いが少しでもスムーズに行くようにとだ。
驚いたことに3分の1は年配の男性だった。
今は介護は女性ばかりではない、いつ何時わが身に降りかかってくるか分からない。
講習は実に内容の濃い充実したもので、目から鱗状態だった。
何をやるにしても「コツ」というものがあり、格段に楽に早くできる。
それにも増して一番学んだことは、介護される人の尊厳だ。
なりたくてそんな状態になったわけではない。
今まで出来たことが出来なく腹が立ったり、漏らしたり、何回言っても分からないことに、ついつい声を荒げたことがあったが、深く反省材料になった。
まだ間に合う。これからは学んだことを誠一杯母にしてあげよう。
2月19日 こんなに寒い日でも今までのように心配しなくて良くなった。
施設は暖房が利いていて長袖一枚でも充分。
一人暮らしでいつも一人ぼっちよりは大勢の人がいるほうが安心だ。
でも家に帰りたいという。
何故か?
これまでは「施設に入る」というとあまり良いイメージではなかった。
でも今は施設に入りながら元気に暮らすことが、特に高齢の一人暮らしのひとにとっては最良だと思う。
たまには外に連れ出して以前の生活も少しはさせてやろうと思う。
2月17日 いろいろ用事があり久し振りに施設の母の所へ行った。
大勢の入所者の中でまあ何とか元気に暮らしていた。
車いすからベッドへの移動などは少しスムーズにできるようになった。
歩くことは支えれば10m位は歩けるようになった。
退院したころより足が太くなってきたようだ。
何とか自力歩行できるまで頑張ろうと思う。
そうすれば自宅に1日や2日帰れるようになるし、また温泉にも行けるから。
2月4日 夕方母の所に行ってベッドから立ち上がる練習、足踏み、手を引いて4.5歩歩く練習などをした。
これから時間をかけて以前の母のようになるまで頑張ろうと思う。
しかし、他の人は家族が行っている様子もなく、施設に入れられて見放されているようにも見受けられるが、どうなんだろう。
2月2日 病院受診の日だったので福祉タクシーで連れて行った。
先生に「頑張りましたね!」と言われた。
4か月も入退院を繰り返したのに、見事に復活したからだ。
でも今までのように歩くことができなくなった。
トレーニングすれば少しは回復すると思うが、何せ歳だからどうなることやら。
それにしても食べ物に好き嫌いがあって困るね。
2月1日 在宅の頃は週3回のディサービスと週3回1時間ずつのヘルパーをお願いしても3万円で済んだ。
しかし施設に入ると、思った以上のお金がかかるようになる。
へたをすれば年金では賄えなくなる。
長生きするのも大変だ。
母の入所している施設に行くと、いろいろな人を目にする。
若い時は想像できなかった姿や行動をするようになって、職員さんは本当に大変だと思う。
1月26日 5日に退院して喜んだのも束の間、8日に再び発熱して病院に逆戻りした。
点滴で症状が落ち着き今日退院、入院前のA施設にとりあえず入所した。
でもベッドに余裕がなく、B施設に転所することになった。
昨年の9月以来、入院〜退院〜入院〜退院〜入院〜退院〜転所、と目まぐるしく入退院を繰り返した。
退院するたびに新たに施設を探さなくてはならず、本人はもとより周りが本当に大変だった。
90年も同じ町に住んで今まで在宅で一人で頑張ってきたのに、こんな状態になっても地元は面倒をみてくれない。
結局よその施設を転々とせざるをえない。理不尽だね。
1月5日 めでたく退院し、施設に入所した。
母の世話からようやく解放され、胸のつかえが取れた感じでスッキリした。
これからは、時間を作って施設を訪れようと思う。
実家に寄って庭の夥しい杉の落ち葉を片付けた。
2017年1月1日 年末はちょっと忙しくて病院に行けなかったので、様子を見に行った。
頭もハッキリしてすっかり元気になったが、何せ4ケ月も入院していたので足腰が弱り歩けなくなった。
ベッドの上で筋トレをやらせようと思うが、もうすっかり筋肉も脂肪も落ちてガナガナになったので無理だ。
今後は施設にお願いするしかない。
でも、地震があっても、雪が降っても今までのように心配する必要がなくなっただけ良かったと思っている。
人間はいつまでも元気でいられる訳はないのだから、その状況に合った対処をしていくしかない。
痛いとか苦しいとかが無いのがせめてもの救いだ。
みんないずれは通る道だ。前向きに考えよう。
12月25日 先日主治医から退院の許可が出た。
でも、もう一人暮らしは出来ないので、施設を探してもらったら、来月5日に退院し施設に入所することになった。
これで、父が7年前に亡くなってから一人暮らししていた母の世話も一段落しホッとしている。大変な日々だった。
これからは施設で、穏やかな日々を過ごしながら余生を暮らすことになり一安心だ。
12月18日 先日降った雪もすっかり消え、今日は入院している母の所へ行った。
看護婦さんの目を盗んで持って行った果物やお菓子を食べさせた。
熱がようやく下がり安定するようになって元気になってきた。
もしかしたら退院なんてことになるかも知れない。奇跡だ。
12月13日 やっと補聴器をみてもらうことができた。
左なのに右にはめていたり、電池がなくなっていたり、ボリュームの調整が間違っていたり、これじゃ聞こえるものも聞こえない。
周りがもっとしっかりしなくちゃ。
ついでに実家に行って郵便受けを点検した。
庭は杉の葉が沢山落ちて凄いことになっていた。
とても片づけられない。
12月9日 補聴器の調子があまり良くないか耳がどうかなったのか知らないが、母に話しかけても全然聞こえないという。
もともと難聴で聞こえが悪かったが、こんなにほとんど聞こえなくなることは無かった。
決まった曜日に補聴器の会社の人が病院に出張して来るようなので一度見てもらおうかと思っている。
話すことが全く聞こえないようでは会話ができず、さりとて大声を出して話すと病室の他の患者に迷惑なので、それもできない。
大変だ。
12月2日 病院に行ける時は毎日行くようにしている。
看護師さんにはとても良くしてもらっている。
同じ部屋には母と同じような高齢の女性ばかり入れ替わり入院してくる。
母は思いのほか少し元気になった。
もしかしたら退院なんてこともあるかも知れない。
一晩でいいから自宅に連れて帰りたい。
12月1日 病院にいる母が気がかりだったが、19日間ネパールに行ってきた。
いない間にもしものことがあっても、連絡はしなくてよいと後の事は兄夫婦にお願いして出かけた。
海外にいる時はいつも携帯の電源は切っておくので、成田に着いてからすぐ電話した。
母はまだ生きていた。
翌日早速母の所へ行った。
私が何日も行かなかった感覚はもうないようだが、私の顔をみて笑顔を見せた。
もう3ケ月も入院しているので、家に帰りたい家に帰りたいと盛んにいう。
11月1日 病院の医師から話があるから来てくださいと言われる。
母についてだが、熱が落ち着いたかと思うとまたすぐ上がったりで、どうも感染症だけではないようなので精密検査しますかということだ。
高齢なので、もし癌とかあったらどうするかだ。
父のように最後は手術したが結局助からず、一生分の苦しみを負って亡くなったこともあり、またその二の舞いになるのではないか。
年齢も年齢なので、何とか痛い苦しい思いだけはさせたくない。
何とか穏やかに落ち着くことを願っている。
10月26日 ケアマネさんから連絡があり、せっかく決まっていた施設から一旦解除する旨の知らせがあった。
まだ微熱があり退院時期は不明。
それもそうだよね、いつ退院するか分からない人を待っているより、入所したい人が大勢いるので、そちらを優先したいということだ。
熱の原因は不明だが、しいてあげるとするといくら言っても水分を取らないので、それが原因らしい。
トイレに行けないので我慢していて、漏らしても看護師さんを呼べない。オムツは使っても使わなくても1日いくらと決まった額が請求されるから使いなさいと何回言っても理解しない。オムツを使っていること自体を認識していない。困ったものだ。
結局、感染症になってなかなか微熱が下がらない。また施設探しは振出に逆戻りだ
もう精神的に疲れた。
