will  〜旅立ち〜

 

「まぁ、何て可愛らしいのかしら…」

溜息を洩らすストルツ婦人を見て、叔母は満足げに瞳を細めた。

晩餐会の席に姿を現わしたアンヌは、淡い黄色のタフタドレスを纏い、控えめに開いた胸元には宝石が輝いていた。髪は品良く纏め上げていて、どこから見ても育ちの良い、気品のある娘であった。立派な口髭をたくわえたストルツ氏は、隣で黙り込む息子を横目に、ゆるりと立ち上がると会釈をした。

「アンヌ、ご挨拶をなさい…」

叔母が穏やかに、アンヌへ声をかける。侍女が今にも椅子を引こうと待ち構えていたが、アンヌは入り口付近で立ち止まっていた。表情も硬く、口を開こうとすらしない。

「おや、緊張しているのかな?…ははっ、緊張しているのはうちの息子も同じ様だ。どうか気になさらずに…。」

 訝しげな表情の婦人とは違い、ストルツ氏は鷹揚に構え、笑みを浮かべた。内気そうな少年は固唾を飲んでアンヌを見つめる。

「ではフェルナンド、お前からご挨拶をなさいな。」

婦人も気を取り直し、息子を促した。叔母はまだ立ち尽くしているアンヌにやきもきしながら、手の平に滲む汗をこっそり拭っていた。アンヌより一つ年上の少年は、静かに立ち上がるとアンヌへと近づき、片膝をついた。

「フェルナンド=ストルツと申します。今日という良き日に出会えました事、嬉しく思います。」

何度も練習したのだろうか、フェルナンドは黒髪を揺らしてアンヌを見上げ、口元に笑みを零した。蒼褪めて見えるのは緊張しているせいなのだろうか。アンヌは、その瞳を静かに見つめ返すと、口を開いた。

「…私は…アンヌ=レオニード。…将来の夢は…祖国を護る事。私の中に流れる熱い血を…祖国の為に流すこと…。」

フェルナンドがぽかんとした顔でアンヌを見上げる。丁度、手の甲へとキスする瞬間だった。

「な…何を言っているのです!アンヌ…!!!」

叔母が卒倒せんばかりの勢いで声を上げた。ストルツ婦人は目を丸くし、ストルツ氏は訝しげに眉を顰める。侍女も、誰をもが…凍り付いていた。部屋の空気は張り詰め…ただアンヌだけが、穏やかに笑みを浮かべていた。

「あ…あぁぁ…あの…ストルツ様……。アンヌは…アンヌは…あの事件以来、時折混乱するのです…。け、けれど…普段は教養もある、穏やかな…子なのですよ…。あ、ぁ…そうですわっ!アンヌ、ピアノを弾いて差し上げなさい。貴女は、ピアノを弾いていると落ち着く様です…し……」

叔母は慌てふためいて、立ち上がった。顔は蒼褪め、必死に笑みを浮かべるも…引き攣っていた。

「いいえ、叔母様。アンヌはピアノを弾きません。それに…混乱もしていませんわ。」

アンヌは微笑を零しながら叔母に反論した。

「…祖国を護る…と君は言ったね?…それはどういう意味なんだい?」

叔母と同様に、蒼褪める婦人とは対照的で、ストルツ氏は笑みを浮かべ、アンヌに問うた。気さくな言葉は、アンヌの表情を更に穏やかにした。

「はい。私は……。剣術を身につけたいのです。そしていつか、騎士として祖国を護りたいのです…。」

「君のいた…あの国を…だね?」

ストルツ氏は、アンヌと同様立ち上がったまま言葉を続ける。叔母はまるで金縛りにでも遭ったかのように硬直し、婦人もフェルナンドも状況を理解できず混乱している様であった。

「はい。ですから…私…考えたのです!お願いします、ストルツさん。私を養子にしてください!私…両親とロイスを奪った敵国が憎い。騎士になって民を護る事に全力を注ぎたいのです!!」

アンヌは言い終えると口を引き結び、拳を握った。ストルツ氏は暫く驚いた表情を浮かべていたものの、不意に笑みを浮かべた。

「面白い事を言うお嬢さんだ…。フェルナンドとの婚約を破棄し、養子にしてくれと頼むとは…甚だ面白い…。」

「あ…ぁぁぁぁ…。」

叔母は遂に意識を手放し、其の場に卒倒した。慌てて侍女数人が群がり、ストルツ婦人はただただ目を見開き、叔母やアンヌを交互に見つめるだけであった。其れを尻目に、ストルツ氏は肩を揺らして笑っている。

「私は真剣です。どうか分かってください!!私は3年の間、ずっと考えていました。心の中で蠢くものは何か…私は何に迷い、戸惑い…そして、何が私を突き動かそうとしているのか…!!」

アンヌは徐に、胸元へ手を伸ばす。其の取り出した物を見た瞬間、フェルナンドは短い悲鳴を上げ、後ろに飛び退いた。其れは…あの短剣であった。銀に煌く其れを、片手で掴めば…美しく結い上げられた髪にあてがって、思い切り横へ引いた。…そして、次の瞬間には…長く美しい茶色の髪が、バサリと足元に落ちていた…。

「な…何を…!!!」

今まで鷹揚に構えていたストルツ氏も、流石に驚きの表情を隠し切れずにいた。アンヌのこの姿を見たら、叔母は卒倒どころか即死していたかも知れなかった。肩の上で短く揺れる茶の髪…。当然揃ってなどおらず、美しいドレスよりも、貧しい平民の服が似合う其れであった。

「私は今まで貴族である事を恨んできました。けれど…今初めてその立場を利用したいと思っています。ストルツさんの名を…アンヌに貸して下さい!どうか…どうかお願いします。レオニード家の名を…衰退しつつある……レ…オニード…の名を…今………捨てます……。」

アンヌはぼろぼろと涙を流し、跪いた。

「…な…何と言う……崇高な……精神だろうか…。とても…貴族の娘とは思えない……。神に忠誠を誓い…祖国にも忠誠を誓うと今宣言したのだよ…君は…。」

ストルツ氏は感嘆の声を上げる。常識も何もかもを忘れ…ただ、跪く少女を見つめていた。ストルツ婦人は、大切な髪を切り落としたアンヌを見遣り…涙を浮かべていた。フェルナンドは圧倒されて言葉も出ない。静まり返った部屋に時折アンヌの泣き声が洩れる。そして…暫くの間…誰も口を開けずにいた…。

こうして…泣き暮らしていた少女の3年間は幕を閉じる…。

 

そして数日後…アンヌはレオニード家を後にした。13歳…冬の出来事であった。

 



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