Dear

 

 幻か、何かを見ている様だった。

 

アンヌは何度も瞬いた。剣を握る手に汗が滲む。鼓動は早鐘の様に打ち続ける。

「…まさか……こんな………。」

襲い来る、人…人…人。武装した民間人、否、反乱軍の数は、国王軍に負けていない。それどころか、その波は激しく、渦の様に押し寄せていた。

「国王軍!降伏しろっ!我等は止まらぬぞ!」

口々に叫ぶ、民。アンヌは、馬上で剣を薙ぎ払いながら先を進む。城壁の周りには、既に無数の死体が転がっていた。

「ストルツ副騎士団長!!」

アンヌが、喘ぎながら反乱軍の喉へ剣を突いた時、団員の声が耳に届いた。

それは、若い騎士で、アンヌを常に慕ってくれている部下だった。彼は、息を切らしながら、人の波を掻き分け、敵の目を盗む様にアンヌへ近づく。一刻の猶予も無かった。

「団長がお待ちです!団長は…橋の側を守備しておられます!副騎士団長をお見かけしたらすぐに伝言…………」

彼は言いさして、振り返りざま、襲い来る敵の剣を振り払い、すかさず馬を翻せば、男の首を叩き斬った。アンヌも、敵の剣と競り合い、金属音を響かせながら、前進する。

「了解した!…配置に戻れ!しかと受け取った……!」

お互い、視線を交した後、人の波に運ばれる様に、やがて別々の方向へと向かった。

 

そして…アンヌがその騎士と会う事は…二度となかった。

 

 アスターは、返り血を浴びながら、何度も剣を振り払った。馬上から見下ろせば、無数の死体。その中には己の部下も混ざっている。

 押されていた。当初の予想を遥かに上回る反乱軍の数は、今まさに城へ到達しようとしていた。

「この橋を越えさせるものかっ!!」

アスターは、歯軋りしながら呟くと、一太刀に全精力を注ぎ込んで敵を討った。

「サニュエル……騎士団長……!ストルツ副騎士団長は到着しておられます。間もなく此方へいらっしゃるでしょう!」

遠くから、部下の微かな声…しかし、しっかりと己の耳に届いた言の葉。アスターは、馬の手綱を何度も引きながら方向を変えた。視界の隅に映る部下の姿。彼はそれを告げると目の前の戦闘に巻き込まれていった。

「アンヌ…無事でいたか…。」

蒼の瞳に一瞬だけ温かな光が宿る。しかし、その安らぎはすぐに打ち破られる。

「くたばれ―!王の犬め!!これが民を護る騎士とは聞いて呆れるわ!!」

 アスターを罵倒する敵の声。もう慣れた…すでに流して聞く事ができる。激昂する事など疾うに忘れてしまった……。

 アスターは背後を振り返る。目に映る、一人の老人。痩せこけた腕…その腕に握られる間に合わせの剣。襲ってくるでもない、その老人の姿をアスターは冷静に見つめた。

 「好きなだけ罵ればいい…。私の信念は変わらぬ。そして…国を愛する気持ちは貴方と変わらぬ。どう罵られようが…変わらぬ。」

 対峙する二人。周りでは激しい戦闘が繰り広げられる。アスターは身構えながらも決して老人から視線を外さなかった。

「ならば…答えてくれ…国王は民を愛しておられるのか…。税が払えず、倒れていった身内を愛していたのか……。」

アスターの聡明な瞳が揺らいだ。老人は、涙を零し…ただ此方を見ている。

「私は信じている……国王を………。!!!」

その刹那、己の脇腹へと伸びる剣をアスターは薙ぎ払い、叩き落した。己の周囲にいつの間にやら群がる反乱軍…。

「騎士団長……!!!あああッ……!!」

素早く視線を走らせれば、部下が口から血を噴出し…落馬する瞬間だった。

「…くっ……何故だ…何故此れほどまでに力を…私の部下、全員を倒したと言うのか…」

アスターの額に汗が滲む。刹那、嘶く馬の腹に剣が伸びる…。それを振り払う余裕が無い事など承知していた。

「やってしまえーー!!!」

アスターは見た。無数の剣が己へと向けられるのを…。刺された馬は暴れ出し、アスターは片手で必死に手綱を引きながら剣を振るう。空を斬る横薙ぎの閃きは…数人の敵を薙ぎ払い…同時に、激痛が己を襲う。

「…くっ………。」

紅く染まる視界に…あの老人が映った。彼はただ佇んで、此方を見ているだけだ。表情はない…。

アスターは首を押さえながら、落馬した。群がる敵兵に最後の抵抗を試み…辛うじて即死を免れた。決して離さずにいた長剣が…何度も何度も空を斬る…。

「散れ―――――――――――――――――ッ!!!!!」

その時である…。凛とした声が、確かに耳に届いた。幻聴だろうか…。アスターは意識を手放す寸前で、目を見開く…。

「騎士団長!!!…アスター…!!!」

アンヌだった。早馬は、其のまま敵兵を蹴散らし、長剣が宙に閃き、放たれる。その勢いに圧倒された者達は、散開し…既に突破された橋へとなだれ込んでゆく。城は占拠されようとしていた…。