自分の親だからとあれこれ世話をやくのは逆効果。病院に任せてしばらく母の所へ行くのはやめたい。
10月19日 実家の整理をしていたら、母のメモ帳があった。
見ると、7年程前に白内障の手術をした時のことが事細かに記してあった。
読むと、今と同じ病院に入院したのだが、毎日食事が美味しい美味しいと書いてある。
今とは真逆、まずいまずいと言っているのは、我儘ではなく病気と高齢のせいと気が付いた。
食べられないものを食べれ食べれと急かされるのは辛い。
今度母の好きなものを作って持って行こうと思う。
車を見つけて近所の人か来た。
「ばあちゃん、具合なじだね?}
母ももう一度ここで暮らしたいと願っているが、それはもう無理。
10月18日 福祉会館の用事が終わってから入院している母のところへ行った。
微熱があり原因不明。あさって検査するという。
相変わらず食事はほとんど残している。
まずくて食べられないという。
美味しいのにねえ・・・
きんぴらを作って持って行った。
それは結構食べた。
このままではいくら点滴をしても栄養が足りず、だんだん痩せてしまうだろう。
今日は母の頭を洗い流さないシャンプーで洗ってやった。
9月7日入院して以来一回もお風呂に入っていないので、すごく髪が抜けた。
母は「さっぱりした」と言っていた。
10月10日 SOUチャンのオムツがなかなか完全に取れないと娘が言う。
こちらは母がオムツでやりたがらないと言う。
SOUチャンのトイレトレーニングが早いか、母のオムツトレーニングが早いか、競争だね。
10月9日 もう少し元気な頃、たとえば2.3年前から少しずつショートステイ等の準備をしておけばよかった。
入院中の母は、今まで自分の好きなものだけ食べてきたので、病院の食事が口に合わずほとんど残している。
水分を自分から積極的に取る方ではなかったので、配られたお茶はいつも飲んでいない。
自分でトイレに行っていたので、オムツに抵抗がありガマンしてしまう。看護師さんを自分から呼べない。
こんなことで、熱がなかなか下がらず、一週間点滴やりっぱなしだ。
食事が配られると、見回して、これもいらない、あれもいらないとわがままを言って箸をつけようとしない。
今まで母のためと思って自宅で気ままに暮らさせてきたが、こうなってしまうとやはり元気なうちからショートステイで少しずつ慣らしておけばよかったと後悔している。
10月6日 実家の整理を少しづつやらなければならないと思い行った。
だだっ広い家は、主が居なくなりひっそりとしていた。
もう母はこの家に帰って来ることはないと思うと何だか寂しい。
そういえば、お盆過ぎからバタバタして、畑に行っていない、どんなになっているだろうかと行ってみた。
地面が見えないほど草ぼうぼうになっていた。
母が居なくなれば、もうこの畑に来る意味がない。
そう思うと無性に悲しくなり、夢中で草を取った。
10月4日 個人情報、個人情報と今はうるさい。
母が以前に白内障の手術をした時に確か入院費が出たような気がしたので、郵便局に問い合わせてみた。
電話では一切教えてもらえず困った。例の個人情報ということだ。
大事な情報は漏れているのに、母に代わって保険請求しようと思っても簡単にできないことが分かった。
書類は本人宛に送るという。今は誰も住んでいない家にということだ。
往復120km車で走って送られてきた書類を受け取った。
しかし申請には母の自筆の委任状がいるという。
字なんてもう満足に書けないのに・・・往復100km車で走って母に書いてもらった。書くのに1時間かかった。
次に母と私の証明書類がいるという。それも写真付きでなければ2種類いるそうだ。
また往復120km車で走って、母の保険証等を取りに行った。
更に通帳と印鑑もいるという。再度120km走った。
個人情報、個人情報というけど、入院費請求するだけなのに、これほど手間がかかるなんて本末転倒だね。
10月3日 昨日、長野から帰るやいなや携帯が鳴った。
施設からで、母が熱を出したという。
またかよ!施設に入ることができてようやく一安心だったのに・・・
一晩様子をみて朝、下がらなければお医者さんに連れていってもらいたいという。
結局熱は下がらず、病院に連れて行った。
いろいろ検査をしたが、原因分からず、食欲もないということで再度入院になった。
いろいろ手続きやら何やらで夕方5時を過ぎた。
一日疲れた。
車に乗せるのも二人がかり、車から降ろすのも二人がかり。
歩けないものを運ぶのは重くてかなり大変だ。
もうこんなことから一日もはやく解放されたいが、自分の母だから仕方ない。
こういうことに何も係わらないで過ごせる人が羨ましい。
フルタイムで働き、子育てもして、姑にも気を遣い、ようやく退職してこれからのんびりと言う時にこれだものね。
世の中って不公平だと大声で叫びたい。
9月29日 病院から退院許可が下り、施設にショートステイすることになった。
福祉タクシーで施設に向かった。
母はもらわれてきたばかりの猫のように慣れない施設に怯えた様子だった。
本当は自宅に退院し、今までのような生活がしたかったようだが、それはもう無理だ。
加齢による認知機能の低下や身体機能の衰えは否めない。
でも本人はまだまだ出来ると思っている。
人間の最期の形として、やはり女の子供がいたほうが良いとつくづく思う。。
9月22日 朝夕めっきり涼しくなった。
今年の夏は猛暑だった。
90歳の母にとって耐えがたい夏だったに違いない。
早く施設入所を考えるべきだった。
緊急警報装置を設置してもらっていたが、結局役に立たなかった。
自宅で倒れていた母を発見したのは私だ。
年寄りは判断能力が無くなってしまうからだ。
あとどれくらい生きられるか分からないけれど、母にとって一番良い方法を今模索中だ。
9月21日 コップなどがタオルに包んであった。
どうしたの?と聞くと、明日退院だから忘れないように持って帰らなければならないからと言う。
明日退院ではないのに・・・
母は今まで気丈に一人暮らしをしていたから、こんなになっても全部自分でしなければならないと思っているらしい。
何か用事だったら看護婦さんを呼びなさいと言ってあるが、一度も呼んだことがない。
そして、立ち上がることさえ出来なくなったのに、まだトイレに行く気になってオムツを嫌っている。
年寄りばかりの大部屋なので、家族の名前を呼び続けたり様々な人がいる。
看護師さんは大変だ。
人を呼べない母が少しでも快適に過ごせるよう毎日病院に通っている。
9月20日 発熱があり退院が延びた。
退院してからでなくて良かった。
でもこれでやっと見つかった施設はまたふり出しに戻った。
9月12日 在宅だった時はサービスを利用してもそんなに費用がかからなかったが、施設にショートステイするようになると、多額の費用がかかる。
年金だって多くはなくギリギリの生活だったので、これからは大変になるだろう。
それにしても生活保護を受けている人は恵まれているように思う。
何と滞在費と食費がタダ同然なのだから。
贅沢もせず、旅行にも行かず、極貧の中でやっと年金の掛け金を払ってきたのに、こうなってみて生活保護者より大変になるなんて全く腹が立つ。
それならいっそ、みんな若い時は贅沢して金を使い、年金掛け金なんて絶対払わず、歳を取ったら生活保護受給者になったほうがましだ。
いいですよ!働かなくても自動的にお金が入るし、タダで医者にかかれる。介護状態になったら、費用の心配なしで安心して施設に入れてもらえるわけですから。
9月10日 入院して一番困ることは食事だ。
母は好き嫌いが激しく、乳製品はいっさいダメ。青魚もダメ。酢の物ダメ。
味の濃い煮物が大好きだった母は、病院の食事がマズイ、マズイと言っている。
食べてみるととっても美味しいのにね。
9月9日 90歳の母をこれ以上一人暮らしをさせるのは無理と医師に言われ、ショートステイを利用したくケアマネさんに相談したら運よく空きがあり、21日から入所することになった。
ただ、今までディサービスで通っていた所は満杯でダメで隣町だ。
母は家に帰りたいようだが、こちらも大変だし、何とか施設に慣れてもらうしかない。
