Memory

 

 薄汚れた天井を見上げる。ベッドは軋んでいて、今にも壊れそうだ。部屋は薄暗く黴臭い…。其処には簡素なテーブルと椅子が置かれているだけで他には何もなく、破れたカーテンの隙間から暗い空が覗いていた。

 握り締めた剣は片時も離した事はなかった。あれからいくつもの夜をこうして乗り越えてきた…。けれど、夜は相変わらずアンヌを押し潰そうとする…。

 身体を横にして、テーブルの上の蝋燭を見つめた。粗末な燭台に蝋がこびりついている。目を閉じてもなかなか眠れない。ぼろぼろになった聖書は丸暗記する程読んだ…。

 それでも再び聖書に目を落とす。一度は憎んだ神だったが、信仰は簡単に捨てられない。それに、聖書を読んでいる間は悪夢から逃れられる気がした。そして、愛しい者達が住む世界に近づける気がした。唇は聖なる言葉を紡ぎ、時折微笑を零した…。

 不意に、廊下でカタリと物音がした。アンヌは飛び起き、長剣を抜刀する…。戸口へと剣先を向けたまま、扉を凝視した…。何者かが扉を叩く。アンヌは身構え、扉脇に移動した。その間も扉を叩く音がやまない…。

「…何の用だ…。」

アンヌの問い掛けに、返事はなかった。ただ扉を叩き続けている…。アンヌは小さく舌うちをすると、鍵を外した。そして、剣先を向けたまま扉を開いた…。

 何者か確認する余裕などない。ただ、その影に剣を突きつけた。

「…きゃッ……!」

同時に悲鳴が聞こえ、アンヌは訝しげにその影を見つめた。

そこには、まだ7,8歳位であろう少女が立ち尽くしていた。怯えた表情でアンヌを見上げ、涙を浮べている。

「…何故…この時間に……。」

アンヌの冷たい表情が少しだけ揺らぐ。少女は何かを言おうとしているが、上手く話せない様子だ。薄汚れた服を着ていて、金色の髪も乱れている。アンヌは、剣を引くと少女を部屋に通した。宿の者でさえ中に入れる事はなかったのだが、この少女を拒絶する理由が見つからなかったからだ…。

「…一体…どうしたんだ…?両親は?何故ここへ来た。」

アンヌは少女を椅子に座らせた。何か、懐かしい感情が込み上げてくる。打ち払おうとするが、どうしようもなかった…。少女は大きな瞳をアンヌに向けて、震えながら口を開く。

「…わ…たし…。聞いたの…。お姉ちゃんが、強い傭兵さんだって…。だから…だから…お話しにきたの。パパとママを助けて欲しいから。」

「両親を…助ける…?けどな…、私は個人的に仕事の依頼を受けてはいないんだ。だから……」

「駄目なの?お姉ちゃんも助けてくれないの…?パパとママが、悪い人に殺されちゃうのに!」

少女は遂に泣き出した。アンヌは冷静に少女を観察する。よく見れば、服はたいそう仕立ての良いもので、薄汚れていなければ貴族の子供そのものだった。

「…名前は…何て言うんだ?」

「シャルロット…。」

少女は鼻を鳴らしながら答え、ブルーの目を擦る。アンヌはシャルロットの目線まで腰を落とすと微かに笑ってみせた…。

「いいか?シャルロット…。お前の両親は今どこにいて、どうして殺されてしまうのか説明してくれるか?」

「うん…。あのね…パパとママは悪い人に追われているの。うんとね、その人達はね、前おうちで働いていた人達なの。パパとママはね、『しっぱい』したんだって。だからね『びんぼう』になっちゃったんだって。だから働いてる人達にやめてもらったんだって…。」

少女は瞳をくるくると動かしながら懸命に説明を始めた。アンヌは時折相槌を打ってやりながら、そのまま静かに話しを聞いた…。愛らしい貴族の少女。けれど、突然生活が一変し転落する一家。何か、身につまされるようだった。

「その人達はパパとママを殺して、『ざいさん』を奪おうとしているんだって。おうちにはもう『ざいさん』なんてないってパパは言ってるのに…。だからね、みんなで違うところへ逃げようと思っているの。これ…受け取ってお姉ちゃん。」

