Suffering

 

 反乱軍の圧勝で城は完全に占拠され、王は殺害された。側近も王族も全て処刑の対象となっていった。王の君臨しない国は、暫し無法地帯と化すのだろう。恐ろしく荒れてゆくに違いない…。しかし、誰が消せるというのだろうか。この黒い渦を…。

 

 

 

 

 

身体を強く揺さぶられる。遠くで聴こえる声。誰かに呼ばれているようだ…。続いて襲いくる激しい痛み。アンヌは目を開く…。痛みが嫌と言う程、己を現実に引戻してゆく…。変わらぬ漆黒の空と、雨。

『私は、生きている…。』

それに気付いた時、アンヌは初めて泣いた…。

 

「…嬢…ちゃん…。」

降りしきる雨の中、突然に聴こえた声。アンヌは反射的に其方へ視線を流す。

「…お嬢ちゃん…。嗚呼…目を開いた。起き上がれるかい?さぁ…。」

その男は、自分の着ていた外套を脱ぐと、泥塗れの女に掛けてやった。そのふわりとした感触に、アンヌは泣きながら男を見遣る。

「殺して…。私には……自害する為の剣もない……。」

視界がはっきりとしてきた。薄靄の中に見える体格の良い男は、優しく笑み、励ます様にアンヌを抱き起こした。

「私はお嬢ちゃんを知っている…。ずっと見守ってきたんだよ。君が、養子になり…騎士になり…士官学校へ入った事も全て知っている…。」

声を顰めて話す男に、アンヌは尚もすがりついた。

「殺して…生きていても仕方ない!生きていたくない!」

辺りは静かだった。喧騒からはだいぶ離れている。アンヌは視線を巡らせた…。無数の死体、馬車や馬…。散乱する武具…。血と泥の海の中、アンヌは激しく震えていた。

「アンヌ=レオニード。君は私が救った命を無下にするというのか。幼かった君を、助け出した私の行為を忘れたか。あの時の誓いを、短剣を……!!」

アンヌは、目を見開き、信じられないといった風に男を見た。そして口元を歪め、躊躇いもなく咽び泣く。

「兵隊…さん…?兵隊さん…?あの時の……あの時の…!」

その男は、薄く笑いながら、己の不自由な足を見せた。右足の膝から先が無い。その姿はまさしく幼い頃のアンヌを救い、励ましたあの衛兵に違いなかった。

「こんな事態になっちまって…。俺はずっと嬢ちゃんを探していた。もう死んでいるかもしれないと思っていたが……。」

男は、『良かった』と一言呟き、アンヌの背をそっと撫でた。アンヌは、びくりとして身をのけぞりながら男を見遣った。

「何故放って置いてくれなかったんだ!どうしてだ…!死ねると思ったのに…!絶対に死ねると思ったのに!!」

男はただ黙ってアンヌを見つめ、腰元から何かを取り外し、アンヌに突き出した。

「死にたいのなら、いつでもこの剣で死ねばいい。けれど、もう一度生きてみろ。死ぬ気で生きてみろ!!」

アンヌは目を見開いた。そして、其れを震える手で受け取った。

「アスターの…アスターの剣……。」

鈍く光る銀色の刀身。柄の部分に彫りこまれた徽章。アンヌは其れを抱きしめ、蹲る。『どうして』といった表情のアンヌをよそに、男は忙しく言葉を紡いだ。

「さぁ、一刻の猶予もない。反乱軍は残党狩りをしているからな…。森を抜けて、西へ逃げなさい。港へ向かって、ホルスという男を捜しなさい。その男の船は、深夜に必ず港の隅に泊まっている。きっかり30分間だ。船体は黒く、貨物船の様に見えるだろう。」

男は、アンヌを立ち上がらせた。乱れた髪を撫で、顔についた血を拭ってやる。古びた外套を羽織らせ、そっと抱き締める。一瞬間、身体を竦めるアンヌの背を軽く叩いて笑んだ。

「金貨が1枚ある。どこかの町で取りあえず服を買って、身繕いしなさい。さぁ、行きなさい!そして生きるんだ!!」

男がアンヌの背を押した。同時に遠くから声がする。アンヌは、その声に弾かれる様に走り出した。足がもつれ、何度も転びながら…。そして、森へと辿り着く手前、一度だけ振り向いた…。其処には数人の反乱軍と対峙している男の姿が見えた…。

「どうして……どうして………!!」

アンヌは、声を上げながら、ニ度と振り返る事なく走った…。何も考えず…ただひたすらに…。

 

 

 