介護認定アップの申請をして少しでも費用を抑えたい。
そうしないと年金ではとても足りず、今後困ることになる。
9月7日 お盆過ぎから熱を出したりして体調を崩した母は救急車で病院に運ばれ今日から入院した。
熱中症プラス感染症で点滴が行われた。
9月6日 外出先で携帯が鳴った。
「お母さんが熱が出て具合が悪いそうなので医者に連れて行ってもらえますか」
とケアマネさんからだった。
またかよ!今日は帰ることができないので、明日行きますと電話を切った。
往復120km、私も通うには限界がある。
介護度が進めば施設に入所できる可能性もあるが、このままだとどうしようもない。
人一倍他人に気を使う母だから、どうしたら母にとって一番いいのか模索中だ。
具合が悪くても絶対他人に言わないから困る。どうしようもなくなってからでは周りが大変だ。
それにしても今思うことは、長生きは絶対するものではないということだ。
9月1日 90歳の誕生日。
ここまで来ると別に祝うわけではないが、いつもどおり向かった。
途中ケアマネさんから電話あり、母の具合が悪く熱もあり食欲がないという。
ちょうど行くところで良かった。
ベッドにずっと寝ていて具合が悪く起きられないという。
食事も手つかず、果物少しと味噌汁だけ。
しかたなく1晩泊まった。
もう手を引かないと歩けない状態。
一気に弱るものだ。
8月25日 両肩にガーゼが貼ってあった。
どうしたのか聞くと、湿布薬を貼った跡がかゆくて知らないうちに掻いたらしく傷になっていた。
一旦湿布薬を貼ったら、翌日には必ず剥がすよう言っているが、忘れていて、それでかぶれたらしい。
治ったら、今度は湿布薬は止めて、塗り薬にしようかと思っている。
8月21日 暑いのに扇風機もつけないでいるかと思って心配になり様子を見に行った。
案の定だ。電気代がもったいないようだが、倒れればそれ以上に金がかかるのに。
お盆に兄の家族と過ごしたので気疲れしたのか具合が悪そうで食欲が無いという。
暑いし、まあ、しょうが無い。そのうち良くなるだろう。
8月12日 暑い夏に着る服を買ってやろうと大型ショッピング店に行った。
いろいろ探したが、90歳の人が着るような服がなかなか見つからない。
袖ぐりや襟ぐりが大きいものばかりで適当なものが無い。
高齢者はまず着やすいのが第一で素材は綿、派手でなく、余裕があって涼しいもの。
家にあるのは野良着のような昔のものばかりなので、少しは流行も追いたい。
あれこれ探してようやくまあまあのものをGET。
母は気に入ってくれるかな。
8月7日 虫の知らせというものがある。
三日前に母の所へ行ったので、今日は暑くて行くのは止めようかとも思ったが、あまりの暑さに何だか母が心配になって、やっぱり行くことにした。
玄関に着いても応答がない。
部屋に入ると椅子に座って朦朧としていた。
しかも、扇風機もついていなく、冬の服を着ていた。
水分もあまりとっていないようだった。
戸を開け扇風機をつけ水をのませ買っていったパンや果物を食べさせた。
夏用の服なんか1枚も無いという。
タンスには夏用の服が山ほどある。探すことができなくなったのだ。
分かりやすいように出しておくと、次に行った時には、また元通りにしまってある。
そしてそれを忘れて無い無いという。
初めてエアコンをつけた。
母は少し元気になった。
もし今日行かなかったら大変なことになるところだった。
7月28日 ジャガイモ掘りが遅くなって気がもめていました。
ようやく晴れたので今日しかないと、母を無理やり連れて畑にいきました。
歩くのも動作も鈍くなって行かないと言っていた母が、畑に着くなり水を得た魚のように元気に芋を掘り始めました。
今年はとっても良くできて、20cm近くあるものがごろごろと採れました。
母が一生懸命芽を摘んだのが良かったと思います。
だんだん要領が分かってきました。
これで母が居なくなっても何とかできそうです。
でも、遠いからなぁ。
7月10日 幼稚園や保育園でよく連絡帳というものがある。
母の所にもヘルパーさんとの連絡用にと思って連絡帳を用意した。
店が無いので買い物にも行けない母はヘルパーさんに「何かお菓子が食べたい」と言ったらしい。
ブッセとバームクーヘンを買ってもらったようで領収書が貼ってあった。
お金の扱いは、あまりやらせたくないが、母は「そんなことまだ出来るいね」と言う。
しばらくこのままでいこうか。
7月2日 こんな暑い日なのに冬物の服を着ていた。
冬のままの毛布と布団をかけて寝ている。
庭のプランターの野菜は水やりしなくて全部枯れていた。
すぐ椅子に座り、すぐ眠ってしまう。
今日は何日か何曜日か分からない。
午前中にヘルパーが来て食事を作って置いていったのに誰も来ていないという。
以前より食が細くなった。
話が一回で通じず2.3度繰り返さなければならない。
おむつを使いたがらない。
こういう状態になった人の相手は本当に疲れるね。
6月26日 母の所へ行ったら部落費の請求書が来ていた。
母は納めに行けないので、前もって総代さんの所に納めに行った。半期分16,120円、田舎なのでお金がかかる。
私の所は年間6,000円なのに・・・
冷蔵庫が空になっていた。
今度母を連れて大きなレストランにでも行って食べたいものを思い切り食べさせたい。
6月5日 人間は歳を取るとこんなになってしまうのかと、母を見ていると何だか悲しくなってしまう。
プランターの野菜に「毎日水をやってね」といっておいたのに、カラカラに乾いて枯れそうになっていた。
野菜作り専門だった母には考えられないことだ。「忘れていた」と言う。
お湯を沸かして、「湧いたらポットに入れてね」と言っておいたのに、帰ってくるまでボンボンと沸騰していた。「忘れていた」と言う。
トイレも間に合わない。ウオッシュレットは使えない。
だんだん赤ん坊の頃に戻って行く。長く生きているのも大変だとつくづく思う。
5月28日 上越で山の集まりがあった後、母の所へ行って泊まった。
食事の世話があるので、どうしても最低週1回は行かなければならない。
家族全員が健康でなければ、何かをやるにしても思い切りやることができない。
現役の頃は超忙しかったが、みんなが健康で何事も心配せずに思い切りやることができた。
できる時にやっておかないと、あとで後悔することになる。
今は、できるだけ母に寄り添ってやりたい。
後悔しないために。
5月22日 忙しくて母の所に10日振りに行った。
ヘルパーのお陰で何とか元気に暮らしていた。
今度何かのために「連絡帳」を作った。
まるで保育園の園児のようだ。
帰って見ると必ず何かが書いてある。
「○○が痛いと言っています。一度医者に診てもらって下さい」「補聴器の電池が残り少なくなりました」等々・・・
近くにスーパー無し、医者も無し、駅も無い、もちろんコンビニなんて有るわけない。
往復3時間かかる超田舎だ。
テレビで「人生の楽園」という番組がある。
都会から田舎に移り住んで、自然豊かな中で商売を始めたハッピーな夫婦の番組だ。
元気な時ならそれはいい。そのうち大変な事が待っている。
“歳を取ったら都会に住みなさい”と声を大にして言いたい。
5月12日 病院へ行く日だったので連れて行った。
混み合っていて半日がかりだった。
帰りに道の駅でお昼を食べた。
こんな天気のいい日に用事なんて・・・でも、今はこれが私のやるべきこと。みんな平等だ。
その後、疲れたという母を置いて畑に行った。
3畝打って、サツマイモを植える準備をした。
草取りもした。まだ繁茂していないが、6月に入ると一気に草ぼうぼうになる。
夏は草と蚊との戦いだ。
知らない車が止まっていた。
山菜採りは私有地に無断で入り込んでタラの芽をぼうずにする。
困ったものだ。
5月8日 毎週末、食材を買って母の所に行かなければならない。
平日はディサービスとヘルパーさんに世話になっているが、週末は一人になってしまうので、欠かさず通わなければだめだ。
今度、「母の所」へ行くと言わずに、「別荘」へ行くということにしたら、少しは気分的に楽になるかも知れない。
ピーマンとナスとトマトの苗を買ったので、軽トラに母を乗せて畑に行って植えた。
アスパラは3本収穫した。