少女は、服のポケットから何かを取り出し、アンヌに差し出した。それは美しく輝いた装飾品だった。

「これは?…ママの物か…?」

「うん。ママが最後まで大事にしてたやつ。でもお姉ちゃんにあげる。パパとママの代わりに来たのよ。」

少女は唇を引き結ぶと、目に涙をいっぱいためてアンヌを見た。

「これで……たすけて…おねえちゃん…。がいこくに行くのを手伝って。」

「…密航の手助けか…。」

アンヌはその装飾品に視線を落とす。何もかもが己の過去と重なる気がしてならない。

「お前の両親を殺したところで、奴らにはひとかけらの財産も入らないと思うんだが…。」

訝しげに呟くが、少女は理解できないようだった。ただひたすらにアンヌを見つめ、返事を待っている。アンヌは小さく息を吐いて、少女と向き合った。

「お前のパパとママがいる所まで案内してくれるか?」

少女はアンヌの言葉に瞳を輝かせると、深く頷いた。

あまりにリスクが大きく、尚且つ報酬も期待できない仕事だった。しかし、アンヌは不思議な気持ちに捕われ、気付けば少女と共に夜の街を歩いていた…。

 

 

  アンヌは無言でその男女を見つめた。女の腕の中でシャルロットは安心した様に寝息を立てている。一通りの話を聞いた。彼らは貴族ではない。ただの商売人だ。表向きは…だが。

 無精髭を生やした男は、頭を抱えて嘆息を洩らす。

「あの仕事を最後に、足を洗うつもりだったんだ…。娘の為にもなぁ。だが…最後の最後でしくじった…。役人が、明日の夜『お迎え』に来ると情報があったのさ…。」

「天罰が下ったのさ。人身売買とはな、聞いて呆れる。これではギルドにも依頼できない訳だ…。だからと言って、幼い娘を寄越すとは…。」

 アンヌは薄汚れたソファに凭れ、鋭い視線を投げる。女はさめざめと泣きながら、娘の髪を撫で続けていた。男はアンヌの指摘にただ項垂れている。

 

『明日、大きなお船に乗って、遠い叔母様の家に行くのよ…。』

 

 頭の中で響く言葉…。これは…母親の声だ…。アンヌは唇を噛み締め、無意識に腰の長剣に触れていた…。突然に蘇る記憶……この消えかけようとしている家族を前に、アンヌは蒼褪め、視線は彷徨う…。

 

『叔母様のおうち、大きいの?素敵なお庭がある?ねぇねぇ…うちのお庭よりずっと大きい?…どうしても行かないとならないの?』

『叔母様の家はここよりも大きいのよ。ねぇアンヌ…わかって頂戴…。何の不自由もさせませんよ…。』

『戦争だから?戦争が起きるから行くの?じゃあ終ったら戻ってこられるのね?』

『えぇ…戦争のせいなのよ。戻ってきましょうね…。何の心配もありませんよ。』

 

 美しい母…。その腕の中の弟…。全てが輝いて見えたあの時。けれど…母の言葉は嘘になってしまったのだ…。嘘に…。本当に、自分は貴族の娘だったのだろうか。これで貴族とは聞いて呆れる。命を繋ぎ止め様と、どんな仕事でも引き受けている己が……。母の言葉は嘘だったのだから、身分も存在も全て嘘だったのかもしれない。真実を確かめる術は、今はないのだから…。

 

 剣の柄を何度も握りなおすアンヌの様子が異様に思えたのだろう。男は、脂汗を浮べながらアンヌを見ていた。その隣で女も、娘を抱きかかえて怯えた表情をしている。 

「あ、あんた…。大丈夫かい?この場で私等を切り殺そうなんて考えないでくれよ?向こうへ行ったらあんたにはたっぷり礼を払うさ。誓約書にも書いたじゃないか。」

男の言葉に我に返り、アンヌはテーブルの上の誓約書に視線を落とした。

「礼はいらない。私に礼を払う位ならその子供に服でも買ってやれ。これは返しておく。シャルロットには言うなよ。」

母親の装飾品をテーブルに置き立ち上がるアンヌを、二人は不安げに見上げた。

「船の手筈は整えてやる。後はうまく潜り込んで、どこへでも行けばいい。あんたらが乗船するまで護衛する。港へ、明日の早朝に。1分たりとも遅れるなよ。」

「あぁぁ…ありがとうございます。ありがとうごさいます…。」

女は、アンヌの腕にすがりつくと嗚咽を洩らした。母親の変化に気付いたのか、同時にシャルロットが目を醒ます。不安げに視線を彷徨わせると、隠し扉の前に立つアンヌに気付いた。

「お姉ちゃん…。どうしてそんな悲しいお顔をしているの?」

不思議そうに問う少女に、アンヌは必死に動揺を隠しながら、薄く笑んだ。

「全ては、お前の為だけに引き受けたんだ。一刻も早くここの事は忘れて、向こうで楽しく暮らすんだ。いいな…。」

 シャルロットが頷く間に、傭兵は影となって消えていた…。



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