 アンヌは、血に塗れ…無数の剣を突き立てられたアスターを見る。そして…興奮状態の馬を宥めながら、近づこうとした。

「アンヌ……来るな……お前は……お前だけは……逃げなければならない……。」

横たわる男は…口を開く度に血を吐いた。しかし…その聡明な瞳だけは…まだ光を失っていない。必死に…此方を見つめている。

「アスター……嫌よっ!!!助けるわっ…貴方を連れて行くわっ…!」

死体の山を蹴散らしながら、暴れ馬は言う事を利かなくなっていた。アンヌは馬を降りようと決意する。敵兵は少ない。今ならば彼に近づける…。

 何もかも忘れていた。アンヌは今…1人の「女」になってしまっていた。愛しい者の側へ行きたいと…ただそれだけを願う女に…。

「アスター………。」

 手綱を離した時、アンヌにはアスターだけが見えていた。漆黒の髪…蒼の双眸…。突き刺さる剣も、その身体を染める紅も見えなかった。

「アスター……」

 アンヌは鐙(あぶみ)から足を外す。

 その瞬間、アンヌの身体は宙に浮いた。何か強い力で、後ろへと引っ張られる。視界からアスターが消え…次に見えたのは漆黒の空だ。

 「何………………」

 言葉を発する間もなく、気付けば己の身体は羽交い絞めにされ…馬から引きずり下ろされていた。

 「誰かと思えば…こいつは高名な女騎士さんじゃないかい…。」

下卑た声は背後から…。そして、目の前に立つ二人の男。反乱軍なのだろう。手に抜き身の剣を携えている。

 「…それが…どうかしたか…。「高名」とは…またえらく買い被られたものだな……。」

アンヌは虚勢を張った。荒ぶる大男三人を目の前にして、震え出しそうな己を戒める為に……。

 刹那、目の前の男が、アンヌの背後の男に目で合図した。その途端、アンヌは引きずり倒される。

「殺すなら殺せ…!!私にはもう…失うものなど…何もないっ!!」

 部下は全て失った。アスターの生死すら確認できない…。今もし彼を見てしまったら、敵兵に存在が知られてしまうかもしれないのだから…。しかし、絶望に支配されるままに、倒されたその瞬間、その瞳にアスターが映った。そして、悲鳴をあげそうになった。アスターの首は槍に突き刺され……其れを何者かが手にし、笑っていたのである。

 アンヌには知る由も無かった。それはあの老人だということを。最後にアスターと言の葉を交したあの老人だという事を…。

『神よ!!!神よ神よ神よっ…!!!!私は…私は初めて貴方を疑う!私は初めて貴方を呪う!!世界中の汚らわしい言葉を全て使い、貴方を罵倒する…!』

 唇が裂ける程、其れを噛み締め、込み上げるものを抑えた。血でぬかるんだ大地へと押し倒され、身に纏う甲冑を全て外されようとも抵抗はしなかった。ただ…脳裏には若く、逞しい騎士達の姿が浮かんでいた…。

共に戦った部下も…そして、アスターも逝ってしまったのだ…。

 

『最後に全部奪ってやる。あんたに残された「誇り」ってやつを…。丁度いい腹いせになるぜ…』

 

 男達が下品に笑う。アンヌは…顔を横に向けた。その視線の先には傷つき倒れた馬がいた。横倒しにされた馬車の陰に、男達は女騎士を連れ込んだのだ。

 「…可哀相に…お前には罪がないのに……。苦しい…かい…?」

アンヌは薄ら笑んで、まだ微かに息のある馬を見た。男達が罵倒し、笑い…そして、己にこの上ない凌辱を与えている…。アンヌは得体の知れぬ痛みと共に、半ば意識を失いかけながら、辛うじて自由の利く指先を、その馬へと伸ばした…。

 「一緒にあの草原に行こう……。そうしたら……好きなだけ走り回ればいい…。気持ちのいい風が…お前のたてがみをくすぐるだろう…。」

馬は弱々しく嘶いて、優しい瞳を向けてくる…。そして其のまま、ひっそりと息を引き取るのを見た。アンヌは、力を込め、指先に全神経を集中させた。そして…小さく、小さく…十字を斬った。

 

『この女、気が狂ったようだぜ。誇り高い女騎士も、やはり女だな…。最後にはっきりと思い知らせてやる…。永遠に刻み付けてやる。この出来事をな…。』

 

男の強い力で、顎を掴まれる。アンヌは力なく、下卑た男を見返した。その顔は無表情で、余計に男をいらつかせる。

 

『泣き喚け!このアマが…!俺達の痛みを思い知れ!今までどれだけ貧困に喘いだのかを…処罰に苦しんだのかを…!!』

 

 男が腰元から短剣を抜いた。残りの二人は既に抵抗しない女を、尚も拘束する。

 やがて、一瞬の閃きは…アンヌの右頬へと深く埋まった…。一度ではない、ニ度刻まれた。十字の文様は瞬く間に、溢れ出す血で塞がれた…。

 

『この十字架を一生背負って生きな、騎士さんよぉ…。』

 

 その激しい痛みに、アンヌは一瞬我に返った…。横臥したまま目を見開き、立ち去る男達を見遣る。震える唇を何度も開閉し、喘いだ。言葉は出ない、出す事を忘れたかのように…。涙すら浮かばない、全て失ったというのに…。

頬から激しく噴き出る血は、全身を染めてゆく。そして、いつの間にか降り出した雨が、アンヌの身体を濡らしてゆく…。

 『…神よ…お許しを…どうか…お許しを…。』

 アンヌは静かに瞳を閉じた。死を願いながら……。 

 

 

+BACK+