Childhood…1

 

   「アンヌ様…アンヌお嬢様…!」

   豪奢な広間に響き渡る声…。侍女は、困った様に広い室内を見回して嘆息を洩らした。

  「奥様…私は…確かに、このお部屋へお入りになるのを見たのです。」

   申し訳なさそうな侍女の言葉に、ルイーザは苦笑を浮かべる。

  「分かっています。…お前は下がってよろしい…。」

   侍女は深々と頭を下げると、忙しそうに広間を後にした。

   タフタのドレスに身を包んだ、レオニード婦人は、腕の中の赤子を見詰めると、小さく囁いた。

  「貴方のお姉様は少し元気がありすぎるようね。」

   其の言葉に反応するかの様に、赤子は「きゃっ、きゃっ」と声を上げて笑った。

  「まぁ!ロイスが笑ったのね!お母様…」

  何処からともなく聞こえる声、ルイーザは辺りを見回す。暫くして、扉の影に隠れて立つ娘…アンヌを目に留めた。

   「侍女を困らせては駄目、と言ったはずですよ…アンヌ。」

  溜息交じりの母に、アンヌは小さく舌を出して一歩踏み出した。陽光に満ちた大広間…淡いブルーのドレスに身を包むア
  ンヌはとても愛らしい…。 

 「だって…このドレスを脱ぐのが嫌だったのですもの。とても気に入っているの。どうしても脱がなければならない?」

  おずおずと目の前に立つアンヌの頭を、ルイーザが優しく撫でる。

 「旅行の支度をしなければならないの…。侍女達の手だけではとても間に合わないのよ。出発は明日と母は確かに言いましたよ?」   

 「はい…長い船旅だと、お父様にも聞きました。私…全部のドレスを持ってゆきたいわ。それに、このドレスを着ていってはだめ?   一番気に入っているの…。鞄の中に納めたら皺々になってしまうもの。」

  賢そうな茶の瞳を向けるアンヌ…。その言葉にルイーザは僅かに表情を曇らせ、赤子のロイスを抱いたまましゃがみ込む。

  「…お願いよ、アンヌ。平民の服に着替えて頂戴。お母様も勿論着替えるのですから…。」

  その表情に、はっとしてアンヌは俯いた。

 「…わかりました、お母様…。船の上まで我慢します。」

  母に差し出された服は、粗末で薄汚れている様にも見える。仕方なく手に取り、腕の中の弟、ロイスへ視線を送る…。

 「…ロイスはいつも眠っているのね。どうして?お母様…。」

  気を取り直す様に笑むアンヌを、ルイーザは優しく見つめ返す。

 「赤ん坊はね、沢山眠って大きくなるのよ。貴女もそうだったわ。一日中眠っていました…。とても美しい赤ん坊で…その様な貴女  を見つめているだけで、私は幸せだったのよ。」

  懐かしそうに目を細める母を、アンヌは嬉しそうに微笑んで見つめる。

 「私…向こうの御国にいる叔母様に早く会いたいわ!きっと長い船旅も楽しいでしょうね!支度してきます。」

  元気よく言いながら小走りするアンヌに、ルイーザは笑みを返す…。アンヌの表情に浮かぶ僅かな不安を見逃す筈はなかった。しか し、愛すべき娘の微笑に、必死に気持ちを奮い立たせていた…。

 「必ず…必ず脱出できる筈です。そうですわね…ロバート…。」

  腕の中で眠る我が子を抱き寄せ、夫の名を口にすると、静かに広間を後にした…。

 

  レオニード家は、貴族の間でも有名な家柄であった。祖先は紡績業で財を成し、何代にも渡り、その実績を不動のものへと築き上  げたのである。
   しかし、
1年程前から他国との戦争が勃発し、尚且つ祖国の戦況は思わしくなく…敵兵に目を付けられている貴族達は皆、国外へ  脱出を図らんとしていた。そして、レオニード家も例外ではなかったのである…。

 

 「きっと素敵な旅になるわ!大きなお船には、たくさんお部屋があるのよ。それに、大好きなケーキや、お菓子もたくさんあるわ!   お父様が素晴らしいお部屋を予約なさったって聞いたの。だからちっとも退屈なんかじゃないわ。」