先週私が一人で植えたカボチャが思いのほか元気に育っていたので、母は驚いていた。
まだまだ畑仕事は、私なんかに負けていられないと思っている。いくつになっても・・・
4月22日 母の今後について相談したいとケアマネジャーから連絡があり、行った。
今日はディサービスの日で、ちょうど施設に母がいた。
元気に通っていて安心した。
私が行くとすぐ分かり、母も交えてケアマネとヘルパーと母のことについて相談した。
先日の医師の診察では認知症の始まりだと言われたが、施設の話では、まだしっかりしていて認知症と診断されたわけではないという。
人間90歳にもなれば動作は鈍くなるし、物覚えも悪くなるし、若い者と同じというわけにはいかないだろう。
受け答えもしっかりしているし、何と言っても私が誰か忘れるまでは認知症などで片づけられたくないものだ。
髪が伸びたのを気にしていたので美容院でカットして染めてもらった。10歳若返った。
4月20日 母の介護認定の更新時期がきた。
かかりつけの病院で母の状態を記入してもらい提出した。
最近は認定も厳しくなってきて、特養に入所するには要介護3以上にならないとダメとのこと。それも順番待ちで、とうとう入所できない間に亡くなってしまったという話も聞く。
このごろ、物の有り場所をすぐ忘れてしまい〜どこにいったか分からない〜そんなものは無い〜しまいには私が持っていったという。
これは典型的な認知症の始まりで、よくテレビなどで放送されている、帰る家が分からなくなった、娘の顔も分からなくなったという重度ではないが、進行していくと次第にそうなるらしい。
でもまだ会話もしっかりしているし、何とか一人暮らしができているので、このまま自宅で生活できればありがたいのだが・・・
3月12日 実家の車庫の波板が風と劣化で剥がれぶらぶらになっていたので3時間かかってようやく直した。
古いありあわせの木材を使って何とか直したが、果たしてどれほど持つか。
最近は母「何かあったら電話すればいいのかい?」
と言う。
今までそんなことは言ったことが無かったのにちょっと気がかりだ。
そういえば食も細くなってきたようだ。
こんなに寒いのに暖房も点けない。
着るものも薄着。
寒かったらどうしたらいいのか分からなくなってしまったのか。
一緒に住んでいないのがもどかしい。
3月8日 加齢によって人間はどうなっていくのか母の様子を見ているとよく分かる。
身体的には加齢によって確実に弱って行くのは否めない。
頭も認知症でなくても、確実に衰えていくのも否めない。
果たして一人暮らしはいつまで可能なのか。
デイサービスやヘルパーのお世話になりながら今の状態を続けるのも限度があるだろう。
できるだけ行っていろいろやってやりたいが、今まで気丈だった母がまるで3才児より劣るその行動に、ついつい腹が立って怒ってしまい、ストレスが最高潮になる。
家に帰ってきてから反省の毎日だ。
2月7日 新潟市ではそれほどの降雪はなかったが、60km離れた母の所は20cm程新雪が降った。
近所の人が玄関まで道を付けてくれていた。
とりあえず車が入れるように除雪した。
今日は母におでんを作ってやった。
材料を刻むのは私だが、味付けは母にやらせた。
「何でもいいよ」と母は言うが、本人にやらせないと何もできなくなってしまうので、あえてやらせることにしている。
ホウレンソウとエノキのお浸し、サツマイモのサラダも作った。
かき揚げは買って行った。
母の頼りは私しかいない。私に叱られながら、こうして家で自由に暮らすのが母にとって今は一番安らげる時間なのかもしれない。
1月31日 一週間前から大雪になり、今年初めて除雪した。
いつも苦労して除雪していたが、今年分かったことだが、我が家の前の道路だけなぜか除雪車が入らない。
ちゃんと6m幅の市道なのに不思議だと思って問い合わせたら、途中から4m幅になっているからということだった。
母の所も除雪しなければならないので行った。
自宅まで車は勿論入れず、50mほどとりあえず歩く幅だけ道を付けた。
母は元気で食欲もあるが、今言ったこともすぐ忘れるし、驚いたことに、温風ヒーターが付けられなくなっていた。
スイッチを押しても付かない。元のスイッチが切ってあったのだ。すぐ給油ランプが付いた。タンクが逆さに入れてあった。
これは大変と、ヒーターの付け方を何回も何回も練習させた。
昨日菩提寺の人が亡くなった。
母は今まですぐ電話をくれたが、電話の掛け方も分からなくなっていた。
料理では、みりんの代わりにサラダ油を入れようとした。
人間はいつかこうなっていくのだ。
2016年
1月7日
2016年、新しい年が開けた。今年9月には母は満90歳を迎える。
人間ドックを受けたこともなく、健康的なことを特にやっている訳でもなく、こんなに長生きできるとは不思議なことだ。
それに元気で自宅で一人暮らしをしているから、さらに驚きだ。
人間の寿命は生まれ持った生命力によるものではないかと強く感じる。
でも、今度介護保険が見直されて、ヘルパー代が自費になるかもしれないという。
そんなことになったら年金ではとても払えないし、そうなると自宅では暮らせないので、結局施設に入所しなければならなくなる。
かえって税金がかかることになると思うが、国は一体何を考えているんだろうね。
今日は3ケ月に一度病院に行く日なので連れて行った。主治医がとてもいい先生なので最期まで診てもらいたいものだ。
今年は雪がないので助かる。
12月13 角田山に登ってから母の所へ行った。
玄関の鍵は開いていたが、母の姿が見当たらない。
散歩にでも行っているのだろうと思ったら、裏の下水が落ち葉で詰まったので掃除していたという。
裏は崖なので、いつも注意しているが、母は聞かない。
昔、冬の間、父が出稼ぎでいないので、屋根の一番上に上がり、雪おろしをしていた母だ。家の中で子供ながらに聞いていたドサツ、ドサツと下ろす雪の音を今も忘れない。
でももう歳なんだからあまり無理をしないでね。
10月18日 母の住んでいる町の美食ツアーに参加した。
妻入りの街並みが特徴の海岸の町である。
4か所の食事処で美味しい料理を食べながら日本酒をいただいた。
お酒は一応制限があるが、事実上地酒が飲み放題だ。
今年で6回目とのことだが、今年初めて参加した。
スタンプラリーで小さな町の隅から隅まで歩いた。
街並みを歩いたのも勿論初めてだ。
「荒海や佐渡に横たう天の川」松尾芭蕉がここで読んだ句である。
良寛さんが海を眺めながら鎮座していた。
10月11日 週3回ヘルパーさんが来て食事を作ってくれるので、助かっている。
冷蔵庫にある食材でいろいろな料理を美味しく作ってくれるので、母も喜んでいる。
こうして在宅で元気?に暮らせれば、それは母にとって一番いいことだ。
でも周りにほとんど話をする人は居なくなり、寂しい寂しいと言っている。
集落の30軒の内、10軒は独居老人だ。
私が居た頃、町の人口は6,000人だった。今は4,000人になったと聞く。
町が子育て世帯用に駅前にアパートを建設し、格安で貸し出した。
こうでもしなければ、なかなか若い人が住んでくれる町ではない。田舎過ぎて・・・
10月6日 薬カレンダーの薬が無いとケアマネさんから連絡があり、セットに行った。
10日間ほど行かなかったので、どうしているか気になっていた。
何とかヘルパーさんの助けで元気にしていて一安心だった。
でも、耳が聞こえないという。
補聴器の電池が無くなっているのに気が付かないのだ。
9月19日 家にばかりいる母を畑に無理やり連れ出した。
元気なころは一人で歩いて1kmほどの所にある畑まで歩いて行ったものだが、今はもうできない。
でも、車に乗せて行けば、気分転換にになるし、何よりも畑が大好きだった母なので、水を得た魚のように生きいきとしてくる。
サツマイモの状態や冬野菜の植え付けの指導を仰ぐためだ。
ところが、畑に着いてみると、大量の栗が落ちていて、母と夢中になって拾った。
時期を逃すと他の人に拾われてしまうが、ちょうどタイミングが良かった。
他の場所にも行ってみたが、そちらは、誰かに拾われてしまったようで、一つも無かった。
8月1日 毎年8月1日はお寺で盆参がある。