「アンヌ…。君は、今どうしているのだろうか…。」

男は窓辺にもたれかかり、色とりどりの花が咲き乱れる庭園を眺めていた。片手に持つコーヒーカップはすっかり冷めてしまっている。既に何時間もこうして外を眺めていた。

「マッケイ様。昼食の用意が出来ましたが…。」

給仕の老人が遠慮がちに扉を開き、男に声をかける。

「ありがとう。けれど、食べたくないんだ…。」

「御言葉ですが、マッケイ様…。今朝から何もお食べになっていないようで…。」

男は給仕の言葉に柔和に笑んで、窓辺からようやく離れた。長身で華奢な男は、栗色の髪を揺らし、歩む。

「わかりました…。この絵を仕上げたら頂こう…。心配しないで。」

給仕は笑むと頭を下げ、小さなアトリエを後にする。カンバスの前に座った男は、描き途中の己の絵に優しく笑みを向けた。そこには、栗毛の馬に跨った騎士の姿が描かれようとしていた。

ロラン=ド=マッケイ。

嘗てアンヌと共に学んだ男は、名の知れた画家になっていた。とある画家の援助を得てリューリッヒに留学中、その才能を開花させたのである。数々の作品がコンテストで入賞し、彼の作品は高く評価されるようになっていた。

そして、その高名な画家は今、祖国の戦禍に心を痛めている。

「アンヌ…。君は今……。」

ロランは、筆を握りカンバスを見つめる。絵の中のアンヌは、美しく、気高く其処に居た。

反乱軍に打ち倒された国王軍。愛する友の安否は今だ知れず、方々に使者を立てたが連絡はない。

「会いたいよ…アンヌ。僕は今なら君に、胸を張って会えるよ。」

絵の具を含ませた筆が、アンヌの姿をなぞってゆく。明るい陽射しが、小さな部屋に差し込んで穏やかな空気が流れていった。ロランは、ひたすらに彼女を想いながら絵を描き始める。剣を筆に持ち替えた彼に出来る、精一杯の祈りと信じて…。

 

 

 

  アンヌは、倒木に躓いて倒れた。息を切らし、あまりの苦しさに悶えながら蹲る。どれ位走り続けたのだろう。鬱蒼とした森の中を、何度も転びながら進んでいた。

「どうして…だ。どうして私は…生き様としているんだ。こんなにも足掻いて……。」

アンヌは、木の陰に身を寄せて呟く。何の気配すら感じない。時折耳に届く葉擦れの音に身を硬くしては、周囲の様子を伺う。そして、何度も腰の剣に手をかけた。

「どこへ行くというんだ…。」

拳を握り、瞳を閉じる。其の時、葉擦れの音とは別に、何か水が流れる様な音を耳にした。其れと同時に強烈な喉の渇きを感じ、アンヌは必死に其の音を辿った。

「…水……水がある……。川だ……。」

やがて、目に映る小さな川に転がる様に走り、近づいた。獣の様に這い、水辺へと顔を近づける…。

「これは……何…。」

そしてアンヌは凍りついた。水面に映る己の姿。その顔、右頬にくっきりと刻まれた十字の文様を見た…。

「こんな……どうして…?どうして…なの…?」

全身を包み込む恐怖…。其れは改めてアンヌに襲い掛かる。全ての出来事がまるで目の前で起きているかの様な錯覚に捕われ、半狂乱になって頬を擦る。

「やめて!!こんなもの…こんなもの消してやる!!こうしてやる…!!」

髪を振り乱し、何度も擦る。しかし、消えるはずもない。それどころか、其の傷の深さを嫌と言うほど思い知らされてゆく…。

「誰が悪いっていうのよ…!アスターも…部下達も……!私だって…民を、国を護りたいと願って…願って……叙任した…!!それなのに…どうして!!」

頬の傷は、再び血を流し始めた。腫れ上がろうとも擦り続ける。アンヌは片手で腰の剣を抜き放つと、その切っ先を己の喉に押し当てた。

「……わ、私は誓う……騎士として……国王陛下にお遣えする……こ、事を……。そ、そして…民を……民を…………。」

 切っ先に力を込め、同時に喉元の皮膚が薄く裂ける。しかし、それ以上突く事ができない。どうしてもできない…。アンヌは嗚咽を洩らしながら、剣を取り落とした…。脱力し、だらりと腕を降ろす。

「…何と言う…仕打ちだろう……。」

アンヌは地に倒れ込みながら、呟いた。どうしようもなく湧き上がる憎悪が己を支配しようとしている。

「もう…私はわからなくなってしまった……。いいえ、わかりたくもない…。」

掠れる声で繰り返し紡がれる言の葉…。口元が微かに歪み、続いて絞り出す声…。

「…生き抜いてみせる…生き抜いてみせるわ、アスター…。貴方の分も……。」

 アンヌは抜き身の剣を抱きしめながら、いつまでも虚空を見つめていた…。その表情はやがて険しく、憤怒の形相へと変わっていった。悲しみを押し殺さんとばかりに…。 







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