  アンヌは身の回りの物を鞄に詰め込みながら、美しい人形に話し掛けていた。幼い時から片時も離さずにいた青い目の人形は、ア  ンヌを優しく見つめ返す。

 「…そうね、貴女の洋服も持っていかないと…ええと…ええと何処だったかしら…。」

  広い室内を右往左往し、豪奢な衣装戸棚に手を伸ばす。純金の取っ手を引くと、中には丁寧に折りたたまれた人形専用の服が並ん  でいた。

  「あったわ、アリッサ…これで完璧―――」

   口を開いた矢先、窓の外から馬の嘶きが聞こえて来る。アンヌは動かしていた手を止めて、ぱっと顔を輝かせた。

  「お父様だわ!」

  弾かれた様に部屋を飛び出すと、長い階段を一気に駆け下りる…。その途中、何度も階下へ視線を向け、やがて現れた父親の姿に   釘づけになった。

  「お父様…!!」

   明るくはしゃぐ娘の声に、ロバートは満面の笑みを向けた。

 「おや?美しい淑女が現れたな?一曲踊ってくれないかい…?」

  おどけて言う父に、アンヌは勢いよく抱きついて顔を上げる。

 「ええ、わたくしでよろしければ…是非一曲……」

   長身なロバートがアンヌの目線までしゃがみ込み、くすりと笑った。

 「ただいま、アンヌ。2日間見ないうちに、また美しくなったのではないか?」

   父の言葉に少女は無邪気な笑い声を上げる…。

 「お父様、私…もういつでも出発できる位なのよ。後はドレスを着替えるだけ。このドレスとアリッサのドレスを鞄に詰めたら終わ   りなのよ!」

  誇らしげに言う娘の頭に手を置いて、ロバートが頷く…。

 「明日はとても早い出発になる。さあ、もう寝る準備をしなさい。話は、船でいくらでも聞こう。時間はたくさんあるからね…。」

 「はい!お父様。おやすみなさい…!」

 アンヌは素直に返事をすると、再び階段へと戻って行った。しかし、その途中で足を止めると、振り返る…。

 「忘れていたわ!」

  ぽん、と掌を合わせ、再び踵を返す。不思議そうに見遣る父にアンヌは両手を伸ばした。

 「おやすみのキスです。」

  クスっと笑うアンヌを父は愛しげに抱きしめ、幼い娘のキスを頬に受けた。彼女がこの世に生を受けた瞬間に、許婚が決まり…此  処まで素直に、美しく育ってくれた…。ロバートは目を細め、キスを返すと名残惜しそうにアンヌから離れる…。

 「おやすみ…私の天使……。」

 父の囁きを背中で聞きながら、部屋へと戻る。ドレスの心地よい衣擦れの音は…やがて部屋へと消えた…。

 

 

  深夜…。轟音と共に、天蓋が揺れ…アンヌは目を醒ました。階下から聞こえる激しい足音にびくりと身を震わせ跳ね起きる。同時  に、部屋の扉から血相を変えた母が飛び込んで来た。

 「…アンヌ、こ…此方へ来なさい…。」

  寝巻き姿の母は、髪を振り乱し…声を顰めて言った。

 「お…お母…様…どうなさったの…!?」

  驚きのあまり目を見開き、裸足のまま床へ降りると、近づいてゆく…。

 「…黙って…!!」

 母の強い口調に、再度びくっとなり瞬いた。すると、有無を言わさず手を掴まれ、半ば引きずられる様にして部屋の外へと連れ出さ  れる…。驚きと恐怖で涙を浮かべながら、嘗てない程取り乱した母を見遣り…同時に外の喧騒に全身を震わせた…。ルイーザは黙っ  たまま、アンヌを屋根裏へと引きずる…背後の娘を振り返る事すらしなかった。

 「い…痛い…お母様……。」

 アンヌの小さな悲鳴も気に止めず…やがて、薄暗い屋根裏へと辿り着く。すると、漸く振り返り、其の小さな部屋でしゃがみ込むと 、アンヌの顔を見つめた。母の瞳からは涙が溢れ…血の気の失せた顔は、一気に老け込んで見えた。つい数時間前までの美しい母は何 処にもいない。

 「アンヌ…すぐ終わります。だから…だから貴女は此処で…こ…ここで……――――」

 ルイーザが言い終る前に、すぐ下の部屋から激しい怒号が聞こえてきた。アンヌが硬直していると、ルイーザは小部屋の更に奥、隠  し部屋へと引きずって、無理矢理に中へと押し込めた。その力は半端ではなく、幼いアンヌに抗う術等なかった。

 「い…いや…お…おか……ぁ…!!」

  扉を閉め、鍵をかける…。其れと同時にアンヌの声は一切聴こえなくなった…。

  ルイーザは…亡霊の様に静かに…其の部屋から消えた……。部屋の鍵は、窓の外へと捨て去った……。

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