今年は母が一人で参加できないので、一緒に付いて行った。
以前は集まった人に出すお時は全部、寺で作っていた。
父が亡くなる数年前、私も駆り出されて賄いの手伝いをしたことがある。
檀家の女性達が全員その賄いをしていて、寺の台所は大変な賑わいだった。
でも今はもうそんなことをしない。
弁当をとってささやかな昼食である。
来年はもう母は出席しないことにした。
今までやっていたことを母は止めたくないようだが、歩くこともままならないのに、そんな行事にいつまでも参加できるわけはないし、第一、連れて行く身にもなってもらいたいものだ。
回覧板だってそうだ。
坂道を登ったり下ったりして隣の家に回すのだって至難のわざなのに、絶対止めないと言い張る。
あまりにも強情なので、最後はいつも喧嘩し、怒鳴ってしまう。
今、母のことが一番負担になっている。
7月18日 今日はヘルパーさんが来て食事を作ってくれた。
ツナポテトサラダ、鶏肉・ジャガイモ夏野菜の煮物、こんにゃくの味噌煮だった。
講習を受けているのか、とても美味しくて、薄味で、母はヘルパーさんの作ってくれるおかずを楽しみにしている。
何とか自宅介護で一人暮らしをしているが、一年前に比べて出来なくなったことが増えた。
でも、介護保険を使ってできるだけ自宅で暮らせたらそれがいいに決まっている。
7月9日 角田山に登ったついでに母の所へ行った。
髪がきれいになっていたので、「今日美容院に行ってきたの?」と聞いたら、そうだという。
あれ?午前中はたしかヘルパーさんが来る日なのに、「どうしたの?」というと、今日来る日かどうかが分からなかったという。
慌てて施設に電話したら、やっぱり午前中に来たけど留守で、しかも鍵がかかっていなかったとのこと。
呼んでも返事がないので、まさか美容院に行っているとは知らず、家のどこかで倒れているのではないかと、中に入ってくまなく探したそうだ。
ヘルパーさんの来る日が何回言っても覚えられないようだ。
鍵がかかっていたら大騒ぎになるところだった。
今まで習慣でやっていたことは体に染みついていてわかるが、新しいことはもう覚えられないようだ。
それを分かるまで何回も言わなければならないのも非常に疲れるし、しまいにはつい怒り声になって大声で言ってしまう。
介護施設で働く人は本当に大変だと思う。
こんなに何べん言っても分からない人や、言うことを聞かない人にでも優しく接しられるのだから。
帰りの車に手を振る母を見て、“叱って悪かったね”といつも思いながら帰ってくる。
6月24日 このところ、週三回ほど往復120km離れた母の所に通っている。
先日の介護再認定で「要介護2」に認定された。
「要介護2」とは、もう一人では暮らせないということで、一つ一つできなくなったことをヘルパーさんに手伝ってもらいながら何とか暮らしている。ただ、本人はそれを絶対認めようとしないから困ったものだ。
薬カレンダーに入れた薬の一つ一つに日にちを記入してくださいと言われ、2週間分の薬全部にその都度日にちを書いてカレンダーに入れた。
40分ほどかかった。これが今後ずっと続くと思うと気が重い。
それなのに、今日は24日にもかかわらず25日の薬が無くなっていた。本人はちゃんと飲んでいるという。多分わけもわからず飲んでしまったのだろう。
今日の日にちが表示される時計を買って、テレビの画面の真ん前に置き、必ず今日の日にちを確認するよう何回言っても忘れてしまう。今日が何日か分からない。
月、水、金とデイサービスに行く日なのに、迎えに来たのに準備していなくて随分車を待たせたので、デイサービスに行く前に早朝ヘルパーさんが来て準備、朝食、薬の手伝いをしてもらうことになった。
着替えの準備ができなくなって、前日にわざわざヘルパーさんが翌日の着替えをタンスから持って行くことにした。
おもらししていても何とも思わず、家では汚れたままでいる。
それでいて他人には異常に気を遣い、いい顔だけを見せている。
こんなに何人もの手を煩わせるなら、いっそのこと施設に入所させたほうが、面倒がないとも思うが、本人は家がいいと言っているので気持ちは複雑だ。
早くこんなことから解放されたい。
6月8日 山のツアーで山形へ行く途中、携帯が鳴った。
母が熱を出したので家に帰すというディサービスからの電話だった。
まるで保育園の子供ようだ。
予定を中止して途中で帰るわけにもいかず、母が家に着いた頃を見計らって電話した。
「今日、明日と行くことができないけど、何とか一人で居られる?」と聞いたら、大丈夫そうだったので、予定通り帰らないことにした。
今度は泊りの予定は控えなければならない。
こういうことに全く係わらないで過ごせる人が本当に羨ましい。
5月25日 要介護等の認定は年1回暮れに行われる。
今までずっと「要介護1」だったのが、今年から「要支援2」に格下げになり何かと不自由を感じていた。
なぜなら、田舎なので近くにスーパーや医者がない。車がないのでどこへ行くにも不便。
高齢で足腰が弱り、長く立っていたり歩いたりできない。トイレに行くにも時間が掛かる。
ガスを消し忘れて鍋を焦がしたりすることがたびたびある。食事が満足にに作れない。
風呂は一人では危険でとても入らせられない。
それなのになぜ介護度が下がったのか不思議だ。
5月の連休過ぎ、ベッドから落ち腰を痛めてから更に不自由になり、あれだけ外を一生懸命歩いていた母が炬燵の座椅子に座ったままの生活になった。
今日要介護の認定変更の調査があった。
「自分の名前は言えますか?」「外に出て家が分からなくなることはありますか?」「お金の管理は自分でできますか?」
母はいずれの質問もクリヤー。
どうも介護認定は認知症と判定されれば体がピンピンしていても認定されやすいが、単なる加齢による行動低下は、本人が相当な努力をしていても難しいようだ。
そう考えると、頭がしっかりしていて体が不自由になるより、むしろ体が元気なうちに認知症になったほうが、こんなに苦しまなくてもいいから得策かな。
5月9日 ディサービスやヘルパーさんに来てもらうことで、月曜から土曜まで一人にさせずに済むことになった。
家族にとっては安心で楽だが、本人は常に他人が係わってくることになり、戸惑い気味だ。
今まで姑と暮らすこともなく、嫁と暮らすこともなく、核家族で自由に暮らしてきた母にとって、他人が家に入り込むことは、常に気を使うことであり、耐えられないようだ。
でも人間はいつかは老いて体の自由がきかなくなるから、他人の世話にならなければならない。
そのうち慣れてくれればいいなと思う。
5月8日 昨日までできたことが今日はできなくなってしまう。
さっきまで覚えていたことを今忘れてしまう。
薬の管理ができなくなってきた。
母の状態が最近怪しくなってきた。
ケアマネジャーに相談した。
今「要支援2」だが、要介護申請をした。
週2回のデイサービスを週3回にしてもらった。
更に残りの週3回ヘルパーをお願いすることになった。
デイサービスへ行く支度の手伝いと薬の管理、食事の手助けだ。
今まで往復120kmの母の所へ通うのが本当に負担だったが、これからは少しは楽になるだろう。
でも、あれだけ気丈な母が、老いていく姿を見るのはつらい。
自宅でいつまでも過ごしてもらいたいが、いつかは無理になるだろう。
3月25日 田舎の祭りなので行った。
私が子供の頃、神社の参道には所狭しと出店が並び、賑わっていた。
今年はたった1軒、たこ焼き屋だけだった。
何とも寂しい限りだが、最近は年寄りばかりで、子供がいなくなったので、店屋が来ても何も売れず、結局次の年から来なくなってしまう。
母は足が動かないとしきりに言う。
そのせいか、トイレが間に合わなくて、今日は「大」のほうを漏らしてしまった。
風呂場に連れて行って洗おうとするが、十二単のように着込んでいる母を着替えさせるのは至難の業で、30分もかかった。
それどころか漏らしていても漏らしていないと言い張るのには困ったものだ。
3月14日 日々飲む薬に加えて先日もらった薬は一日4回、朝、昼、晩に寝る前に飲むものだった。
