エルプロモ峰登頂 5430m 2015.02.18〜27 戻る
エルプロモ峰はチリ・アンデスの名峰で標高5430m。山頂付近に雪渓がありアイゼン・ピッケルを要する山だ。山頂からは、アコンカグアを始めアンデス山脈の山々の大パノラマが望める素晴らしい所だった。今回男性6人、女性3人、年齢は30代〜60代前半(多分私が一番上)で出かけた。 |
日 程
2月18日 | 成田発ー北米ダラス経由ーサンティアゴ |
2月19日 | サンティアゴ市内観光 |
2月20日 | サンティアゴーファレヨネス(2550m) |
2月21日 | ファレヨネス(2550m)ーラ・パルバ(2900m)〜ピエドラ・ヌメラーダ(3354m) |
2月22日 | ピエドラ・ヌメラーダ(3354m)〜フェデラシオン(4100m) |
2月23日 | フェデラシオン(4100m)〜ピルカ・デル・インカ遺跡(5050m)〜エルプロモ峰(5430m)〜フェデラシオン(4100m) |
2月24日 | フェデラシオン(4100m)〜ピエドラ・ヌメラーダ(3354m)〜バシャ・ネバド(2900m)ーサンティアゴ |
2月25日 | サンティアゴ郊外ワイナリーへ その後サンティアゴから北米ダラスへ |
2月26日 | 北米ダラスー成田へ |
2月27日 | 成田着 |
2月18日 |
成田発18時30分アメリカン航空で、経由地のアメリカダラス・フォトワース空港へ向かう。飛行時間は11時間40分、時差はー15時間、現地時間15時10分ダラスに着き自動チェックイン機で乗換の手続きをする。乗継時間があったので、有料ラウンジでソフトドリンクを飲んで過ごす。ダラス発21時45分一路チリのサンティアゴに向かって離陸した。途中トラブルがあり、パナマシティに一旦着陸し、2時間遅れで再度離陸した。 |
2月19日 |
途中パナマに着陸したので、チリのサンティアゴに着いたのは現地時間12時半を回っていた。アメリカとの時差は+3時間だ。日本とはちょうど半日遅れである。 ホテルで昼食を取り、夕方、市内観光に出た。英語ガイドの案内で街を巡った。街には野良犬が沢山いた。 サンティアゴは1541年スペイン人の征服者ペドロ・デ・バルディビアにより建設された。この場所に都市を建設した理由は、穏やかな気候と市中央部を横断するマプト川がマプーチェ族からの防衛線になるためであったと言われる。 標高520m、地中海性気候で、夏は比較的暖かく乾燥し、気温は昼は30度位だが、夕方には10度位まで下がり、一日の寒暖差が大きい。 |
2月20日 |
朝、2人の女性ガイドと合流し、郊外のラ・パルバへ向かう。 ラ・パルバは南米屈指のスキー場で、バシャ・ネバド、エル・コロラドと共に「3つの谷」と呼ばれ、南半球最大のスキーリゾートを形成している。 車でどんどん標高を上げ、終点のラ・パルバに到着し支度をしていると、急に空が暗くなり雨がパラパラ。そのうち大粒の雹が降ってきた。 今日はこの先へは進まず、10分ほど下ったファレヨネスという場所の山小屋(標高2550m)に泊まることとなった。 冬場はスキー場として営業しているが、この時期は無人だが、食事はキャンプマスターがいるので心配なし。 小屋に入って間もなく、猛烈な雨と雷が鳴り、一日中大荒れの天気になった。周りの山は、見る見るうちに真っ白に変わり、前途が危ぶまれた。あのまま歩き出していたら大変なことになるところだった。 |
2月21日 |
朝起きたら天気は快晴。 ラ・パルバ(2900m)まで車で行き、そこから広大なスキー場の中を歩きます。 昼食は湖畔のほとりで風を避けて取ります。前方に雪に覆われた山々が見えますが、エルプロモはまだまだ先で見えないとのこと。 昼食後、スキー場を抜け登山道へ。ガイドが居なければ広大でまるでわかりません。アップダウンを繰り返し、セポ川沿いのキャンプ地ピエドラ・ヌメラーダ(3354m)に行きます。 「ピエドラ」は石、「ヌメラーダ」は番号の意。キャンプ地到着後、一人一つのテントが割り当てられ、設営が始まります。疲れている体でテント設営は応えます。 食事はとても美味しく、あれだけの材料一式を運び上げ調理し、片づけてまた運び調理するという、繰り返しの作業は想像を絶する苦労があると思います。 軽い荷物で歩けばいいだけの私たちは、何だか申し訳ない気持ちになりました。 夜テントから出ると、今まで見たことがないほどの美しい宝石をちりばめたような星空が広がっていました。オリオン座や天の川が素晴らしかったです。 |
2月22日 |