母にはその意味がわからず、夜に二回分を飲んだり、寝る前だけ飲んだりということが重なり、これではだめだと思い、娘が月曜から日曜までポケットが付いた一週間分の薬カレンダーを買ってくれた。
早速その中に所定の薬を入れ、朝来る新聞で日にちを確認して、そこから出して飲むように伝えて帰ってきた。
果たしてうまく飲めているかどうか不安だが、週一回来るヘルパーさんにも見てもらうようメモを残してきた。
頭はしっかりしている母だが、新しいものや変更事項には追い付いていけず、何回言っても理解できない様子だ。
ただ、食欲だけは旺盛で私がいろいろ買っていったものや作ったものを美味しい美味しいといって沢山食べる。
元気で頭が変になるのが一番困るよね。
2月28日 海外に行っている間はいつも携帯の電源は切っておくことにしている。
それは、せっかく海外にいるのだから、日常の雑事に煩わせられたくないことと受信も料金がかかるからということだ。
旅も終盤になり、さてと携帯の電源を入れた。
メールの着信が数件、電話も数件あり、その中に知らない番号の着信もあった。
成田に着き、自宅へ移動中にその番号から再度電話がかかってきた。
母のケアマネさんからで、母の具合が悪くディサービスを休んだことや医者に連れて行ったことを話された。
帰国した翌日早速母の所へ向かった。
足の甲が腫れあがり歩くのも困難な様子だった。
食事の用意をし、薬を飲ませて様子をみることにした。
今回一緒に海外の山へ行った他の2人の女性も同様に、結婚し、働きながら子育てをし、親の面倒や孫の面倒をみながら精一杯日常をやりくりし、その合間に厳しい山に出かけている同じような境遇であることが分かった。
2月13日〜14日 娘の所に寄ってから母の所へ行った。
母は週2回デイサービスに通っている。
ヘルパーさんが週1回掃除に来てくれる。
私が週1回行って買い物をしたり食事を作ってやる。
こうやって何とか在宅で生活できているが、この先どれくらい続けられるだろうか。
2015年
1月28日
3か月に一回母が病院へ行く日だったので、前日泊りで行った。
これと言って重大な病気はないが、もう歳なので、沢山の薬をもらって帰ってきた。
昼は道の駅国上で食べた。安くて味もまあまあだった。
「もう一晩泊まって行かないかい?」と言われたが翌日用事があったので帰った。
12月29日 一週間に一日母の所へ通っている。
往復120km、なかなか大変な時もある。
ただ通うのもガソリン代がバカにならないので、途中の娘の所へ寄ったり、天気が良ければ山に登ってから行くことにしている。
親は長生きするに越したことはないが、どうなんだろう、だんだん自分のことができなくなってくるし、物忘れが進んでくるし、そんな親の先が見えない介護(介護といってもまだ完全に介護状態ではないが)に縛られてしまっては、長生きって何だろうと思う。。
最近は、長生きすることって本当はあんまりいいことではないのではなかろうかと思うようになってきた。
ピンピンコロリは誰しも願うところだが、そんなにうまくいくのはほんの一握りの人だけだ。
母のことを見ていると、自分の子供達には迷惑をかけたくないとつくづく思う。
そう考えると、77歳であっという間に逝った姑は、考えようによっては、そのほうが残されたものにはよかったのかも知れない。
12月15日 週末の降雪も安定して道路状況もよくなったので、母の所へ行った。
私が行く頃、冷蔵庫の中がちょうど空っぽになるようで、いつものごとく一週間分のおかずを作って来る。
お菓子なんかも買っていくが、いつの間にか食べつくされている。
まだまだ食欲旺盛だ。
「要介護1」だった母だが、年々足や腰が悪くなり歩くのが遅く杖がないとダメだ。
言ったこともすぐ忘れる。長く立っていられないので食事が満足に作れない。
それなのに今度は「要支援2」に介護度が下がってしまった。まあ、一人で暮らしていけているからなのかもしれないが、ディサービスやヘルパーさんに助けてもらってようやく現状維持しているわけなのに、サービスが受けられなくなったらどうなるのだろう。寝たきりにならないよう本人は並大抵ではない努力をしている。それなのにサービス打ち切りでは、努力する意味がない。90歳になるのに介護保険の世話になれないなんて不公平だと思う。
11月22日〜24日 母を連れて山間の一軒宿に行ってきた。
最初母は「行きたくない、もう出かけるのは億劫だ」と重い腰を上げなかったが、無理やり連れ出した。
1時間半ほどで宿に着き、早速温泉に。家ではもう危ないからお風呂は使用禁止にしているので、週2回施設で入れてもらうだけなので、久し振りにのんびりと風呂に入ることができとても良かった。
食事も派手ではなくどちらかというと田舎料理で母の口に合っていたようで、ごはんのおかわりまでしていた。
一泊ではすぐに過ぎてしまうが、2泊するとゆったりできて最高、温泉も何回も入った。
連休なのに宿泊客も少なく静かでとても良かった。
9月8日 先週は一週間何かと用事があり、母の所へ行けなかった。
週一回ではちょっと不安になってきたので、週二回行くように何とかやりくりしているが、思うようにいかない。
食べるものが一番不安材料だ。近くにスーパーもないし、買い物に行く足がない。
以前は自分でいろいろ料理していたが、今は満足に出来なくなった。
洗濯は何とか洗濯機があるから出来るし、掃除は週一回ヘルパーさんが来てくれる。
難儀から行きたくないという母を、冬菜を植えるため畑に連れ出した。
歩くのもやっとだが、鍬を持たせると畝を作る技術は今も健在。
でも、腰が痛くて動けないと言ったので程ほどにした。
8月22日 富士山から帰ってきて、母に電話したら今日はあまりに体がだるかったので、車をたのんで医者へ行き点滴をしたといった。
気丈な母が自分から医者に行くなんて余程具合が悪かったのだろう。
今日も点滴に連れて行った。
夕方には少し楽になったと言った。
母の所まで往復120kmもあるので行くのは大変だが、しかたがない。
それにしても退職していて本当に良かった。
そうでなければこんなこととてもできる余裕はない。
もし母に何かあっても、今まで精一杯やってきたと思えば後悔もないだろう。
8月17日 13日はご先祖様を迎え、16日はご先祖様をお送りする日だ。
昨日はすごい豪雨だったので今日実家に行った。
このお盆の一連の行事は母にとってよほどこたえたらしく、体がだるい難儀だと不調を訴えた。
今週はデイサービスは休んでゆっくりするよう言って帰ってきた。
8月13日 母と一緒に墓参りに行った。
お寺の裏山にある先祖代々の墓、その後ろに2つ、遠くで来れないという親戚の墓、昔の火葬場にある2つの墓、と昔は1人1つあった墓のなごりだろうか、墓参り自体も大変な作業だった。
8月10日 今年は兄が帰れないので、実家のお墓の掃除を私がしなくてはならなくなった。
街の中のお寺と違って山の中にあるし、ましてや50mほど山道を登らなければならないので、大変な作業になる。
年老いた母を連れて何とか現場までたどり着き、落ち葉を掃いたり草を取ったり、コケむした墓をタワシでみがいたり、汗だくになって作業をした。
それでもとなりに建っている墓のいとこがある程度きれいにしていてくれて助かった。
今までこれを父が全部やっていたわけだ。
5年前父が亡くなってからは兄がやっていた。
今、墓の有り方がいろいろ言われている。
結婚しない人が増えて、先祖代々を引き継ぐ人がいなくなって、管理が難しくなってきている。
遠くに住んでいて来れない場合もある。
一軒に一つの墓を持つより、共同墓地のような墓や、散骨、樹木葬など、これからの墓の有り方を考えなければならないなあとつくづく思う。
7月13日 母を家に置いて一人で畑の草取りをした。
草を抜くたびにあらゆる虫やミミズが現れ、気味が悪いがしかたない。
それにカボチャが草むらに伸びて小型のカタツムリみたいな虫が大量に発生していた。
昨年はいなかったのにどこから来たのだろう。
7月12日 雨模様の日が続きジャガイモ掘りをいつやろうか気になっていた。
この週末ちょうど天気予報が晴れなので、今回やってしまわないとまた来週から雨になるので思い切って芋掘りをした。
足腰が大分弱った母を連れて畑に行き6行のジャガイモ掘りをした。畑に連れて行くと母は水を得た魚のように生き生きとして作業をした。
昨年より若干少なかったが、それでも大きさが勝ってまずまずの収穫だった。
張り切った母は翌日はあちこちが痛いと言って起きられないほどだった。
「もう来年は畑はダメだわ」と母は言うが、畑は母にとって生きがいで命の次に大事なもの。たとえ作業ができなくなっても、草で消滅しないよう母が生きている限り維持していこうと思う。
それにしても、ちょっと油断すると草が作物を覆ってしまうから、しょっちゅう行かなければならないのは大変だなあ。
5月31日 母から電話があり、印鑑がどこを探しても無いという。
おまけに私が持って行ったんじゃないかと言い出す始末だ。
一昨日母の所へ行った時、お金を下ろしたいといったので銀行に連れて行ったのだ。
「じゃ、窓口に忘れたんじゃない?」と言っても絶対違うと言い張る。
「カバンの中探した?」と言ったがいくら探しても無いという。
しょうがない、往復120km、銀行に持って行ったカバンの底にちゃんとありました。
物が無い無いと言い出す。人が取ったと疑う。これ、認知症の始まりかな。
5月13日 午前中用事があり、午後から母の所へ行った。
午後に点滴に連れて行くつもりだったが、医者から連絡があって、午前中にきて下さいと言われたそうで、車を頼んで行ってきたそうだ。
自分一人で行けるようになるほど回復した。
少し良くなるとすぐ騒ぐので、しばらくは安静にするよう言うが、なかなか聞いてくれない。まるで子供のよう。
明日も点滴とのことだが、用があるので一人で行ってもらうことにする。
5月12日 朝、母を連れて医者に行った。
肺炎一歩手前で、抗生物質と点滴をすることになった。
午後から仕事があったので一旦家に帰る。
近くならいいけど遠いから困る。
5月11日 高熱が出たので、とにかく安静にして寝かせていた。
今日も泊まることにする。
5月10日 母の様子を見るため実家へ行った。
玄関の鍵が開いていた。
靴がなかったので医者へ行ったものと思い家の中へ入ると、台所の電気が付いたままで、よほど慌てて出かけたのだろうと、帰るのを待ちながら母の食事を作っていた。
1時間程して何気なく玄関のほうを見ると、何と母が倒れているではないか。
慌てて靴を脱がせ抱えて居間へ運んだ。
聞けば、あまりにも具合が悪くて医者へ行くことすらできなかったとのこと。
それでも回覧板をやりに行かなければと思い、力を振り絞って隣の家に行ってきたそうだ。
隣の家といっても都会のように3歩歩けば着くような所ではない。
急な坂を下ってまた登り返す、健康な人でも大変な道だ。
そこを87歳の、しかも39度も熱のある母が行ったわけだから、何も起こらないわけはない。
案の定、二回ほど転んだらしく怪我もしていた。
とにかく市販薬を飲ませ、早めに寝かせた。
今日は心配だから泊まることにした。
5月9日 夜、いつも通り母に電話したら、風邪をひいたらしく受話器の向こうからかすれた声がしてきた。
良く聞いてみると、今日はデイサービスに行ったが、途中で具合が悪くて昼に帰ってきたとのこと。
とにかく早く休むように言う。
3月30日〜31日 退職時にもらった1泊旅行無料招待の期限が31日までだったので、母を連れて温泉に行ってきた。
無料招待だから多分食べ物もあまり良くないかなと思って期待しないでいたが、なんのなんの、食べきれないほどの料理で幸い母も元気で良かった良かったと言ってくれた。
もしかしたら最後の親孝行かもしれない旅行の機会を与えてくれた職場に感謝感謝である。
3月7日 先日行った病院で検査が必要と言われたので、母を連れて病院へ行った。
病院内をあちこち移動して検査を受け、最後に精算の受付に母が一人で戻れるかどうか試してみたら、どっちにいったらいいか迷ってしまいパニックになった。
やはりもう母一人で病院へ行くのは無理に見えた。
そのせいかどうかわからないが、帰りの車の中で具合が悪くなってしまい、家に着いたときは、顔色が悪くすぐに横になった、
午後から仕事だったので、母一人残して後ろ髪を引かれる思いで帰った。
夕方電話すると少しよくなったとのことだが、これから先どうなるか心配だ。
2014年1月4日 母は今年も元気で新しい年を迎えられた。
弥彦山の帰り、母の所へ行って一晩泊まった。
年末年始は、兄の家族がいつも母の所へ行って過ごすことにしている。
兄嫁がとてもよくやってくれるので、楽しく過ごしたらしく、母の表情はいつもより生きいきしていた。
またみんなで温泉に行こうと、今から楽しみにしている。
翌日は天気が良かったので、昔遊びまわった集落を山越えしながら懐かしくウオーキングした。
昔の子供は行動範囲が広かったと改めて感じた。
11月6日 病院へ行く日なので、母を連れていった。
いつもと違ってスムーズにいき、思ったより早く終わった。
特に悪いところはないと言われたそうで、でも今度付添の人と一緒に来て下さいとのこと。
考えてみればもう87歳だから、一人で病院へ行くのは酷な話だと思う。
動作がのろくなってきたし、看護師さんやお医者さんの言うことはわかるが、それを覚えていられないわけだからどうしても付添が必要だと思う。
母はもう病院に行って薬をもらうのをやめようかと言う。
それは、そんなにしてまで長生きしたくないと思うようになってきたようだ。
一人暮らしでもう将来の目標もなく、あちこちが痛い痛いと言いながら生きる意味がないと思うようになってきているようだ。
ただ、私達子供に迷惑をかけまいと毎日歩いて頑張っている。食事も自分で作ることができる。
まあ、あとどれくらいになるか分からないが、できるだけ行ってあげようかと思う。母は嫌がっているが、紅葉も見に連れて行こうと思う。
今日はお天気にに恵まれ、実家の屋根の上に上がって甘柿を大量にもいだ。
9月1日 一週間に1回は母の所へ行くようにしている。
母はまだ自分で食事が作れるし、料理は上手い。
だから、下手に私が作って持っていくより、材料を買って下ごしらえだけして、味付けは母に任せて、帰りにそれを少しもらってくるという方法でやっている。
最近少し弱気になってきて、私が帰る時、寂しそうな顔をするので困ってしまう。
7月17日 母が病院へ行く日なので、早起きして実家へ行った。
先日の検査の結果を聞きに母と病院へ行った。
特に異常はないと言われ、本当なら喜ぶべきなのに、母は「そりゃ困ったね、それじゃなかなか死ねませんね」と言ったそうで、医者が苦笑していたとか。
長く生きるのも容易なことではない。あちこち痛いと言いながらガマンしながら生きなければならないし、若い人と違ってこの先希望もないからね。
7月8日 母が病院へ行く日なので、早起きして実家へ行った。
いつもボランティアさんに車をお願いするのだが、お金もかかるし、混雑する病院の中で母が一人であちこち移動するのは、困難になってきたので付き添うことにした。
母は最近体の具合が悪いという。
この暑い気候なのでみんな具合が悪いよと言うと、安心したようだった。
6月23日 週末にはなるべく母の所へ行くことにしている。
家に着いたら、母は何だか疲れた様子で、昼食もあまり食べず、横になっていた。
とりあえず熱を測ったが熱はなし。
何かに疲れたのならいいが、歳も歳なのでちょっと心配。
それでも夕方には少し回復して、日課の散歩に出かけた。
察するに、私が行ったから少し元気になったのか。
やっぱり毎週行ってあげなければならないね。
4月29日〜30日 父が亡くなって4年、母を連れての温泉は今回で5回目。兄が計画してくれて今年は月岡温泉に決まった。
母は、もう今年が最後、と弱気になっているが何とか連れ出し、月岡温泉ホテルKに向かった。
連休はいつも混んでいやだが、皆が集まれるにはこの日しかないのでしかたない。
昨年の咲花温泉は、食べ物がちょっといまいちで期待外れだったので、今年はどんなか期待していたが、今日の宿はとても満足いく料理だった。
母は私達と変わらないくらい良く食べ、「よかった、よかった」と喜んでくれた。
高齢になると出かけるのが億劫になるようで、数日前からあれこれ心配していたが、無事行けてほっとしている。