天気は快晴。昨夜はやはり冷えました。テントを撤収し今日はエルプロモのベースキャンプ、フェデラシオン(4100m)まで移動です。緩やかに高度を上げながら進みます。 途中に四段の滝がありました。ようやくエルプロモの姿が小さく見えてきました。 荷物はラバに運んでもらえるので楽だが、標高が高くなってくると呼吸が苦しくなってきます。高山病にならないよう注意が必要です。 フェデラシオンに到着し、またテント設営です。ロッジでもあれば楽なのになあと思いますが・・・ 今日は5時半に夕食を取り、翌朝2時半起床なので早く休む。 なかなか寝付かれず、うとうとしたらもう起きる時間となった。 |
2月23日 |
朝2時半起床、3時に朝食を取り、4時出発です。 まだ真っ暗なのでヘッドランプを点けオーバーヤッケ、ズボンをはき、ピッケルとストックを持ち、ガイドを先頭に歩きます。 最初2時間ほど緩やかな登りだが、砂利が滑り足元が安定しなくてとても登りにくい。その後トラバースになる。行くときは暗くて分からなかったが、帰りに見たら大きな氷河とその氷河が流れてくるところにいくつもの氷柱が並んでいた。 トラバースが終わるとジグザグの急登で、途中に10人位入れる避難小屋(4620m)があった。振り返るとサンティアゴの街の夜景が望まれた。急登は更に続き、2.3日前に降った雪も現れ、おまけに足元はガレ場で安定しなくて、とても登りにくかった。次第に夜が明けてきた。 傾斜が緩やかになると、「ピルカ・デル・インカ遺跡」(5050m)に到着する。この遺跡は、インカ時代のミイラが発見された場所だ。こんな標高の高い所でミイラが発見されたとは驚きだ。麓のスキー場にその少女の写真が飾られていた。 ここで休憩です。 この先氷河のトラバースがあるので、アイゼンを付けます。ストックをピッケルに持ち替え、先を進みます。5000mを超えているので、呼吸が苦しく、こまめに呼吸を整えないと進めません。 雪渓が終わると山を回り込み、再度ジグザグの急登になります。もう死ぬほど苦しかったです。 ようやく山頂の一角に到着し、あとは300mほど緩やかにアップダウンをすると山頂に到着です。10時間かかりました。天気に恵まれ目の前にはアコンカグア(6992m)をはじめ、アンデスの山々が勢ぞろいして迎えてくれました。素晴らしい景色です。 何枚も何枚も写真に収めました。 登りは時間がかかったものの下山は5時間で夜8時、まだ明るいうちにベースキャンプに下ることができました。 心身共に疲れ、食欲があまりなく、ごはん少しと野菜と果物のサラダしか食べられませんでした。 前日、星空観察会をやろうと言っていたけれど、みんなとってもそんな元気はありませんでした。 |
サンティアゴ方面 | ピルカ・デル・インカ遺跡(発見されたミイラ) | 山頂を見る | エルプロモ山頂 | 山頂からアコンカグアを望む |
2月24日 |
昨日登頂した山頂がベースキャンプからよく見えます。 登頂できた充実感を胸に今日はバジャ・ネバド(2900m)まで下山し、サンティアゴへ戻ります。 最初のキャンプ地ピエドラ・ヌメラーダ(3354m)を通り、何回も何回も振り返ってエルプロモにわかれを告げ、山頂は雲に覆われ始め、天候が下り坂になる様子に、「昨日でよかったね。今日だったら展望は望めないかも」とみんなで言い、充実感を胸に一気に下った。最後はスキー場のリフトにも乗せてもらった。 車でホテルに戻り、5日振りにシャワーを浴びてさっぱりした。 夜はレストランでお祝いした。登れた人も登れなかった人もそれぞれ全力を出し切ったということで、満足だった。 |
2月25日 |
午前中は休養、午後はビーニャ・コンチャ・イ・トロワイナリー見学だ。 午前中、部屋にいるのも退屈なので、フロントで市内の地図をもらい、一人で市内見物に出かけた。近くの小高い丘まで往復した。市内を流れる川の橋の欄干には、幸福の鍵が無数に掛けられていた。それにしても野良犬が多い。猫は一匹も見当たらなかった。 午後はワイン工場を見学し、たっぷり試飲し、2本高級ワインを購入し、また、併設のレストランで美味しいフルコースを味わった。その後大型スーパーに寄り、土産などを買った。ガイドが食べていた。「キノア」をかってきたけれど料理方法がいまいち分からない。 その後一旦ホテルへ戻り、17時空港へ向かう。サンティアゴ発23時20分、経由地のアメリカ・ダラス・フォトワース空港へ向かって離陸した。窓から見えるサンティアゴの夜景は素晴らしかった。 |
2月26日 |
早朝にダラスに着き、3時間後、成田に向かって離陸する。 アメリカ・ダラスから成田まで13時間35分、それに時差が15時間あるので、日本への到着は翌日になってしまう。 |
2月27日 |
14時20分、成田に到着した。長時間移動の場合、個人で行くときはいつも通路側の席にするが、今回はツアーで行ったので往復真ん中の席に固定され、身動きができなくて大変だった。 |
終わりに |
トレーニング不足で最後のアタックがきつかったけれど、何とか山頂に登ることができ、大変嬉しい。天候に恵まれ、山頂からアンデス山脈の絶景を望むことができ本当にラッキーだった。 |