4月22日 久振りに母の所へ行く。
電話するといつも「足が動かなくなった、歩けなくなった」という。
ジャガイモを植えるのが遅れて、時期を逃してしまって気をもんでいたのだが、母の所へ行ったら母は待ちきれずに自分一人で植えてきたという。
歩くのもままならない母が、1km以上離れた山の中にある畑に一輪車に種イモを乗せて運んでいったのも驚きだが、さらに畑に行って、6行も鍬で畑を耕しイモを植え、更に草取りをして、また一輪車を押して1km以上も歩いて帰ってきたというのだ。帰りは何十回も休み休みしながら家にたどり着いたときはもう疲れて動けないほどだったそうだ。
もうとってもそんなことはできないと思っていたし、一人では何かあるといけないから畑には行かないように言っておいたので、母の行動には腰を抜かすほど驚いた。
3月25日 実家では、部落で春祭りが行われた。
旗を立てたり、神社で五穀豊穣の舞が行われる。準備は部落の人全員でやるのだが、母はもう高齢なので免除してもらっている。
でも、神社まで行って、みんなと楽しく過ごしてきた。
実家の近くに雪割草の群生地があり、この祭りの頃にタイミングよく満開になるので、ついでにいつも立ち寄っている。
東京の桜の満開は過ぎたが、新潟は果たしていつ頃か。
昨年は母を紅葉に連れて行ったが、今年は桜にでも連れて行こうか。
あまり遠くや混雑するところより、近くでも結構きれいな所は沢山あるので、そっちにしよう。
父が生きていた時は、レジャーとは程遠い生活だったので、その分を取り返すつもりで頑張ろう。
1月12日 「来週から暫く家にいないので、電話が通じないよ」と母に伝えた。
電話が唯一の楽しみな母にとってちょっと可愛そうだけど仕方ない。
一年前の怪我から見事に蘇って、何とか一人でやっていけるまでに回復した。
母は家の中でテレビを見たりしていることはあまり好きではない。
どちらかというと、常に体を動かし、外での作業を好む。
落ち葉があれば掃除をし、雪が降れば雪除けもする。坂を下って少し離れたところにあるゴミ捨て場にも自分で行く。
部落の中をよく歩いている。畑もしている。
私達があの歳まで果たして母のように一人で元気に暮らせるだろうか、とても自信がない。
そういえば母は屋根の上に上がって雪おろしもしていた。
今でも梯子をかけて屋根の雪を降ろそうとするけど、それだけは止めてくれと叱った。
2013年1月1日 母は実家で兄家族と共に元気で新しい年を迎えた。
今年で87歳になる。
11月3日〜4日 先週は兄夫婦が母の所へ行ったので、今週は私が行った。
家に着くと、広い敷地に落ちた沢山の落ち葉を、母は一生懸命箒で掃いていた。
この時期は落ち葉の始末に困る時期だ。
近くに空き家になった家や一人暮らしの家が多く、毎日掃いても次の日にはまた散らかっている。始末に大変だ。母もいつまでできるか分からない。
落ち葉を袋に詰めて、軽トラ一杯に積んで畑に捨ててきた。
畑の野菜の後始末をし、来年の植え付けの準備をした。
カボチャがまだ残っていた。
7月9日 母をトラックに乗せて畑に行った。
ジャガイモ掘りです。
「今年が最後、もう畑はダメだ」と85歳の母は弱気です。
「何もしなくていいから、畑に行くだけ行こう」と誘います。
畑に着くと、水を得た魚のように元気になります。
5月28日 病院へ連れて行った。
まずCT検査、その後、右腕が痛くて腫れ上がっていたので、レントゲンを撮ってもらい、次に頸部エコーをやった。
たいしたことはなかったが、何せ歳だから、あちこち病気が出てくるようだ。
病院は一日がかりだ。一か所だけなら母はまだ一人で病院に行けるが、いろいろな検査や2つ以上の科にかかる時はもう一人では無理なので、連れていかなければならない。
4月30〜5月1日 母は怪我から奇跡的に回復し、今年も兄の計画で温泉旅行に行くことができた。
腰や膝が不自由な母はもうあまり遠くへは行けないので、今年は咲花温泉にした。
YOUチャンも加わって総勢7名、母が元気なうちは続けていこうと思う。
4月28日 実家へ行った。
明日、親戚の法事があるので、兄もそれに出席するために実家にきた。
何年振りかで親子3人揃い水入らずで過ごした。貧しかった日々が思い出された。
天気が良かったので午後、皆で畑へ行った。
草取りをして、野菜を植える畝を作った。杉の木を少し切ってもらったので、日当たりが良くなったようだ。
切った杉や枝が沢山あるので、だれか薪に使ってくれないかと思う。
4月8日 何か月振りに母と畑に行った。
片側が崖の危なっかしい細い山道を、軽トラに乗って行った。
母にとってこの畑はもう遠くて歩いて行けない距離になってしまった。
一緒に草取りをした。
どこにいるよりも生き行きとしていた。
3月25日 田舎の春祭りの日。
あの悪夢の日(母が転倒した)から2か月、徐々に元気になっていく母を見るのは嬉しい。
祭りなので母の所へ行った。
また、畑をやりたいと張り切っている。
できるだけ手伝いに行こうと思っている。
2月4日 兄の所で1か月療養していたおかげで、母は劇的に回復した。
今日、なんと実家に戻ることができた。
近所の人もびっくりしたに違いない。
大量にもらっていた薬が原因だった可能性もある。
医者と相談して、最小限にした。
そして、あれほど外の風呂に入るのを嫌っていた母だが、今度は、週2回介護施設に通い風呂に入るのを楽しみにしている。
1月14日 母を近くの病院へ連れて行き、顔、頭、目・・等すべて検査してもらった。
頬の骨は骨折していたようだ。
今まで複数の病院からダブってもらって飲んでいた薬は、とりあえず必要最小限におさえた。
兄の嫁さんがとても良くしてくれて、そこで1か月あまり母は療養することになった。
母が散歩するときは一緒に付いて歩いてくれた。
実家の部落の人達は、母はもう帰って来れないだろうと思っていたに違いない。
1月13日 母に電話しても出ない。兄も電話したそうだが、応答なかったとのことだ。
心配になって午後から休暇を取って母の所へ向かった。
そうこうしているうちに、近所の人が母の異変に気づき、近くのいとこに知らせ、兄に連絡が入った。
母の所に着くと、いつも台所などはきれいにしておく母なのに、部屋は散乱、話すことも要領を得ない。
それに、以前から気になっていた薬の管理がうまくいかなくなっていたようで、めちゃくちゃになっていた。
あんな気丈な母がまったく別人のようになって、駆け付けてくれたいとこ共々、母をこのまま1人にしておけないので、兄夫婦の家に連れてくることにした。
着替えや薬がどこにあるのかさっぱりわからず、とりあえずタンスにあるものを準備した。
私が準備している間にも、仏壇を参っていた母はまた転倒したようで顔の残り半分を強打した。
雪道を母をおんぶして車まで運ぶのは至難の業だった。
ようやく準備が終わり1時間半かかって兄の家に着いたのは夜9時を過ぎていた。
1月12日 夕方、兄から電話があり、母が電話口でおかしなことを言っているので、再度私のほうから電話してみてくれないかと言われる。
早速電話してみたら、いつもの母と違って要領を得ないことを言っているので、様子を見に母の所へ行った。着いたのは夜8時を過ぎていた。
母の姿を見て驚いた。昨日転んで顔面を強打したそうで、顔は目が開かないほどに腫れ上がっていた。
明日は勤務があるので休めないから、とりあえず母を寝かせて、食べるものを置いて自宅へ帰った。
1月11日 夕方、母に電話したら、家の中で転んだと言った。
じゃ、明日ボランティアの車を呼んで必ず医者へ行くようにと言って電話を切った。
2012年1月1日 母は今年で86歳、大きな病気もせずに何とか元気で一人暮らしをしている。
そんな母だが、昨年あたりから「足がふらふらする」「散歩の途中で転んだ」などと不調を訴えるようになった。
杖を突いてもすり足のようなおぼつなない歩行になって、2012.1.1日とうとう「要介護1」に認定された。
1か月ほど前に、転んだと言って、顔に青あざをでかしていたこともあった。とっさに手を着くこともできず、いや、むしろ手を着かないで良かった。下手に手を着いたら骨折は回避できないから。